2015年 アイルランドの旅 10

今日は珍しいものを見た。

ことの発端は、買い物の帰り、死んだカモメの子供らしきものを見つけたことだ。

かわいそうに。車にはねられたのかな、と思ったが、そんなに激しい損傷もなく、また、歩道の上だったのでどうしたのかな、と気になっていた。

そこから数メートル歩いて来たら今度は全く同じくらいの、やっぱりカモメの子供らしき鳥が、ある家のドアにさしかかる階段のところで右往左往している。

見たところ飛べそうにない。怪我をしているのではなく、まだ飛べそうではないのだ。

このままでは他の動物に襲われるかも…もしかしたらさっきのもそれが原因だったのかもしれない。

もう少し歩けば仲間が一杯いる川縁に着くのだが、子供のカモメには遠すぎるし、車もかなり走っているので危険だ。

僕らは「さて、どうしたもんだろう」と、ちょっかいを出しながら通りに出てこないようになんとか道をふさいでみた。

しかしこのままではラチがあかない。

10分ほど困っていたところに、スペイン語を話す3人の女性が(一人は子供)歩いて来てすぐ状況を察知すると、どこかに電話をかけた。

なんでも友人が動物のレスキューに関する仕事をしている、と言う。だが、電話が通じないといい、そのうちの2人がちょっと行ってくる、と川縁の方まで歩いて行った。

残った一人が「今、レスキューを連れてくるから。親はいないのかしら」と言いながらあたりを見回して「心配しなくても必ず助かるから」とにこやかに話す。

それから10分ほどしてさっきの2人がもうひとりの女性を連れて帰って来た。どうやらその人が彼らの友人のレスキュー隊員らしい。

そして、ものの見事に持って来たコートのようなもので、サット包んでニコニコしながら「これで大丈夫。みんなありがとう」と言いながら去って行った。

クリント・イーストウッドか、古くはアラン・ラッドの後ろ姿を見る思いだった。

何はともあれ、素晴らしい仕事だな、と感激した一日だった。

2015年 アイルランドの旅 11

7月6日、今晩のメインイベントは教会でのコンサートだ。これも2012年から僕らは出演しているが、トータルで6年目ということなので、ほぼ準レギュラーとも言えるだろうか。

僕らもここで数多くのトラッド・ミュージシャンを聴いて来た。一緒に演奏もしてきた。

それはパブでのセッションとは全く違うかたちだ。

今日は1部を若手の3人。パイプとアコーディオンとハープだ。さすがに、ここに出演する人達は本物のトラッド・ミュージシャン。

楽曲の説明に関しても、演奏に関しても筋が通っている。

こんな若者達が国中あちらこちらにいて、みんなが古い録音に耳を傾け、歴史をきちんと学び、真面目に取り組んでいるのだ。

そんな音楽を勘違いイベントにしてはいけない、と心から思う。それは決して安物のこだわりではない。

こういうところで彼らのようなミュージシャンの演奏に触れ、なおかつ世界中のいたるところから来ている人達にこの音楽を紹介するには、それ相当の覚悟が必要になってくる。

僕らが演奏した曲目は、Fear A’ Bhata / Two Days To Go / Once In A Blue Moose これらは1曲目がスコットランドの古い美しい歌。作者は…これがなかなか読めないのだが、Sine NicFhionnlaigh(Jean Finlayson)19世紀の終わり頃のもの。訳すとボート・マン。何故僕が英語に訳しているんだろう、言って笑いを誘う。そのまま続けたのはDiarmaid Moynihanの曲からNiall Vallelyの曲だと説明を加える。

そして、Kitty O’Neill’s Champion Jig これは別名Kitty O’Sheaと言って…これから先は僕がアイリッシュ・ミュージックその91で書いた説明をする。

その後は日本の古い歌と言って「外山節」でクロス・カルチャーを楽しんでもらう。

アメリカから来ている人も数多くいて(昨夜は20人ほどもいただろうか)次はDry And Dusty / Indian Ate The Woodchuckでオールド・タイミー、Foggy Mt. Breakdownでブルーグラス。

コンサーティナでAnna Foxe医学部の学生時代に手に入れて忙しすぎて全然練習する暇がなく、またいつものホスト、コーマック・ベグリーがいたらなかなか弾こうとは思わないけど、今日はいないから弾いちゃいます、と言ってまた笑いを取る。

最後はThrough The Wood /Mamma’s Petで静かに終わる。そしておなじみ、Emma Sullivanによるダンスの伴奏でTrip to Durrowを。

彼女も言っていた。ダンサーズはしっかりと曲を覚えないといけない、と。やっぱり軽い気持ちでは取り組めない音楽だ。

このTune In The Churchに出演するためにはこれからも研究を怠ってはいけないようだ。

2015年 アイルランドの旅 12

Tune In The Church出演の合間をぬって、Miltown Malbayに出かけた。

Willie Clancy追憶のための、アイルランドでは最も大きなフェスティバルのひとつ、と言って良いだろう。

世界中から、この小さな村目がけて多くの人が訪れるので、数多くあるパブは全てが身動きの取れない状況となる。

僕らの目的は、数人の知り合いと会う事。特に先日、日本で一緒だったイデルには、自分の生まれた所だし、クラスで教えているから是非来てちょうだい、と言われていた。

もちろん、僕らも初めて訪れるわけではない。過去にジョン・ヒックスと再会したのもここだ。

とにかく、パブには入る事が不可能なくらいの人が集まっているし、しばし、200メートルほどしかないこの村の道路を行ったり来たり。

ロン・カヴァーナと、それに驚いたことにサン・フランシスコでよく一緒にやったケイティという女の子が声をかけて来た。

彼女、あの時は23歳だったと言っていた。あれからもう15年経つらしい。

キルフェノラの彼女の実家にアンドリューと泊まって、ダブルベッドで夜中までキャッキャッ言って騒いでいたら、彼女のお母さんが「あんたたち、まるで兄弟みたいね」なんて言っていた。

僕らはしばし、比較的広くて空いているレストランに入って(基本的にレストランではセッションは行われていないので)時を過ごす。

イデルも忙しい中、顔を出してくれるが、すぐまた行かなくてはならないから後で連絡してね、と、相変わらずニコニコしていた。

そのうち、もうひとり連絡を取り合っていたジョセフィン・マーシュが駆けつけてくれた。

さぁ、やりましょう、と早速アコーディオンを出す。

お店の人も大歓迎だ。

近くにいた小さな男の子(10歳くらい)もアコーディオンで加わるが、真面目な顔をして、限りなく本物のトラッドを演奏する。彼の演奏と表情からも、この音楽に対する敬意が感じられる。やがて彼の妹もコンサーティナで参加。素晴らしいセッションとなる。

ジョセフィンと1時間ほど一緒に演奏をして別れた後、イデルから、彼女が全ての仕事を終えて、家族で食事をしているから、そこに来てちょうだい、と連絡が入った。

そして、レストランのオーナーがここでやってもいいって言っているから一緒にやりましょう、と促され中に入る。

これがベストだ。地元の名のあるミュージシャンと共に静かなところで、ちゃんとした音楽ができる。

ともすれば騒がしいパブでは聴き取れない音がきちんと聴こえる。

彼女も30分くらい、と言いながら止まらない。

日本に来た時仲良くなった“たけちゃん”の写真を、家族や友人達に「この人最高に面白かったわよ。すごくいい人」と言いながら見せて回っていた。

どこまでも明るくていい子だ。

結局1時間ほど一緒に演奏して別れた。

今回のMiltown Malbayの目的は、ジョセフィンと会う事と、イデルと会う事だったのだが、その両方とも果たされたわけだ。

僕らを、中継地EnnisからMiltown Malbayに連れて行ってくれたアイルランド在住の赤嶺“フー”さんに感謝。

2015年 アイルランドの旅 13

こちらでは特に変わった事はないが、日本では東京が38℃になる、と聞いた。先日、北海道ですら35℃になったというし、大分で震度5、なんていうニュースをみるたびに日本は大丈夫かな、なんて心配になってしまう。

アイルランドは相変わらず肌寒い。

去年、この時期にやはりゴルウェイにいたのだが、今年は去年より寒いような気がする。歳のせい?いやいや、若い人もそう言っているのでやはり本当なんだろう。

今日のようなどんよりとした肌寒い日はなぜか“追憶の日”という感がある。以前も確かダブリンかどこかで同じような日に“思えば…”に始まって、自分が関わってきた音楽の思い出を書いた事がある。

そう言えば、北海道にはよく出かけたが、同じような気持ちになったことがあった。

秋の夕暮れの函館あたりで電車を降りると、とたんにセンチメンタルになってくるから不思議だが、ここはやはり北海道に似ているような気がする。

函館は僕の一番好きな街だったが、転勤族の子供だった希花さんが、自分の故郷と呼べるのは函館かもしれない、と言うのには不思議な共通点を感じる。

特にこのゴルウェイという街は、坂はないけど函館に近い、という気がしてならない。

そう言えば、中標津というところはよく覚えているが、今思えばカウンティ クレアみたいだった…かもしれない。

そう言えば続きで申し訳ないが、先日またラジオから僕らの演奏が流れて来た。前回のお約束通りThe Ramblerからもう1曲。

今度はClinch Mt. Back Stepだった。きっと変わっていて面白かったんだろう。

というところで空を見上げると、うん、晴れて来た。

今日はいい天気になるかもしれない。

今日からアート・フェスティバルが始まるらしい。街が騒がしくなる。

急にアンドリューから電話。フィークルでまた一緒にやろう、と言って来た。こちらの人間は日にちを言わず、曜日で言ってくる。

もちろん彼の言うのはフィークル・フェスの間の事だから、間違いはないのだが、一応日にちで確認をする。

突然といえば、アイルランドでは(特に西)突然天気が変わったりするので、1週間先のバーベキューの予定などたてられなく、やるなら今でしょ!ということになるらしい。あくまでたとえ話としてだが。

なので、あれよあれよ、という間に物事が進むことがよくある、という。

本当に最後の最後までつかみどころのない変わった民族だ。案外向こうもそう思っていたりして。

とはいえ、10カ国以上の人達と仕事をしてきた僕にとっては大した問題ではないが。

弟分のアンドリューとの演奏、楽しみだ。

2015年 アイルランドの旅 14

今日は7月15日。ゴルウェイは快晴だ。

日本には台風が来ているらしく、祇園祭も大変だろうな。そして、それにつれて自然と宵々山コンサートの事などを思い出している。

せみがうるさかったなぁ、暑かったなぁ…みんな若かったなぁ…。会場の周りに何日もかけて並んで、みんな友達になる。まさに青春だったんだろうな。

そのころからずっと応援してくれている、もう家族みたいな京都の人達。遠いところから今でも駆けつけてくれる人達。

みんな青春時代を僕らとともに過ごしてくれて、今も変わらず青春を楽しんでいる。素敵な人達に感謝。

あれ?晴れていてもセンチメンタルになるのは歳のせい?かな。

さて、快晴のゴルウェイでは、今日また、教会で少しだけコーマックと演奏をすることになっている。

それというのも、僕らがお世話になっている詩人の佐々木幹郎氏が、イギリスでの仕事の帰り、何年かぶりにゴルウェイを訪れているので、コーマックが教会に来てもらって、ここ、ゴルウェイで一緒に演奏しているところを見てもらおう、と言ってくれたのだ。

いつものようにコーマックのソロ演奏から入り、僕らがステージに上がって3曲ほど一緒に演奏。そして、エマ・サリバンのダンスと共にファースト・ハーフを終えた。

気がついたら今年はまだコーマックと演奏していなかった。

やっぱり素晴らしいコンサーティナ奏者だ。

セコンド・ハーフはBryan O’Leary & Colm Guilfoyle というSliabh Luachra出身の若い二人。アコーディオンとフルートの演奏だ。

いかにも出身地らしいポルカとスライドのセットが続く。

トラッドを継承する二人の真面目な若者。こういう若者を多く見て来た僕にとって、あぁ、ここにも素晴らしい演奏家がいるな、と思わざるを得なかった。

日本の、特にアイリッシュ音楽を語る人達は彼らのような、一見地味かも知れないけど、本当の本物に多く触れた方がよい。

やはりTune in the Churchに身を置く事はトラッド演奏家としてこの上ない幸せな事なのかも知れない。

21歳と27歳のこのコンビとは、またいつかどこかで会うだろうが、彼らからも先人たちの演奏について様々な見解が聞けそうだ。

2015年 アイルランドの旅 15

今日、またしても迷子のカモメの子供を発見。

そこで、先日見たレスキューのまねをしてみたが、これがなかなか難しい。傍目に見れば、いじめているように見えるかも知れない。

というのも何度も何度も持っていたジャケットをかぶせようとして失敗するからだ。

その度に必死に逃げようとする。こちらの気も知らないで。

だが、やっとの思いで捕まえた。

そして、抱きかかえたがこれがなかなか怖い。噛まれたらロバより痛いかもしれない。

ちょうど一緒にいた和カフェのオーナー、早川さんが顔を覆えば暗くなるから騒がなくなる、と(彼女、烏骨鶏を中国から連れて帰って来た事がある)教えてくれて、確かに少し静かになった。

それでも僕のジャケットの中で“もそもそ”している。道行く人達が不思議そうな顔をして見ている。

なんとかここなら、という川沿いのところで放してみたが、希花さんがもっと仲間が沢山いる所のほうが良い、というので、また捕り物帳の始まり。

でも今度は少し慣れたせいか、ほどなく僕のジャケットの中に収まった。

かくして、仲間の多くいる場所へと移動。

とりあえず“鳥”は長い“捕”物帳の末、そんなに“取り”乱す事もなくセーフであった。

2015年 アイルランドの旅 16

一日中雨が降り続きそうな予感。今日はフィドラーのBrid Harperがゴルウェイにやってくる。

ドニゴール出身のベテランフィドラーだ。

日本から来てアイリッシュ・ミュージックに関わろうとしているのだったら、日々のセッションもいいけど、こういう人達の演奏に耳を傾けることも大切だ。

相方のギタリストも結構イケイケだったが、変なコードは使わず、実につぼを得ていた。ティン・ホイッスルもなかなかの腕前、そのうえ饒舌で(ちょっとうるさかったかな)、でもBridが淡々と曲の説明をするので、コンサート全体を通していい感じだった。

親子連れで来ていた子供達も真剣な面持ちで聴いていたが、ここで、実に何年ぶりになるだろうか、Breda Smythに再会した。

僕が宵々山コンサートに彼女を呼んだのは2000年?それから1回アイルランドで会ったかな。

いつだったかSean SmythからBredaに子供が産まれたという話を聞いたが、その息子もすっかり大きくなって、やっぱりティン・ホイッスルとフィドルを演奏するそうだ。

希花さんは、医者でもある彼女からアイルランドの病院事情について、次回ゆっくり話を聞く事にしたみたいだ。

今日の収穫はBrid Harperの素晴らしいフィドリングを聴けた事と、Bredaに再会できた事だ。

 

2015年 アイルランドの旅 17

セント・ニコラス教会でのコンサート出演もすっかりレギュラーになってしまった。

ホスト役のコーマック・ベグリー欠席時の代理として、必ず僕らがファースト・ハーフを担当することになったからだ。

今夜のセコンド・ハーフはアコーディオンがColm Gannonその奥さんで、コンサーティナ奏者のKelly Gannon

淡々とトラッドを演奏する姿は、ショーとして見るのではなく、本当にアイリッシュ・ミュージックを愛していて、本気で聴く人にとっては素晴らしいものだ。

この教会で、静かにトラッドを聴け、本物のオールド・スタイルのダンスが見れるというのは価値のあることだ。

そして、月曜日に続く、水曜日のセコンド・ハーフはパイパーのMick O’Brienと彼の娘さんであるフィドラー。名前が聴き取れなかったが、オール・アイルランドを獲得した人だ。

Mickはさすがベテラン。最後はエマのダンスと共に有名なマイケル・コールマンのTarbolton setで。

小さなステージ上、4人で立って演奏。あまりにステージが狭いのでミックの前に僕が立ち、娘さんの前に希花が立つ。彼女も180センチくらいありそうなので、もし希花が後ろに立ったらすっぽり覆われてしまう。

「あんたが前に行きなさい。それでないと全然見えないから」と言われていた。演奏が終わると4人並んで深々とお辞儀。もっとお辞儀しよう、とミックが促す。

心地よいパイプの響きが忘れられない日となった

2015年 アイルランドの旅 18

今日、またしても迷子のかもめの子供を見つけた。一体川っぷちからどうやってここまで来るのだろう。

距離にして300メートルくらい。交通量もかなり多い。まだ飛べないので、歩いて来ているのだろう。

よく車に轢かれないものだ。こいつはジョナサンだろうか。

とにかく、また助けなくてはならない。

着ていたジャケットを脱いでサッとかぶせた。もう慣れたもんだ。一発で決めてやった。

くるっと包んだつもりだったが、顔が出るとやっぱり暴れる。

ちょっと噛まれた。というよりつつかれた。ロバに続きカモメにも。

だが、なんとか希花さんに顔を覆うように頼んで、川っぷちまで運んだ。

かもめはそのままチョイチョイと歩き始めた。

一体何度こんなことをするんだろう。もうすでに3匹、いや3羽目だ。それにしても、いちばん最初に見た死んだ子はかわいそうだった。

仕方が無いのでこれからも見つけたら助けてあげよう。もう段々“こつ”もつかめて来たから。

2015年 アイルランドの旅 19

久しぶりにショーン・ギャビンとセッションをした。だが、彼の持ってきたアコーディオンはE♭。ギターはチューニングを上げるか、あるいはカポ位置をずらすとかで対処は簡単だ。その場合、ちょっと視覚的には混乱することもあるが。

しかし、フィドルの場合は半音上げてチューニングをしなければならない。こんな場合はほぼ100パーセント、いや100パーセントのフィドラーはそうするはずだ。

だが、希花さんが厄介に思うのは曲が半音上がったことで、通常のキーで演奏されているものと同じ曲に聴こえなくなる事なのだ。

それならばと、通常のチューニングで半音高いポジションで弾いてしまおう、と考える。

普通は無理だ。1曲2曲だったらいけるかもしれないが、10曲20曲どころではない。次から次へと繰り出される曲を見事に半音上がったポジションで弾きこなしていく。

これにはさすがのショーン・ギャビンも舌をまく。さすがにフォギー・マウンテンをG♯で弾けるだけのことはある。

フィドル界広しといえどもあまりいないだろう。

おかげでセッションも無事終えた。

そしてその日、1年ぶりの友人に出会った。去年知り合ったアンガスという男と、名前を聞き忘れたのだがその兄弟、もの静かな音楽通だ。

彼が音楽通ということは会話からも分かるように、クラシックからジャズ、ワールドミュージックに至るまで、幅広く聴いて、その分析たるやその辺の音楽評論家もかなわないくらいの鋭い感性を持っている。

実際、セッションを見ながら飲んでいる人達の中で唯一、彼だけが運指を変えている希花さんのプレイに気がついていたのだ。

音楽だけではなく、広い分野で様々な知識を持った男だ。

そんな彼と、兄弟のアンガスが明日、山に上りに行くけど一緒に行こう、と誘ってくれた。

Croagh Patrick(クロッグ或はクロー パトリック)という聖なる山で頂上に教会があり、360度のパノラマで全てが見えるんだ、と、ギネス片手に熱く語る。

あまりに熱心に誘ってくれるので、一応オーケーしたが、そのための靴も服も持っていない。さて、どうしたもんだろうか。

2015年 アイルランドの旅 20

さて、次の日。
昨日は清々しい青空で、やっと好天に恵まれたと感激したものの、今日は一変して小雨がぱらつき、空はどんよりした雲に覆われている。

これじゃ山は無理だろうと思いきや、朝、早速メールが来た。

「俺たち今から支度するから20分くらいで迎えに行く」登る気満々だ。

実際、彼ら曰く、300メートルくらいの山で、老若男女がこぞって登るらしい。

信仰深い人達は裸足で登る、とも言っていた。

彼らはしっかりしたブーツを履き、ダウンジャケットに身を包んで登場。一応僕らのために同じようなジャケットは用意して来てくれたが、今日は天候もそんなに良くないし、山だけ見て君たちはウェストポートにでも行っていたら後でピックアップしてあげるよ、と言う。

実際、ウェストポートを抜けて更に15分ほど走ると山の麓に到着する。ゴルウェイから2時間ほどドライブして、ウェストポートに到着。更に15分ほど走ってまたウェストポートに戻り、僕らを落としてくれて、山に戻るという。

彼らにとっては大した距離ではないのだろう。

山は確かに荘厳な雰囲気を漂わせ、子供から老人まで多くの人達が登って行くのが見えた。

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Croagh Patrick

 

雨も上がってきたようだが、霧がたちこめている。

ウェストポートで僕らを落とした後、そんな山を目がけて兄弟仲良く意気揚々と出かけて行った。

一方、僕らはしばしこの可愛らしい小さな町を散策する事にした。

ここには、有名なMatt Molloyのパブがある。言わずと知れたチーフタンズのマット・モロイの店だ。

そこだけでなく、パブは数限りなくこの小さな町に存在するが、そのどこでもLive Trad Musicという看板を掲げている。

お腹も空いてきたので、食事をすることにしたがちょうどお昼時を少し過ぎたくらい。

どこも家族連れや旅行者で盛り上がっているように見える。おしゃれな店も随分多い。

沢山見て回ったが、Mill Times Hotelというところが目についた。どうやらベストフードのアワードを何度か取っているらしい。

おそるおそるメニューをチェックするものの、そんなにべらぼうな値段ではないようだ。

アイルランド人の言う“ベストフード”というのも怪しいものだが、とりあえずお腹も空いているし、あまり高くないので入る事にした。

僕がシーフード・チャウダー、希花さんがチキンのホワイトミートをベーコンで巻いたものにグレイビーソースがかかっているものをオーダーした。

やがて隣の老夫婦に運ばれて来たディッシュを見て「おっ。あれはなんだろう」と思ったが訊いてみるわけにもいかない。僕一人だったら訊いたかもしれないが、見た感じ奇麗に盛りつけられてあり、とても豪華だ。

しばらく待っているとチャウダーが登場。これが実に美味しそうで量も決して少なくない。パンも美味しそうだ。

ほとんど同時にチキンもやってきた。隣の老夫婦と同じディッシュだ。

こちら、もう中川イサト師匠化して、ついつい写真を撮りまくってしまった。

そして、その味はさすがにベストフードと言われるだけのことはあった。珍しくアイルランドの外食で満足のいくものに巡り会え、大感激。

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デザートまで頼んでしまった。

後はまた町を散策して待ち合わせのパブに入り、ギネスを飲んで彼らを待つ事1時間程。あまり食事が美味しかったこともあり、3時間近く食事と周りの料理の見物で1カ所に留まってしまったのだが、退屈もしなかった。

彼らは6時頃戻って来た。山に登り始めたのが2時頃なので、大体彼らが言っていた時間通りだった。

アイルランド人としては珍しく時間に正確な人達だ。

山は霧がたちこめて寒かったらしいが、二人とも大して疲れた様子もなく、非常に清々しい顔で「今回は天気もあまりよくなかったし、それに今度はちゃんと着るものを用意して一緒に登ろう」と言ってくれる。

是非そうしたいものだ。彼らに感謝。

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2015年 アイルランドの旅 21

ついに4羽目のカモメを助けた。車に轢かれている同じくらいの年齢(?)のカモメを見たそのすぐ後だったこともあり、手早くサッと包んでまた同じ所に放しに行った。

昨日の事。しょっちゅう雨が降っては晴れる。風が吹いては雨が降り、そしてまた晴れるといった一日。

久しぶりに、ゴルウェイの名物アコーディオン奏者、アンダースと日本人の奥さん“まよさん”のセッションに顔を出してみた。

最近女の子が誕生したらしく、いつもにこやかなアンダースがさらにデレデレになっているようだ。いい男だ。

まよさんも赤ちゃんのこと、気がかりだろうが力強いプレイを展開する。彼らはゴルウェイを代表する夫婦演奏家だ。

パブを出る頃には美しい空がひろがっていた。8時、陽はまだ高い。

彼らはベビーシッターに預けた赤ちゃんのことが気になるらしく、急いで引き上げて行く。

アンダースの何とも言えず嬉しそうな後ろ姿。母親らしく落ち着いた振る舞いのまよさん。何とも言えず好印象の夫婦だ。

 

さて、一日経って、今日はいい天気だった。そろそろ7月も終わるが、今年のアイルランドには夏が来ないのかもしれない。

日本はかなり暑そうだが、ここは17℃くらいだろうか。午後になればもう少し気温が上がるだろうけど。

2015年 アイルランドの旅 22

夕食後、あまりにいい天気になったので、近所の散策を楽しんだ。

老若男女、子供達、みんな太陽の光を楽しんでいる。もう夜8時になるが気持ちのいい夕方だ。

それでも日陰は風がかなり冷たい。

セント・ニコラス教会の横を通り過ぎたら、見た事のある人が電話をしている。

フランキーだ。

3ピースのスーツに身を包み、あっちへウロウロ、こっちへウロウロしながら話している。

電話が終わるのを待ち、声をかけてしばらく立ち話をしているとショーン(兄)が現れた。

実は10時からのセッションに誘われていたがちょっと遅いし、ギネスも半端じゃなく飲まされるし、と思い、今日は辞退しようと考えていたのだ。

そこに会ってしまい、再び一生懸命誘ってくれるので結局行く事になった。

さて、このセッションだが、本当に行ってよかった。

と言うのが、アコーディオン奏者、マーチン・オコーナーがひょっこり現れたからだ。

アイリッシュ界のアコーディオン弾きの中でも特別な存在だ。そのテクニックたるや、おそらく世界のアコーディオン弾きとしてもトップクラスのひとりだろう。

また、その上めちゃくちゃにいい人だ。

誰に対しても礼儀正しく、にこやかに人の話を聞き、そして静かに話す。

アコーディオンを弾き始めたらスラスラと多くの音が飛び出し、その全てがとても心地よい響きを持っている。

一流中の一流だ。

結局戻ったのは午前2時半。それでも本当に忘れる事ができない夜になった。「何度か会っていたけど、一緒にやったのは初めてだったな。すごく良かった。またやろう」と、にこにこして帰って行ったマーチン。本当にいい人だ。

