アイリッシュ・ギター

わざわざこのタイトルにする意味はないのだが、最近いろいろなギターに遭遇する機会に恵まれている。

そのひとつ、ローデン(アイルランド製)のシダートップで、サイドとバックがハカランダ、という素晴らしいものがあった。ハカランダは希少価値だ。

ローデンは‘93年ごろから一番気に入っているものだ。最初に手に入れたものは、大きなサイズのスプルース・トップでマホガニーのサイド&バック。ほどなくして、同じスプルース・トップのインディアン・ローズウッドの物を中古で手に入れた。それが今日までの自分の一番のお気に入りだ。しかし、‘60年代からの憧れは、なんといってもマーチンだった。恐らく僕らの世代はほとんどの人がそうだったろう。

ジャカジャカと弾きたい人はギブソンだったり、他にも、ジョン・デンバーが好きだったらギルドとか、フェンダーに至ってはエレキ以外、ギターとは認められなかった。

どこかの音楽雑誌で、ある人の使用ギターとしてフェンダーのアコースティック・ギターが載っていて「音楽仲間の誰もが欲しがるもの」と書いてあったが、僕らは「金もらってもいらん!」と言っていたものだ。

当時、僕らにとってギター(スティール弦)といえばそれくらいしかなかったのかもしれない。そしてマーチンを手に入れ始めて、様々なモデルを試した。

そして、最終的に‘93年ごろから、もうずっとローデンだ。今回見たものはハカランダなので、非常に高価だ。これでトップがスプルースだったら、もう少し高いかもしれないし、思わず手が出たかもしれない。

しかし、シダーという材質は僕には不向きではないかと感じた。それはやっぱりずっとマーチンで来ていて、スプルースというものの音色に自分が慣れているからだろう。

それと実際に今、シダートップのマホガニーというものもひとつ所持しているが、突き詰めていくとやはり、スプルースとローズウッドというのが自分にとってベストと考える。

ハカランダのモデルを見たとき、ちょうどフィンガー・ピッキング・スタイルを追求している若者が2人いたので、実際に彼らに弾いてもらって、正面から音を聴かせてもらった。

僕にとっての選ぶ基準は、どのようにアンサンブルに溶け込んでいくか。それが最も重要なポイントだ。

彼らに弾いてもらって、このギターは楽器自体、自己主張の強い楽器だと感じた。すごくいい音だし、弾きやすさも抜群だが、ピエール・ベンスーザンをはじめ、彼らのようなスタイルを好きな人に譲ったほうがいいような気がした。

そうして考えてみると、今巷にはフィンガー・スタイルの、いわゆる“アイリッシュの曲もできます”というギタリストのためのギターのほうが圧倒的に多いような気がする。

値段もどんどん高くなって、仕事としてあっちこっち持っていくにはちょっと怖いような物が多い。

結局、コレクターや、家で一生懸命フィンガー・ピッカーのコピーをする人で、更に、お金のある人のところに行ってしまうようにできているのかもしれない。

アンドリュー・マクナマラやブレンダン・ベグリー相手に20時間も弾き続けるにはかなり勇気がいる。ローデンもそんな値段のものになってきている。

アイリッシュではギターというものの演奏価値はほとんどない、といっても過言ではない。

だからこそ、僕は曲目もメロディーもできる限り覚えるようにしている。徹底的トラッド重視だ。そのうえで、自分が体験してきた様々な音楽の要素を取り入れる。

それでリード楽器のトップたちが「じゅんじのギターは他の誰とも違う。彼に任せておけば間違いない」と言ってくれるようになったのだから、結局、価値は自分で創り出したのかもしれない。

それには自分自身の感性を最大限に引き出してくれる“道具”も必要だ。そしてその道具はそんなに高価でなくてもいい。いや、高価でないほうがいい。

昨今のように高価にならざるを得なかった理由の一つは、フィンガー・スタイルの人達のニーズにもよるものだろうか。彼らの要求はとことんシリアスだ。

そして、他の楽器とのバランスは保てなくても、そのもの自体が一発入魂であれば事は成り立つ。

だが、僕の求めているものは、あくまでもアンサンブルに適し、そして、フィンガー・ピッキングでもそれなりの味がでるものだ。

数千にも及ぶ楽曲のそのストーリーを汲み取って、一曲一曲に最適な伴奏が出来るように導いてくれるものだ。また、その要求にも応えてくれるものだ。

また、それが真のアイリッシュ・ミュージックに於けるギター・スタイルだと思うのだ。

あと何年生きるか分からないけど、そのあいだにどれくらいのギターと出会い、今使っているものと同じくらいの素晴らしいギターに出会うだろうか。

ちなみに、先に書いた今使っているものは、ローデンのSE-Ⅱというモデルで、このギターがアイリッシュ・ミュージシャンとしての自分の地位を不動にしてくれたものだ。

そろそろすこし休ませてあげたい気もしてきた今日この頃だ。そうして気を使ってあげれば「いや、俺はまだまだいけるよ」という声も聞こえてきそうな気がして頼もしくなることも事実だ。