内藤希花

約3年前の春、アイリッシュスタイルのフィドルを弾く人がいる、という話を、とある方からきき、その方の紹介で初めて会うことになった。

まだフィドルをはじめて4年ほど。ヴァイオリンとしては6歳から経験がある、ということだったが、僕はそのむかしから、ほとんどの、いわゆるヴァイオリニストの弾くアイリッシュ・チューンには納得がいかなかったものだ。

どこかが違う。漠然とどこかが…。ずっとそう思ってきた。

しかし、その日会った内藤希花なる人物は、今までのヴァイオリニストとは少し違っていた。

まず、注意深く聴く耳を持っている。当たり前のことかもしれないが、誰でもが持ち合わせているものではない…残念ながら。そして、そこのところがやがて彼女を音楽のパートナーとして選ぶことになった大きな理由となったのだ。

以前、僕は彼女のことを、日本でも一番とよべるくらいのアイリッシュ・フィドラーだと賞賛したのだが、その意味は決してうわべだけのテクニックがどうのこうの、ということではない。そのことに対して、一番なんてことはないのだ、といった人達も数人おりましたが、当たり前のことだ。

僕の言うのは安っぽいテクニックのことではない。音楽そのものに対する気持ちのあり方だ。

多くのリード楽器奏者は、伴奏楽器がどんなにすっとんきょうな伴奏をしてもあまり気にならないようだが、それは理解に苦しむところだ。

初めて彼女の伴奏をした時、この人の、音に対する注意深さは並みではない、と感じた。

彼女の、この音楽に対する情熱が並みのものではなかったのかも知れない。そして、持ち合わせているセンスというものも、この音楽に合っていたのかもしれない。

非常に短絡的な言い方かもしれないし、全ての人にあてはまるかどうかは分からないが、8割くらいはセンス、残りの2割が努力。そしてその努力を100パーセント生かすことができるかどうかがポイントだ。

この音が好き、この音は今ひとつ、というような、決して理論的ではない部分でも、体が受け付けるもの、また受け付けないものを感じてしまうのは、やはりセンスというものなんだろう。

1968年に出会い、2003年まで共に音楽の道を歩んできた、故坂庭省悟にも同じことを感じていた。

いい、とか悪い、という言い方もあるが、複数の人間が一緒になった場合、それがお互いに、お互いを見極める核ともなり得る。

そこには、この人は絶対に自分の納得いかない音は出さない、という信頼が生まれてくるからだ。

彼女にそれを感じたことが多くあった。

例えば、マーティン・ヘイズが弾くブロークン・プレッジという曲のある一部分。そのときのたった2小節に胸が張り裂けるような感覚を覚えていた僕に、ある日彼女が言った。

「あそこの音たまらないですね」ひとことも彼女に言ったことはなかったのだが、正直その時ドキッとした。

今までにその部分に触れた人がいなかったからだ。じゃぁ、この曲はどう?といってあるホーンパイプを弾いてみると、彼女が言った。

「Bパート、残念ですね。この16の音。このパートさえなければやってもいい曲なのに」驚きだ。特に誰にも言ったことは無かったのだが、Bパートの16の音さえなければ、と全く同じことを以前から思っていたのだ。

そうして確認していくと、次から次へとお互いの意見が合致する。勿論世代が違うのでかみ合わない部分も多々あるが、こと音楽的なセンスはかなり似かよったところを持ち合わせているようだ。

彼女はこれからも、ひとりのフィドラーとして、素晴らしい演奏を聴かせてくれることだろう。

僕はよく彼女に言う。「上手い演奏家は沢山いる。その中で希花は希花の音を出すことを心がけるように。アイリッシュに於いては、トラッドをきっちりやること。そのために伴奏が必要なら普通の人が10回やるところを100回繰り返してでも、一緒に弾いてあげる。その中から、あの緑の大地が見えてくる瞬間を感じ、風を肌で受け止め、心と体が自然とアイリッシュ・ミュージックを演奏するようになるまで」