この日の他の参加者は ギャリー・へスティング、デシ・ウィルキンソン、共にフルート、それにケビン・ホークがギター、珍しくフィドルが希花一人。

Jewish Reelをマーチンとふたりで演奏した時は往年のDe Dannanサウンドそのものだった。

あまりに強烈だったせいか、デシ・ウィルキンソンが喜んで動画を撮っていた。

誘ってくれたショーンに感謝。

ところでこの夜はお茶をメインに飲み、ギネスは1杯だけにしておいたので比較的楽だった。

これからこれでいこう。

 

2015年 アイルランドの旅 23

久しぶりにアンドリューとのセッションだ。メンバーはアンドリューと僕ら、そしてアイリーン・オブライエン。

フィークルのおなじみのパブ“ペパーズ”だ。

初めてアイルランドを訪れた時のこと。アンドリューとふたり、長靴をはいて(長靴といってもゴム長)野原を歩いた後、アンドリューは自分だけちゃっかり靴を履き替え、僕はそのままパブに入って行ったら、みんなが大笑いしていたのを覚えている。

ここは今でも昔のままの景色だ。勿論ほとんどの場所が同じ景色を保っている。そんな国だ。

セッションはいつものように僕とアンドリューが大笑いしながら進めて行く。となりの部屋ではマーク・ドネラン達がやっている。

困った事におそくなればなるほど盛り上がってくる。名うてのミュージシャン達が次から次へと来てなかなか帰してくれない。

ゴルウェイに戻ったのが2時半過ぎ。彼らはまだやっているだろうし、ひょっとするとこれから更に盛り上がるかも。

そして翌日、再びフィークル。どちらかというと、この日のほうがコンサート出演ということで先にきまっていた。

去年、一緒にツァーしたEdel Foxとのトリオ。その後Ivonne Kane Eileen O’brien Tara Diamond等とのセッションホスト。

フィークルとは来年、もっと関わっていたらいいかもしれない。

思えば2011年にはずっとフィークルに泊まって夜な夜なセッションホストをしては全てのパブを巡ったものだ。

去年からは仕事のある日だけ出向いていたが、来年はアンドリューの家にでも泊まらせてもらってもいいかも。

今年も日本から早野さん、古矢さんの名コンビがここに合わせてやってきてくれた。遠いところをありがとうございました。

2015年 アイルランドの旅 24

フィークルから戻ってすぐに、今度はショーン・ギャビンから電話。なんでもショーンの息子がやっているバンドで5弦バンジョーを弾いて欲しい、ということだ。

その日はベネフィット・コンサートでセコンド・ハーフにDe Dannan、その前に彼らが演奏する、という。

どんなバンドか訊いてみると、完全なアイリッシュ・ロックだ。

U2 , Pouges , Bruce Springsteenをはじめとして、ブルースやロックン・ロールを歌う5人編成のバンド。

ギター&ボーカル、カホーン、スネア&ハイファット&ボーカル、ダブル・ベース&ボーカル、そしてショーンの息子である、ショーン(ややこしいが同じ名前)のフィドル&ボーカル。

コーラスはなかなかに決まっている。ただ、演奏する曲は全部で10曲。そのうち知っている曲が2曲。後は彼らのオリジナル曲だったり、聴いた事の無いポップス系のものばかり。

だが、ほとんどはブルース進行で歌われる。

全員、25〜6歳の若者でトラッドなど知らないが、Michael ColemanやTommy Peoplesの存在は知っている。

随分前にかまやつさんと沖縄に行って、コンディション・グリーンと演奏した時のように、取りあえず相手の出方を見ながらやっていけばいいのだが、彼らも気に入ってくれたのか「ここはバンジョーソロでいこう」などと言い始める。

アカペラのコーラスになると、バンジョーだけが伴奏にまわるといったアレンジも突然思いついたり。

だが、なかなかコーラスがパワフルで良いので、こちらもガンガンいける。

結局全ての曲で弾きまくって無事終了。

セコンド・ハーフのDe Dannanもゆっくり楽しむことが出来た。

希花はこの日、同じ時間に教会でCo Mayo 出身のShane Mulchrone というバンジョー奏者のコンサートにフィドラーとして参加。バンジョーとフィドルのデュエットで演奏していた。

こちらは純粋なトラッド・アイリッシュ。後でDe Dannanを聴くために合流したが奇妙な一日だった。

2015年 アイルランドの旅 25

今日はリムリックに行く。因に8月8日の土曜日。天気はまぁまぁ。やっとアイルランドにも夏がやってきたかな、と思えるこの数日間だが、やはり風は冷たい。

ブレンダンと待ち合わせして一路リムリックへ。

着いた所はMilk MarketというところにあるMari’s Cheese Shopというお店。

とても感じのいいオーナーと、いかにも外国のコーヒー店らしく、美味しそうなチーズやサンドウィッチ、パウンド・ケーキなどが並ぶ、狭いが素晴らしくアット・ホームなお店だ。

着いたとたんにお店の中で買い物袋をぶらさげたまま、お客さんのなかにまじっているおじいさんが、座ったまま誰に聴かせるでもなく歌を唄っている。

歌詞を語り、メロディーに戻って好きなように唄っている。お店のお客さんもごく自然にコーヒーを飲み、サンドウィッチを食べ、みんなが美しい昼下がりをごく自然に楽しんでいる。

その一角での演奏。2時間ほどだったが、地元のパイパーが現れ、隣でコーヒーを飲んでいたおじさんが、突然アコーディオンを弾き始め、10代の少年が恥ずかしそうにティン・ホイスルを吹きにきたり、通りがかりの女の子がフィドルで参加したり、大丈夫かなと思うくらい太った7〜8歳の男の子が台の上に乗っかって歌ったり、楽しいひと時を過ごした。

因に最初に居たおじいさんは演奏が始まる前に、自分の出番は終わった、と思ったか、じゃ後は任せたぜ、と言わんばかりに帰って行った。

マーケットではあらゆるものが売り出されていて大賑わい。食べ物から着るもの、装飾品。

随分前にリムリックに来たとき、中に入った事はあった。でも、その時は週末でもなかったし、もう終わりの時間だったので全くイメージは違っていたのだが、今回はいろんなものを見て楽しむ事が出来た。

ドゥーランから早野さん、古矢さんコンビも寄り道して、そのままケリーに向かって去って行った。

僕らがゴルウェイに着いたら、しとしとと雨が降って寒かった。また夏がどこかへ行ってしまったようだ。

2015年 アイルランドの旅 26

まだまだ忙しい日が続く。今日はこれからタラに向かう。

タラというとほとんどの場合Taraと勘違いされる。「風と共に去りぬ」で有名なHills of Taraだ。

なので、どちらかと言えば“トラ”に近い発音で言わなければ分かってもらえない。そこにカウンティ・クレアも付けても知らない人が多いくらいの何もないところだ。

1999年、僕は初めてアイルランドの地を踏み、アンドリューに迎えにきてもらって、マクナマラ家に2週間ほどお世話になった。

お姉ちゃんのマリーさんがシチューと、慣れないご飯を炊いてくれて、珍しいお客に会うためにお母さんまで手ぐすね引いて待っていてくれた。

その時に見つけたパブがフランのパブだ。

この村にある4つのパブの中でダントツに小さく、静かでアットホームな隠れ家的存在で、中に入るのにはある意味、抵抗がなかったと記憶している。

確かにドアを開けた瞬間、多くの目にさらされるか、数人だけかは…う〜ん、どちらがいいだろうか。

とにかく3〜4人の人がいたと思う。

多分その中にいただろう、クリスティという男の人が今回僕らをタラに呼んでくれたのだ。勿論アンドリューも一緒になって計画してくれた。

だが、オーナーのフランはもういない。

去年の冬に85年の生涯を閉じた。この村を訪れる度に必ず会っていたフラン。そして“彼を慕って毎晩のように来ていたお客さんみんなで彼を偲んでお話をしたり演奏したり、歌を歌ったりしよう。ジュンジとマレカが居るうちに”

そんな計画を練ってくれていたのだ。

クリスティとの夕食後、まず彼が僕らをフランのお墓に連れて行ってくれた。

アンドリューの家の前、通りを渡って坂を登った高台にある墓地。初めて来た時もアンドリューとここを散歩した。

朽ち果てた教会の跡がわずかに残り、本などでよく見る形の十字架が並び、四方に緑の大地がひろがり、山々が遠くに佇んでいる、なんとも寂しく、そして荘厳な気持ちになる場所。ここにも必ず散歩に来ていた。

僕らはフランが安らかに眠るようにお祈りをした。そしてパブへ。

今は彼の甥がここを継いでいる。

「良く来てくれた」と、まずギネスを注いでくれる。ブレンダン・ハーティがいた。アンドリューと一緒に演奏していて昔から良く知っているギタリストだ。間もなくしてフィドラーのアイリーン・オブライエンもやってきた。

希花が初めて会ったとき、怖そうなおばさん、と思ったそうだが、もう今ではいい友達のひとりだ。

アンドリューもやってきて奥の部屋でセッションの始まり。11時頃になると知った顔、知らない顔が次々と現れてにぎやかになってきた。

それでも他のパブのようには騒がしくならない。ちょっとゴルウェイのパブの騒がしさから遠ざかりたいこの頃だったので、とても心地よい。

そうしてフランを偲んで良い時間を過ごす事ができた。

1時過ぎ、みんなに挨拶をしてパブを出ると、いつものように満天の星空。

それから朝6時過ぎまでアンドリューとアイリーンが大騒ぎ。

アンドリューのお母ちゃんも病院だし(フランと同じ歳)彼も大好きなブルースやロックンロールを大音量でかけて大はしゃぎ。

お母ちゃん子のアンドリューも、さぞ心配だろうけど、ずっと面倒をみてきているので来るべき時の覚悟はしているだろう。

今のうちに大騒ぎ…かな。

そんなことを考えながら、4時頃には僕らは眠りに就いた。キッチンから盛んにアンドリューが「ジュンジ!」と叫んでいた。アイリーンの笑い声。ミシシッピ・デルタのどぎついブルース…。

最初のうちは僕も答えていたが、そのうち段々呼び声も遠くなり、そのまま爆睡。

翌朝、11時過ぎのバスでゴルウェイに戻ったが、エニスのバス発着所で「また来年もやろう」と眠たそうな目をして去って行ったアンドリュー。

その後、エニスの病院にいるお母ちゃんに会いに行っただろうか。

フラン、クリスティ、クリスティの奥さん、フランの甥のリチャード。みんなに感謝。

 

2015年 アイルランドの旅 27

大体のイベントは終わったが、まだまだ細かい事が残っている。いつもそうだが、帰る2週間前くらいから急な用事が入ったりしてバタバタと忙しくなるのだ。人生もそんな感じかな。

歳がいってからのほうが時の経つのは早い…ような気がする。でも、これも結構みんなが言う事なので、なにを今更、という感じかも。

今年の旅は僕らにとってある意味忘れがたいものになった。

このコラムをどれだけの人に読んでいただいているかわからないが、おそらく僕らはこの世界で最も尊い事柄に遭遇した。

今回のアイルランドにはなにか強い力で呼ばれてきたのかも知れない、と思えるほどの体験だったが、それは決して音楽との繋がりだけではなかったところがまた面白い。

いくつかのライブでお話しするつもりでいるのだが、先ずは東京の神楽坂にあるThe Greeというところが単独のライブになる。

後はまた故郷の静岡に行くし、名古屋にも行くかもしれない。

とにかく暑そうだし、体調の管理を心がけなくては。ここは相変わらず20度もないし。

また来年ここに来るつもりでいるが、今度はどんな事が待っているだろう。

2015年 アイルランドの旅 28

セント・ニコラス教会での最後の(僕らにとって)コンサートも終えて、また来年の話も出た。

その日のセカンド・ハーフはダブリンからやって来たパイパー.Maitiu O Casadeという若い、希花より年下の男の子。

彼もまた、きっちりとトラッドを演奏するミュージシャンだった。

ここに出演することがなければほとんど会う事がなかっただろうミュージシャン達との出会いはとても貴重なものだ。

勿論日々のセッションでも、ひょっとすると前回のマーチン・オコーナーのような人と会える事はあるが、それくらいの人物になるとあまり観光客向けのようなセッション、あるいはラフなオープンセッションには顔を出さないのが普通だ。

来年はこのセント・ニコラス教会でどんな出会いがあるか楽しみだ。

 

2015年 アイルランドの旅 29

そういえば、鳥たちについてしばらく書いていなかった。

相変わらず、いつもの3羽は仲良く現れるが、最近もう1羽増えた。

鳩だ。どうも“ハト”というのはいつだったかの総理大臣以来、印象が極端に悪い。おっと!

ともあれ、こいつは人慣れしているせいか、かなり近くまでやってくる。そして長居するのだ。

昨日、試しに部屋の中にパンを置いてドアを開けてこっそり見ていたら、少しのぞいていたが、ちょんちょんと中に入ってきて食べていた。

それも結構長い間、そして奥のほうまでやってきたのだ。

他の鳥では決してそんなことはない。

ちょっとばかし図々しいといえばそう言えないこともないし、他に比べて図体がでかいので、もしかしたら他が恐れて出てこなくなるかもしれない。

しかし、餌をまけば必ずどこからともなくやってくるし、完全にこの場所を覚えてしまったようだ。

来年もやってくるだろうか。とっつかまえて目印でも付けておこうかな…なんちゃって。

そう思っていたところにまた別な鳩もやってきた。ところが元からいた鳩がそいつを追っかけ回して追っ払う。

気まぐれかな、と思いきやそんなことが何度も繰り返される。俺が見つけた貴重な場所だ、とでも言いたいのだろうか。

やっぱり部屋の中までおびきよせ、とっつかまえて「こりゃ大変」と思わせてみようかな。

それでもいつもの3羽は代わる代わる出てきて平和に共存している。鳩も彼らには敵対心は抱かないのでこのままにしておこう。

CIMG0806

2015年 アイルランドの旅 30

いよいよ最終回。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

最後の方はなんかバタバタとして、たいした報告はできなかったけどなんとか楽しんでいただいたでしょうか。

トラッド・アイリッシュは真剣にやればやるほど日本では相手にされなくなってくる。

かといって、かっこよく見せる事や、トラッドとしてのかたちを崩していくことには興味が無い。と言うよりも自分の主義ではない。

勿論、ナターシャー・セブン時代から面白い事や、新しい事には節操無く飛びついたものだが、それも古いものをきちんとフォローし続けて成り立つものだ。

僕らは、このままトラッドを愛しつつ、こちらのミュージシャンにも恥ずかしくないものができるような存在でありたいし、それでいて視野の広い、スケールの大きいミュージシャンでいたい。ここがとても大切なところだ。

まだまだ模索は続いていくのだろう。

2016年 アイルランドの旅、というのはどんなコラムになって登場するだろうか。

帰ってきました

ほとんど毎日15℃前後の所から、この蒸し暑い日本に帰ってくると本当に空気の重さを感じる。

但し、今回は乗り継ぎの関係上、ドバイにも立ち寄ったので、暑さに関しては「暑いぜ熊谷」の比ではなかったような気がする。

44℃、灼熱の砂漠にそびえ立つ高層ビル。思わず「イエス!高須クリニック」と呟いてしまった。あれがドバイかどうか良く知らないが。

砂漠の彼方に沈んでいく夕陽は“アラビアのロレンス”を彷彿とさせる。

ここで暮らす人たちと、アイルランドで暮らす人達、そして日本で暮らす人たち、同じ人間なのにやっぱり環境っていろいろだな、と思わざるを得ない。

さて、日本に着いて先ずしたいこと。それは野菜をはじめ、体に優しいものを食べたい、ということかもしれない。

アイルランドの食文化についてはさんざん書いてきているのでもういいが、日本はどう考えても素晴らしい。

テレビをつければ、自称“芸人”という面白くもない連中が食べ歩いている番組か、デパ地下の食品コーナーの案内の番組か、兎にも角にも食べ物に関する番組の多いことに今更ながらに驚く。

やっぱり食に対する関心度の違いか。アイルランド人は飲めれば幸せ、というところだろう。

でも、酒に関するテレビ番組などはない。当たり前か。

野菜も肉も日本に比べれば格段に安いが、それでもほとんどすべてに於いてクオリティは日本の方が数段上なので仕方がないだろう。

僕はオート・ミール(ヨーロッパではポリッジという)が大好きなので、必ず購入するが、これも1㎏入りで200円くらい。

同じものを日本で買ったら1000円くらいするだろうか。これは輸入物だからかな。

でも結局食べきれずに鳥たちと分け合って食べていた。

そんな国、アイルランドにはもし音楽をやっていなかったら来ていただろうか。その辺は至って微妙だ。

食べ物はどれをとっても大したことはない。シャワーの出は悪い。公共のトイレなんてほとんど野っぱらでするのと変わらない。その上この国で最も大切な酒にもあまり強くない。

やっぱり音楽がなければ来なかったかも知れない。

音楽を聴くために毎年来る人たちもいるし、やっぱりこの国の音楽は魅力的なものなんだろう。

少し体が戻ったらまたアイルランド音楽についていろいろ書いてみたいのだが、時差ボケも歳のせいか、遅れてやってきているようだ。

時差ボケから解放されてまた、考え事

やっと時差ボケが解消されてきたようだ。というか今年はちょっとパターンが違った。

戻ってきたその晩はぐったりと寝てしまったが、次の日くらいから、夜中の1時頃眼が覚めて朝まで寝付けない、という状態が続いた。

やっぱり歳取ると時差ボケも遅れてやってくるのか…。

2011年から5年連続で希花と一緒にアイルランドに行っている。

最初の年は希花をいろんなミュージシャンに引き合わせることで、僕が90年代初頭からどっぷり浸かってきたこの音楽が、どういう生活から、どういう感性から生まれてきたかを身体で感じてもらう、というのが目的だった。

実際、僕も84年のカーター・ファミリーとの生活で、真剣に取り組むには彼らの生活に入っていくのが一番だろう、と感じたからだ。

その上で自分の感性を合わせていくことが必要になってくるのだ。

フランキー・ギャビンと家でゆっくり食事をし、音楽や生活の話をし、近所を散歩し、演奏し、アンドリューの家で、なかなか出てこないシャワーに苦戦しながらも、買い物に行って食事を作って、夜中まで演奏しに出掛け、ブレンダン・ベグリーの家でいやいや寿司を作らされ、ボートに乗せられて大西洋のはるか沖まで連れていかれ、無事戻ってきた喜びを噛みしめてキッチンで演奏し…等々、こういうことがいかにこの音楽を演奏するうえで大切なことか分かるには10年やそこらの経験では無理かもしれない。そういうことは後から感じることだろうし。

とにかくいろんな人と演奏をして、いろんなスタイルを学んで、迷いに迷った方がいい。

20年や30年ではなかなか人に教えるなんてことのできない奥深い音楽なのだ。

2012年からはセント・ニコラス教会のトラッド・コンサートのレギュラー演奏者として迎えられている。

ここでは有名無名を問わず、きちんとこの音楽に取り組んでいる者しか演奏することが許されない。

ここで演奏できるというのは限りなく光栄なことだ。同じ時間、街のあちこちでセッションも行われている。

もちろん騒がしいパブでのセッションもアイルランド音楽のひとつの姿だが、歴史ある教会でのきちっとしたコンサートもいいものだ。

この曲にはこういう謂れがあって、何年の誰それの録音ではこのように弾かれたが、後年、誰それによってこう弾かれている、というような説明もきちんとできなければならないし、究極、自分が好きなのは前者のほうだが、後者のこの部分の音使いはなかなか言えてるかもしれない、などとレパートリーについてもこと細かに考えておかなければならない。

そのためには数限りないアイリッシュ・ミュージックに耳を傾けなければならないし、様々なジャンルの音楽も聴いていたいものだ。

しかし、フィドラーは大変だ。今回だけでもBrid Harper Yvonne Kane Eileen O’Brien

をはじめとする名フィドラー、偉大なフランキー・ギャビン、そういった人物たちと、ともすれば仕事まで入ってきてしまう。

これは正直、心から楽しめるものではないだろうな、と思う。

ブルーグラスからオールドタイム、果てはスウィングまで登場することもある。そうなると、

Gid Tanner & Skillet Lickers もKenny Bakerも Papa John Creachも聴いていなければならないし、もちろんMichael Colemanも、そして自分を見つけていかなければならないし、人に教えている場合ではない。

少し無理させ過ぎだろうか。でもそれがきっと一味違うフィドラーとして、あるいはトラッドに真面目に取り組んでいるフィドラーとしてアイルランドでも通用する存在になれるということなんだろう。

アメリカでも経験していることだが、日本人としての珍しさなんて、もってせいぜい6か月くらい。

まだまだ奥深いアイリッシュ・ミュージック。

Irish Music その91

Kitty O’Shea’s     (Barndance)

★Kitty O’Shea’s

この曲を初めて演奏したのは、パディ・キーナンとのツァー中だったと記憶している。彼はたしかKitty O’Neil’s Hornpipeとして演奏していた。それは2パートのシンプルなものだったが、後になってEdel Foxとのツァー中、彼女が演奏したのは6パートだった。いや、7パートだったかもしれない。それくらい長くて混乱する曲だ。この人物は1870年代から80年代にかけてニュー・ヨークで活躍したダンサーということだ。Kitty O’Neil’s Champion Jigとよばれるこの曲。ジグでもないのに何故ジグなんだろうと思っていた。これは多分に時代によるものらしい。19世紀のアメリカでは2/4 2/2などでもミンストレル・ショーなどの躍動するダンスの象徴とされていたらしい。そういえば、何かの映画でブルース・ウィリスが全ての大活躍が終わった時「ジグでも踊るか」と言っていた。それがアイリッシュ・ジグに限ったことではないだろうことが、ここからも分かってくる。でも、なんでO’Neilと言ったりO’Sheaと言ったりするんだろう。一説によると、それはトミー・ピープルスが間違ってKitty O’Sheaと言ったのが始まりだ、と云われている。元々はKitty O’Neilだったはずだ。もっと調べればいろんな説が出てくるだろうが。ところで、最も古い資料では2パートだ、という説もある。

 

Billy in the Low Ground / Ragtime Annie  (Reel)

★Billy in the Low Ground

“これは決してアイリッシュ・チューンではない。アメリカン・オールドタイムと呼ばれるカテゴリーに入るものだろう。面白いことにSharon Shannonがやっているようだが、随分僕の知っているメロディとはかけ離れているし、タイトルもなにかもじったようなものになっている。僕はというと、70年代初頭、Nitty Gritty Dirt Bandの最初のアルバムで聴いたのが初めてだった。Uncle Charlie and His Dog Teddyというタイトルのアルバム。その中で マンドリンとギターでフェイド・インして入ってくるしゃれたやり方が印象的だった。後年、アイリッシュの世界に入った時、Maid Behind the Barという曲に出会ったが、どこまでもこの曲に似ていたが、どこかでクロス・オーバーしたのだろうか。とに角これは希花さんに古いギブソンで弾いてもらうことにしたが、とてもいい音で曲調にもよく合っている。

★Ragtime Annie

“これもアメリカン・チューンだがアイリッシュ・ミュージシャンにも好んで取り上げられている。僕は1922年頃のEck Robertsonの録音をよく聴いていた。おそらくこれが最初のこの曲の録音だと言われているが本当だろうか。日本では石田一松が「のんき節」を録音したのと同じ年だ。なお、ほとんどのブルーグラス・ミュージシャンは2パートで演奏するが、この録音を聴く限りではもともと3パートのようだ。その昔、宵々山コンサートでジョー・カーターと弾いたのはこの曲だった。このようにアメリカン・チューンでもアイリッシュ・ミュージシャンに取り上げられているものや、決してそうでないもの、また、その逆の現象もあるので、こと細かに見ていると面白い。

Irish Music その92

 

Miss Thompson’s / Derry Reel     (Reel)

  • Miss Thompson’s
    “Sharon Shannonの演奏で有名だが、Fisher’s Hornpipeとはどういった関連性があるのだろう。BパートはほとんどFisher’sだ。なのでリールというよりはホーンパイプというイメージが強い。とは言え、ブルーグラスのホーンパイプはほとんどリールと言えるが。Errington Thompsonという人によって書かれた、という資料があるようだ。但しホーンパイプとして。
  • Derry Reel
    “Charlestownとも呼ばれ、またシンプルにDerryとも呼ばれる。Sharon Shannonでこのセットが知られるようになり、もうかれこれ15年ほど前から僕らもよく演奏していたセットだ。非常にノリのいい曲だが、Bパートに入るとメロディがちょっとセンチメンタルになる感じでとてもいい。急に想い出したのでレパートリーに取り入れてみた。

フォークソング考

音楽評論家でも、歴史研究家でもないので、詳しい話は書けないかもしれないが、日本にフォークソングなるものが上陸したころから歌い、演奏してきたのでなにか想い出して書いてみてもいいかな、という気がする。

それというのも先日、初めて南こうせつのコンサートというものを聴きに行ったのだが、それはそれは驚きだった。

今の若者たちが立ち上がって盛り上がっているのとほとんど同じような光景が、開演前から見られた。でも、明らかに歳のころは僕と一緒くらいか、5~10歳くらい下の人達だったが。

