「アー ユー オープン?」第3話 フン・タン・ウィン

ベトナムからやってきた男、マイク。本名はフン・タン・ウィン。年齢不詳、彼自身にもわからないようだが、多分25歳くらい。

 小さな漁村で生まれ育った彼にはベトナム戦争のさ中、何の苦労もなく育っていた日本の若者たちとは全く違う人生があったようだ。

 ある日、彼が子供の頃、ベトコン(ベトナム・コミュニスト)が来て、村の大人たちを彼らの目の前で殺していった。彼ら子供を広場に集め、大人たちが次から次へと撃たれていくのを見せられた、というマイク。

 彼の唯一の楽しみはギャンブル。負けても負けても懲りずに続ける。一晩で1か月分の給料を使い果たしても、借りたお金でまた出かけていく。

 彼はまた、よくベトナム料理のお店にも連れて行ってくれた。それも、いわゆるレストランと呼べるようなところではなく、屋根はあれど、壁はあれど、ほとんど屋台に毛が生えた程度の(もちろん毛は生えていないが)ところだ。

 ベトナム語以外は全くと言っていいほど通じないだろうおばちゃんたちが、何やら甲高い声で話しながら料理をしている。

 「彼女たち、北の出身だ」マイクは言う。なんでも南の人のほうが低い声でソフトに喋るそうだ。

 そして、出てきた料理は確かに、これぞベトナム料理、といえるものだった。いくつかのベトナミーズ・レストランにも出向いたことはあったが、そんなところのものよりも見た目は悪く、量も多く、しかし味は良かった。

 はっきり言って、ベトナム料理の味が分かるのか?と言われれば、そこはそれで微妙だが、マイクに言わせると、これこそが真のベトナムの味、いわゆる家庭料理ということだ。

 ここで料理を作っているおばちゃんたちにも、僕ら戦後生まれの日本人には想像できないほどの強烈な体験があるのだろう。

 当時「プラトゥーン」という映画が来ていたが、ここのおばちゃんたちはみんなその映画に出てくる農村の人達のようだった。

 しかし、どこの国でもおばちゃんというのは強いものと決まっている。

マイクにとっては、ここのおばちゃんたちと会話して、彼女たちが作った料理を食べて、ビールを飲んでいる時が本当に平和なころの故郷にいるような感覚になれる時間なんだろう。そんな幸せな時間は彼には沢山はなかったのだろう。

 マイクがベトナムを出てきたときの話

 「俺たちは漁師だったから海に出るのは簡単だった。いつものように漁に出かけるふりして舟を出したんだ。やつら(ベトコンの沿岸警備兵)気がつかずに手を振っていた。あいつらはトビウオと同じくらいバカだ。そして、俺たちはフィリピンを目指した。ところがとんでもないミスを犯したことに気がついた。水だ。水を積んでくるのを忘れたんだ。おれたちもトビウオ並みだった。フィリピンまで5日間。喉がカラカラだった。もうちょっと長くかかっていたら、多分ダメだったなぁ。水は本当に生きていくために必要なものだ」

 彼らはそれでもやっとの思いでフィリピンに到着。そしてアメリカに来ることができたそうだ。

 そして更に「初めてニュー・ヨークに着いて、ある看板を見つけた時には一目散にその店に入って行ったよ。Hot Dogって書いてあったんだ。おなかの空いた俺達にとっては、やったぁー、犬が食えるぞ、ってね。それくらいの英語は読めたからさ。でも実際に出てきたものは見たこともない奇妙なものだった。そういえば、キャット・フードの缶詰をそうとは知らずに食って、アメリカにはまずい食べ物があるなぁ、と思っていたころもあった」

 マイクの話の全てが、戦後の復興も進んでいた日本に生まれ、なんの苦労もしなかった身にとっては驚きの連続だった。

 マイクの他にも、コト(あるいは、ホトと発音するのか)という名のベトナム人がいた。彼はマイクよりも更に若く英語はまるきりダメだった。

 マイクが聞いた話によると「あいつのボートではみんなが死体を食べていたらしい。あいつは食ってないっていったけど、じゃぁどうやってここまで生き延びてきたんだろう」

 日本の大学生たちが反戦歌に耳を傾け、戦争反対!と大きな声を出してみんなで歌っていた頃、僕らよりずっと若い彼らはそれどころではない、壮絶な経験をしていたのだ。

 もう一人、年老いた皿洗いのおじさんがいた。

 南ベトナム解放軍の兵士だった、という彼。全くしゃべることがなかったので名前も知らなかったが、長い間ジャングルの中で数々の戦闘場面を潜り抜けてきたらしい。鋭い目をしていた。

 他にも、みんながミセス・ホートと呼んでいた、元はサイゴンのお金持ちだった、とても教養のある50代の女性がいた。

 マイクを自分の子供のように思い、自分たちの家の一部屋を彼に与えていた。

 本当の名前は“キム・チー・リー”というが、フランス語とベトナム語しか喋らないご主人、ミスター・ホートが、彼女よりも一足先に働きに来ていたとき、彼女の名前を尋ねたが、一向にらちがあかないので、ま、いいや、ミセス・ホートでいこう、という話になったのだ。    彼らは、アメリカ兵とベトナム人との間に生まれた孤児を養子にすることで比較的スムーズにアメリカに渡ることができたそうだ。

 この人からも想像をはるかに超えた話を聞くことが出来た。

 「私たちのボートは迷うことなく目的地(おそらくフィリピン)に着けたけど、そうでない人達は何日も漂流する。そこへ出てくるのが海賊。だいたいタイの漁師だけど。そうなると悲惨ね。まずわが子を殺して海に放り込む。あいつらに連れていかれて売り飛ばされるよりはまし。それから自分も死ぬ。私たちもそれなりの覚悟はできていたけど、幸運だったわね」

 同じ時代に生まれた、同じ人間なのに、どうしてこの人たちはこんな経験をしなければならなかったんだろう、と思わざるを得なかった。