文明の利器

初めてステレオというものを家で購入したのはいつだっただろうか?1963年頃とか?

その前にテレビというものは1950年の半ば頃?

その前は…洗濯機や冷蔵庫?

もうさすがにしっかり覚えていないけど、テレビがまだ無かったころ、夕飯の時にはラジオを聴きながら一家団欒の時を過ごした、と云う光景は今でも鮮明に覚えている。

ちょうどサザエさんに出て来るような…。

ところで先日、2層式という洗濯機を久々に見た。まだあったのですね。

さすがにあの畳いわしのようになって出て来る絞り機は付いていなかったけど。

勿論、その2層式と言う言葉自体、希花さんは初めて聞いたと云い、そのものも初めて見たと言っていた。

冷蔵庫には昔は氷屋さんというのが来て、ガチャンと挟んで四角い氷を入れてくれた覚えがある。

時代はすすんで大学時代、確か1年の時初めてカセットを使い出した。

そのカセットだが、希花さんと演奏を始めた頃、カセットテープに曲を録音して渡したら「これ、どこから音が出るんですか?」と訊かれた。

ファックスを初めて使った僕の父が「駄目じゃないか。戻ってきちゃったよ」と激怒していたこともあった。

本当に文明の利器というか、そういうものは凄い。

僕は相変わらずスマホの取り扱い方が良く分からない。そういえば、そろそろ1年になるなぁ。

思えば今、こんな時代になってテレワークとかオンラインなんとか、って言っているけど、これ、もし1960年代や1970年代に起きていたらどうなっていただろう。

それはそれでいろいろ対処したんだろうけど、想像が付かない。

僕は49rs.ゴールドラッシュ最盛期の100年後の生まれだ。そして50年代、60年代、70年代、80年代、90年代。世界が変わると言われた2000年代と生きてきて、そのまま又20年が経った。

どの時代でもそれなりの進化はあったのだろうけど、ここ数年の変わりようは凄い…というか段々ついていけなくなっているんだろうなぁ。

ポジティブとネガティブ

今、この時期にこのタイトルを使うと陽性か陰性か、という感染症に関することのように思われるかもしれない。

確かに陽性反応がでたらポジティブだし、陰性ならネガティブです。

でも、日本ではこのふたつの言葉は性格上の、或いは思考形態を表す言葉としての方が一般的かな。

英語でもポジティブな人、ネガティブな人、といった表現はあるようだが、僕はあまり聞いたことがない…かもしれない。

イエス、その通り!等と答える代わりに使ったり、いや、違うな、という時に使ったりは時々聞いたことがある…かもしれないけど。

それに輸入品のリストで制限の掛かっているものをネガティブ・リスト、その他の物をポジティブ・リストとも言うらしい。

英語は本当に難しいし、この辺のことは僕にはよくわからないけど、最近面白いなと思っていることがあります。

感染症の観点からポジティブ、と出たら他人にうつしてしまうのに、思考的なことで言えばその反対のネガティブの方が他人にうつしてしまう可能性があり得る、ということ。

ここはすごく重要な現象として考えなければいけないことだ。

ポジティブなものには影響を受けるかもしれないし、それはともすれば喜ばしいことだ。たまには「うざい」と感じることもある、というのも事実かな?

しかし、ネガティブなものには影響という語句ではなく感染という表現の方が当てはまっているような気がする。

ネガティブを辞書で調べると「否定的または消極的」となっている。

それに対してポジティブは「積極的または肯定的」だ。

僕は自分がどちらかと言えばポジティブな性格だと思うけど、そんなに積極的な方ではない。そして、このポジティブというのも前向きな性格、といえば聞こえはいいけど、楽観的な性格というとちょっとアホみたいな感もあるだろう。

なのに、すごく心配性なのは何だろう。決して神経質ではなく、前にも言ったけどエレベーターのドアの隙間に鍵が落ちないだろうか、とか、待ち合わせに遅れると困るので30分で行けるところでも1時間前には出る、みたいな。

希花さんだったら丁度の時間か5分前に着く電車を調べるはずだ。

ボルトナット式と言う言葉があるけど、よく宇宙飛行士の例えとして使われるようだ。僅か1秒の何分の1の誤差で地球に戻れなかったりすることを考えると、希花さんは戻ってこられても、僕は戻ってこられないかもしれない。

余計な心配で大事をとって30分も前に宇宙を出発して、銀河系の遥か端っこまで行ってしまうかもしれない。

希花さんだったらきちんと調べて計算通りに地球に着くだろう。

結局、なにを言っているのか自分でも分からなくなってきたが、多くの人はある意味、事柄によってネガティブだったりポジティブだったりするのだろう。

なので、自分がちょっと落ち込んだ時は、誰だってそんなことあるよ、と、深く考えすぎずにそう思えたらいいのかな。

心配してもどうにもならないことを心配するなんていうのは労力の無駄だし、心配してどうにかなりそうなことなら、そのどうにかする方法を考えた方が良いのかもしれない。

考え付かなかったら、いつか考え付くだろう、くらいに思って、今心配していること以外のことを考えながら過ごす。

考えてみればそれがいわゆる「前向きな性格」というものかもしれない。

決して積極的に行動を起こせるわけではないけれど、自分が置かれている状況を少しだけでも楽観視できるかどうかも大切な事なんだろう。でも、本当はそこが最も難しいポイントなんだろうなぁ。

宗教と音楽

これはなかなか触れることのできない壮大なテーマだと思うが、時間が沢山あるのでついつい考えてしまう事柄のひとつだ。

僕は特定の宗教観を持っていない。だが、どれも否定しない。

それぞれが違う方法で結局同じところを目指しているような…大阪に行くのに新幹線で行くか、飛行機で行くか、バスか車か、というような…ちょっと違う?

先ず、宗教と言うものを意識したのは母親が亡くなった時だっただろう。10歳の時だ。

母親はクリスチャンとして生きたくて、実際にどこまで関わっていたのかは良く知らなかったが、仏教のこの上ない暗さが嫌いだ、と言っていた。

それ、なんとなくわかる。お寺と教会を比較してもそれは感じる。

家には普通に仏壇があったが、母は教会に普通に出入りしていて、クリスマスになると聖歌隊なるものが来ていた。

しかし、家は浄土真宗。なのでお葬式にはお坊さんが来ていた。それを観ていた僕は、何だかなぁ、と感じていた。

そんなこともあり、宗教って結局、死んだとき何で送られるかだけ決めておいたらいいんじゃないか、と子供心に思ったものだ。

そんな母親の勧めもあって僕はカトリック系の幼稚園に行っていた。勿論、自分でここに行きたい、と言った覚えはない。

父親は何を思っていただろうか。

でも彼は南方諸島で激戦地をくぐり抜けてきた人なので、誰でも死ぬときにゃ死ぬし、それでおしまい、と考えながら毎日塹壕の中で暮らしていたらしい。

そんな父親は消灯ラッパと起床ラッパの区別がつかないくらいの音痴で、ピアノを嗜んでいた母にとってはその部分はかなりの苦痛だったのかもしれない。

僕は4歳にもなるとピアノを習いはじめた。それが僕の音楽への入り口だった。

そうしてフォークソングと出会い、今に至っている。

ブルーグラスに目覚め、オールドタイムを演奏し、アメリカ南部を旅すると、それらの音楽と宗教と言うものは特に考えることもなく同じ場所に、同じ時間に存在するもので、なにも特別なことではなく、日々のお祈りと音楽は同次元のものだという事が良く分かる。

僕も母の影響か、旧約も新約もどこに何が書いてあるのか覚えるくらいに読んだ。因みにもう忘れたが…。

でも、未知との遭遇は大好きな映画で、正に新約の使徒行伝の中のストーリーそのままだ、という事は今も信じている。

それでも「初めに神は天と地とを創造された」と言われると、その神ってどういう格好をした人?なんていう質問をしたくなるが、そんなことを訊いてはいけないようだ。ま、云いかえれば無意味な質問のようだ。

スティービー・ワンダーは「神の成されることに対して、何故?と思ってはいけない」と言ったそうだ。

とに角信じることから始めていかないといけないらしいが、疑い深い普通の人間はそういうわけにはいかない。

眼に見えるものだけが全てではない、と言われてしまいそう。

アメリカのレストランで、ある時、勝手に中に入ってきて花を売り歩くやつがいるので「君、誰かの許可は得ているのか?」と訊くと「ここは神のプロパティだ」と言うではないか。

店のドアは中からでもロックできるので僕はすかさずロックしてしまった。すると彼は一生懸命ドアを開けようとしている。開く訳が無い。

僕は「今、君に必要なのは神ではなくカギだろ?」 と質問した。

(お、日本語だと上手いダジャレになるなぁ。でもこれは英語でのやり取り)

「君たちにとってはどこも神のプロパティかもしれないが、ここはここのオーナーが毎月5000ドルの家賃を払っている。次に来るときはその家賃を持って来たら中のお客さんに花を売っていい」というと何も返事をしない。

更に「神の事ばかり考えていないで、隣の人がなにを思うのかをもっと考えるべきだ」とたたみかけてカギを開けて外へ追い出した。

彼は、何言ってるんだろう、という顔をしてそのまま黙って出ていった。

日曜の朝、黒人街に行くと、いかにもミサの帰りのガキたちが、チェーンを振り回しながら集団で道の真ん中で車の往来の邪魔をしている。何を祈ってきたんだろう。

世界ではいろんなところで宗教色というものを感じることがある。

ドバイの砂漠に夕陽が落ちていくのを眺めていた時にも、ここには何らかの存在が必要なんだろうな、と改めて感じてしまった。

アイルランド人はなかなかに面白い。

教会でのコンサートに遅れてきたシンガーが、しきりに交通機関の遅れにFのつく言葉を連発しながら悪態をついていた。その上に、くわえたばこをその場で踏みつぶしていた。

そこは、司祭が説教をする壇上だ。因みに彼もカトリック。

ま、僕の付き合いはそのほとんどがミュージシャンなので一概には言えないが。

ブレンダン・ベグリーの、自然界と音楽と神の三位一体はなかなかに感動ものだった。

泳ぎから帰ってきてびしょびしょの体のままアコーディオンを抱え「さぁ、山の神様のために演奏するぞ。じゅんじ、ギターを持ってこい」と言って弾き始める。

この光景は以前、トニー・マクマホンが「私たちはアイルランドの自然の中に住む妖精たちに向けて音楽を演奏している」と言ったことの裏付けだ。

宗教は良く分からないけど、音楽は通称「神」とも言われる自然の摂理と共に存在する、ということはアメリカ南部でもアイルランドでも同じことのようだ。

10月

驚いたことに、とうとう10月になってしまいました。

2020年の失われた6か月もこの先7か月、8ヶ月といつまで続くのでしょうか。

これを産みだして隠していた国は今、どうなっているんだろう。

また、アメリカの大統領選挙も気になるところではあります。

もしもトランプがまた大統領に居座ることになったらもう世界は漫画みたいなことになるでしょう。

それにしてもバイデンと菅はなんか似ている感じ。どちらも「暖簾に腕押し」的な。

ところで、トランプとバイデンのテレビ討論、観ましたか?

史上最悪のテレビ討論、と評した記者の気持ちが良く分かる。

日本でも、明らかにおかしな奴が議員なんかやっていて、失言や問題発言があっても何食わぬ顔をしてそのまま給料もらって知らんふりしている。

国民に対して「新しい生活様式」というのなら、今こそ自分たちの生活様式も見直した方が良い、と感じる。

性格は変わらないと思うので「おっ〇い」が好きな議員はまだ「おっぱ〇」が好きなんだろう。

「女性は嘘をつく」と言った〇〇も言語道断だ。大体、世間話ならともかく、公の場で自分の言ったことを覚えていない、という時点でもう、政治家なんていうのはやめてもらわないといけないが、考えてみればそんな奴、かなりの確率でいるところをみるとそれが彼らの、立場を利用して給料をふんだくる手段なのかもしれない。

大した考えもなく言いたいことを言って、覚えていない、一応謝って、そんな意図は無かった、と云っておいて、都合が悪くなったら体調不良などと偽って雲隠れして、そろそろみんな忘れただろうと、また現れて同じことを繰り返す。

こんな奴らがボーナスももらって給料ももらってふんぞり返っているのと、医療機関で働く人たちの命がけの仕事とどちらが尊いのかは考えなくてもわかることだ。

議員というのも1年に一度は適正かどうかを国民に問うた方がいい。国勢調査や内閣支持率の調査も大切かもしれないけど、あの連中の給料を他に回すことの方がはるかにみんなのためになることだと思う。

暇だとついついこんなことばかり目についてしまう。

ま、取りあえず今は新たな音作りに励んで次を目指さないといけないかな。

普通の国民はそうしてみんな毎年毎年一生懸命、あるいはそこそこ一生懸命生きています。

10月となり、秋の夜長に愚痴をこぼしてみました。

香水

ヒット曲にあやかってこのタイトルを付けたわけではないけど…と言ってしまう時点で多少なりとも意識しているのかな?

いろいろ調べてみると、ひとくくりに香水といっても濃度の段階があるみたいですね。

僕が結構この手のものが好きなのは多分省ちゃんの影響。

彼は本当に好きだったなぁ。

もう既に何度か登場しているアラミスですが、ある人によると、その香りで僕のことを想い出す、と言っていました。もしかしたら省ちゃんと居ることが圧倒的に多かったので香りが移ったのかな。

ま、そうでもないけど確かに僕もアラミスは使っていました。

今でも冬になると使います。どう考えても夏の香りではない、と僕には思えてならないのです。何だろう?湿気のあるムシムシした感じに合わないのかな。

これはあくまで僕個人の意見です。こういう風に注釈をつけておかないといけないですね。

時々見るCMで猫が車のハンドルを握っているシーンがありますが「CM上の演出です」という注釈が出ます。あれがないと「猫に車なんか運転させてとんでもない」なんていうクレームが来るんでしょうか。

絶対にありえないものでも事前の対処法としてそういうことは必要事項なんでしょうね。面倒くさい世の中ですね。

さて、話をもどして、夏になると僕は4711porchugalというものを使っています。

こちらの方はさっぱりしていて本当に夏向きです。コロンと表示されています。

なお、このメーカーのものはアフターシェーブローションも大好き。すごくさっぱりしたいい香りで、ともすれば関係ないところにもふりかけてしまいます。

アラミスはトワレなのでやっぱりアラミスの方が香りや濃度は強いのですね。

香りと匂いの違いって歴然としていますが、結構英語では難しいです。

一般的に日本の英語教育で習う匂いと言うのはsmellなのでついついgood smellなんて云いがちですがscentsの方が良いみたいです。

今年の1月ごろ、ある楽屋で偶然通りかかったポカスカジャンのメンバーが「お、さすがにおしゃれですね。アラミスですか?」と言ったのでびっくりしました。

そんな彼もきっと使っているのでしょうね。

アルバムを振り返ってみて(後編)

2017年 Gentle Wave / 今 風の中

2019年 Listening to the Outside World / Just A Hunch

この年にリリースしたアルバムは基本2枚をセットとしての考えを持って録音した。Gentle Waveは現在進行形の音楽を、今 風の中は金海孝寛と進藤了彦を呼んで懐かしい歌を中心に、というコンセプト。

Gentle Waveではピアニストの宇戸俊英さんに色付けを手伝っていただき、希花さんのオリジナル曲Gentle Waveや、オールドタイム2曲を含む、ぼくらの世界を堪能していただいた。

ここでもハープ&コンサーティナが大活躍。希花さんはこのアルバムからマンドリンも弾き始めた。

また、アルバムジャケットを開くと、今はもうないが「夢みるぱさり」で撮影したフィドルとコンサーティナの素晴らしい写真を見ることが出来る。

9曲というとミニアルバム風な感じがするが、2枚セットとしてのコンセプトなら「あり」かな、と判断した。

今 風の中は金海君が大活躍してくれてエンジニアから演奏、そして省ちゃんや木田ちゃんの分のコーラスまで担当してくれた。進ちゃんは相変わらずいいフィーリングでドブロを泣かせてくれた。

そこに数曲希花さんも参加してもらうことで、ただ単に昔懐かしいだけではないものに仕上げたかった。

ジャケットのデザインなどは希花さんがやるが、アイディアとして僕はGentle Waveは真っ白の処に希花さん、今 風の中は風が吹いている感じの写真、と云いたいことだけを言った。

金海君にとっては事実上これが最後の録音になったのかもしれない。

Night Walkに於けるマンドリンプレイはどうしてどうして、長年ブルーグラスを演奏していない割にはなかなか鬼気迫るものがあった。往年のジョン・ダッフィーを彷彿とさせるものを感じたのは僕だけだろうか。

そして1年おいてこの年にリリースしたものも2枚をセットで、というコンセプトであった。

Listening…の方は少し落ち着いて静かな、ぼくらの2枚目のアルバムMusic in the Airを意識したものに仕上げている。

選曲も練りに練ってオールドタイム風の曲をハープとバンジョーで演奏してみたり、ビオラを多用したりと、サウンド面でもかなり工夫をこらしたものから、とてもシンプルなものまで時間を少し多めにかけた。

ボーナストラックも含めると12曲。ゆったり聴くのに持って来いのアルバムに仕上がったと思う。

ジャケット写真にはアイルランドで飼っている白猫を使ってみた。もちろん彼らに許可は得ていないが。

もう一つはチェロ奏者とのトリオ。

アレック・ブラウンはアメリカ、アーカンソー生まれでアイルランドに住むチェリスト。

希花さんがチェロなんていいんじゃない?と言い出したことがきっかけで、FBやネット検索などを通して「なんか面白そうなやつがいるからコンタクト取ってみようか」と言ってなんの前触れもなく連絡した。

彼は新手の詐欺かと疑ったらしい。最初は。でも、もはや僕らの演奏もYouTubeなどで見ることが出来るし、FBで共通の友達を見つけたり、と、そんなことをしている間にこれは信用できるかもしれない、と連絡をしてきた彼を、最初どんな奴かまだ分からなかったので、1週間だけ日本に呼んで一緒に演奏してみた。

2017年の12月に寒い中、サンダルを履いて現れた男はとても静かで、きれい好きだし、僕には慣れた感じのアメリカの田舎から出てきた青年、という感じであった。

何回かのギグで、多くの人からこの3人でCDを作ってほしい、との要望があり、僕らにとっても新しい挑戦であることなどから制作を決めた。

他なる彼の特徴としては、アメリカ南部の出身という事で、オールドタイムやブルースにも、僕との年齢の差はあれど、なかなかに共通するものがあった。

そんなこともあり、ボーナストラックではレッド・ベリーのIn the Pinesを一緒に歌い、僕がそのままPolice Dog Bluesを演奏し、Listening…とはまた全然違うものを作り上げた。

このように2011年から7作品、セットのものが2作品なので厳密に云うと9作品をこの9年間作ってきた。

僕も今年70歳になり、いつまで続けていられるか分からないので(多分に言っているだけと思ってください)次なる作品というものも今現在作っているが、もうほぼ出来上がっているので、その次のものにまで手をそめだしている。せっかちなので仕方ないか。

思えばとてもラッキーだった。

70年代に高石氏と出会い、シンガーと共に歌い演奏することを学んだことで、ショーン・テリルやスーザン・マッケオンなどというような筋金入りシンガーとの共演も果たし、楽曲の中にある魂を本当に良く聴き取ることで伴奏者として認められ、カーターファミリーとの生活や、アンドリューやベグリー達との生活を体験し、そこに希花さんも引き込むことによって彼女も真の意味でのミュージシャンに成長していった。

こういう事がこの音楽にどれだけ必要な事かを僕は身をもって体験している。

簡単に教えられるものではないが、少しだけ云えるとしたら、先ず聴くこと。それも先人たちの演奏、歌にとことん耳を傾けること。そうして悩み悩んで自分らしさを身に付けていくこと。できれば世界に出ていくこと。

今は難しいけど、多分このままでは世界が終わってしまうし、いつかはまたでかけていける社会になるだろう。

希花さんは命の危険にさらされてブレンダン・ベグリーの漕ぐボートで真っ暗な大西洋に出た時、感じたことのないアイリッシュミュージックを体感しただろう。

僕がジョー・カーターの庭先で辺り一面が明るくなるくらいの蛍の大群に囲まれた時、真のオールドタイムミュージックを感じたように。

そんな気持ちを持ち続けながら、これからもアルバム作りに励んでいきたいものだ。

アルバムを振り返ってみて(前編)

2011年 Keep Her Lit!

2012年  Music in the Air

2013年  The Rambler

2015年 Eire Japan

2015年  Through the Wood

時間があったので、今までにリリースしたアルバムを振り返ってみた。

基本的にはこのデュオによるものだ。

まず、手探りで始めた最初のアルバム「Keep Her Lit!」止まるな!とかそのまま行け!みたいな意味の、多くの場合イギリスやアイルランドで使われる言葉をタイトルにしてみた。

この頃僕は全編ガットギターを使用していた。Teetotaler’sのセットでは5弦バンジョーを弾いた。希花さんはこのアルバムでは全編フィドルだった。

夜汽車にOokpick Waltzをつなげたり(これは省ちゃんのアルバムで僕が使ったアイディア)旅立つ前にとCalliope House(これも以前、彼とのアルバムで僕が出したアイディア。というかこのCalliope Houseをやりたくてなにか合う歌が欲しいなと思って「旅立つ前に」を書いた、というものだ)

そんな風に歌とチューンを絡み合わせる、と云うのがこのデュオでやりたかったことのひとつだ。

アルバムジャケットを写真家の吉田恒星さんに撮っていただいて、サウンドタムで録音したこのアルバムはおかげさまで完売となった。なお、このアルバムではいくつかの曲でベースを河合徹三さんに弾いてもらった。

2枚目のアルバムはMusic in the Airというタイトルで、その多くをスローでとてもシンプルな楽曲を選んで録音した。

この時から自分達なりの時間の使い方なども考え合わせ、ホームレコーディングを始めた。ただ、仕上げはそれなりの技術を持った人にお願いするのが良いだろうと考え、同じ東京に住むプロフェッショナルの方にミックス&マスターをお任せした。

ジャケット写真はバードランドの藤森さんがどこか、横須賀の方の森の中で撮影してくれたものを使わせていただいた。

このアルバムから希花さんがアイリッシュハープを使用し始めた。

このアルバムはタイトル通り、全体を通してとても落ち着いた雰囲気の静かなアルバムで日本人好みというのだろうか、ファーストアルバム同様完売している。

2013年にはThe Ramblerというアルバムを作った。

ジャケット写真はアイルランドのコネマラ地方で撮影した羊を使わせていただいた。羊に許可は得ていないが。

最初からタイトルになっているアップテンポのジグで始まるこのアルバムでは、いよいよ希花さんのコンサーティナも登場するようになった。

また、トム・パクストンのLast Thing on my Mind(この想い)やナターシャー時代の民謡、おわいやれとBreton Gavotteをつなげてみたり、ワウワウを使用したバンジョーによるClinch Mountain Back Stepなども収録しているが、ある時アイルランドのラジオでそれが流れてきて驚いた。このアルバムの紹介をしてくれていたのだが、何故、よりによってこの曲だったのだろう。

この頃から希花さんは、アイルランド屈指のプレイヤー達とのワイルドな生活と、力強い音楽の真っただ中に存在するようになり、その本質をうかがい知るようになっていく。

それは僕が80年代に体験したカーターファミリーとの生活や、このアイルランド音楽を始めてからも体験し続けてきた世界だ。

理屈などでは到底語ることのできないものを得る良いきっかけになっているはずだ。

一年おいて、2015年にEire Japanをリリース。

これはデュオではなく、Frankie Gavin とPaddy Keenanの二人と共にリリースしたものだ。

1970年代から世界を股にかけてその名を響かせてきた大物二人との共作。一筋縄ではいかないこの二人とのことはもう散々書いているがアルバムは過去のNY録音の2曲を含めたアイルランド録音。

エンジニアをButtons & Bows やSkylarkなどで有名なGarry O’Briainが担当してくれた。寒い寒いアイルランドの冬だった。

同じ2015年Through the Woodをリリース。

このアルバムでは最初と最後にライ・クーダーで覚えたジョセフ・スペンスの曲を録音した。

これは紛れもなく僕の世界であるが、こんな一見遊びのような選曲もいい。

ただ、僕にしてみれば1970年の彼のソロアルバム、Ry Cooderの時から注目していた人なので極自然の成り行きという事だ。

もうこの頃になると、大学も卒業、そしてめでたく医師免許も取得した希花さんはコンサーティナも上達し、フィドルに於いてはアイリーン・オブライエン等と共にセッションホストもこなすようになってきている。

ここに収録されているTommy’s Tarbukasなどはなかなか弾く人は少ないだろうし、仮に超絶テクニックの人が弾いたとしてもこういう感じは出せないだろう、という演奏をしている。究極、そういうところがこの民族音楽の民族音楽たる由縁だ。

僕はまた、Lord Gordonをリクエストした。

このような曲をマイケル・コールマンから、またケビン・バークから学び、そして、マット・クラニッチと演奏し、曲について語る、こういう一連の流れをすでに経験しているのとしていないのとでは全く違うはずだ。

そして、コンサーティナ演奏にも磨きがかかってきたし、ケニー・ベイカーで有名なオールドタイムチューンも聴くことが出来る。

かなりたっぷり楽しめるアルバムだと確信している。

ジャケット写真もプロの方に撮ってもらったが、本当はこういうことに使用してはいけなかった場所らしい、という事は撮影が終わってから聞かされた。

なので、アイルランドの羊を付け加えておいた。誰か「あれ、The Rambler」のジャケットと同じ羊が居るけど…なんて気がついた人もいるかもしれない。

恐ろしいものを観た。

テレビを観ているとたまに世にも恐ろしいものを観てしまう事がある。

今日、あるクラシックのバイオリニストがアイルランド音楽で有名な曲を弾きます、と言ってRyan’s Polkaを弾き始めた。

あちゃー、と思って怖いもの見たさに観ていたら、寒気がしてきた。

普通、素晴らしくて寒気がする、という事はあるけど、あまりの勘違いに寒気がする、というのはいかがなもんだろうか。

本人はとても楽しそうに弾いていた。実際楽しいのだろう。

バックのギターやピアノも楽譜を見ながら一生懸命弾いていた。

そして観ていた多くの人は、なんて楽しい音楽、なんて素晴らしいバイオリニスト、と思って観ていたに違いない。

別にいいけど。そして僕なんかが文句を言わなくてもいいものかもしれないが、これが一般的な日本人の抱いているアイルランド音楽の姿なのか、と思うとなんか微妙だ。

こういう人はダニーボーイか庭の千草くらいに留めておいた方がいい。これらも奥の深いものではあるが…。

いや~恐ろしいものを観た。

信じるか信じないかはあなた次第、という番組の後だっただけに、素晴らしいと思うか思わないかはあなた次第。

70歳バースデイコンサート回想記

このコンサートについては既に翌日の2月9日に書いているし、今回のライブ盤でも少し書いているので、また別な見地から想い出してみようかと思います。

ライナーの中に収まりきらなかったことや、更に想い出したこともあるかもしれないので。

僕がピアノを弾き始めたのは4歳くらいの時。これは、6歳ではもう相当な和音オタクだったという記憶から逆算したものなので、正確ではないかもしれないけど。

その頃すでに先生の弾くオルガンのコードやリズムに耳を閉じていた記憶もある。

そんな自分が70歳になるなんて…。

60年代にフォークソングに、そしてブルーグラスに出会わなかったら、この70歳バースデイコンサートは無かったかもしれない。

静岡生まれの僕が当たり前に東京に出ていたら、なんて思うとやっぱり不思議。

当時、明治学院ということも考えていたけど、京都産業大学というところで推薦があるって聞いて、なんのためらいもなく「よろしくお願いしま~す」と言って入ったところで坂庭君と出会ってしまった。

当時まだ体育館の下にあった学食でのはなし。

それからは僕も忘れていることが多くあるのに、ファンの皆さんの方がよく覚えていることもあったりして、怒涛の70年代、ナターシャーセブンだったというわけだ。

坂庭君同様、高石さんとの出会いもよく覚えている。

なんか山男のような、雪男のような、或いは、なまはげのようないで立ちで、例のごとく恥ずかしそうに「高石です」と言って現れた彼は受験生ブルースで見た彼とは全線違っていたので僕はびっくり。

寒い寒い京都のマンションの一室でこたつに入り、なんとなく二人でギターを爪弾いているうちに今回もCDに、そしてライブ盤に収録されているDoc’s Guitarで話が決まった。

なので、これはナターシャーセブンの歴史を語るうえで欠かせない曲だろう。

しいては僕の70年、少なくとも50年ほどの歴史の中でも欠かせない曲のひとつであることは確かだ。

ライブ盤ではバンジョーでHome Sweet Homeをスタートにしている。コンサートでもこれでスタートしたが、僕にとってバンジョーと云うのはやはり自分の人生をより豊かにしてくれた楽器だ。

スヌーピーの漫画で、内容はよく覚えていないけど、誰かが何かで悩んでいたら、チャーリー・ブラウンか誰かが「そうだ、バンジョーを持たせたらいいよ!」って言っていたのをよく覚えている。よく覚えていないながらもその台詞は覚えている。

バンジョーを弾く者にとっては更に極めたくなるような台詞だ。

ライブ盤では進藤君の登場で「初めて来た街」にドブロを弾いてもらったが、彼はバンジョーに於いてもなかなかの腕前だ。

J・D・Crowe大好きな進ちゃんは中学生の頃からナターシャーセブンの周りを目立たない程度に慎ましやかにウロウロしていた。

やはりその辺はとても大事なところで、あまり度が過ぎると覇気がないように見えてしまうし、出しゃばり過ぎても(うざい奴)になってしまう。

また、そのどちらでもなく、常に視界の中に居ようとするやつもなかなかに困った存在だ。

彼の、その辺が実に見事だったのは、本当に良い家庭のなかで育ってきたからだろう。

そして今でも全然変わらない。

今回のコンサートでも実に巧みにヘルプしてくれて、面白いお話もしてくれた。古希にあわせて紫色のカポタストもプレゼントしてくれたし。

そんな進ちゃんとの楽しい時間もライブ盤としてよみがえっている。

さて、91年頃から怒涛の如く始まったアイルランド音楽の世界。

省ちゃんがPlough and StarsでTipsy Houseの演奏を聴いて「コリャ凄い!正に最高に自分を発揮した音楽、究極のものを見つけてしまったなぁ」と言っていたけど、確かにアメリカ中のアイリッシュ・ミュージシャンに知れ渡るくらいになった。

そんな音楽を内藤と始めたのが2010年の終わりころから。

「これは人々に聴いてもらわないと、この音楽の大きな損失になる」と背中を押してくれて始めてからもう10年近く。

近年、アイルランドでの演奏がメインになり、日本で演奏する機会も少なくなってきたが、

これからもどうなるか分からない。

今回は数曲、フィドル、ハープ、コンサーティナで活躍してもらい、評価の高いトークでも活躍してもらった。

行きあたりバッタリ的なところや、直感型のアドリブ、というところはなく、だれにでも分かり易く、且つ的確に要点を掴み、必ず時間内に納めるトークは業界でもなかなか評判がいい。NHKも顔負けだという業界人もいるくらいだ。

コンサートも終盤に差し掛かり、金海君を客席から呼び出した。

ライブ盤では彼の話も聞ける。そう、あのジャンボ・ギブソンの話。今見ても自分でもびっくり。

確か、まず黒く塗りつぶして、しばらくおいてゴールドのプラカラーでGibsonと書いたのだと思う。それもフリーハンドで。

僕は高校時代グラフィックデザイナーになりたかったのでそういうのはお手のものだった。

それにしても上手く書けている。

ジャケット写真で見ても(勿論、実物を見ても)正にGibsonだ。

よくずっと持ってくれていたもんだし、またよくこの日に持ってきてくれたものだ。

高校時代からのフォーク仲間、大学時代のMFQ仲間、そしてナターシャー、と考えたら55年くらい同じように音楽をやってきたんだな、と思うと、とても感慨深いものがある。

ライブ盤最後の「青春の光と影」にはそんな思いも込めて後からスタジオでマンドリンをかぶせてみた。できるだけ目立たないように。

それでも、彼みたいな音がちょっとだけでも聴こえたらいいかな、と思った。

そんな風にして出来たライブ盤はあの日の良い想い出となったことは確かだ。

アンドリューも呼びたかったけど、今年のこの状況を考えたら彼が来られなかったのには、それなりの大きな意味があったのだろう。

それと、省ちゃんも生きてくれていればなぁ、なんて思うけど、これからは旅立つ人も多くなるだろう。

このコンサートの後の金海君のように。

悲しいことは悲しい。でもこうして同じ時を過ごせて、それを形に出来たことはとても嬉しいことだ。

彼を静岡から連れて来てくれた奥さんと、僕も50年ぶりくらいにお会いした彼のお姉さんに感謝。

そして、このコンサートを企画、運営していただいた全ての方に感謝。

何度も言うように足を運んでいただいた方達にも大感謝。

更に、コンサートのライブ盤を手に取っていただいた方達にも感謝。

70年、長かったのかなぁ、短かったのかなぁ…。まだまだ、かな?

Irish Musicその169

Midnight on the Water   (Waltz)

この曲は特にレパートリーとして取り上げているものではないが、オールドタイムの演奏家たちには最も良く知られた曲のひとつなので、ここに取り上げてみた。

デヴィッド・ブロムバーグやケイト・ウルフなどでも知られている古いフィドルチューン。

テキサス・スタイルのフィドラーLucas(Red Luke) Thomassonの作だが、実際に出版したのは彼の息子Benny Thomassonとなっている。

ほとんどの場合、のんびりとした「たるい」ともいえるテンポでゆったりと演奏されることが多い。

僕は1975年のデヴィッド・ブロムバーグのアルバムから覚えた。

Eliza Cathy & Norma Watersonのアルバムでは歌が入っているが、Martin Cathyによるとこの歌詞を書いたのはRon Kavanaということだ。時々アイルランドのあちらこちらで出会って挨拶を交わす仲だが、いつ頃から知っていたのかよく覚えていない。

話はそれたが、ケイト・ウルフのものと同様良い歌詞が付いている。ただ、メロディは別なもののようだ。基本、フィドルチューンとして紹介されている。

人類滅亡…か?

また、とても現代を象徴するような出来事がテレビで紹介されていた。

飛行機の中でマスクを付けるのを拒否した…という話。

僕の見解だが、やっぱり現代に多いコミュニケーションをとれない人間の最たる例だ。

なんか一生懸命コメンテーターが健康上の理由でこの人はマスクが出来なかったらしい、とか言っていたが、それならば、そう説明すればいい。

「マスクをすることで呼吸困難になった経験があります(或いは何か他の理由でも)なのでお話しするときにはハンカチか何かで対処してもいいですか?」

こう言うのがコミュニケーションだ。

その能力が無い証拠に、この人物はツィッターなどで饒舌に今回の事に限らずいろんなことを言っているらしい。

大体、ネットを介してしか意見を言えない、きちんと相手の顔を見て話が出来ない、と云うのは他人の話も聞けない、というところに陥っている可能性が高い。

しっかりした意見を述べたいのなら顔も出して、相手の話も聞き、そしてどこが間違いだったのか、どこまでが自分が正しかったのかをきちんと自分自身で検証する必要がある。

30代という事だったがこうして大人になってきているのだからもう時すでに遅し、という感もあるが。

マスクを付けていない人が向うから歩いて来たら、少しよけて足早にすれちがったらいいが、飛行機という密室、しかもとんでもなく乾燥した機内ではよけるわけにいかない。

簡単な話だが、自分が気にも留めていないことが他人には気になる、ということはある。

ましてや、人類はまだ解決していない問題を抱えているのだから。

他のニュースで聞いたが、なんかトランプがノーベル平和賞候補?やっぱり人類滅亡も近いのだろうか…。

テクノロジー

未だにスマホの使い方が良く分からない。あれ、電話しちゃったよ、とか、これどうしたら見れるの?とか。それでも最近はWiFiの無いところではラインをしない方が良い、くらいのことがやっと分かってきた。

でもバイトだかギガだかなんだかよく分からない。

何だったか、あのムニャムニャとしたやつ、QRコードか…あれも何だかよく分からない。

むかし、バーコードと云うものが出てきた頃、いろんな商品に張られているのを見て省ちゃんと「コリャなんじゃろカイ」と首をひねったものだ。最初に見つけたのは確かファミレスでのタバスコだった覚えがある。

思えば僕の場合、コンピューターですら10年くらい前に初めていじったものだ。

自分は理数系が苦手なので良く分からない、と最初から思っているので、細かい作業は希花さん任せだ。

アメリカでは1986年ころ、既に小学校にパソコンが置いてあって、生徒たちはそれを使っていた、と記憶している。

特にカリフォルニア州はシリコンバレーを擁しているだけに当たり前のことだったかもしれない。

そうして子供たちは高校生くらいになると、自分でタワーを分解して友人たちと集まってなんだか何かをインストールするとか言ってはバラバラにしていた。

車も、エンジンのないフォルクスワーゲンビートルかなんかを300ドルくらいで買ってきて、毎日のようにガレージにこもって走れるようにしていた。

その辺はDIYの国なのでほとんどの子供たちはそうして物事を覚えていくようだ。

コンピューターに関しては、物心つくかつかないかくらいから操作している、というのは今の時代の子供たちには当たり前のことだろう。

そこには多くの弊害もあると思うが。

また、今やスマホが無いと普通の社会生活も送れないくらいの勢いになっている。

今迄はポイントカードを出せばよかった店でもスマホにポイントが加算されていくようなシステムになると、もうインストールのやり方が分からなかったりするので、ま、いいか、ということになってしまう。それこそQRコードっていうやつで。

なのでいまだにキャッシュレス決済なることはやっていない。なんかよく知らないけど損しているんだろうなぁ。

そういえば、初めて飛行機にEチケットなるものが登場した時には戸惑ったものだ。やっぱり昔の感覚で、チケットは自分で持っていないと気が気ではない。

空港に行ってマシンのパネルをタッチして…なんて怖くてしかたなかったのを覚えている。

今や当たり前のことでも20年25年前はドキドキしたものだ。

ホテルの予約もネットだといざ行ったら予約が入っていなかったり、とか考えるのだが、これも希花さん曰く「電話だと聞いていない、ということがあり得るかもしれないけど、ネットだったら記録が残るからその方が安心」という事だ。

確かに一理あるが、どうも相手の声を聞かないと…と思うのはやはり時代的な感覚の違いかもしれない。

Suicaをチャージするときに新しいタイプのマシンがあって、ポンと上に置いてチャージするもの。あれが良く分からなくて希花さんに「あ、まだ動かしちゃダメ」と怒られた直後にとなりでチャージしていたおばあさんが同じことをしていた。ついでにそのおばあさんも希花さんに怒られていた。

バンジョーは重い方が良いか

多くのバンジョー弾きは歳と共に後悔しているんじゃないかな。マンドリンにしておけばよかった、とか。

ま、それは冗談だけど、よくオーケストラの人達が歩いているのをみて、チェロの人の方が給料高いかなぁ、なんてくだらないことを考えてしまう。

バイオリンとかピッコロとかいいなぁ。ウッドベースなんかだと、もうあきらめがつくのかなぁ。

若い時には思わなかったそんなことが、最近はしみじみとそう感じるようになった。

さて、バンジョーの話だが、いちばん最初に手に入れたバンジョーはピアレス。もうよく覚えていないけど軽かったんだろうなぁ。

1964年から1965年くらいで、確か当時12000円くらいだったかな。この辺りは全くおぼろげな記憶を頼りにしているので、間違いもあるかもしれないが。

やがて大学に入ってカスガを買った。それはピアレスとは比べ物にならないくらいによくできていて、バンジョーらしい重さがあったので音もしっかりしていた。

確か4万円か4万5千円か、そのくらいだったと記憶している。

その後、ヴェガのスクラッグスを買った。更に少し重かったがそんなにちがいはなかったかな。でもアメリカの音がしていた…みたいだ。

それからはいろんなバンジョーを見たけど、フェンダーのアーティストは重いバンジョーだった。コンサート・トーンというモデルはあまり日本には無かったので知らないが、多分フェンダーのいい物は重かっただろう。

因みに僕はフェンダーのアーティストのテナーを持っている。ネックはヴェガのNo9をコンバートしているが、これなんかもケースから出すだけで腰が痛くなる。

安価な物は確かに軽かったような気がする。勿論、材質が違うのだろうからそれは音に影響するのは当たり前田のクラッカー。ありゃ、結論が出てしまった。

取りあえず先に進んでみよう。

ステーリングのバンジョーもやたらと重かった。そしてやっぱりいい音がしていた。

進藤君が持っていたインペリアル、と云うのはいままで持ってみたバンジョーの中でも曙か小錦クラスだ。音も間違いない。

僕が使っていたグレートレイクスもそこそこ重たいバンジョーだった。

一時、ギブソンが少し軽いバンジョーを作っていた時代があったが、まだあれは作っているのだろうか。小野田博士にでも訊いたら教えてくれるかもしれない。80年代後半だったかな。少しだけ手が出そうになったがやはり軽い分、音も軽かった記憶がある。

そうしてみるとオープンバックでも少し重たい目のバンジョーの方が音に芯があると感じる。

しかし、今僕が家弾きとして愛用しているディーリングのアメリカーナと云うバンジョーはめっちゃ軽いのにいい音がしている。

これはポットが12インチということもあるかもしれないが、スタジオミュージシャンとして名の通った西海君が随分前に11インチを使っていた時も、いい音がするなぁ、と思ったものだ。

ま、彼なんかはいい音の出し方を良く知っているのだろうけど。

ここ最近ではこのディーリングという会社は結構いいバンジョーを作っていると思う。

但し、デザイン的にはもうひとひねり欲しいな、と思うが、値段が悪くない。

安いものは本当に安いけどいい音がする。普通に高価なものもあるが、どれをとってもいい音だ。安定している。

そしてリゾネーター付きバンジョーでも他社に比べると重さはそうでもない。

僕が今使っているギブソンTB-4のコンバージョンは、もしかしたら元々重かったかもしれないけど

1926年ということなので、木の部分が枯れてきて少し軽くなっているのかもしれない。

音の好みとかいうのはまた別として、やっぱり重たいバンジョーの方が音もずっしりとしていて芯がしっかりしているようだ。

でもマンドリンにしておけば気軽に持って歩けたなぁ。

人種問題

これは解決しない話だ。世界にはどれくらいの人種がいるのだろうか。もちろん学術的に区別されていて、こうだ!というのがあるんだろうけど。

夢グループの翻訳機で「世界106か国語」という謳い文句。

そんなに必要か?っておもわず突っ込んでしまう。

それにしても「社長、おいくらにしてくれますか?」「やす~い」と相変わらず気持ち悪さ満載だ。

いや、そんなことはどうでもいい。

言語ではなく人種の話だった。

アメリカの高校では大体のパーセンテージが決まっていたようだ。

そして、たいてい同じ人種がつるんでいることが多い。大きくわければ白人、黒人、アジア、場所によってはメキシコ人も、フィリピン人も多い。息子が「フィリピン人ってナイフが好きなんだよ」と言っていたが、一生懸命バタフライナイフのきれいな出し方を教わっていた。

高校の登下校時では必ず数台のパトカーが校門のところに止まっていた。銃撃というものもたまにはある。

思えば、そうして幼いころから多くの人種と関わっていると、考え方の違いも当然、文化の違いも当然、差別も当然、そういうことはもう分かりきっている事なんだろう。

彼等は友人同士で「ジャップ」「チンク(中国人)」「ベトコン(ベトナムコミュニスト)」「ニガー」などと平気で呼び合っている。

それはいじめとか差別ではなく、あたかも愛情表現であるかのような感じだ。

もちろん大人になってからそんな風に呼び合うことは無いが、高校生くらいまでは盛んにそうして仲良く遊んでいた。

そんな彼らを見てきたせいか、人種差別をする人間は狭い世界しかみた事が無いどうしようもない人達なんだろうな、と思わざるを得ない。

良くないからやめましょうと言って分かるような脳の構造は持ち合わせていないのだろう。

裏を返せば、幼いころから多くの人種と付き合ってきた人達にはそれが、良くないこと、という観念も持ち合わせていないのかもしれないし、別に差別しないことがいいこと、とも思っていない。差別ということの観念が違うんだろう。

「それぞれ違うんだからいいんじゃないの」くらいにしか思っていないだろうし、困っていたらどんな人種でも助けてあげるくらいの感覚でいるんだろう。

見るところ、なに人、なに人と云うよりも人間としてしか見ていない脳の構造ができあがっているように感じるのだ。

特にここ最近、人種差別の問題とか、いろんな差別の問題とかが多くて…困った世の中だ。

ほとんどの国のトップがそんな困った人間なのだから仕方ないのかなぁ。

今年もあと4ヶ月?