確かに僕も宵々山コンサートでの盛り上がりは経験している。しかし、それとは明らかに違う盛り上がり方だ。

恐らく、アリスや他のいわゆる“売れているフォーク・グループや、フォーク・シンガー”のコンサートというものはああいう感じなんだろう。

実に面白い。もう、もはやフォークソングではない。すくなくとも僕にとっては。

フォークソングを始めた頃、よく感じたのは東京方面の人達はいわゆる“モダーン・フォークというものに憧れて、ひたすらPP&M, Kingston Trio, Brothers Fourなどのコピーを展開する、あるいはそのスタイルを取り入れた人達が多かったのに対して、関西では早くから自分たちの言葉、スタイルでフォークソングを解釈する人達が多かったような気がする。

もちろん、反戦運動は東京でも起きていた。

僕は静岡という立地上、東京に出向くことが多く、記憶によると森山良子、PP&Mフォロワーズ、フロッギーズ、ニュー・フロンティアーズなどのフォーク・グループをよく聴いていた。

中でもオックス・ドライバーズという2人組の演奏に魅かれていった。彼らはキングストンやライムライターズのコピーをしていた。他にもハイウェイメン、タリアーズ、トラベラーズ3などのコピーもしていたかも。

とに角、多少の反戦、反社会的な息吹きは残しつつ、あくまでモダーン・フォークであったことは事実だ。

大学入学と共にブルーグラスに傾倒していったが、フォーク・グループとの接点もかなりあった。

高田渡と知り合ったのも、坂庭君と知り合ったのも大学時代だ。

京都産業大学ではいなかったが、立命館や京大に出向くとヘルメットをかぶって、角材を持った連中が一杯いた。

フォークソングも1975年のベトナム戦争終結後には少しづつ変化していったようだ。いや、少し前の泥沼化したころからかな。そして、いわゆるニューミュージックなる言葉が頻繁に使われ出したのもこの頃だろう。

僕自身、さんざんピート・シーガーやボブ・ディランなども聴いてきたが、そのメッセージ性よりも音楽としてのフォークソングに興味があったので、彼らのルーツを探ることの方が面白かったのかもしれない。

そして行きついた先がブルーグラスやオールドタイム、カーター・ファミリー、ということになるのだろう。

“売れたい”“テレビに出たい”というような欲望もなく、更に、メッセージ性を出したい、といった思いもそんなに強くはなかったのだ。

そんな中で高石氏と出会った。当時は彼のことを“反戦フォーク・シンガー”として認識していたが、彼もニューミュージックなるものの出現は予知していたのだろう。いち早くフォークソングのルーツを探る旅に出たのだから。

やがて、僕らは日本に於いて特殊な存在となった。

ブルーグラスでも、反体制でも、ましてやニューミュージックでもない。しかし高石氏のカリスマ性による何かしらのメッセージを残すという、それこそ新しい形のフォーク・グループとなったわけだ。

あの頃が良かった、という気もないし、時代背景も多分に影響していたのだろう。それと何といっても組み合わせの妙、というものは大きかった。

とに角、最初の話に戻るが、あんなに盛り上がるコンサートの中でも何故か“しらけている”自分。こうせつは友達として大好きで、音楽的にも優れているし、素晴らしい感性を持ち合わせているし、申し分のない男で、ショーも楽しい。

これはひとえに自分の性格なんだろう。他人と一緒になって大騒ぎ(バカ騒ぎではない)できないのだ。

幼稚園の時も「みんなと一緒に踊りましょう」なんて言われようものなら、一人だけ隅っこで立っていた。そんなことを思いだした。

フォークソング。その社会性と音楽性、イベント性。様々な視野から今一度考えてみるのも面白いかもしれない。

ついでに、2015年を機に、再び安保闘争という言葉が聞こえてくるか、も。

Irish Music その93

敢えて書いてこなかったレパートリーもいくつかある。それはCDですでに録音、解説しているものなので、タイトルだけでも書いておこう。

詳しくはKeep Her Lit! スペシャル・サイト

 

★Far Away Waltz / Trip to Skye  (Waltz)

“フランスからやってきた美貌のティン・ホイスル奏者“マリー”から90年代に習った曲。その頃はタイトルが分からず、マリーズ・ワルツと呼んでいた”

“John Whelanのペンになる美しいワルツ”

 

★The Maids of Selma / Coloraine Jig / Mouse in the Kitchen (Jig)

“Selmaは1965年 アラバマ州のマーティン・ルサー・キング・ジュニアによる行進が始まった都市のことだろうか。定かではない”

 

★The Girl Who Broke My Heart / Paddy Ryan’s Dream / The Boys of Malin (Reel)

 

★The Banks of Suir  (Air)

 

★Jackie Tar / Golden Eagle     (Hornpipe)

 

★Ookpick Waltz (Waltz)

“CDでは歌の挿入曲として演奏したが、僕らはよくKevin Keegan’s というワルツの後で演奏することも多い”

 

★Teetotaler’s Reel / Whiskey Before Breakfast / The Virginia  (Reel)

“オールドタイム、ブルーグラスの流れを汲むレパートリー”

 

★Garech’s Wedding / Kid on the Mountain   (Slip Jig)

 

★Planxty Hewlett / Give Me Your Hand     (O’Carolan / O’Cathain)

 

★Jenny’s Welcome to Charlie / Rakish Paddy Donegal Setting (Reel)

 

★Inion Ni Scannlain (Donogh Hennessy)

 

★Calliope House   (Jig)

★An Drucht Geal Ceoidh     (Air)

 

アルバムKeep Her Lit!は2011年に発表したもので、既に絶版となっています。

2人で始めてわずか数か月という時に録音したもの。当時(今でも)名もないこのデュオのアルバムを購入していただいた皆さんに感謝いたします。

Irish Music その94

The Maid I Ne’re Forgot / JB’s / Lad O’Beirne’s   (Reel)

★The Maid I Ne’er Forgot
“コンサルティーナ奏者のPadraig Rynneの録音から覚えたものだが、随分前にArty McGlynnとNollaig Caseyのアルバムで聴いていたものだ。彼らはEm Reelとして録音していたので同じ曲だとは気がつかなかったし、とっくに忘れていた。なお、RynneはBm Reelと名付けていた。O’Neillのコレクションにも含まれているというので、そんなに新しい曲ではなさそうだ。Michael Gormanの曲とも言われているが、とても現代的なメロディを持った曲だ”

★JB’s
“古いスコットランドの曲でF#mで書かれている。James Murdoch Hendersonによって1932年に書かれているというから驚きだ。JBとはどうやらJames B Patersonという人物のことらしい。これは多くの人がエアーのように演奏しているものだが、Rynne はReelとして超絶テクニックを披露している。僕らは彼の演奏から学んだので今度はエアーにしてみてもいいかもしれない。Old Blind DogsのJohnny Hardieがいい味を出している”

★Lad O’Beirne’s
“Josephine MarshやSharon Shannonの演奏でさんざん聴いた曲だが実にいいメロディだ。キーもFで書かれているし、一味違う感じがある。
この3曲はPadraig Rynneのセットだが、あれはいつだったか。恐らく2002年頃ゴルウェイでブリーダ・スミスとセッションに出掛けた時に初めて彼と出会った。ブリーダが「今、若手で一番売れているコンサルティーナ奏者」と言っていた。もともとはクレアーの出だがその時はゴルウェイにいた。今はまたクレアーに戻っているようだ。
その日のセッションではCherish The Ladiesのアコーディオン弾きMirella Murreyとも再会した”

フォークソング考 2

いろいろ考えていたら、想い出したことがあった。ひとつにまとめられたらいいのだが、記憶と言うものはそう一度に蘇ってこない。

80年代後半に、ある新聞記事が載っていた。見出しはこうだった。「Where Have All The Folk Songs Gone」ジョーン・バエズがインタビューに答えていたものだった。

最近、そういう名目でいろんなシンガーが出演しているコンサートがあるようだ。日本でも「懐かしのフォークソング」のようなタイトルでコンサートが開かれている。

だが、フォークソングも80年代にはほとんど消滅したといっていいのかもしれない。それは本国アメリカに於いても、だ。

60年代から70年代にかけては、よくニューポート・フォークフェスティバルのライブ盤を聴いたものだ。

そしてその頃最も深く感銘を受けたのはDoc Watsonの演奏だったかもしれない。そんな昔から歌い継がれているものや、フィドル・チューンなどに興味が湧いた。

やがて、ブルーグラスの世界に入っていくと、自然とフォークソングから離れていったが、何かの本でジャニス・ジョップリンもうんと若いころはストリートでオートハープを演奏していたり、フォギー・マウンテンボーイズと共にツァーに出ていたり、という記事を見て面白いなと思ったものだ。

アメリカでのフォークソングの成り立ちは日本のそれとは全く違うものだった。僕らは訳も分からず、恰好だけは真似てみたし、音楽も真似てみた。

今、アイリッシュ・ミュージックに深くかかわっていると、本当のフォークミュージックというものはどのように伝承され、その中からフォークソングなるものがどのように生まれてきたのか、ということがよくわかる。

フォークソング~ブルーグラス~カーター・ファミリー~アイリッシュ・ミュージック、この流れは僕にとってごく自然なものだった。

まずフォークソング。1964年頃、ギターを初めて手にしてフォークソングを始めた。それから数々の歌が反戦歌、反社会的な要素を含んだ歌だと知った。もちろん、アイルランドあたりからやってきた歌が沢山あることも知った。

そしてブルーグラス。フォーク時代からバンジョーを担当していた僕にとっては、この世界に足を踏み入れたことはごく自然な成り行きだった。

それからカーター・ファミリー。カントリー・ジェントルメンや、キース奏法などを追及していたものの、古いスタイルの演奏にはかなり興味があった。ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズからチャーリー・プールなどの録音をよく聴いていた。そしてカーター・ファミリーにも行きついた。そういえばフォギー・マウンテンボーイズのカーター・ファミリー集というアルバムもあった。

最後にアイリッシュ・ミュージック。1991年、タラ・ケイリ・バンドからのアンドリュー・マクナマラとの出会いにより、この世界に入る。

そして、彼らの生活や音楽を体験することにより、これが本当の意味でのフォークミュージックである、と感じるようになった。

ここアイルランドやスコットランド、イングランドから渡ったフォークミュージックがアメリカでフォークソングを産む基となった、という誰でもが知っているだろうことを身体で感じることとなる。

やっぱり僕にとってフォークソングというのは60年代から70年初期にアメリカで歌われていたものだけを指す。あるいは、日本全国に存在する我夢土下座のような人たちが歌っているものか。少なくとも、この日本で売れているものでフォークソングと呼べるものは存在していないような気がする。

もちろんいい歌は沢山ある。が、それらをフォークソングとして扱うには無理がある。少なくとも僕にとっては。

おそらく最初の記事「Where have all~」を書いた記者もそのような気持ちから本物のフォークシンガーと言える人達にインタビューしたものだろう。

今、様々な問題が提議されている中、フォークソングというものはまた生まれてくるだろうか。そしてそれらは(古いものも含めて)どう評価されていくだろうか。

Irish Music その95

今回は2枚目のアルバム「Music In The Air」での録音曲を掲載してみました。

★Si Bheag Si Mhor

“アイリッシュ・ミュージシャンのみならず、他の分野でもこぞって取り上げられる、親しみやすい、それでいて美しいメロディ。言わずと知れたO’Carolanのペンになる。あまりにポピュラーなため、演奏する機会も少ないがいい曲であることは確かだ”

★The Mountains Of Pomeroy

“ブレンダン・ベグリーの歌は格別だが、もちろんインストでやっても美しい。元はマーチとして書かれたというからちょっぴり勇敢な曲だろう。そう思って演奏してみると意外と面白い。Pomeroyは北アイルランドのCo. Tyroneにある”

★Lord Inchiquin

“O’Carolanによるこれも美しい曲。少し早い目に演奏されることが多いが、確かにそういう感じのメロディだ。僕も随分前にガット・ギターで録音したことがある”

★Jim Donoghue’s / Road to Cashel

“B♭とCmでの演奏が独特な世界を創り出している。コンサートではこの後Neckbellyという曲に突入する”

★May morning Dew

“大好きなエアー”

★Inis Sui

“Maire Breatnachのペンになる美しい曲。2013年に彼女と出会い、セッションにまで一緒に行ったのに彼女だとは気付かなかった、という不覚な出来事があった”

★Eleanor Plunkett

“これもO’carolanのペンになる美しい曲”

★O’Carolan’s Ramble to Cashel

“すでに“その66”で登場している”

★A Stor Mo Chroi

“1929年に書かれたと言われる曲。僕にとってのベストはBonnie Raittの歌かも知れない。初めて聴いたのはジャック・ギルダーとバークレーに行く途中の車の中だったが、いまだにその時の衝撃は覚えている”

★Hector The Hero

“スコットランドの美しいエアー”

★Valse Des Jouets / Going To The Well For Water / Fairy dance

“ワルツからスライド、そしてリールで締めくくり”

 

このアルバムも現在は完売。ありがとうございました。

ギタリストという立場から考えるアイリッシュ・ミュージック

この音楽に於けるギタリストの役割などというものは無いに等しい、というようなことは既に書いている。

僕は‘91年からこの音楽のギタリストとして、ほとんどのリビング・レジェンド(現存する伝説)と呼ばれる人たちと共演してきた。

それはセッションというような気軽なものではなく、対その人、対お客さん、という緊迫した状況でのものがほとんどだった。

聴いたこともない曲が突然出てくることもあったし、ここにはギターは必要ないだろうと思われるところにまで最適な伴奏を求められることもあった。

とにかくスタンダードな曲、この音楽では「トラッド」と言うけど、それらは数限りなく全てのパートを把握していなければはなしにならない。

何度か僕自身のスタイルを教える、ということもやってきた。しかし“教える”というのは別な作業だ。別な才能だとも言える。

この音楽に関していえば、リード楽器の人達は10年や20年のキャリアでは到底“教える”なんていうことはできないはずだ。最低でも30年以上、あるいは40年以上の経験が無いと無理だ、と僕は思う。

もちろん年数の問題ではないが、少なくとも僕ら日本人は、母親の胎内でこの音楽を聴いてこなかった…と思う。

そんな僕らにこの音楽を伝授することはできない。真面目に考えれば考えるほど、できないことなのだ。

一方ギターは、といえば、そういった点では可能性がある。比較的新しく加わった楽器だからこそそれが言えるのだが。

しかしながらそこが難しい。ギタリストこそ楽曲に詳しくなくては話にならない、というのが僕の考えだ。

ギタリストに限らず、伴奏楽器全般に言えることだが、まずそこがスタート地点になる。また、そうでなければリード楽器に対して失礼にあたる。

彼らは全ての楽曲にたいして正確にメロディを覚え、正確に弾けることが最低条件となり、そのうえで自分らしさを出していかなければならない。しかもそれが数百曲にも及ぶわけだ。また、各地方のリズムの取り方、バージョンまでもがその上に課題としてのしかかってくる。

それに対してギタリスト(伴奏楽器)が適当でいいわけがない。

どんな音楽でも、グループで、あるいは誰かと一緒にやる以上、相手に対する自分の責任を考えなくてはならない。

このアイリッシュ・ミュージックというもの、これは試練の音楽だ。

Eire Japan

怒涛の約10日間。やっと終わりました。

報告はいずれ。今は足を運んでいただいた皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。

アイリッシュ・ミュージックの歴史に於ける最も重要な人物の中の二人、2大巨頭ともいえる二人を日本に連れてくることが出来て本当に良かったです。

もし叶うことが出来るなら再び、ということも考えますが、何せそれぞれに忙しく飛び回っているふたり。彼らが揃うことはほとんど奇跡に近かったのです。

1月のレコーディングでなんとか彼らを揃え、今回のツァーの計画を練ったわけですが、これがなかったら、おそらく二人はそれぞれに世界を飛び回っていたでしょう。

そんな奇跡の来日でした。

関係者の皆様、様々なかたちでサポートしていただいてありがとうございました。

各地の旧友たちもみんなお手伝いしてくれてありがとう。

そして、なによりも、聴きに来ていただいた全ての皆様に重ねて感謝いたします。彼らからもみんなに「ありがとう」と「よろしく」とのことです。

なおEire JapanのCD、ネット上での販売が近く始まります。

パディ・キーナン、フランキー・ギャビンの二人が揃ったアルバムは世界中どこを探してもこれしかありません。

どうかご購入漏れの無きように。

Eire Japan tourを終えて

フランキーが帰り、そしてパディが帰っていった11月。

あまりの強烈さにほぼ「抜け殻」状態。

やっぱり彼らとまともに渡り合うことは、並の伴奏者では無理かもしれない。

その辺は誇りに思ってもいいかもしれない。

「かもしれない」ばかりだが、ここで言い切るほど自信過剰でも、いやみな男でもない。

ただただ、どれだけの神経を集中させて演奏しているか、終わった後のこの感覚はなかなか他では味わえないものだ。

歳のせいかもしれない。しかし、パディは僕とおない年。フランキーももう60だ。あいつらのパワーの源は良くも悪くも…酒か。

飲み過ぎた時の自由奔放さは果てしなくどぎつい。まわりの空気が破れるような感じだ。

そこにシラフの僕がギターを乗っけていくわけだが、そうしないと崩壊してしまうかもしれないのだ。しかしながら、その崩壊一歩手前、あるいは片足を突っ込んだあたりが一番面白い。そこを常にコントロールするのが僕の役目なのだ。

フランキーのフィドル・プレイ、好き嫌いはあろうが、アイリッシュ・ミュージックの世界では避けて通れないひとつのスタイルだ。

それに、長年De Dannanを引っ張ってきた超大物だ。この機会を逃すとなかなか日本ではお目にかかれないだろうし、昨今の来日アイリッシュ・ミュージシャンの全ての者が聴いてきたフィドラーのひとりであろう。

それにパディ。限りなく絞り出される魂の叫びにも似た力強い音色。Bothy Bandのことはあまり言いたがらないが、こちらも誰もが聴いてきた伝説のバンドだ。このふたつのバンドの核である2人はもう日本では揃わないと思っていい。

フランキーからは自由奔放なクラシックとジャズ、パディからは限りなくブルースとロックを感じる。そして二人とも経験豊富な本物のアイリッシュ・ミュージシャン。この組み合わせは多くの音楽シーンを体験した僕にとってもってこいだ。

Lunasa, Solas, Dervishなど、日本では認知度も人気も高い、素晴らしく完成されたバンドの連中が「え!フランキーとパディ?すごい組み合わせだな。ジュンジ、どうしたらあいつらと一緒にツァーまで出来るんだ?」と口を揃えて言った。

それが2003年にアメリカで、そして2015年にこともあろうに日本で実現した。

希花が「ふたりを呼ぼう!」と言い出してから約1年。そのひとことが無かったら実現しなかったかもしれない。

今年1月のレコーディング以来2人が揃うのは10ヶ月ぶり。次に揃うのはいつだろう。どこで…だろう。

また崩壊覚悟で挑まなくては…。

Irish Musicその96

今回は3rdアルバムThe Rambler で録音した楽曲から。

  • The Rambler / Banish Misfortune / Bye A While

“ご機嫌なジグ。結構音が飛んでいるのでリズムを取るのも、テクニック的にも難しそうだ。2曲目はアメリカでもこぞって取り上げられるもの。どこか、言うなれば“らしい”といった感じの曲だ。ハンマー・ダルシマー奏者には結構人気がある。3曲目は超絶テクニックのコンサルティーナ奏者、Padraig Rynneの作。彼とは2001年か2年頃、ゴールウェイにてセッションしたことがある”

  • Anna Foxe

“ジョセフィン・マーシュから直々に教わった彼女の作品。CD発表時はまだタイトルがAnna Fox かと思っていたが、正しくはFoxe ということなので、ここで訂正しておく。ライブなどで演奏すると、みんなが「可愛らしい曲」と言って覚えてくれる”

  • Coilsfield House

“Kevin Crowford やGearoid OHAllmhurain(いまだに発音できない)のプレイでよく聴いていた曲。ひたすら美しいメロディに心を打たれる”

  • Jackson’s

“フランキー・ギャビンから習った曲。他の人の演奏ではあまり聴いたことがない”

  • Breton Gavotte(Ton Double Gavotte)

“ケビン・バークのアルバムから覚えた曲だが、これも他の人の演奏は聴いたことがないような気がする”

  • She’s Sweetest When She’s Naked

“とても古く、とても美しい曲だ。こんなに美しい曲がそんなに昔から演奏されていたなんて驚きだが、確かにヨーロッパの建造物などを多く見てみると納得がいく。こういうものを幼い時から当たり前のように見ていたら、この曲のような感性が芽生えるんじゃないかな、という気にさえさせられる”

  • Thomas Farewell / As The Sun Was Setting

“このセットはすでに「その7」に登場している”

  • O’Carolan’s Welcome

“彼の作品の中でもとりわけ大好きな美しいメロディ”

  • The Banks of The Suir

“ファーストアルバムでも録音している美しいエアー。今回はハープとフィドルをメインにまた違った美しさが際立っている”

 

その他、このアルバムでは「この想い」「おわいやれ」の日本語の歌、それにバンジョーによる「クリンチ・マウンテン・バック・ステップ」も収録されている。

こちらのアルバムはまだ在庫があります。

ビル・キース

長年のアイドルであったビル・キースが先日亡くなった。僕が5弦バンジョーなる楽器に出会った60年代初頭、日本に於いてこの楽器はまだそれほどポピュラーでなかったが、その当時(詳しくは63年頃)彼はビル・モンローのブルーグラス・ボーイズにいた。彼の回想記の中にこんな文章があった。

「GからCにいくとき、僕は7thだけではなく、9thを強調したフレーズを弾くことにしている。そうすることによって次のコードにいく予感が更に増すんだ。一番最初にそれをやった時、ビル(モンロー)がハッとした表情で後ろを振り向いたのを覚えている」

この“予感を与える”という音運びの選び方に感動したものだ。もともとピアノお宅の僕にとって和音の組み立てはとても面白い作業だ。

70年代、ずっと会いたかった彼を自宅に招待した。来日時、すぐ近くに宿泊していたので連れ出した、というわけだ。

ジャズ曲のアレンジに関する様々なアイデアを見せてくれた彼は、何度も何度も「うん?ここはこの方がいいかな?」などといいながら、親切に説明してくれた。

また、いろんなものの構造を穴のあくほど見つめ、中身がどうなっているか調べてみたい、という顔を見せる彼がキース・チューナーの考案者であることはうなずける。

もの静かな勉強家という感じだ。

その彼と、アイルランドで再会したのは2002年頃。ジョニー・キーナン・バンジョー・フェスティバル、ロングフォードでのことだった。

偶然にも同じB&Bに宿泊していた彼と朝食を共にしたが、話が弾んで2時間以上も紅茶を飲んで過ごした。他にピート・ワーニック夫妻、それからモーリス・レノンも同席していた。モーリスは言わずと知れたStockton’s Wingのフィドラーだ。ブルーグラスとアイリッシュの両面から…話は弾むはずだ。

彼のメロディック奏法は、今では頭が混乱し、指がもつれてなかなか弾けないが、長い間僕の重要な一部分であった。

Beating Around the BushやNoraなどは最も得意とする曲だった。

彼の話で、本当に彼らしいなと思ったエピソードがある。

「映画Deliveranceの音楽を担当しないか?という話があったんだけど、よく考えた末に断ったんだ。あの時僕は世界を見てみたかったし、旅をすることがとても好きだった。そしてそれをできるのは今しかない、と思っていた。だから断ったんだけど、映画は大ヒットし、Dueling Banjoも大ヒットし、世界のどこでも演奏されるようになった。おかげで僕の代わりにこの仕事を受けたEric Weissbergはハリウッドに居た切りになってしまった。どこへも旅ができなかった。お金はいっぱい入ったかもしれないけど、僕にとって大切なのはお金じゃぁない。その時自分がなにをしたいか、そして本当にやりたいことに向かって進むことがとても大切だと僕は思う」

ビル・キース 75歳。多くのことを教えてくれた人だった。

オッピドム

2012年3月19日の月曜日、初めて訪れたオッピドム。京都産業大ブルーリッジの後輩、木内君がオーガナイズしてくれたが、マスターの今富君とは旧知の仲。

約40年ぶりに再会したわけだ。木内君に感謝すると同時に、頑張ってお店を切り盛りしている今富君にも感動したものだ。

そのオッピドムが閉店するという。

僕は行くたびに調理場で黙々とお料理を作っていた平岩さんにもいつも感謝していた。

その平岩さんが亡くなった、という話を聞いたのはアイルランドにいる時だった。

平岩さんのご冥福を祈るとともに、今富君大丈夫かな、と心配したものだ。でも、それからも頑張っていた今富君。

今年初めには一緒に九州にまで僕らを連れて行ってくれた。

彼の出身地は大分。希花さんの母方の実家が大分。偶然のことで大いに盛り上がったものだ。

今富君の「国東半島」を僕が「くにひがし半島」と読んで笑われた。

楽しいツァーだった。

10日も一緒に居たのに、そして、僕らはアイルランドでのレコーディングが終えてすぐだったのに、ちっとも疲れなかった。

ひとえに今富君のお人柄だ。

平岩さんのこともあり、そして他のことに関しても、やっぱりお店をやっていくことって大変だっただろうな。

僕らは勝手にライブのお願いをして帰ってきたらいいのだけれど、彼は大変だっただろうな。

今富君、閉店が決まってしまったにせよ、あなたのやってきた10年間、とても意義のあることでした。オッピドムのことは誰も忘れないし、これからも今富君の活躍を多くの人が期待しています。

僕もそのうちのひとり。内藤希花も大好きな今富君に期待しています。

お疲れ様。少しゆっくりしてまたなんか考えてください。

Irish Music その97

Blackbird(Hornpipe)

