グループも、もはや破竹の勢いで邁進していた。
思えば、結成当時は、高石ともや29歳、僕は21歳だった。すぐ後に高石氏が30歳になり、19歳の金海たかひろをメンバーに迎えた時、3世代揃ったバンドだ、と言っていた。
確かにほとんどのフォーク・グループが同じ世代で構成されていた事を考えると、それだけでも珍しい存在であったかもしれない。
そこにもってきて、他のグループが成しえない編成で(あくまで、レコード会社に所属するプロのミュージシャンという意味で)他のグループが取り入れることのない形態の音楽を演奏し、なお且つエンターティメント性溢れるステージ、ということになるとある意味最強だ。
しかも、意固地になって京都から全てを発信している。これは高石氏の素晴らしいこだわりであった。なにも全てが東京に行く必要はないのだ。
今でこそ当たり前の考え方だが、当時は少し名前が出るとみんな東京に移り住んだものだ。また、それでなければ仕事にならなかった一面もある。
でも、本当にいいものだったら別に東京にいなくたって、逆に東京のひとが聴きに来ればいいじゃないか。
毎年やっていた春、秋の昼下がりコンサートでは、修学旅行の学生たちがなにも気付かずに通り過ぎるのに、舞妓さん達が「あっ、ナターシャーがやったはる」と口ぐちに言って行くくらいだった。
かくして、京都をベースにした僕らを、京都の人達、また、特筆すべきは、高校生や中学生が厚く支持してくれた。驚くことに70年代中期には、京都のどの高校にも、ひとクラスに3~4人はバンジョー、マンドリンを持った子がいた。
そのうちのひとり、進藤さとひこが後のベースマンとなるが、最初はバンジョーを弾いていた。
どこから見ても育ちの良さそうな、か弱い中学生だった彼も、僕と省悟の“愛のムチ”で、驚くほどの成長ぶりをみせた。余計な部分でも…かな。
そして、‘84年に僕が抜けたあとも、彼は坂庭省悟とともにザ・ナターシャー・セブンの重要なメンバーとしてその地位を確立していった。
世の中の音楽事情は、というと、全てがデジタル化されてきたようで、どこか味気なかったような気がする。
それはなにも日本に限ったことではなかったが、日本ではフォーク・ソングというものが明らかに歌謡曲となっていった。
ザ・ナターシャー・セブン結成当時からよくイベントに一緒に出ていたフォーク歌手たちはいつしか演歌歌手となっていき、ニュー・ミュージックなどと訳の分からない呼び名で持て囃されていた。
もちろん、それで稼いでいるわけだし、お金は沢山作れるほうがいいだろう。だが、それがフォーク歌手と言われてしまうことが不思議だ。
僕にはフォークっぽいものや、ブルーグラスっぽいもの、それにアイリッシュっぽいものは馴染まない。
おそらく、ザ・ナターシャー・セブンが世に出た頃、ブルーグラスをこよなく愛する人達はブルーグラスっぽいものとして僕らの存在を嫌ったのだろうが、高石ともやは本物の筋金入りフォークシンガーだった。
彼はブルーグラスもオールド・タイムもフォーク・ソングも、すでに遥かに越えた彼独特の世界をその歌唱力に中に持っていた。彼は間違いなくパイオニアだ。
坂庭省悟はドック・ワトソンやクラレンス・ホワイトをこよなく愛し、フラットピッキング・ギターを弾かせたら、これまた坂庭省悟独特の世界でありながら、常に彼らのスタイルの研究に励んでいた。
そんなグループであったから、世の中がいくら変わってもそれまでの姿勢を崩すことはなかった。
それでも当時のレコード会社は売る気でいたんだろうなぁ。そのへんのことは僕にはよく分からないけど、そんな矢先にマネージャーが亡くなった。
1982年のことだった。思えば彼が、京都で音曲に親しんでいる若者たちの中から僕を選んでくれたのだ。
そんな意味では、僕にとってのザ・ナターシャー・セブンはその時に終わりをみていたのかもしれない。