1年も、とうとう8ヶ月過ぎてしまいました。そのうちの6か月くらいは失われた月日だったような気がします。

若い人は大変だっただろう。いやまだまだ続きそうなので大変だろう、と云う方が正しいかな?

ふと思うと(これは自分に限ってかもしれないけど)ある程度歳をとると、そんなに外へは出なくなる。面倒なので家に居るのが一番、なんて考えてしまう。

かと言って、若い時から友人と遅くまで飲みに出かけるようなことも無かったけど、遅くまで集まっては音楽談義に花を咲かせたこともあった。そこには、ついでに少しのお酒がはいったこともあった。

そうして考えると実質的にそれぞれの生活環境も変わり、その頃の友人たちと会うことも少なくなり…と、やはり外出の機会はどうしても減るものだ。

だいぶ前に永さんの本で黒柳さんとの会話が面白かった。どこかに標語みたいのがあってそこに書かれていたのが「子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うなゆく道だもの」

それを見た黒柳さんが「あら、歳よりは笑わなくちゃ。大いに笑えばいつまでも若く居れるものよ」と言っていたとか。実に巧みな解釈だ。

そう。年寄りは他人と会って会話をして、笑って…そうでないとテレビに向かって文句を言うだけの毎日になってしまう。

幸いかどうか知らないけど、文句の付け所は沢山ある。

総理大臣が辞めて、次の人の最有力候補が今までの路線を継承してゆく、と言えば、嘘と公文書改ざんと、隠ぺいをそのまま継承していく、という事か、と突っ込みたくなる。

こんな国会議員居たっけ?なんかやっているの?ただへらへらしてすわっているだけ?

なんていうのがいっぱい居てそれがボーナスも給料ももらって、命をかけて働いている人たちがボーナスどころか給料もカットされているっておかしくね?とか。

特にこの半年くらいはテレビに向かって文句を言う老人が増えただろう。

ま、テレビに向かって、というだけならいいけど、その煮え切らない気持ちを外に向けて発散させるような頭の構造には陥らないほうが良い。

つまらない悪態をついていると自分では気がつかないうちに本来いろんな考え方を出来るはずの脳みそが腐って来るんだろうなぁ。

なんかこういう状況でそんな人も増えてきているみたいな気もする。

それが老人だけではなく、若い人にまで。

アイルランドの友人がこう言っていた「コロナは経済だけでなく、人の足と心をなかば強制的に止めて、一人一人に自分自身の生き方を問い直す機会をあたえているようだ」

僕も全くその通りだと思っている。

あと4ヶ月。もう少ししたら様子をみながらちょっとずつ動いてみてもいいかな?

2020年も9月になりました

9月1日、70歳バースデイコンサートのライブ盤が発売になりました。

さすがにしっかりした音響さんが録ってくれた音。臨場感に溢れる素晴らしいライブの雰囲気が伝わってきます。

全て、このコンサートを企画していただいたウインドⅡのお二人と、当日、何もお礼を出来なかったけど、それでも力いっぱい動いてくれたスタッフ、

そして参加してくれたミュージシャンと足を運んでいただいた皆さんのおかげです。

当初これは想い出だけでいいか、と思っていましたが、やっぱり当日様々な事情で来ることが出来なかったみなさんや、遠方からエールを送ってくれた方達にもこのコンサートを味わってもらえたら…という気持ちになり、作ったものです。

聞くところによると、スタッフの中には妹さんの分のチケットを「お客さんの分が足りなくなったからあんたまた今度にして」と奪った人もいるとか。

なので、少しでも当日の雰囲気を味わっていただけたら幸いです。

あの日にして本当に良かったと思っています。1週間後でも結構迷いが生じたかもしれません。

今年はほとんど、というか、なにもコンサートが出来ない、という状態が今も続いています。

そんな中で記念すべき一枚となることは確実だと思います。

金海君にも来て歌っていただいて本当に良かったし、できればナイトウォークなんか一緒に演奏したかったけど…それでも終了後の打ち上げ会場でもとても楽しそうにしてくれていたし、本当に良かった。

今回、多くは作っておりません。なのに、発売早々、多くのみなさんからご注文いただきました。感謝いたします。

マーチンギター

先日、友人の一人がマーチンギターを手に入れたく、いろいろ見ていたらネットでこんなのがありました!と連絡してきた。

元を正せば、僕が彼に「何かマーチンギターのいい物」と言って勧めていたのだが。

なので、僕も色々探していたけど、やはり「これ!」というものはかなり高額だ。

ギターにせよなんにせよ、いかに安くていいものを見つける、というのは大きなポイントだ。

特にこのご時世。

友人が見つけてきたのは000モデルだった。ここに詳しく書くことは避けておくが、僕もこのタイプは大好きだ。

大体、マーチンギターというのは、特にフォークやブルーグラスを演奏する者にはステイタスのひとつでもある…と勝手に思っている。

僕が初めて手に入れたマーチンギターは1970年製のD-28だった。72年頃の話だ。

それから1934年製の0-18を手に入れ、ずっとそれを使ってきた。

後年になって比較的新しい000-28確か73年製くらい、同じく70年代の000-18、それと年代は忘れたけど00-18、やはり年代は忘れたけど00-16のガット、そして55年製のD-18など、この50年近くの間にいろいろなマーチンギターを見たり購入したりしてきた。

カリフォルニアの小さな店で1947年製の000-28という出物があったが、ネックが厚すぎて気に入るものではなかった。

その辺りは僕にとって音よりも大切な部分でもある。

さて、今回はその友人が言っていたものを別件で楽器屋さんに行ったついでに少しだけ見てきた。

比較的新しいもので「可もなく不可もなく」という状態。もう少し音が出て来るには後10年くらいかかりそう。

友人もあるていど歳なのでギターが鳴り始めるよりも前にあの世へいくかもしれない。

などなど考えていたら、すぐ横に77年のDタイプがあった、

少し弾かせてもらったら、やはりその方が良い。音に艶がある感じがする。

友人は000を欲しかったのだが、本当に良く鳴る000は最低でも100万前後の値段がする。

勿論、他のタイプもそうだが、幸い今の僕にはあまり興味が無い。

今迄にみたマーチンギターで度胆を抜かれたのは、アラン・セノーキーが持っていた、年代は忘れたけどD-18だった。激鳴りというのはこれか!と自分の内蔵にズドーンと来る衝撃に驚いたものだ。40年代の物だったかなぁ。

それとジャネット・カーターが「APカーターが時々弾いていたギター」だと言ってクローゼットから出してきた…あれは000だったかOMだったか、少し弾いてみただけであまりの素晴らしさによく見ることも出来なかった、という物。

その二つは印象的だ。

楽器をあれやこれや見てみるのは面白い。

基本、自分が「これ欲しいな」と思うものでないと他人には勧められないのでネットだけで判断するわけにもいかず、足を運んで実物を見る。

そうすると意外と面白い出会いがあったりするものだ。楽器とも人とも。

Irish Musicその168

Stephen’s         (Waltz)

ひょんなことから見つけた可愛いワルツ。ちょっと158にあるモーリス・レノンのワルツと似ているが、これはこれでなかなかいい。

作者はコンサーティナ兼ピアノ奏者のJack Taltyだ。

シンプルにギターとコンサーティナで演奏するととてもいい感じの曲。

コーマック・ベグリーとのCDやノエル・ヒルとの関係も深く、僕等にもとても近い存在の人でクレアの出身。

演奏家としてだけでなく、プロデューサーとしてもエンジニアとしても、この音楽に欠かせない人物の一人である。

ところでこのStephenが誰であるかの情報は無いので、僕は勝手に詩人のStephen James Smith だと解釈している。彼らが音楽とポエトリーのショーをやっているので。

でも、ちゃんとしたことは次に会う機会があったら訊いてみることにする。

100円ショップ

最近、近所の100円ショップの向かいに100円ショップが出来ました。

因みにこの辺に僕の歩いて行ける範囲内の100円ショップは4つあります。それも全てが割と大きな店舗。

ともあれ、すぐ向かいにオープンするってすごいな、と思う。

そこは元薬局でした。その時もすでにあった向かいの100円ショップの下の階は…薬局でした。

それではなぁ…と思っていたらやはりすぐに無くなって、次は何になるのかな?と思っていたらこういうことになったのです。

しかし、今回の店はウォークイン。向かいにある以前からの店は2階。となるとこちらは結構有利かもしれない。

ただ、この店、あまりに商品が多すぎて棚と棚の間隔が狭すぎる。一人がデイパックでもかけて棚を見ていると、もう通ることが出来ない。

こう言う店は他にもあるし、大量販売店なんか、これ、火事になったら逃げだせないなぁ、消防法はどうなっているんだろう、と思わせる店も少なくない。地震も怖い。

やはり土地が狭い都内などではある程度しかたないとは思うが、思わず店員さんに聞いてしまいました。

「これ、レイアウトを見直した方が良いんじゃない?誰かが立っていたら向かいの棚を見ることができない」といったらにこやかな店員さんが「何といってもオープンしたてで、そのうちもう少し楽に見れるようになると思います」って。すかさず「それ、ダメじゃん」

と言って二人で大笑いになったけど、暗に商売が下火になることを示しているようで、なんだかなぁ…。

やっぱり都内にCOSTCOなんか作ることはできないだろうなぁ。

余談ですが、アメリカでは「コスコ」というが日本では「コストコ」なんですね。でも、もしかしたら聞こえない程度にTを発している人もいるのかも。

Oftenの発音しかり。イギリスでは強くtを発音する、と言われていますが、アメリカでもtを発音する人は多いです。僕らは英語の授業で「オッフン」と習ったと思いますが。

それで思い出したのが、ビートルの唄でShe don’t careなどという文法では間違いのような詩があります。

これをアメリカの若い人達に訊ねたら、多分に黒人英語でそれをまねることがおしゃれになっている、かっこいい、という面白い答えが返ってきました。

歌にするときには、方言や、文法上おかしくね?という言い回しは日本でも存在するし、それがまた効果を得られる結果にもなるのですね。

100円ショップから話が飛んでしまいましたが、飛びついでに、アメリカでも1ドルショップなるものはあります。しかし日本の物の豊富さとクオリティの高さは尋常じゃないですね。今は大手のショップも進出しているのでそれほどの差はないと思いますが。

いつだったかギグがあってNYを歩いていた時、あまりの寒さに思わず店に入り1ドルの帽子と手袋を買いました。我慢できない、このままでは死ぬ、と思うくらいの寒さに襲われたのは初めてだったかもしれません。

そんな時にはこういう店は便利ですね。

アイルランドでも2€ショップなるものがありますが、ほとんどの物のクオリティに関しては信頼できない感があります。

それに比べると日本の100円ショップはすごい。

それにコンビニもすごい。僕のいるところでは歩いて2分以内にコンビニも4軒あります。

すごくないですか?

とに角100円ショップはもはや100均、それは電子レンジが「チン」で通用するのと同じ?なのかな?

体調

最近、総理の体調というのが取りざたされている。なんにもしていないようだが、一応、右に行ったり左に行ったり、すずしいところでなにかしているんだろう。

その間にも無い知恵を絞って考えることもさぞ多かっただろう。

正直、気に喰わん奴でもこの100年に一度くらいの危機に対してどうすれば良いのかを考えるのは至難の業であるくらいのことは分かる。

ただ、国民の命と財産…という割にはあまりに寄り添っていない感があるので、その部分に於いては僕だけでなく「もっといい方法はないのかよ。高い給料もらっているんだし」と思っている人も多いだろう。これについては彼だけではなく、国会議員全員に言えることだ。

しかし、何よりも心配しているのは彼の体調もさることながら、もし倒れたらその間、誰が国のトップになるか、という事だ。

もう分かっているだけに怖い。ひたすら怖い。

お化けより、ドラキュラより、ジェイソンよりも怖い。

あんなに庶民を見下して、常に偉そうにしている奴ならまだ今の人に頑張って体調回復を目指して欲しいと思うのは国民の何パーセントに及ぶだろうか。

どうせ数ヶ月持つかどうかも分からないけど、やっぱり国の顔ではない。

他人の体調の事よりも自分はどうかと云うと、相変わらず問題は無い…と思う。

ただ、この騒ぎで健康診断を1回飛ばしたので、近々行っておこうかな、と思っている。

歯も相変わらず問題ないし、そのせいか食欲もあるし、部屋でのストレッチや少しの運動も心掛けているし、少しの外出もできるだけエスカレーターは使わないし、暑くても日光には当たるようにしている。

水もよく飲むし、夜も比較的良く眠ることができている…ようだ。

それに、体重計に乗る前に自分の体重はピタリと当てることが出来る。体重計には10日に一度くらいのペースでしか乗らないが。

朝、起きた直後はメールやラインの小さな文字は見えにくいが、ちゃんと香りのするコーヒーを飲めば普通に回復する。

耳はどうやら希花さんに聞こえる高い周波数は聴こえないようだ…。

多少の距離を歩くことも苦ではないが、ただ少し走りたいな、と思う。

この暑さ、そしてマスクをしなくても良くなったら走りたいと思うがいつになることやら。

マスクに関しては付けていることで他人が安心すると思うので、運動時も付けていた方が良いだろうな、と思うとなかなかそれを付けたまま走る、或いは運動する、というのもなぁ、と感じ、ジムも3月から休会したままになっている。

なので、尚更、体調管理はしておかなければ、と思うのだ。

金海君がまだ元気だった2月くらいにメールを送ってきました。「隊長、体調が悪いんです」「なに!俺が悪いというのか!」「いえ、そうではなく体調が悪いんです」「まだ言うか!」いつまでも続く隊長と部下のやり取り。

皆さん、しっかり体調管理をして少しだけ長生きをして(旅立った友人たちの分)いい日々を過ごしましょう。

僕たちは100年に一度というような特異な時代に生きています。

Infomercial

いわゆる情報提供番組だ。自粛でテレビを点けることが多くなり、この手の番組をよく目にする。(テレビショッピングともいうのかな)

アメリカでも良く見ていたし、そんな中から購入したものもあった。

返したものもあった。でも、返す時が大変。電話は出ないし、やっと通じたと思えば他のものはしつこく勧められるし、まくしたてられるのでそういう時には丁重にお断りする。なかなか大変だが。

良くあるのが29ドル99という数字が大きく出て、その下に3 easy paymentと云うのが蚤くらいの大きさで書いてある。なので30ドルか!と思って購入するとその3倍になるのだ。ま、この手のものには一度引っかかったら2度目はありえないが。

最近、よく見かけるのは卵の上に座るやつ。ヨドバシなどにもあったので座ってみたけどあまりピンとこない。思わず今度たまごを持って来てみよう、と思うのだが多分お店で断られるだろう。

あと、僕らの間でひそかにブームになっているのが夢グループと云う会社の小型クーラーみたいなもの。

なにが話題かと云うと、そこに出ているちょっと見、綺麗な女性。「気持ちいい~」「安~い、嬉し~い」などの名セリフ。

それだけで何故話題になったかと云うと、このところ出番の多い岡田晴恵教授の、どこかクネクネしたところによく似ている。

やっぱり多少クネクネするのは?歳くらいまでかな、と思ってしまうが、結構言い難いことなのでだれもいわないんだろうなぁ。

普通に話してくれればいいのにな、と思ってしまう。商品よりもそちらに気を取られてしまうが、何度も見ているうちに商品を覚えてしまう、という戦略にまんまとはまっている。それに、その女性が歌手である、というところまで調べてしまう。

それと良くあるのが「でもちょっとお待ちください。今から30分以内にお電話いただければ半額で提供できます」みたいなもの。一日に何回もやっている。

そんな僕もフレイバーストーンというフライパンと鍋のセットは5年くらい前から愛用している。

包丁もよく見る。お前、靴を切る奴なんていないだろう!なんていいながら。

なお、最近手に入れたグローバルの包丁は普通に通販で購入した。

極めつけに耳につく通販は、もちろんジャパネットタカタもあるが、僕らにとってはシジミのものだ。「うりあげなんばーわ~ん」で始まる驚異的なメロディの音楽が流れるもの。

先ず、John Ryan’s から始まりLakes of Sligoに見事に似せた音楽。

アイリッシュに関わっている者なら一発で分かる「なんじゃこりゃ!!」というくらいの盗作もの。しかし実によくできている。

今日も最後の「おまちしてーます~」というフレーズまで見てしまった。

Irish Musicその167

An tOileain Aerach       (Waltz)

最近、動画配信したこの曲。昨年希花さんがアイルランドのラジオで聴いて気に入っていたものだが、例によってアクシデンタルに聴いたものなので誰が演奏しているか、またそのタイトルもずっと分からずにいた。

僕も事あるごとに調べていたがあまりにも手がかりが無さ過ぎた。

そんな中、動画を観たBrian McGrathから情報が入った。

Johnny Og Connollyの曲だと思うよ、と言ってきたのだ。

そうか!又か、というところだ。それというのも、以前録音したJoshua’s Dreamも全く同じストーリーだったのだ。CDに収録した後、これは偶然ネットで楽譜を見つけて発覚したが、時すでに遅し、で、すぐ彼に「ごめん、タイトル知らずで録音しちゃった」とメールしたら「とても嬉しい」と彼らしい温かい返事をいただいた。

かくして今回も事後報告になってしまったが「素晴らしい演奏をしてくれて有難う。世界が安全になったらまた日本に行きたいな」という彼らしい返事が戻ってきた。

随分前に「Lord of the Dance」で日本に来たけど忙しくて自分なりの旅を出来なかったので…という事だ。

彼とはスピダルのセッションで、今は亡き彼のお父さんと僕らで演奏したこともあり、とても好青年だったことはよく覚えているので、是非また一緒に演奏したいと思っている。

ところでこのタイトルはゲール語なので、訳すとHappy Isleとなるそうだ。それは彼の父が生まれた島Inis Bearachainの別名でもあるらしい。

もうひとつ付け加えておくと、Joshua…の時に彼が2枚のアルバムを送ってくれた。なんとそのJoshua…の方ではなく、もう一つのSiarというアルバムに収録されていたのだ。

すっかり忘れていた。不覚だった。という事もあり、是非彼との演奏を再び、というところだ。

ベランダにはサウナがある

こんなタイトルの小説がありそう。

クーラーの効いた部屋を一歩でると外はサウナだ。その昔70年代くらいかな、サウナには7人の会の面々とよく行ったものだ。

今はわざわざ行く必要もないくらいの気候だ。僕の部屋だけではなく、誰にとっても外は天然サウナだ。それも夜中になっても。これはきつい。

僕は暑がりだけど、割と平気なのは海に比較的近いところで育ったからかなぁ。

高校時代などは友人たちと夜中でさえも海に行って泳いだりしたものだ。

やっぱり若者は無茶をするなぁ。今ではとてもできない。

暑いより寒い方が好きだけど、夏は暑いものと思っているので、普通に汗をかいてもあまり苦に感じない。

そして驚くほどに体の表面が冷たくなる。これは汗をかく人全般かもしれないけど。

なので、かなり暑い日でもクーラーなしで、暑いなと感じたら頭から水をかぶる。

そうしたら体がすぐに冷える。

そこでベランダのサウナに入ると(出ると?)結構気持ちいい。

僕はここしばらく、お昼はクーラーをつけていない。やっぱり勿体ない前提の昭和の人間かな?

そうしてお年寄り(自分もか…)が熱中症になるのだろうけど、やはり暑いと思ったら、すぐ水をかぶったり、冷たい水を飲むなりするだけの体力を残しておかなければいけない。

それにしても暑い。

そんな中、消費税を上げる、なんていう話が出ていることを聞いてのけぞった。

それより、お前らの給料を減らせ!ボーナスなんかもらっている場合じゃないだろう!と、またテレビに向かって叫んでしまう。

少しは外を歩いて天然サウナの中で働いている人たちの身になって考えてみたらいい。

今年は五山の送り火を見るために早々アイルランドから戻って「そうだ!京都に行こう」と思っていた。が、このありさまだ。

かくしてテレビで観ることになった。それでも荘厳な雰囲気は伝わってきた。

京都に暮らしていた頃は毎年のように生で観ていたんだろうなぁ。

今回は、ご先祖様の中にも自粛を余儀なくされて帰ってこなかった人がいるかも…。その中でなんとか都合を付けて戻ってきた人が感染して帰ってあの世でコロナが流行らなければいいのに…なんて不埒ながらも馬鹿げた想像をしながらテレビの画面に見入ってしまった。

やはり伝統行事は素晴らしい。

日本も世界に進出していくためには、伝統をもっと大切にする考えを持たなければ、ただの浮ついた国になりそうだ。

政治家がお笑い芸人とコラボして喜んでいる場合ではない、と思うのは僕だけだろうか? さて、ちょっとサウナにでも入るかな

Irish Musicその166

Horse Keane’s     (Hornpipe)

Jimmy Keaneが彼の父の為に書いた、というこの曲。実はもう25年以上前から知っていた曲で、あまり好きではなかったが、最近、ちょっと別な調べごとをしている時に再発見して聴いてみるとなかなか可愛らしい曲で、お、いいな!と思えるようになった。

食べ物の好みと同じで(因みに食べ物の好みは一般的に7年周期くらいで変わるらしい)そういうこともちょくちょくある。

このタイトルの謂れとしては、彼の父は鉄工所か、そういった関係の仕事をしていたらしく、そのあだ名がHorseだった、ということ。多分Iron Horse(1800年代から発達した蒸気機関車)に由来するものだろうと思う。

Mick Moloney、 Robbie O’Connell と共にリリースしたアルバム「Kilkelly」は僕のフェイバリッツアルバムのひとつだったが、この曲には注目していなかった。なので、最近は今一度注意深く聴いている。

8月15日 終戦記念日

毎年この日は僕にとってどこにいても感慨深いものがある。

記録に残っている処で、2014年はゴールウエイでアンドリューとオーラ・ハリントンとで演奏していた。

2017年にはブライアンとかなこちゃんの家にいた。

2018年はカーロウにいた。そして、沢山の若者が命をなげうって守ってきたこの国を政治家たちが滅茶苦茶にしている、と書いた。

今と同じだ。

因みに去年はティペラリーに居た。

僕は戦後まもなく(と云えるかどうか分からないけど)の生まれで、父は陸軍少佐として南方戦線に出征、なんとか生きて還ってこれた人なので、戦争と云うものはそこそこ身近だったような気がする。

この日になると必ず嬉々として日の丸を掲げる人であった。

もっと話を聞きたかったが、南の島はよほどひどかったのだろう。あまり話したがらなかったことも事実だ。

終戦の玉音放送はどこで聴いたのだろう。

僕は「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という言葉しか知らない。

戦争からはなにも得られない。

そこでなにか得ることが出来るのは戦争をネタにして金を儲ける連中か、自分の命だけは守ろうとする政治家か…ありゃ、今と同じだ。

何も国民に伝えず、久々に顔を出したとおもったら同じことばかり言って、嘘はつき続ける。

キャンペーンで国民は感染して来い!とばかりに戦場へ送られる。

沖縄も相変わらず無視だ。

今、僕らは、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んでいる…ようだ。

危険な暑さだ

ここ10年、アイルランドに居た夏を今、日本で体験すると中東で溶けそうになったことを想い出す。

勿論、暑い夏の日というのも知らないわけではない。

アイルランドに旅立つ前、或いは帰ってきてからも暑い、と感じることはよくあったが、ここまで連日ということはなかった。

涼しいのは政治家だけだ。たまに顔を出すと涼しそうにしている。

身体的なことだけでなく、なにも考えていない、または考えが及ばなくても、ま、いいか、くらいにしか思っていない感が伝わってくる。あきらめかな、正直もうしんどそうに見えることも否めない。特に総理は。Sorryなんてしゃれにもならない。

とに角、飛行機の時間が…等と云いながら逃げるように去っていく。

涼しい会見場所から涼しいリムジンに乗って、涼しい飛行機に乗って、また涼しいリムジンに乗って、涼しい官邸に帰っていく。

そりゃ、涼しいだろう。

暑い公共交通機関を使って、暑い道を歩いてみろ。庶民の気持ちが初めて分かるだろう。

ま、あんな連中にいらいらしてもなにも変わらないので、これ位にしておこう。

今日はなにを書こうかな、と思っていたかも忘れさせるくらい危険な暑さだ。

どうせなら今聞いたニュース、大文字の点火のこと。

誰かがいたずらで早く点火(点灯?)した、とてもいたずらとは言い難いと思える行為があった、という。

ずっと昔に大の文字の、向かって右上でたき火をしたグループがあった、というが、どうも「八月の犬は二度吠える」からの都市伝説の噂があるようだ。「太」もあるようだし。

とに角、永きに渡って大切にされてきた伝統行事に泥を塗るというのは、もう世の中にいらない人間がおこした行為だと解釈していいのではないかと思う。

犬や太なら可愛い感じもするが今回のは厳重注意で済ませてはいけないと思うのは僕だけだろうか。

あとひとつあったなぁ。

マスクをつけるのをやめようという運動をしている連中。

機能していない政府に対しての抵抗だろうが、結局、政府と同じように脳のどこかが壊れているとしか思えない。

優しく言うと、正に自由と身勝手の区別がつかない集団ではないか、と感じてしまう。

ここを素っ裸で歩いてはいけないんだ、という人に対して、いや、私の自由です、と言って素っ裸で歩いているようなもんだ。

しかも今は感染症という人類共通の危機が存在しているにも関わらず、わが身の自由ということを大切に考える、というのはどれだけ他人の事を考えられないのか、と疑ってしまう。

いろんな人が居て世界は成り立っていると思うのだが、彼らのような人間による無駄な犠牲は困る。

広島、長崎からもう75年

毎年この時期になると、特に日本人としては今一度考えるべきことが大切になる。

先日、原爆の開発に携わり、実際に投下の映像を撮ったアメリカの科学者が、被爆者との対話で「パールハーバーが全ての始まりで、私も多くの友人を失った。謝罪をしなければいけないのはあなたたちの方だ」と言っていた。

被爆者の心は完全に踏みにじられたことだろう。

もし、彼が「私は謝らない。なのであなたたちもパールハーバーについて謝る必要はない。これは「軍」というものが犯した罪で、私たち科学者もあなたたちと同じでその犠牲者だ」くらいのことを言える人間だったら良かったと思うのだが、つくづく「Me First」の国だ、ということを再認識した。

ただ、国や文化が違うとそこには相いれない考え方の違いが生まれることはよく分かっている。

原爆投下はある意味「人体実験」としての目論見があっただろう。

8月6日まで、しばらくの間広島への空爆が無かったのは原爆によってどのくらい市街が破壊されるかを観測する為だった、という記述があるが、そこには人命、というものは無視された作戦があったのだろう。

考えていなかった、と云うよりは無視だ。まるで今の政権と一緒だ。

2016年の5月27日、オバマ氏が広島を訪れたことについて書いた覚えがあるが、単なる記憶の中の1ページに過ぎないような気がする。

なにも変わっていないどころか更にひどい世の中になっているが、それはもしかしたら、コロナと云うものが無かったとしても同じかもしれない。

Irish Musicその165

Leaving of Liverpool     (England)

これはイギリスの古いバラッドだといわれている。ダンスチューンとして演奏されることはまずないが、最近九州の友人が自身のグループで演奏している映像を送ってきてくれたことで思い出した。

彼等のスタイルはブルーグラス。ご機嫌な演奏。そしてタイトルはFare Thee Wellだ。

僕等もフォークソングをやっていた60年代、これはボブ・ディランの作った曲、という認識で唄っていた。MFQが素晴らしいアレンジで唄っていてよくコピーしたものだ。

それが、元々はLeaving of Liverpoolという古いバラッドだと知ったのは後の事だ。

どうやらボブ・ディランは1963年の1月に2週間ほどロンドンに旅した時に仕入れたらしい。

とても美しいメロディだったのでそこに彼なりの詩を宛てたのだろう。元々の詩にも比較的近いものがあるが、リバプールを去ってアメリカ大陸に向かうストーリーに対してディランのものはいわゆるホーボーソング仕立てになっている。

バラッドでは「私はあなたの元を去るのではなく、必ず戻って来る。そしたら一緒になろう」と唄うが、ディランは「あなたのことはずっと想っているけど、いつ帰るかは分からない」と放浪者の心の内を唄っている。

本格的に危険な暑い夏

梅雨も明けていよいよ暑くなってきた。天気はすこぶるいい。

近所に電光掲示板があって、気温が表示されるが、35℃を越えると赤いランプが点滅して表示が消えてしまう。そして数日、音沙汰なしになる。多分一時的に壊れるのだろう。

そんな日がやってくるのもすぐそこだ。今日は30.5℃という数字が見える。

そんな、普段だったらみんな喜んで海に行ったりプールに入ったりの世の中だが、そういうわけにもいかない。

ところが、少し近所に買い物に出ると商店街には人が溢れている。

そのアーケードのひとつ横の道にはいくつかの商店と食事処、そして居酒屋などが並んでいる。

そこでは、どこからか上の階でだれかがカラオケを歌っている声が響いてくる。いわゆる昼カラオケの店だ。

向かいの居酒屋では顔を真っ赤にしたおじさんやお姉さんが煙草を吸いながら大声で飲んだり食べたりしている。

僕は足早にできるだけ息を止めてそこを通り過ぎる。

別な道の選択肢もあるが、そこにはいつも昼寝している猫がいるのでそれを見るために足早にそこを歩く。

そうして見る光景はなんとも不思議で、こう言う人達は世の中に一杯いて、いくら私たちのお店は感染対策をきっちりやっています、といっても、そこに来るこういう人達の問題でもある、というのが良く分かる。

他のラフな店に行った後かもしれないし。

それに夜の営業時間を短縮しても9:55まで浴びるほど飲むのは構わないようだし。

こんな状況を政府の人(人というより動物?)は観たことが無いんだろうなぁ。

あの虹のマーク(ゲイの象徴ではなく)も誰でもダウンロードできそうだし、ひとつ手に入れてみるか、なんて思ってしまう。

それかGibsonのロゴよろしく自分で描いてみようかな。

お店の問題もさることながらGoToやお盆の里帰りのことなども今盛んに討論されているが、それも庶民の間で、とういことだけだ。

それぞれが常識を持って…などと常識もない大臣に言われても理解に苦しむ。

沖縄を見放している態度も気に喰わないし、彼らからは常識も良識も感じ取ることが出来ない。

今、国会を開いても議題がない、などと言った議員もいるくらいの政党ではこれはコロナよりも日本が先に終息してしまう。

また、この暑さの中、オリンピックが無くて良かったと思うが、まだ来年やるつもりでいることを忘れていた。

金が絡むと人の命なんて何とも思わない政府の姿勢が透けて見える。

今頃涼しいところで「あー政治家になっていて良かったなぁ。下々の者は気の毒になぁ。まぁ、せいぜいほざいていればいい」

くらいの事を言っているに違いない。

ま、今日もとてつもなく暑くていい天気だ。スポーツには持って来い…だそうだ。

だが、棄権しないと危険だ。

2020年8月最初の日

先日、一体どうなっているんだろう、みたいなことを考えていたら、やはり東京医師会の方が会見を開いていて「コロナに夏休みはない。国会を開くべきだ」と言っていた。

かなり激怒していたように見えたが、彼らはもっともっと声をあげてもいいと僕は思う。

政治に口を出さないほうがいい、というようなことを言っていた医療関係者がいたが、東京都民であり、日本国民であり、人間であり、その上に医師である彼が政治の納得できないところに意見を言ってもおかしくはないはずだ。

もし、彼らがストライキを起こしたら「もう患者は診ません。陽性者は全員国会の敷地に集まってください」などという話になったら面白いな、と勝手な想像をしてしまう。

結局、政治家は他人事で「隠れていれば自分たちには感染しないし、文句を言われる場を失くしてしまえば、国民は感染が怖いし、忙しいし、それどころではなくて、そのうち選挙で政権が交代して、つぎの政権のせいにしておけばどうせみんな忘れるだろう」そう考えているとしか思えない。それか知らんふりしてそのまま続けたいのか。

今日こそはなにか明るい話題か、なにも考えなくていい話題にしようかと思いつつ、なにも音沙汰の無い政府の他人事に黙っていられなくなってしまう。

日本の政治家の程度もここまで落ちたのかと思うと情けないやらバカバカしいやら…。

なにが「国民の命と財産を守る」なんだろう。「政治家の命と財産を守るために国民には犠牲になってもらう」が本心だろう。

ところで、今朝「ぬれせんべい」が話題に登った。急に変わって申し訳ないが、僕はどうもあれに納得がいかない。せんべいは硬いものだろう。

と云うと、希花さんが「年寄りでせんべいが食べたいけど、硬過ぎる人にはいい。それによく味がしみ込んでいて悪くない」と言っていた。

なるほど。でもどうも日が経って湿気たせんべいのような感触だ。といえどもそれが要因で一度くらいしか食べたことが無いのか、まだ食べたことがないのか…すらも分からない。

むかし、歯の悪い省ちゃんがこんな風に嘆いていた「じゅんじ、聞いてくれるか。おやじ、俺の前で美味そうにせんべいをバリバリ喰うとんねん。俺がそんなもん食えないの知っているのに。あ~情けない。食べたいなぁ」

可愛そうなせんべいの想い出だ。

ところでせんべい汁というのも良く分からない。大体「南部せんべい」というものの美味しさが分からない。これは好みの問題なので、ただ僕が好きではないだけだ。

その美味しさが分かる人から見れば「可哀そうな奴」ということになる。

これもむかしの話だが、息子が言っていた「ベジタリアンの人は人生においてかなり損をしている。こんなにも美味しいものが世の中にあるのにそれを食べようとしない。もっと幅広く大きな目と心を持たなければ絶対損をする」

確かに一理あるかもしれない。

話は戻って、逆に硬くなったロールケーキやショートケーキなんて食べたくない。

それは古くなっただけのはなしか。

とに角、ぬれせんべいから、こうであってほしくない、或いは別にこうでなくてもいいんじゃないかという食べ物、というものを考えてみた。

別に生でなくてもいいキャラメル。やたらとファンシーなかりんとう。高すぎるハンバーガー。創作ラーメン。なんでも猫を題材にすれば少々高くても売れると思うケーキやクッキー。

多分、高級志向というものも好きでないのかな。

かくなる僕は一般的庶民である。

政府から見れば、税金を払わせてコロナ戦線に送り込む一兵卒である。

2020年7月も終わります。

もうかれこれ半年、ほとんど全てが止まっているように感じる。それでも働きに出なくてはいけない人達がいっぱいいるはずだ。

考えたら止まっていられるのは自民党をはじめとした議員、政治家達だけだろう。

世の中の様子を見ようとしないのか、次から次へと編み出される愚策。

間違いを認めず、繰り返される愚行。

という事は一応止まってはいないのか…。ならばもう少しましなことが出来ないだろうか?

しかし、言うことはほとんどここ4ヶ月くらい同じ。

あちらこちらで災害が起きているのに、また利権がらみのマスク配布など、一体、頭の中身はどうなっているんだろうか。

各放送局では災害募金を呼び掛けているが、政治家が出し惜しみしている中で、僕等カツカツで生活している者にはなかなか厳しい。

募金と云えば、最近よく見かけるのが「ガーナの恵まれない子供たちに小学校を…」と呼び掛けている、見たところガーナの人達。

そのすぐ横でNPO法人犬猫プロジェクトとして「帰るところを失ったワンちゃん、ネコちゃんを…」と呼び掛けている日本の人達。

こんなところでも、日本の人達なら信用できるかもしれないけど、ガーナの方は本当にそのお金、募金にまわっているのかな?と疑ってしまう。

良くないことだし、どっちみちお金はこちらが欲しいくらいなので、入れることは無いので文句を言う立場ではない。

でも、国会議事堂の前でやってほしい、なんて申し訳ないことを思ってしまう。

少なくとも僕らはもうコロナで無理。災害で多くの人は無理。相変わらず潤っているのは政治家だけだろう。それと彼らにひっついている企業。

日々こんなことを思いながら今日も「ガーナの…」「ワンちゃん猫ちゃんを…」と聞こえてくる。

僕はその前を足早に通り過ぎてしまう。なんと無情な人間なんだろう…。

7月とは全然関係ない話題でしたが、これから夏本番。募金で街角に立つ人達も気を付けないと熱中症との戦いもある。もしかしたらガーナの人達は慣れているかもしれないけど、なんといってもコロナの問題もある。

そしてこれは今年1年収まることは無いだろう。いや、もっと先まで…かな。

お金は入れないけど、彼らの健康を願っている…なんて都合のいいことを思っている2020年7月でした。

ライブ盤のお知らせ

今年2月8日に東京で行われた、僕の70歳記念のライブ盤が出来上がります。

発売は9月1日。それまで日本は存在しているかな…?

とに角、今回は限定もので数はかなり少ないです。

楽しい会話も収録されているし、スタジオ録音並みのサウンドクオリティです。

僕は前回のin New Shoesでも収録した「青春の光と影」をこのアルバムの最後に持ってきましたが、少しだけライブとは違います。

それは、このライブを最後にこの世を去った旧友、金海たかひろに思いをよせて、あとからマンドリンを加えたことです。

彼の歌声も聴くことが出来ます。

そして、進ちゃんのドブロとボーカル、希花さんのフィドル、アイリッシュハープ、コンサーティナも生き生きとした音で楽しんでいただけると思います。

いつもは10stringsからの発売ですが、今回はTry Recordsからの発売になります。

詳しくはこちらをご覧ください。

http://soundtam.jp/junjishirotacd.html

2020年、夏

音楽会というものは、今年は出来ないのかな、と思い始めてきました。

中国から始まったこのコロナウイルス。

もう40年も前から「この地球を滅ぼすことが出来るのは中国だ!」という話が盛り上がっていました。でも、その時の話はこうです。

中国人全員が手をつないで、えいっ!とジャンプしたら地球の軸が歪むだろう。そうなったらもう地球は終わりだ。これは一種の笑い話です。

なにせ地球上の4分の1から5分の1は中国人、ということだし。ま、インドも多いけど。どちらの国もどうやって数えているんだろう…?

さて、全く世界がどうなっているのかの見当も付かない人達が考え出したキャンペーンがとうとうそのままスタートしてしまった。

2020年のこの政党が犯した間違いは後世にまで語り継がれるだろう。いや、そうでなければいけないはずだ。

だいたいもう5年も6年も前から彼らの(とりまきの浅はかさもあるので敢えて彼の、とは言わないことにしておく)悪行にはうんざりしてきたが、今やコロナの陰に隠れて彼らにとっては好都合の事柄が山ほどありそうだ。

全く他人事としか思っていない財務大臣は、言動からみてもとても賢いとは言い難い。

本当の意味での人間としての頭の良さ、賢さとはどういうものなのかを誰かが教えてあげる必要があったのだろう。時すでに遅し!だが。

気の毒なのは医療に従事している人たちだ。

彼等の多くは文句など言っている暇もないくらいに毎日をギリギリのところで過ごしているのだろうが、一体誰が逼迫していない、などと寝言を言っているのだろうか。

もし、医療関系の人達が仕事を放棄したらどうなるのだろう。政治家はいとも簡単に、国会を閉鎖したり、はい、解散!などと仕事を放棄することができるかもしれないが。

医療に携わる人達からは使命感と志を感じることができるが、政治家からはそれが全く感じられないと思うのは僕だけだろうか?