“その11とその82に既に出ているが、ここでは違うBlackbirdを2種挙げておく。

困ったことに同じタイトルで5つのメロディが存在しているが、僕らがレパートリーとして取り上げているのは4種。もうひとつは明らかに誰かが作り上げたバージョンのような気がするので特に気にしてはいない。そう聞かれないバージョンである。

僕らは“その11”で掲載したケビン・バークとジャッキー・デイリーのバージョン、実を言ってこれもポピュラーなものではないが、メロディの美しさと、明らかに他のものとは違う点でレパートリーに取り入れた。アンドリューはそんなホーンパイプは無い!と言っていたがそれはひとえに彼の頑固さの象徴だろう。立派なホーンパイプである。それに“その82”で登場しているパディ・キーナンのパイプ演奏で有名なバージョンをよく演奏している。その他、のバージョンとしてOld Blackbirdと呼ばれるもの。これは大好きなメロディだ。それと、これもボシー・バンドがリールとして演奏していたメロディのもの。僕らはこの4つを好んで演奏している。ややこしい話であるが、Blackbirdと言ったら、どのバージョンで演奏するかを確認したいものである。少なくともビートルズの…ではないはずだ。

取りあえず、分かりやすく記しておくとこうだ。

Blackbird Em Hornpipe From Kevin Burk & Jackie Daly その11

Blackbird G/D Set Dance From Paddy Keenan その82

Blackbird D   Hornpipe   (Also as known as Old Blackbird)

Blackbird D   Hornpipe/Reel From The Bothy Band

この4つのBlackbirdが僕らのレパートリーとして存在する”

 

ギブソンRB-250

‘60年代からバンジョーに親しんできた者にとってこのRB-250というモデルは絶対的存在だろう。

それも、’70年代以前のいわゆる「ボウタイ」といわれるインレイのもの。

まだ情報を得るのが極めて難しかった時代。ほとんどはレコードのジャケットでしかお目にかかれなかったアメリカ製のバンジョーは本当に遠い存在だった。

確かブラザース・フォーが何かのジャケット写真で持っていたような気がする。しかし、当時、フォークをやっている人たちの主流は何といっても、ヴェガのロングネック、ピート・シーガー・モデルだった。

ロングネックって今見たら極端に長く見える。あのころは写真などでも良く見かけ、これが当たり前だと思っていたのでそんなには感じなかったのだが。

そうこうしている間に、バンジョーもそこそこ見かけるようになり、RB-250を店頭に飾っている店も出現した。

そのせいか、ギブソンと言ったらRB-250という観念が生まれたのは極自然の成り行きかもしれない。なんといっても初めて見る本物がRB-250だったのだから。

しかし、‘70年か‘71年か、そこらへんでRB-250も大幅にモデル・チェンジしている。詳しくは京都の小野田博士にでも訊いてください。

印象的だったのが、友人の一人がRB-250を欲しくて、神戸のある有名なバンジョー弾きに頼んでいたところ、やっと手に入った、という連絡をもらい、それが送られてきた。

本人はわくわくしながら「待ちに待ったボウタイ…」と、ケースを開けたら、見たこともないバンジョーが入っていたのだ。

ペグヘッドの形も、インレイも…もはやそれは僕らの知っているRB-250ではなかった。

因みにモデル・チェンジ以後のペグヘッドの形は「フィドル・シェイプ」というものだが、それ以前のものは「ハエ叩き」(Flyswatter)と言われる。

インレイに関しては、ボウタイに対して‘70年以降のものは「スタイル3」という。

本人は結構がっかりしていたが、それはおそらくモデル・チェンジしたRB-250の日本上陸第1号だったのだろう。それが確か‘71年ころだったような気がする。

今、ボウタイを探すとしたら中古でしかないのだが、僕は少し前に‘66年のものを手に入れた。

全てがオリジナルではないので安かったのだが…いや安くなければ買わないが…。

憶えているだろうか。坂庭君が「花嫁」のジャケットでRB-250を誇らしげに持っている姿を。

そして、今、僕もホームページのトップ写真で誇らしげに抱えている。

誰もが、憧れる「誰か」みたいに弾きたい!と思っていた時代。来る日も来る日も想像を張り巡らせて、同じバンジョーを手に入れる夢を追いかけていた時代。

RB-250はそんな時代のひとつの象徴である。少なくとも僕にとって。

Irish Musicその98

★Crabs in the Skillet    (Jig)
“オニールのコレクションからTara Breenの演奏で覚えた曲。Gmで演奏される3パートのジグ。特に3パート目が好きだ”

 

★Larry Redican’s Bow    (Reel)
“ここしばらく頭の中にAパートのメロデイが浮かんでいて、どうしてもBパートが想い出せなかった曲。随分むかし、ティプシー・ハウスで確かGreat Eastern(別名The Land of Sunshine)という曲の後にやっていたと思う。全く記憶になかったBパートはBmから始まる意外な展開だった。取りあえず、こんな風にどうしても思い出せない曲はしつこくしつこく調べまわるしかない。そして見つけた時には相当な喜びになる。僕らはこれによく似た曲Oak Tree(その20)を後にもって来てみた。どちらもなかなかに好きな曲だ”
★Great Eastern   (Reel)
“ついでにこの曲も。Martin Mulhaireのペンになる単調だが美しい曲。キーはCmajorで演奏される。AパートもBパートも全く同じコード展開なので(くずせばいくらもくずせるだろうが、理にかなわぬくずしは好きでない)曲のテキスチァーをよく把握することが伴奏者として大切なところだろう。どのようにすべきか、どのようにすべきではないか、その見極めは重要なポイントだ”

Irish Musicその99

The Garden of Butterflies / Miss Galvin’s    (Hornpipe)

  • The Garden of Butterflies

“Poll Ha’ Pennyというタイトルの方が有名だろうか。ずっと前にJody’s Heavenで録音しているが、それとは別に僕らはWest Clareのバージョンから、Jody’sで演奏してきたバージョンへと移行している。どちらも変わったメロディで、ちょっと聴いたら変な感じだ。しかし、こういうへんてこなメロディというのは何故か頭から離れない。West Clareバージョンも長いこと聴いていなかったが、ゴルウェイのチャーチでClareからのフィドラーが弾いていて思い出したのだ”

  • Miss Galvin’s

“特にこれといって特徴の無い曲ではあるが、ほとんどの場合、前の曲とセットで演奏されることが多い。そんな意味でレパートリーとして取り入れている。因みにMrs. Galvin’sという結婚後の、違うバージョンも存在するが、こちらの方はあまり注目されない”

 

The Coalminer’s / Anderson’s   (Reel)

  • The Coalminer’s

“ずっと前からしょっちゅうタラの連中(アンドリューやケイリ・バンド)の演奏で耳にしていた曲。実にのりのいい覚えやすいメロディだ。特に目立った特徴はないが、何回繰り返しても飽きが来ないような感じだ。それだけにどんな曲とも組み合わせが可能な、いい曲だとも思う”

  • Anderson’s

“時々、前の曲とセットで演奏されているようだが、これも比較的覚えやすい良いメロディの曲だ。Paddy Keenanの演奏でよく一緒にやっていたことがある。いかにも彼が好きそうな、ちょっとロックっぽいビートの曲”

Irish Musicその100

その100といっても100曲ではない。もう何曲載せてきたか自分でも分からなくなっている。自分たちのレパートリーとしてのアイリッシュ・チューンや少しのアメリカン・チューンを掲載してきたが、まだまだ想い出せば出てくるだろう。できるだけダブらないようには心がけてきたが、これからも書き続けていったら、というか、残していったらどういうことになるかわからない。一時のようなペースでは書けないだろうが、まだまだレパートリーとして取り入れたい曲は沢山出てくるだろうし、想い出す曲もあるだろう。100回目にふさわしい曲は何だろう、と考えても仕方ないので、今回は敢えてレパートリーとして取り入れてはいない、非常にポピュラーなもの(ポピュラー過ぎるもの)を数曲羅列してみる。

例えば…。

  • Morisson’s   (Jig)
  • Off to California (Hornpipe)
  • The Wind That Shakes The Barley  (Reel)
  • The Kesh   (Jig)
  • Connaughtman’s Ramble (Jig) ※最近は好んで取り入れているが。
  • The Mist Covered Mountain (Jig)
  • The Dusty Windowsills  (Jig)
  • The Hag At The Churn (Jig)
  • The Tar Road To Sligo (Jig)
  • The Humours Of Glendart (Jig)
  • The Pipe On The Hob (Jig)
  • The Silver Spear (Reel)
  • The Banshee (Reel)
  • The Cup Of Tea (Reel)
  • The Old Concertina (Reel)
  • The Salamanca   (Reel)
  • Carolan’s Concerto   (O’Carolan)
  • The Bird In The Bush (Reel)
  • The Tailor’s Twist   (Hornpipe) ※結構好きな曲
  • The Little Stack Of Wheat (Hornpipe)
  • The Boys Of Ballycastle (Hornpipe)
  • The Orphan (Jig)

取りあえずこれくらいにしておこうか。これらの曲はたまに練習中、思い出して復習ってみるもので、多分他にも一杯あるだろう。常識的に知っておかなくてはいけないものが多すぎて困る。しかし、記憶をよみがえらせるためにもこういうこと(記しておくこと)は必要なことだ。

2015年 12月 今年の総まとめ

また今年も終わってしまう。2000年問題、などと大騒ぎしてからもう15年が過ぎようとしている。

2015年という年、皆さんにとってどんな年だっただろう。

僕らにとってはなかなかに濃い年であった。

まず、1月早々、アイルランドに出掛け、パディ、フランキーとレコーディング。この二人は揃えるのになかなか難しい。

もう皆さんご存知のように特殊な人間であり、アイルランド音楽の中でも特別な存在であり、世界中のどこにいるかわからないような二人だ。

スタジオはゴルウェイ近郊のキンバラという小さな町(村落かな)から更に奥地へ行った、限りなく風光明美な場所にあった。

そこに4日ほど通い詰めての録音だったが、それはそれは寒かった。

1月にアイルランドへ来るのは初めてだったが、これでは鬱になりそうだな、という感じがひしひしと伝わってきた。

毎日が嵐のようで、風はビュービュー、雨はザーザー、スタジオ近辺はみぞれ交じりの極寒。

それでも湿気があるので日本の冬ほど肌を突き刺すような感覚はない。

元々寒がりではないけど、歳と共に寒さも感じてくるようになった。とは言え、暑さにもめっぽう弱いのだが…。

そして、帰ってきてすぐにオッピー今富君とツァーに出掛けた。それが10日間。アイルランドと合わせると、1月はほとんど出っぱなしだったので、正月だった、だの、新しい一年が始まった、だのという記憶があまりない。

3月にはかねてから希花さんが希望していたニュー・カレドニアにも行った。古くからの友人に同行させていただいたわけだが、そんな機会でもないと、少なくとも僕はいかなかっただろう。

美しい海を見てのんびりして。そのおかげで帰ってから自分たちの新しいアルバムをフレッシュな気持ちで作るいいきかけになった。

そして、夏にまたアイルランド。

ここでとんでもない体験をする。これが今年の一大事かな。

希花さんがいなかったら、大変なことになっていたことが2つ。特に最初のほうは僕らのアパートのキッチンでの出来事だったので、そこは、まるでERの撮影現場を見ているようになってしまった。

僕もパニックになりながら走り回った。

気がついたら何もできない自分と向き合い、倒れた奴の洗濯ものを回しながら、明けていく空を眺めてただただ祈るだけだった。

結局、死から蘇った彼、今はピンピンしている。これは紛れもなく希花さんの知識と経験、それと的確な指示能力のおかげだ。

もう一人は日本でもアイリッシュ・ミュージックの世界では知らない人はいない、という人物。なんとその彼の命も希花さんが救った。

これ以上詳しくは書かないが、とんでもない夏だった。

日本に帰ってきたらAEDが至る所で目に入った。アイルランドであれほど走り回ってもなかなか見つからなかったのに。

今はいろんな人がAEDを普及させる運動を展開しているが、今回のことで、それが無かった時どうすべきかも、きちんと知らなくてはいけないということを知った。

また、今回は和カフェのオーナー、早川さんとみんなでイギリスにも出掛けた。

アイルランドとはちょっと違った、こう言っちゃ語弊があるかもしれないが、どこか高貴な雰囲気が漂っていて、あまり好きではなかったが、建造物の美しさには心を打たれた。

ここはひとつ、観光ということに徹して楽しむことができた。

そして、いよいよ帰り道で立ち寄ったドバイ。

急激にサウナに入ったような、10メートルほど歩いただけでも石川五右衛門になったような気分。

超高層ビルが立ち並ぶ市内。こんなところでヘリコプター飛ばして「イエス!」なんて言っていたらぶつかりそうだ。

砂漠のど真ん中のアブダビ空港。アラビアのロレンスさながらの夕陽が砂漠の彼方に沈んでゆく…。

そして日本。2015年もあと4ヶ月。ゆっくり活動を開始し始めた。帰ってきた矢先に久しぶりにこうせつとも会ったし。

が、10月に控えたパディとフランキーとのEire Japanのツァーに向けての準備もしなければならない。

と同時にアイルランドに行く前にほぼ仕上げた僕らのアルバムも完成させなくてはならない。

2015年はどちらかというと、パフォーマンスよりも、それに付随したことか、全く関係のないことで忙しく明け暮れた年だった。

特にあの日、あの時間、あの場所に居合わせた人間同士は何かに引き合わされているのかな、と感じざるを得ない、そんな1年だったかもしれない。

コンサートもそうだろうか。

だからこそ、PC相手にクリックしたらいつでもなんでも見ることが出来るとか、自分の名前も正々堂々と言えない連中が、人の悪口を言うことにつまらない人生をかけてみたりとか、そんなことが横行している世の中に、ちゃんと顔を合わせるということが大切なんだと思う。

コンサートでみんなの元気な顔をみたいし、同じ日、同じ場所で、同じ時間を共有したいものだ。

話は変わるが、今年亡くなった人で野坂昭如さんについては小さな思い出がある。

あれはどこだったろう。たぶん新宿厚生年金会館とか、そういうところだったと思うが。

楽屋でリハーサルの順番を待っていた僕と省ちゃんのところに野坂さんが入ってきてこう言ったのだ。「新人歌手の野坂昭如と申します。よろしくお願いします」

今でもあのシーンをよく覚えている。

さて、国民がどう思おうがどう困ろうが、お構いなしの贅沢三昧政治家たちには早く消えて欲しい2016年だが、更に彼らの自己満足ぶりには拍車がかかりそうな予感もしないではない。

結局、自分のお財布からお金を出したこともない連中が国民だけに負担を強いるのだからたちが悪い。こっちの方が安いけどポイントが付かないし、でもあっちは結構高いな、なんて国民が一生懸命考えていることなんて知らないのだろう。知っていて知らないふりか…。

だから僕らは僕らで自分の信じる道を行くしかない。

そこでアイルランド音楽の話もしておかなくてはならないだろう。

アイルランド音楽の世界にどっぷりつかり始めて25年。まだまだ赤ん坊みたいなものではあるが、かなり濃い経験は積んできた。

ここ毎年アイルランドでパフォーマンスをしてきて、この音楽をやるんだったらやっぱり現地の一流ミュージシャンと対等に勝負できなければこの道で生きているトラッド・アイリッシュのミュージシャンとは言えないということが分かってきた。

今、僕らがやっているような最小限の編成というのはやはり難しい。だが、僕にとってはこれが基本中の基本だ。

2016年、僕らはまたアイルランドに出掛ける。

Eire Japanもいくつかできるかもしれないし、今回はどこでどういう人達と演奏することになるだろう。

そういえば、アンドリューのお母上も亡くなってしまった。僕がアンドリューと一緒に「鉄砲獅子踊り唄」かなんかをやっていたら、横で一緒に足踏みしていたっけ。

彼にも会いに行かなくちゃ。お母さん子だったからさぞ悲しんだだろうと思うけど、なにか生活が変わっただろうか。

僕にとってのアイリッシュ・ミュージックは25年前、彼から始まっているのだ。

あの日、あの時、あの場所で彼と出会ったことで。

2016年1月

毎回感じるのだが、あっと言う間にもう正月ではなくなってしまう。

今年は日記でも書いてみようかと思いながら書かずしてもう1週間も過ぎてしまった。そうなると2~3日前は何をしていたか、よーく考えないと出てこない。

昔、省悟が「どこで何を食べたかメモしておくんや。忘れてしまったら食べてないのと同じことになる。特に美味しかったものはそれではもったいない」と言っていた。

彼は好き嫌いも比較的多く、また、歯も悪く、本当に食べるものを吟味していた感があったし、特別なことでもない限りある程度パターンが決まっていたのかもしれない。

お好み焼きには異常にうるさかったかな。

何はともあれ、その特別なことを忘れてしまっては、という彼の言うことには一理ある。僕もこれから何を食べたかメモしておいたほうがいいかな。

さて、2016年、音楽の世界はどうなっていくのだろう。

考えてみれば、初めて「外タレ」というのを見たのはThe Brothers Fourだったかな。それからArt Blakeyどちらも1961年が初来日だったらしい。

立て続けに聴きに(見に)言った覚えがあるからその頃だろうか。

それから先は、やっぱりFoggy Mountain Boysかな。京都産業大学入学直前だった…と思う。ほら、やっぱり日記に書いておけば良かったのに。

そして、いろんなブルーグラス・ミュージシャンが来日し、カルロス・サンタナやニール・ヤング、サード・ワールドまで見に行ったものだ。

アメリカへ渡って初めて見たのが、なんとDe Dannanだった。それからはStephane GrappelliやSuper Guitar Trio, そして何度も行ったThe Greatful Dead いろんな音楽を経て91年からアイリッシュの世界に入った。

そしてDervishもSolasもLunasaもみんなツァー仲間になった。

今年はどんな音楽シーンが待ち受けているだろう。

そういえばまだ手帳も買っていなかった。大体のスケジュールは希花さんに把握しておいてもらったほうが間違いないと思い、自分の手帳なるものは後回しに考えていたが、日記代わりにひとつ持っておかないとやばいかもしれない。これからは忘れることも更に多くなるかも知れないし。

日曜始まりは譲れないが、デザインのことはあまり考えないようにしよう。

「ぐでたま」がいいとか、「スヌーピー」がいいとか、は…。

取りあえず、今年もよろしくお願いします。

回想

前回、初めて外タレを見に行ったのは…というようなことを書いたので、もう少しなにか想い出してみようかな、と思う。

幼稚園から小学校4年までは、とに角クラシックに浸かっていた。

しかし、2歳年上の姉は先生のいうことを忠実に守っていたようだが、僕は自分なりの解釈を大切にしていたようだ。

生徒の中では全くの異端児だったらしい。

初めてフォークソングなるものに触れたのは、恐らくラジオから流れてきたブラザース・フォアの「グリーン・フィールズ」だったと思う。

1960年ということなので、まだ小学生だ。

東京の放送局から流れてきた、それはそれは受信状況の悪い中、なんと美しいんだろうと思った記憶がある。

ほどなくして同じグループの「遥かなるアラモ」を聴き、この映画を何としても観なくては、と思い立ち、一人で上京。

もちろん新幹線など無かった時代。しかもまだ小学生だった。

その後「9500万人のポピュラー・リクエスト」なる番組が、どうやら1963年に始まったらしいが、当時、ギターを手に入れたか入れないかの瀬戸際だったような記憶がある。

取りあえず、流れてくるいろんな音楽をピアノやギターで真似してみた。

そして、街の小さなレコード屋さんで「ビートルズ」という聞き慣れないグループのドーナツ盤を買ったのもこのころだ。

片端から当時のヒット曲をギターでメロディとコードを弾いてみた。もともとピアニストを目指していたせいか、さほどの苦労も無かった。

そして、衝撃的な「フォギー…」との出会いに続いてゆくのだが、まだバンジョーなる楽器がどんな形をしているのか見当もつかなかった頃だ。

やがてバンジョーを手に入れると、あらゆるフォーク・グループの演奏を耳にタコができるほど聴きに聴きまくった。

ひとつの音も聴き逃すまい、と、コピーに明け暮れる毎日だった。

キングストン・トリオのMTA ブラザース・フォアのDarling Coreyに始まり、徐々にブルーグラスへと興味が移っていった。バンジョーという楽器に惚れてしまった者にとっては当然の結果だ。

考えてみればブルーグラスという音楽はコピーに明け暮れるものだ。もし、「あなたのプレイはアール・スクラッグスそのものだ」と言われたらブルーグラス・バンジョー奏者にとっては最高の栄誉だろう。

もちろん、ドン・レノしかり、エディ・アドコックしかり、J Dクロウしかり、そして、僕のアイドルのひとり、ビル・キースしかり、みんなそれぞれのスタイルを持っている。

しかし面白いことにその誰もがブルーグラス魂を持ち合わせている、と感じる。

僕らは日本でなんの情報も入らなかった頃から、こんな感じだろうか…という方法でしか弾くことができなかった。

やがてピート・シーガーの教則本を見つけ、アール・スクラッグスの教則本を見つけ、段々いろんなことが解明されてきた。

それと同時に外タレの来日も徐々に増えてきた。

マイク・シーガー、リリー・ブラザース、ビル・モンロー、デビッド・グリスマン、トニー・トリシュカ、ピーター・ローワン……。

まだまだ挙げればきりがない。

だが、元々様々な音楽に興味があったので他の分野のコンサートにもよく行っていた。山下和仁、チック・コリア、ジョージ川口、後藤みどり、エマーソン・レイク&パーマー、何故か欧陽菲菲も聴きに行ったことがある。

他にも前出したサード・ワールドなどはブルーグラス畑の人はまず、わざわざ出かけて聴きに行かないだろう。やっぱりどこの世界に居ても結構な異端児だったのかもしれない。

91年からのアイリッシュでは、この音楽の奥の深さにとことん引きずり込まれていった、と言えるだろう。

だが、相変わらずホット・ツナ、BB King、ジョージ・ウィンストンなどを聴くために様々な場所に出掛けて行ったものだ。そういえばTower of Powerなんかも聴きにいった。

とに角、ギタリストとして他人の持ち合わせていないスタイルで、なお且トラッド魂をきちんと踏まえた存在になること。そればかりを目指してきた。

そんな意味でも、いろんな場所に顔を突っ込む異端児であったことは大いに役立ったと感じる。

様々な音楽の要素を取り入れて作り上げてゆく独自のスタイルを持つことと、この音楽に対する敬意を常に忘れずにいたいものだ。

伴奏者にとって最も大切なところだ。

たまに昔のことを想い出してみると、欧陽菲菲や、Tower of PowerのWilling to Learnでもまた聴いてみようかな、なんて思う。

クロウハンマー

言わずと知れたオールドタイムに於けるバンジョーの奏法だ。最近はギターにも応用している人もいる。ジョディ―・スタッカーや、よく一緒に演奏したスティーブ・ボウマンなどがその代表だが(どちらもサン・フランシスコ)取りあえず今回はバンジョーに限って書いてみよう。

初めてこの奏法のことを知ったのは、多分ピート・シーガーの教則本だったかも知れない。彼自身はもうちょっとシンプルなダブル・サミングという弾き方を使っていたようだが。

スリーフィンガーといわれるブルーグラスに於けるスクラッグス・スタイルとは全く違って派手さはないが、そのなんとも言えない味わいのあるサウンドには随分前から興味があったし、それなりに極めてみようかという考えも持っていた。

しかしそこには多くの面倒なことが存在する。

まず、中指の爪の甲と親指の2本指だけでメロディを作りださなくてはならないので、考えようによってはスリーフィンガーよりも複雑だ。

というより、スリーフィンガーに比べて無理も生じてくる。

そのために、その曲だけに使うチューニングというものも考案しなければならなくなってくる。必然性を求めるわけだ。

そして、厄介なのがそうして綺麗にメロディを創りだしても、いわゆるスタンダードなキーで演奏できるとは限らない。

例えばMiss McLeord’sという曲。スタンダードにはAmajかGmajで演奏される。だが、Cチューニング(この場合gCGCE)にして創り出すメロディがとてもきれいなのだ。そうなるとどうしてもCか、カポをしてDでの演奏がベストなサウンドになる。

勿論、普通にGチューニングでも演奏できないことはないが、それでは本当に普通になってしまう。

そんな風に他の人と合わせる時などにいろいろと面倒なことが起こる。

更にアイリッシュ・チューンなどをその道の第一人者Ken Parlmanを筆頭に、多くの人が実に見事に演奏するが、それはソロ・パフォーマンスという評価でしか語れない。

リズムも違ってくるし、メロディも多少変えなければいけない部分も出てくるし、キーも曲によってはスタンダードなキーでは演奏できない、ということも出てくるし、しょっちゅうチューニングも変えなければならない、ということも出てくるだろう。

それを考えなければ、とても魅力的な奏法だ。

特にある程度歳がいってくると、スリーフィンガーのような細かい奏法よりも、よく言えば味わい深いこの奏法に移行していく人も多いようだ。

そして、この奏法は多くの場合、リゾネーターのないオープンバックのバンジョーを使用するので、何といっても軽い。年寄りにはやさしい物となる。

そんなクロウハンマー(フレイリングあるいはドロップサムとも呼ばれる)を今一度研究してみようかな、と思っている今日この頃だ。

聴こえてくる音に関して

僕には、音楽が聴こえる時、その一つ一つの音に対しての和音が同時に聞こえてきてしまう。因みに希花さんには色が見えてくるらしい。これはキーであり、和音でもあるのだが。もちろん、それと同時に同じ基音のコードでもマイナーとメジャーでは色もかわってくるのは当然のことだろう。

そういう人は他にもいるらしいが、その色は人によって違うらしい。いろいろ調べてみると、これは「色聴」というらしく、絶対音感の持ち主に多いということだ。

また、それとは違うケース、例えば絵を見ていてその色彩から音が浮かんでくるなど、そういう感覚を総じて「共感覚」と呼ぶらしい。こういうことについてはかなり詳しく書いている人もいるので今更…なのだが。

