高橋竹山

ある方から、竹山さんについてなにかコラムで書いてください、という要望がありましたが、自分でさがしてみるとコラムの中には数回にわたって竹山さんのお名前が出てきていて、その中でも「ザ・ナターシャー・セブンとその時代背景4」という項目で彼の家を訪れた時のことを既に書いている。

僕は結構ものを書く、というのが好きなので、かなりの量の事柄を今までにも書いてきているし、その中から探し出すのは大変なんだろう。それに一般的な人々にとっては興味の無い事柄も書いているだろうし、なかなか難しいものである。

そこで、丁度いい機会だしここで少し補足をしてみよう。

竹山さんのお宅にお邪魔したのは74年か75年、と以前のコラムで書いたがどうやら75年だったらしい。

青森の小湊という小さな街(村?)だったが、ほとんど人がいなく寂しい景色が広がっていた。覚えていないが僕らは青森から向かったのかな?

107ソングブックを担いでの旅の途中だったのは覚えている。

無事、竹山さんの家に着いた僕等だったが、エビやカニが大の苦手だった省ちゃんは、出て来るもののほとんどに手が伸びなかった。

もっとも、僕も驚いた「ガサエビ」という、しゃこのようなエビのようなものが山盛りに蒸されて出てきたときには正直目を疑った。

味はなかなか美味しいがどうも見た目は…。そして「ほや」これは僕もダメだった。因みに今だに食べたことが無い。

竹山さんは「ほやが食えねば三味線はうまくなんねぇ」と云うので「僕、三味線は上手くならなくてもいいです」と言った。

竹山先生は何がダメですか?と訊いたら「わしゃぁかまぼこがダメだ。昔、門付で漁村を歩いている時におばあさんたちが魚を足で踏みつけて潰してかまぼこを作っている、という話を聞いたんだ。それ以後かまぼこなんか持ってきて弟子にしてくれ、なんていう奴は全部断っていた」なんて言っていた。

僕は「かまぼこが食べられなければバンジョーはうまくなんねぇ」と…言わなかったかな?

楽しく過ごした食事の後に竹山さんは、カセットを用意してフォギーマウンテンBDなんかを録音したりしていた。

僕は僕で津軽じょんがら節を録音させていただき、セッションへと進展していった。

因みに、バンジョーをgCGCCにチューニングしてみたのもその時が始まりだ。

奥さんや、当時、弟子として家事も手伝っていた竹与さん(現2代目高橋竹山)がお茶やお菓子を出してくれて、夜遅くまで音楽談義に花が咲いた。

といえども、僕と省ちゃんは彼が何を言っているのかほとんど分からなかった。

そんな一晩だったが(確か次の日には北海道に向かったと思う)それから竹山さんとの付き合いが始まったのだ。

86年にはアメリカ公演のひとつとして、サンフランシスコにもやってきた。

歩いて5分ほどの会場だったので僕も出かけていった。

じょんがらで盛り上がると大きな拍手が起きる。すかさず「サンキュー ベリマッチ」と津軽訛りの英語で更に盛り上がる。

今、改めて彼の演奏を聴くと胸に熱いものがこみ上げてくる。

僕等が訪れた時も快く受け止めてくれたのは、僕らがナターシャーで培ってきた、古きを知り、新しいものを作っていく姿勢を僕らに感じてくれたからだろう。

アイリッシュを演奏していても最も大事なところだ。先人の演奏にとことん耳を澄ませることの大切さは、正に竹山さんの津軽三味線を聴いていた時にすでに感じていたことだったはずだが、あの頃はそんなに気がつかなかったのかもしれない。

だからこそ、今更ながらもう一度耳を澄ませてみると涙がでてくるくらいの感動を覚えるんだろう。