給料とボーナスさえもらったら後は何も考えなくていいのだろうか。

さぁ、遊びに行きましょう。旅行しましょう。私たちが観光業界を助けます。その後はGo Toイートです。どうせ税金だろうが。

文章とは怖いものです。ずっと残るので…でもこれは誹謗でも中傷でもなく、この状況下にあって、もう何ヶ月も間違いばかり犯している政権に対する僕の考えです。

決して陰で言うつもりもないし、また音楽会という場を借りて言うつもりもありません。

勿論、ほとんどの人達にとって初めての事なのでバタバタしたり、後手後手になったりは仕方ないことですが、その中でも一生懸命「国民の命と財産を守っている姿」が見たいのです。

この期に及んで「まだ大丈夫」という嘘をつくのは、今までに多くの嘘をついてきた政権にとっては簡単なことだろうけど、もうそろそろ正直に生きてもいいのではないでしょうか。

Irish Musicその164

Kitchen Girl        (New England / West Virginia)

元々はDavid Brombergのギター演奏で覚えた曲。1972年にリリースされたアルバムの中に入っていたもので、省ちゃんと二人でコピーしてよく遊んだものだ。

66年頃採譜されたという話だが、そんなに古い曲ではなさそうだ。

非常にシンプルで覚えやすい、なおかつノリのいい曲でもある。

出処がNew Englandと云う人もいればWest Virginiaと云う人もいる。もともとフィドルチューンなのでオールドタイム・フィドルチューンと言っても大丈夫なのかな。

バンジョーはマウンテンマイナーで忠実にメロディを作れる。このひとつ前に登場したAll Youngと組み合わせてもいいかな?どちらもAmで演奏する人が圧倒的に多いかもしれないが、Gmも捨てたものではない。

Irish Musicその163

All Young     (American tune)

これは出処について確証はないが、アメリカン・オールドタイム・チューンだと云えるだろう。比較的覚えやすく綺麗にメロディック奏法を作れるので僕もクロウハンマーバンジョー教室で教材にさせてもらった曲だ。初めてこの曲を聴いたのは誰の演奏かもう覚えていないが、6分ほどの長さだった。AパートとBパートだが、Bパートの繰り返しは無く、非常にシンプルだ。しかしこれを6分もやっていられるのがさすが白人だ。日本人だったらしらけてきてしまう。なので、この後で何かくっつけたほうが良さそうだ。しかし、オールドタイムではその方式はなかなか取ることは少ない。また、キーはGmなのだが、伴奏はGmajを弾く。これがなんとも気持ちがいい。いわゆるモーダルサウンドの最たる感覚だ。

Go To 何とか

とうとうまた国民が最前線に突撃していく構図になってきた。

Go To と云うとどことなくHellという言葉が続く方がしっくりくる。

事実Go To!というとアメリカンスラングではそれだけでもう後はHellなのだ。

なので、国民は地獄へ行け!と言われている気がしてならない。

私たちも安全対策に関して出来ることはなんでもします。なので、皆さんも気を付けながらでも旅行を楽しんで下さい、と云うのではない。

私たちは頂いた給料とボーナスでゆっくりしています。国会も閉めたし、もうやることはありません。皆さんどうかキャンペーンを使って出かけて下さい。もしかしたら地獄を見るかもしれませんがそれも運です。

Go Toとは考えたもんだ。いや、考えが浅いのか。

こんなことは本当は言いたくないのだが…いや言いたくもなる。どうかお許しください。中には楽しみにしている方もいるかもしれないので…。

アイデンティティ

前回の「鎖国」という話が僕なりに面白かったので今一度、日本人としてのアイデンティティというものを考えてしまった。

確かにアメリカにいた時、それはとても大切な事だと感じていた。

幸い幼いころから音楽に親しんでいたので自分自身を表現する手立ては持ち合わせていたと云えるだろう。

ただ、それが日本人としての、となると…。

1949年生まれ。日本が復興し始めようとしていた頃だろうか。戦争が終わったのは1945年。そうしてみるとたった4年で復興のきざしが見えていたのだろうか。

少なくとも希望の光は新たに見つけていたんだろう。生まれたばかりの事は当たり前だが覚えていない。

ラッキーにも朝鮮戦争も覚えていない。

記憶が生まれてくるのは多分1953年くらいからだろうか。ピアノを弾き始めた。その音楽との出会いが自分自身を表現するチャンスとなったのだろう。

しかし、文化はずっと西洋に近いまま生活していたと思う。

テレビもなく、ラジオを聴きながら家族そろって近くの市場で買ったコロッケを食べる。なんとも昭和の風景だが、西洋からのものは日に日に増えていったと感じる。

少し成長すると西部劇に没頭し、音楽も、勿論クラシックをやってきたので、どうしても西洋音楽に傾倒していった。

だが、僕だけではなく、ほとんどのこの年代の子供たちは日本人としてのアイデンティティを持つことなく育ってきたように感じる。

漠然と日本人としてのアイデンティティと言っているが、それが何なのかも良く分からない。ただ単に日本の歴史を良く知っているとか、それぞれの土地の伝統芸能や特産物などに明るいとか、そういう事だろうか。

アイルランドでよく質問される。「日本の人口は?」「東京の人口は?」彼らにとっては羊より人間の数の方が多いなんて信じられないのかな。

「東京のセンターはどこだ?」なんて訊いてくる奴もいる。非常に難しい。

「日本人が最も得意としていることはなんだ?」「アイルランドは酒と音楽と文学の国だ!」

さぁ、日本人のこれだ!というのはなんだろう。お、も、て、な、し、ではないだろう。

とんでもないうそつきの総理大臣がいる、ということも自慢にはならないし。

カップヌードルの値段も知らない奴が財務大臣なんて、猫に小判、馬の耳に念仏?

あ、またこんなことに話がそれてしまう。

まぁ、日本人の良さ、日本の良さを長きに渡って無視してきたのは政治のせいも多々あると思う。

諸外国を見てもやはり日本人のアイデンティティに関する意識の低さは際立っていると感じる。

ひとつにはほとんどのケースで、自分がどこから来たのかを考えず、また伝えずに済むからだろう。

海外では、特にアメリカやヨーロッパでは、あ、アイルランド系、あ、イタリア系、ロシア系かな、なんて思うことが良くある。

僕たちはせいぜい、お、なになに県に多い苗字、という感覚しか無い。それか、ひとくくりに日本人だ。

平和ボケ、という言葉が一時もてはやされたが、平和であることに越したことはない。

ただ、やはり多くのベトナム難民や、不法移民との付き合いから、平和ボケという言葉も分からないでもないな、と感じるようになったし、少なからずそのことを批判されることもあった。

政治家のアホさ加減も批判の対象になったし…問題はそれが日本国民の代表だという事、そして、僕らも含めて西洋の文化にしか目がいかなかったことも考えさせられる事柄であった。

時々聞かれる言葉に「ゆとり教育の弊害」というのがある。これによって考え方が受動的になった、ということが大きな問題になっているという。

「三つの箱」だ。また「This Island」でもある。

やはり敗戦国として見えないところでずっと支配されてきた国。いろんな恩恵で急激に発展してきた国。それらの弊害がこの国自体のアイデンティティを失わせているのかもしれない。

やっぱり鎖国かな。

Irish Musicその162

Lusignac       (Bourree)

どうやらChris Woodの作品らしいがはっきりは分からない。Chris Wood&Andy Cuttingの素晴らしいデュオ演奏から学んだ曲だ。

タイトルはフランスの土地名、リュジニャックという日本語表記を見つけた。

観光ガイドもあるし、いかにもフランスの田舎街というか村と云うか、その昔連合軍やドイツ軍が歩き回ったような感じの処だ。

ブリタニ―では本当にヨーロッパ戦線を彷彿とさせられたが、もし行ったら同じような感覚になるかもしれない。緑がとても深そうでもある。

行ったことは無くても一応沢山のことを調べておけば、曲を演奏するときでも自分なりに景色が浮かんでくるものだ。

そしてもしいつか行くことがあったら「あーこれだ!」と思えるだろう。

久々の友人との会話

久しぶりにアイルランドに住む日本人の友人と電話で話をした。つい1ヶ月ほど前にも別な日本人の友人と話をした時、彼が「日本の政治行政のダメっぷりを今回のコロナでたっぷり見せつけられた国民は、もう少し政治に興味を持って投票率が上がるきっかけになればいいね」と言っていたがすでに4~5年前から信用に値するようなことは何も残してこなかったのでもう遅すぎるような気もしていた。

彼は日本から離れているし、いろんなことが見えるのだろうが、あまりにもしょうもないちっぽけな嘘、国民に対する態度の悪さとかは上手く隠ぺいされているのかもしれない。

国民も60年代のようにはならないし。

何もしていないわけではないだろう。何かしているんだろうけど、あまりに国民の本当の気持ちが理解できないせいか、やること、言う事のほとんどがズレている、としか思いようがない。

ところで、今回の友人は「鎖国」ということを口にした。

それは、勿論コロナからの話だが、それだけではなく、日本人としてのアイデンティティ、そして日本固有の文化に対するリスペクト、そういったものを見直すいいチャンスになるんではないか、ということ。うん、これは大事なことだ。

言っておくが例えばの話だ。でも例えにしてもなかなか面白かった。

海外に暮らしていると、日本と云う国のいろんな面がみえてくることは確かだ。

こちらも暫くは外国との交流は避けるべきだ、と思っていたので、中国など「我が国の政策に干渉するな」と言っているくらいなので、いっそのこともう中国の事は忘れて、メイドイン・ジャパンに徹し、国交を閉じてしまえば…勿論イギリスもアメリカも全ての国が結託して、などと思っていたところだ。現実的ではないが。

様々なことがチグハグになっているような、いや、現実を見たくないのか、やはりあまりに国民感情とかけ離れた暮らしをしているせいか、どうも政府の言うことははっきりしない。

「もう打つ手はないし、そろそろみんな感染してもいいだろう。私たちは守られているし、給料もボーナスももらったし、じっとしていれば私たちは大丈夫。国民に盾になってもらって時間を稼ごう。その間にいい薬でも出来たら、或いはみんな抗体を持つようになれば、来年のオリンピックはできるようになるかもしれない」

そんな心のうちが読み取れるようだが、そうでもなければ何の根拠も示さないまま、大きなイベント、GoToキャンペーン、なんていう発想にはならないだろう。

そんなことより、何とか数百年も続いてきた老舗や伝統職人らが支えてきたお店などを政府が守ってあげることは出来ないのだろうか。

誰か「私のボーナスを水害対策に使ってください。医療機関のために使ってください。日本の伝統復興のために使ってください」などと云う政治家はいないかなぁ。

Irish Musicその161

Eochaid     (Slow Reel)

なんとも読めないタイトルだ。調べたところ、日本語表記をするのは難しいようだ。

エチャイド、というものもあるし、エオヒド、というものもある、オーチやイオチェイドと聞こえるものもある。スコットランド人が言うとヨーヘッチとも聞こえる。

いずれにせよケルト神話に登場する人名と解釈してよさそうだ。

書いたのはBeogaという人気バンドのアコーディオン奏者Sean Og Graham

美しいメロディだが、早いテンポで演奏するとどことなくドーナル・ラニーの

Cavan Pothles に似てきてしまうので少しゆっくりめに演奏してみることにした。

彼等も情感の溢れた良いテンポで演奏している。

健康診断

この年になるとやっぱり健康診断は受けておいた方がいいと思うし、せっかく無料で受けられるものがあるのだったら利用しておいた方が良いかな。

でも、そんなもの受けるから病気が発覚して気持ちが暗くなるって考える人もいるみたいだ。しかし、知らずに進行していって…となるとそれによって長患いするよりもいいかもしれない。いや、いいだろう。

毎年、区から来る案内に従ってぎりぎりの3月くらいに行っていたが、今年は感染症のせいで2月、3月に病院を訪れることをためらってしまった。

なので、すっ飛ばしてしまったのだ。近々行こうと思っているが、万全の態勢で気を引き締めて行ってみよう。

さて、子供の頃学校で健康診断が定期的にあったと思うが、嫌だったのが検便。

今日は検便について書こうと思ったのだが、タイトルがそれじゃぁなぁ、という思いもあり、お茶を濁して書き始めてみた。

僕等の頃、トイレは水洗ではなかった。ここから先は希花さんとの会話方式。

「当時ほとんどの家庭はポッチャン式、和式トイレだった」

「え?じゃぁどうやって検便を取ったの?」

「マッチ箱を用意して」「え?何それ」「マッチ箱と新聞紙と割りばし。3種の神器だ」

「?」「まず新聞紙を敷いて、その上に落とし、それを割りばしでつまんでマッチ箱に入れる。その時横についたりしないように注意して、それをビニール袋かなんかに入れて学校にもっていく」

「名前はどこに書くの?」「よく覚えていないけどマッチ箱にあらかじめ書いたのかな」

「どこの家庭にもマッチ箱があること自体が不思議」

「しばらくして中学校に入ったら今度はプラスティック容器みたいのに変わったけど、蓋ができるようになっていて、でも、その蓋が時々塩梅の悪いやつがあっていくら閉めても、パカッ!と空いてしまうやつがある。そんな時はたぶんセロテープで止めたかも」

「考えられない!」

と、まぁ、時代の変化と云うものには、前にも書いたけど扁桃腺のことで希花さんに「そんなバカな!」といわれたように記憶違いというものも伴うのだろう。

が、しかし検便に関しては間違いなく3種の神器をよく覚えている。そして学校に持っていくのが恥ずかしかったのはよく覚えている。

僕は子供心に何故こんなことするんだろう、と毎回思っていたものだ。

女の子なんて嫌だっただろうな。でも意外とそういう時は女の子の方が度胸が据わっているのかもしれない。

料理

よく僕は食にあまり興味が無い、と言うが、食事を作るということにはとても興味がある。

そしてここ4ヶ月ほどは全て自分で作ってきたので、家庭の主婦って本当に大変だろうなと思う。

でも、今更そう思ったわけではない。以前から料理は好きだったし、その職種にも付いていたので僕自身はあまり苦にはならないが、その大変さは充分分かっていた。

レストランと云うのは、ほぼ毎日お客さんの為に同じレシピのものを提供するが、家庭では子供も居れば年寄りの居る場合もあるだろうし、好みが違ったり「またこれ?」なんて言われることもあるかもしれない。

基本的に僕の場合、アンドリューと似ていて、ハムサンドで充分。そしてキアラン君みたいになんかしながら立って食べるのもなんとも思わない。

コンサート当日も「お昼は何食べようか?時間は?」「本番前に何を食べるか?」なんて考えたこともない。

なければ食べなければいいんだし、それくらいで死にはしないだろう。

黒柳徹子さんのお父さんがそうだったらしい。「あなた、今晩のお米が無いんですけど…」と奥さんが云うと、バイオリンを弾く手を止めて「あ~、じゃぁ食べなければいいんじゃない?」と言ってまたバイオリンを弾き始めた、という話。すごく良く分かる。

さて、そんな僕でも崎陽軒の前を通りかかって「お、焼売買おうかな」と思うこともあるが、ほとんどの場合、そのままマーケットに寄って必要な物を買って自分で作る。

急に天ぷらそばが食べたくなったら、天ぷらも自分で作る。もちろんそばのつゆも。

僕にとってはカツも天ぷらも寿司も餃子も大した手間ではない。

料理で一番大事なのは衛生管理だろう。なので、餃子もハンバーグも決して手で練らない。

最終的に形を作る時はやむをえないが…。

今は異常と思えるくらいに手を洗っているが、それはレストランに居た時からの常識なので今ほどではないが衛生にはかなり気を配ってきた。

レストランの仕事で最もおおきなパーセンテージを占めるのは、仕込みと後片付けだ。

仕込みでいかに忙しさを緩和してお客さんに料理を楽しんでもらうか、そして後片付けでいかに衛生管理を徹底するか、この二つが最も重要な仕事だ。

作ることは全体の2割ほどの神経と仕事量だ、と、これはあくまで僕の感じるところ。

そう言えば、去年くらいまでは必ず冬とか夏も近くになると風邪をひいていたような記憶がある。今年は特に風邪のような症状を出してはやばい、と思い気を付けていたが、希花さんがポツンと言った。

「しょっちゅう手を洗ってるからじゃない?」ほほー!そういうもんか。勿論それだけではないが、確かに必要もない場面でも石鹸でごしごし手を洗っていることがある。

なので、やっぱり手は良く洗おう。料理には特に大切な事柄だ。

ちょっと話がそれましたね。

Irish Musicその160

Hills of Kaitoke     (Slow Reel)

変なタイトルだが土地の名前や場所の名前はなかなか読めないものがある。これはニュー・ジーランドの地名らしい。Remutaka Range(これもなかなか読めない)という山々が連なるところ辺り。この土地を説明しているものを見る限りカタカナで書いたら「レムタカレンジのカイトーク(クとケの間)」のように聞こえるのであまり考えずにそのまま読んだら良さそうだ。先住民マオリ族の言葉だろうか。

この曲にはハカは合わないが、美しいエアーともいえる曲だ。書いたのはCatherine Fraiser スコティッシュ・フィドラーだ。

ただこの曲、あまりにも雰囲気がダンカン・チザムのFarley Bridgeに似ている。しかも同じEmajorというキーで書かれているので、アイディアとしては、キーを変えたほうが僕らにとっては良いかもしれない。

メロディはそこそこ違うが、これは普通の人が聴いたらどちらがどっち?と区別がつかないだろう、というくらいに雰囲気が似ている。ただ、いい曲だ。

7月になりました

とうとう2020年も7月が来てしまった。

前年のアイルランドの旅では「体さえ丈夫ならば、また2020年アイルランドの旅というものを書いているだろう」と締めくくっているが、ところがどっこいだ。

もしかしたら冬にでも行くかもしれないが、それも分からない。

なんだかまた中国で新型豚インフルエンザというものが出たらしい。人から人への感染についてこれから調べる、と言っているがちっとも信用できない。

もう流石に日本の政府もピリッとくるだろう。う~ン、どうかな。

どうしてもテレビを観る時間が多くなって様々なニュースが目に付く。

巨人のコーチが人命救助、と云うニュースは正に2015年の僕らの経験したものとそっくりだった。

でもすぐにAEDが手に入り、救急車が来た、というのは大きく違う。

20分も待ってやってきたのが今までパブで飲んでいただろう、といいたくなるような救急隊員3人ほど。

コリャもうダメかも、と思ったのか手が震えてるし…いやぁ、ビデオ撮っておきたかったなぁ。今回のニュースではすぐに蘇生したらしいが僕らのケースでは90%諦めてくれ、と言われて、次の日に目を覚ました。

誰が最初に心臓マッサージをしたのか、と言われてこの人、と希花さんを指すと「子供じゃないか。良くやったなぁ。」と驚いていたっけ。

話変わって、どうも国会議員の給料とかボーナスとかが多すぎるような気がするが…。どう思います?

どうりでみんななかなかやめないわけだ。

またまた話変わって、6月の下旬ころから朝の番組に岡田晴恵教授が出なくなった。

段々派手になっていく姿が面白かったけど。なんて、話も一応ちゃんと聞いていました。

でもなんか「ごろにゃん」とした話し方だったなぁ。

一生分稼いだかな、なんて詮索したりして。

最近はナショナルジェオグラフィックのような自然界の動物のドキュメンタリー映画や、プラネット・アースのような宇宙の不思議みたいなものを見るのが好きになってきました。

前から好きだったのですが、それだけ今は時間がある、ということなのかな。

UFOものとか大好きでよく観ますが、一緒に心霊ものなんかやると夜怖くて寝れなくなるので、そういうものは、音楽が大きくなってくると目を背けてその部分は観ないことにしています。「その写真がこれだ!」と云ったらすぐ後ろを向く、という感じ。

7月、8月はそういう番組が多いから気を付けないと。

いやぁ、日本の夏だなぁ。四谷怪談、三ツ谷サイダー…。

日本の夏がやってきた

日本の夏がやってきたので蚊取り線香を出した。その香りを楽しみながら夜風に当たる。

う~ん、ちょっと風が生ぬるい感じがする。

きっともう少しすると生ぬるいどころじゃなくなるのだろう。

僕が子供の頃はこんなに暑くなかったのになぁ。

さて、ここ10年ほどはまともに「日本の夏真っ盛り」というものを経験していない。

一番暑いのは…多分本当ならオリンピックを開催するはずの7月半ばごろじゃないかな。

よくもまぁぬけぬけと「スポーツに最適な温暖な気候」なんていう嘘が云えたもんだと感心してしまう。

世界に向けての嘘があんなに堂々と言えるのだから、国民なんてちょろいもんだろう。

ところで僕らは7月1日から1か月だけアイルランドに行く予定を立てていたが、もちろん今回のことで断念。

クレジットを使って別な機会に行くことにしている。

なにはともあれ、今年は1か月だけと最初から決めていて、それほどにここを重要なイベントとは考えていなかった。

何故か、元からそういう考えでいたので「あ、それじゃぁまた今度」みたいに気軽に考えることが出来た。

しかし、ここで問題なのがこの温暖と言われる気候からは暫らく遠ざかっている、ということだ。

下手するとアイルランドとの温度差は30℃くらいあるような時間帯もある。平均してみても15℃に比べて35℃なんて言うのが連日となれば厳しい。

おまけにマスク。それに今年、日本の電機は大丈夫かな?水道も。

あんなに水害があっても水が足りなくなるなんて、逮捕された議員にまで湯水のようなボーナスが入っているのに、本当に大切なお医者さん達は給料が減ったりしている…。

この例えはちょっと無理があるか。でも純粋に不思議だな。

夏の話に戻りますが、蚊取り線香とナイターと麦茶、というのが日本の夏の典型かな。

食べるものではソーメンとかき氷かな。

僕にとってはもうひとつ欠かせないものがあります。多分知っている人も多いと思うけど「麦こがし」或いは「はったいこ」僕らは「おこうせん」と呼んでいました。

「おこうせん」という呼び名はもしかしたら静岡のいい方かもしれない。ソースも静岡では「おソース」と云うし。

先日スーパーで女性の店員さんが「おソースはこちらにあります」とお客さんに説明していたので「あなた静岡の人?」って訊いたら「そうですけど、なぜ分かりました?」とびっくりされたのです。

飛躍するけど昔サンフランシスコの空港カウンターで日本人のスタッフが対応してくれて、僕が何気なしに「だもんで」と言ったのです。「…なので」という静岡弁。ついつい出てしまったのですが、すかさず「あ、静岡ですか?あたしも静岡です」って言われてしまった。

だもんで話が弾みました。

えーっとなんの話だっけ。これも「だっけか」と云ったら間違いなく静岡人。

とに角、夏の想い出フードは「おこうせん」氷水で溶いて砂糖を入れて食べる。これが美味しいのです。

あまりゆるゆるにせず、かなりどろどろ状態で食べて麦茶を飲む。

これぞ日本の夏。今年はそれを満喫してみようかな。

小エビの想い出

小指ではない。想い出が続いたのでちょっとしゃれで書いてみようかな、と思ったのだが、

そういえば「小指の想い出」に関する想い出がある。

愛知県の長久手町で僕と省ちゃんと、何故か佐川満男と一緒に演奏した時の事。

彼が「小指の想い出」を歌ったのだ。勿論受け狙いのシャレだったが、これは僕らの世代には大受けだった。

彼、なかなか凄いエンターテナーだった。

いや、今回の小エビだが…。因みに僕はカクテルシュリンプというものはあまり好きではない。

ま、それはさておいて、一言にエビといってもいろいろな種類があるが、勿論、ほとんどの人が知っている車エビやブラックタイガー、芝エビなどの他にスキャンピーという云い方がある。

これは一つの種類のようだが、イタリア語の「スカンポ」の複数形で元々はヨーロッパアカザエビ、というものを指すらしい。

そのスキャンピー、僕はこの呼び名を知らなかった。アメリカではあまり聞いたことがない呼び名だ。

5~6年前、アイルランドのミルタウン・マルベイのパブでキアラン君と希花さんと僕とで食事をした時の事。

僕は早々にチャウダーか何かに決め、キアラン君は…忘れたけど肉だったかな。そして希花さんがじーっとメニューを見つめ、キアラン君に訊いた。

「スキャンピーって何?」メニューには「ディープフライ・スキャンピー&チップス」とあった。

キアラン君、自信ありげに「あ、それは魚の一種だ」といい、それじゃぁ、いつものフィッシュ&チップスじゃつまらないから、ちょっと違う魚にしてみようかな、と希花さんはそれを注文した。

待つこと15分ほど。それぞれの料理がテーブルに並び、やがてスキャンピーがやってきた。

一番驚いたのは誰だったろう。他ならぬキアラン君?。

希花さん、「これエビ。わたしエビ頼んでないけど」するとウエイターがすかさず「スキャンピ―です。マダム」

そんな時のキアラン君はとても面白い。何事もなかったかのように「そうだったな。そういえばエビの事だった」っていう顔をしている。

キアラン君との旅の面白さはここから始まったといっても過言ではない。

以後、何度となくそういう事が起こり、逆に素っ頓狂な答えを期待してわざとキアラン君に訊いてみたりするが、けっこうな確率で期待を裏切らない男だ。

ところでチップスというと、日本ではポテトチップスだが、イギリスやアイルランドでは日本で言うフライドポテトのこと。アメリカで言うフレンチフライのことだ。

イギリスやアイルランドでポテトチップスと云うのはクリスプスと呼ばれている。

そう思っていたらヨーロッパの他の土地ではチップスといったらポテトチップスが出てきた。同じEUなのに。

ここでもキアラン君の面白い説明があったような気がするけどもう忘れた。

ニューグラスの想い出

1971か72年の初めころだったか、東京駅でばったり出会った、アメリカからの里帰りの大塚あきらさんに紹介されたニューグラス・リバイバルが僕らにとってのニューグラスの入り口だったろう。

省ちゃんと二人で穴のあくほどにジャケット写真を見つめた。それほどに印象的だったと云える、見かけとしては完璧にロックのアルバムそのものだった。

そして「火の玉ロック」から始まるそれは強烈なインパクトを僕らに与えた。

それ以後、ブルーグラスは信じられないほどのスピードで変化を遂げていった。

もう多くの人が海外へ出かけていける時代だったので、そのへんを目の当りにした人も多いだろう。

僕等はニューグラス・リバイバル以降、順番としては逆になるのかもしれないが、ブルーグラス・アライアンスも良く聴いていた。

もっとブルーグラスに近いところではチャールズ・リバー・バレー・ボーイズのビートルカントリー。これはよく聴いたアルバムだ。

元々、ビートルズ世代の僕らには心地よいサウンドのブルーグラスと、いい感じにアレンジされた曲の数々がとても気に入っていた。

なんか、さすがにハーバードやMITの出身の人達で作られたセンスのいい計算された音創りという感じだった。

それから、カントリークッキングの…これはラス・バレンバーグのアルバムになるのかな、カウボーイ・カリプソとか。

今聴くとかなり荒々しいサウンドでミックスも「はいこれでよし、次。」みたいな作りだが、それがまたさりげなくてとてもいい。

他にもいろいろあっただろうが、このあたりになると時系列がさっぱりわからない。

ニューグラスというカテゴリーではないが、ビル・キース、カール・ジャクソンやブッチ・ロビンス、アラン・マンデ、ボビー・トンプソン等のバンジョーアルバム、グループとしては75年の来日で度胆を抜かれたデヴィッド・グリスマン・クインテット、その他ブーン・クリーク、セルダム・シーン…挙げてみればきりがない。

当時はLPレコードを沢山持っていることがステイタスになるようなところがあったので、日本盤、洋盤を問わず、手当たり次第に聴いたり買ったりしていた。

海外に出掛けてもあの大きなLPレコードを買って帰ってきた、なんて今だったら絶対にやりたくない。

70年代はブルーグラスの変革が大幅に進んでいたニューグラスの時代だったのだろう。

ブルーグラスの想い出

フォークソングに続いて想い出すのはやはりブルーグラスのアルバムの事だろう。

バンジョーを弾く者にとっては欠かせないものは何といってもスクラッグスのもの、フォギーマウンテン・ボーイズのものだ。

初めてブルーグラスなる音楽に遭遇したのもフォギーマウンテン・ブレイクダウンだったのでそれはラッキーだったか、アンラッキーだったか…。

回転数を間違えたのではないか?というのは今では通じない話だ。そしてなぜ、みんな鼻をつまんだような、しかも甲高い声で唄うんだろう。それにテンポもやたらめったら早いし…等々、興味津々だった。

そして大学に入り、京都産業大学ブルーリッジ・マウンテンボーイズに加入してからは、様々なアルバムを聴きまくった。もうアルバムタイトルなど書き切れないくらいに聴き漁った。

スタンレー・ブラザース、ドン・レノ&レッド・スマイリーのテネシーカットアップス、オズボーン・ブラザース。

勿論、ビル・モンローとブルーグラス・ボーイズ、渋いところではジョー・バルとニュー・イングランド・ブルーグラス・ボーイズやらストーニー・マウンテン・ボーイズ。そして徐々に欲も出てきて、ビル・キースやボビー・トンプソン、エディ・アドコックのカントリージェントルメン。そして、時代はどんどん進んでゆき、ニューグラスの波が押し寄せてきたのが1971年頃かな。

日本にやってきたのはそれくらいだったと思う。

その辺りはまた別な機会に書くとして、やっぱりストレートな土の匂いがするようなブルーグラスはどこまでも力強く僕の胸に突き刺さる。

そんな意味では今でも無性に聴きたくなるものはやはりスタンレー・ブラザースかな。

あまりCDとか購入して聴かなくなった今でも、ボックスセットなるものを持っているのはスタンレー・ブラザースだけ、なんて自分でも不思議に思えてくる。

しかし、その演奏からブルースを感じ、その歌声からヴァージニアでの彼らの暮らしが見えてくる。これはもう究極だ。

フォークソングの想い出

そろそろ音楽についても何か書いてみたほうがいいかな、と思うようになってきた。

そこで、ここしばらく久々に聴いて感動した作品や、懐かしかった作品のことでも書いておこうかな。もしかしたら共感を覚えていただける人もいるかもしれないし。

まず、フォークソング関連ではやっぱりブラザース・フォアのアルバムだろうか。

どれが…とはなかなか言いにくいが、ひょっとしたら曲で想い出していった方がいいかもしれない。

彼等の唄を初めて聴いたのはやっぱり「遥かなるアラモ」だろうなぁ。もしかすると、「グリーンフィールズ」かな。ま、共に1960年ということだ。

今調べてみると結構多くのアルバムを持っていたようだ。

「Song Book」「Roamin’」「BMOC」「In Person」「Song Book」「The Big Folk Hits」

「Sing Of Our Times」「More Big Folk Hits」その他シングル盤も、ひとつのアーティストとしては結構な数を持っていた。

毎日のようにジャケット写真を見て、これがマーティン・ギターか…とか、バンジョーは何故かヴェガらしきテナーバンジョーを持っているものがあって、ギブソンのいわゆるRB-250らしきものも写っていたりして、結構楽しんでいた。

当時はジャケットもLPだったので大きくてよく見えたので…というか眼も良かったのか。

次に沢山持っていたのがやっぱりキングストン・トリオ。

彼等の使っていたバンジョーはヴェガのロングネックだったので当時は僕もアリアのロングネックを買った。今見たらめちゃくちゃ長いネックだ。

ピアレスのものが比較的有名だったし、今でもなにかの間違いで見ることがあるが、アリアのものはあれからいちども見たことが無いし、調べても出てこない。

服装も一生懸命真似したもんだ。ラインが入っている白いソックスのゴムの部分がユルユルになっているのを発見して一生懸命ゴムを伸ばしてみたりした。それまではぴったりしていなければ気持ち悪かったのに…。

そういえば、ピーターポール&マリーのステージ写真でピーターの抱えているギターのブリッジピンが一つ、異常にとび出していたのを見てこりゃ大変、何とかしなけりゃ、と思ったり、ジャケット写真と云うのは僕等にとって凄く大事なものだった。

フォークソングで沢山のアルバムを集めて、毎日ジャケットとにらめっこしたのは、やっぱりブラザース・フォアとキングストン・トリオだっただろう。キングストンの創立メンバーだったボブ・シェインのコンサートをサンフランシスコで聴きに行った時、ニック・レイノルズがゲストで出てきた。それなりに感動したことを覚えている。

でも、もうみんなこの世に居ない。

また思い出したら他の分野のものも書いてみようかな。

そろそろ自分の記憶をキープする為にも。

食事…会食?

緊急事態宣言というものが解けて、街が賑やかになってきたようだ。と云いながら、夜などはほとんど出かけないので良く知らないし、昼は昼でまだ宣言が出ている真っ最中でも商店街では多くの人が行き来していた。

ただ、やはり職場に出掛ける人の少なさと、学生さんの姿が全く見えなかったので、それなりに静かだったことは確かだ。

僕は4ヶ月近く外食をしていなかった。普段からたまにしかしていなかったし、前にもなにかで書いたかもしれないが、食事というものにあまり興味が無い。

もし人間が食べなくても生きていけたら楽だろうなぁ、という考えを持っているくらいだ。

トイレもいらないし、紙もいらない。水も流さなくていいし、用意をしたり、食べたり、そのための時間も取られなくていいし…等々。

だが、もしそうだったら、親せきや友人が集まったら一体何をするんだろうか?

やはり人間にとって「食」というものは必要であり、楽しみなものだ。

なので、生命体として人間と云うものがそういう生き物だったら、ということで、しょうもない考えなのだ。

それでも食事は良く知った人と少人数なら、どこかで一緒に食べるのはいいが、あまり良く知らない人達と、例えばパーティとか誰かのコンサートの打ち上げとか、そういう場面にはあまり行きたいとは思わない。

そこでテーマとなっている「会食」ということだが、こんな言葉もあまりよく知らなかった言葉だ。もしかしたら今回のコロナウイルス関連でよく言われていて、知ったかもしれないくらいのものだ。

そこで、本題。

最近ニュースで、政治家が会食をした、といって高そうな(勿論庶民には程遠い感覚の処だろう)料亭に、続々と嬉しそうに入っていく映像が映されていた。いや、神妙なふりはしていたし、確かに政策に関しての話し合いもあっただろう。

しかし、なぜ料亭なんだろう。自分たちにはつり合いがとれている、という優越感だろうか。

下々の者と言ったくらいのアホも居るくらいなので…いや、僕の言いたいのはそこではなくて、ニュースで言われていた言葉「会食」というのは緊急事態宣言が解けた、と云えども、国民はまだまだ気を付けなくてはいけない状況に属する言葉であり、行為ではないかと思うのだ。

もし彼らが「今回は頑張っているお店のお弁当をテイクアウトしていただいて、官邸で政策について語ろう」と言ったら僕は、それでこそ国民の事を考えてくれる政治だ、と思うが。

多くの人達が店をたたみ、仕事を追われ、夢や希望を失い、それでも一生懸命に前を向いて頑張っている時に、昔から決まっているように料亭に出掛けて行って税金で美味いもの食べている。なんという矛盾だろうか。決してひがんでいるわけではない。何故なら食にはあまり興味が無いから。特に会食なるものには。

駅前

選挙運動が始まった。僕は駅近くに住んでいるのでこの時期はどこかへ逃げ出したくなる。

駅は、当たり前のことながら人の出入りが多いのでここぞとばかり、大声で、このコロナウイルスが蔓延している中、唾を飛ばしている。

その声たるや、窓を閉め切っていても、部屋の中のテレビの音が聞きにくい。

中には窓が振動するくらいの大声で張り叫ぶ奴も居る。女の人の声はプラス甲高い、ときている。

こちらにも聞く気が無いので何を言っているのかさっぱり分からない。時々ハウリングを起こす奴とか、これは許可を得ているんだろうからこちらは文句を言えないが、駅付近は行きかう人だけだと思っているのだろうか。住んでいる人がいるかもしれない、という想像力があれば、そんなに大きな声を出すことはしないだろう。

300mほど離れた閉め切った部屋で聞こえるんだからそこそこ道行く人には聞こえているだろう。

ということは、恐らく誰も聞いていないだろう、ということを前提に喋っているんだろうか…いや、そんなことはないだろう。

随分前になるが、ある時、駅ビルから出たら頭が割れそうな大音量が大地を揺るがしていた。近くにいたはっぴを着た運動員に「ちょっとでかくない?」と云ったら「はい、わたしもそう思いますがもうすぐ終わりますんで…」という答えが返ってきた。

そういう問題ではないだろう、と思いながらそれ以上のトラブルは避けたが、本人は耳栓でもしていたんだろうか。

女性だったが、誰だったんだろう。音の壁みたいのが出来ていて名前すらわからなかった…って大げさかもしれないが、それほどの大音量だった。

早くその場を立ち去らないと身体に悪いと思ったのだ。

昔、シカゴというブラスロックの連中は耳栓をしてステージに立っている、という都市伝説まがいの話があったが…本当かもしれないし、良く分からない。

とに角、当選を見据えた都合のいいことは言っている。当選したら万歳をして、後はあまり目立たない程度に政策に関わっていれば安泰、というところだろう。

アイルランドの友人が、今回のコロナ騒ぎで日本政府のダメ振りが分かって国民、特に若い人達がもっと政治に関心を示すようになれば…と言っていたが、そのレベルをはるかに超えるような、嘘、隠ぺい、不正がまかり通っているので、そこのところもあまり期待は出来そうにない。

ま、しばらくは我慢するしかないのだが、それと今年はやっぱりこういう状況なのでいつもよりは静かなような気もする。

これを機に新たな選挙運動様式みたいな、Silent Speechなんていいんじゃない?小池さん好きそう。

新 衛生観念

2020年に入って、この衛生観念ということを毎日のように考えさせられることになった。もう5月の最初の頃、すでに思うことを書いてみたが、やっぱり日本人の衛生観念と云うのは素晴らしいものがあるような気がしてならない。

最近、パン屋さんなどは全ての物をプラスティックバッグで包んでいる。それはたいへんな作業だと思うが、限りなく安心だ。

しかし、日本人のプラスティック使用量は世界的にも問題になっている。確かにちょっとやり過ぎくらいにラップされたものもあるし、僕らは残り物にはラップをして冷蔵庫にしまう。

そういう行為が行き過ぎだ、という欧米人は一杯いる。それも分かる。環境汚染につながっていることも分かる、が一方でその衛生観念が比較的感染を押さえている気もする。

昔、チャイナタウンの魚市場に買い物に行った時の事。

水槽で泳ぐナマズかなんかをおばちゃんが指さしながら中の店員に大声で何か言っている。普通に「これちょうだい」だろうが、とてもそんな風には聞こえない。

怒鳴っているようだし、店員も怒鳴り返しているようだ。やがて、一匹の魚を網ですくい、大きなこん棒を振りかざして「あいやー」とは言わなかったが思い切りたたいた。その途端、こちらにまでなにか飛んできた。しかし、誰も気にも留めていない。

毎日がそんな感じ。

アイルランドでもパンなどはマーケットで山積みになっているが、今はどうだろうか。ひとつひとつ袋に包んであったりするんだろうか。

日本人のプラスティックごみをけしからん、と言っていた人達だしひとつひとつプラスティックバッグに包むとは思えないが。

でも確かにこのワクチンができて、ことが収まってきたらそこは考えなくてはならないことのひとつだろう。

街では99%くらいの確率でみんなマスクを付けている。小さな布マスクは3日に一人見るか見ないかだが…。

とにかくその公共でのマナーというのは、いや、多分にみんなと一緒が落ち着く日本人気質はこんな時にはいい方向に向かっているとしか思わざるを得ない。

政府の連中は国民の苦労なんて全く分ろうとしないし、国民はそれぞれ工夫して良くやっていると思うと、いろんな国が日本のやり方ではなく、日本国民の暮らし方から学ぶことは多いのではないかと思う。

そして日本人も贅沢過ぎた暮らしのことを考え直し、世界は環境汚染について真剣に考えなければならない時に来ていると感じる。

温暖化は益々、地中に潜むウイルスを放出する可能性を拡げつつあるからだ。

なにはともあれ、変わらぬ衛生観念は持ち続けよう。

Irish Musicその159

The Gentle Light That Wakes Me    (Air)

Phil Cunningham作の美しいエアー。かなりゆっくり、ゆったりと演奏すると趣があるし、多分弦楽四重奏かなんかで聴いたらすごくいいと思う。

こんな曲をフィドルとギターだけでたっぷり演奏するのは難しい。決して難しい曲ではないが、それだけに難しい。しかし、彼は実に良いメロディを書く人で、僕らのレパートリーには比較的彼と彼の弟、ジョニーの曲が沢山ある。

ちょっと興味あるドキュメンタリー

ネパールの山岳地帯に住む子供たちを記録したもので、ほとんどの子の親が日本で働いている、というものだった。

最初から観ていなかったのでいい加減なことは言えないが、日本ではそのほとんどの親たちは出稼ぎ労働者として多くは料理店などで働いている。

元々は父親だけが行くパターンだったが、とても一人では暮らして行けず、奥さんも呼んで共働きということになる。

子どもは施設みたいなところ、或いは親戚などに預けて後で呼ぶ、という、確かにアメリカでも中国人やメキシコ人などの間では当たり前のことだった。

しかし、なかには行きたくない子もいるみたいだ。

面白かったのは、小学校4年生ぐらいの男の子と女の子が学校の帰り道に話をするシーン。

その道は山の中、川が流れていて、石ころだらけの通学路。40分ほどかけて学校へ行き、家に帰る。

男の子は母親と離れ離れになっているのが寂しいが、そうは言わない。女の子が正直に言え!と責め立てる。

僕も日本に行ってお金を稼ぐ、というと女の子は、あんたの母親でもここにいてなんでも、タクシーの運転手をしてでもお金は稼げる、と云うと男の子は日本の方が稼げる、と言う。

女の子は、お金なんてそんなに重要?と詰め寄る。

お金があれば何でもできるよ、という男の子にお金と心とどちらが大切?と問い詰める。

お金があれば大切な人も守ってあげることが出来る、という男の子。

やがて、その女の子も日本に行くことになる。東京のビル群に立ってネパールはどこから見えるの?と尋ねる。

そして、日本なんかに来たくなかった女の子は両親に別れを告げてひとりネパールに帰っていった。

ネパールに戻った女の子に1年後、またインタビューを試みたが、一言も喋ることなく、黙々と山道を学校から帰宅していた。

僕が住んでいる処にも近所には一杯ネパール料理の店、インディアン、チャイニーズ、中東、数限りなくある。

それぞれにドラマがあるんだろうなぁ。

移民という世界には沢山の問題がある、という事は僕も良く知っている。僕も移民だったからだ。

Irish Musicその158

If Ever You Were Mine     (Waltz)

モーリス・レノン作の美しいワルツ。彼とはロングフォードのフェスティバルで初めて会って以来、何度かアイルランドで出会っている。彼の在籍したバンドStockton’s Wingは最もよく聴いたバンドのひとつだった。ムービングハーツ同様、シンセやドラムを起用した斬新な音づくりには興奮したものだ。しかし、ムービングハーツよりはトラッドに近いスタイルを持っていたと感じる。Paul Rocheのフルートとレノンのフィドル、そしてKieran Hanrahanのバンジョーが核となっているので、それなりにトラディショナル・フィーリング抜群の演奏が楽しめるバンドだった。バンド自体は1977年に結成されている、というので、まだナターシャーセブン全盛の頃だ。

Julee Glaub というノース・カロライナ出身のシンガーが歌っているものもいい。タイトルは逆の意味みたいになっているところが面白いが。You Will Always Be Mineというその歌、同じくStockton’s Wing のメンバーであるMike Hanrahanが歌詞を付けている。

アメリカ南部

ここしばらくコロナもさることながら、人種差別に関する記事を多く見かける。

もちろんきっかけとなる事件があったからだが、僕自身アメリカ南部には何度も行っているし、バージニアではカーター・ファミリーとの普通の生活も経験しているし、今回の事件があったミネアポリスにも行っているし、いろんなところで黒人だけではなく、いわゆる「Colored」と云うのだろうか有色人種としての様々な場面を見てきているし経験もしている。

尚、この言葉「Colored」は現在では余りに差別的だという事で使われなくなってきているらしいが、その代わり「Non -White」と置き換えられているという。だから何だ!という感じだが。

幸いにも僕はブルーグラスを演奏していたのでそんな南部の深いところまですんなり入っていくことが出来た。

しかし、それでも珍しい東洋人は一種異様な眼で見られることは多々ある。

パディとフランキーと僕とでどこかの田舎町のダイナーに立ち寄った時の目付きは、映画イージーライダーを彷彿とさせるものがあった。

不思議なもので同じ白人でも「アイリッシュ」ってわかるんだなぁ。パディが「いやな目付きだなぁ」と言っていたのをよく覚えている。

僕なんか絶対中国人だと思われただろう。かくなる僕も中国人には間違われたくない、と思ってしまうのだから人種問題というのには根深~いものがある、と思うのだ。

ニューヨークではハーレムのど真ん中に住む、ホテルの黒人掃除婦のおばちゃんと友達になった。家に行ってその部屋の乱雑さに驚いた。

今思えば、あの状態の生活だったらウイルスはどこをとってもひっついているだろう。

そんなおばちゃんにGreat Dream From Heavenなんかを弾いてあげると、ゴスペルだ!と言って大層喜んでくれたものだ。

ニューヨークはみんなが知っての通り人種の坩堝なので、黒い帽子の巻き毛のユダヤ人も居れば、道端でアラーの神に祈りを捧げている奴も居る。まったく聞き慣れない言葉で話しながらすれ違う人達も居る。

Englishman in New Yorkの世界だ。

しかし、南部の田舎は違う。3か月ほどカーター・ファミリーと暮らしたが、あの村では黒人は一人も見なかった。少し街に出れば少なからずいたと思うが、ましてや東洋人には出くわさなかった。

でもチャイニーズレストランは1軒だけあるって言っていたなぁ。無理もない。地球上の4分の1は中国人なんだから。

そんなアメリカでは黒人の差別なんて当たり前のことだ。やっぱり黒人街を歩けば身構えてしまう。

それは圧倒的に犯罪に出くわす率が高いからと云えるだろう。自分の行き先に数人の黒人がたむろしていたら道を変える。そうして自分の身を守ることは大事なことだ。

でも、それは相手がメキシコ人でも同じかな。

そんな場合のコツはやっぱりひたすらオーラを出して「金あげてもいいけど大して持ってないし、俺も同じ有色人種だし、仲良くしようぜ」という雰囲気を醸し出すこと。こっちから先に「よー!」と挨拶してしまう事だ。

結構怖いのは、命知らずのベトナム難民の子供たちかもしれない。彼ら、一度は死んだようなところがあるし、運よく生まれてきただけなんていう子も居るから他人のことなどなんとも思っていないこともありうる。

一緒に働いていたベトナム人なんかしょっちゅうギャンブルの掛け金が払えなくて命を狙われていた。

アメリカの都会ではよくあることだ。

さて、南部ではやはり黒人と白人かな。

テレビのトークショーではKKKの幹部と黒人たちがののしり合う番組を観たことがある。

「白こそ神が創ったものだ。それ以外のものはクズだ」と叫ぶKKKの奴の顔が興奮して赤くなっていた。

やがて取っ組み合いになるので、どこまでも「やらせ」という感は否めないが。

取りあえずそんなものをしょっちゅう見せられ、夜の街では黒人の少年たちが壁に手をついて並ばされ、ピストルを抜いた警官たちが取り囲んでいた。

南部の町ではよくあることだ。

そうして考えると、考えても無駄なのが良く分かる、というのが正直なところ。

ただ良く知ること。書物でもいいし、出来れば自身の眼で見て、実際にそういう目で見られる経験をすることだろう。

それでもなお分からないことは分からない。それが人間なのだろうか…?