話を自分のことに戻すと、昔から和音という観念に取りつかれ、ここはこれでないと気持ち悪いという感覚が常にあった。

しかし、例えばひとりが明らかにFのコードを弾いているのに、もう一人がDmを弾いているような、言うならばF6が出来ちゃいました、みたいなのが気持ちいいこともよく分かる。

Foggy Mt. Break DownではGの後Emが通説だが、何故か1949年の元々の録音ではギターがEmajを弾いている。そしてまた、1小節ずれてGに戻っているなど、えも言われん不協和音とも取れるものの気持ちよさもよく分かる。

面白いものだ。

僕のように、ある音に対して常に別な音が同時進行で聞こえてくるのは、いわゆる相対音感の一部だろうか。

曲を聴くと、必ずベースとコードが同時進行で思い浮かぶ。もちろんとんでもなくややこしい曲などは別だ。

それがアイリッシュ・ミュージックにとってどれだけ便利なものだったかは言うまでもない。他人にコードを尋ねる必要は全くない。

たまに自分が思うコードとは違うコードで「なるほど。これも理に適っている」と思うものがあるが、その逆もこのアイリッシュ・ミュージックにおいてはかなりの頻度で遭遇することも事実だ。

かといって、誰もがそういっぺんに音がきこえてくるわけではないのだが、多分普段の訓練でなんとかなるのだろう。しかし、それは出来れば6歳くらいまでに訓練しておいたほうがいいのかも。

僕にしてみると、希花さんの発する442を覚えておこうと思うのだが、すぐ忘れてしまう。ギターの弦を変えた時、自分の声で、下のCはこんなもんだし、弦の張り具合からみてこんなところだろうと判断する。そしてそれはかなり近い確率で442なのだ。

僕には絶対音感は無い。色も見えていない。では、なにが見えているんだろう。希花さんにとっても不思議な音感の持ち主なのかもしれない。

京都産業大学 ブルーリッジ・マウンテンボーイズ

大学へ入学したその日からバンジョーを持って学内を歩いていた。大学に行ったらブルーグラスをやろうと決めていたからだ。

今でもはっきり覚えている。「自分、バンジョー弾くんけ?」とザ・関西ともいうべき言葉をかけられたことを。

それは初代バンジョー弾き、酒井さんだった。そして先輩たちに出会ったわけだ。

ギターとヴォーカルの細谷さんは僕とは全然違って坊主頭だった。フィドルの松井さんはニコニコして「お、新メンバー獲得」と、言ったか言わなかったか、そこまで覚えていないが、二人で嬉しそうな顔をしていた。長身のベース弾き山本さんはクールに出迎えてくれた。

僕が2代目ブルーリッジ・マウンテンボーイズのメンバーとなった瞬間だ。

さすがに先輩たちは練り上げられたサウンドでスタンレー・ブラザースや、バージニア・ボーイズの曲を歌い、演奏していた。

僕は必死になって裏打ちの練習をした。ブルーグラスの基本というべきだろうか。

やがて、新入生歓迎会というのがあって、京都会館で先輩たちと演奏したが、その時に僕の演奏にぶっ飛んだのが坂庭君だったのだ。

因みにこの時だったと思う。大阪歯科大学のブルーリッジ・マウンテンボーイズの連中が「わしらこそブルーリッジや」と楽屋に押し寄せてきたのは。

フラムスのバンジョーを得意げに弾いていた奴に思いっきりピアレスのバンジョーを弾いて勝負してやった。

喰うか喰われるかだ。絶対に負けるもんか。そんな気持ちでバンジョーを弾いていた。

やがて、先輩たちの卒業も間近に迫り、新たに加わったメンバー達とブルーリッジ・マウンテンボーイズを続けていた。

ベースは野口さん。彼は初代のひとつ下だったので、ベースマンとして残った。フィドルに伊藤さん。この人も一つくらい上だったかもしれない。そしてマンドリン奏者が入った。中村、いや仲村だったかな。ここで、ほぼフルの編成になったわけだ。

やがて、ひょんなことからフィドルが抜け、4人編成のカントリー・ジェントルメンスタイルに移行していった。

とに角この頃はエディ・アドコックに夢中で、来る日も来る日も彼の音を拾っていた。

ナイト・ウォーク、サン・ライズ、ブルー・ベル、ハート・エイクス、歌物では「ダイナおばさんのパーティ」もう破竹の勢いだった…かな。

とに角、京都産業大ブルーリッジ・マウンテンボーイズここにあり!という感じだった。

毎日遅くまで部室に残り、真っ暗くなった山道を二軒茶屋の駅まで歩いて帰った。しかもバンジョーを持って。

今なら絶対にやりたくない。いや、なかなかできない。それくらいに情熱を注ぎ込む力が体中にみなぎっていたのだ。

ほどなくしてベースの野口さんが抜け、バンドもなんとなく消滅状態になった。その少し前に、ジム&ジェシーが大好きという、藤田君が入ってきた記憶がある。ギターを少し斜めに構え、長身のなかなかハンサムな、いかにもジム・マクレイノルズが大好きって顔に書いてあったような感じだった。

しかし、僕もなんとなくグループから離れていって、個人的に川西の早川君、それから大阪の伊藤君と三人で、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズをお手本にオールドタイムにのめりこんでいった。

そうこうしている間に高石ともや氏と出会ったわけだが、ブルーリッジ・マウンテンボーイズはまだまだ続いていたようだ。

藤田君が引っ張っていってくれたのかな。

5年ほど前に後輩の木内君に出会うまで、ほとんどブルーリッジのことは忘れていた。しかし、彼がいいきっかけを作ってくれて、あれから約50年ぶりにもなる初代の面々と再会することもできたのがつい最近。

先輩も後輩も、みんながあたたかく出迎えてくれて、ブルーリッジ・マウンテンボーイズは自分のブルーグラスの原点であったことを再認識させられた。

いつか近いうちにもう一度みんなで会って演奏に、そして話に華を咲かせてみたいものだ。

ブルーリッジ・マウンテンボーイズの軌跡を辿る意味に於いても。

キアラン・サマーズ Ciaran Somers

とてもいいフルート奏者であり、僕らが生きている証であるアイリッシュ・ミュージックの基本中の基本をたっぷり聴かせてくれた演奏家であった。

この音楽を演奏しているにもかかわらず、楽し気に飛び跳ねるパフォーマンスばかりが横行している昨今。そしてそれがもてはやされているこの国。

確かに、あまり一生懸命になっても時間が足りないし、一般的な人達にはどうでもいいことだし、本場の超一流のミュージシャン達と関わるよりも、自分たちの身内でつるんでいるほうが気楽だ。

もちろんみんなで楽しむことも音楽のひとつの大切なかたちであるのだが、これでお金をいただいている僕らにはこの音楽に対する飽くなき探求心と尊敬の気持ちがとても大切なこととなる。

知る限り、本当に真面目に取り組んでいるミュージシャンもこの日本には数少ないが居ることも確かだ。問題はそのことがさっぱりわからないのにこの音楽に関わってこようとする人間が居ることなのかもしれない。

とに角Ciaranの演奏からはまた気を引き締められるいいチャンスを与えてもらった。

僕は、アンドリュー・マクナマラに始まり、ジェリー・フィドル・オコーナー、ブリーダ・スミス、トニー・マクマホン、ジョン・ヒックス、コーマック・ベグリー、パディ・キーナン、フランキー・ギャビンを日本に紹介した。イデル・フォックスは大使館の招聘だったが、彼女との素晴らしい演奏も体験させていただいた。

そして彼らは一様にトラッド(伝承音楽)に対する真摯な姿勢を僕らに見せてくれた。

だが、この日本でアイリッシュ・ミュージックを自分たちの生業の一角として演奏している人たちがほとんどそういった会に姿を見せないことが不思議でならない。

ま、諸々の事情もあるのだろうし仕方のないことだが…。

80年代、トニー・マクマホンがコマーシャリズムに乗りかけたアイリッシュ・ミュージックを嘆いていた、というが、アイルランドですらそういうことが起きるのだ。

そんな中で、しっかり伝統を守っていきながらこの音楽で生活を築いていく人達は貴重な存在だ。

Ciaran Somersにもう一度「ありがとう」と言っておきたい。

ブルーグラス、オールドタイム、アイリッシュ

この順番は僕が歩んで来たものなので、本来歴史上では書くべき順番は逆になるのだろう。僕の場合勿論ブルーグラスの前にフォークソング、というものが入るが。

初めてフォークソングというものを耳にしたのは、ひょっとすると1960年、うん、まだ10歳?

ブラザース・フォーの「遥かなるアラモ」だろうか。しかし、同じグループの「グリーンフィールズ」も1960年。「アラモ」より少し前に出ている。そしてすでに知っていたので、取りあえず1960年にフォークソングと出会ったと言っていいだろう。56年前?

それから4年か5年ほどして初めてのピアレス・バンジョーを手に入れ、フォークソングに夢中になるのだが、その辺のことはもう既に書いている。

ギターはそれより少し早く手に入れているので、なんとなく知っているメロディを自分なりにアレンジして弾いていた。

小さいころからのピアノの訓練で、和声と云うものはいとも簡単に理解できた。バンジョーについても同じだった。

そして、もっともっとバンジョーを弾いてみたくなったら自然とブルーグラスにのめり込んでいった。それにしても、フォギー・マウンテン・ボーイズの来日はいいタイミングだったと言えるだろう。

朝から晩までブルーグラスのことを考えていたら、今度は自然とルーツに向かうようになる。そして友人と3人でニュー・ロスト・シティ・ランブラーズのスタイルを目指す。

そこにはもちろん、ブルーグラスで演奏したものからカーター・ファミリーの歌まで、旧知の曲がいっぱいあった。

もちろん、たまには別な仲間と4人、5人集まってブルーグラスも楽しんだ。

この際、ナターシャー・セブンというものはさておいて、1991年からはアイリッシュ専門である。

よくいろんな人に「なぜアイリッシュか?」という質問を受けるが、そんな時よく「ルーツに戻っていっただけ」と答えるが、これは決して間違いではないものの、正しくもない。

散々ブルーグラスを経験すると、そのルーツはスコティッシュだということがはっきりわかる。

アイリッシュは独特だ。もちろん隣国であるスコットランドの影響を受けたものも数多く存在する。

そしてその演奏形態、ジャムのあり方は実にオールドタイムとよく似ている。が、もっともっとヨーロッパの匂いがする。

そこにはクラシックの要素もいっぱい入っている。だからこそ、クラシックの演奏家は好んでアイリッシュの曲を演奏したりするのだが、そこにはどうしようもないリズムの違いが生じる。

クラシックの演奏家の最も弱いところはリズムだろう。えも言われん、楽譜で記すことのできないきちんとしていないリズム感覚。

これが把握できないと単なる音の羅列になってしまう。

パディ・キーナンが日本の若手アイリッシュ・グループを聴いた時「とても上手いけどパッションが全く感じられない」と言った。

この音楽は生活の音楽だ。そうして考えてみるとオールドタイムからもそれを感じる。ブルーグラスはもっとショウとしての魅力に溢れる音楽なのかもしれない。それに、宗教も色濃く感じる。

ともあれ、ブレンダン・ベグリーが畑を掘り起こし、出来たジャガイモをクンクンして「うん、いける」と僕に渡した。

ジョー・カーターが「畑にラディッシュを植えるから手伝ってくれ」と鍬を持ってきた。

アンドリュー・マクナマラが「草むしりをするから、ジュンジ、そこの長靴を履いてきてくれ」と自分の分と仲良く並んだ長靴を指さして言った。

これ、全て音楽だ。オールドタイムだ。アイリッシュだ。そして、本来、ブルーグラスもその流れの中にある。

60年代からこれらの音楽に接してきて、ようやくそんなことが身に染みて感じるようになってきたのはやっぱり、彼らとの生活を体験してきているからだろう。

50年。いろんなものを見て、やっと分かりかけてきたのかも知れない。

健康に関すること

最も大切なテーマだろうが、つい最近、若いタレントが急死した。もうみんなが知っていることだろう。それにしても若すぎる。

もちろん歳がいっていれば仕方ないかということもないが。

詳しい話をきいていると、僕らの去年の夏のことが蘇ってきた。ほとんど同じ症状だったが、

彼は希花さんの渾身の心臓マッサージの末、運が良かったのだろうか、生き返った。

しかもアイルランドで。救急車が到着したのが20分後。AEDも手に入れることが出来なかった。

やっと運ばれた病院はまるで野戦病院。血だらけの若者から、元気のない老人までが廊下のあっちこっちにごろごろしていた。

そんなところで、それでも最優先ということですぐに運ばれて行った彼は真っ白だったのを覚えている。

希花さんが医師と面談をして、カルテから心電図までチェックした。遠い日本に住む親とも病院の電話から話をしたが、さすがに医師としてツボを得た説明をしていた。

とにかく僕らだっていつ何時どこで倒れるか分からない。

健康なものを食べていれば大丈夫なわけでもないが、できれば不健康な食べ物は口にしないほうがいい。

でも、そういうものが結構美味しいということはだれにも分かっている。

運動を欠かさずおこなっていればいいことも分かる。なので、ジムにも適度に通っている。よく歩くことも心掛けている。

だが、僕の健康の秘密は(というほどのことでもないが)おそらく「歯」だろう。

35歳くらいの時に京都のカントリー歌手兼歯科医の永富先生に「お前一生自分の歯で行けるわ」と、口を開けただけで言われたことがある。

だが、僕は子供の頃から寝る前に歯を磨いたことが全然ないわけではないが、あまり記憶にない。

今でも朝や出かける前、あるいは気の向いたときに磨く。それで、虫歯というのは1回しか経験していない。

それも63歳くらいの時。何が痛いのか…頭痛か、口内炎か…分からなかった。歯痛というものの経験がなかったからだ。

それでもかぶせ物をして、あっという間に治った。医者は「なんと立派な歯」と感嘆して言った。親に感謝だ。

僕が思うに、そんな歯なのでこの歳でも結構食べられる。食べ物が美味しくないと思ったことがほとんどない。アイルランドは別。

美味しく食べることが出来るというのは基本だろう。

僕の嫌いな言葉で「不味い」という言葉がある。確かにそういうものもあるが僕は敢えて「美味しくない」か、「苦手」を使う。

おそらく作った人は美味しいと思っているのかもしれないし、せっかく作ったものに「不味い」というのは気の毒だ。自分には合わないだけかもしれない。

僕には好き嫌いがあまりない。強いて言うならば「漬かりすぎた漬物。特になすの漬物」は苦手かな。「魚醬」のあんまりきついもの。「生ハム」や「フォアグラ」は食べない。

ありゃ、こうしてみると結構あるのかな。

でも、普通に出されるものはなんでも食べる。「気持ちいいくらいによく食べるね」と言われるのが好きだ。

それってやっぱり健康の秘訣かもしれない。

良く食べて、適度に運動をして、寝る時間を大切にして、ストレスをストレスと思わないのが一番だが、なかなか難しい。

取りあえず、いま位の感じを行けるところまでキープ出来れば良し、としておこう。

ついでに、歯について普段僕がやっていることは、練り歯磨きはあまり落とさないで少しだけゆすぐ。本当は食べる前に磨くようにしたい。くらいかな。

それと、これはメーカーの宣伝になってしまうかもしれないけど、クレスト社から出ている「Glide」というデンタルフロス。日本ではほとんどネットでしか手に入らないようだが、これは万人に勧めたいものだ。

ギター弦に関すること

ギターを始めた頃、最初はクラシック・ギターだったので、当然ナイロン弦だったが、フォークギターを買ってからはどうしていたのか覚えていない。針金を代用したことは覚えているが、それはいつもというわけではない。

70年代に入って、マーチンギターを手に入れると、まぁその頃にはいろんな会社の弦が手に入ったのだが、最初はやっぱりマーチン弦だったと思う。

特にゲージに拘ることなくライト・ゲージを張っていた。

常に僕はフィンガー・ピッキングが多かったのでライト。省ちゃんはフラット・ピッキングが多かったのでミディアム。

マーチンの他にはダルコというのもあったし、ギルドの弦も使っていた。それが良かったからという覚えもないが、今のようにネットで買えるような時代でもなかったので、良く行く楽器屋さんからまとめ買いしていたのだろう。

アイリッシュをやるようになってからはずっとブルーグラス・ゲージを使っている。これは

1、2、3、がライト、4,5,6がミディアムというものだ。

以前、僕はギグごとに張り替えていた。それがどんなに小さなセッションでも。なので月に20セットくらい使っていたことになる。

そんなに簡単に切れるものではない、ということは百も承知だが、僕はギタリストとしてバンドのベース、リズムを一手に担っている。

もし、途中で切れたらどうしようもなくなる。これで飯を食っている以上そういうわけにいかない、という怖さからしょっちゅう変えていた。

しかし、困ったことに新品の弦より少し腐り気味くらいのほうが良い感触の音が得られるのも事実だ。僕はそれでも3つ目の仕事では必ず変えている。

今ではかなりロングライフの弦も出ているが、ロングライフの弦は値段も高い。怖いという感覚だけでそうそう変えるわけにはいかないので使っていない。

ともあれ、このブルーグラス・ゲージというものは低音の力強さが好きだ。ライト・ゲージでは出せない迫力が出るので今のところこれで決まり。因みにダダリオのブルーグラス・ゲージ、フォスファー・ブロンズの012-056というものだ。

6弦はDまで下げているし、056という太めの弦でガツンと弾いた方が音に深みが出る。

だが、これも好みだし、プレイヤーにとってもギターにとっても向き不向きがあるだろう。

因みに、DADGAD専用、というゲージもあるが、僕には不向きだった。1,2がミディアム程度の太さがあり、3,4,5が少し柔らかいのだ。慣れればどうってことないのかもしれないが。

究極、好みであることは確かだ。

高橋竹童コンサート

先日、ひょんな繋がりから、津軽三味線の高橋竹童の音楽会に出掛けるチャンスを得た。

隣の会場では森山良子さんがやっていたみたいで、ちょうど同じような時間帯にそちらに並んでいる人を見ると、大体僕らの世代。

こちらは僕より10~15は上の世代がほとんど。恐らく希花さんが一番若いかもしれない、というような感じだったが、一杯の人だった。

ほぼ満員御礼と言えるだろう。

まず、彼自身が苦労して録音してきたという津軽の波の音と、なかなか鳴いてくれなかったというウミネコの鳴き声が会場に響く。

そこに登場した彼が最初に演奏したのが「十三の砂山」

僕は昔京都にいたので、これは大阪の十三(じゅうそう)かと思ったことがあった。それこそ初代竹山と出会う前の話だが。

お話もなかなか落ち着いていて面白く、お客さんを引き込んでいく技術もしっかりしていると感じた。

僕にもなじみのある「津軽甚句」(どだればち)や、「弥三郎節」。もちろん「じょんから節」に至るまで、トラッドの素晴らしさを存分に味わった。

尺八や胡弓。コンサートのアクセントとしても、演奏としてもとても素晴らしく、ひとつの世界を創りだしていたようだ。

また個人的にゆっくりお話しできる機会があれば面白いかもしれない。あれだけきちんとトラッド(和楽に使う言葉ではないかも知れないが)をできる人なので話は合うかもしれない。

益々の活躍が期待できる人だ。

2016年6月17日(Fri)ラ・カーニャ

キーボード奏者 宇戸俊秀とベーシストの河合徹三を迎えてのユニットで、アイリッシュ・ミュージックの数々を演奏します。

彼らは言わずと知れた、日本最高峰のミュージシャン。彼らのような、縁の下の力持ちである伴奏者(僕もその一部ではありますが)は本物の実力と経験がないと、どんなシーンでも音楽がきちんと成り立たないのです。

そんな彼らの懐を借りて、本場で演奏を展開してきた僕らにとっても、また違う風を得るコンサートになるはずです。

「アイルランド行ってきますコンサート」
出演:
内藤希花(fiddle,irish harp&concertina)

城田純二(guitar,banjo&vocal)
河合徹三(bass)
宇戸俊秀(keyboard&accordion)

日時:2016年6月17日(金) open 19:00 start 19:30
予約・3000円+1drink order
当日・3500円+1drink order

ご予約・お問い合わせは下北沢ラカーニャlacana1980@mac.com まで

反戦運動とフォークソング

俗に言うベトナム戦争というのは、1960年頃から1975年くらいまでだろうか。ちょうど僕らが高校、大学、そして社会へと進む時代だった。

何不自由なく、普通に暮らしている僕らにはほとんど無縁といえるものだった、としか言いようがない。

実際には数々の恩恵にも授かっただろうし、悪い方の影響もあったかもしれないが、そんなことも全く感じることなく暮らしていた。

フォークソングに興味が出てくると、当然のごとく反戦フォークなるものも耳に入ってきた。

だが、それらが本当に自分の気持ちに入ってきたのは正直、終結してから随分経ったアメリカに渡ってからだろう。

歩いていると多くのホームレスに出会った。

「空軍兵士としてベトナムから帰ってきて、職もなく困っています。どうか少しのお金をめぐんでください。エディ。」

通りの向かいには「僕の兄貴は空軍の元軍人でエディといいます。ベトナムから帰ってきて困っています。どうか彼を助けてあげてください。マイク。」

どこまで本当か分からないが、少なくとも見た感じエディの歳はそれ相応だ。親しくなってたまには25セントあげたりしたが、こちらも小銭が必要になったら貸してくれたりした。

また、道に腰かけてハーモニカを吹いているやつもいた。

彼が友達のところに連れて行ってくれたが、それはそれは驚きの光景だった。真っ暗な部屋にベトナム帰還兵が2人で暮らしている。一日中ほとんど部屋を出ることがない。

怖いそうだ。いまでもジャングルが脳裏から離れない。敵も怖いけど、蛇や身体に引っ付くヒルみたいなやつが寝ても覚めても襲ってくる、と云いながら煙草をふかし、ウイスキーをあおる。

こんな奴らが街角に、あるいは人知れない部屋の片隅にうようよ居た。

ゴールデンゲート・パークにもいっぱいいたし、すぐ近くのヘイト・アシュべリ―地区は言わずと知れたグレイトフル・デッドを始め、いわゆるヒッピー文化の発祥地だ。

また、対岸に行けば学生運動の街、バークレイもある。

そして働いていた先には多くのベトナム人がいた。彼らからの話はこのコラムで既に書いているが、僕らが普通に生活をしていた最中に起きていたことを多く知ることとなった。

湾岸戦争では、友人の息子たちが多く出陣していった。

街では多くのデモ隊が拘束されているのを遠巻きに見ていた。

世界中の偉い人達は絶対的に守られているので、庶民がいかに騒ごうが何とも思っていない。

税金を上げることばかりを考えないで、自分たちの給料を少し減らせばいいのに。知事なんかがネコばばしたお金を復興に使ったらいいのに…っていうのは簡単だけど、そうも言いたくなるくらいに守られている。

と、ここまで書いてきて何を言いたいのかが自分でも良く分からなくなってくるので、プロの小説家にもコラムニストにもなれないだろうことは良く分かる。

ただ、あの時代にフォークソングから学んだこともいっぱいあったことは確かだ。それは音楽的にも思考的にも。

そして、その思考的な部分をアメリカで体験できたことも確かだ。

だが、それほど音楽に思考的なもの、強いて言うならば思想的なものを入れたいとは思わない。僕自身それはそれとして、音楽を大切にしていきたいと考えている。

 

2016年5月27日

この日は広島にとって、日本にとって、そして世界にとって歴史的な日として意味あっただろうか。できればそうであってほしい。

金曜日の夜、酒に酔った若者が奇声を上げているのが聞こえてくる。取りあえず平和だ。

広島のことは勿論、熊本の地震も、東日本も忘れているわけではない、と言いたいが普段の自分自身の生活にはあまり関係してこない。

これは決して責められることではないと思う。何事も当事者にしか理解できないものがある。

フォークソングに長いこと関わってきたけど、反戦集会に出たことは一度も無い。もし、自分が反戦をテーマにしたコンサートに出てくれ、といわれても恥ずかしくて出るわけにはいかない。

高校の頃、それでもいくつかの反戦歌をそれと知りながら唄っていた。ほとんど原語のものばかりだったが。

折しも日の丸を掲げることに反対意見が発せられていた頃。親父が祝日になると嬉しそうに日の丸を玄関に掲げるのを見て、何も言えなかった。

この人、このために命を懸けて南の島にいたんだな、と思うと、それは何も言えなくなるのは当然だろう。

僕らはなんにも知らない。でも知る義務があることは確かだ。

知る権利というと、知らなくてもいいことに首を突っ込んでは、間違った情報を嬉々として書き込んだりする輩もいるので、「事柄によっては知らなくてはいけない義務がある」と言ういい方の方が良いのかな。

僕にとって一番身近な戦争は湾岸戦争だったかもしれない。身近というと変だが、少なくとも、毎日のように帰ってくる帰還兵を題材にした「ヒーロー・インタビュー」みたいな番組が放送されていた。

高校生たちは海兵隊には入ってみたいけど、ブッシュのために死ぬのはごめんだ、と言っていた。

レストランに御用聞きに来る日本人の女性の息子さんが湾岸に出征していった話を聞いた。空港で、それはそれは泣いたそうだ。

ジョン・デンバーの「傷心のジェット・プレイン」を想い出した。

ジュリー・ゴールドの「フロム・ディスタンス」にも随分感銘したものだ。

ボブ・ディランは「答えはいつも風に吹かれてさまよっているのではない。フッと目の前に落ちてくることがある。その時、気がつくか気がつかないか、それが問題だ。気がつかなければ答えはまた風に吹かれて何処かへ行ってしまう」と言っていた。

