ブレンダン・ベグリー

とうとう来てもらうことにした。アイリッシュ・ミュージックを語るうえでなくてはならない最重要人物のひとりだ。

1999年の5月、僕はアンドリュー・マクナマラと共にケリーに居た。そして、パブに入りきれないほどの人の中にブレンダンが居た。演奏が終わると彼を交えての激しいセッションが始まった。次から次へとポルカの応酬。アンドリューは嬉しそうに飲んでいるし、僕はひたすらブレンダンのためにギターを弾いた。そして、彼は「歩いてすぐだから家に来い」と云って多くのひとを引き連れて表に出た。時間はとっくに午前2時をまわっている。

真っ暗な道を10分ほど歩くと彼の大きな家が現れた。

中に入るとこれまた大きなキッチン。「さぁ、やるぞ」とアコーディオンを出し、またまたポルカだ。10人ほどの男女が入り乱れて踊り狂う。アンドリューは嬉しそうに飲んでいる。

その頃コーマックはまだ高校生くらいだったろうか。記憶にないのでおそらくどんちゃん騒ぎをものともせず、2階で寝ていたのかもしれない。いつものことなのだろう。

とに角そのまま朝まで大騒ぎをして別れた。

それから確か2003年頃、彼と再会した。その時「一緒にフランスに行こう」と誘われたが時間が合わずにそのままになっていた。

2010年に再び会うことが叶い、彼とまたゆっくり話したり、演奏することが出来た。それからは毎年彼と様々なかたちで会っている。

それらの様子は「2011年アイルランドの旅」から毎年少しづつ書いてきた。

彼を日本のアイリッシュ・ミュージック・ファンに紹介したい、と思い始めたのはその2011年の頃からだろう。

しかし、果たして日本のアイリッシュ・ミュージック・シーンに本物の彼のアイリッシュ・ミュージックが分かるだろうか、という疑問はある。

本来、彼のような人の演奏を、そして歌を聴かずしてアイリッシュ・ミュージックを語ろうなんて言うのは大きな間違いだ、と僕は確信するのだが…。

70年代、80年代、生活の一部として過ごしてきたフォークソングやカーター・ファミリーの音楽にも共通する彼の生活と音楽の全てを目の当たりにするチャンスです。

アイリッシュ・ミュージックがどういうところから生まれてきたかを体感するチャンスです。

まだ詳細は決まっていませんが、彼とのやり取りは続いています。来日の日程も決まっています。

アイルランドからスペインまで小さなボートを漕いで行ってしまう人ですが、さすがに日本までは無理そうなので、いや、言えばやりそうなので怖いから飛行機も予約しました。

彼はやってきます。

詳細が決まり次第お知らせいたします。