卵が先か、ニワトリが先か…に匹敵する難しさだ。

ボイジャー・ギター 櫻井航 製作のブズーキ

アイリッシュミュージックに関わって30年。アメリカで、アイルランドで演奏してきたが、どこでも素晴らしい出来栄えのブズーキを見てきた。

最初はやはり、本場のグリークブズーキをアレック・フィンに見せてもらった。

また、様々な人にそれとは違う、いわゆるアイリッシュ・ブズーキも見せてもらったが、その多くはステファン・ソーベルかジョー・フォーリーかパディ・クリアーのものだった。

そしてそのどれもが素晴らしく、余裕があればひとつ欲しいな、と思っていたものだ。

しかし、この音楽を始めた頃、様々な演奏を参考にして自分のギタースタイルに、ブズーキの感触のする音を組み立ててみようと考えた。

それによってブズーキのバックアップからギターのバックアップに移行していくようなスタイルを作り上げてきた。

それでもやはりブズーキの音色は魅力的なものだった。

そしていくつかの、例えばトリニティ・カレッジのブズーキなども持っていたが、そう満足のいくものではなかった。

そんなある時、カリフォルニア州のアルケイタという町に良い楽器を作っている奴がいて、彼と相談してオクターブマンドリンを作ってもらった。

ブズーキにする?オクターブマンドリンにする?と訊かれたのでその時はオクターブマンドリンにしたが、今となってはブズーキにすれば良かった、と思っている。

しかし、その出来は素晴らしいものだ。因みにフィル・クランプという人物。

さて、本題に入るが、つい最近、櫻井航くんが素晴らしいブズーキ第1号を製作した。

これは間違いなく日本に於ける初めての本格的ブズーキだろう。

彼自身、試行錯誤して造り慣れているギターの製作方法を取り入れているが、そこから出て来る音は低音、高音共に紛れもなく超1級のブズーキだ。

若かりしときイギリスに住んで楽器作りを学んでいた彼は、長年ブズーキを作ることを考えていたようだ。

そして出来たのが今回の第1号。

興味のある人は南阿佐ヶ谷のLast Guitarにあるので、そこに行って小山さんと云う人を訪ねてみて欲しい。

きっとそのサウンドにノックアウトされること間違いなしだ。

普通こういうものは少なからず誇張して書くものだが、この楽器に関しては決して大げさではない。いち弾は百聞に如かず、だ。

ここに彼の送ってきたディテールを載せておきます。

     ★ 以下、櫻井航君からの伝言。

材料は表板がシトカスプルース、サイドバックはインディアンローズウッドです。

構造はギターと同じで予想がしやすいのでピンブリッジ、Xブレーシング仕様にしました。

G弦を響かせるためにボディは厚めにしてあります。

デザインはいつもの僕のギターと共通しているコンパスをモチーフにしたロゼッタ、

それにケルティック・ノットのインレイ、サイドのパーフリング(縁飾り)はアイルランドの国旗の色になっています。

今度はミネアポリス

別に今に始まったことではない。

同じように信号機のないところで道を渡って、前にいた白人はそのまま行ってしまったのになんで俺だけ「罰金だ!」なんて言われるんだろう、と言っていたメキシコ人の友人がいた。もちろん理由は彼にも分かっている。

こんな、まぁ言えば小さいことはアメリカに居たら日常茶飯事。

去年の12月にふとしたことからロスアンゼルスの暴動のことをこのコラムで書いた。

当時(92年4月)あのロドニー・キングの事件が発端となった暴動だ。

あの時の彼による演説が素晴らしかったので良く覚えている。

彼はボロボロにされながらも生きていたので、彼自身が演説したが、今回は殺されてしまった人の弟による演説だった。

報道で見た人も多いだろうがまたまた感動してしまった。

我が国の首相の演説なんて「どうせまた嘘を平気で言うし、大したことも言えずに原稿を読むだけ」と思うと別に観なくてもいい、と思ってしまう。

夜のニュースでもう一回やるんだし「今度は本心から喋れよ」なんて、相撲の「今の勝負をもう一度」といったときに、ある爺さんが「今度は勝てよ」なんて言った話みたいなもので、結局はなにを言おうが気にも留めなくなってしまう。

それに引き換え、的確なことを、しかも自分の言葉で言うことが出来る、というのはやはり子供の頃からSpeak upという教育を受けているからだろう。

その分いらん主張も多いけど。

ここらで日本の政治家も嘘や逃避という呪縛から抜け出さないと…彼等には無理か。

ミネアポリスから始まった暴動は、今の時期いろんなことが重なっているので、収束させるのが難しそうだが、他の事と同様、早く収まってほしい。

ウイルスとの戦いも人類にはいろんな形で付いてまわるものなのかなと思うが、
人種的な問題にも終りとかいうものは無いのかもしれない、

と思うと 今だからこそ、ロドニー・キングのように、また、テレンス・フロイドのように人々の協調を訴える人たちが大切に思えてくる。

Joe Cooleyを聴く

久々にJoe Cooleyの録音を聴いた。それは1970年代に入ったばかりの頃のもの。

彼がこの世を去ったのは1973年の12月20日。生まれた場所は比較的クレアーに近いゴールウエイのPeterswellという町。10歳でアコーディオンを始め、ダブリンに移った時期もあったが、タラ・ケイリ・バンドとして演奏していたのが1946年から1948年。そして1954年にはアメリカに渡っている。最初はニューヨーク、更にシカゴへ、最終的にはサンフランシスコで暮らしていた。その時にパトリシア・ケネリーにアコーディオンを教えていた、と言うことだ。パトリシアとは何度も一緒に演奏したし、彼女のダンスの伴奏もアンドリューと数多くやったことがある。

アンドリューもトニー・マクマホンも、サンフランシスコに来た時には彼女の家に泊まっていた。彼女のアコーディオンプレイは本当にJoe Cooley譲りだった。

更に言うならば、勿論タラ・ケイリ・バンドから出たアンドリュー・マクナマラのスタイルも、今Joe Cooleyを聴くといい意味で生き写しのような感がある。

曲のスタートからそのリズムから全てがイーストクレアー、そのものだ。

僕のアイリッシュミュージックのキャリアがそこから始まったことは正に幸運だったと云えるだろう。

さて、本題のJoe Cooleyのことだが、これはいつでも機会があるごとに聴いておきたいものだ。

ブルーグラスを演奏していた頃に聴いた、カントリー・クッキングのCooley’s Reelは彼の代名詞となっている曲だが、元はTulla Reelという名前がついているようだ。作者についてはあまりに多くの説があるのでここには書かないが、これが出たら次の曲はWise Maidと云うのが少なくともクレアーのお決まりだ。

彼の演奏からはあのアンドリューの家の周りの景色や、突然降る雨。そしてサッと止んで眼の前いっぱいに広がる緑と青空。そんな景色が見えてくる。

更に部屋の暖炉の前で聴いていると、すぐそこに彼の足を踏む音が聴こえてくるようだ。

アンドリューお手製のハムサンドウィッチをほおばりながらコーヒーを、またはやっぱりギネスかな。

猫とネズミの攻防

近所の人気三毛猫でミーちゃんというありふれた名前の猫がいる。

焼肉屋さんの店先で、いつもいつも道行く人を眺めている。そのたたずまいの落ち着いた様子から親しみを覚える人が多いせいか、本人(本猫)もとても人懐っこくなっている。

どうやら飼い主はその焼肉屋のようだが、時々とんでもない光景を目にする。

開店前、まだドアーが閉まっている店先にミーちゃんが「どや顔」をして座っているが、ふとみるとその先に立派なネズミが横たわっている。

既に絶命しているそのネズミは勿論ミーちゃんが捕まえてきたものだと言うことは、そのどや顔をみれば一目瞭然。

これ、店の人困るだろうな。看板猫であることは間違いないのだが、この光景はよく見かけるのだ。

アイルランドで飼っているコムギと云うメスの白猫は、広い裏庭でモグラや燕を追いかけ、とうとう信じられないくらいに大きなウサギを銜えて戻ってきた。

もちろんネズミなんかもお手のものだ。

昔、アメリカのレストランで猫を飼っていた。それは隣にあったバーが店じまいをして少しの間空き家になっていた時の事。

夜な夜なネズミが出るので「そうだ。夜は猫をおいておこう」という話になったのだ。

ある朝、僕が誰よりも早く出勤した時の事。電話が鳴った。

まさかこんな早くにテイクアウトの予約?と思いキッチンから出て電話を取った。

女の人が「猫、猫」と言っている。あ、コリャやばい!レストランの中に猫が居るなんてあんまり知られたくない。

僕はとっさに「え、何のこと?猫なんていないよ」と云ったらその人が「ダイニングを見て

ちょうだい」と云うので、ふと、まだセットしていない客席を見ると…。

ここで飼っている猫がじーっと天井を見つめている。

ちょうど窓際に2メートル弱のスタンドがあって、よく見るとその上に小さなネズミがいるではないか。

いったい、いつからそのままの態勢でにらめっこしていたんだろう。入った時にはいなかったと思うが。

僕はすぐに電話に戻って彼女に「知らせてくれてありがとう」と言ってスタンドを揺らしてネズミを落とすとネズミは走り出し、その後を一目散に猫が追いかけてキッチンに消えていった。

聞いた話によると、猫は特にネズミ、と言うことではなく、動く小さなものには敏感に反応するらしいが、トムとジェリーに代表されるように猫とネズミの攻防はごく自然なことなんだろうなぁ。それともやっぱり昔ばなしから?

またすぐにミーちゃんが「どや顔」で座っている姿が見られるだろう。

懐かしのリオ・ブラボー

先日、懐かしい映画、リオ・ブラボーをテレビで観てしまった。1959年の映画と言うことなので、10歳の時に観たものだ。遥かなるアラモは1960年。12歳の時に汽車に乗って東京まで単身、観に行ったことを覚えているが、やっぱりジョン・ウェインは当時の僕にとってのヒーローだった。

それにディミトリ・ティオムキンの音楽というのも魅力のひとつだったかもしれない。

事実リオ・ブラボーの方にはディーン・マーティンと、リッキー・ネルソンが出ていて歌を唄うシーンがある。

有名な「ライフルと愛馬」だ。これは1948年の映画「赤い河」で使われた音楽だが、因みにこれもジョン・ウェイン。

そう言えば、アラモでもフランキー・アバロンが出演していたし、音楽もディミトリ・ティオムキンだった。

そんな風にやっぱり映画を観るにしても、音楽とは切り離せないものがあった。

その上にもちろん俳優。ジョン・ウェインが出ていれば必ずと云っていいほど観に行ったものだ。

そのジョン・ウェインが死んだのは1979年の6月。僕はよく覚えている。

その時、省ちゃんと韓国に居たのだ。

街角で買った新聞にこう書いてあった。「西部の皇帝、癌で死去」勿論韓国語は読めるわけないのだが、西部と皇帝と癌と死去が漢字で、それが読めたのと、彼の写真が載っていたから理解できたのだ。他は全部ハングルだった。「ジョン・ウェイン」でさえも。

とに角、西部劇大好き少年にとって、ジョン・ウェインの立ち振る舞いはたまらないものがあった。

リオ・ブラボーを久々に観て、また「駅馬車」「リバティ・バランスを撃った男」「騎兵隊」なんかを観たくなってきた。

そして、アイルランドとの関係が深い「静かなる男」も。

Irish Musicその157

Up Sligo      (Jig)

この曲はおそらく80年代のストックトンズ・ウィングのライブアルバムから覚えたものだと思う。今になっていろいろ見てみると、マイケル・コールマン1891~1945のアルバムでUp Sligoとして2曲がメドレーで演奏されている。だがそれはBasket of Turf / Geese in the bogとしてクレジットされている。確かに2曲目は少しGeese…に似ているがパートが少ない。Old Geese in the Bogと云う人もいる。また、この曲をUp Sligoとする人もいるようだし、UpSigo#2とする人もいる。僕がUp Sligoだと思っていた曲をBasket…だという人もいる。ここまでくるとえーっと何が何だっけ?となってしまう。自分でもなにを書いているのか良く分からなくなってくる。結局僕はこのEmの曲をUp Sligoと呼ぶことにしている。取りあえず「いや、それは違う」と言われた時に「あぁ、そのストーリーも知っているし、コールマンの演奏も聴いている」と答えられるかどうかがこの音楽の演奏者には大切なことだ。

Irish Musicその156

The Cat That Ate The Candle  (Jig and Reel)

このタイトルでリールとジグの両方があるのでこのような表記にした。メロディは全然違うのでその関連性については分からない。ジグの方はまたの名をThe Cow That Ate The Blanketとも言う。また、同じCow…のタイトルで別なリールもある。どちらにせよ、変なタイトルだ。ジグはジョン・カーティとブライアン・マグラ―のアルバムで覚えた。とても単純なメロディだ。リールの方はなかなかに美しいメロディを持っている。フランキー・ケネディの演奏で覚えたものだが、彼自身のノートによると、スライゴーのフルート奏者、Larry McDonoughの演奏から覚えたということだ。

衛生観念

昔から日本では「ハンカチ、ハナガミ持った?」と、特に子供たちはよく言われていたものだ。ハンケチという人もいたと思うが。

ハナガミって何?と云ったのは希花さん。そういえば今はほとんど死語かな。

以前、戦後に米兵と結婚してアメリカに渡った人が機械のことを全て「ミシン」と云っていた。米兵というのも今の人だったら「コメヒョウ」と読むかもしれない。

その人はカメラのことも「写真機」と云って若者に笑われていた。

いや、本題は「ハンカチ、ハナガミ」に象徴される衛生観念についてだ。

勿論「手洗い、うがい」もセットだった。

僕も戦後間もなくの生まれ。生まれた当初のことは覚えていないが、まだまだ不衛生な時代だったのだろう。ダニとかノミとかシラミなんて普通だった。

虫下しというのも何故か飲んだ覚えがあるが、チョコレートみたいな板状のものだった記憶がある。先日口にしたカカオ90%のチョコレートによく似た味だった。

ひまし油(Castor Oil)と云うのを知っている人は居るだろうか。よくアメリカの昔のホームドラマで子供が飲まされるやつ。万能薬として、現代でも存在するというから驚きだ。

隠語で「Castor Oil Artist」という云い方があるが「医者」のことだ。第一次大戦の頃から使われているらしい。

またまた話はそれたが、僕はつくづく「ハンカチ、ハナガミ、手洗い、うがい」に象徴されるように日本人の衛生観念はしっかりしていると思う。

おむすびを素手で握る、というのはいただけないが…そんなこと言えば寿司はどうなるんだ!と言われそうだが、寿司にはれっきとした寿司職人と云う職種がある。

勿論、おにぎり専門店というものもあろうが、おにぎりは普通の家庭で普通に作られるものだが、寿司はそんなに一般的に家庭で作ってお弁当に…なんて言うことも少ないだろう。

僕は、おにぎりには絶対にラップを使う。自分で食べる時も、ましてや他人に食べさせるものだったらなおさらだ。

ハンバーグですら、最終的に形を作る時以外は手で練ったりしない。餃子もそうだ。

アイルランドの知り合いが「まな板は洗わないほうがいろんなエキスがしみ込んでいい」なんて言っていた。

キアラン君みたいな清潔な人でも、さっきまで床を拭いていたタオルで、食器を拭いたりしている。

その床は靴のまま歩き回る床だ。

そう、究極そこに考えが及んでしまうのだが、日本人の清潔さはやはり靴を脱ぐ、というところに始まるのかもしれない。

あまり気にしすぎるのも良くないかもしれないし、適度に不衛生な事柄にも慣れておいた方が体は強くなるのかもしれないが、ここしばらくは一日何十回も手を洗った方が良いだろう。考え得る全てに神経を使った方がいいことは確かだ。

2月8日から今日まで…

何とも訳の分からないタイトルだが、つくづく自分の事を考えてみると、70歳記念コンサートは2月8日に決めて良かったな、と思う。

日にちを考えていた頃(2019年の春~夏頃)に、2月のはじめは雪が降る、という見通しもあった。

事実、2014年の希花さんの国家試験は同時期で大雪が降った。しかも2週連続だったと記憶している。

しかし、諸々の事情でその日になったのだが、既にクルーズ船の話は出ていたと思う。

僕はいち早くアルコール消毒を楽屋に持ち込んでみんなに使ってもらっていた。

厚生労働省はそれ以後も公共交通機関での帰宅を促していた。

コンサートは皆さんのおかげでとても良いものが出来たと思う。進ちゃんも京都から、金海君も静岡から駆けつけてくれて昔と今を演じることが出来た。

あと2週間遅かったら開催自体どうなっていたか分からなかったが、そんな時点でも政府はのんびりと、財務局員の自殺の真実を隠すことに明け暮れていたようだ。

3月に入ると僕らはバードランドと陽の当たる道の2軒のお店での演奏をお願いしていた。

悩みに悩んだ末、開催していただいたが、やはり来ることができなかった方もいた。

僕等も手洗いにはかなり気を使い、マスクを付けて行った。ただただ、お客さんの無事を祈るばかりだった。それはお互いの為に。

政府は考えているふりをしてまだのんびりと国民の税金で美味しいものを食べていた。

3月の半ばに沖縄に行く予定があった。勿論、音楽会もあったが、メインとしてはアイルランドで知り合った友人に会うためでもあった。

彼はアイルランドの日本大使館でコック長を務めたあと、沖縄にお店を構えて頑張っている人だ。

会いたかったが、今回は取りあえず動くのを止めておいたし、彼の方も厳しい状況になりつつあったし。

首相夫人は桜を見に行ったり旅行をしたりで楽しく国民の税金を使っていた。ま、多少語弊はあるかもしれないが、この際お許しください。

4月半ばには京都や大阪、そして鳥取の友人も訪ねる予定でいたが、さすがにここまでくると僕らにも想像はついていた。

僕等の想像とは裏腹に、政府は「まだぎりぎり持ちこたえている」などとうつつを抜かして、国民の税金でヘラヘラ日々を過ごしていた。

医療関係者に襲い掛かる恐怖、などというものには眼も向かなかったようだった。おろかにもほどがある、というところだろうか。

さて、今現在4月も後半。ここまでくると先が全く見えないことが分かる。

アメリカで暮らしていた時、真夜中に黒人街を通り抜けて仕事から帰ってくる毎日だった。

人種によるどうのこうのではないが、やはりいつ襲われるか、という気持ちは普段の生活の中でも緊張感としてぬぐわれないものがあった。

それは昼間の街歩きでも同じだった。

日々、ベトナムからの難民と共に、或いは命がけで不法入国してくるメキシコ人たちと仕事をし、日本はとても平和に見えていた。

何故、日本の総理大臣ってあんなにころころ変わるんだ?と問われて、えーっと今誰だっけ?としか答えようがなかった。

今、数日に一度近所に買い物に出ると、なんと緊張感の無い国民だろうか、と感じてしまう。

政府に緊張感がないからだろう。一体、政治家と云うのはどれだけ私腹を肥やしたら満足するのだろう。

毎日、テレビで今日は何人が感染した、と云っているが、一体、何人調べてそのうちの何人が感染したのかが知りたい。

1000人中の100人と100人中の100人では状況が違うはずだ。

疑問は絶えることなく続くが、この状況も絶えることがないかもしれないのだ。少なくとも今しばらくは。

5月には宮津の世屋高原と鳥取に行く予定だったが、効力の少ない緊急事態宣言というもので、こちらも先に延ばした。

そして様々な土地で皆さんとお会いして直接お渡ししたかった「in New Shoes」

おかげさまで順調に皆さんのお手元に届いていることは皆さんにも、そして郵便局の人達にも大感謝です。ありがとうございます。

未だに政治家の毅然とした誠意ある顔と云うのが全く見えてこない。どこに隠れているんだろう。

そんなことでいつまで続くか分かりませんがどうか皆さん、お身体に気を付けてお過ごし下さい。

オリジナルコンディションが良いか、それとも…。

楽器を手に入れる時、まず一番に気にするのが、僕の場合ならそのイントネーションだ。

出来得る限り正確なのがいい。勿論、フレット楽器の場合、ピッタリという具合にはなかなかいかないが。取りあえずネックのそり状態を確認する。

お店で売っているものではよほど安価なものでもない限りはその部分はそんなに気にしなくても良いかもしれない。

あとは持った感覚、ネックを握った感覚などからみていく。

比較的新しい楽器だったらそんなに気にするところはないが、古い楽器などはその上、指板の減り具合、フレットの減り具合などを確かめるが、ここで結構気にする人が多いのが、オリジナルコンディションかどうかだ。

忘れていたが僕はあくまでギターやバンジョー、マンドリンと云った楽器について書いている。

僕の場合、オリジナルかどうかはあまり気にしない。ただ、やっぱりマッチしているほうがいいことは確かだ。

あまり気にしないといえども厄介なのが糸巻きだろう。流石に100年も経った楽器でオリジナルのものが付いていると、その作動については気にする。できれば取り替えたくない。

特に1900年代初期のギブソンマンドリンA4などは美しい模様の入ったペッグが付いている。これは多少新しいものより硬くなっていたりするが、潤滑油などで少しずつ調子を整えていけばそんなに問題なく使えるものもある。

マンドリンに於いてはピックガードなども取り外されてどこかへいってしまったものもある。ブリッジも変えられたものもある。

それらはあまり気にならない。

バンジョーだが、僕はほとんどオリジナルかどうか気にしない。何故って、オリジナルコンディションだったらべらぼーな値段になってしまう可能性があるからだ。

それよりもできるだけマッチしたペッグと好みのテイルピースが付いていれば、コンバートされていようが、ポットなどを多少改造していようが、自分の好きなタイプのインレイであったり、指板がエボニーであったり…と云ったところに注目する。

その上、値段が許容範囲かどうか、それは大切な決め手となる。

ギターに於いてはピックガードが変えられていたり、ペッグや、ブリッジまでもが別のものに変えられている場合もあるし、表板そのものが修理されて変わっているものがある。裏板でも同じことが言える。

しかし、それでも自分に合っていて満足できるコンディションで値段も許容範囲だったら良いと、僕は思う。

究極、オリジナルコンディションであるかどうかはあまり気にしない。今、自分にとって最良のものを良しとする。そんな感じかな。-

John PrineとSeldom Scene

John Prineの訃報はアイルランドの人達の間でもかなり取り上げられたが、それはこのコロナによるものだったこともあるのかもしれない。
やはり健康面では以前からいろいろあったようだ。絶対に感染してはいけない人だったのだろう。

いや、想い出したが、キンバラのパブに行った時に彼の写真だったかポスターだったかを見つけたことがあった。へ~意外な処で繋がりがあるんだなぁ、とその時は思ったが、どうやらキンバラの近くに家があったようだ。なんでもド二ゴールの女性と結婚してキンバラ近辺に住んでいた、という話だった。

なぜタイトルにSeldom Sceneがあるのかというと、彼らが取り上げていたParadiseという曲がとても印象深かったことにある。

もちろんNanci Griffithが歌っていたSpeed of the Sound of Lonelinessもいい曲だったが、Seldom Sceneとはアレキサンドリアのバーチメアで演奏したことがあったので何となくJohn Prine繋がりで僕の中では近い存在だ。

当時、大塚章さんのバンドGrazz Matazzで一緒に演奏させてもらい、バーチメアにはよく出演していた。

そんな一環として大塚さんが彼等と一緒に演奏する機会を与えてくれたのだ。

ベン・エルドリッジのバンジョーを借りると、ストラップが長すぎて、僕が「パンクグラス」と云うとジョン・ダッフィーがそれをすぐに真似していた。

John Prineについてはあまり深く知らないがSteve Goodmanも結構好きだったので彼とのつながりで知るようになったくらいだ。

シカゴの寒い日に郵便局勤めだった彼と郵便ポストを雪よけにしてギターを弾いて歌った、なんて都市伝説のような話もあるようだ。

John Prine からの脱線ついでに言うと、今回のウイルスは日本でも志村けんという、僕が思うに時が時ならば国葬級のことをしなければならない人まで奪ってしまった。

僕が大学時代のこと。友人の一人が専門学校を中退してコメディアンになりたい、と相談を持ち掛けてきたが、僕は考え直した方がいい、と伝えた。

結局、彼はその日の面接をドタキャンしてその道に進まなかったのだが、その少し後に志村けんが現れた。友人と云うのはちょっと志村けんに似ていたのだ。僕は一瞬、あれっと思ったことがある。なので、それだけの事だがとても他人とは思えないのだ。

志村けんにしてもJohn Prineにしても個人的に繋がりは無いし、特別フォローしてきた存在でもないが、有り余る才能の持ち主であったことは間違いない。

まとまりのない文章でSeldom Sceneがどこかへ行ってしまったり、志村けんが突然出てきたりで、自分でもよく分からないが、それと同様、世の中が混乱していることは確かだ。

この際、時間もあることだし、今一度彼の歌を聴きなおしてみよう。

2020年

大変な年になってしまったものだ。多分今年1年では収束しないだろう。もちろんそうであってほしくはないのだが。

政府のうろたえぶりを見る限り…といえども大変なのはわかる。誰も想像できなかったことのひとつかもしれないのだから。

この上、地震なんかが起きたら、なんて良くないことばかり考えてしまう。

良くないことだが、いろいろ言いたくなってしまう。

もともと中国で始まったものだし、WHOの中国寄り、といったトランプの意見は正しい、と思う。決して好きな人物ではないが、非常に分かり易いことを言う人だ。大統領という職にふさわしい人物かどうかは良く分からないが。

自民党の幹事長が8割減なんて出来るわけがない、と云ったのは僕も同感。でもこの人、以前に国民が何と云おうと突っ走るだけだ、と云ったので、全く信用はしていない。

そのうちマスク2枚が来そうだけど、座布団2枚!という感じのシャレみたいだ。

待ち焦がれている人って居るのだろうか。

話変わって、ヨーロッパやアメリカのことを考えると、やっぱり日本では靴を脱いで家に入る、とか、衛生観念に関してはちょっと彼等とは違うところにあると感じる。

日本人はトイレに入っている最中に握手を求めたりしないし。

別な考えでは、あまりにも清潔になり過ぎ、という感もあるが。

例えば僕らが子供の頃は犬の糞なんか公園に行けばどこにでもあったし、中学校のマラソン大会ではあぜ道沿いの××溜めに落ちた奴がいたり、僕らもよく遠くから石を投げて遊んだものだ。誰か逃げ遅れるやつがいないか、それが楽しみで。

そんなことは今の子なんかには考えられないことだろう。

先ほどの靴の話だが、アイルランドでもアメリカでも、パブのトイレなんかは、想像を絶する見かけの時がある。

そんな処から家に帰ってきてもそのままカウチに座り、ともすればベッドにそのまま横たわって本なんか読んだりする。

アイルランドでは、普通の家庭で子どもたちが皿も用意せず、テーブルの上にポテトチップスをザーッと出してあんたも食べたら?なんて勧めてくれる。

そのテーブル、多分、昨夜、君の親父がパブから帰ってきて酔っぱらってその上でダンスしてたと思うよ、と云いたいが言わない。でも、よく考えたら、彼らもそんなこと分かっているんだろうなぁ。

それはヨーロッパの他の国でもそんなに違いはないかもしれないし、アジア諸国に於いてもそんなところはあるかもしれない。

アメリカに住む息子に「トイレットペーパー買っておいたほうがいい」とメールしたら「何故?」と返ってきた。これこれこういうわけで、と云ったら「世界の貧しい国々に行ったから知っているけど、トイレットペーパーなんて無くても平気だ。そんなことはさんざん経験している」…そうだ。

僕等もそんな風に強くならなくてはいけない。

今や、全てのものに触れないわけにもいかないし、手洗いをどれだけ念入りにしても髪の毛の1本にウイルスは付いているかもしれないし、まつげにも付いているかもしれない。

それも考えすぎかもしれないが、とにかく気がついたときには体温を計り、水を飲み、手を洗い、顔を洗い、頭を洗い、全身を洗い、洗濯をして、掃除をして、片づけをして、少しの運動を欠かさず、良く寝ること。

元々風邪のウイルスが強力に変化したものだと思って、風邪ひきにつながるようなことは避ける。

僕はこのことが起こり出した当初から、男の方が悪くなりやすいような気がしていたが、最近の調査で同じことが云われている。

僕自身の偏った考えでは、喫煙による肺疾患は圧倒的に男の方が多いのではないかと思うし、やっぱり男の方が体は(時として心も)弱いような気がする。

なので、いや、これは男も女もないが、できる限りじっとして、健康のことや、いろんなことを見つめなおすいい機会にしたいと思う。

優秀な医者や研修医も守ってあげたいし、皆それぞれに守ってあげなくてはいけない人がいるだろうし、2020年で世界を終わりにしてはいけない。

失ったものの大きさは失った後で気がつくことが多いが、ちょっとした発想の転換で失う前に気づくこともある。

なので、本当にこれをいい方向に持って行けるようにいろいろ考えましょう。2020年はそんな年になるのかな。

やっと

思わせぶりなタイトルだが、云いたいことは「やっと屋内禁煙」という決まりが始まった、ということ。

2020年4月1日だが、人類の歴史上2020年という年は消えてしまいそうだ。

とに角、なんにせよこれがなかなか決まらなかったのは、煙草を吸う悪い政治家のせいだったのだ。

僕は大学に入って少しの間、煙草を吸ってみた。恰好を付けたかっただけだ。それで大人の仲間入りができたような気になっていたのだろう。

しかし、ある朝「不味い」と感じてやめた。結局のところ好きではなかったのだと思う。

わずか数ヶ月だったかもしれない。

以後、全く手にしていないので50年以上は経つだろう。

おかげで、今は数十メートル先でだれか吸っているだけでも分かる。電車に煙草の匂いのする人が乗ってくると車両を変える。

正面から吸いながら歩いてくる奴がいると道を変える。

何が嫌かと云うと「なんで貴方の体内に一度入って吐き出された煙を僕が吸わなくてはならないのか」というところだ。

まだ、カリフォルニアが室内全面禁煙になる前、パブで演奏した後、家に帰ってギターケースを開けると煙がフワーッと出てきた。

髪の毛から、着ているものから、マイクケーブルまで全て凄い匂いだった。

やがて、従業員を守るため、ということが主な理由でそうなったのだが、シアトルへ行った時、ワシントン州はまだ法令としては施行されていなかったので、パブに入るや否やなんか違うけど何だろう、と思ったが、中に煙が充満していたのだ。

因みにサンフランシスコでは公共の建物内で規則を破ったら確か、¥1000ドルの罰金じゃなかったかな。場所によるのかもしれないけど。

ま、中にはヘビースモーカーなのに全く肺が綺麗、という人もいるらしい。

省ちゃんは不思議なくらい煙草の匂いがしない奴だった。

そんな風に色々なケースがあるようだが、この日本と云う国は湿気も多いし、人間も密集しているし、匂いが溜まってしまうように感じる。

食事の席では特に嫌だったのだが、今月から一安心。

R L Givensマンドリン

‘91年か‘92年頃だろうか。丁度、省ちゃんがカリフォルニアに居た時、友人から面白いニュースが入った。

サンタ・クルーズ近辺で活躍しているバンド、サイド・サドルスの人が現在使っているマンドリンを売ろうかと思っている、という話だ。

サイド・サドルスと云うバンドは女性5人くらいの編成でカリフォルニアではかなり名の通ったバンドだ。

そのメンバーのKim Elkingという女性。

彼女は週に一度、サンタ・クルーズでDJをやっているという。DJと云ってもお皿を回すやつじゃない。ブルーグラスを聴かせてくれる番組だ。

それじゃぁ、せっかくだから見に行きたいけど、物は何だろうと思い、取りあえず電話をしてみた。

するとR L GivensのFだという返事が返ってきた。提示された値段は敢えて書かないが、とてもリーズナブルなものだった。

Givensと云えば、当時知っている限りでは相当若い時のサム・ブッシュがAタイプのものを弾いている写真を見たことがあるだけで、現物にお目にかかったことは無かった。

取りあえず見に行くか、と省ちゃんを連れてサンフランシスコから1時間半ほどのラジオ局へ出かけて行った。

Kimが「よく来たわね。これよ。」と、とてもフレンドリーに手渡してくれたものは、渋い色の紛れもなく本物のGivens Mandolinだった。

省ちゃんは目をまん丸くして「わー!初めて見るGivens!」と感激してしばらく弾いた。

番組が終わるまで考えていた省ちゃんは「ウ~ン、もうちょっと考えるわ」

彼の買い物は決して衝動買いではない。何に関してもじっくり考える。

Kimに「もう少し考えるらしい」と伝え、ラジオ局を後にした。

帰り道、ずーっと「ウ~ン」と唸っているのはいかにも彼らしかった。

そしてサンフランシスコに着いた途端「やっぱ買うわ!」と叫んだのも彼らしい。

急いで彼女に電話して明日また会えるかどうか、と訊いたら「いいよ、ラジオ局で会おうか?」と云ってくれた。

「省ちゃん、今晩寝たら気が変わらないように」と云っておいた。

そして次の日、再びサンタ・クルーズに出掛けて行ってめでたく珍しいGivensを手に入れたのだった。

彼はその楽器を様々なレコーディングで使っている。勿論Gibsonもよく使用していたが、確かにまた一味違う鳴り方をしている楽器だった。

そしてその製作者、R L Givensはそれから間もなくして亡くなった(‘93年の初めころ)と聞いた。

素晴らしい楽器を提供してくれた彼に感謝。そして彼の楽器を使用して素晴らしい音楽を提供してくれた省ちゃんにも感謝。

更にこの楽器を省ちゃんの手に渡してくれたKimにも感謝。

たまには思い出話

2020年、開けたばかりの時は、多くの人が「今年はどんな年になるだろうか」と期待したり、前年と同じでもいいから「まぁいい年になれば…」くらいのことは思っていただろう。

しかし、こういうことになろうとは。

そこでしばらくはじっとしていることになり、久しぶりに思い出したことでもまた書いてみようかな、なんていう気持ちになっている。

僕らの世代は生まれてこの方、大きな戦争には出会わなかった。

あんなにひどかったベトナム戦争ですら恩恵を授かった世代だったし、朝鮮戦争は生まれていたけれど知る由もない。

1989年10月17日のロマ・プリータ地震の時は驚いたが、その比ではなく驚いたのが、あの3月11日。

東京に居た僕でさえも、もしかしたら…と思ったくらいに全てのものが落下し、食器棚の扉が開いてあらゆるお皿は空飛ぶ円盤となり、本棚の奥から埃が舞って部屋の中が一瞬白く見えた。勿論立ち上がることは不可能で、揺れが収まってから、全てが床にたたきつけられた部屋をどのようにして出たのかもいまだに想い出せない。思い出話にもならない。

9月11日はさすがに広い国、アメリカでサン・フランシスコにいた僕にとって東海岸は遠かった。

それでも、一気に戦争モードになった感のあるアメリカではしばらくいろんなことがあったことも事実だ。

しかし。今回は別かも。

ある意味、これは見えない敵との戦争がどこかで見える敵を作りだしていくことに繋がっていくかもしれない。

ま、しばし忘れて。

最近ふと坂庭君のことを想い出すことがあった。と云いながらしょっちゅう想い出すことがあるのだが。それもほとんど面白かったことばかり。

僕等はツァーに出ても、まずお酒を呑みに出たことが無かった。二人ともほとんどといっていいほどお酒には興味が無かった。コップ1杯のビールで充分赤くなっていた。

そんな僕らがある日、赤坂でおしゃれな紅茶を飲んだ。まだオープンして間もない感じの、京都の田舎から出てきた僕らには、本当に目を見張るくらいのお店だった。

「レ・レモンティー」と注文してしばらくすると、これ見よがしに豪華なティー・ポットがおしゃれな服を着せられてやってきた。そしてこれまたおしゃれなカップ。そしてその横に砂時計。

「なんやろ、これ?」という顔をしていたのがばれたのだろうか。

ウエイターのお兄さんが「この砂が落ちるまでお待ちください」と云い残して去っていった。

「これ、ひっくり返したらおこられるやろうなぁ」「ウン、余計なことスナってな」

そんなこんなで、結論は「東京ってめんどくさいところやなぁ」だった。

ある日チョコレートパフェかなにか甘いものを求めて夜11時頃ホテルを出た。これも赤坂だった。

二人で歩いていると、遥か後方からアメリカ人の若者が酔っぱらって歌を唄いながら歩いてくる。

振り向いてみるとまだまだ遠い。3~4人は居るようだ。

でも遠いと言えどもあんまりいい感じはしなかったので、少し足早に歩き始めた。すると、敵も少し足早になったようだ。

その歌「カントリーロード」が段々近づいてくるのだ。

「やばい、省ちゃん。もう少し早く歩こう」徐々に近づいてくる「カントリーロ―ド」

結局すぐ後ろで曲がっていったが、それから「やばい!」と思うことは二人で「カントリーロ~♪」と唄うこととなった。

北海道に行くとローカル電車に乗ることが多く、二人でよく窓から外の景色を見ていた。

「なぁ、じゅんじ。こんなとこで殺されて埋められてもわからんなぁ」省悟は必ずそう云っていた。僕は「そうやなぁ…」としみじみ答えていた。

次に北海道を訪れた時は僕が「なぁ、しょうご。こんなとこで殺されて埋められてもわからんなぁ」彼は「そうやなぁ…」としみじみ答えた。

その次からは「なぁ、じゅんじ…」「そうやなぁ…」「なぁ、しょうご…」「そうやなぁ」それだけの会話に省略されていた。

思えば18歳の多感な頃から結構一緒に時を過ごしたせいもあってか、後年は、ほとんどの会話が省略されていても分かるものだった。

あれだけ趣味趣向が違ったのに、何故か「ゼリー、寒天、ババロア、白玉」ここに関しては全く同じで、夜中に突然二人で白玉を作って食べたこともあるくらいだ。

ゼリーや寒天をプールいっぱいに作ってそこで泳いでみたい、と二人で良く云っていた。ぜんざいのプールを白玉の浮き輪でプ~カプカとか。

「よかったなぁ、俺達の大好物が納豆でなくて」なんて云いながら。

お好み焼きの作り方は流石に関西人。それはそれは見事なものだった。

彼に関する想い出は限りなくあるが、まとまりのないものになってしまう。結局それくらい多くの時間を、そして空間を一緒に過ごした、ということなのだろうか。

いつかちゃんとまとめてみようかな。

今、彼がまだこの世に居たら、今回のこの世界が終わるかもしれない状況をどう見るだろうか。

ふたりで赤坂を歩きながら「なぁ、こんなんじゃぁ誰がかかっているかわからんなぁ」って言っているかな?