そんないろいろなことを想い出しながらテレビを観ていた「記念すべき日」だった。

ジェリー・ガルシアとグレイトフル・デッド

グレイトフル・デッドについても、ジェリー・ガルシアについても今更何の説明もいらないだろうが、最近、何人かの熱狂的なグレイトフル・デッド・ファンの若者や、そこ迄でもないが、彼らに興味を示す若者に出会った。みんな20代だ。

僕は何度も何度も彼らのコンサートを観に行ったが、彼ら、若者たちは生で観たことが無い、という。

無理もない。ジェリー・ガルシアは1995年の8月に亡くなっている。

当時サンフランシスコに居た僕はその日のことをよく覚えている。

ヘイト・アシュベリーには多くの人が集まり、道端に座り込んで蝋燭を立て、花を飾ってお祈りを捧げていた。

どこまでも真っ青に澄み渡った空の下、街全体が失意のどん底に突き落とされたような光景だった。

8月13日にゴールデンゲート・パークのポロ・フィールドでメモリアルセレモニーが行われた、とあるが、25000の人の中に確かに僕も居た。

遡ること、僕が彼らの存在を意識し出したのは、特にジェリー・ガルシアの、あるいはグレイトフル・デッドの音楽に興味があったわけではないが、それはジェリーのバンジョープレイによるものだったかもしれない。

オールド・アンド・イン・ザ・ウエイで聴くことが出来る絶妙なタイミングのバンジョーは、まさに彼ならではの感がある。

また、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのヒット曲で演奏されたスティール・ギターも絶妙だ。

それくらいの知識と、サンフランシスコという土地に住んでいるというだけの流れに乗っかって彼らのコンサートには何十回も足を運んだ。

曲間に話すことはなく、前の曲が終わると同時に自然と次のイントロに入っていく。3時間もそのままだ。

前の方では5~600人のヒッピーたちが踊っている。座席には2000人もいるだろうか。そして、数百人が後ろの芝生でフリスビーをしたり犬と戯れたりして楽しんでいる。

そして会場の外には数千人のヒッピーたちがキャンプをしている。

ほとんどのコンサートで毎回そんな光景が繰り広げられていた。

会場には入れなくても、彼らの近くにいればもうそれでいい、という人達が世界中から集まってくるのだ。

僕がその文化の中心、ヘイト・アシュベリーのすぐ近くに住んでいたことは非常に幸運だったかもしれない。

近くのコーヒー・ショップでまだ始めたばかりのアイリッシュを演奏していると、グレイトフル・デッドのメンバーであったフィル・レッシュが聴きに来たりしていた。そんな日常もこの地区に住んでいたからこそ、だろう。

また、若いデッド・ヘッズたちにそんな話を聞かせてあげたいものだ。

だが、多分グレイトフル・デッドについても、ジェリー・ガルシアについても彼らの方が詳しいだろうな。

2016年 アイルランドの旅 1

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6月19日、いよいよアイルランドに向けて、暑い日本と暫しの別れを告げた。今回もアブダビを経由してダブリンに着く予定だ。

フライトも快適、といえども多少揺れたが、これくらいの揺れは空気の中を飛んでいるのだから致し方ない、という程度のものだった。が、しかし「飛行機大好き」という人の気持ちがわからない。

僕はあくまで外観が好きだったのでしょっちゅうプラモデルを作っていたのだ。まぁ時代のせいもあってか、零戦、隼、紫電改などの戦闘機をはじめとして、ドイツ、イギリス、アメリカの飛行機はよく作ったものだ。

だいぶ前に、久々に零戦を作りたいなと思い購入してみたが、最近のプラモデルはあまりにもよくできていて細かすぎるので、全然手つかずで置いたままだ。もう根気もなくなっているし、眼もよく見えないし、何事もあきらめるのが早くなっている。

それはともかくとして、問題なくダブリンに着いた。見たところ、なにも変わっていない。それは嬉しいことだ。

気温は18℃ということだが、今はお昼過ぎ。夕方になったらきっと寒くなってくるだろう。

僕らはそのままゴールウェイに向かった。この辺はもう慣れたもので、こちらも大した問題もなく2時間半ほどで到着。

今回のゴールウェイ滞在は短い。和カフェのオーナーである早川さんに会うのが目的だ。

ぼくら三人は去年の出来事以来、説明のつかない深い絆で結ばれているような気がする。

3日ほどゴールウェイに滞在して早川さんの車でダブリンに向かった。少し用事を済ませて、ラーメンなんかを食べてしまった。

84年にニューヨークでラーメンが結構なブームになり、ラーメン屋さんに入ったことを思い出した。

ナターシャー・セブンのファンの男の子が働いていてサインをお願いされたことがある。

今はそんなことはないが、ラーメンに関してはヨーロッパの他の国で結構流行っていて、それが今、じわじわとアイルランドに来つつあるらしい。

そういえば、先の話に戻るが、和カフェで早川さんとお話をしていたら、日本人の若者が入ってきて「あ、城田さん、内藤さん」とびっくりした様子で直立不動のまま固まってしまった。

なんでも、アイリッシュ・ミュージックが大好きでギターを弾いている、ということだが、初めての海外旅行でアイルランドに来てしまったという。

本場の空気に触れたいという彼は、その行動力と音楽に対する感性でいいギタリストになるに違いない。

古い録音をいっぱい聴いて、機会があったらまたアイルランドに出向いて、独自のスタイルを創って欲しいものだ。

最初の数日はこんな風に過ごし、僕らは今回来たことのないところに来ている。

Muine BheagというCo.Carlowの小さな町だ。

先日来日したCiaran Somersに幾つかのギグをセッティングしてもらっているので、彼に会うためにここに来ているが、これはまた何もないところだ。

とことんトラッド・アイリッシュを肌で感じることができる。

着いてすぐになんだかよくわからないけど、誰かのバースディ・パーティに出かけた。

どこをどう走ったのか、山道を延々と抜けて着いたところは人里離れたようなパブ。

Ciaranと三人で少し演奏しただけで、山のようなサンドイッチや、じゃがいも、ソーセージ、それに勿論ギネス。

まだまだ時差ぼけも抜け切れていない身にとってはなかなかにきつい。やっぱり酒飲みにはこの国はいいだろうなぁ。

10時に出て1時間で帰ると言っていたが、結局パブを出たのが1時過ぎだった。

アイリッシュの見積もりはあてにならない。普段きっちりしている好青年のCiaranでもリラックスするとこんな感じだ。

しかし、このアバウトなところが彼らの、そして彼らの音楽の素晴らしさでもあるのだろう。

ここで全く別な話で申し訳ないが、今日ラルフ・スタンレーの訃報を聞いた。僕が最も好きなブルーグラス「スタンレー・ブラザース」はこれでふたりともいなくなってしまった。

いま、このCarlowの深い緑を見ていて、山々に囲まれた緑のVirginiaを歌い続けてきたスタンレー兄弟に改めて思いを馳せている。

2016年 アイルランドの旅 2

アイルランドに到着して5日目。やっとまともな時間に目が覚めたようだ。

今日も外はどんより曇って寒々としている。まだ夏はやってきていないのだろうが、やっと来たかと思っても1ヶ月ほどで終わってしまう。

しかし、湿度は新聞で見る限り、昨日などは70%以上あったのに楽器の鳴り方が異常にいい。

建物のせいだろう。特にここ、キアランの家は広々として基本コンクリート造だし、周りはどこまでも広がる緑だし。周りは気分的なものだろうが…。

よく、練習はできるだけ響かないところでやったほうが良い、ともいうが、これだけ「いい音」というものを感じると自分自身が楽しめると思う。

確かに自分の技術の範囲をだいたいわかっているのなら、いい響きの所で弾いたほうが面白さを感じることができるだろう。

いわゆる「思わずのってしまった」みたいな。もちろん脱線もあるのだろうが音楽はそのほうが面白い時もあるし、そういう音楽もある。

とかなんとか云って、音楽に関わってからたかだか60数年。人の一生からすると確かに短い時間ではないが、文章ではいくらでも偉そうなことが言える。特に今の世の中、そんな奴が多すぎるから気をつけなくては。

おっと、年寄りの愚痴が始まりそうなので、ちょっと外でも散歩してこようか。

 

久々にパディ・キーナンのFactory Girl を聴いて「おー、コンサートではこれに2番からギターを乗せて、キーを変えて確かMan of the Houseに行ったなぁ」などということを想い出した。

そこで、iTunesで流れるものにギターを乗せていたら、それを動画で録音していた希花が早々とパディに送っていた。すごい世の中になったものだ。

すぐパディから返事が来た。「今日、ニュー・ハンプシャーにフランキーが来ているから見に行くつもりでいる。動画は後で見るよ」

慌てて「そんなにシリアスなもんではないから見なくてもいいものだ」と伝えてもらった。

ふと壁に目をやると、Matt MolloyとSean KeanのContentment is Wealthというアルバムのジャケットが飾ってあるが、同じタイトルのアルバムをアンドリューもリリースしているし、これはEmのジグだ。「たしかこういうメロディだった」

など、ここには多くの資料もあるし、探し出せばいろんな曲を掘り起こすチャンスも出てくるだろう。

午後、天気も良くなったので、キアランと一緒にキルケニーに出かけた。ここはマーブル・ストーンで有名らしい。

そういえばCarrickfergusという歌の2番にこの町の名前が出て、マーブル・ストーンという歌詞につながっていく。

歌の歌詞や曲名からその町を見ていくのも面白い。

キルケニーから戻ってしばらくして、パディからフランキーのソロステージの様子がビデオで送られてきた。パディは自撮りで美味しそうにギネスを飲んでいた。

 

6月26日。昨夜、期限切れのソーセージをキアランが捨てようとしていたので「いや、これくらいならまだいけるだろう」と保存を促した手前上、みんなが寝ている間に12本全てをクックしてみた。

それから保存するなり、細かくしてパスタにいれるなりすればいいだろうと思ったからだ。

しかし、そこはやっぱりみんなに食べさせる前に自分が食べてみなければいけない。犠牲になるのは一人で十分だ。

本当はその行程を昨夜から考えていた。やっぱり料理がすきなのかもしれない。食べ物にはあまり執着がないのに、こういうことは大好きなのだ。

かくして、立派にクックされたソーセージは普通に食べられるので、後でナポリタンもどきでも作ってみるか。

もし、2016年アイルランドの旅がここで終わっていたら、ソーセージのせいだと思ってください。

2016年 アイルランドの旅 3

まだ生きています。

今日は、アイルランド対フランスのサッカーの試合をテレビで見て過ごした。普段サッカーなどには興味がないものの、一応建前でアイルランドの応援をしていたが2−1で負けてしまった。

天気も良くなったので、ちょっと買い物に出かけた。

川のほとりに鴨や白鳥が憩う最高のロケーションであった。

ところで忘れていたが、ソーセージはキアランも食べたが、彼曰く、味がやっぱり違うそうだ。

僕らにはあまり馴染みのないタイプのものだし、彼の意見のほうが正しいかもしれない。

ここで、じゃがいもとアップルパイに次いで、ソーセージの違いがわかる男が登場したわけだ。

おかげで残りのソーセージは敢えなく屑かご行きとなった。だから三人ともまだ生きているのかな。

夜になり、普通なら暗くなっている時間だが、まだ例によって明るい9時頃、町まで歩いて飲みに行く話がまとまり、外へ出た。

ここからはさくさく歩いて20分ほど。ちょうどいい距離だ。

なにもない「奥の細道」のような道路が唯一町へ出ることのできる比較的安全な道だが、結構せまい。車はこんな道を100キロほどのスピードで行き交うので、帰りのことも考え、ライトに光るジャケットを羽織って変な組み合わせの三人が一列になって歩く。

途中、道がさらに細くなるので、その区間は広い墓場を横切るのが通常の行き方らしい。

サマーズ家代々のお墓に挨拶して墓場を出ると、少しだけ歩道のある道が続く。

やぎの子供達が佇んでいる。普段はやぎのチーズの香りが漂ってくるらしいが、今日はあまり匂わない、ということで僕としては助かった。強い香りのするチーズは苦手なのだ。

しかし、やぎの子供達はかわいい。6〜7匹が一目散に駆け寄ってくる。何を言っているのかわからないが、メ〜メ〜言っている。

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しばし相手をしていたせいか30分ほどで町に到着。お昼はゲームがあったので、さぞにぎやかだったろうが、まだそれでも多くの人が飲んでいる。

小さい町だ。みんながキアランのことは知っているし、キアランも彼らのことは知っている。

あまり飲めない僕にとっては、こうして毎晩のように集まって飲む、という行為がわからないが、これは明らかにこの国の文化だ。

キアランのように、普段からあんまり酒、酒と言わない男でもあっという間に1〜2パイントは終わらせてしまう。そして決まり切ったセリフのように、もう一軒行こうなどと言う。

決して酔った勢いとか、もっと飲みたいから、とかいうのではなさそうだ。

それでも彼、明日の朝は早く出掛ける用事があるので早々と11時頃に二軒目の店を出て帰路に就いた。

西の空がまだほんのり明るい。やぎももう寝ているようだった。暗くなった墓場も広いせいかあまり怖くない。日本のお墓の方が怖いような気がするのは日本人だからだろうか。

この時間になると蛍光ジャケットは効力を発揮する。墓場を出てまたしばらく細い道を歩くと、やぎと遊んでいたわけでもないが足元がおぼつかなかったせいか、30分で家に着いた。

家に着いたら「ワイン飲むか?」というキアラン。どこまで強いんだろう。

一夜明けて朝8時。キアランがシャワーを浴びている。8時半に出ると言っていたのでほぼ時間通りだ。

この男はアイルランド人には珍しく時間に関する観念がしっかりしているようだ。

ちなみに6月27日、カーロー。素晴らしくいい天気だ。

2016年 アイルランドの旅 4

カウンティ・カーローの小さな町に来てから約1週間。すっきり晴れた日はまだ1日しかない。

だが、生い繁る緑に雨が降り注ぎ、遠くに見える丘が美しく、風にそよぐ木々から落ちる水滴がキラキラと光る。

やはり、都会の雨では味わえない趣がある。

昨日は地元の高校生たちの演奏を聴いた。キアランの生徒さんたちだ。

アイルランドのどこでもそうだが、普通に実直なトラッドを演奏する子供たちの表情がとてもいい。

いかにも音楽が特別なものではなく、生活の一部であるということを否応なく感じてしまうのだ。

しばし彼らと紅茶を飲み、マフィンやスコーンをいただいて歓談し、家に帰ってきたらキアラン君がパスタを作ってくれる、と言い出した。

連日の仕事で疲れているだろうに、やる気満々なのでそのままお願いした。

出来上がったパスタは素晴らしく美味しかった。

ギリシャヨーグルトを使ったクリームパスタだ。トマトや玉ねぎ、セロリがふんだんに入った実に味わいのあるもの。レストランで12ユーロは取れるくらいのもので実に満足した。

それから少しお茶を飲んでいたら、カウチに座ったキアラン君から寝息が聞こえてきたので、僕らも少し休むことにした。

ここで急にキアラン君と、君付けにしてよび出したが、彼の兄貴であるデクランは、日本人でも知らない言葉を知っているくらいに日本語が堪能な人物だ。その彼が「キアラン君」と呼んでいたのでいつしか僕らもそう呼ぶようになっている。なので、時々君付けだったりそうでなかったりすると思うがお許しあれ。

今日はもう6月も終わるので、庭の手入れを手伝った。ここの庭は相当広い。都会で育っている僕らにしてみれば手入れはかなり大変な作業となることは間違いない。

ほとんど電動だが、刈り上げたものを捨てる作業は手動でやらなければならない。

キアラン君が芝や木々を刈り上げ、希花がそれを熊手で集め、僕が裏山に捨てに行く、というトリオ編成で行った。

時々芝刈りを交代したり、希花が裏山に捨てに行ったりした。

9時過ぎに作業を終えたが、まだサンサンと陽の光が降り注いでいる。ただでさえも労働の後のビールは美味いだろうが、こう明るかったらやっぱりどこかへ出かけて飲もうというはなしになってしまう。

が、しかし彼らにとっては特別なことではない。

街まで出ると、まだ早いのか、バーには5〜6人のお客さんしかいなかった。なかには推定80代後半と思えるお婆さんもいる。

10時半も過ぎるといつのまにかカウンターが埋まってきて、座りきれない人たちも立ち話に興じる。

これは明らかに文化だ。

日本で例えて言うならば、というような事柄が見つからない。

11時半、パブを出るとやはり西の空はまだ明るい。

夏はすぐそこまでやってきているのだろうが、とてもそうとは思えないくらいに寒い。

パブはもう賑わっている。その賑わいを後に帰路についた。

2016年 アイルランドの旅 5

6月最後の日は1日雨。用事でリムリックとエニスに出かけたが、ほとんど雨の中だった。

7月に入って、朝よく晴れていたが、10時近くになってきたらまた雨が降っている。でもどうせすぐまた止むかもしれない。ありゃ、大雨が降ってきた。あ、急にサンサンと陽が輝いてきた。

天気図も晴れと雨と曇りが一応全部書いてあるし、必ず当たる様に出来ている。アイルランドで天気のことや一年先のことを言うのはナンセンスだ。一寸先は闇か天国か…。

そう思ったら、確かに少なくとも1日の終わりにはギネスでも飲んで、友と語らいに興じたほうが幸せだ。

う〜ん、段々分かってきたぞ。

そういえば面白いことがあった。

「郵便局が閉まる前に行かなくちゃ」と言って振り向いて壁にかかっている時計を見たキアラン君。

だが、その時計、僕たちがここに来た時から止まったままだ。いつから止まっているのかわからないが、時々見ている。

なにか違いがあるのだろうか。謎多きアイルランド人。

因みに今は晴れているので、ミルタウン・マルベイに行く前にまた三人で庭の手入れをする予定になっているが、またいつ降り出すか分からない。

記憶によると、アイルランドの雨は前兆もなにもないことがよくある。

案の定、降ったり止んだりの中で数回にわたって「ティー・タイム」を設けて一応全部済ませた。

これで安心してミルタウンに行ける。

そしてその晩、キアランは地元のミュージシャンたちとのセッション、僕らはホテルでの演奏のギグに出かけた。

この辺で最もファンシーで有名なホテルで、ウィークエンドには必ず結婚パーティが開かれて、レストランもパブも相当賑わうらしいが、今日は比較的静かだった。かえってそのほうがやりやすい。

僕らはそこで2時間ほど演奏して12時頃戻って来た。

やがてセッションを終えたキアランが数人の友達を連れて帰ってきた。見れば普通のおっさんや若者だが、みんなティン・ホイスル、コンサルティナ、バンジョーなど、それこそ普通に演奏する。

そして飲みまくって演奏しまくって帰って行ったのが3時半過ぎ。

明後日にはミルタウン・マルベイに行かなければいけないのに。早起きして用意しようと思っていたのに…と思いながら眠りについた。

外はもう明るかった。

2016年 アイルランドの旅 6 ミルタウン・マルベイ

7月3日、日曜日、いざミルタウン・マルベイ(以下、ミルタウンと省略)に向けて出発。信じられないほどの快晴だ。

途中、バラク・オバマ・プラザという所で軽く食事。ここはオバマ大統領に所縁のある土地らしい。因みにCo.OffelyのMoneygallという所からオバマ大統領の6代祖先がアメリカに移住した、という事実があり、ちょうどCo.Offelyの入り口辺りに位置するドライブインということだ。

様々なファストフード店が並んでいる様子はアメリカでのツァーを彷彿とさせる。決まり切ったハンバーガーやピザの匂い。

来る日も来る日もパディやフランキーと顔を突き合わせ、またこの匂いか、と思ったものだ。

そのときも、ここにうどんやラーメンがあったらなぁとつぶやいていた。

こういうところで一番お得感があって間違いないのはToday’s Soupかもしれない。パンも必ずついているし、アイルランドで美味しくないスープに出会ったことはない…いや、一度あったか。

ダブリンの、普通に高めの値段のレストランで頼んだスープは全く味がしなかった。なにか調味料を入れ忘れたのかな、という感じ。

いやいや、一説によると、テーブルに塩や胡椒が置いてあるのはそのためらしい。基本は作ったから後は自分の好きな味に調整してくれ、ということだ。

そんな常識がまかり通るところもまた面白い。「出汁」という観念は全くなさそうだ。

ともあれ、ここのスープはなかなかに美味しかった。満足。

さて、今日はミルタウンでの大事な仕事が控えている。

CDラウンチに参加して、キアランがEire Japanの紹介を、そしてなんと(何故か)僕がキアランのCDの紹介をするのだ。

それも、きちんと設けられた席で5分以内のスピーチを、オーディエンスに対してしなければならない。

これは寿司をつくるためのレクチャーではありません。といってまず笑いを取り、初めて彼の演奏を他のCDで聴いたときの衝撃、本人との出会いのことなどを話して今回の新しいアルバムの話につなげて行って、最後は「これからの人生のパートナーとして是非このアルバムを」と締めくくって終わった。

後でいろんな人から「いいスピーチだった」と言われたけど、なんだかよく覚えていないくらい汗びっしょりだった。

ただ、他にも沢山(20人くらいだったかな)喋ったけど、もちろんみんな英語が達者で、僕のときにはみんなが本当に注意深く、また、興味深い表情で聞いてくれ、最後に「Please get this album for your life partner」と言った途端にさわやかな笑いと拍手が起こったのは覚えている。

会場ではアンドリュー、ミック・モロニー、キャサリン・マカボイ等と再会。緊張したけど楽しいひと時だった。

7月4日、小雨。なのにアパートの向かいのグローサリーのおばちゃんが野菜や果物を外に並べている。

もうしわけ程度のテントはあるものの役には立たないだろう。ま、いいや。そのうち晴れるだろう。

街角で獲れたての鯖を売っているおっさんもいる。モリー・マローンのおっさん版。

お昼になると教室から戻った子供達が街角のいたるところで演奏を始める。4歳くらいから高校生まで。10メートル間隔くらいでおのおの習ってきた曲を演奏しているが、初心者からとても子供と思えない演奏をする子までが街中に溢れている。

このフェスティバルはそういう子供達のためのもの、という認識をある程度持っていないといけないのかもしれない。

ケビン・グラッケンやジェリー・フィドル・オコーナー等とも再会。

夜になるとあちらこちらのパブからいろんな音が聴こえて来る。しばらくはゆっくり休もうと思っていたが、向かいの閉店したグローサリーの前で4〜5人の演奏が始まった。

時間は深夜12時。それが、この世のものとも思えないひどいバンドだった。リズムボックスを鳴らし、バウロンを叩き、エレキ・ベースとマンドリン、時々しかメロディー(らしきもの)がわからない、メチャクチャに吹いているホイスル。そんな奴らにも立ち止まって聴いている、あるいは拍手までしている人がいるのだ。

ストリートで演奏することの無意味さを感じずにはいられない。2時になってやっとその苦しみから解放された。

7月5日、晴れ。今日は7時からRTEのラジオ番組に出演する。そのためにキアラン君と3人で向かっていると、向こうから見た顔が歩いてきた。杖をつき、誰かに介護されているようだったが、すぐに誰かわかった。

「トニー、トニー・マクマホン?」と声をかけると、やにわに「ジュンジ」とハグをしてくれた。

13年ぶりだろうか。今回、ミルタウンに来て本当に良かったことのひとつかもしれない。

「もう、演奏はできない」という彼に「あなたの音楽はいつまでもみんなの胸のなかに残っているよ」と言うと「うん、ハートはまだあるんだ」とにっこりしてうなづいていた。

ラジオではキアラン君があまり喋り慣れないゲール語で話し、パーソナリティもゲール語だけで話し、僕らはちんぷんかん。

2曲演奏している間にも外をニーブ・パーソンズが、メアリー・バーガンが歩きながら手を振る。

無事終わって一杯ギネスを。キアラン君は2杯でも3杯でもいける。

12時、またしてもひどいものが聴こえて来る。たちが悪いことに、たまに何の曲をやりたいのかがわかるのだ。

もとから即興でなにか違うものをやっているのならともかく「ありゃ、この曲だったのか」と思うとまたとんでもないへんてこなものになる。

4〜5人いてまともなのはリズムボックスだけ、というけったいな現象だ。

7月6日、曇り。今日もRTEのラジオ出演。

特に変わったこともなく、キアラン君と飲んで、いろんな人と会って喋って夜中にひどいものを聴かされて1日が終わる。

7月7日、晴れ。朝、スパニッシュポイントまで片道30分ほどを散歩。朝に弱い希花もしぶしぶ付いてきたけど、馬、羊、牛などを見ながら少しは機嫌がよさそうだった。

海辺にボビー・ケイシーの娘さんが住んでいる家がある。

素晴らしいビーチの風に当たってしばしくつろぐ。

そして、今日はゴールウェイから和カフェの芳美さん(早川さん)がやってくる。なんでも、こちらの方面に雲丹を採りに来るらしいのだ。ついでだから来て泊まっちゃおうかな、というので是非そうしてください、と返事した。

実は去年以来、この日には3人が揃わなければいけないような理由があるのだ。あのゴールウェイでの出来事で3人が経験したことは人生における最も貴重なことだった。

本人からもあれから1年、という感謝のメールが入っていた。しかしちょうどこの日にミルタウンに居て、芳美さんもこちらの方面に出向いて3人が揃う、というのも不思議なものだ。

キアラン君とも初めて出会って意気投合。また飲んで過ごした。途中ジョセフィン・マーシュからテキスト「アンジェリーナ・カーベリーとセッションしているから良かったら来て」という。喜んで出かけた。

セッションをしているその場所のちょっと外になっているところにツバメの巣があって、3匹くらいの子供が口を開けてお母さんが餌を運んでくるのを待っている。お母さんは大忙し。そんな光景を見ながらのセッション。うん、素晴らしい。

