最近1972年の京都でのライブテープと云うのが発掘されて、それがCD化されたが、ライナーに高石さんのインタビューが掲載されている。
勿論、彼は当時から先見の眼があったし、いまだに素晴らしい感性を持ち合わせたシンガーだと言える。
その彼がナターシャー・セブンに関してインタビューに答える形式で様々な話が聞けるが、僕は僕なりにここにバンドのことなどを書いてみようかな、と思い立った。
既にザ・ナターシャー・セブンとその時代背景というコラムは書いているので重複する部分はあるかもしれないが。
僕は京都産業大学に入ってしばらくして高石氏と出会った。ソングブックによると1971年の1月ということだ。
意気投合したかどうかは定かではないが取りあえず付いていくことにした。彼もバンドを結成するために人材を探していたことは確かだ。
その時の彼の眼に僕がどう映ったかは知らないが、アンドリューが初めて僕に声をかけたのは日本人で珍しかったから、という単純な理由のように、そんなことはどうでもいいことで、わかりはしないことだろう。
しかしながら、彼(高石氏)の感性には合っていたのかもしれない。
ほどなくして「高石ともやとその仲間たち」として、今では考えられないような名前でデビュー(?)して、すぐに今度は「バックステップ・カントリー・バンド」という名前でやっていた…と記憶している。
そのままのバンド名だったらどうだったかはわからないが、バックステップ…後ろに下がる?あんまり良くないな、とだれかが云っていたような気もする。
フィドラーの井芹君、ベースの箕岡さん、すぐに北村謙がベースに入り、初期の頃は目まぐるしくメンバーが変わっていた。
その中でいろいろ模索してフラットマンドリンを弾く僕の静岡時代からのフォーク仲間であった金海君を起用した。
高石さんは技術的に云々ということをインタビューで答えていたが、そんなことではなく、彼の音楽に対するアプローチは僕らが思っているものとは違ってもう少しポピュラーな路線だったのだろう。あくまで僕の見解だが。
そんな時、クライマックスを脱退して「さぁ大学に戻るか!」と強い意志を持っていた坂庭省悟を僕が連れてきた。
確か京都会館で光市のフォークグループや我夢土下座などと一緒のコンサートだったかな。
二人でブラックマウンテンラグを弾いた。
以後、彼にフラットマンドリンを弾くように勧めて「こんな女々しい楽器…」と嫌がっていた彼もその独特なスウイング感をその「女々しい楽器」に注ぎ込んでいった。
ここに不動のナターシャー・セブンサウンドが出来つつあった。
僕と坂庭君との間には本当に不思議なほどの意思疎通があった。
ステージ上で特に言葉を交わさずに、その日のその曲の楽器編成を変えてみたり、次ソロやってくれるか?なども「目くばせ」だけで成り立っていた。
思えば今やっているアイリッシュも「目くばせ」の世界だ。
僕がアイリッシュの伴奏者として認められてきたのも、多分、この「目くばせ」の力によるものかもしれない。
「初めまして!」でそのままステージを2時間もこなすのにはよーく聴くことと、この「目くばせ」がどれほど大切なことか、僕は嫌というほど良く知っている。
更に、彼とはハーモニーも特に相談しなくても当然のごとく決まっていく。
ひとつには彼のとんでもなく高い声域というのがそうさせるのかもしれないが、あまり苦労した記憶もない。
そして、木田高介の加入となり、また飛躍的なバンドサウンドが出来上がっていった。それは明らかに他ではあり得ない(特に日本では、という意味)ものであった。
そこに高石氏の独特な詩の世界。これは当時のフォークシンガーとは比較にならないほどの揺るぎない表現力を持ち、またそれを人々に伝えていく、という点でも卓越した才能の持ち主だった彼が成し得たものだろう。
思えば1971年から僕が抜けた1984年まで(正確には1983年かな)日本中にそのサウンドを提供してきたが、今でも多くの人がナターシャーソングを歌ってくれている。
そしてそれはブルーグラスとはまた違う方向性で進んでいる。
ナターシャー・セブンは明らかにブルーグラス・スタイルを基盤にしたフォークグループであった。
英語でしか表現できないような語意が、高石氏という存在を通して見事に日本の唄となり、そしてそれが実に巧みに、ある時はブルーグラス・サウンドと絡み合い、そしてある時は独特な世界観をもったフォークソングとなり、また木田高介の加入によってポップス、それも彼の才覚により、行き過ぎないポップス感も加味された。
これは日本では2度と現れない存在だろう。
CDのライナーに登場する平井一成氏。僕を京都の学生仲間から抜粋してくれた人物だ。彼にしてもしかり。2人といない人物であり、また2度と現れない存在だったろう。
ナターシャー・セブンが見ていた世界はそういうものだったのかな。