Irish Musicその155

Laura Lynn Cunningham    (Reel)

Phil Cunningham自身のコメントによると彼のシスターの為に書いた曲、ということだ。

とてもキャッチ―なメロディライン。多分Lunasaの演奏で知っている人も多いのではないかと思う。僕自身もよく彼等とは一緒に行動していたので、確かこの曲の前にケビン・クロフォードがJanuary Snowsを演奏していて、それが凄く好きだった。ある時、サンタクルーズのKuumbwa Jazz Centerという処で、彼らが演奏した時、「January Snow絶品だなぁ。それから次の曲に入るところがまたすごくいいなぁ」とケビンに言ったことがあったのを想い出した。

余談だがMy SisterとかMy Brotherとか云われた場合、妹?姉?弟?兄?とどうしても気になってしまうのは日本人だからみたいだ。彼らにしてみれば家族の一員であるため、上だろうが下だろうが関係ないようだ。文化の違いだろうな。

ザ・ナターシャー・セブン

最近1972年の京都でのライブテープと云うのが発掘されて、それがCD化されたが、ライナーに高石さんのインタビューが掲載されている。

勿論、彼は当時から先見の眼があったし、いまだに素晴らしい感性を持ち合わせたシンガーだと言える。

その彼がナターシャー・セブンに関してインタビューに答える形式で様々な話が聞けるが、僕は僕なりにここにバンドのことなどを書いてみようかな、と思い立った。

既にザ・ナターシャー・セブンとその時代背景というコラムは書いているので重複する部分はあるかもしれないが。

僕は京都産業大学に入ってしばらくして高石氏と出会った。ソングブックによると1971年の1月ということだ。

意気投合したかどうかは定かではないが取りあえず付いていくことにした。彼もバンドを結成するために人材を探していたことは確かだ。

その時の彼の眼に僕がどう映ったかは知らないが、アンドリューが初めて僕に声をかけたのは日本人で珍しかったから、という単純な理由のように、そんなことはどうでもいいことで、わかりはしないことだろう。

しかしながら、彼(高石氏)の感性には合っていたのかもしれない。

ほどなくして「高石ともやとその仲間たち」として、今では考えられないような名前でデビュー(?)して、すぐに今度は「バックステップ・カントリー・バンド」という名前でやっていた…と記憶している。

そのままのバンド名だったらどうだったかはわからないが、バックステップ…後ろに下がる?あんまり良くないな、とだれかが云っていたような気もする。

フィドラーの井芹君、ベースの箕岡さん、すぐに北村謙がベースに入り、初期の頃は目まぐるしくメンバーが変わっていた。

その中でいろいろ模索してフラットマンドリンを弾く僕の静岡時代からのフォーク仲間であった金海君を起用した。

高石さんは技術的に云々ということをインタビューで答えていたが、そんなことではなく、彼の音楽に対するアプローチは僕らが思っているものとは違ってもう少しポピュラーな路線だったのだろう。あくまで僕の見解だが。

そんな時、クライマックスを脱退して「さぁ大学に戻るか!」と強い意志を持っていた坂庭省悟を僕が連れてきた。

確か京都会館で光市のフォークグループや我夢土下座などと一緒のコンサートだったかな。

二人でブラックマウンテンラグを弾いた。

以後、彼にフラットマンドリンを弾くように勧めて「こんな女々しい楽器…」と嫌がっていた彼もその独特なスウイング感をその「女々しい楽器」に注ぎ込んでいった。

ここに不動のナターシャー・セブンサウンドが出来つつあった。

僕と坂庭君との間には本当に不思議なほどの意思疎通があった。

ステージ上で特に言葉を交わさずに、その日のその曲の楽器編成を変えてみたり、次ソロやってくれるか?なども「目くばせ」だけで成り立っていた。

思えば今やっているアイリッシュも「目くばせ」の世界だ。

僕がアイリッシュの伴奏者として認められてきたのも、多分、この「目くばせ」の力によるものかもしれない。

「初めまして!」でそのままステージを2時間もこなすのにはよーく聴くことと、この「目くばせ」がどれほど大切なことか、僕は嫌というほど良く知っている。

更に、彼とはハーモニーも特に相談しなくても当然のごとく決まっていく。

ひとつには彼のとんでもなく高い声域というのがそうさせるのかもしれないが、あまり苦労した記憶もない。

そして、木田高介の加入となり、また飛躍的なバンドサウンドが出来上がっていった。それは明らかに他ではあり得ない(特に日本では、という意味)ものであった。

そこに高石氏の独特な詩の世界。これは当時のフォークシンガーとは比較にならないほどの揺るぎない表現力を持ち、またそれを人々に伝えていく、という点でも卓越した才能の持ち主だった彼が成し得たものだろう。

思えば1971年から僕が抜けた1984年まで(正確には1983年かな)日本中にそのサウンドを提供してきたが、今でも多くの人がナターシャーソングを歌ってくれている。

そしてそれはブルーグラスとはまた違う方向性で進んでいる。

ナターシャー・セブンは明らかにブルーグラス・スタイルを基盤にしたフォークグループであった。

英語でしか表現できないような語意が、高石氏という存在を通して見事に日本の唄となり、そしてそれが実に巧みに、ある時はブルーグラス・サウンドと絡み合い、そしてある時は独特な世界観をもったフォークソングとなり、また木田高介の加入によってポップス、それも彼の才覚により、行き過ぎないポップス感も加味された。

これは日本では2度と現れない存在だろう。

CDのライナーに登場する平井一成氏。僕を京都の学生仲間から抜粋してくれた人物だ。彼にしてもしかり。2人といない人物であり、また2度と現れない存在だったろう。

ナターシャー・セブンが見ていた世界はそういうものだったのかな。

Irish Musicその154

Mr. O’Connor     (O’Carolan)

彼の作品集では113番目に位置する曲だが、果たして113番目の作曲かどうかは定かでない…と思う。

非常に難解(ホークス)な曲だ。

常識的に考えると理解に苦しむ譜割りだ。もしかしたら、間違えて弾いてしまった音がそのまま伝承されているのではないかと思うほどのいわゆる“字余り”的な…。

しかし、こういうものは古くからのチューンにはよくあることだ。

セットダンスなどはステップから来る余分な小節、というのがあるが。これはダンス曲ではないので、何かの間違いではないか、と思ってしまうのだ。

実に不思議な曲だが、こういうものが意外と癖になったりするから面白いものだ。

ジャッキー・デイリーとアレック・フィンのディ・ダナン時代の録音がとても美しいが、デイル・ラスのフィドルと、自身が弾くギターとの組み合わせもこれまた素晴らしいものがある。

気を抜くと混乱を招くようなこの曲。確かにジャッキー・デイリーの映像をみると余計なことは考えずに一点を見つめて弾いているように見えるが…?

ブルーグラスに関連する思い

1960年中頃にブルーグラスと出会い、同年後半からブルーグラスを始め、90年代からはほとんどといっていいほど遠ざかっていた。

最初にフォギーマウンテン・ブレイクダウンにノックアウトされたが、そういう人は多いだろう。

バンジョーの音はすでに「ワシントン広場の夜は更けて」や「ほほにかかる涙」などでお馴染みだったし、他にも聴いたことがあったかもしれないが、それが何故バンジョーという楽器だと認識していたかは謎だ。

フォークソングを高校生で始めた頃も何故バンジョーを担当したいと思ったかは覚えていないが、その音色が好きだったのだろう。

初めて手に入れたピアレスで500マイル、MTAなどを弾いていたが、ブラザース・フォアの「ダーリン・コリー」は良く分からなかった。何となくそれらしくコピーして弾いていたが、今聴いても非常に面白い弾き方をしている。

フォークともブルーグラスともとれる不思議な感じだ。

大学に入って更にひたすらコピーに明け暮れ、やがてニューグラスなるものが登場した。日本では時に1971~2年くらいだろうか。

バンジョーからもマンドリンからも聴き慣れないリックが飛び出して来ていた。フィドルはその当時そんなでもなかったような記憶がある。

それは多分にそれまで聴いてきたジャン・リュック・ポンティやホット・クラブ・オブ・フランスなどに代表される音づかいに聴き慣れていたからだろうか。

とに角80年代にかけてブルーグラスは飛躍的な進展を見せていた。

84年にナッシュビルでまだ20代前半のマーク・オコーナーを見てぶっ飛んだ。そしてそこにいたベラ・フレックやジム・ルーニー等と立ち話をした。

ジェームス・マッキニ―とつるんでよくバンジョーを弾いていたのもその頃だったが、それ以後、特に80年代後半からアイリッシュの方に趣が変わってきたのは、やはりブルーグラスがかなり先に進んできたおかげで、自分が目指してきたのとは少しかけ離れてきたからだろう。

別な言い方をすれば付いていけなくなった、とも云えるかな。一方でテクニックばかりが強調されると2曲ほど聴けば充分。曲が終わると「へぇ、それで?」というものも増えてきた。が、しかしこれはあくまでも僕にとって、だ。

そんなころ、昔買ったボシー・バンドやディ・ダナンを聴くと妙に心の中に入って来る。

やがてアイリッシュを始めるようになったら全くブルーグラスに興味がなくなってきた。

初期に感激した曲ではアルタンの演奏した「The Curlews」だ。このメロディラインとコード進行には心が躍った。

ひょっとすると、ある意味最初に聴いた時のフォギーマウンテン・ブレイクダウンに匹敵するものだったかも。

僕はブルーグラスでも、アイリッシュでも美しい展開をする音楽が好きだ。と同時にブルーグラスではスタンレー・ブラザースのようにとことん景色をみせてくれるもの。強いて言うと力強い生活感を漂わせているもの。アイリッシュで言うとそれプラス、メロディの美しいもの、和声の美しいものに魅かれる。

オールドタイムはメロディラインや和声というところではなく、多分、その人生の喜怒哀楽というのだろうか…リズムのうねりに魅かれてしまう。

これはおそらくこの手の音楽に向き合って55年という歳月に来ておもうところなんだろう。

最近、全然関係ないが「中川家」のふたりが面白いことを言っていた。

長いことやっていると“どうにでもなる”気がする。どうにもならんことは“どうにもならん”。でも他の方法を取ってでもどうにかする面白さがそこにある。

多分もうちょっと違う表現だったと思うけど、そんな感じだった。

特に最近の彼等に技術以上、或いは技術以外のものを感じるのはその辺の“何かを越えてしまった”ところなのかもしれない。

僕にとってのブルーグラスもアイリッシュもまたそんなところに来ているのかもしれないし、そうだといいなと思う。

但し、日々、上を目指さなくてはならないことも忘れずに。

夢みるぱさり

物事には始まりがあり、終わりもあるけれど、ぱさりは終わりではない。

場所を変えて、またみんなに新たな夢を見せてくれるスタート点に立つようだ。

本当に夢のような景色だった。

作りだしたのは「泉さん」

しかし、この人のパワーには感心させられる。

人間ってどんな状況にたたされてもいつでもパワフルでいなければいけないものなんだな、ということを教えてくれる人だ。

いつも彼女が言っていた「分かち合う喜び」

自分自身が光を放てば周りが明るくなる。その光を彼女は人々に分けてくれている。

そんなことをこの人からは感じてしまう。

それは決して宗教的なものではなく、神がかり的なものでもなく、紛れもなく彼女の人間としての生き様なのだろう。

2016年の6月13日に初めて訪れたこの場所。

この次は別な場所でまた泉さん、大二郎さん、彩さん、戸矢さん、そして彼らを支えている人達、みんなの素晴らしい笑顔に会うことができるだろう。

懐かしいレコードの数々4 ブルーグラス

今回は特にブルーグラスについて書いてみよう。

初めてのブルーグラスアルバムは「Bluegrass is oldies but goodies」という、見本盤としていただいた物。

何故そんなものが入っていたのかさっぱりわからないが、最初のフォギーマウンテンBDに度胆を抜かれたものだ。

(いろいろ調べてみると1963年と65年の2回、別レコード会社からリリースされているようだし、フォギーはB面の1曲目だったらしい。もしかしたらあまりの衝撃にB面ばかり聴いていたのかもしれない)

京都に出て初めて買ったレコードはスタンレー・ブラザースとレノ&スマイリーがカップリングになっていた物。たしかB面の最初がシャーロット・ブレイクダウン(レノ&スマイリー)だったような気がする。7フレット目にカポしてめちゃくちゃ高い音で派手に弾くものだった。

スタンレーではマスタートーン・マーチやクリンチ・マウンテン・BSが入っていたかな。

(これも調べてみたら1967年の発売らしい)

順番はまちまちだが、お気に入りとしてはカントリー・ジェントルメンのイン・コンサート。

ブルーベルなんか擦り切れるほど聴いた覚えがある。

記録では67年発売、とあるので、ひょっとすると高校の終わりごろに聴いていたのかもしれない。

大学1年の頃(関西では1回生という)友人と銭湯帰りにGoin’ to the Racesをハモったりしていた。

そう言えばビートルカントリーというアルバムもあった。

チャールズ・リバー・バレイ・ボーイズの演奏で確かエリック・トンプソンがギターで入っていた物。66年の作品だったらしい。

実に素晴らしいアレンジでブルーグラスの良さを最大に生かしつつ、とてもソフィティスケイトされたものだった。

元々ほぼ全員がハーバード大学やMITに通っていただけあって、その卓越したセンスが伺える。

フォギーマウンテンボーイズのカーネギーホールコンサートも聴かなくてはならないもののひとつだろう。

勿論、スタンレー、ジム&ジェシー、ジミー・マーチン辺りは軒並み聴いた覚えがあるので、どのアルバムが…ということはなかなか言えないが、それらはいまだに僕にとってのバイブルだ、と言えよう。

しかし、何枚かの見本盤(タンゴ、ジャズ等)の中でもし、僕がタンゴに興味を持っていたらどうなっただろうか?などと考えると、この出会いも不思議なものだ。

音楽と商店街

最近、商店街を歩いていたら聴き慣れた音楽が流れていた。いや、聴き慣れないと言った方がいいのだろうか。

とても日本のいわゆる「商店街」という処に不似合だったからだ。

その曲は「O’Carolan’s Ramble to Cashel」だ。

明らかにNorthern Lights の演奏によるものだったが、恐らくこの曲を知っていたのは僕だけだったろう。

そうこうしているうちに今日は何と「Bonny Bunch of Roses -O」が流れていたではないか。

これにはぶったまげた。

誰の演奏によるものかは分からなかったが、不思議なことがあるものだ。

また、近くの「ライフ」というスーパーではしょっちゅうアイリッシュ“ぽい”ものが流れているが、時々「Jackson’s」が流れる。

僕等がフランキーの演奏から学んだものだが、何故か3パート目がない。

詳しくはLa Cosa Mulliganという名前もあるが「Jackson’s #2」としてもクレジットされることが多い。そしてほとんどの場合3パートだ。

そうなると買い物どころではなく気になって仕方がないのだが、その辺のレジの人に訊いても分かるはずもないだろう。

街で流れているバックグラウンド(通称エレベーターミュージックともいう)は何か自分で考えている時、非常に邪魔になることもあるが、たまには予期せぬところで(不似合にせよ)知っているものが流れるとフッと足を止めて聴いてしまう。

そしてそのアレンジに耳をすましたり、誰が演奏しているものだろうか、などの思いをはりめぐらせてしまう。

それは誰でもが知っているようなポピュラーなものしか聴かない人には分かり得ない世界かもしれない。

ポリッジ #2

最近はまっているのが、普通に作ったポリッジに黒コショウを入れる、というもの。

これには2通りあって、全く甘くしないで少々の塩とそれよりも多い黒コショウを入れて食するもの。

もうひとつの作り方は普通に砂糖も塩も入れて、更に黒コショウを効かせる、というもの。

これがなかなかに美味しい。

これだと食事という感じが増す。

そして更に最近アイルランドの若者から聞いた話。

冷たいミルクに、作ったポリッジを浸して、好きなドライフルーツを入れて一晩冷蔵庫で寝かせておく。次の朝、冷えて更にふやけたポリッジがフルーツと絡んで絶妙に美味しいそうだ。

しかし、日本だとドライフルーツは高い。

せっかく安くポリッジを買ってきても、フルーツにお金がかかってしまう。

そんな感じで、まだ試してはないが、もしかしたらミルクに一晩浸しておく、というのだけでもやってみたらいいかも。

それとバナナと食べたりしたら…。

たかがポリッジ…されどポリッジだ。意外と奥が深そう。

Irish Musicその153

Muireann’s (Jig)

Niall Vallely作の美しいジグ。何と発音するのかみんなの意見を訊いてみると、どうやらMur ― eenではないかということだ。どうも女性の名前らしい。

4パートでとてもシンプルな、それでいていかにも彼らしい曲だ。初めて彼のプレイに触れたのはNomosに於けるスーパープレイだった。おおきな手の長い指がめちゃくちゃ早く動いていたのを良く覚えている。

なので2019年にコークのセッションに彼が現れた時には「似てるけど、えらい静かに弾いているなぁ」と思ったものだ。やっぱり他人のセッションなので、その辺は心得ているんだろうな。

難しそうな人かと思っていたが、話してみると弟のキリアンと同じように人懐っこいところもあるのかもしれない。どちらにせよ兄弟そろってもの静かであることは確かなようだ。

曲に関する情報はあまりないので申し訳ないが。

70歳 記念CD in NEW SHOES

コンサートで全くこのCDについて発言しなかったので、少しここで書いておこうかと思っています。

最初から、カバーデザインは昔のSoft Shoesをなぞる、という考えを持っていました。

なのでバンジョーのケースを頭に乗っける、という同じポーズを試みたのですが、ひょっとしてあの時、中身は入っていたんだろうか?という素朴な疑問が湧いてきました。

今回、もう歳だし空のケースでいいんじゃない?という話になり…というか、僕からの要望で「えいやっ」と持ち上げたのですが、ケースだけでも結構重たい。

思うにあの時はやっぱり中身は入っていたように思います。

でも今回、空のケースにも関わらず情けない顔になっています。「おーい、早く撮ってくれ」という声が聞こえてくるようです。

ま、それはそれでいいか…。

裏のデザインも当時のものに近く、今回は同じグレイトレイクスのヴァンガードというオープンバックのものを使用してみました。

この楽器はSoft ShoesのGreyhoundという曲で使用していたものです。

中身のデザインも全て希花さんが制作したものに、いつもお願いしている福嶋さんが手を加えてくれました。

タイトルのin New Shoesは僕のアイディアで、これはChaplinに続いてもいいしJunjiに続いてもいいし…といった含みを持たせてあります。

さて、問題の中身ですが、Chaplin in New Shoesは今回のアルバムには必要不可欠であったので2パターンの録音をしてみました。

最初に入っているほうはベースに河合徹三さんが参加してくれました。(他にもいくつかの曲に参加してくれています)

その他の細かい説明はライナーを読んでいただければ大体分かると思います。

「なんとかルーペ」が無くても充分読める大きさの文字です。そこはこだわりました。

多くのCDのライナーは「字が小さくて読めな~い」と放り出したくなるので。

最後に全くのソロでもう一度Chaplin in New Shoesを聴いていただきますが、その前に懐かしい練習風景が流れます。

進ちゃん、省ちゃんの登場です。みんな若かった…。

全体的には、今の僕を感じてもらうものと懐かしさを感じてもらうものが半々くらいかな。

このCDを作るに当たっても、コンサートを開催するに当たっても、沢山の人が支えてくれていることを痛感いたしました。本当に感謝です。

彼等は多くのことを僕に教えてくれています。今までも、そしてこれからもそうだと思います。

そして、今回のこのCDを手にとっていただける皆さんにも本当に感謝いたします。

CDのお申し込みはこちらのサイトからお願いいたします。
in New Shoes 特設サイト

なお、今回のこのCDは数に限りがあります。なくなり次第受付を終了させていただきますので、誠に勝手ではありますがその点をご了承ください。

70歳バースデイコンサート

2020年2月8日(土) 快晴。

約1年前にこのお話をいただいた時、一番気にしていたのが天候のことかな。

2014年、希花さんが史上最難関と云われた医師国家試験を受けたのが2月8日だった。そしてその日、東京は大雪に見舞われた。

そうでなくても可能性は充分ある時期。

みんなでいろいろ考えた結果、この日に決めて、後は僕の晴れ男伝説を信じるしかない、と強行におよんだ。それらの決断をくだしてくれたのが、約40年にも渡って僕のことを支えてくれたWINDⅡのお二人、古川、村松コンビ。

それにいつもレコーディングでお世話になっているタムちゃんこと、田村さん。そして、いつもぼくらのことを世話してくれる高見大明神。

かなり試行錯誤をされたかもしれないが、僕の為に奮闘してくれたこの1年だったろうと思う。

おかげさまでコンサートは大盛況。

バンジョーで始まり、懐かしいギターチューンから歌まで。そして京都から駆けつけてくれた進藤君とともにダブルバンジョー。懐かしい歌も少しアレンジを加えての約50分。

休憩の前に久しぶりのバンジョー世界巡り。

進ちゃんの笑顔が光る1部になった。

2部は今の僕をたっぷり聴いていただくために希花さんに登場してもらい、アイリッシュチューンからスタート。

次に、1962年フォギーマウンテンボーイズ・カーネギーホール録音からフィドル&バンジョー、 (因みに彼らは62年と64年の2度に渡ってカーネギーホールでコンサートを行っているが、この録音が発売されたのは63年) そして、オールドタイムの名曲に絡ませて日本のメロディも演奏。

希花さんの超絶テクニックによるチューンや、しっとりしたエアーを演奏して別れの唄を歌い、更に、今日の最後にということで、この日もう一人のゲスト、金海君の登場をお願いした。

そしてみんなで谷間の虹を歌った。集まっていただいたみんなも一緒に歌ってくれた。

アンコールはお決まりのバンジョーチューンと、青春を想い出させるしっとりとした曲。

最後に一人でチャップリン。

皆さんのおかげで本当に良いコンサートが出来たように感じる。

最初にお名前を挙げた彼等と彼らの友人達 川端、高橋、岩井、上條(敬称略)そして他にもいっぱいお手伝いしてくれた人が居たと思う。

皆さんの存在が僕にとってどんなに大切なものかを再認識させられてしまう一日になった。

そしてもちろん、この日の為に遠いところでは鳥取や京都、新潟、更に遠いところでは北海道からも九州からも駆けつけてくれた皆さん、本当にありがとうございました。

この幸せな気持ちは決して忘れません。

東北大学ブルーグラス同好会

先日、ちょっとした用事でクロサワ楽器の小林君を訪ねるため、お茶の水に出掛けて行った。

もう少ししたらお昼にもなろうというのに、町は閑散としている。しかも日曜日だ。

中国からの人が減っているだけでこれほども違うものだろうか。

いくつかの薬局を通り過ぎると、マスク売り切れの表示や、アルコール除菌の棚が空っぽになっているのが目に入る。

やっぱりなぁ、と思いながらもお店を目がけて人通りのいつもより少ない道を歩き、お店に入った途端、異様な光景が目に入った。

何と若い男女が5~6人でバンジョーを弾いているではないか。

見たところ10代か20代前半。

「何事?」と小林君に訊ねたら「東北大学の人達です。僕もびっくり」と云う。

みんな真剣だ。

難しいブルーグラスに真剣に取り組んでいる感じ。実に微笑ましい。

しまいには僕と小林君も交じってのセッション。

ひょっとすると、彼らのお父さんが小林君のお父さん世代、そして彼らのおじいちゃんが昔ブルーグラスをやっていた…なんていう構図かな?

ナターシャーセブンが東北へ行った時に来ていたお客さんの中にそんな人が居たのかも…。そして、孫にもブルーグラスを…かな?

とに角、彼らの眼は輝いていて、とても明るくて、やっぱりブルーグラスは良いなぁ、と、つくづく感じてしまった。

東北大学ブルーグラス同好会の皆さん、良い時間を有難う。

これからも素晴らしい演奏を繰り広げてください。あ、それから勉学にも励んでください。

クロウハンマー・バンジョーワークショップ#8

8回目のワークショップが1月26日、無事に終わりました。

朝のうち雨が降っていましたが、出かける頃にはすっかりあがって、ラッキーでした。

楽器を持ちながら雨に降られる、というのはやはり嫌なので助かりました。

やっぱり晴れ男かな。

集まっていただいた皆さんの中にも雨男が居なかっただけの話かもしれませんね。

さて、今日は前回お渡ししたタブ譜「Farewell to Trion」をみんなでやってみました。

かなり上級曲ですが、皆さん果敢に練習してきてくださったようです。

相当な頻度で親指が中の方に入ってきます。

それにメロディが大きく飛ぶので左指の運指も考えなくてはなりません。

それぞれに演奏していただき、皆さんが苦労している様子が見えました。

確かに運指に関してはその場で見ていただかないと分からない部分があるかもしれません。

運指をスムーズに作ることはやはりスムーズなメロディラインを作るうえでは欠かせないことなので、これからもどしどし質問していただいてその辺りもみなさんと作り上げていきたいと思います。

この曲に関しては確かに僕も苦労したのでみなさんの苦労が良く分かります。

今日はかなりこの曲に時間を割いてから「Clinch Mt. Backstep」に挑戦していただきました。

これは非常にスタンダードな曲なので、皆さん聴いたことがあると思い、まずタブ譜無しで、耳で聴いて、眼で見て覚えていただくということを試してみました。

とてもシンプルなので皆さんも何回かで形になってきました。

そこで、ほぼ全ての音をスリーフィンガースタイルのように埋めてみようという試みをしました。

これはタブ譜をみながら。

ただ、そのタブ譜を基に皆さんにも可能な限りメロディを考えていただくのが狙いです。

Trionにあれだけ取り組んできていただいた皆さんなのでこれは次回が楽しみです。

腰を痛めていながらもお店を開けていただいた、ギターワークショップの川瀬さんに大感謝。

Irish Musicその152

The Rose In the Gap   (March)

実に風変わりな曲でどう解説したらよいか分からない。

感じとしてはかなり古い曲だろう、ということが伺える。

25年くらい前だろうか。ジェリー・フィドル・オコーナーとツァーをした時によく演奏したものだ。

彼のアレンジはこれまた変わっていた。まるでドラマのように展開していく感じだった。

結構覚えるのが大変なものであったが、ハマるとそれなりに抜けられなくなるもので、そんんなに前のことなのに頭から離れないでいたので、最近レパートリーに取り入れてみた。

ま、覚えていて損はないだろう。

ジョン・マクシェリーや、ジェリーの息子のドーナル・オコーナーは前出のOld Dudeenとこの曲を巧みに繋げている。

Irish Musicその151

The Old Dudeen   (Reel)

この曲はAndy McGann’s としても知られる名曲。

Danuの演奏で覚えたという希花さん。

僕がDanuをSFで見た時もこれが2曲目に来るセットで始まった。まだデビューしたてのバンドだったが、それはそれは素晴らしいアンサンブルを聴かせてくれた。

後にアンドリューとウォーターフォードのパブで演奏したが、そこはDanuのメンバーの両親が持っていたパブでその時の面白い話がある。

当然バンドのメンバーが数人来ていて(僕はまだ顔と名前が一致していなかった)トイレに入っていたら横に立った男が実に良い声で唄っているではないか。「あんたDanuのキアラン?」と尋ねたら「そうだよ。よろしく!」と言って右の手を差し出してきたので、僕は思わずこう言った「ちょっと待った。手を洗ってからにしよう」

それ以来僕は個室に入るようにしている。

曲とは全く関係ない話。

僕が大好きなのは1949年の秋にダブリンでPaddy Killoranによって演奏されたものをSeamus Ennisが録音したとされているものだ。

この頃の録音物を聴くというのは大切な宝物に出会ったような感覚だが、また、若い人達がその魂を見事に受け継いで演奏している、というのもとても素晴らしいことだ。

2020年

2000年になった時「へぇ~!2000年だって!」と驚いたものだが、あれからもう20年にもなることに改めて驚いてしまう。

そして自分が古希を迎えてしまったことにも驚いている。

今のところ特に体の調子で悪いところはないが、立ち上がる時の「どっこいしょ」や「あいててて…」などは仕方ないものだろうか。

しかし、今まで大病も患ったことがない、というのも考えもので、猫の去勢手術の話を聞いただけでも全身の力が抜けてしまう。

こんな話題で始まる2020年というのもどうだろうかと思うが、昨日までの2019年は特に忙しく演奏をしてまわった、ということはなかった。

CDを新たに作ったことやラグビーワールドカップ絡みの演奏、何年か振りのジョディース・ヘブン。それくらいだったろうか。

年末にキアラン君との演奏で年を越せたのは僕等にとって良かったかもしれない。

久しぶりにアイルランド音楽の本来あるべき姿を垣間見たような気がする。引き戻された、というべきだろうか。

2011年からアイルランドのトップミュージシャン達と関わり、今ではその仲間入りをしている希花さんにとっても、まだまだ学ぶことは多いだろう。

僕の方もそうだ。

ブルーグラスだってオールドタイムだって、アイリッシュにしても…まだまだ道の途中であり、未知の世界が広がっている。

2020年がどういう1年になるか、その先はどうなるだろうか。正直知る由もない。

日々を大切に、健康に留意して、ほどよく先に進んでいくことができればまた新しい年を迎えることができるだろう。

ずっと支えてきてくれている古くからの友人達、そして新たにお知り合いになることができた方達に感謝しながら。

2月8日に往年のWindⅡが70歳のバースディコンサートを主催してくれるので、そこではいろんな歌を皆さんと一緒に歌いたい。

そしていい音楽をいっぱい聴いていただきたいし、その日の為にCDも用意してあります。

また皆さんとお会いできること、そして皆さんの元気なお顔を見ることができる、という事を楽しみにして2020年最初の挨拶に変えさせていただきます。

古希

2019年、12月30日に古希のお祝いを京都の都雅都雅さんでやっていただく。その一日前に静岡にも行く。ここには高校時代の友人も沢山いるから彼らもみんな古希だ。

思えば静岡と云う土地に生まれ、それも何と忙しい時に生まれ、まだ世の中が白黒だったような頃(希花さんが僕らの時代の写真を見てそういうのだ)母の勧めでピアノを始めた。

結構裕福な家庭だったことは確かだ。

高校時代にフォークソングに出会い…とは言えども、すでに小学校高学年の頃にはブラザース・フォアを聴いていたのでかなり早い時点からそういったものには興味があったようだ。

ほどなくしてブルーグラスにノックアウトされ、当時見ることも出来なかったバンジョーに心が躍ったものだ。

京都産業大学でブルーリッジ・マウンテン・ボーイズに入部し、ア法学部と云われていた法学部の勉強はそっちのけにしてバンジョーの練習に明け暮れた。

高石さんと出会ってナターシャーセブンを始め、日本では訪れていない県はなくなった。

京都の仲間たちは未だに僕の面倒をよく見てくれているし、日本のあちらこちらに今でも笑顔で迎えてくれる人が沢山いる。

東京方面でも来年の2月8日にWindⅡというサークル名で、ずっと省悟と僕のコンサートをプロデュースしてくれた友人たちが古希のお祝いコンサートを主催してくれる。

本当に有難いことだ。

そしてその日に合わせて新たなCDまでプロデュースしてくれた。

それを僕は長年、自身のギタープレイの代名詞となってきたChaplin in New Shoesで始まるインストアルバムに仕上げた。

そんな感じで静かに古希を迎えようとしている今日この頃。

昔は70まで生きるなんて希なことだったという意味で、稀と云う字を使ったということだが、今は希望を持たせる意味で、希という字を使うんだろうか。

何はともあれ、若かったころには想像もつかなかった自分の70代とは一体どんなだろう…?

ロス・アンジェルス暴動

何故か偶然この暴動の時のことをテレビで放映していた。こんな時期だったのかなぁと思って調べてみると発端は1991年の3月3日のことだった。

何故テレビで取り上げられていたのかは分からないが、僕はその時のことをかなり鮮明に覚えている。

あのトラックドライバーが暴行されたシーンは、暴行を受けていたのが僕の親しくしていたコロラドの友人によく似ていたのでなんとか彼に連絡を取りたかった。

彼はトラックドライバーだったのだ。

結局彼はあの日ニュー・ヨークの方に居た、ということが分かった。

僕はというと、あの日(暴動が起きた日1992年の4月29日)ジャパンタウンで知り合いのパーティがあり演奏を頼まれて出かけていた。

会が盛り上がってきた頃アナウンスがあった。みんなすぐ家に帰るように。この会は中止だ。

そんな内容だったが僕はこの時初めての言葉を聞いた。それは「curfew」という言葉だった。

どういう意味?と尋ねると、日系人のおじさんが「戒厳令だよ。ロスで暴動が起きているらしい」と教えてくれた。

サンフランシスコでさえそんな状態だったのでロスのそれはひどいものだった。

やがてロドニー・キングの演説によって収束するまで、僕らもとても他人ごとではなかったのだ。

すぐ隣にあった韓国人の経営するグロッサリーは店じまいをしていたし、おちおち道路を歩くこともできなかった。

しかし、彼の演説は素晴らしかった。聞くところによると、演説を勧めた弁護士が原稿を用意していたが彼は自分自身の言葉でそれを行った。

「仲良くできないのでしょうか?」という問いかけは素晴らしかった。

酒浸りの父親に暴力を振るわれ、学校にも行かず、地元の不良仲間とつるんで問題ばかり起こしていた彼が自らの言葉で素晴らしい演説をしたのだ。

しっかり教育を受けているはずの我が国の政治家は、自分に都合の悪いことは隠しまくって、御付きのものが用意した文章でしか喋らない。

それで「説明責任は充分果たした」などと、大嘘をついてどこかで美味しいものを食っていやがる。彼らがテレビに出ていると吐き気がする。

そんな連中には到底及ばないことをロドニー・キングがやったのだ。僕はあの演説をテレビで観ていた。涙がでるほど感動した。

あれからもう30年近く。それでも世の中は混沌としているように思える。

ラグビー

先月から希花さんの仕事に付き合ってのラグビーワールドカップがらみの演奏を横浜のファンゾーンで行っていた。

1度は台風で流れたが、9月22日のアイルランド対スコットランド戦に合わせての演奏はなかなか興味深いものがあった。

いや、演奏というよりもラグビーというものがこんなにおもしろいものだということが分かったからだ。

そういう人がこの1か月余りで随分増えただろう。

僕にしてみれば、高校時代の体育の授業ではラグビーをやった覚えがあるが、そのルールなどは全く覚えていない。

覚えていることと言えば、ボールを前に投げてはいけないことだけだ。おかげでその後バスケットをやると後ろにパスしてしまう事が多くなったりもした。

スクラムなんて、面白くておたがいやたら関係ないのに蹴りあったり、頭突きしあったりしたものだ。別にこんなことしなくてももっと他の方法があるんじゃないかと思ったものだが、なんか面白かったことも事実だ。

今で言えばいじめみたいなものだが、クラスのいじられ役なんかこのときとばかり散々な目に遭っていたが、みんな仲良くやっていた。

さて、今回のワールドカップにはなかなか興奮させられた。

アイルランド対日本の試合の前日、ノエル・ヒルが電話してきた。「悪いけど勝たせてもらうぜ!」電話口で大口を叩いていた。

次の日「残念だったな!」と電話しようかな、と思ったが落ち込んでいると可愛そうなのでやめておいた。

別な友人は南アフリカ戦のあと「日本凄かったなぁ。残念だったけどあとは南アフリカに頑張ってほしい」と言っていた。みんなそれぞれに盛り上がっていた。

それに最初は「ラグビーって何人でやるの?」なんて言っていた希花さんも、「ノックオンだ!いけ!リーチ。いけ福岡!」「よし、ジャッカル決まった!」「トラ~イ!!」なんて叫んでいた。

しまいにはハカまで真似するようになったが、今一つ、人前でやる勇気はなさそうだ。

確かにもっともっと盛んになってもいいような気もするが、結構危険だし格闘技然とした要素もあるあるし、そうおいそれとはできないスポーツでもありそうだ。

ポジションで体格の差があるのはけっこう面白いが。

何を於いても、様々な関係者の方、特に僕らが直接お世話になった横浜のファンゾーンで朝から晩まで走り回って全ての人達の面倒をみてくれたスタッフたち、もう少しゲームがありますが、どうかお身体を大切に。そして終わったら少しだけでもお休みください。

ラグビーを通じて多くの人が頑張っている姿を見ることができて幸せでした。有難うございました。

ポリッジ(オートミール)

先日テレビを観ていたら、アイルランドのラグビー選手の為にコックさんが来日して日本のシェフにポリッジの作り方を教えている、なんて言っていた。

笑ってしまってはいけないのだろう。

僕はナターシャーセブン時代からポリッジ(当時はオートミールと呼んでいたが、アメリカ表記だろうか)が大好きだった。

当時まだ日本ではあまり食べる人が居なかったと思う。日本では風邪をひいた時、胃腸の具合が悪い時、お粥を食べるがこれは知っての通り甘くない。梅干しや塩昆布などと一緒に食べると美味しいがポリッジは砂糖やハチミツだ。

昔、ところてん大好きだった省ちゃんが、関西ではお決まりの黒蜜だと思って関東で酢醤油のものを掻っ込んで思い切り噴出した、という話を聞いた。匂いを嗅げば分かりそうなものなのに…。

ポリッジに関しては僕の周りにそれを好む人は数人しかいなかった。

しかし、あの絶妙な甘さと牛乳の感じはホテルに泊まった時の朝食には必ず欲しいものだった。

今、アイルランドに行ったら必ず買い置きしておく。日本で買う10分の1くらいの値段だ。

僕は冷凍しておいたバナナをカットして牛乳で交ぜて作る。クイック・オーツなるものも売っているがこれはいただけない。

メープルシロップ味というものもいただけない。

ある時、アイルランドで宿泊していたB&Bでポリッジをオーダーしたら、家主が「あたしのポリッジはどう?」なんて訊いてきた。これには困った。心の中で「こんなもん誰でも作れるわ。何を今更!」と思ったが「美味しい」としか言えなかった。

しかし、ポリッジコンテストなるものもあるくらいなので、それなりに違いはあるのかな。

う~ん、結構奥深いのかな?