最後に「Anna Foxe」を一緒に演奏してパブを後にした。11時半くらいかな。外でコーマック・ベグリーやノエル・ヒルとも出会う。

夜中のひどいバンドはどこかへ消えたのだろうか。今日は居なかった。芳美さんラッキー。

7月8日、降ったり止んだり。芳美さんはゴールウェイに戻った。

夜、アンドリューと大騒ぎ。セッションとパブの飲み歩き。もうハチャメチャで帰ったのが1時半。比較的早かったんではないだろうか。アンドリューは4時半くらいだったらしい。

7月9日、快晴。夕方カーローに向けて出発。

その前にキアラン君がスパニッシュポイントやラ・ヒンチに連れて行ってくれた。海辺でランチを済ませ、カーローに着いたのが9時半くらい。

この上なく静かだ。

この約1週間、いろんな人に再会できたのも、芳美さんと7月7日を過ごせたのも全てキアラン君のおかげだ。

彼に感謝。みんなが元気でいてくれたことにも感謝。とても有意義ないい1週間だった。

忘れていたが、ここで一番よく入ったレストランの名前が「コーガンズ」。なんという名前だろうか。キアラン君に日本語では「コウガン」という、と教えたら大喜びしていた。

2016年 アイルランドの旅 7

カウンティ・カーロー。寒くて夜になるとストーブを焚いているが、今頃日本では大変な暑さになっていることだろう

静かな夜。10時過ぎに暗くなってくると雲の切れ目から月が顔を出す。もう近くの牛や羊も寝ているだろうか。

永 六輔さんの訃報を聞いたのはそんな景色の中だった。

永さんと初めて会ったのは、まだ彼が39か40歳くらいの時だったと思うと今更ながら驚いてしまう。

僕はあまり長い文章で「こんなことも、あんなこともありました…」なんて書く気はない。

なので、ただただこのアイルランドからお悔やみの言葉と、ありがとうの言葉を贈りたい。

明日からは2日間だけCo.Sligoに出かけるかもしれないがまだ決めていない。

いろいろやることがいっぱいあるが、とりあえず生かされている以上、一生懸命前を、そして上を向いていくしかない。

ここではまるで時間が止まったような感覚があるが、それだけに一見たっぷりありそうな時間を有意義に過ごしてみよう。

2016年 アイルランドの旅 8  タバカリー スライゴー

カウンティ・カーロー、曇り。ここから約250km離れたカウンティ・スライゴーのタバカリーという町に出かける。

明日には戻らなくてはいけないので大忙しだ。

前回の7では行くかもしれない、ということを書いたが、結局キアランとの演奏が入り、急遽行かなければいけないこととなった。

いろんな街を抜け、途中Roscommonで食事をし、7時頃タバカリーに着いた。キルケニーでちょっとした用事を済ませたり、スライゴーに入る前に美しい虹を見てしばし見とれたりしていたので、全行程5時間ほどかかった。

その虹は、おそらくいままでに見たものの中でいちばん美しかったかもしれない。

緑の大地、少しの太陽が光っている雲の上を、空全体に綺麗な弧を描き、全ての色がまるで濃い絵の具で描いたように綺麗に浮き出ていた。

きっと雨上がり、極上に綺麗な空気に包まれていたのだろう。これだけでも十分来たかいがあったぐらいだ。

町について演奏場所に出かける。9時過ぎからなので十分時間はある。いくつかのパブでコーヒーなどを飲み、ちょっと寄り道もしたが、とても小さい町なので急ぐこともない。それに行き着くところアイリッシュタイムだ。

オシーン・マクディアマダやリズとイボンヌのケイン姉妹も一緒だ。

僕らは3セットほど3人で演奏した。

そしてここではもうひとつ再会の喜びがあった。

2014年に出会ったバンジョー弾きの少年が、今年はタバカリーに来ているのでミルタウンには行かない。どこかで会えたら嬉しい、と少し前にメールをくれていた。

その時はまだタバカリーに行く事は考えていなかったので今年は会えないかな、と思っていたが、僕らの演奏の会場に来てくれたのだ。

2年前は小さな少年だったが、会ったら分かるだろうか。いや、少なくとも向こうは分かるだろうし問題ないだろう。

オシーンの演奏をドア越しに見ているとお客さんの中の一人の少年が恥ずかしそうにこっちを見てにっこり微笑んでいる。彼だ。

13歳から15歳。すっかり大きくなった彼がいる。

演奏を終えてすぐ、控え室に来てくれた彼はもう少しだけ見上げるくらいに成長していた。

お父さんも嬉しそうに横にいた。

ところでこの2年間、彼の名前が「リアム」だと思っていたが実はお父さんが「リアム」で少年は「ダラウ」という名前だと初めて知った。

いままでずっと少年だと思ってテキストを送っていた。そんな話も交えて、夜どこかでセッションをしよう、という話になり、彼らと落ち合った。

町のメインストリートは、ほんの200メートルほどだ。

その中にいくつものパブがある。

その一箇所で初心者から中級者まで、他のメンバーもいたが、彼と演奏する事ができた。

いちばん嬉しそうだったのは彼のお父さん、リアム。彼は終始恥ずかしそうにニコニコしていた。

彼のような子には本当にいい伴奏者が付いていれば、もっともっと成長することができるだろう。そんなことを一番よくわかっているのはひょっとしてお父さんかもしれない。

是非、僕らの町に来て一緒に演奏してほしいと、強く言われた。実現するかわからないけど、すごく熱心な父親だ。今年は無理でも次の機会を見つけて何日か一緒に過ごしてみたいものだ。

ともあれ、まだまだこれからが楽しみだ。

宿泊場所に戻ったのが2時45分くらい。ギネスでお腹がいっぱい。ま、アイルランドでは良くある現象だ。

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2016年 アイルランドの旅 9

7月14日。京都では祇園祭が始まろうとしているのかな。蒸し暑い円山音楽堂が懐かしい。

ここ、カーローは快晴。気温は少し高めの22℃。

朝から芝刈り機を動かして、裏庭の大掃除をして大忙し。

なかなか日本では考えられないくらいの広さがあるので、これを一人でやっていたら大変だろう。

そう考えると少しはヘルプになるかな。「田舎に泊まろう」みたいなものだ。

しかし、今日はキアラン君のグループ「パイパーズ・ユニオン」のコンサートがキルケニーである。

なのでキアラン君、考えなくてはいけない事、やらなくてはいけない事が頭の中をぐるぐるしているようだ。

メンバーはキアラン君のフルート、イーリアン・パイプス、他にデビッド・パワーがイーリアン・パイプスやホイッスル、ちょっとマンドリン、それからドーナル・クランシーがギター、ブズーキ、ボーカルだ。

ドーナルは僕が4年前のコラムで「アイリッシュミュージックに於けるギタープレイの真髄」という項目を書いたときに影響を受けたギタリストとして名を挙げている人物だ。

先日タバカリーで、ある若者が「君のギターはドーナル・クランシーを思い浮かべるプレイだな」と言っていた。

「会ったことないけど明後日、初めて会うことになっている」と答えたが、この時に彼の名前が出るとは。とても不思議な感じがした。

さて、コンサートが始まる少し前からお決まりの雨。あれだけいい天気だったのに、と思うが誰も気にしていないようだ。

会場はキルケニーでも1、2を争うホテルの中にあるすばらしい作りの、日本で言えばライブ・ラウンジといったところだろうか。

ぼくらは受付を手伝った。最後のほうにゲスト出演も頼まれている。

日本とはシステムも違うし、みんな考えているようでぜんぜん“あちゃらか”だし、金の絡んだことなのでもうちょっときちんとできないのかなぁと、ついついぼやいてしまうが、なかなか面白い経験だ。

そういえば最近の(僕らが知らなかっただけかもしれないが)アイルランドではお釣りは四捨五入だと聞いた。なので、多くもらえたり少なかったりすることがある。

これはもちろんスーパーのレジなどでの小銭の話だが。そんなところもとてもアバウトな国だ。

コンサートは、三人が歌もコーラスも演奏も、それぞれの持ち味を生かして、なかなかアレンジも決まっていた。

いい組み合わせだ。イーリアン・パイプスを二つ使うというのもあまり無いことで面白い。ドーナルのギタープレイも思った通り素晴らしい。歌も親父さんゆずりでとても良かった。

最後に3曲、バンジョーとフィドルでゲスト出演して締めくくり。

終了したのがほぼ11時。始まりは8:30となっていたが、ここも例によって9:00。お客さんはここでも結構飲んでいるが、またこれからパブにでも行くのだろう。

今日のところはデビッドとドーナルとは別れ、静かな家に戻って、アメリカのユタ州から来ているマークというパイパーと1時間ほどビールやブランデーを飲んで語らいの時を過ごした。

 

2016年 アイルランドの旅 10

7月も後半に入ろうとしている。今日からキアラン君はブリタニーに向けて旅立つ。

数日前からその用意で大忙し。というか“ワクワク”なのだ。今回は彼の面白い行動を書いて終わりそうだが、本人はいたって真面目だ。いや、だから面白いのかも。

やらなくてはいけない事を紙に書き出して「これでオーケー」と大満足したが、前日の朝に「どれが済んだ?」と訊いたら14項目のうちの2つくらいなのだ。

4日ほど前に書き出したのだが、キャンプをしたいからと言って、6年も出していないテントを引っ張り出してきて庭に張ってみたりしているのだ。

6年も出していないのだから一応隅々まで見てみないといけないことは確かだ。

もちろんギグで行くのだから泊まる所はあるが、時間が多少あるので外で寝たいそうだ。

めでたくなんの問題もなく張れたテントを嬉しそうに眺め「ちょっと来て寝てみろ。いいだろう。ワクワク」
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車の中、マットなどを引っ張り出して大掃除。

コインや食べ物のかす。わけのわからない紙切れの数々。掃除機を出してきて、ぼくらも手伝って大掃除。

希花さん曰く「どうせまたこんなんになるのに。意味無くない?」本人は「おー、綺麗になった。ワクワク」

なんだか布団を引っ張り出してきて「見て見て。雨がふったらこうして車の中でも寝れるんだ。ワクワク」

他にもやることがいっぱいあるだろうに嬉しくて仕方ない様子だ。

とはいえ、9時過ぎても日本の夕方くらいに明るいので時間はいくらでもあるような感じがするのだろう。

実際、飲みに行こうか、というのも10時過ぎくらいからだ。この立て込んだ時でも「町まで行っていっぱいやろうか」というので「いや、君には時間がない」というと「あ、そうだった」と言ってなんだかまたごそごそ動き回っている。

「ちょっと見てくれ。こんないいものがあるんだ」と言って持ってきたのは、ごく普通の両面テープ。

「ここを切ってまず貼ってからこうやって剥がす。素晴らしいだろ。ワクワク」

「そんなもの100円ショップ行きゃ腐るほどある」というとさすがにがっかりしたのか、すぐにしまっていた。なんとも可愛いところがある。

前日(18日)に彼の友人の母親が亡くなったのでそのお葬式があった。彼も友人たちと、音楽で故人を見送ったようだ。

全てが終わった後、友人たちを家によんで紅茶をのみながらしばし時を過ごした。

こんなに忙しい時でも時間を気にしている様子も無く、みんなと一緒の時を大切にする。事が事だけに尚更そうだが、どんな時にでも友人や家族との時間を大切にするのは素晴らしい事だ。

だからどんなに忙しい時でもパブに行って飲む時間だけは作るのだろう。そこには必ず友人たちとの語らいの時があるのだ。

それは彼らにとって、いや、ひょっとしたら僕らにとっても、何ものにも代え難い大切なものなのかもしれない。

かくして、車への積み込みは昨夜行うつもりがこれから。まだ寝ているけど大丈夫だろうか。

そういえばこんなことも言っていた「明日は出かける前に美味しい昼飯を作るぞ。ワクワク」実際けっこう料理好きらしく、なかなか素晴らしいパスタを作ってくれるのだが、いかんせん時間が…。

昨夜も2時近くまでソワソワあっちいったりこっちいったり。

「新しいブレットンの曲を覚えなくちゃ。全くどこも同じようなメロディで困っちゃうよ。ワクワク」

もう心はブリタニー。なんだか可愛らしい。お、シャワーを浴びている。良かった、起きたようだ。

 

2016年 アイルランドの旅 11

キアラン君、無事ブリタニーに着いたらしく、ワインで乾杯の写真をフェイスブックで確認することができた。

最も、その前からワクワクメールがフェリーを降りた直後くらいから数回送られてきていたが。

彼はこのところブリタニーの音楽を盛んに取り入れているので、どうしてもその音楽が生まれた背景を肌で感じたいのだろう。

テントを持って行ったり、自転車を持って行ったりワクワクしているのはそんな気持ちの表れなんだろう。

40歳手前、これからもいい音楽をたくさん演奏していくことだろう。そういえば、12月に一ヶ月くらい日本にやってくるのだ。

みなさん、よろしくお願いします。

さて、昨日、彼の友人のバンジョー弾きであるジョンが突然やってきて、なんととても新鮮な鮭と鱒を持ってきてくれた。

「君たち日本の人は魚が好きだろう?」といって結構大きいピースを僕に渡して、にこにこして帰って行った。

ジョンはテナー・バンジョーを弾く。プロのミュージシャンではないし、決してすごい腕ではないし、曲も多くは知らないが、なんともいい音を奏でる。

真面目に楽曲に取り組んでいるのがよく分かる。

先日、キアラン君がワクワク大忙しのときになぜかジョンひとりがキッチンでバンジョーを練習していた。

彼もすごく忙しかったらしい。例のお葬式があった日だ。やっと落ち着いて少し気も紛らわしかったのだろう。

僕も2階にいたのだが、ご機嫌なEileen Curranが聞こえてきたのでギターを持ってキッチンに降りた。

見るとワインを嗜みながら老眼鏡をかけて自分の作ったノートとにらめっこしている。

僕を見ると嬉しそうに「ワイン飲むか」とグラスを用意する。

僕もご相伴にあずかりながら「Eileen Curranいい曲だね。今はAmでやっていたけど多くの人はGmで演奏するよ」「へぇ、そうなんだ。でもGmは僕には難しいなぁ」なんていう会話をしながら次から次へと嬉しそうにいいペースで弾いている。「伴奏がいいと、こんなに弾きやすいもんなんだ。ワクワク」

こちらもワクワクおじさん。おっとキアラン君はまだお兄さんかな。ジョンは56歳。彼もキアラン君が日本にいる間に一週間ほど日本を訪れたいと言っているが、こんなに何もないところから、東京なんか行って大丈夫だろうか。

そんなジョンが持ってきてくれた鮭をまず、こんがり焼いて鮭茶漬けにしていただいた。

日本人にしか分からない至福のひと時かもしれない。明日は鱒をムニエルにでもしようかな。

2016年 アイルランドの旅 12

7月下旬、Muine Bheag Co.Carlow今日もなかなかにいい天気のようだ。この様子だと25℃くらいにはなりそうだ。

昨夜も時おり霧雨のようなものが降っていた。この国が緑で覆われているのは、どんなにいい天気でもサーッと通り雨が降ることがよくあるからだろう。

毎日何気なく過ごしているが、この辺は空気が美味しい。

朝のコケコッコ〜で眼が覚めた後、広いキッチンでコーヒーを飲む。木立が美しく光っている。

どこからか野うさぎが出てきて庭で佇んでいる。

ロビンをはじめ、小鳥たちもなんかつついている。

晴れている日は、東からおもいきり陽の光が差し込んでいる。

もちろん日本でも経験できるものだが、大きく違うのは“時間が止まっている感覚”かもしれない。

アイルランド人特有の「2 seconds」「2 minuites」「~ish」に始まって、この人たちには、例えば9時から9時半までの間に存在する時間というものがないのだろうか、と思ってしまう。

そんなことは友人とパブで語らう“時”に比べたら大した問題ではないのだろう。

ここで正確な時計を見たのは放送局だけだった。どの家の時計もあらぬ時間をさしたまま止まっていることが多く、バスの車内の時計も飾る程のものでもないが、単なる飾りでしかない。

ある意味ここにいたらそれでいいような気もする。一大事でない限り時間に追われるのは楽しくない。

そういえばコケコッコ〜。この頃はあらぬ時間にも鳴いている。こちらもさすがにアイルランドの鶏。いや、因みに鶏はどこの鶏でもあまり時間に関係なくコケコッコ〜を発するらしい。

さて、最初に25℃くらいにはなりそうだ、と書いたが、ところがどっこいすっとこどっこい、今は寒いくらいだ。

何から何までアイルランド。

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2016年 アイルランドの旅 13

土曜日。今日はここから車で30分ほど北へ行った町、カーローで毎週開かれているフード・マーケットに連れて行ってもらった。

アイルランドのどこの景色とも同じように、またまた牛や羊を見ながら予定どおりカーローに着いた。

決して大きなマーケットではないが、オーガニックの野菜やスウィーツ、パン、はちみつ、ハーブ類、魚等いろいろある。

僕らはミックスサラダの大きなパックを買った。日本の半分以下の値段だが、オーガニックだし、ひょっとすると3分の1位の値段なのかもしれない。

あとは立派なネギ。九条ネギのような感じ。美味しそうな玉ねぎ。

オリーブオイルもなんだかすばらしそうだったが、買いすぎるのも何だし、やめておいた。

目を引いたのはスコーンやスウィーツを売っている屋台。(こんな書き方でいいのだろうか)

ここで特大のスコーンを2個と、これもなかなかに大きいピースのオレンジケーキとチョコレートケーキ、しめて6ユーロを購入。

日本ではこの大きなスコーンと紅茶で600円が妥当な値段だろう。

全てに材料費が高すぎるのかな。希花さんですら、アイルランドにいると気軽にお菓子でも作ってみようかな、と思うらしい。

つい先日もクッキーらしきものを焼いていたが「あー、先にオーブンをあっためりゃいいのに。あー、今のうちにそのボウルを洗っておけばいいのに」なんてついつい口に出しかけたが、怒られると困るのでやめておいた。

それでも出来上がりは上々。本人曰く、日本ではお金がかかりすぎて作る気にならないそうだ。

ともあれ、帰ってから早速サラダを食べてみたが、こんなに美味しいサラダを食べたのは初めて、というくらい美味しかった。

かくしてサラダの違いがわかる男の出現。

有意義な1日を過ごさせていただいたのは、なんと偶然にもこのCo.Carlowに、それも近くに住んでいるレイコさんのおかげ。

覚えておられる方もいるかもしれないが、パディ・キーナンが2010年に日本にやってきたときに東京のワークショップで通訳を担当してくれた女性。今はこのカーローでフェルトのお店を持ち、世界的に活躍している人だ。

2016年 アイルランドの旅 14

今日はバンジョー弾きのジョンがどこかに連れて行ってくれるらしい。

少し小雨が降っているが、さすがにジトジトした感じの雨ではないので、庭のウサギも同じところで佇んでいる。

時折ピョンと跳ねるが、その時、おしりのあたりが白くてとても可愛らしい。耳が綺麗にピースサインのようになっている。

そんなウサギの観察をしているとジョンが来てくれた。10時半。ほとんど正確だ。

今日はドライブがてら、友人のギター&バンジョー作りの工房につれていってくれるということだが、「連絡がつかないんだよねー」と言いながら走る。そしてまた走る。

ひたすら走ってカウンティ ウィックローに入る。景色がガラッと変わる。

実際、どこもかしこも緑、そして緑なのだが、ここはその緑の深さがまた違う。きれいにトンネル状アーチになった木立を抜けると、荒涼とした大地も見えてくる。

ジョンが「800年の終わりころバイキングがこの土地を開拓して町をつくったんだ。それから…」とニコニコしてこの土地の歴史のことを細かく説明してくれる。

この国では沢山の人が自分の生まれ育った場所以外についても、その歴史や文化のことをよく知っている。それとよく訊かれるのは日本の人口だ。

そのつど、あー正確に覚えておかなくちゃ、と思うのだがついつい忘れる。

途中、カフェでコーヒーをいただく。空もすっかり晴れ渡っている。晴れ男全開。

ところでここまで約2時間。すごい勢いで走り続けているが、友人とはまだ連絡が取れないらしい。

「たぶんバケーションにでも行っているんだろう」とのんびりしている。よくよく聞くと、別な道を通ればもっと早く彼の工房には行けるらしいが、僕らにウィックローの景色を見せてあげたかったらしく、遠回りをしたみたいだ。

終始にこにこしてバンジョーの話に夢中になったり、いろんな説明をしてくれるジョン。一緒にWicklow Hornpipeを歌う。

結局3時間くらいの行程で「またいつか来よう。今日はそれより家でバーベキューでもしようか。そして夜はセッションだ」

なんだかとても嬉しそう。

さて、ジョンの家だが。

素晴らしく広い緑に囲まれた、素晴らしいデザインの家。自分たちで建てたというがこの人のセンスがうかがわれるものだ。

裏庭ではポニーが草を食べているし、隣の家では緑の大平原のような広さの庭に羊たちがくつろいでいる。

ジョンの家も坪数にしたら…う〜ん、よくわからないけど800坪ではきかないだろう。庭に咲き乱れるラベンダーからもいい香りが漂っている。

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これだけ広大な土地にガラス張りの大きな部屋がいくつもあって、どこの部屋も綺麗にしてあって、時計も正確な時間を指していて(この人がいつも時間通りに現れる理由がわかった)等…それでいてとても質素な暮らしをしているようでどこまでも好感の持てる人だ。

肉や野菜が焼けるまでちょっと弾こうか、とバンジョーを出すジョン。今日は家族がみんな出かけているので、ひとりでバーベキューもバンジョーもこなす。

ワインを飲みながら、羊やポニーを見て、広大な緑と爽やかな風に当たって、すっかりできあがって、さぁセッションに出かける。

ジョンも飲む気満々で、タクシーを呼んで一路カーロー方面へ。僕らもさっぱりどこに連れて行かれるのか分からないけど、ここはジョンに任せるしかない。

着いたところは、ちょっと見、コミュニティーセンターっぽい見かけだが、中がパブになっていてそこにすでに数人の子供や大人がいた。

ここでは地元の子供達が集まってセッションをする場を提供しているようだ。もちろん大人も参加するのだが、子供達がなかなかに可愛い。

6歳くらいのアコーディオンを抱えた男の子や、そのお姉ちゃんらしき10歳くらいのフィドラーの女の子。フルートもいる。4歳くらいの女の子がハープをたどたどしく弾いた。

こんな風に、練習してきた曲を披露する場所があり、大人たちが「なんか弾いてごらん」と促すと、とまどいながらもジグやリールを弾き出す様はこの国独特の光景かもしれない。

3時間ほどここで過ごし、帰りのタクシーの中で「もう一軒セッションがあるけど行くか?」と言う。

そこは帰り道だからどちらでもいいよ、というが、こうなったら“のりかかったタクシー”だ。

もう一軒は僕らもキアラン君に紹介されてよく知っている人のパブ。どちらかというとシンギング・セッション。

おじさん、おじいさん、おばさん、おばあさん。その数7〜8人。

マギーという推定80歳くらい(間違っていたらごめんなさい)の女性が歌を歌う。朗朗と歌うその様は僕たちに、随分ディープな場所に来ている、ということを実感させてくれる。

いくつかのチューンも演奏したが歌の伴奏で5弦バンジョーも弾いた。なんとなくクランシー・ブラザースのようなサウンドに地元の人たちも大喜び。

久々にフォークソングのようなバンジョーを弾いた。

Inisheerで希花さんが一発入魂のフィドルプレイを披露すると、周りから感激の大拍手。

僕らもすっかり打ち解け、彼らともすっかりひとつのグループのように歌い、演奏して帰路についたのが12時頃。

帰りのタクシーにはマギーも乗り合わせたが、彼女と運転手の会話、英語だったようだが、なにを言っているのかひとつもわからない。

特にマギーのほうは独特なアクセントだ。それでもジョンにはわかるようなのでそれが不思議だ。当たり前か。

でも、僕は高橋竹山先生がなにを言っているのかよくわからなかったが。

とりあえず今日も無事に終わった。

14時間ほどの貴重な経験。ジョン、どうもありがとう。地元の子供達も大人たちもみんな素晴らしい笑顔でした。ありがとう。

2016年 アイルランドの旅 15

もうすぐ7月も終わる。日本では記録的な長梅雨だということを聞いた。

僕らは来週から、ゴールウェイ、フィークル、ブリタニーと出かけ、またカーローに戻り、そしてゴールウェイに戻り、とかなりあっちこっち動きまわる。

その間にエニス、コークなどにも会いたい人たちがいるが、予定をすり合わせてみても無理かもしれない。

ここでもずいぶんたくさんの人に良くしてもらった。たくさんの地元のミュージシャンとも知り合えた。

80年代、カーター・ファミリーと過ごしたバージニアの世界とこことは本当に共通したものがある。

だいぶ前(70年代だったかな)スタンレー・ブラザースがどんなところで育って、その環境が彼らの音楽にどれほどの影響を与えたか、というようなことをある本で読んだ。

ジョー・カーターと山へ山菜を採りに行き、谷間に群がるカラスにジョーが彼らの鳴き声を真似ると、みんなこちらに向かって一目散に飛んできた。

鬱蒼とした山路には、南北戦争の時代の薬莢や、先住民が残していっただろう石の道具のかけらなどが落ちていた。

そんな山歩きや、川での夕食用のなまず釣り。それはまるで、あの本で読んだスタンレー・ブラザースの生活と同じものだったかもしれない。

そして、それらはここでの生活とあまり変わりはない。

ましてや、一仕事終えてからの音楽は全く一緒だ。ただ、あそこでビールなどを飲んだ覚えがないが、それは彼らの宗教的なものだったのだろうか。

いずれにせよ、あまりにディープな世界に入ってしまうと、かえって「これはこの人たちの音楽なんだ」ということを明確に感じてしまう。

だからこそ、きちんと取り組みたいと思うのだ。

そんな気持ちを再び確認しながら、フィークルでの演奏に向かいたい。

今年はCD (Through The Wood) のラウンチをやらないか、という打診が主催者からあった。

あといくつかのセッションホストの仕事。またまた眠れない日が続きそう。

体調をしっかり整えておかなくちゃ。

昨日、ジョンがまた鮭を持ってきてくれた。鮭茶漬けを食べればまた元気百倍かな。

このカーローにも素晴らしい人たちがいた。

素晴らしいお仕事をされているレイコさんとそのお友達。2mは優にあるチェコから来ているお姉さん。オーストラリアから来て、沢山の車と動物とで、とんでもなく広い空き地みたいなところに居を構えるヒッピーのようなお姉さん。フランキー・ギャビンの近所で育ったという、何から何まで気配りの素晴らしいお兄さん。