Amazing Grace and Chuck

最近話題になった国連での少女の抗議からこの映画を想い出しました。

日本ではほとんど知られていないものだと思いますが、こんな物語です。

アメリカのある小さな町に住むChuckという少年。実は地元のリトルリーグで活躍する、それも地元ではかなりの評価を得ている選手でしたが、ある日核兵器の施設を学校の授業で見学に行き素朴な疑問を持つのです。

「何故こんなものが必要なんだろうか?」彼は決心します。「これが無くならない限り、僕は野球を止めてしまう」

彼のことをやがて小さな新聞社が記事にします。

そしてそれを見たボストンセルティックスの主力選手Amazing Graceが「よし、この子に賛同する。俺も核兵器がなくなるまでバスケットボールは止める」

そして、大リーグの選手たちがこぞって賛同し、勿論フットボール選手も…。

そんな風に物語は進んでゆくのですが、やがてあることをきっかけにして世界中の子供たちが彼に賛同していきます。

勿論、夢物語的な部分は否めませんが、とてもいい映画でした。

話を戻して、あれを聴いたあの会議に参加していた要人たちがなにを感じたか分かりませんし、これからどうなっていくかも分かりません。でも、確かに何とかしなければいけないということは自分たちの身に降りかかっている気候変動からも分かってきています。

あまり気にしていないのは金と権力に守られている政治家だけかもしれません。

Amazing Grace and Chuckもし興味がありましたら是非観て欲しい映画のひとつではあります。

11月にJack Gilderがやってきます

僕がアイリッシュ・ミュージックの世界に入った1991年。プラウ・アンド・スターズのセッションで初めて彼と出会ってから、かれこれ30年近くの年月が経ちます。

そして‘95年頃、いくつかのグループを経て彼と共に彼自身が80年代からやっていたグループ「ティプシーハウス」の看板を背負うようになりました。

そのグループはすでに北カリフォルニアの人気バンドで、コントラダンスの伴奏や、コンサート、パブでのギグなどで大忙しでした。

と共に非常に多くのレパートリーと知識を兼ね備えたジャックをリーダーに持つバンドだったので、その日から怒涛の記録づくりに励みました。

まず少なくとも200曲ほどはタイトルからメロディまで正確に覚えなくては話にならないと感じ、彼らのレパートリーをノートに書き写しました。

ジャックは僕のコード感覚に感銘を受けてくれたし、奥さんのジャニスは「あなたの探していた人がやっとみつかったわね」と言っていました。

そしてジャニスはティプシーハウスがアイルランド移民の子孫たちに向けたコンサートで演奏した時、僕の弾く「O’Carolan’s Ramble to Cashel」に多くのお年寄りが涙を流していた、というコメントを出してくれたのです。

そんなジャニスが数年前に亡くなりました。

僕にとってはジャックと共に僕のアイリッシュ・ミュージック生活に欠かせなかった存在のジャニス。

今回のジャックの来日はそんなジャニスに対する僕の感謝の気持ちをジャックとの演奏に乗せたいという思いで企画しました。

まだ詳細は決まっておりませんが決まり次第、皆様にお知らせいたします。

クロウハンマー・バンジョーワークショップ#7

アイルランドから帰ってきて、ワークショップを10月6日の日曜日に行うことが決まりました。

しばし、アイルランド音楽に埋もれていましたが、やはり5弦バンジョーは弾く人が少なくそれなりに人気があります。

しかし、彼らの弾くテナーバンジョーは全く異なるピッキングでその手つきを見ているだけでも面白いものがあります。

それと同時に僕の弾くクロウハンマースタイルにもとても興味を惹かれるみたいです。

帰り道に韓国によって、このワークショップをやってきました。

韓国には「カントリーゴンバン」という素晴らしいブルーグラスのバンドがありますが、彼らの仲間にとってもクロウハンマーは初めての経験のようでした。

みなさんとても真剣に取り組んでおられました。

1時間だけで、クロウハンマー未経験という彼らにどれだけ伝えることができたか分かりませんが、韓国でもこれからこのスタイルで弾く人が増えてくるかもしれません。

今回はなにをしようかと思っていますが、みなさん夏の間はいかがでしたか?暑くて練習どころではなかったかもしれませんね。

少し秋の気配が感じられる今日この頃。落ち着いたリズムでクロウハンマーを楽しみましょう。

2019年 アイルランドの旅 15 まとめと韓国訪問

9月11日(水)

朝、ダブリンに向かう。いよいよ今回の旅も終わりだ。雨が降っている。

そのせいか気温はすこし高く16℃ほどあるそうだ。

ダブリン空港で見た顔が人ごみの中を歩いてきた。ジェリー・バンジョー・オコーナーだ。

「ジェリー?ジェリー・オコーナー?」と声をかけると「やぁ、どこかで会ったなあ。どこだっけ?」「ロングフォードのバンジョーフェスティバルだよ」「あーそうだ!随分前だったなぁ」そんな会話を交わし、彼は「ド二ゴールに行くけど、君たちも気を付けて」と言い残して再び人ごみの中に消えていった。

僕等もこれから韓国に向かう。

アイルランドではことしも沢山の出会いがあったし、いろんな人達にずいぶんお世話にもなった。

また来年来るだろうけど、彼等には本当に感謝している。毎年ちっとも変わらず、様々な面倒をみてくれる彼らは僕にとって貴重な存在だ。僕も彼らにとってそんな存在になりたい。

さて、ここからは韓国。(9月12,13日)

2度目の彼等との交流は、とても価値あるものになった。

彼等はとてもあたたかい。

そして、いいプレイヤー達だ。願わくば、どんどん外へ出ていって体でリズムを感じて欲しいし、もっともっと心からプレイできるようになるといい。

彼等はきっと今よりもいいプレイヤーになれると思う。今でも充分心を感じる人達だし。

そんな彼らに大感謝だ。

美味しいものをいっぱい有難う。

それから、韓国ブルーグラス「カントリーゴンバン」のJangくん。僕にギターもバンジョーも貸してくれて本当に有難う。

2019年 アイルランドの旅 14

9月7日    (土)曇り。

2019年はどんな旅になるだろうか、と言って2018年の旅のレポートを終えている。毎年いろんな刺激を受けているが、それがここにいると結構日常になってきた。いいのか悪いのかはわからないが、とにかくもう普通に溶け込んできていることは確かかもしれない。

特にバグナルスタウンやタラの田舎ではあまり見ることがない日本人のはずだが、もうすっかり地元に溶け込んできたように感じる。

それはいろんな人種がいるダブリン、エニス、リムリック、コークなどとはまた違う感覚だ。

もしかしたら人によっては、どこの田舎にもあるチャイニーズレストランの人間だと思っている人もいるかな?

9月8日    (日)晴れ。

そろそろ自身の70歳を記念する企画に伴ってのアルバム作りのことを真剣に考えなければいけない。いくつかの曲はスタンダード・チューニングで弾いた方がいいので、その練習もしなくては。

1991年以来、ほとんどスタンダードな調弦はしていないので1弦をEに上げるだけでも怖い。マンドリンの人とかディキシーランドジャズのバンジョーの人とか弦を張る度に寿命が縮まるんじゃないかな、と思ってしまう。

ギターの弦はそこまでテンションがきつくないが、それでも今のチューニングに慣れてしまうと結構怖い。

録音では12弦ギターも使おうと思っているがいつも一音下げてチューニングしている。3弦の細い方の弦はかなり怖い。

あー、弦を張らなくていい楽器はいいなぁ。バイオリンも顔の近くで弾いているから切れたら怖いだろうなぁ。

エレベーターの隙間に鍵が落ちるよりも確率は高いだろう。などなど、しょうもないことを考えているうちに時間が経ってしまう。

人生は短い。でももう70年も経つのか。結構長いなぁ。

ところでチキンは完食。ケンタッキーでこんなに食べたら1万円くらいになりそうだ。野菜も沢山入ってチキンは400円程度。みんな大きくなるはずだ、と、またまた感動してしまった。

そんな矢先、3日ほど出かけていたオスの猫が戻ってきた。なんだか顔も体も傷だらけでおまけに前足を引きずっている。とりあえず、様子を見てから病院に連れていくことを考えている。

9月9日    (月)曇り時々晴れ。

現在朝の8時。風が強く、寒々としているが後から良い天気になりそう。

バグナルスタウンに別れを告げに行ってみたが、いい意味で全く何も変化のない本当にのんびりした町だ。歩いている人たちもいつもと同じように見える。

美しい川を白鳥や鴨が泳いでいる。そして今日はおまけにカワウソまで泳いでいた。非常に珍しいということだ。キアラン君も話を聞いて驚いていた。

旅の終わりはいつでもせわしない。いろんな人にお礼を言わなくちゃ。

明日で今回の旅も終わり。明日はキアラン君と外食することになっている。

今日は僕の作ったビーフシチューとキアラン君がスペインで買ってきてくれたワインで乾杯。そして早く寝ることにした。

9月10日     (火)晴れ、

朝7時現在、気温は4℃だそうだ。東京の気温を見てみたら34℃になっている。30度の違いはでかい。

いよいよ明日、ダブリンからまず韓国に向けて飛ぶ。このところ不仲という話になっている韓国だがたくさんの友人が出迎えてくれることになっている。彼らとの絆は深いはずだ。

2019年アイルランドの旅は一応今日で締めくくろう。来年はいよいよ2020年。ただ単に割り切れる数字と言うことだけでも色々と特別な年になるかもしれない気がする。

体さえ丈夫ならば、また2020年アイルランドの旅というものを書いているだろう。

 

2019年 アイルランドの旅 13

9月2日  (月)曇り。

気がついたらもう9月。本当に歳とともにその日その日が早く過ぎてゆく。そしてここはもう冬に近づいている。上着がないととても外でじっとしていられない。特に今日のような天気では。

ここから先は帰国まで特筆すべきことはないかもしれないが、とりあえず日記感覚で書いていこう。世の中何が起こるか分からないので。

先生のキアラン君も始まったばかりの学校は結構いろんなことがあって忙しいみたいだ。

「あ~忙しい。あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ!」と言いながらギターを弾いて歌い出す。挙げ句の果てにいいワインがあるから君たちが飲んだらいい、と言って高級ワイン(日本ではかなりお高い)をあける。そしてさっきまで「明日は早いからもう寝なくちゃ」と言っていたのにカウチに座って自分もワインを嗜んでいる。「うん、これはいいワインだ!」なんて言いながら。

さすがアイルランド人。

9月3日   (火)曇りのち晴れ。

天気予報を見ると一応雨マークもついているが、降水確率は0パーセントだそうだ。

夕方から少し晴れ間が出てきたが、今日はここで初めて暖炉に火が入った。昨夜あたりから寒くて、そろそろ炊くか、と話していたところだ。先日ティペラリーに行った時も寒かったが、あれからしばらく暖かい日もあったので、久々の暖炉だ。

今は夕方の6時ちょっと前。まだ明るいし猫は2匹ともどこかへ出かけている。

9月4日   (水)晴れ。

気温は15℃でよく晴れている。どうやらこのまま冬がやってきそうだ。

昨日、久々にジャックと電話で話をしたが、相変わらずゆっくり喋る。キアラン君は僕らの知っている人の中でもかなり早口だ。大体アイルランド人は結構早口のような気がする。

そんな中、BOMのニュース・レターでジャネット・カーターのCDが紹介されているのを見て、そういえばあの人たちすごく喋りがゆっくりだったなぁと思い出した。そして久々にカーター・ファミリーミュージックを聴いたり、彼らのホームグラウンドをユーチューブで見たりして色々思い出していた。

ありゃ、雨が降っている。とても降りそうでなかったのに。まさに山の天気。ありゃ、ものすごく晴れてきた。

今晩も暖炉を炊かなくてはいけないだろう。と思っていたが8時半現在、そんなに寒くない。昨夜はなぜあんなに寒かったのだろう。

今、ポルトガルのビールSuper Bockを飲んでいる。何気無しに調べてみたら日本にポルトガルビール「スーパーボック」ファンクラブというのがあってひたすら感動してしまった。

先日キアラン君がスペインに行っていた時に大量にワインやビールを買ってきたうちの一本だ。日本では限られたところでしか手に入らないようなのだが。と言ってもアイルランドも一緒か。だから買ってきたんだろうなぁ。

9月5日    (木)薄曇りのち晴れ。

こんな日の方が比較的安定していることが多い。

どこへ行っていたのか、2匹の猫が戻ってきて、ニャーニャー騒いでいる。オスの方は今日もまたひどく汚れているし、お腹が空いたと騒いでいる。散々食べた後でも僕がちょっと動くと「お、飯かもしれない」という顔をしている。

メスの方は落ち着いて窓際族になっている。

そんな平和な状況だが、ニュースで京急の事故のことを知った。

群がってスマホ撮影をしている人たちが今の時代を象徴しているようで殺伐としている。思えば、他人が大変な思いをしているのを画面で眺めるのは湾岸戦争あたりから始まったのかなぁ。それが今や個人的な小さな画面で撮影しているが、事故の現場をインスタ映え、などと言わなければいいがな、と強く思ってしまう。ま、それは心配のし過ぎか。

今日は暑くなってきた。朝とは違って快晴。気温は15℃、これで暑いなんて言っていたら怒られてしまうかな。

9月6日    (金)曇りのち晴れ。

昨日も今日も朝のうちは一雨来るか、と思わせる天気だが、かなりよく晴れてきている。

オスの方は昨夜から見ていない。またどこか遠くへ出かけているのだろう。

そろそろ帰り仕度をしなければならない。

キアラン君はこのところ学校がかなり忙しいので、今日は帰ってきたらガンガンに寝る、と言っているが、その前に明日のためのチキンをオーブンに突っ込むと言って張り切っていた。

先日、丸のままのチキンを買ってきた。3ユーロほどでかなり大きな鶏1匹買える。それを土曜日に食べようと言っている。

なんか見たところすでに味付けされているみたいだし、あとは野菜でも一緒にバットに入れて、下の段にジャガイモを丸のまま入れればそれでいい。いかにもアイルランドのメシだ。

この旅のレポートもあと1話くらいで終わりになるだろう。またこの音楽について色々と思わされるところがあった今回の旅。どんな風にまとまるかまだわからないが、1ヶ月半ほど、長いようで短かったような、以前はよく3ヶ月も来ていたなぁ、とも思う。

今晩は寒くなりそうな気配だし、暖炉の火でも眺めながらワインでもいただこうかな…。

2019年 アイルランドの旅 12 カウンティ・ミースとウエストミース

8月30日    (金)曇り。

Co.Meath とCo.West Meathの境。 2014年に知り合ったリアムという人が彼の家にいく途中に色々連れて行ってくれる。Hill of TaraやLough Crewなど、今までに来たことがないところ。そこはアイルランドの歴史上で最も重要なところだと聞いた。360度見渡せる丘の上からほとんど全てのカウンティが見える、風が吹き荒れる絶景は確かに今まで行ったところのどことも違う感じがする。

5000年もの歴史にしばし感動して家に戻ってみんなで食事。

実は、ここに来ている理由だが、2014年の8月1日(金)にゴールウェイで出会ったバンジョー・ボーイ、彼のお父さんに毎年「チャンスがあったら来い」と言われていたからだ。

なので、夜には地元のパブでセッション。いつもやっているシンギングがメインのセッションだが、みんなそこそこの年で古いフォークソングなども飛び出す。

ダラウ(バンジョー・ボーイ)も18歳になり、バンジョーの腕前も冴え渡っていたが、こういう風に大人たちの歌を聴きながら、自身も歌うようになり、そしてバンジョーを弾く。そんな地元の人たちの愛情に包まれて成長していく姿を見るのはいいものだ。

余談だが、父親のリアムは、僕らが時々会っているカーロウで家具作りをしているダラウ(このコラムでも登場している)のいとこだ。

そんなことは全く知らずにコンタクトを取っていたがある日それが判明した時には驚いたものだ。世の中狭いもんだ。

8月31日   (土)快晴。

リアムと奥さんのアイリーンは朝早くからハーフ・マラソンに出かけた。ここの家族、とてもアウトドアー志向が強く、山登り、スポーツ、キャンプ、サーフィンなどしょっちゅう出かけるようだ。

2014年にアコーディオンを弾いていた妹も今ではハンマー投げの選手として高校で活躍しているらしい。あの時はまだ子供だったが、しっかりした筋肉質でいかにもスポーツ選手という感じだ。その下にもう一人妹がいるが、こちらもティンホイスルを吹く。ちなみにお母さんはコンサーティナを弾くが、走ることの方に今は重点を置いているのであまり弾いていないそうだ。

ちなみにリアムはバンジョーを弾く。こんな家族構成で家の中は賑やかだ。

一番おとなしいのは長男のダラウ。やっぱり女の子は社交的なのかもしれない。

午後からはKillua Castelというところに連れて行ってもらった。これまた素晴らしいところで、最初は突然の土砂降りで一時はどうなるかと思いきや、すぐにこの上ないくらいの天気に恵まれて、広い広いところを歩いた。羊も馬も気持ち良さそうに草を食べている。

途中、友人のところに寄る、と言ってある家の前に来た時「ここには、なんていうんだっけ。首の長い毛皮が取れるなんか南米によくいるらしい動物がいるんだ」とリアムが言ったが、それはなんとアルパカだった。

とんでもなく広い裏庭にアルパカが7~8頭いる。中には生まれたばかりのも居る。鶏も同じところを歩いている。猫もやってきた。

この家の持ち主である彼は、様々な楽器を作り、自分の家は自分で全て作り、スピーカーも作り、アンプも作り、アルパカの毛皮を売ったりしながら生活している。とても人のいい素晴らしい人だった。

夜、また地元の別のパブに行って演奏。そこはまるで船に乗っているような作りだったが、外から見るとただのバラック小屋みたいなところ。それでも10時過ぎたら人がいっぱい集まるから不思議だ。

結局2時半頃戻ってきて、満天の星をしばし眺め、紅茶を飲みながらお話しして、4時近くに寝床に入った。

9月1日   (日)晴れ。

今日は昼からBog(泥炭地)を歩きにいく。荒涼としたヘザーが生い茂る場所。アイルランドの人たちが冬を越すためになくてはならない

ターフ(turf)が作れるところだ。

アメリカや日本でturfというと、多くは芝やゴルフのグリーンを意味するらしいが、アイリッシュのターフというのは暖炉にくべるためのものを言う。ドライピートという言い方もできるらしい。

ダラウとその友人たちは朝早くからそれを掘り起こす仕事に出かけている。それはそれは大変な体力が要求される仕事だ。僕らは掘り起こされたターフが綺麗に並んで乾かされているのを見ながらひたすらヘザーの湿地帯を歩く。靴の底がクッションの上を歩いているみたいでなかなか気持ちがいい。

しかしそんなことを言っている場合ではない。ここで働いている彼らはアイルランドの歴史をそのまま受け継いで、そうして彼らの音楽も演奏している。

今回のミース滞在は少し今までとは違ったかもしれない。

今までは圧倒的にミュージシャンの家に泊まることが多く、本当にこの音楽のあるべき姿を彼らを通して見てきた。

しかし、今回は普通の家庭で子供達も一緒になってご飯を食べて、彼らがそれぞれ力仕事に出かけたり、女の子は家のことを手伝いながら、また夜な夜な音楽を楽しみに出かけていく。両親もそれをサポートして一緒になって出かけていく。

そんな姿を目の当たりにすると、この子たちはこうして育っていって、その中にはプロのミュージシャンになる子もいれば、そのまま地元で仕事をしながら音楽を楽しむ子もいる。そんな中に強烈にうまい子も沢山いる。

近所の子や親戚の子も沢山現れてどれが誰やらわからないけど、完全にごく普通の家庭の中に入って音楽を演奏したことは結構新鮮なできごとだったかもしれない。

しかし、どうしてどこのパブでも演奏する人に対して湯水のようにビールが出てきて、サンドウィッチまで出てきたりするんだろう。

晩御飯を食べた後の次から次へと運ばれてくるビールと、フライドチキン、ポテト、サンドウィッチ、サブマリンなどが山盛りのプレート。もう何が何だかわからなくなってしまう。

特に田舎ではこうして音楽を演奏する者に対するリスペクトが強いようだ。日本でいうアイリッシュパブとはかけ離れたものがある。

帰りは、リアムの両親がなんとカーロウから来ていたので彼らと一緒に帰ってきた。

そして、旅もそろそろ終わりに近づいている。

2019年 アイルランドの旅 11 バグナルスタウン

8月26日   (月)晴れ。

見事な快晴。風は涼しいが、多分20℃くらいかな。気持ち良い日差しに誘われて少し歩いてみる。牛が遠くでモウモウ言っている。

ほとんど雲ひとつない、と言える空の下、緑が生い茂ってその先に見えるのは牛と馬と羊くらい。

早く歩くと少し汗ばむくらいだが風が冷たくて気持ちいい。

夜は夜で星がいっぱい見える。たまにはこんな星降る夜に外で寝ながら星を見つめていたいな、と思ったりもする。

8月27日   (火)晴れのち曇り。

昨日のようなわけにはいかないが、よく晴れている。でもお昼前から曇ってきて夜は一雨あるかな?と言う感じになってきた。相変わらず涼しい風が吹いている。気温は17℃となっている。

今日はゴールウェイのママ、芳美さんが週に1日だけの休みを利用してここを訪ねてくる。

あまり遠出もできないので、また近くのBallymoon Castleに行ってみるが、今度は雨に降られることなく無事帰ってくることができた。

いつもゴールウェイの街中で過ごしている彼女は、この何もない景色に感動しっぱなし。

良い休日を過ごせたようだった。

8月28日    (水)晴れ。

このところいい天気が続いている。結局昨夜も雨は降らなかった。

8月29日    (木) 晴れ。

今日からCo.Meathに行く予定が一日ずれて明日になったので1日またゆっくりする余裕ができた。

今現在(朝の8時)気温は11℃ということだが週末には8℃とかになるそうだ。

さっき猫のメスの方(コムギ)がどこからか小さなネズミを咥えて帰ってきた。ネズミは瀕死の状態。コムギは猫パンチを食らわすわ、口に咥えるわ、放り投げるわ、完全に遊んでいる。オスの方(オコメ)はとろ~んとした顔をして眺めている。やがて子ネズミは絶命したらしいが、まだ弄んでいる。猫もライオンのようにメスの方がハンティングするらしい。

シティーガールの希花さんは終始逃げ回っていたが、あまりに可哀想に思ったらしく、勇気を振り絞って庭に埋めてあげ、小さなお墓を作って一件落着。

明日からはまたCo.Meathだ。

コムギ
オコメ

2019年 アイルランドの旅 10 コーク

8月20日   (火)曇りのち雨のち晴れ。気温11℃

明日からまたコーク。マット・クラニッチのところに出かける。

2014年に初めて彼の家に行き、貴重な資料の数々を聴かせていただいてからもう5年。また様々な人に会わせてくれるらしい。

なので、又してもお泊まりセットの準備にてんてこ舞い。

8月21日   (水)曇り。現在14℃で少し降りそうな感じ。

毎朝、猫たちはどこに行っているのか姿が見えないが、それぞれにフラっと戻ってくる。オスの方はこの上なく汚くなって帰って来て、腹が減った、と言わんばかりにニャーニャー叫ぶ。メスの方はそこまででもないが何故か部屋の中を走り回る。

ところ変わってマット・クラニッチの家。スリッパーと言う名の猫が出迎えてくれる。彼は長年のパートナーであるチャーリーを失ったばかりで寂しそうにしている。僕らにも一生懸命擦り寄ってくる。なんと言うか、猫も人の子みたいな感じだ。

8月22日    (木)曇り。

コーヒーをいただいて、少しだけシリアルもいただいて、マットがお医者さんのところへ定期検診に出かけて帰ってくるのを待って、

僕とマットはウォーキングに。2018年の9月1日に一緒に歩いた公園だ。帰りにコーヒーショップへ寄って、サンドウィッチとコーヒーをいただく。希花さんは奥さんのリズとどこかへ出かけている。

思えば、2014年9月5日の金曜日にここを初めて訪ねて以来、毎年、と言うわけにはいかないが、必ず連絡を取り合って来れるような時にはいつでも来てお世話になりっぱなしだ。

夜、6時からのコーナー・ハウスでのセッションに出かけたが、見たような顔がコンサーティナを持って現れた。Niall Vallelyだ。聞いたところによると弟のCillianも1週間前に来ていたらしい。彼とは親しかったので会いたかったなぁと思うが、とりあえず挨拶をする。

ほんのちょっぴりサンフランシスコであったことを覚えてくれていたようだ。今はコークに住んでいて、弟は彼を訪ねてやって来ていたそうだ。他にもNYからのバンジョー弾きが来ていたが、彼は僕のことをミック・モロニーと大学で演奏した時に見たと言っていた。

世の中狭いもんだ。

相変わらずパイパーのオーイン・オリービーとフィドルのジョニー、それに今日はエイダン・コフィーも加わってすっ飛ばす。

非常にしっかりしたトラッドの価値あるセッションだ。

戻ってからまたまた絶品料理をいただいて軽くワインを飲んで今日は早く寝ることにした。

8月23日   (金)晴れ。

今日はコーク市内に出かける。観光メインだが、その前に少しチューンを弾いて。

コーク市内ではこちらでバイオリンの修理などを手がけている、アコーディオン弾きの「はるあき君」の工房を訪ねる。

途中でカフェに寄って甘いものとコーヒーでひと時を過ごすが、僕のオーダーしたエクレアは日本のサイズの5倍ほどの密度だ。これでもかと思うくらいのクリームが挟まっている。希花のメレンゲにも思い切りクリームが乗っかっている。これで十分ディナーサイズだ。それに大きなサイズのコーヒー。そりゃみんな大きくなる。今更だが。

そして又しても奥さんのリズが用意してくれた素晴らしいディナーとワインで話が弾み、沢山のチューンを演奏した。じゃぁ最後の曲、と言いながらそれからも何曲演奏したことだろうか?

ベッドに入っても頭の中は沢山のチューンがまだ流れている。

8月24日   (土)晴れ。

今日は午後からFlannery Sistersの家に出かける。去年の8月31日に訪れて以来の約1年ぶりだ。お姉ちゃんが18歳、妹が15歳と言う、この地方きっての良いミュージシャンだ。因みにもうすでにオールアイルランドチャンピオンはいくつも獲得している。

彼女たちの学校が始まる前にまた是非来て欲しいと言われていたので、クラニッチ夫妻とともに出かけていった。

お姉ちゃんの方は少し大人っぽくなったかな、と言う感じでフィドルプレイもかなり力強くなったみたい。妹の方はヒョロっと背が伸びて、完全に僕より大きく、コンサーティナやティンホイッスルの腕前はもう言葉を失うほどだ。

食事の後のセッションで感じたことを率直に言うと、こういう子たちの土俵を荒らしてはいけない、と言うことだ。毎年それは思うことだが。

食事しながらでも古い録音が流れていて、本当に小さい時からこの伝統音楽の真の姿を追い続けている子達がコンペティションに出るべきであって、冷やかしでのこのこ出かけていくべきではない。

だから、この子たちの伴奏をするときは細心の注意をはらわなくてはいけない。そうしてこちらも学ぶことができるのだ。

夜遅くまで付き合ってくれてありがとう。

戻ったらもう2時にもなろうとしていた。

8月25日   (日)晴れ。

クラニッチ夫妻に送っていただいてカーロウに戻る。また次なる目的のために少し体力温存。

この上ないくらいのおもてなしと、この上ないくらいの天気に恵まれてリズとマットに大感謝のままお別れをした。また来年、元気なままで会おう、と約束して。

2019年 アイルランドの旅 9 ティペラリー~ドゥーラン~エニス~ゴールウェイ

8月13日  (火)晴れ。

さぁ、洗濯だ。ここではタイミングを見計らって洗濯しないといつ雨が降ってくるかわからない。と考えるのは日本人だけかな。隣の庭では3~4日同じ洗濯物がたなびいている。

1時頃、パディ・キーナンが会いにきた。家からここまで1時間ほどだ。

途中雨がぱらついたり急に晴れたり忙しい洗濯物の行ったり来たりだった。

8月14日  (水)晴れたり曇ったり雨が降ったり。

この天気、なんて言ったらいいの?曇り時々晴れ、所により雨?今もよく晴れているのに雨が降っている。

明日からまた出かけるので、今日はその準備やら体を休めることに当てた。

キアラン君は今日からドイツに行った。

8月15日   (木)晴れ。

今日はティペラリー、パディの家に向かう。旅も後半になってくると俄然忙しくなってくるのは毎度のことだ。

まず、街でお茶を飲んでいると、偶然外を通りかかったパディ・グラッケンをパディが見つけ、しばしお話し。僕らだけでは「似ている」とも思わず通り過ぎたかもしれない。

店を出てしばらく歩くとマーティン・ヘイズとも出会った。今、ここではフェスティバルがあるのでいろんなミュージシャンが来ているし、街もかなり賑わっている。

そんな街の喧騒を後に、僕らは早々とティペラリーに向かった。

途中食料品を少し買って家についてから、犬のティミーと遊んで疲れたので早く寝ることにした。

8月16日        (金)雨のち晴れ。

11時半出発でEnnisに向かう。途中少し寄り道をしたが2時頃到着。今日は夜からBlakie O’Connellのセッションがあるのでそれに出かけるために体を休めておく。まだ若い彼のパワーというのはすごいものがあるからだ。

パディとブラッキーのダブルパイプスにダブルブズーキ。シボーン・ピープルスと希花のツイン・フィドル、それにフルートと僕のギター、途中から加わった凄腕のコーク出身のパイパー。

そんな面子で往年のボシー・バンドのセットを12時半頃まで演奏。

これくらいではもう疲れることもないが、また明日もあるのでおとなしく寝ることにした。まぁ、やたらと運ばれてくるギネスにももう大変な思いをしているし。

8月17日    (土) 晴れ。

今日も11時半に出発でDoolinに向かう。パディも歳のせいかあんまり遅くまで寝ていられないらしい。本当は3時頃出発すれば十分なのに。

今日はここのパブでの演奏に参加するかしないか自由だったし、久々のDoolinなのでぶらぶら散歩して、あの時のロバとも出会った。

しかし、観光客が次から次へと大量にバスでやってきてここで料理をいただく様は、静岡の丸子にあるとろろのお店を思い出した。

日本平や久能山、三保の松原などを巡った観光客の一団が次から次へとやってきてとろろを食べる。ここではアイリッシュ・シチューだ。

観光地っていうのはお国が違っても一緒だな。

8月18日    (日)雨のち晴れ。

Doolinを2時過ぎに出て、Ennisでパディと別れ、そこからゴールウェイに向かった。

この期間、偶然にも少しだけ旅をしていた小田原の早野・古矢組と食事をし、その後芳美さんと歓談。

この地を訪れたら必ず会いたい人の一人だ。2015年以来、強い絆で結ばれているかのような彼女は、相変わらずバイタリティに満ち溢れている。それだけに疲れも溜まっているみたいだと言っていたけど、どうか元気でいつまでもゴールウェイのママとして君臨してほしい。

8月19日    (月)晴れたり降ったり。

少しの時間をみて、芳美さんに挨拶をして、ちょうどお店にはアコーディオン弾きのかなこちゃんもいたのでしばらくお話しした。 

また旦那のブライアンと日本に来る予定があるので、彼女の華麗なアコーディオンプレイはどこかで聴くことができるだろう。

後、ダブリンに向かい、空港でキアラン君と待ち合わせ。めでたくカーロウに帰ってきて、食事をしながらしばし歓談。12時も過ぎたし、ここの静けさに包まれて眠ることにした。 

2019年 アイルランドの旅 8

2019年  アイルランドの旅 8

8月8日  (木)晴れ。

今日は一日エニスでゆっくりすることにした。明日からはおそらくゆっくりしていられないだろうし、体を休めておかないと。

それでも夜はどこででも行われているセッションでものぞいてみようと街に出る。

いかにもアイルランドらしい寒々とした雨が降っている。そんなに強くはないが。

いくつかのパブを覗いた中で、知った顔を見つけた。フランシス・カスティーだ。若いバンジョー弾きと、フィドラー、それに前日フィークルで出会ったベルギーからのフィドラーとオランダからのパイパー。そんな組み合わせで上質なセッションが繰り広げられていた。

バンジョー弾きのキーガンという若者が一生懸命になって椅子を用意してくれて結局、ちょっと覗いて帰るつもりがやっぱり12時頃になってしまった。

良い人ばかりの良いセッション。エニスの夜が更けていく。

8月9日  (金)曇り。

今日はTullaに向かうが、その前に腹ごしらえ。Dunnesというスーパーマーケットのカフェテリアでコーヒーやポリッジなどをいただいたが、安くて量もあって…とは言えども決して美味しいとは言い難いが、まぁ満足のいくものだった。

これからエニスではここが無難かな、という話に落ち着いたのだから決してそんなに悪いわけでもない。

さて、Tulla  アンドリューの家だ。第二の故郷。家の中の細かい配置などは多少変わっているものの、村の景色は少しも変わっていない。

あるべきものがあるべき場所にある。

おそらく初めてこの村を訪れた20年前と何ら変わらないのだろう。しばし感傷にふけった後Feakleに向かう。

Pat O’ConnorとJohn Cunnyのセッションで演奏。フェスティバルも週末になり、徐々に人が増えてきた。

Patはのってくると止まらない。次から次へとチューンを出してくるが、僕らは2時にPepper’sでアンドリューと待ち合わせをしているのでそろそろお暇します、ってな具合に身支度を整えると、一緒に弾いていたPatの奥さんのエリカさんがニコニコして「あ~助かった」と言っていた。それくらいにとどまるところを知らない良いプレイヤーだ。

さて、アンドリューは時間通りに待っていた。もう何杯くらい飲んでいるだろうか。もちろんタクシーを呼んでいるのでそれで帰るのだ。

アンドリューのお姉ちゃん、マリーさんのご主人であるケヴィンと4人で乗り込んでタラまで。約15分くらい。

さぁ、帰ってからが大変。

アンドリュー嬉しそうに「なんか録音しよう」と言って機材をキッチンにセットし出した。マイクロフォンをたて、フィドルのマイクを天井からぶら下げ、よれよれに絡み合ったコードをつなげる。「おかしいなぁ」と何度も何度も文句を言いながら、それでも何とか繋がっていざ本番。

もちろんシビアーなレコーディングには程遠く、デモテープくらいのものだが。録ったものを聴いてみると呆れるくらいに音がいい。

これは一つにはこの空気感によるものか。はたまたベロンベロンになったアンドリューのイーストクレア魂に僕らも引っ張られているのか。

思えば僕にとってはここから始まったようなこの音楽。そしてその僕と毎年行動を共にしてアイリーン・オブライエンやカレン・ライアン、マーク・ドネランなどの錚々たる面子に揉まれてきた希花。

そんな僕らと嬉しそうにしているアンドリューだが、果たしてこの感じはそのまま日本に持ってくることができるだろうか?否だろう。

ここまでの彼をみることはここ以外ではなかなかできないことかもしれない。

就寝は結局5時。日も短くなってきたので、そろそろ明るくなってきていたかな?よく覚えていない。

8月10日  (土)小雨

どうやら5時間ほどは寝たようだ。小雨の中、メインストリートを少しフラフラしてみた。200メートルほどしかないこの通りにレストランが2軒、ファストフード店が1軒、パブが4軒、肉屋が一軒、洋服屋さんが1軒、雑貨屋さんが一軒、20年前にできたばっかりの自然食やさんが1軒、美容院が一軒、食料品を売っている大手の(決してでかくはない)マーケットが1軒、しょぼい食料品屋が1軒…これで終わりかな。もしかしたらもう一軒くらい雑貨屋さんがあったかな。あとクリーニング屋もあったか。僕がよくアンドリューの服を持って行ったり受け取りに行ったりしたところだ。

みんなどうやって生活しているんだろう。

僕らは、僕が初めてここを訪れた時にできたばかりのレストラン「Flappers」で食事をすることにした。僕はケイジャンチキンラップ、希花さんはバーガーというこの辺りではお決まりの間違いないものにしておいた。

何にせよ、各自一緒についてくるチップス(フライドポテト)の量たるや、マクドナルドの大の5個分は軽く超えているだろう。とても食べきれるものではない。

それを横の爺さん婆さんが普通に食べている。

さて、4時半頃ケヴィンの車で、僕らとアンドリュー、そしてお姉ちゃんのマリーさんとでフィークルに向かう。

5時からアンドリューと。10時からジョセフィンと。

2時半を過ぎた頃、ジョセフィンと共に帰宅。帰ってきた頃には上がっていたが、結局今日は一日中雨だった。

8月11日  (日)晴れ、時々小雨。

久々にこちらに在住の赤嶺くんとゆっくりお話しした。それと京都大学の院生で、やはりこちらに長期滞在していて、もうすぐ戻るらしいけど、なかなかしっかりした学生さんの雨宮さんも交えて食事。

楽しいひと時も過ぎて行き、これまた別な楽しさのアンドリューとの演奏で8時頃まで。アンドリューは別なものが6時からあるので、僕らに任せて一足先に抜け出したが、最後までいいセッションだった。もちろんまだ続けることも可能だが、9時半からまた呼ばれている。

ピート・クイン、カレン・ライアン、アイリーン・オブライエン、アンドリュー、そして僕ら、という不動のメンバーだ。

さぁさぁこれがまた止まらない。お客さんの「狂喜乱舞」とはこのことだろう。全員の「鬼気迫る演奏」というのもこのことだろう。

パブの従業員が「もういいだろう」と言ってもなかなか止まらない。

それでも2時半にパブを出て前庭のベンチに座り又しても「さぁみんな楽器を出そう」と言い出すアンドリュー。そこで始めて時刻はもう

3時をとっくにまわっている。

ケリーから来ていたフィドラーのカップル達と家まで戻った。それからアンドリューが「昨日の録音を聴いてみよう」と言いだし、しばし歓談。又しても4時は軽く過ぎていた。

8月12日  (月)晴れ。

朝から…と言えども昼近くから恒例のハムサンドを作り、アンドリューの提案で3人のビデオを作ることになってスマホの操作に奮闘。

これもラフだが録音をした音を流し、ビデオを録った。ご満悦のアンド流。お、これも面白い変換だ。

今日はエニスからカーロウに向かう。

アンドリューの車に揺られて又してもしばしクレアの景色に魂が溶け込んでいた。

エニスから乗換駅のリムリックに行く電車の中で見慣れた顔の男が声をかけてきた。アレックだ。アレ、ビックリだ。

ちょうどゴールウエイからリムリックに帰るところだ、と言っていたが偶然にもほどがある。まぁ電車の数も少なくて、京浜東北線や阪急電車で誰かに出会う確率よりは多いのかもしれない。

久々にキアラン君とチャイニーズをテイクアウトしてゆっくりし、今日は12時前くらいには寝たいな、と思っていたが気がついたら2時にもなっていた。クレアからの時差ボケか…?

2019年 アイルランドの旅 7 〜フィークル

8月7日  (水)晴れ。

お昼にBagnalstownを出て一路エニスへ。今日から恒例のFeakleフェスティバルだ。見慣れた景色の中、見慣れたような顔つきの人達と電車に揺られて数時間。

隣の老夫婦(と言えども僕より少し上か)がグミを持っていて、希花が「ひとつもらっていい?って言ってもいいかな」というので「頼んでみたら?」と言うと「そんなこと訊ける訳ないじゃん」と言うので「それじゃぁ僕が…」なんて言う押し問答をしていた直後、にっこりして「食べる?」と言ってグミを差し出した。

ひょっとして分かったのかもしれない。

乗り換えた電車では目の前に20歳くらいのがっしりした男の子が座っていたが、しばらく乗っていると蜂が窓に張り付いて行ったり来たりしている。

彼と目があってどうしようかと思っていたら、その子、そーっと自分のスマホを持ち、思い切り窓に止まっていた蜂を叩き潰した。周りの人も「Oh!」と驚いていた。蜂は見事に潰れて跡形もない。そして汚れた窓を眼の前にあった紙くずで拭いて、じっと自分の携帯を見つめ(もちろんこちらにも潰れた蜂の残骸が付いている)それを自分のジーンズで拭いて、何食わん顔をしてまたメールのチェックか何かを始めた。

ラグビーか何かやっていそうなかなり太い腕の若者。顔はとても幼かったが、やはり日本の若者とはちょっと違う感じがした。

Ennisに着いてからPat O’ConnorにFeakleまで乗せてもらった。今日は9時半からPepper’sで希花さんの大好きなフィドラーのマーク・ドネラン、Moloney’sでジョセフィン・マーシュとミック・キンセラ。

なのでここで僕らは二手に分かれることにした。

マークとのセッションでご満悦になった希花さんがジョセフィンの方に来たのは12時をちょっと過ぎた頃。

さらにこちらでも参加して結局1時半を軽くまわってしまった。

でも電車で爆睡したので元気だった。

どこに顔を出してもホストは大体知っている人がやっているので、とにかく入れ、と言われるのは嬉しいが、それまでにいる人達をかき分けて彼らと席を並べるのは、奥ゆかしい日本人としては気が引けるところもある。

しかし、いいミュージシャンによるいい音楽だ。

夜空に降り注ぐ星のように輝いている。

2019年 アイルランドの旅 6

8月4日      (日)晴れ。

結局若い人たちより3時間ほど早く起きてしまう。何はともあれ色々と部屋の片付けや掃除など、やることは沢山ある。昔から結構早起きだったが、年がいくとだんだん極端になってくる。あれもやらなくちゃ、これもやらなくちゃとせかせかしてしまう。たまには希花さんのようにコロコロしたいものだが、性格なのかどうもそれができないのだ。

今日はいい天気だったのに夕方から急に激しい雨が降った。

そしてキアラン君の友達のフルート奏者で、ややこしいが、韓国人の母親とデンマーク人の父親のもとに生まれ、香港で育って今はスエーデンに住んでいる(逆だったかな)というマイケルというやつがやってきた。以前にも会ったので知っているのだが、相変わらずなに人だか混乱してしまう。4時頃来て結局帰ったのが10時半頃。

少しは一緒に演奏したが、ほとんど喋ってばかり。おまけに9時頃ジョンと誰だか見たことのある人も立ち寄ったのでいくらワインがあっても足りない。

喋って飲んで1日が終わったような気がする。アイリッシュみたいなものか。

8月5日  (月)晴れ。今のところ。

今日はキアラン君の誕生日なのでまた来客で忙しい1日になるかもしれない。

今現在ダブリンに滞在している栩木先生もやってくる。

今日はバンクホリデイ。元々は19世紀頃、なかなか休みが取れない銀行員のために設定された休みのようだが、今ではほとんどの人が休みを取っている。

因みにバンクホリデイではない祝日でも銀行は休みだ。

てな訳で通常動いているはずの電車などが来なかったりすることもあるようだ。

栩木先生から慌ててメールが入った。ローカル電車が待てど暮らせど来なくて、やっと乗ったので到着が遅くなる、という連絡だった。

のんびり行こうぜアイルランドだ。こんなことはよくあるので大丈夫。

駅で栩木先生をピックアップして、さぁそれからが大変。食事、ワイン、ビール、音楽、ポエトリー、おしゃべりでそろそろ4時。

まぁこんなこともよくあることだ。あまり時間がなかったのでせっかく来ていただいたのにどこも連れて行ってあげられなかったが

楽しんでいただけたと思う。

8月6日     (火)晴れ。

みんな眠りについたのがもう5時にもなろうとしていたのだが、それでも僕は7時55分に目が覚めた。ひとしきりキッチンの片付けをしてお茶を飲んでいたらDave Sheridanが起きてきた。これから歯医者に行くらしい。

続いて希花さんが起きてきて栩木先生も起きてきた。ジョンは朝早く帰ったようだが、結局昼過ぎに「僕のジャケット知らない?」ということになる。期待を裏切らない人だ。

12時頃キアラン君も起きてきて4人でランチを食べに出かけた。

栩木先生の乗る電車までちょっと時間があったので近くのBallymoon Castleという誰も来ない荒涼としたところにある古い城跡に寄ってみた。13世紀頃に建てられたという建造物だ。

しばらくその光景に目を奪われていたら徐々に雲行きが怪しくなってきてかなり強い雨と風が大地を覆った。僕らは朽ち果てた城壁に張り付くようにして雨宿りをしたが、すでにほとんどビショビショ。

それに電車の時間もあるので思い切って雨の中を走った。車までの距離は150メートルほど。草原を雨に打たれて走る、という旅の終わりに最高のシチュエイション。もちろん栩木先生にとって。

「あんたたちどこで泳いできたの?」と訊かれそうな濡れようだったが栩木先生も無事電車に乗ってダブリンへ戻っていった。

夜はMick MacAuley とのセッションにキルケニーまで出かけていった。戻ったらもう12時だった。早い方か。

2019年 アイルランドの旅 5

8月1日   (木)曇り。

昨日の天気はどこへ行ったんだろうと思うくらいの寒々とした曇り空だ。昼からMick MacAuleyがやってくる。

Solasのアコーディオン奏者で現在Stingとのツァーで大忙しの人だ。

そして夜はDave Sheridanとのギグでカーロウ市内まで出向いていく。

スタートは8時頃。まずレストランになっているエリアで3人で演奏。それからが大変。隣り合わせになっているパブに行き、そこでセッション。トータルでこれも仕事。7~8人のミュージシャンを相手にお話と演奏に花が咲く。

結局終わったのが2時。それから歩いて行ける距離にあるDaveの家に行き、しこたま飲んだギネスの後のワインで語らいながらオールドレコーディングを聴く。もちろんLPレコードだ。

時間はどんどん過ぎていき、気がついたらもうすぐ5時。そのまま彼の家でバタン。

8月2日    (金)晴れ。

もう9時半になる。Daveが朝ごはんの用意をしてくれている。彼は多分6時頃にベッドに入ったような気がする。

先ずはかなり濃いエスプレッソで目を覚まし、ハムエッグとソーダブレッド、そしてレギュラーのコーヒーをいただく。

話はまたまた古い録音のことに及び、LPやカセットの、Daveが子供の頃に聴いたものなどを楽しむ。これがないとこの音楽を演奏している価値がない。

子供の頃からこの音楽を勉強し、プロの演奏家として生計を立てている人たちの話を聞き、実際に彼らが聴いてきたものを共有させてもらうなんて、幸せなことだ。

1時過ぎ、Daveに別れを告げて家を後にした。

希花さんは有無を言わせず運ばれてくるギネスの洪水とワインとで二日酔い状態。キアラン君、最近覚えた日本語で「トキドキフツカヨイ」なんてわけの分からないことを言っている。

8月3日    (土)曇り。

昨夜友人と10時頃出かけたキアラン君も割と早く1時頃には戻ってきたようだった。朝方は曇っていたが、お約束通りという感じで雨が降ったり日が差したりで肌寒い。

今日は一日ゆっくり過ごしたがこちらもお約束通りというか、突然ジョンがやってきてコーヒーを飲みながらペラペラと喋り、忘れ物はせずに帰っていった。

話の内容は、今晩大きなパーティみたいなものがあって、そこで少し演奏しようということだったが、そんな時のキアラン君の反応は社交辞令か「そうだな。じゃ行ってもいいかな。きっとマレカとジュンジも行ったら喜ぶと思うよ」という感じなのだが、ジョンが帰った後「何時ころ行くのかな」と訊くと「いや、行かなくてもいい」だそうだ。結構真剣に長~い話を聞いていたように思ったが、最初から決めていたんだと思う。でも一応しっかりお話を聞くところがキアラン君らしい。どこまでもいい奴だ。

晩御飯は僕がタコライスを作ったので、ワインを少しだけ飲みながらゆっくりできた。

2019年 アイルランドの旅 4

7月29日 (月) 晴れ。

またまたいい天気だ。気温は21℃となっている。しばらくは特筆すべきことはないかもしれないが、こうしてその日その日の天気でも記しておけば記録にでもなるかな、と思っている。子供の頃は日記なるものを書いていたし、年が明けると「よし、日記でもつけよう」と思いつつ、5日ほどで忘れてしまい、もういいか!てなことになってしまう。

7月30日 (火)雨。

さほどに強い雨ではなく、時折サッと降ってはまた曇り空になるような寒々とした天気。気温は15℃。猫も丸くなっている。

なんかイギリスでは観測史上最高気温という話で38℃とか聞いた。

日本からもアイルランド大丈夫ですか?なんていうことを訊かれたが、どっこい、申し訳ないがここは寒い。

このどんよりした空と深々とした緑というのが最もアイルランドらしい感じがする。

アンドリューとも話をしていくつかの仕事のため、フィークルで会うことになったが詳しいことは会ってから。

また、アンドリューのお母ちゃんの部屋に泊めてもらうことになっている。

6時過ぎて少し明るくなってきて時折陽も差すようになってきた。でも上着がないと少々寒い。

明日はどんな日になるだろう。

7月31日  (水) 晴れ。気温14℃ 

もう今日で7月も終わりだ。こちらでは夏も終わり、これから秋になってくる。

2012年のこの日、小雨が降るドゥーランでルカ・ブルームと再会している。

2013年にはやはりドゥーランからこの日にはゴールウェイに来ている。やっぱり雨。

2014年はまたゴールウェイにいる。そしてやっぱり曇りのち雨。

2015年もゴールウェイ。人命救助、カモメの子供救済に明け暮れた年だ。

2016年、この年からカーロウに来ている。

2017年のこの日、アブダビに向けて飛んだ。気温45℃だって。そのうち日本もそうなるかも。

2018年のこの日はキアラン君とベルファーストに行っている。天気は良かったようだ。

やっぱり日記はつけておいたら後で面白い。2011年のことは日にちまで明確に書いていないのでよくわからないが、察するにケリーにいたようだ。その後ドゥーランを経由してフィークルに出向いた記録が残っている。

ところで今日は穏やかな美しい日だった。現在午後6時だが陽の光がサンサンと木立を輝かせている。

ツバメが20~30羽ほど低空飛行をしている。僕の足の周りまで降りてくる。猫が狙っているがそう上手くいかない。

猫パンチからジャンプまで色々試みるが縦横無尽に飛び回るツバメの群には対抗できないようだ。

日本はもう8月になったんだなぁ。

2019年 アイルランドの旅 3

7月27日(土)朝からいい天気。だがこういう日に限って気が抜けない。午前6時半。庭に出てみると吐く息が白い。目の前をうさぎが跳ねていく。猫が子供のモグラを追いかけている。モグラは鳴き声をあげて逃げ回っている。遠くから牛の鳴き声も聞こえるが、こちらは誰にも追いかけられていないようだ。いろんな生き様があるなぁ。

昼すぎても全く曇ってくる気配もなく、結果的には今日は素晴しい天気だった。日陰は半袖では寒く、日向に出ると心地よい日差しが体を包んでくれる。

夕方からケビン・バークの弟さんの工房に出かけた。バイオリンの弓作り職人として、世界中で高名になっている人だ。

2年前に希花さんがオーダーした弓が「出来上がっているよ」と彼から連絡が入ったので、此れ幸いと出かけて行った。それも彼の住んでいるところがカーロウ市内なのですぐ行けるのだ。しばし歓談して、少し演奏もして帰ってきた。

ま、そんなこんなでそれから友人とゆっくり11時くらいまでディナーを楽しんだ。やっと外が暗くなってきた。

7月28日 (日)晴れ。まだ時差ボケが抜けないのか、遅くまで明るくて時間の感覚がつかめないだけなのかよくわからないが、体もだるいような気がする。歳のせいもあるかもしれない。

昼からフィドラーのデイブ・シェリダンと街に出かけた。

気持ちのいい1日だったが、日本では軽く30度超えているだろう。問題は湿気だ。

ここは湿気が本当に少ない。ギターの鳴りが全く違う。だが、湿気の問題だけではなさそうだ。空気の密度も濃いような気がする。空間が多いのかな。

例えば同じ部屋でも100人が入っている時と誰も入っていない時では音の抜けが違うだろう。そんなことなのかな?

よくわからないが、今日も全ての楽器が良く鳴っている。

いつもここで聴くフィドルのサウンドには日本とは違うものを感じるが、今回は弓が変わっているせいか出てくる音がさらに太く感じる。本人も言っているが、不思議な感触らしい。全く力を入れることなく最大限の深みが出る、ということだ。

彼は人それぞれのスタイルに合わせて作るらしいが不思議なことに彼自身はフルート奏者でフィドルは弾かない。なのにどうしてそれぞれのフィドル・スタイルに合わせたような弓が作れるのだろう。そして更に不思議なことに、それが世界で非常に高く評価されているという事なのだ。

唯ひとつだけ考えられるのは何をおいてもケビン・バークの弟ということなので、弾いた事ないけど弾いてみたらすごく上手かったりして。隠してたりして。な訳ないかな。

弓についての詳しいことは希花さんがどこかでお話ししてくれるだろう。何せバイオリンに於ける弓は楽器の一部だ。僕のギターよりも高額なんだから。

2019年 アイルランドの旅 2 バグナルスタウン

7月25日(木)風が強く、嵐でも来そうな感じだが、牛はのんびり丘の上。色々荷物の整理や、連絡ごとなどで1日が潰れそう。

午後になると結局お決まりの雨が降ってきた。誰かが言っていたけど、アイルランドの天気予報は(前にも書いたが)曇りと雨と晴れの全てをとりあえず言っておけばいいのだが、最近はそれに雷、と言う言葉が加わっているらしい。新しいバージョンだ。あ、晴れてきた。

7月26日(金)やっぱり歳のせいか時差ボケが遅れてやってきたようだ。昨日は流石に疲れ果ててガン寝してしまったが、今朝は4時に目が覚めてしまった。半袖ではちょっと寒い。

外はシトシトと雨が降っていて風もそれなりにありそう。でも、裏庭では3~4匹のウサギがピョンピョンと跳ねている。うん、待てよ。ウサギは1匹2匹ではなく一羽2羽だったかな。こんなこともネットで調べれば即問題解決、という時代になった。

ちょっと調べてみると、諸説ある中で「獣類を食べることができなかった僧侶たちが2本足で立つウサギを無理やり鳥類だとこじつけた」という説があるらしい。宗教は怖い。「こじつけ」や「あー言えばこー言う」がまかり通ってしまうのだから。政治家の「おしつけ」や「あー言ってもこー返ってこない」というのとよく似ている。

ひとつも変わらない景色を眺めながらそんなことを思っていたが、お、そうだ。ひとつだけ変わっていることがある。

壁の時計がまともな時間を指して、しかも動いている。

夜。9時に忘れ物王者、ジョンがセッションに行こう、と迎えに来てくれた。

次から次へと運ばれてくるギネス。隣の若いアコーディオン弾きに飲んでもらった。僕はやっぱり2パイントが限界だ。

戻ったら2時。

2019年 アイルランドの旅 1

7月23日(火)プロローグ

東京は朝のうち雨。出掛ける頃にはすっかり晴れて暑くなって来た。

成田から韓国、仁川に飛ぶ。

第1ターミナルから第2ターミナルまで行くがその遠いこと。シャトルバスで20分。第1とか第2とか言うレベルではない。

もう他の空港に連れて行かれた感じだ。とりあえず乗り換えにも充分時間があったので良かったが、一つ勉強になった。

その第2ターミナルからKLMでアムステルダムに向かう。アナウンスはオランダ語と韓国語と英語のみ。

まぁまぁ快適なフライトだったが、びっくりしたのが着陸。さっぱり気がつかなかったくらいにスムーズだった。

そして、アムステルダムからダブリン。こちらの着陸も見事だった。KLMのパイロットは着陸が上手いのだろうか。

7月24日(水)ダブリン曇り17℃、まず無事ついた。そのままバグナルスタウン。キアラン君の家で猫と再会。もうすっかりThe 猫だ。

大きくなったが相変わらず人懐っこい。すぐに膝の上に乗ってきた。こっちも眠たいのによく寝ている。

クロウハンマー・バンジョーワークショップ#6

第6回目も無事終了しました。少し雨がぱらついていましたが、ギターワークショップへの道のりも傘が必要でないくらいだったので、まぁついていたかな。

今回も京都から、群馬から、埼玉から、そして静岡から、と熱心な方々が集まってくれました。毎回毎回、リズムが同じなので、そろそろワルツ、4分の3拍子にでも挑戦してみようと思い、省ちゃんの大好きだった曲Down in the Willow Gardenを用意していきました。

比較的楽に考えられる曲なので、皆さんあっという間にこなしていきました。

僕もギターを借りて伴奏を入れてみました。そうして伴奏があることによって、途中で止まることは出来ず、リズムもキープして、また伴奏を注意深く聴きながら演奏することも大切なので、第6回目くらいになると様々なことに注意を払いながら、自分の演奏を楽しむ、ということには手助けになると思います。

音楽にとって大切なことは対話を楽しむことなので…というか、すべてに於いてそれは大切なことかもしれませんね。

相手の顔を見ず、相手の声を聴かずにいろんなことが進んでゆく世の中。どうりで政治家が国民の声を無視するわけだ。あ、これって昔からかな。そういう人種なんだろうな…彼等。

とに角、みんなで楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

今回のもう一つの課題はBill Cheathamでした。もっと簡素に組み立てることが出来たのですが、しばらくこの教室も僕のアイルランド行でお休みするので、少し複雑にしてみました。

そんな意味ではちょっと大変だったかもしれませんが、これもギターの伴奏に乗って、みなさんだいぶ修得されたようです。

後は、それぞれが知っているいろんな曲に挑戦してみることも大切ですね。

そして、「こんな風に作ってみました」と皆さんからもアイディアを貰うことがそろそろ出来てくるかもしれません。

とても楽しみです。次回については10月のあたま頃、と考えていますが、まだ決まっておりません。また皆さんにはお知らせいたします。

Irish Musicその150

Maggie West’s     (Waltz)

何となくいろんなものを見ていて偶然発見した可愛いワルツ。作者はパイプスやアコーディオンを演奏する女性Mairearad Greenということだが、スコットランドのプレイヤーだ。

そして彼女のパートナーであるマルチインストルメンタリストAnna Massieがこれまた凄い。フィドルやテナーバンジョーを演奏するが、ギタープレイに於いてもかなりの腕前で才能をそこはかとなく感じる。

曲の話に戻るが、これは作者のグランマに寄せて書いたということと、何故Westとなっているかは村の西の方の出身だから、ということ。なかなか面白いがとてもいい曲だと思う。

まだこれからレパートリーの1曲に加えるつもりでいる段階だ。

Irish Musicその149

Polly put the Kettle on  (American)

これはLukas Poolのバンジョープレイから学んだいわゆるフィドルチューンだ。

彼自身Marcus Martinのバージョンだと言っているがTom CulbertsonやTommy Jarrell

のバージョンとは全く違う。これは同じタイトルを持った別な曲と言って良さそうだ。

因みにナターシャーセブンがマザーグースのアルバムで「やかんを持ってきて」と唄っているのがTom Culbertsonのバージョンに近い。僕らはこの両方のバージョンをやりたいが、今の処Marcus Martinのバージョンが気に入っている。マイナーのとても美しいメロディだ。余談の類だがJim Gibsonのピアノバージョンには度胆を抜かれた。

1984年回想 後編

さあいよいよヴァージニアだ。目的地はテネシーとヴァージニアのちょうど州境、ヒルトンという小さな村だ。

そこにカーターファミリーミュージアムがある。ミュージアムというとえらい立派な鉄筋コンクリート(古い言い方。またの名をテッコンキンクリート)の建物を想像するが、ここは昔営業していた万屋みたいなものをそのまま使っている。グロッサリーストアだった、ということだ。

その真後ろにこれまた木造のコンサート会場がある。

毎週末、アメリカ全土からカーターファミリーミュージックを求めて老若男女が観光バスでやってくる。

恐らく周りの景色は昔と全く変わっていないだろう。

僕は毎週ジョーやジャネットとこのステージに上った。

ジャネットと二人で地元の小学校でも演奏したし、ジョーと二人でナッシュビルまで出かけていったりもした。

ジョーは運転中によく寝ていたものだ。それほどに広く長い、なにも刺激のない道をひたすら走る。ときおり鼻歌を歌いながら。でもその時は起きているから安心だ。

彼とは近くのホルストンリバーという川で昼ごはんのナマズを釣ったものだ。

朝ごはんはジャネットの作るグレイビーとビスケット。これが絶品で時折トマト味のグレイビーも作ってくれる。

この朝食は僕のフェイバリッツになり、よそのダイナーに寄っても必ずグレイビー&ビスケットを注文したものだ。

庭の野菜作りも手伝い、山に登り南北戦争当時の薬きょうや先住民の使っていた道具などを見つけては遠い昔に思いを馳せたりもした。

思えばこの時の感覚は今でもアイルランドで感じているものと同じだ。

それは、どんなに多くの音楽を聴いてきた音楽評論家でも得ることのできないものだろう。

何度も書いてきたかもしれないが、音楽が大自然からの恵みだということがアイルランドで感じて来たことだったが、そこにはこの‘84年のカーターファミリーとの暮らしの中にも感ずることだったのだ。

あの時はそれを本当に心から感じるには若すぎたのかもしれないし、まだまだ行くぞ!みたいな自分だったのかもしれない。

人生を折り返してしばらく経った今の自分だからこんなことがいえるのかな。

朝の光が緑に囲まれた大地を照らし、急に激しく降る雨は容赦なく山々を打ち、そしてまたキラキラと光る水玉を含んだ緑が大地を包み、やがてオレンジ色に輝く夕焼け空を見上げ、夜になるとまるでラッシュアワーの新宿のように無数の蛍が飛び交い、遠くにコヨーテの鳴き声がする。

そんな暮らしの中でカーターファミリーソングを夜な夜な唄って過ごす。

それにしてもA  P・カーターの持ち物だったというマーチン000-28(だったと思う)は凄いギターだった。よく弾かせてもらったものだ。

そして、ワシントンDCに向かい、大塚あきらさんと共に多くの時間を過ごした。

セルダム・シーンとのステージやあきらさんのバンドGrazz Matazzとも毎週のように演奏させてもらった。

まだ髪の毛ふさふさだったデビッド・グリア―と出会ったその晩、彼の父、ラマー・グリアと会った。僕にとっては伝説のバンジョー弾きだ。

ここでも毎日ブルーグラスに明け暮れた。

そしてニューヨーク。

街を歩いているとフィドル・フィーバーのコンサートをやっていたがソールド・アウトだった。でも小さな公民館のようなところで外に音が漏れていたので少しだけ聴くことが出来た。

でも、この大都会にはやっぱりジャズが似合う。レス・ポールを間近で見たのもこの大都会の小さなバーだった。

ここにいると無性にヴァージニアに戻りたくなったりもした。

実際、何回グレイハンドに揺られたことだろう。この大都会を拠点にして、テネシー、ヴァージニア、ケンタッキーなどをあの重いバンジョーを持って駆け巡った。

この音楽の匂いを求めて。

そんな1984年を今少し振り返ってみた。

1984年回想 前編

今から約35年前、急に思い立ってアメリカ南部の旅に出掛けた。今回は急にそんなことを想い出したので、記憶を辿ってなにかめぼしいものを書いてみようかと思い立った。

いつも、思い立ったら今でしょ(古い?)という性質なので取りあえず誰の許しも得ていないが書き始めることにしよう。

‘84年春、カーターファミリーのジョー&ジャネットに連絡した。しばらく置いてくれるか?という問いに「いつでもOK」という返事がすぐに来た。

が、まず、‘79年にサンフランシスコで知り合った勝見君という友人に連絡して、西から行くことにした。

彼は「It’s a Crying Time 」という実力派ブルーグラスバンドでベースを弾いていた人だ。

アメリカ遠征の後、ウエスト・ヴァージニアに住み、サンフランシスコに越してきた彼は僕の計画を聞いて「グレイハウンドの旅は長い道のりだぞ。あまり長くてけつが割れるぞ。その証拠にアメリカ人見てみ。前かがみになるとみんなジーンズからけつが見えてるだろ」

確かにそうだ。特におっさんの前かがみでTシャツとジーンズの間に少しけつの割れ目が見える。結構若い奴でもそんな時がある。

ま、これだけ長々と書いたが冗談だ。でもテキサスへの道のりはバスに揺られて40時間ほど。

途中ArizonaやNew Mexico で麻薬の売人にも出会うし、トイレ休憩で置いていかれたりしても誰も面倒見てくれないし、おまけにけつは割れるし。

そもそも何故テキサスかと云うと、そこにも数人の友人が居たので中継地点にはちょうどいいからだ。それにやはりテキサス人という最もアメリカ人気質が強いと云われる連中とも関わってみたかったからかもしれない。

とに角、しばしここ、サンフランシスコで過ごすことにしたが、この辺にも有名なブルーグラスのグループは存在する。

High Countryはその代表だったし、サンタクルーズに行けばローリー・ルイスやサイド・サドルスも、そしてあのデビッド・グリスマンはちょっと北に行けば居るはずだ。

そんなこんなで僕も重いのにバンジョーを持って行ったが、今では持って歩きたくない。やっぱり若かったんだなぁ。

様々な場面でブルーグラスを聴き、そして演奏をしてきた。

勝見君曰く「彼等、西海岸の連中にはあの南部の匂いが出せない、というのも彼らの悩みなんだ」

やはりこれは時間をかけて東へ東へと進み、テネシー、ヴァージニアを体感しなければいけないだろうな、と、約1か月後に乗り込んだ長距離バスの中で思ったのだ。

テキサス人はナイアガラの滝を見て「俺ん家の水道漏れくらいだ」というくらい自身の住む州に誇りを持っている、ということが良く分かった。

コルト45も撃った。それも友人のオフィスの地下室でだ。どこまでもテキサス。

そしてまた約1ヶ月、荒野に夕陽が沈んでゆくのを眺め、再びバスに乗り込んで並行する貨物列車の数を数えた。

さて、いよいよテネシーだ。メンフィスを通りナッシュビルへ向かう。ここまでくると楽器屋さんに置いてある楽器もほとんどがフィドル、バンジョーなどだ。そこらへんに放ってあったものから良さげな物まで。ある店ではコンバースの靴と同じところにフィドルが置いてある。

ここではステイション・インに入りびたり、若きベラ・フレックやマーク・オコーナーそしてジム・ルーニーやピーター・ローワンなどのステージに見入り、また、仲良しになったバンジョー弾き、ジェイムス・マッキニ―とのジャムに明け暮れた。当時流行っていたスウイング系のジャズバンジョーだ。

様々なジャムに出掛けて行ったがどこかの納屋で行われたジャムの時、どえらい感じのいいギターでLast thing on my Mindを唄いながら聴かせてくれた若者のプレイは今でも覚えているが、多分その辺の兄ちゃんだったのだろう。

外に出ると、ダグ・ディラードがべろんべろんに酔って話しかけてきた。一緒にDixie BDを弾いた。酔っていてもダグ・ディラードだった。

ナッシュビルでの想い出は数々あれど、あー、もう想い出せない。

とに角ブルーグラス漬けの毎日。それもかなり高度なものだった。

後編に 続く

Irish Musicその148

Mountain Lark / Tom Doherty’s   (Reel)

この2曲はMartin HayesとDennis Cahillがセットとして演奏していることで有名だ。先日もFeakleでMark Donnellanとこの曲を演奏したが、僕がDennisのものまねをすると、嬉しそうに彼もMartinのものまねで乗ってきた。Dennisのギタープレイもとても特徴的で、特にこの2曲目におけるコードワークはなかなか考え付かないものだ。そして、この曲はもともとスコットランドのDevil in the KitchenまたはHighland Flingと呼ばれる曲で、パイプやフィドルでゆっくり演奏されるものだ。Strathspeyとも言える。同じ曲であるかどうかは分からないが、MartinとDennisの演奏は実に素晴らしい。僕らも時々演奏するが、少しMartinの特徴が表れすぎるセットかもしれない。ともかく彼のプレイは一つの音で彼、と分かってしまう。B B Kingみたいなものだ。

Irish Musicその147

Keeping the Cats Happy   (Reel)

Brittny Haasの演奏から希花さんが見つけてきた、なんともカウントしにくいけったいな曲だ。作者はピアニスト、ギタリスト、フィドラーその他のMark Simos 僕は彼のギタープレイに早くから注目していたのでギタリストとしてのほうが馴染み深い。また、彼自身New Old -time Styleと名うってアルバムを出しているくらいなので、非常に良いセンスを持ったオールドタイムフィドラーだと言えるが、ギターに於けるジャズ的な要素をもったプレイはテキサススタイルやケイプブレットンから来ているのだろうか。因みに僕が希花さんと最初に録音したJenny’s Welcome to Charlieは彼のプレイを参考にしている。

クロウハンマー・バンジョーワークショップ#5

来る5月26日の日曜日に、5回目のワークショップを行います。少し先を急ぎ過ぎている感もあるので、今回は今までに皆さんにお渡しした教材の中からそれぞれの方に選んでもらった課題をもういちど浚ってみようかな、と思っています。

なお、初めてでも様子を見がてら、講習を受けたい方もいらっしゃったら大歓迎です。

皆さん上達されていて、段々メロディの作り方に慣れてきたように思います。

近年、にわかに忙しくなってきたこのスタイル。日本では大半のバンジョー弾きが円熟されてきてこのスタイルに傾倒する、という現象があります。

しかし、ところがどっこい。アメリカでは若手のクロウハンマースタイルの奏者がいっぱい出現しています。皆それぞれに素晴らしいプレイヤーです。

いろんな演奏に触れて研究してみてください。

そして、夏の暑い間にこっそり練習して、秋の夜長をクロウハンマー・バンジョーで楽しむ、なんていうのもありかな?

そんな風にもう秋のことを考えています。

お問合せは   神田ギターワークショップ

        03-3293-8979

Irish Musicその146

The Tax Max Mazurkas    (Mazurka)

不思議な曲だがAt the Racketの録音から学んだ。詳しいことはさっぱり分からないが、Seamus O’Donnellのサックスがなんともいい味を出している。勿論この曲に限らず、このグループのひとつの特徴となっているわけだが。一応マズルカとしてタイトルを付けられているがワルツとも言えるような曲だ。

2019年春、アイルランド

CD制作後、少し時間が出来たので、突然アイルランドに行くことを決めたのが3月ももう終わりに差し掛かった頃。

取り急ぎキアラン君に連絡をして都合を訊くと「そりゃぁいい。いつでもOK」という返事が返ってきたので即決してしまった。

ほんの2週間ほどの旅なので気楽に考えることができたのも事実だ。

香港経由でダブリンに到着すると、吐く息が白いくらいによく冷えていた。

早速よく乗り慣れたバスでカーロウのポールスタウンに向かった。

バスの中で今度はテンカンの患者が出たので一時ストップ。偶然居合わせた看護師の黒人女性と希花さんで緊急手当。

余計な人が周りを囲んで「彼は大丈夫」なんてなんの根拠もないことを口走るおばさんとか、

邪魔な処に立ち尽くして覗き込もうとするおばさんが出現。

こういう時に最悪の事態を想定せずに「大丈夫」なんて言う考えを持つのが最もよくないことだ、と戻ってきた希花さんがプンプン。

結局やっぱり15分ほど経った後で現れた救急車に一旦乗せられたものの彼は戻ってきた。

どうやら持病のようで幸い処置も良かったし、もしかしたらお金の掛かる救急車には乗りたくなかったのか、よくわからないが、大事に至らず取りあえずよし、としよう。

こちらも予定が狂ったのでピックアップしてくれるはずのこちらに住む、しかもカーロウに住むれいこさんに連絡。カーロウの市内で再会を果たし、一路キアラン君の家に。

しばし歓談しているとどこからともなく白い猫が…。

まるで久しぶりに孫を見るような感覚で「まぁ、大きくなって」と思わず叫んでしまった。

それからは結局、怒涛の2週間。

キアラン君とコミュニティセンターで演奏したり、地元のパブでのセッションで演奏したり、マット・クラニッチ夫妻が僕らに会うためだけに2時間半ほどかけてきてくれたり、カーロウでも充実した時間を過ごし、そして僕らは数日後、クレアに向かうことを決めた。

フィークル。フェスティバル時以外は人も歩いていない村。ここで水曜日には必ず演奏をしているマーク・ドネランというフィドラーは希花さんの最もお気に入り。

以前、葉加瀬太郎がテレビ番組でこの地を訪れて「あなたにとって音楽とはどういうものですか?」と訊いたら「……そんなこと考えたこともない」とキョトンとして苦笑いした彼だ。

この日はちょうどアコーディオン奏者とのふたりだけだった。

マークが僕を見つけると「あ、ジュンジだ。ギター持ってるか?」と云う。

結局、希花さんと僕、それにアメリカから来ているベッキーというフルートの女性、この3人だけが交じっての3時間ほどのセッション。

この瞬間だけでも飛行機代を払ってアイルランドまで来たかいがあったと云う希花さん。

勿論、今までにもフェスティバル中になんども彼とは演奏する機会があったが、これだけの少人数で彼と弾けるチャンスはなかなかないのだ。

そして何よりも、終わった後の「今日、僕たちは全く同じリズムだったなぁ。実に気持ち良かった」と、嬉しそうに言うマークの顔。これだけで値千金だ。

アンドリューは僕が彼の家に宿泊するので遅くに来て、カウンターで飲んで聴いていたが嬉しそうにしていた。

もう一軒行こうというアンドリューとマークの車に乗ると、また彼が「いいリズムだった。みんなの息がピッタリ合っていたなぁ。またできたらいいなぁ。」とニコニコして云っていた。

結局1時半頃アンドリューの家に戻り、僕は彼のお母さんが使っていた部屋で眠りに就いた。やっぱりここは僕にとってのある意味、故郷であり聖地である。

希花さんはベッキーの家に。

次の日のお昼はアンドリューが庭師を務めているBunratty Castleという有名なお城に招待されているのでそこに出掛けた。

さすがに超有名なお城だけに人も多かったが素晴らしい景色にうっとり。1425年ころに建てられたというこのお城。前を通ったことはあったが入ったのは初めて。

招待してくれたアンドリューに感謝だ。

そして更にアンドリューとは夜、セッション。以前会ったコンサーティナのヒューとバンジョー弾き(名前が聞き取れなかった)とまたまたいいセッションを展開させてもらった。

次の日は一路ゴールウェイに。

和カフェがリフォームしたので芳美さんに会うためだったが、少し時間があったのでれいこさんの知り合いの家に寄ることにしたのだが、それがなんとフランキーのご近所さんなのだ。

ちょっと出来心で電話をすると「今からシャワーを浴びてすぐ行くから待ってろ」と言い、本当にすぐに現れた。フランキーとはそこでしばらくお茶をのんで歓談。

夜はパット・オコーナーが是非と云うのでゴートまで出かけてセッション。10時からなので2時間で終わるだろうと踏んでいたが結局1時半頃まで。鹿児島から来て現在ゴールウェイに住むバンジョーの久保君と、以前教会のコンサートで一緒に演奏したアコーディオン奏者と共に過ごした良い時間だった。

全てにおいて限りなく充実した西海岸ツアーだったと云えよう。

そしてカーロウに戻ると比較的近く、ティペラリーに居るパディ・キーナンが会いに来ると言うが、ちょうどボリスという小さな町でお祭り(Co.Carlow Fleadh)があり、多くのミュージシャンが集まっているのでそこに顔を出すことを決めた。

パディほどのミュージシャンになるとこういう場所にはなかなか現れることもないが、彼も僕らが行くというので喜んで付いてきてくれて、思い切りイーリアンパイプスをかき鳴らしてくれた。

あるおじさんがうれしそうに「‘70年頃、どこそこで観て以来だ!」と云っていたが、おなじような台詞を僕も何度も聞いたことがある。

そんなこんなで2週間があっという間に過ぎてもうすぐCDが出来上がってくるはず。

取りあえず強度の時差ボケで昨日のことだか今日のことだかなんかへにょへにょなのですが、しばらく出かけていました、という報告まで。

New CD Coming Soon #2

もう一つはチェロのAlec Brownとのトリオのアルバムです。

多くの人がもうご存知だと思いますが、ひょんなことから希花さんがFacebookで見つけたアイルランド在住のチェリスト。

アイルランド音楽にも精通していて、元々アメリカはアーカンソー州の出身ということもあり、オールドタイム、ブルーグラスにも普通に反応する、という僕らにとっては持って来いの男でした。

その上、譜面台は決して置かない、という僕と共通した考えを持っていました。

勿論、僕と希花さんは一切譜面台というものは置きません。それがあって、そこに眼を落した瞬間にもはやトラッドミュージシャンとは言えないのです。

彼との共通点は僕らが最も大切に思っているところでもあったので、まだまだやり始めたところだし、離れているのでしょっちゅう一緒に出来るわけではないけど、多くの人が「CDは?」と訊ねてくれたこともあり、今回彼を呼んで作りました。

チェロが入った肉厚なサウンドは、きっと皆さんに気に入っていただけると思います。

こちらの方もライナーの補足をここでさせてもらいます。

  1. ★ Farewell to Trion 

トラッドとも言えるチューンですが、アラバマのMick Blaylockが彼のおじさんにあたるJoe Blaylockの作品として発表したようです。おじさんが出稼ぎに出掛けた先、ジョージア州のTrionから故郷のアラバマに戻ってくるときに書いた、ということですが、そこに3パート目を付けたのがJames Bryanと言われています。彼は以前、Norman & Nancy Blakeと演奏していたと思います。

2 ★ Crabs in the Skillet / The Cock and the Hen

1曲目はTara Breenの演奏で覚えたものですが、例によって様々なバージョンがあるようです。70年代にHorslipsも演奏していたものですがなんともエキサイティングな曲で、特に3パート目はチェロを入れて良かった、と思えるものです。

2曲目は18世紀頃からある曲だと言われていますが、とても現代的なメロディです。別なタイトルとしてはDoodley Doodley Dank或いはJoe Ryan’s或いはCathal McConnell’sなどがあるようです。

3 ★ Night in that Land

Johnny Cunningham作のこの美しいワルツは僕らの以前のアルバムThrough the Woodに続いて2回目の録音ですが、やはりチェロの果たす役割は大きいと云えます。

Johnnyとは一度だけステージを共にしたことがありますが、リハーサルの時から、とても優しい穏やかな人で、ひとたびフィドルを持つと、まるで子供がおもちゃをいじるように軽々と笑いながら強烈なスコティッシュ・スタイルを披露しました。

ちょっと体が悪そうだったのですが、間もなくして彼の訃報が入り、そのトリビュート・コンサートには僕もニュー・ヨークまで出かけて行きました。名曲です。

4 ★ Sandy Boys

バンジョー奏者Lucas Pooleの演奏から学んだものですが、まるでClinch Mt. Back Stepのようなメロディを持った曲です。出処はわかりません。僕はLucasのプレイに習って、4弦をGまで下げています。それがこの曲の特徴でもあります。

5 ★ Maple Tree

70年代から80年代にかけてヨーロッパで大活躍していたバンド、Blowzabellaのアルバムから学んだ曲です。ポーランド発祥のマズルカというリズムで演奏されるこの曲を書いたのはメンバーの中のJon SwayneとJo Freyaです。なんとも素晴らしいメロディの曲ですが僕らはオクターブマンドリンのイントロを付けチェロにも活躍してもらっていいアレンジになったと思います。

6 ★Green Fields of Glentown / Jerusalem Ridge

Tommy Peoplesの作になる名曲からBill Monroeのあまりにも有名な曲。どちらもフィドルチューンとしてフィドラーには必須の曲かと思いますが、どちらもかなり難しいものだと思われます。よくアイリッシュとブルーグラスの共通点が取り沙汰されるのですが、この似て非なるものを合わせるのは至難の技だと感じます。実際アイリッシュのフィドラーがJerusalem Ridgeを弾くのは聴いたことがありますが今一つピンと来ないものがあり、またGlentownを弾くブルーグラスフィドラーには未だ出会ったことがありません。これだけ違うフィドルチューンをメドレーで合わせることが出来るのも希花さんのスリリングなフィドル奏法と、アーカンソーとアイルランドを股にかけているアレックと、ブルーグラスとアイリッシュをとことん経験している僕との3人による独特な世界かもしれません。

7 ★Margaret’s / Amelia’s

Pat Shuldham作の美しいワルツは僕自身Aly Bainの曲だと思っていたくらい、彼の演奏が印象に残っています。2曲目は1980年頃にピアニスト兼フィドラーのBob McQuillenによって書かれたメロディです。Amelia Stilesなる人物に捧げた曲ということですが、このAmeliaはもともとAmelia Earhartの名前から取ったものらしい。Amelia Earhartについてはブルーグラス人間もよく知るところです。なので、とてもこの曲に親近感を覚えてしまうのです。

8 ★Joe Coleman’s March

1847年、靴職人でフィドラーのJoe Colemanは妻殺しの罪をきせられ、絞首刑になりました。実際の処は分からなかったようですが、当時はなにもかも適当だったのでしょうか。どこまでも冤罪のようでしたが、彼が刑場に向かう馬車の荷台で、自分の棺桶の横に座り、最後のフィドルを弾いた、と云われています。そのストーリーを誰かがフィドルチューンにしました。作者は分かりませんが、実にその光景が浮かんでくるような曲です。

僕等のアレンジでは、最後にJoe Coleman のフィドルの音が遠ざかっていく光景を表しています。

9 ★ Leaving Brittany / Horizonto

再びJohnny Cunningham作のこれも美しい曲。この人の書くメロディはどこか優しさに溢れているような感じがします。2曲目はこれもBlowzabellaからの選曲。Paul Jamesというこのバンドのパイパーが書いた曲です。とてもエキサイティングな名曲だと思います。

この2曲はアレックを呼んですぐに演奏する、と決めていたものです。アイルランドでもステージやラジオなど様々なところで演奏しました。必ずうけるメドレーです。

10 ★ Tribute to Peadar O’Donelle

かなり前にムービングハーツの演奏で聴いたもので、パイプの印象的なメロディをずっと覚えていて、何気なしによくギターで弾いていたものを今回録音してみました。

この曲はドブロのジェリー・ダグラスもやっていて、何故か今はそちらの方が良く知られているようでムービングハーツや、恐らく作者であろうドーナル・ラニーの名前が検索しても出てこない、という不思議なものです。

11  ★ Planxty Dermot Grogan / Big Country / Johnson Boy

この3曲はなかなかに繋がりのいいメドレーになったと思います。最初の曲はハープによって書かれたもの。2曲目はベラ・フレックのとてもシンプルで美しい曲。3曲目はその昔、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドのジョン・マキューエンのやっていたものですが、それよりも先にデヴィッド・リンドレーがバンジョーでやっていたものも聴いたことがあります。二人ともトパンガ渓谷のバンジョーコンテストの常連ということなので、どこかで繋がっていたのだろうと思います。

最後に少し間を置いて2曲のブルースを一発で録音してみました。

In the Pines / Police Dog Bluesの2曲です。

アレックと飲みながら(実際には飲んでいない)鼻歌を歌う、という感じで最初の曲を。そして僕のギターソロで締めくくりました。これは1981年東芝EMIからリリースした僕のアルバムの中にも収録されています。当時はライ・クーダーの演奏から学んだものでした。

New CD Coming Soon

思い切り格好つけたタイトルですが、もうすぐ僕らの5作目となるCDを発表します。

2011年のKeep Her Lit! 2012年のMusic in the Air 2013年のThe Rambler

2015年のThrough the Woodに続くデュオとしての5作目です。

その間にGentle Wave 今風の中のセットが2017年。また2015年にアイルランド音楽の最高峰Paddy Keenan&Frankie Gavin とのEire Japanもありました。

とに角、今回またデュオのアルバムを作ったわけですが、当初2作目のMusic in the Airのようなものを考えておりました。しかし、やはり時は経っていて、あの頃とは違っていろいろとアイディアが膨らみ、いい意味で豪華な出来栄えとなりました。

但し、当初のコンセプトを踏まえた上でとても聴きやすいメロディのものを主体としております。

勿論ライナーも付いておりますが、もっと詳しい解説はHP上で掲載しようと思い、こうしてご案内を兼ね、ライナーの補足をしてみようかな、と思います。

★ Cailin Deas Crúite Na MBó (Pretty Girl Milking Her Cow)

この曲は聴いたことがある人も多いかもしれません。深夜食堂のテーマソングとして斎藤常吉さんという人が歌詞を付けて唄っていました。非常に情緒溢れるメロディで「流石日本には素晴らしく感傷的な曲があるな」と勘違いしていたアイルランド人もいたくらいです。僕らは1940年のジュディ・ガーランドのものをソースにしましたが、曲自体は古いものです。なので、敢えて原語のタイトルを表記しました。尚、歌詞はThomas Mooreが書いています。僕らが既にThe Ramblerの中でThomas Farewellとして録音しているものと同じ曲ですが、今回のアレンジは全く別の曲に聴こえるかもしれません。

★  Lost Lula  

Jason Romeroという楽器製作者(主にバンジョー)による作品です。聴いた瞬間に「あ、これ弾きたい」と思ったものです。これはCumberland Gap Tuningというものを用いて弾いています。fDGCDという並びです。オールドタイムバンジョーには数えきれないほどのチューニングがあり、それはとても覚えることができません。おそらくスタンダードチューニングとマウンテンマイナー、ダブルC、そしてこのカンバーランドギャップくらいを覚えておけばなんとかなるとは思いますが。

★  Little Bird / Gort Na Mona 

ギタリスト兼アコーディオン奏者のTim EdeyがSharon Shnnonに送った、という可愛らしい曲です。彼のステージは超絶無二のテクニックとユーモアのセンスに溢れたもので、2時間でも3時間でも、いやそれ以上聴いて、観ていられるものです。それに続く次の曲も素晴らしいハープ奏者であるMichael Rooneyのペンになるものですが、この人の音のセンスは、これまた何時間でも聴いていられるものです。僕らはどちらもハープをメインにアレンジしました。

  • Wounded Hussar / Gallowglass 

Captain O’Kaneというタイトルの方が一般的なのか、この方がよく知られているのか分かりませんが、限りなく美しい曲です。どうやらO’Carolanの曲としてCaptain O’Kaneが存在し、Alexander Campbellの詩によるWounded Hussarがあるようですが、僕らは次のGallowglassとの関連性からこのタイトルを付けてみました。Gallowglassとは13世紀ごろから16世紀にかけてアイルランドやスコットランドの族長が雇った重装備の傭兵である、ということです。因みにHussarは度々、騎兵隊の兵士という意味で使われるようです。

★ Above and Beyond  

もう存在しないCalicoというバンドのDiarmaid Moynihanが書き下ろした、日本の童謡のような曲。なんでこんなメロディが浮かんだんだろう。もしかしたら赤とんぼとか聴いたんじゃないかな、と思わせるような曲です。ちょっと「3丁目の夕陽」を想い出させる曲調だなぁ、なんて感じるのは僕だけかな?

少し沖縄風にアレンジしてみたのでハープもそれらしいものを付けてみました。

  ★ Diarmuid’s March (Each Little Thing)

Stephen Cooneyの書いた、実際にはマーチ曲です。原題にはマーチということがはっきり表れていますが、Sharon Shannonがこの曲を気に入って、彼女のアルバムタイトルであるEach Little Thingを当てはめたということです。

★ An Buachilin Ban (Dear Irish Boy) 

こういう曲はあまりギターで弾くのは…多分家で一人で爪弾くには良いかもしれないけど、なんて思っていたらある時Noel Hillが「ジュンジ、これギターで弾けよ」なんてとんでもないことを言ったので真に受けて今回録音させてもらいました。

★ Sally in the Garden / Dwyer’s 

最初はオールドタイムのバンジョーチューンです。最近まであまり馴染みのなかった曲でしたが、いろんなひとがいろんなアレンジでやっているので、僕らもちょっと思い切ったアレンジでオクターブマンドリンやビオラを入れて少し不気味な感じにしてみました。そのまま、名曲Richard Dwayer’sにビオラとギターでシンプルに入ってみました。マイナー調の美しいメロディを持ったリールです。

★ Sleibhte Pomeraig (Mountains of Pomeroy) 

もうすでにMountains of Pomeroyとしてお馴染みの曲をここでは敢えて原題表記してみました。この曲では必ず名前があがるRichard Lewis O’Mealyはパイパーですが、1934年にBelfastでの録音が残されている、ということです。West Meathで生まれた彼の恵まれなかった幼少期を思うと何故か軽々しくこの曲を演奏することをためらってしまいますが、その辺を知るか知らないかで演奏も変わってくると感じ、今回Music in the Airに続いて2度目の録音をしてみました。

★ Big Pat’s / Miller of Droghan

Cマイナー/Eフラットという変わったキーで演奏したフィドル&ギターの基本的な僕等らしい仕上がりの曲。なぜか終わると同時にアイルランドの放送局のジングルが入りそうな出来栄えになりました。

★ Bluemont Waltz   

フィドラーのRodney Millerによる美しいワルツ。ブルーリッジ山脈の中、Snickers Gapに位置する小さな町、ブルーモントのことでしょうか。それにしても可愛らしくて綺麗なメロディの曲です。すごく僕等らしいアレンジだと思います。

なお、ボーナストラックとしてこの2曲  Contradiction / President Garfield 

激しいリールを「せいの!」で一発録りしてみました。

使用楽器

内藤希花 Fiddle        Made in Italy circa 1890

     Irish Harp    Stoney End Minnesota USA

     Concertina    Jurgen Suttner Germany

     Viola         Gliga Romania

     Mandolin   Gibson A-4 1911

城田純二 Guitar        George Lowden O-32 & F-32

          Nylon st. Guitar   Taylor        

 Banjo         Wildwood Heirloom

                         Deering Vega

          12st,Guitar    Martin

          Octave Mandolin   Phil Crump USA

          Mandolin     Gibson A-4   1911

結構盛り沢山のこのアルバムはきっと皆さんに楽しんでいただけると思います。

また、とても優しい雰囲気の仕上がりになっていて、どちらかというとドライブ中よりもゆったりとした空気の中で聴いていただきたいものだと思いますが、最近の静かな車ならいいかも。でも眠らないようにお願いします。

取り急ぎで申し訳ありませんが、宣伝も兼ねてお知らせでした。

クロウハンマー・バンジョーワークショップ#4終了

ワークショップ#4が無事終了しました。みなさん上達が早く、嬉しい限りです。まず、みんな一緒に前回やったダブルCチューニングでのSally Annをゆっくり繰り返し、繰り返し、そして徐々に早くしていくように、そんな練習を最初にしました。とに角、大切なのは「リズム」このリズムに乗って、脳にメロディを叩き込む。これは繰り返しの練習のみが手助けになるものだと信じています。

みなさん、クロウハンマーが何だか面白くなってきた、とおっしゃるし、それは本当に嬉しいことです。

今回は他にも同じチューニングで新たにLibertyそしてSally in the Gardenを復習し、さらにカンバーランドギャップチューニングでのSally Annにも挑戦していただきました。

毎回ギターワークショップの川瀬さんに感謝です。

なお、4月26日に京都に参りますが、その日、このワークショップを主催していただける方が現れました。

金曜日、多分19時半くらいからですがまだ、2人ほど枠があります。

もし興味のある方がいらっしゃったら、下記にメールを送ってください。

先方様に連絡して詳細をお知らせさせていただきます。

 10strings.j@gmail.com

韓国ブルーグラス

今日のBOMニュースで韓国のブルーグラスバンド「カントリーゴンバン」という見出しを見つけた。

それですぐ渡辺三郎君にメールしてしまった。

以前にも(2017年3月)韓国にキアラン君と出向いた時に書いた話だが、僕は韓国のブルーグラスの発祥ということには少なからず関わっている。

1974~5年頃、韓国ヨーデルの国民的シンガーだったキム・ホン・チュル君が何故か日本に来て、京都を訪れ、僕らと出会った。

本当に何故かはさっぱりわからない。

当時、破竹の勢いであったナターシャーセブンの坂庭君と僕の演奏を聴いたキム君「コリャ面白い」(しゃれではない)と思ったか…どうか…。

短い滞在を終えて国から便りが届いた。「ブルーグラスバンド始めたよ」

勿論、キム君のヨーデルもフィーチャーされたものだった記憶がある。そして彼がバンジョーを弾いていた記憶もある。

彼はスイスにもヨーデル留学(そんなものがあるかどうかは分からないが)をしていた本格的シンガーだ。今でも活躍している。

カナダにいるのかな?一時韓国に戻ったようだが。

とに角2017年に行った時、ブルーグラスバンジョーを弾いている、という女性が「キム君は韓国のヨーデルの父でもあるけど、ブルーグラスの父でもあります」という主旨のことを言っていた。

今回BOMに登場していたバンドはすでに3世代ほど後の人達だが、もしかしたら国民的シンガーだったキム君のことは知っているかもしれない。

なんか世界的な繋がりと時の流れを深く感じてしまった。

Cumberland gap tuning

カンバーランド ギャップと呼ばれるこの調弦。gEADEという並びが正調のようだが、僕は、普通にマウンテンマイナーチューニングにして、5弦をFに下げている。

これはなかなかに雰囲気のある音並びだ。

トニー・トリシュカはFチューニングと呼んでいたようだ。

Fチューニングといえば、僕が1981年に録音したSoft Shoesというアルバムで演奏したGrey Houndという曲はfCFCDという並びで、僕は勝手にFチューニングと名付けていた。

この曲を創っていた時に偶然出来たチューニングだった。思えばDADGADもずいぶん前に自分で勝手にDsus4チューニングと呼んでいた時期があった。

因みにカンバーランド ギャップは、ケンタッキー ヴァージニア、テネシーを股にかけた本当にオールドタイムやブルーグラスの聖地だ。

このチューニングで今、いくつかの曲を弾いているが、本当に山の向うから聴こえてくるような響きを持っている。

Irish Musicその145

Lough Key   (Slip Jig)

Larry Redican’sとしても知られる名曲。僕はかなり前にミック・モロニー達の演奏で聴いた。KilkellyというアルバムでMaids of Selmaの後にやっていた。けっこう強烈な曲なのにシンプルなものだ。ところでこのアルバムタイトルになっているKilkellyだがCo.Mayoの小さな村の家族のストーリーを歌ったものだ。とても涙なくしては聴けないもので、大好きだったのでミック・モロニーと一緒に演奏した時にギターを弾かせてもらった。

ところで本題のLough Keyだが、Co.Roscommonにある「みんなで走ろう」みたいなイベントがあったり、釣りを楽しんだり、とても風光明媚な処のようだ。ま、アイルランドはいたるところそんな感じだが。キアラン君のバグナルスタウンもいいところだし。

Irish Musicその144

Killing the Blues

今回はまたまたアイリッシュでもなければオールドタイムでもブルーグラスでもない曲。

これは1977年のウッドストックマウンテンズというマッドエイカーズのアルバムの中に入っていたRoly Salleyのものだ。

なぜこんな曲を今更、という感じだが、ちょっと前にアリソン・クラウスが唄っていた。ロバート・プラントと一緒だったが。そして最近はA J Leeまで唄っていて、さすがにいい曲だけに今頃気がついたが、やたらと多くの人がカバーしている。

いろいろみていると、パディ・キーナンのアルバムでTommy O’Sullivanも唄っていた。そういえば僕は彼に「渋いうた唄ってるじゃん」と言ったことがあったけ。すっかり忘れていた。これもまた名演だ。

特にレパートリーに取り上げようというわけではないし、Irish Musicなんていうカテゴリーでもないが、好きな曲を想い出したので、ということで掲載してしまった。

クロウハンマー・バンジョーワークショップ #4

第4回目のクロウハンマー・バンジョーのワークショップを、少し急ですが、

3月31日の日曜日に開催することを決定いたしました。

皆さん結構上達されていて嬉しいです。

いかにリズムに乗って正確にメロディを叩き出すか…究極これしかないのですが、一人部屋でやっていても今一つピンとこないところをみんなでやってみましょう。

音楽というものは自然の風景が僕らに与えてくれるものです。そしてまた人々との会話でもあります。

これから咲く桜をみて「きれいだね」とみんなで一緒に楽しむ。そして会話が弾む。

このスタイルのバンジョー演奏も、長年、季節の移り変わりと人生の喜怒哀楽と共に培われてきたものです。

皆さんと是非会話をしてみたいと感じております。

なんだか理屈っぽくなりましたが、楽しんで上達しましょう。お互いに。

ワークショップに関する詳しいことは以下にお問合せ下さい。

神田ギターワークショップ   03-3293-8979

最近のバンジョー事情

もう僕が書くほどのことではないが、最近は素晴らしい若手のバンジョー弾きがアメリカでもヨーロッパでも日本でも数多くいる。

僕はどうしても5弦に限って書いてしまうが、4弦バンジョーは5弦とは全く異なる楽器と言えるので、そういう意味でご勘弁願えたら幸いです。

僕がこの楽器に出会ったのが、今から55年以上も前のこと。

勿論ギブソンもヴェガも知らなかったし、最初はどんな形をしている楽器かも知らなかったくらいだ。

ただ、やたらと早く弾く楽器か、よってたかって多くの人が弾いているのかな?という程度の認識しかなかったのだから驚いてしまう。

だが、それは静岡という土地に居たからかもしれない。東京や関西方面ではもうすでに何人かの人がブルーグラスなる音楽を演奏していただろう。

写真を頼りに、見よう見まねで作った、なんていう話をその昔ドン佐野さんから聞いたもんだ。

高校に入りフォークソングに夢中になって、大学に入ってブルーグラスに夢中になって、とごく一般的な道を歩んで来た。

幸いにも3歳からのピアノ教育がまだ身体に残っていたので、すぐそれなりには様になっていた(と思う)

大学のブルーグラス生活では(普通、大学生活なのだが)渡辺三郎君、三ツ谷君、清水さん

野崎さん、を始め立命館、同志社などのバンジョー弾きとしょっちゅう行き来していた。

産業大学では、かの坂庭君と寝ても覚めても意見交換をしたものだ。

当時資料なるものはちっとも無かったので、レコードを聴きまくって、ライブに行きまくって勉学に励んだものだ(ここでも大学の、ではない)

そしてナターシャーセブンに繋がっていくわけだが、故高橋竹山師匠との交流から始まった津軽三味線風バンジョーや、マラゲーニアからヒントを得た世界巡り、日本の童歌など、様々なアイディアをバンジョーに乗せたりしてみたものだ。

時は移り、アイリッシュの世界にどっぷりつかるようになると、もうほとんどバンジョーは弾かなくなった。

先に出た4弦もセッションなどではよく弾いたが、ブルーグラスなどで親しんだピッキングとは全く違うのでこれは難解ホークス。それよりも当時はまわりにほとんど居なかったこの音楽でのギタリストを目指そうと考えたわけだ。

ピアノで培った和音感覚とブルーグラスのベースランを基に、他の誰のスタイルでもないものを築き上げていくために日夜努力したものだ。

それでもたまにはブルーグラスバンドの手伝いもしたが、ほとんどの時間はアイリッシュで過ごしていた。

やがて、アイルランドのロングフォードでバンジョー・フェスティバルなるものが開催されるようになり、僕は5弦を持って、パディ・キーナンと共に行った。そこにはかのジョン・カーティやエンダ・スカヒル、イーモン・コイン、ジェリー・オコーナーという錚々たる4弦バンジョー奏者、そしてピート・ワーニック、ビル・キース、トニー・トリシュカ、アリソン・ブラウンといった5弦バンジョー奏者。

そんな中に混じってパディとはこれでもか!くらいのアイリッシュを、そしてフィナーレではブルーグラス・チューンを演奏した。

何やかや云っても僕にとって5弦バンジョーはまだまだ魅力的な楽器だ。ただ、もう既にその重さがこたえる歳になってきたことは確かだ。

若いバンジョー弾きが、いつでも得ることのできる有り余るほどの資料や情報を鋭く掴み、また、気楽に海外にも出かけていけるそんな環境になって、その重さをものともせずに弾きまくる姿は素晴らしい、の一言に尽きる。

また、様々な形態の音楽から得るリズムの切れの良さなども彼らの特徴だ。

そんな中で、ストレートなブルーグラス、5弦バンジョーらしい演奏を聴くことの嬉しさも格別なこととなる。

僕はいろんな意味で最近はクロウハンマーにはまっている。ナターシャーセブンでも多くの曲をそのスタイルで弾いてきたが、今はそれを更に発展させるように努力している。

最近はアメリカでも若手のクロウハンマー奏者が軒並み目白押しだ。

一体どれだけ進歩していくのだろう、と思わせる若者も多くいるし、ひたすら渋い演奏を聴かせてくれる中堅どころも数多くいる。

僕もまだまだこのスタイルを研究していこうかな、と思っている。

フレンチプレスで淹れたコーヒー

コーヒー通の方には「今更何を…」と言われるかもしれないが、最近になって、コーヒーはフレンチプレスで淹れるようになった。今までのコーヒーメーカーは淋し気に佇んでいる。

それが何故かと言うと、毎年アイルランドに行って各家庭でコーヒーをいただくのだが、どこもフレンチプレスを使っているからだ。

いろいろ調べてみると家庭で比較的面倒ではなく、なおかつ美味しいコーヒーが飲めるにはフレンチプレスが一番だ、という記事を沢山見つけた。

元々、日本茶派なのでそんなに気にはしていなかったし、コーヒーメーカーなら適当に淹れておいて保温しておけばまた飲めるし…なんて思っていた。

しかし、いよいよ奮起してフレンチプレスを購入することにした。値段もピンからキリだし大きさもいろいろあるし。

でも3~4人分でいいし、値段もそんなに高いものはもったいないし、そんなに変わらなければ(味)すぐ飽きるかもしれないし、けっこう面倒かもしれないし…等々いろいろ考えて中間クラスのものを手に入れた。

かくして、今はフレンチプレスのコーヒーを飲んでいるわけだが、キアラン君は最初に水を入れる。そんなことしたら冷めちゃうのになぁ、と思ったら、お茶と一緒で少し湯冷まししてから淹れる、というのが本式らしい。

でもなぁ、水道の水をジャァー!っと思い切り入れるところもキアラン君らしいではないか。

そして、もう一杯と言う時はマイクロウエイブに突っ込んでしばらくして戻ってきて、新しいカップにコーヒーを入れ、マイクロウエイブのドアを開けて「ありゃ」という顔をしている。それでも結構味にはうるさいし、それなりのテイストも持ち合わせている。

特に彼の場合、さすがにヨーロッパ人。ワインにはかなりの知識があるようだ。

おっと、キアラン君の話はいいとして、何だっけ?あ、コーヒーです。

もし、まだフレンチプレスを使ったことのない人は、いちど試してみるといいかな、と思います。

手入れも楽だし、何だか前より美味しいような気もします。

初ブルーグラス

僕にとっての初ブルーグラス体験は世の中が東京オリンピックで盛り上がる少し前のことだったと思う。

前にも書いたかもしれないが、家で購入したステレオに付いてきた見本のLPレコード「Bluegrass is Oldies but Goodies」とかいうタイトルでFoggy Mt.BDがA面のトップに入っており、B面のトップがスタンレー・ブラザースの「Maple on the Hill」だった(ような気がする)

さて、そのなんだかわからないけど、えらく速く弾いている(らしい)楽器の音に度胆を抜かれたわけだが、最近BOMの渡辺三郎くんとメールで久々にやり取りした。

1949年12月11日のこの録音がほとんど正確にG#である、と言うことについてだが、当時、本当にチューンアップしていたのか、録音したものを半音上げたのか、その辺を彼に訊ねてみたのだ。

すると、とても詳しい記述(記事)を送ってくれた。これに関してはひょっとすると彼も面白いと感じてくれて記事にするかも…と言っていたので、ここで詳しく説明することは避けておこう。

ただ、僕の単純な疑問として、アイリッシュではよく、半上げ(E♭)で演奏されることがあるが、特にセッションなどでそうすると下手な奴は入ってこれないし、うるさいパブではその方が音に張りが出ていい、ということなのだ。

そのためアコーディオン、フルート、コンサーティナなどはもともと半音高いものを持って行ったりする。

そう言う感じかな、と思ってのことだが、ブルーグラスでフラットマンドリンを半音上げるのは寿命が縮まる思いがするだろう(余談)

究極の話として、彼らはシンガーであるギタリストがケースから出した時の音に合わせているみたいだ。

なので440Hz~445Hz、たまには450Hzくらいまでのことがありそう。因みにジェリー・ダグラス曰く、アールのバンジョーは448Hzだったそうだ。

友人がチーフタンズの調律をした時は445Hz位だったそうだ。本当かよ!と思ったそうだが大体、古楽は高めだそうだ。

1949年にもチューニング・メーターなんて無かったんだろうし、その日の気分というのが随分あったのだろう。

そう言えばカーターファミリーが日本に来た時、やたらと大きなチューニング・メーターを持ってきてジョー・カーターがそれでオートハープをチューニングしていた。

あんなものを持ってこなくたって良かっただろうに、やっぱりずっとそれでやってきているのだろう。

あの頃、僕らは音叉を使っていたのだろうか?

寒い冬の夜にそんなことを考えてしまった。

内藤希花&城田純二スペース結コンサート記録2019年1月19日の会に寄せて

2011年 3月26日

1 Banks of Suir/Two Days to go  2 Handsome Young Maiden/Smiling Bride/Fox Hunter

3 Jackie Tar set  4 Foggy Mt. BD  5 朝の雨  6 The Maid I Ne’re Forget set

1 Ini Sui  2 Ramble of Bach  3 Both Sides Now  4 Boogie Reel set

5 川のほとり 6 Breton Gavotte  7 どこにいればいいんだろう 8 Broken Pledge set

アンコール:Lime Rock  Planxty Fanny Powers

2012年4月29日

1 Far Away Waltz set  2 P Fahey’s/Out on the Ocean  3 Foggy Mt. BD  4 春よ来い

5 Mountains of Pomeroy  6 Hard Times  7 Gm set

1 Old Timey set  2 外山節 3 Ramble to Cashel  4 Dutchman  5 Jewish Reel

6 Swan LK234  7 別れの唄 8 Inion Ni Scannlaine  9 Curlew set

アンコール: For Ireland I Won’t Tell Your Name  旅立つ前に

2012年12月2日

1 March of King of Laoise  2 Si Bheag Si Mhor  3 スカボロフェアー 4 Coilsfield House  5 Stor Mo Chroi  6 Return to Miltown/Road to Ballymac/Cutting A Slide

1 Clinch Mt. BS/June Apple  2 Foggy Mt. Special  3 山と川/Pockets of Gold

4 She’s Sweetest  5 Bulgarian/Gavotte/Guns of Magnificent Seven

5 海の嵐/Water is Wide  7 Fairy Dance set

アンコール:Hector the Hero

2013年11月3日

1 Here Comes the Sun/Rambler set  2 この想い  3 Coildsfield House  4 Clinch Mt BS

5 外山節 6 おわいやれ/Breton Gavotte  7 Anna Foxe

1 小さい秋みつけた  2 Foggy Mt BD  3 Time in a Bottle  4 10LB float

5 Fusco/She’s Sweetest  6 悲しくてやりきれない  7 Banks of Suir

アンコール:Dowd’s Favorites/Christmas Eve/W Coleman/Rolling Bar Maid

2014年10月5日

1 Island of Woods/La Coccinelle  2 Her Black Hair/Golden Castle  3 Sunday’s Well

4 Ramble to Cashel  5 Morrison’s/Drowsy Maggie/Farewell to Ireland

1 Continental Mood/Flat World  2 Waltz/Boys of Ballysadare/Sean Sa Ceo

3 どだればち 4 小さい秋 5 Banks of Suir/Goat Na Mona

6 Through the Wood Mama’s Pet

アンコール:I Can’t Stop Love with You/Humours of Tullyknockbrine/Dinky’s

2016年1月16日

1 Great Dream from Heaven  2 That’s Right Too/Hare’s Paw  3 Kitty O’Neil’s

4 Harp  5 ドナウ川のさざ波 6 Rolling Waves/The Cuckoo  7今またヒーローが 

8 Through the Wood

1 Dry & Dusty/Indian Ate the Woodchuck 2 Red Rocking Chair/Angeline the Baker

3 Hector the Hero/Girl at Martinfield  4 Parting of Friend  5 Are You Ready Yet?/Dolphin’ s Leap  6 Night in That Land  7 La Coccinelle

アンコール:Parting Glass/Father O’Flynn/Cranking Out set

2017年1月14日

1 O’Carolan’s Cup  2 今風の中  3 Fanny Power/Jig  4 心の旅/Baree Island set

5 Battle of Killiecrankie  6 力を合わせて 7 Covering Ground/Golden Stud/Reconciliation

1 Red Rocking Chair/Sally Ann  2 Harp  3 野ばらと鳩 4 Leaving Brittany/Horizonto

5 Maple Tree/Reel Batrice  6今またヒーローが 7 Farley Bridge

アンコール:Cranking Out set

2017年7月15日

ざっくり決めたセットの中で久保田さんにも唄っていただく

なお、2013年6月にハーモニカのありちゃんと、2014年3月にはCormac Begleyとお邪魔させていただいている。

以上、内藤希花&城田純二のデュオが残したスペース結での記録を掲載してみました。

2011年からスタートしたこのデュオをこうしてサポートしていただいている久保田夫妻に感謝いたします。

そして、足を運んでいただいたすべてのみなさんにも感謝いたします。

New Banjo

かねてから気になっていた12インチのオープンバックバンジョー。

Deering社のヴェガ・ホワイトオーク。

その弾き易さと粒立ちの良いトーンは、今メインで使用しているWildwoodとほぼ同等だ。

トーンリングは付いていないが素晴らしい響きを持っている。またトーンリングが無い分、ずいぶん軽い。

ポットが浅いせいか12インチ独特の深い音色には少し届かないかもしれないが、このトーンと弾き易さは抜群のものがある。

Deeringはなかなかどのモデルを弾いてみてもそれなりの音がしていて、それでいて比較的コストパフォーマンスに優れているバンジョーだといえるだろう。

クロサワ楽器ブルーグラス館の小林君と西田君に感謝。

クロウハンマー・バンジョーワークショップ#3

クロウハンマーのワークショップも神田のギターワークショップ、川瀬さんのご厚意でいよいよ3回目を迎えることになった。

日にちは2月24日の日曜日。時間は12時からということですが、詳しいことはギターワークショップにお問合せ下さい。

03-3293-8979

今までに受講された皆さんに配布したタブ譜は

スタンダードチューニングでCripple Creek, Red Haired Boy, Blackberry Blossom

マウンテンマイナーでCold Frosty Morning

ダブルCでAngeline the Baker, Arkansas Traveller, St. Anne’s Reel, Sally in the Garden

でした。

このスタイルではやはりスタンダードなチューニングより、モーダルな響きが出やすい他のチューニングの方が雰囲気は出るようです。

しかし、Cripple…は基本中の基本でもあり、Red…はなかなかよくできていると思うし、Black…はハイポジションからメロディを作りだすいい訓練にもなります。

各自お時間のある時に家でトライしてみたらいいと思います。

次回は新しいタブ譜を用意していきます。

ダブルCのSail Away Ladies, Shady Grove, Farewell to Trion

の3曲です。

それでは受講される皆様、まだまだ寒い日が続きますがどうかお元気で。

ギターワークショップでお会いしましょう。

ダニエル・ゲーデ奇跡のレッスン

先日「ダニエル・ゲーデ奇跡のレッスン」という番組をテレビで観た。

バイオリニストのダニエル・ゲーデが日本の子供たちのオーケストラの指導をする、という企画だ。

1週間で子供たちの音色に変化が出る、というものであったが、僕はかなり前に観た、フルート奏者のジェイムス・ゴールウエイのワークショップを想い出した。

男の子が「何かやってごらん」と言われ、フルートを持ってまさに演奏をしようとしたとき「ちょっと待った。君が野球でバッターボックスに立った時にどういう気持ちで相手のピッチャーに向かうかを想い出してみなさい」

と言うと男の子は「僕、野球はやりません」と答える。

すると彼は「男の子は野球をやらなくちゃ。さぁ行くぞ!という時の気持ちをこのフルートに託すんだ。だから君も野球をやりなさい」

と言った内容だった。

今回のダニエル・ゲーデも「この曲の背景は知っている?これはバロック時代に書かれたもので、その時代はほとんどがダンスの為に書かれたものだよ」

ひとつひとつの楽曲についての背景を語るというのは流石なものだ。そして彼は続ける。

「それじゃぁみんな楽器を置いて。その場に立ってダンスをしてみよう。足踏みだけでもいい。慣れてきたら身体も動かしたり手を動かしたり好きなように」

更に「次は弓の持ち方もちょっと変えてみようか。もっと短く持ってごらん」

テレビのナレーションでは「へぇ、弓の持ち方なんて変えていいんだ」という言葉が流れていた。

「短く持ってみたらなんか軽くなったようでしょ?彼はいろんな長さに弓を持って「君たちがやりやすいところを見つけたらいい」というようなことを言っていた。

子どもたちの演奏は確かに変わっていったようだが、これが続くといいなと思う。

日本と言う国はどうしてもクラシック音楽信仰が強すぎるような気がしてならないので。

2018年も有難うございました

もうすぐ2018年が終わってしまいます。69歳になりました。 ここまで多くの人に支えられて生きながらえてきました。 今年はほとんどコンサート活動をせず、春と夏に2回アイルランドに行きました。 お米と小麦という名前を付けた子猫とキアラン君と共同生活をしてきました。 彼等の世話に明け暮れました。 勿論、様々な場所で演奏もし、また新たな出会いもあり、それはそれは充実した時間を過ごしたアイルランドでした。 思うに余りに深入りしすぎたせいか、日本での演奏に今一つ馴染めなくなっているのでしょうか。 それでも2019年にはCDを2種リリースする予定でいます。 ひとつはアレック・ブラウンのチェロ入り。もう一つはちょっとだけMusic in the Airの第2弾という感じのものになると思います。 いよいよ平成の終わり。平成になった時、日本に居なかったので平成と言う元号には馴染みがないまま終わってしまいます。 何はともあれ、皆さんにとって素晴らしい2019年をお迎えください。 今年一年、有難うございました。

我々は何故アイリッシュ・ミュージックを始めてしまったんだろう

このことに関しては良くアイルランドでも質問を受ける。でも、それは決して政治的な理由などを求めているのではなく、アイルランドの音楽のどこが好きなのかを訊ねられているに過ぎない。

そんな時には必ず「メロディの美しさに魅かれた」と答える。

事実、美しいメロディが数多く存在することは確かだが、それはどの音楽にも存在する理由でもあるだろう。

最近「合意無きEU離脱のイギリス」という番組をテレビで観てしまった。

そのこと(離脱)によってIRAの活動が再発するのではないかという懸念が生じているという。

詳しいことはここには書かないが、彼らが言うには、人々が思っているように1998年にアイルランド紛争は終わっているのではない、ということだ。

僕らは少なくともこういう国の音楽を演奏している。そして現実にアイルランドで演奏している。もちろん北アイルランドでも。

そして、かなり政治的な場でも演奏してきている。それは僕自身アメリカでも経験してきた。

そんな中でもなにも問題なく演奏をしてきた。

ただ、自分の中ではこれは黒人の背負ってきた運命と同じだという感覚がある。

まさにアイリッシュ・ミュージックにもブルースを感じるのはそこの処だ。

それが理解できなければ、ただ単に楽しい音楽のひとつとなってしまう。

幸いなことに僕はフォークミュージックからブルーグラス、そしてアイリッシュという道を歩んで来た。

そこには常に黒人音楽との密接な関係が存在してきた。決して音楽上の技術的な話ではない。

そうして辿りついたアイリッシュ・ミュージックが僕自身の音楽になっている。

これから自分にとってのアイリッシュ・ミュージックというものがどのようになっていくかは分からないが、「イギリスのEU離脱」という懸念を報じた番組を観ていて少し考えてしまった。

12月23日 平成最後の記者会見

このようなものをまともにテレビで観たのは初めてのことかもしれない。

全く天皇制崇拝者でも、強く反対意見を持っているわけでもない。

ただ、今回の会見には結構感動してしまった。

うるうるした記者もいたということだが、分かるような気がする。

素晴らしい会見だったことは確かだ。

これって御付きの人が原稿を書くのだろうか、と思いつつも、彼(失礼)の人柄と言うものが本当に良く出ていたと感じた。そこが多くの人の感動を呼んだ所以だろう。

思えば彼等(またまた失礼)の結婚のパレードをテレビで観て絵日記に書いたのは1959年、僕が10歳の時だった。

12月30日

またまた誕生日のバースディ・コンサートを京都の都雅都雅さんで開催していただく。

今年はゲストにゴトウゆうぞう君を呼んだ。

特に今までに大きくかかわりは無いが、何故かよく知っている。

時は1970年初めころ。

京都で始まったナターシャーセブンに付いてきてくれた小学生から中学生になろうという年齢の女の子たち。

時が経ち、そのうちのひとりがゆうぞう君の奥さんとなった。

みんな今でも僕を支えてくれている。そしてみんながゆうぞう君の仲間でもある。

また、一目見たら忘れられない存在だ。

世の中では彼みたいな人を「味がある」「風変り」「めちゃ人に好かれる」「けったい」など多くの表現方法で呼んでいるだろう。

そんなにたくさんは一緒にやらない。何故ならば存在だけで全て持って行かれそうなので…。

しかし、僕もとても楽しみにしている。またライブレポートで報告します。

散歩

あまり寒くなく、天気も良かったのでちょっとだけ散歩してみたら、いい感じの景色の中に牛…いや、かなり大きい猫を発見。

あまりに面白かったので写真を撮ってみた。陽だまりの中、全く動こうとしない猫。おかげで楽しい散歩になった。

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クロウハンマー・バンジョーワークショップ#2

12月16日、第2回目のワークショップを開催しました。このところアメリカでも若い人達を中心に、オールドタイムがまた見直されてきているようです。

一見シンプルで取っつき易そうなこのスタイルですが、実は自身でメロディを作りだす能力がかなり必要になってきます。

一定のリズムを保ちながら右手と左手の組み合わせで、どことどこの弦を使えばかっこよく、かつ正式なメロディにできるだけ近いものを産みだせるか。

この奏法ではそこのところがとても大切になってきます。その中でも「これは不正解」ということはなく、いくつかのやり方を見つけることもできるだろう。

そんなことも皆さんと模索しながら、少しだけ基本的なものを身に付けていただいたら嬉しく思います。

例え1時間でもみんなと一緒に考えてみることは僕にとっても皆さんにとっても貴重な時間になることでしょう。また、そう願っております。

次回は2月頃(中旬以降かな)を考えています。

 

バンジョーワークショップ

2018年12月16日にまたフレイリング スタイルのバンジョーワークショップを開催します。

詳しいことは下記にお問合せ下さい。

神田ギターワークショップ 問合わせ 03-3293-8979

Irish Musicその143

Pretty Girl Milking Her Cow  (Waltz)

僕らはThomas’ Farewellとして録音しているが、このタイトルの方がよく知られているのかもしれない。過去にジュディ・ガーランドが1940年と1955年に録音している。非常に素晴らしい情感溢れるものだ。メロディの美しさは群を抜いている一作と言えるだろう。

この曲に関しては面白い話がある。

友人(アイルランド人)の一人が「僕は日本の文化にとても興味があるんだけど、ある日、日本のテレビ番組を見ていたら、とても日本らしいメロディの曲があった。それが凄く気に入っているんだけど何だろう」と言っていた。彼の記憶によるとそれは「Midnight Dinner」というタイトルだった、と言うではないか。まさに「深夜食堂」だと思った。そして、それは以前にもアイルランド人の別の友人から聞いた話だった。

斎藤常吉さんと言う人が「思ひで」というタイトルで唄っているものがそれだ。おもしろいことに「天国の階段」だ、と言う人もいる。そういえばちょっと似ているかな。

Thomas’ Farewellというタイトルがどこからきたものか分からないが、ひょっとして詩が

Thomas Mooreだと言うことなのでそれと関係があるのかな?

Irish Musicその142

Dark Hollow

またしてもアイリッシュ・チューンではない。れっきとしたブルーグラスソングだ。ただ単にすごく好きな歌として掲載してしまう。ブルーグラスの世界ではほとんど誰もが歌っているものだろう。特に好きなのはミュールスキナーによるものかな。ビル・キースの素晴らしいリックとクラレンス・ホワイトの“ザ・クラレンス”といえる素晴らしいギターソロ。作者はBill Browning 彼自身、1958年に録音している。 随分前、Nirvanaのライブをテレビで見ていたら、散々彼らのトレードマークであるグランジと呼ばれるロックをやった後、アンコールで「じゃぁ最後に俺の一番好きな曲を」とカート・コバーンが言ったと思ったら突然Dark Hollowを唄い出した。僕はのけぞってしまった記憶がある。だが、彼らのどの録音物をみてもこの曲は入っていない。

Irish Musicその141

In the Pines

今回は140に引き続き、アイリッシュ・チューンではない。ブルースからの選曲だ。とは言えどもビル・モンローもロレッタ・リンもカーターシスターズも唄っているし、Nirvanaも唄っている名曲中の名曲。またまた、とは言えども、歌詞が唄う人によって相当違う。レッド・ベリーのものからはマーダー・バラッドだと言うことが読み取れるが、カントリー系やブルーグラス系の歌詞からは放浪の唄、という感じがする。少なくとも1870年頃の唄だろうとされているが、こんな歌が何とFour Penniesというイギリスのグループに歌われて1964年のTop20になっているというから驚きだ。ビル・モンローはThe Longest Trainと呼ばれるバージョンで唄っているが、非常にミステリアスな内容であるとエリック・ワイズバーグが1994年にNew York Timesに寄稿している、という記述が残っている。

いろいろ調べてみると、世の中にこの歌が出たのは1926年のDoc Walshのものが初めらしい。彼はキャロライナ・ター・ヒールズのバンジョー弾きだ。

Black GirlまたはWhere Did You Sleep Last Night?というタイトルでも知られている。

Irish Musicその140

Darlin’Corey

今回はアイリッシュではないものを2曲。

この曲を初めて聴いたのは高校時代、ブラザース・フォアによってだ。彼らの演奏についてはすでにコラムの別なカテゴリーで述べているので特に何もないが、アメリカでも最も有名なバラッドのひとつと言えるだろう。

マイナーで唄う人、メジャーで唄う人、ブルーグラスでもブルースでも取り上げられる曲だ。

Cecil Sharpによって1918年の9月に採譜されたという。歌ったのはNCのClercy Deetonだと言われている。

こんなこと、インターネットがなければ分かるはずもない。勿論知らなくても唄えないことはないのだろうけど、こんなことを調べるのが好きだ。

 

Cuckoo Bird

これもまたずいぶん昔に聴いたものだ。もしかしたらPP&Mだろうか。そして大学時代、オールドタイムを演奏するようになって、やっぱりClarence AshleyやDoc Watsonなどのクローハンマーバンジョーによる、えも言われん世界にぞっこんになったものだ。

独特なサウンドだと言えるだろう。

Irish Musicその139

Dear Irish Boy   (Air)

何を書いたらいいのか分からないくらいに抒情的で、そしていい曲だ。

2018年のダブリン、ある夏の日に僕と希花とノエル・ヒルは一枚のCDに耳を傾けていた。それはWillie Clancyの古い録音で、彼はこういうものを何度も何度も子供の頃から聴いてきた、という話を聞きながら、そして美味しい紅茶を飲みながらの昼下がり。

話はやがてDear Irish Boyのことに及んでいき、僕らのアルバムでのパディの素晴らしい演奏のことも、そしてTony MacMahonのこれまた素晴らしい演奏のことにも触れ、じゃぁ最後にWille Clancyのものをもう一度聴いてみよう、ということになり、3人でじっと目を閉じて耳を傾けた。それは至高の瞬間だった。

そしてノエルが「ジュンジ、ギターでこれを弾け」と言ったことで僕も弾いてみることにした。決して難曲でも北極でもなく、ただひたすら奥の深い曲なのだ。

このような曲は生半可な気持ちでは弾けない難しさがある。

 

クロウハンマー・バンジョー ワークショップ

初めての試みですが、クロウハンマー・バンジョーのワークショップを10月14日の日曜日に、神田のギターワークショップの川瀬さんのご厚意で場所をお借りして開催することにしました。

川瀬さんは長い間、日本のブルーグラス界の陰の功労者として貢献してきた人です。

バンジョーという楽器にめぐり会って54年。それは衝撃的な出会いだったのですが、ほぼずっとスクラッグス スタイルに傾倒してきました。

91年からは、全くと言っていいほど弾くことが少なくなってしまいましたが、それまでの経験はアイルランド音楽の中で独自のギタースタイルを作るうえでとても重要なポイントとなりました。

ブルーグラス&オールドタイム経験、約50年。その中でアイリッシュ経験、約27年。

今頃になっていろいろ考えるに、オールドタイムとアイリッシュの共通点が否応なしに見えてきました。

それはブルーグラスよりもはるかに上回って近い位置にあるように感じます。

そして更にオールドタイムに眼が(耳が)向き、クロウハンマーを今一度研究しています。

僕自身まだまだ足りない部分はあると思いますが、少しずついろんなことが解明出来てきたので、今回ワークショップを、と考えました。

独特なうねりをもったリズムはバンドなどで演奏すること、また注意深く聴くことで修得していくものですが、実際にどのようにしてメロディを作りだしていくかも、この奏法の極みでもあると感じます。

非常にマイナーな世界ですが、はまると抜けられない、という音楽は数々あるものです。

そんな中のひとつであるオールドタイムフィドルと並んでもう一つの花形ともいえる、クロウハンマー・バンジョーのワークショップは下記の通りです。

 

日時   2018年10月14日(日)12:00~13:00  13:30~14:30

どちらか、或いはどちらも受講可能

場所   神田ギターワークショップ

問合わせ 03-3293-8979

 

Irish Musicその138

Tribute to Peadar O’Donnell (Air)

この曲を初めて聴いたのはいつ頃だったろうか。もうかなり前のことなのでよく覚えていないが、美しいメロディで常に頭の中にあったものだ、Davy Spillaneがすばらしいプレイを披露していたものだが、最近いろいろ調べていると、ジェリー・ダグラスがやっているものしか出てこない。僕にとってこれはムーヴィング・ハーツのサウンドそのものであったが。僕はギターで弾いている。それにしても素晴らしいメロディだ。

Peadar O’Donnellは1893年Co.Donegal生まれの政治活動家であり、小説家だ。

曲はやはりDonal Lannyかな。そのことについて書いてある記述が見当たらない。

 

ワイン

この頃、やっとワインの味が分かってきたような気がする。

それというのも、散々安物を飲んできたからかな? つまるところ、飲む、という行為には全く興味がない。

僕と省悟はツァーに出ると絶対に甘いものを食べに出掛けた。まず、酒を飲みに出る、ということはなかった。 打ち上げで、ビールで乾杯!ということはあったがその1杯でもう充分。

オフの日があれば、チョコレートパフェとかババロアとか、そんなものを求めて夜の街でもウロウロしたものだ。 彼も40過ぎて位からは結構飲むようにはなっていたようだが、根本的にそんなに強い性質ではなかった。

一方、僕の方はアイリッシュを始めてから、少しは飲めるようにはなっていたが、それも演奏中だけ。エネルギーと共に出ていってしまう演奏中だけだ。 ウイスキーなんてもってのほか。日本酒というのも好きではない。それでも、状況によっては美味しい日本酒だったらちょっとくらいはいいかな。

さて、ワインの話だが、キアラン君と深く付き合うようになってから、なんとなく美味しいものと、そうでもないものの違いがわかってきたかもしれない。 一緒にヨーロッパ各地に出向き、特にフランスではその安さに驚いた。そして、安いものでも美味しい。 僕らはアイルランドでも安物を買うがキアラン君は決まって「そんな安物は駄目だ」と言って少し高めのものを買う。 高いからいい、というわけではないが、確かに深みが違う…と言うことが分かってきたのだ。 さすが、ヨーロッパの人だな、と感じる。

フランスではどのお店に入っても、まず、味見にワインが出てくる。勿論、ブリタニーの小さい村。みんな僕らを連れていってくれた二コラの事は知っているからだろう。 そんなところで陽の光に当たりながら、緑に囲まれて飲むワインは絶品だが、結構安いらしい。同じものが日本では5倍くらいの値段なので、どうしても日本では安いワインを購入してしまう。

因みにアイルランドでもいいワインはそこそこの値段がする。 なので、アイルランドでも僕らは、ついつい安いもので満足してしまうのだが。

そう言えば京都で深夜、キアラン君とファミレスに入って彼が赤ワインをオーダーした時のこと。彼がまさかそうじゃないだろうな、という気持ちで「それって冷えてない?」って訊くと、アルバイトらしき若い男の子が張り切って「はい、キンキンに冷やしております」と答えた。

確かに安い赤ワインは少しくらい冷やした方が飲みやすいかもしれない。 ワインの味が少しは分かりかけてきた今日この頃。

秋の夜長、うんと冷えた白ワインか、少しだけ冷やした安物の赤ワインか、どちらにしようかな。因みに白ワインも安物。

Irish Musicその137

Sandy Boys   (American old timey)

この曲はそこそこ有名なものだが、始まりのメロディはまるでClinch Mt. Back Stepのようだ。よく聴くと2音目が違うことが分かるのだがほぼ一緒だ。

だが、なかなかいい。と言うのが最初に聴いたのがLukas Poolの素晴らしいプレイだった。

彼は4弦をオクターブ低いGに合わせていたのだが、12インチのヘッドを持ったバンジョーならではの音が響いている。勿論11インチのレギュラーのバンジョーでも出来ないことは無い。しっかりチューニングすれば問題は無い。しかし、それなりの低い音はやはり12インチならでは、かもしれない。

この曲には歌詞もあるがインストとして演奏する人も多い。