元気いっぱい、親切いっぱいのジョンとその仲間たち。

僕らに演奏の場を与えてくれたホテルの支配人、ジェームス。

そして、キアラン君とそのご家族。

カーローは確かに人里離れたようなところかもしれないけど、ここには温かい人たちがいっぱいいました。

2016年 アイルランドの旅 16 フィークル

今年もフィークルにやってきた。相変わらずの景色が嬉しい。今日から2日間弟分のアンドリューと演奏する。

ここにある4つのパブのうち、一番奥(反対から来れば入り口)に存在する、ペパーズ。そこが今日のアンドリューとの演奏場所だ。

フィークルも、2011年から必ず二人で来るようになっているせいか、行き交う人々への挨拶に忙しい。

ヨーロッパ各地や、もちろん日本からも沢山のひとが訪れる。が、しかし、今年はエニスでフラーキョールがあるのでさすがに遠い日本からここと両方に来る人は少ない。

アイルランド最大の音楽フェスティバルだが、それだけに半端ではない人の数で、ぼくらは東京の電車で十分経験しているので、もういい。

てなわけではないが、小さなエニスの街は大混乱になるだろう。ジョセフィン・マーシュも、その期間家に泊まったらいい、と言ってくれているが、ま、そのときに考えることにしよう。

とりあえず、ペパーズのオーナーと話をまとめて本日の宿泊地に向かう。今回はミュージシャンのために特別に個人宅が用意されていた。

といっても、ほとんど通常のB&Bと変わらない感じで、「朝はフル・アイリッシュ・ブレックファーストでいい?紅茶?コーヒー?何時がいい?」と矢継ぎ早に質問が飛んでくる。

「この前はジョニー・マッデン(言わずと知れたチェリッシュ・ザ・レディースの)が泊まっていたし、ミュージシャンがよく泊まるのよ」とニコニコしてお話ししてくれる彼女の子供たちも、まだ小さいのに荷物を一緒に運んでくれたり、本当にいいファミリーだ。

しばし、緑に囲まれた素晴らしい家で景色を楽しんで演奏場所のペパーズに向かう。

珍しくアンドリューも時間までには来ていた。が、始めるまでにかなりの時間を要する。

まず、飲み物を僕らの分も含めてオーダーし、椅子を並べ替える。完全に自分のお気に入りのミュージシャンで自らが囲まれるようにする。

僕、アンドリュー、希花の順に座ると「後でアイリーン(オブライエン)が来るから椅子をひとつ残しておく、と誰も座らないようにしておく。

ピリピリしたセッションだが、やっぱり彼に認められた者でないと、このセッションにはなかなか参加することができない、というのもひとつのセッションの形であるのかもしれない。

もちろん、ここにやってくる人はそれなりのレベルの人から初心者まで、多種多様であるが、なかにはそれなりのレベルを装って、実際には早くいなくなってほしい人が現れるケースもある。

そんなときにはハッキリとそう言える人が必要かもしれない。

夜も更け、だんだん参加していた人間が消えていくと、ますます激しく「のりにのった」演奏を展開する。

もうこうなったらアンドリューの独壇場だ。だが、こちらもそれを盛り上げるだけのものは持っている。

ほとんど僕ら三人の趣味の世界に達しているところにアイリーンの登場だ。それでさらに激しさも増す。

希花にとっても数年前は恐れていたアイリーンだが、完全に一目置いてくれている様子がわかる。

僕らにとってもアイリーンとアンドリューという組み合わせは極上だ。

気がついたらとっくに2時半を回っている。5時間が経過しているわけだ。これがフィークルの初日。

目の前に置かれたありあまる量のグラスとアンドリューの笑い声、どこまでも力強いクレアのリズム、それが僕にとってはこのペパーズ、強いて言うならばフィークル、そのものだ。

2016年 アイルランドの旅 17 フィークル#2

フィークル2日目。

今日はペパーズ裏のステージでの演奏と、またしてもアンドリューとのセッションがある。

十分な休憩を取っておかなくては、と思い、朝から「フルアイリッシュ・ブレックファースト」を食べて、もういちど寝ることにした。

午後、子供達が水泳教室から帰ってきてしばらくしてから庭で彼らと遊んだ。

ちょっとした日本の公園くらいの広さのある緑の庭、遠くには小高い丘が広がっている。

こんなところで毎日走り回ることができる子供達や犬は幸せだろうな、とつくづく思ってしまう。

水泳教室にしてもプールではなく、自然の湖で行われているらしい。なかなかに面白い。

しばし子供達と遊んでシャワーを浴びて、いざ出陣。

ステージでの演奏は7時半から。でも何分くらいやるのか、どういう順番なのかも知らされていない。

とにかく居ればいいのだ。音響のおじさんもたいしたものだ。さっと用意して素知らぬ顔をしている。慣れたもんなんだろう。特にこの音楽には。

僕らはフォギーでデニス・カヒルに友情出演してもらうことにした。彼も「お、面白そう。いいよ」とやる気満々。

最後の2セットほどはアンドリューとのトリオもやった。

このクレアでクレアのミュージシャンとステージを作る。それはこの音楽に関わってきた数々のシーンのなかでも最高の瞬間であることに間違いない。

約20分のステージを終えて、最後はTulla Ceili Bandの演奏だ。

だが、僕らは次なるセッション・ホストの仕事。アンドリュー、そしてアイリーンと一緒だ。

その夜、帰ったのは4時にもなろうとしていた。アンドリューはまだまだ飲む気満々のようだったが、とても付き合えない。

フィークル2日目の夜もそろそろ明けそうだ。

2016年 アイルランドの旅 18 フィークル#3

今年のフィークルでは久しぶりにパット・オコーナーとのセッション・ホストも入った。

彼と初めて会ったのはいつだったろう。‘98年くらいだっただろうか。

その時のことは2011年のアイルランドの旅で既に書いているし、Irish Music その45ではパットの子供の頃のフィドルの練習の様子なども書いた。

愛すべきクレアの筋金入りフィドラーだ。

この日、夏の恒例の行事と言っていいだろうか、古矢、早野コンビがはるばる日本からフィークルめがけて来ていた。

彼女たちはアイルランド音楽を演奏している僕達よりも、よっぽどこの国のこと、特に文化や芸能に詳しい。

そんな彼女たちにとっても、このフィークルは特別な場所だ。そしてできれば僕らが演奏している時に、このクレアの音楽とギネスビールに浸っていたい、と考えている。

そんな彼女たちと一路フィークルに向かう。

パット・オコーナーとのセッションは9時半からの予定だが、彼はすでにその前に別なところでやっているので、そんなに遅くまではやらないだろう、と思いきや、例によってとどまるところを知らない。

ゴールウェイのセッションとは違って、淡々と、そして徐々に気分を高揚させていくような味わいの深さを感じる。

ゴールウェイはあまりに観光客向けになってきてしまっているのだろうか。いいミュージシャンもいっぱいいるが、聴く側の姿勢もやはり普通の観光客と、この音楽を求めてきている人では、それは違って当然かもしれない。

アンドリューもちょっと顔を出すが、“ごきげんさん”でしばらく聴いて「明日9時からペパーズに来い。待ってるぞ」と勝手に言って“ごきげんさん”のままどこかへフラフラ出かけて行った。

結局パットとのセッション、1時過ぎまで職務は果たしたが、パットはケロっとして、もう少しみんなのおつきあいをするよ、と言っていた。

パットを取り囲んでいる人たちはなかなか帰りそうにない。

この日の「困ったちゃん」は希花さんの横でフィドルを弾いていたおじさん。なんか偉そうにしているが、全く曲を知らないらしい。指だけは動かしている“よう”に見えるが実際は全然違うものを弾いている。

希花さんも初めて「出て行ってくれない?」と言いたかったらしい。そんなやつに横で弾かれたら確かに困るのだ。

僕の方までは聞こえてこないくらいの音量だが、横の者はたまったもんじゃない。

しかし、「出て行け」というのはキャサリン・マカボイかアンドリューでないとなかなか言えない。

いや、アンドリューは態度でガンガンに攻めまくるタイプかな。やはり、どんなセッションにも礼儀は必要である。

それにしてもパット・オコーナー、素晴らしいフィドラーだ。

さて、アンドリューが言っていた次の日のこと。まぁ、これでしばらく彼とも会えないかな、と思うとやっぱり行くしかないと思い、また出かけて行った。

古矢、早野コンビもその晩のタラ・ケイリ・バンドの伴奏によるダンスを楽しみにしているし。

こちらのセッションではアンドリューも大活躍。カレン・ライアンや、キーボードのピートも一緒だ。

アンドリューは僕らを見つけると、嬉しそうに「ここはじゅんじ。ここはまれか」と他の人が座らないように椅子を用意する。

彼の大活躍はそこから始まるのだ。いつものように自分のお気に入りのミュージシャンをできる限り自分の周りに固める。

“困ったちゃん”の付け入る隙を与えないのだ。そして大爆発。

この日、もうひとりの大爆発はシェイマス・ベグリー。酔っ払いの困ったちゃんではあるが、さすがにいい歌声と、クレアとはまた違うリズムで聴くものを魅了する。

ケイト・パーセルもいい歌声を聴かせてくれたし、驚いたのはランダル・ベイズが現れたことだ。

向こうもさぞ驚いたことだろう。もう、18年ぶりくらいだ。

アンドリューのおかげでそんな再会も果たせた。

そして、なにより古矢、早野コンビにも感謝。

残りの旅、どうか安全に楽しんでください。そしてたくさんのおみやげ話を持って帰ってください。

僕らは明日からしばらくブリタニーに行くので、コラムはちょっとの間お休みになるかもしれません。また帰ってきたら報告するつもりでいます。

2016年 アイルランドの旅 19 ブリタニー

8月9日、ブリタニーに向かう。もうすでに先乗りしているキアラン君と、彼の元生徒さんたち、ブライアン(コンサーティナ)キリアン(パイプス)共に25歳、そして21歳になったばかりのブライアン(フィドル)この三人の若者を含めての珍道中がこれから始まるのだ。

目指すところはGuemeneという小さな村。ここで彼らと落ち合うわけだが、ここはキアラン君曰く、ブリタニーの最もブリタニーらしいところのひとつであり、ここに来なければブリタニーに来た、とは言えないくらいの

ディープな場所だ。

その言葉どおり、景色はどんどん今まで見たこともないものに変わっていく。

実際、飛行機から見た海岸線はまるで映画「史上最大の作戦」を見ているようだった。それもそのはず。そこはノルマンディーだったのだ。

それはともかくとして、まず道沿いのお菓子屋さんに立ち寄ると美味しそうなカスタードケーキが目に入った。

日本で売っているものの三倍くらいの大きさで、値段は3分の1くらいだ。思わず「これとこれ」と言いそうになるが、そこは抑えてひとつにした。

これが実に美味しかった。たくさんのひとがフランスパンを抱えて店から出ていくのを眺めながら青空の下でコーヒーとケーキ。

そしていよいよ村に入っていく。なんか連合軍とドイツ軍が市街戦をやっている光景が目に浮かぶような建物が並んでいる。

キアラン君が夏の間にブリタニーで過ごすために借りているアパートに着くとすぐに始まるセッション。

皆それぞれにトラディショナルをこよなく愛し、追求している若者たちだ。プレイにも熱が篭る。

そして、若いのによく飲む。若いからかな。

そして、ここでは当然ワインだ。

フランスはワインが安いと聞いていたが、それは驚きの1ユーロもしないものから始まる。

平均的なそこそこいいものでも2ユーロか3ユーロくらいでひと瓶買えてしまう。なのでアパートでも次から次へとワインボトルが空になっていく。

外に出てみるとこの小さな村にいくつかの商店が並び、パブのようなものとレストランがいくつかある。

ブリタニーはクレープ(ガレット)で有名らしい。こんなことは日本の人の方がよく知っていることだろう。

早速みんなでワインとクレープ。

別な場所に行ってワイン。また別なところでワイン。隣のよろず屋さんのような、何でも置いてある店に入っても、奥からおやじさんがワインを持ってきてくれる。

ちょっとしたワイン責めだ。

でも今回のブリタニーはワインを飲みに来たわけではない。

僕にとっての大きな目的はギタリストのNicholas Quemener(以下ニコラ)に会うことだ。

キアラン君のソロアルバムでもギターを弾いていたが、そのプレイにはだいぶ前から注目していた。

いわゆるアイリッシュ・ミュージックに於けるギターというよりも、もっとブリタニーの音楽、ブレットンの独特な響きを持っている人なので、あえていままで名前は出していなかったが、とてもいい音を出すギタリストだ。

彼に会ってさらにその素晴らしいプレイに魅了されたが、彼がDADGADを使っていることは意外だった。

その響きはDADGADに聞こえない、言葉で表すことはむずかしいが、彼の醸し出す独特な音だ。

また、彼の住んでいるところはほとんど森で、その広さは京都で言ったら…「平安神宮」くらいの広さは優にあるだろうか。

そんな中でテーブルを囲んでみんなでまたワイン。

まさにこの景色から彼の音が生まれてきているんだな、と思えるような空気と時間が流れている。

今回の旅についてはまたコンサートなどでお話しするので、あまり長い文章は書かないが、希花さんがワインの飲み過ぎで赤い顔をして、いい写真をいっぱい撮ってくれたのでそれをいくつか載せてみることにした。

というよりもちょっと飲み疲れて横着をさせていただこうと思って……。

ニコラと

ニコラと

みんなとワイン

みんなと

GuemeneIMG_4943

 

2016年 アイルランドの旅 20 ちょっとだけエニス

あと2週間ほどでアイルランドに別れを告げる。

昨日僕らはエニスに出かけた。テレビ番組の出演依頼がきていたので(とは言っても、ほんの数分。少しのインタビューとセットをひとつ)朝早くから出かけて行ったのだが、これがなかったら行かなかっただろう。

すぐに帰ってくるチョイスもあったが、いろんな人に連絡を取ってみて会えるようなら少しゆっくりしてこようかな、とも考えた。

前にも書いたが、今年はフラーキョールがエニスで開催された。今回の番組もその中のひとつだった。

この祭典はそもそも、地元ののど自慢や腕自慢、そしてこれから巣立っていく若者や子供達のためのコンペティションがメインで、特別な出演依頼でもない限り音楽で生活している人はあまり行かない。

まして近年、人がたくさん集まりすぎてなんだかよく分からなくなってきているので敬遠するミュージシャンも多いようだ。

一応、楽器も持たずにうろうろ飲み歩いているアンドリューとパディには会えた。これで充分。

あと一人、どうしても会いたかったのが赤嶺フーさん。何とか連絡を取ったら会うことができたので、結局彼とは食事をしたりお茶を飲んだり、ちょっと演奏したりで4〜5時間一緒に過ごすことができた。

アイルランドではとても頼りになるアイルランド在住の…すみません。なんのお仕事をしているのか結局よく聞いていなかったのですが、少しだけ(本人談)ミュージシャンも兼ねて生活している人だ。

エニスはほぼ一日中シャワー程度の雨。ずっと僕らに付き合ってくれたフーさんに感謝。

2016年 アイルランドの旅 21

ここまではカーローでののんびりした生活も含め、沢山の目新しい経験で埋め尽くされてきた。

ネット世代でもない僕にとっても、まるでWiFiなどというものに無縁の土地にいると結構困ったりもしたものだ。

今、少しの期間、住み慣れたゴールウェイに身を置いている。

2014年から書いてきている鳥たちのこと。

あんなに警戒心が強かったロビンは、朝早くから餌をもらえるのを待つようになった。

チュンチュンと鳴き声がするので餌をまくと喜んで(だと思うが)飛んできて、しばらくつついてまたどこかへ飛んで行く。

前に見たのと同じ奴だという証拠はないが、去年、一昨年とよく来ていた足の不自由な鳥、今年は現れない。

8月もあと5日ほど。今日もいい天気だ。

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2016年 アイルランドの旅 22最終回

今年も無事9月を迎えた。帰国まであと1週間ほど。厳密にはあと5日でアイルランドを離れる。

思えばここの音楽の世界にどっぷり浸かってから25年。希花とこの地に来て演奏を始めて6年。様々な経験をしてきた。

僕はこの音楽をこよなく愛し、できる限り伝統を重んじてきた。それはギタリストという立場において、本当は難しいものだがとても重要なことだ。特にこの音楽では。

しかし、クラシックからフォーク、ブルーグラス、そしてアイリッシュと進み、その間にも様々な形態の音楽を経験してきた僕にとっては、ギターでこの音楽に関わっていく上で何を重んじていくか、ということがよく分かった。

とにかく1曲1曲正確に覚えていくこと。楽器で弾くこともさることながら、歌って覚えること。

そこにどんな和音を当てはめていくか、その最適な道を見出すこと。

それは様々なシーンで経験を積んできた僕にとってはそんなに難しいことではなかった。

しかし、ずっとこうしてやってきて思うことは、これは究極アイルランド人の音楽。どれだけ確実に演奏しようと、どれだけ認められようと、僕らの音楽ではない、ということ。

外国の音楽を演奏している人はどの世界にもいっぱいいるし、そんなことは当たり前のことだが。

また、このようなコアな(言うなれば)音楽に関わっていることであまり頑なになってはいけない。

「こうでなくてはいけない」というところと「これでもいい」という部分が必要だ。

簡単なことのようだが、これが意外に難しい。特に「これでもいい」という部分は人それぞれ違うだろうから。

そこを理解するには幅広い音楽の経験が必要となってくる。

毎年Tunes in the Churchのレギュラー演奏者として迎えられることはとても名誉なことだが、どこか申し訳ないような気持ちも存在した。

最初はセッションに参加することや、いわゆるバスキングもやった。

そのうち、あまりそこには重要性を感じなくなってきた。特にバスキングに関しては。

セッションは、いいセッションであればいくらでもそこに居られるのだが、ちょっとなぁ、と思うところはできるだけ避けたほうがよい。

みんながどれだけ聴く耳を持っているかはセッションの重要なポイントだ。

いや、セッションだけではない。それはどんな音楽に関しても、また、どんな場面に際しても最も重要なことかもしれない。

いろんなところに行って、たくさんの人にお世話になった。宝くじでも当たったらみんな日本にも呼んであげたい。でも買わないので当たるわけも無い。

なので、せめてこの音楽に対してのリスペクトだけは忘れずにいたい。そうすることでくらいしか恩返しができない。

Tunes in the Churchのシーズンラストの演奏も無事終えた。

Cormacは今ダブリンの方で、同じTunes in the Churchのプロデュースをしている。

この企画自体も既に7年目になるらしいが、これも継続するのは結構大変そうだ。来年は果たしてどうなっているだろうか。

僕も、2017年アイルランドの旅というものを書いているのかどうかはわからないけど、なんとか健康で居れたらいいかな、と思っている。

帰ってみなさんのお顔を見るのが待ち遠しいです。

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2016年 アイルランドの旅  番外編

10月にNoel Hill が日本にやってきます。初めての日本ということにはちょっと驚いています。

これだけの名演奏家が日本にやってきていないというのも意外なことなのですが、昨今の来日アイリッシュ・ミュージシャンの誰もが聴いてきた人物です。ただ、日本ではバンド・ブームのようになってしまって、この音楽もイベントのための音楽みたいに考えられている筋があります。

なので、先のFrankie Gavin & Paddy Keenan同様、名前すらも知らない若い人がいることも事実です。

彼がゴールウェイの雨の中、アパートにやってきて「なにやろうか?」とおもむろにコンサルティナを抱えると、飛び出してくる音はまるで嵐のようです。

15〜6曲、軽くリハーサルをして、帰って行きました。

本人も相当楽しみにしているようです。多分「寿司」を食べるのを。

日程に関しては別な案内で確認することができます。

初来日です。また来るかどうかはわかりません。

この機会を逃すとアイリッシュ・ミュージックの一角が抜け落ちます。(あくまで僕の独断と偏見に満ちた言い方)

しかし、ぜひ足をお運びになることを勧めます。

ザ・ナターシャー・セブンを歌う 2016

2016年9月24日 ザ・ナターシャー・セブンを歌う会 1日目 with進藤了彦

この企画は大泉の久保田さんによるものだった。彼が歌いたいナターシャーの歌を僕らがサポートする、というもの。

彼と進ちゃんとはすでにやっていることだが、僕も参加して、ということなので、久保田さんも多少緊張していたようだ。

元々ナターシャーの音楽部門担当は僕と省ちゃん、そして後から加わった進ちゃんの若いセンスも加えてのものだったと思っているし、久保田さんの歌をどうサポートするかを考えればいいわけだ。

久保田さんのボーカルは、本当に歌いたいという気持ちが出ていて、清々しくてなかなかいい。

この日、奥さんが用事で出かけている、ということで彼が一番気にしていたのは、打ち上げの料理のこと。

まさか柿の種やエダマメで全てを終わらせたくはない、と思っていただろう。しかし急遽、奥様が無理を承知で時間のやりくりをして全てのお料理を用意してくれることになったので、彼も思い切り歌うことができただろう。

いい歌声でした。

集まっていただいた皆さんに、久保田さんに、奥様の典子さんに感謝です。

 

2016年9月25日 岡崎 with進藤了彦 金海たかひろ 3人会

こちらの方は岡崎の深谷君が長年温めていた企画。

朝早く僕と進ちゃんは久保田家を出発。進ちゃんの運転で約5時間。昔ばなしに花が咲いて、2回ほど道を間違えて引き返したり、そのたびに大笑いして楽しいひと時だった。進ちゃんお疲れ様。

途中、案内役の武ちゃんと、静岡からやってきた金海君と合流。

この日のコンサートは全て3人一緒に歌と演奏。お客さんも大合唱。

北は北海道から、南は九州から、多くの人が駆けつけてくれた。

最初の「私を待つ人がいる~陽の当たる道」から最後の「ヘイヘイヘイ」まで2時間、僕らにとっても結構短く感じる時間だったが、アンコールに次ぐアンコールで、最後は深谷君が「もう体力的限界です」という主旨の司会で締めてくれた。

PAはいつものてーさん。それと助手の女性。ありがとうございました。

深谷君の仲間のみなさんもお疲れ様でした。ありがとうございました。

進ちゃんは京都へ、金海君は静岡へ、それぞれまた普段の生活に戻るために帰っていきました。いい演奏を聴かせてくれてありがとう。

集まっていただいた皆さんに感謝します。

Noel Hill 日本ツァー 2016

ノエル・ヒル。この名前を知らないアイリッシュ・ミュージシャンは皆無だろう。コンサルティナという楽器の可能性を大きく広げた第一人者だ。

以前のコラム(2012年)でも書いているが、彼との出会いは2000年の初めころ。鬼気迫る演奏のためにギターを弾いたのが僕だったのだが、その時はデュオで2時間半ほどの演奏。

初めての出会いだった彼に「また、いつかやろう」と言われてからやっと実現した、それも日本と云う土地での今回のツァー。

驚いたことに日本に来たことがなかった、と云う。

彼は自身でも寿司を作る、それもかなりの腕前で大人数の寿司パーティを自宅でひらくほどの日本食通である。

「わたし、寿司だいすき」という外国人は多いが、彼はなかなか舌が肥えている。アイルランド人にはないだろう「出汁」の感覚や、微妙な味付けの違いが意外にも分かるようだ。

そんな彼が一たびコンサルティナを弾き始めると、そのエネルギッシュなダンス曲、胸に突き刺さるようにしみわたるスロー・エアーで聴く者の心を捉えてしまう。

また、彼のエンタテイニングの素晴らしさからは、彼が本物のプロミュージシャンとしても超一流だと言うことがよくわかる。

音楽と云うものを、また、プロフェッショナルがステージでどうあるべきかを、よく理解している人だ。

「幼くして父親を亡くし、残された母と7人の兄弟姉妹とともに貧しい暮らしをしてきたけど心は豊かだった。楽器を買うお金はなかったが、兄弟で夜遅くまでリルティング(いわゆる口三味線)をして曲を覚えた。本当の豊かさはそういうところに存在するものだ」という彼の演奏に触れなかったら、アイルランド音楽の歴史の大切な1ページが抜け落ちてしまう。

今回足を運んでいただいた全ての皆さんには、その大切な1ページを体感していただけたろうと僕は確信している。

旅には慣れているだろうが、初めての日本で大変だったのに気配りも細かく、ワークショップにもとても熱心に取り組んでくれるし、また、来年にでも呼んであげられたらな、と思っていることも事実だ。

それには、この音楽の真の姿は安っぽい流行りものやイベントのなかにあるのではない、ということを心底から理解してくれる方たちの御協力が必要だ。

彼はアイルランドでも知らない人はいないくらいの超大物である。そんな彼のお相手は大変だが、こちらが誠意を持って付き合えば必ずそれに応えてくれる人だ。

僕らは、彼のような素晴らしい音楽家が、貧しい環境の中で大切に大切に修得してきたこの音楽をいい加減な気持ちで演奏するわけにはいかない。

ノエル・ヒル、偉大な音楽家であり、僕らにとってもまた、心の引き締まる数日間だった。

Johnny Cash

テレビを観ていたらジョニー・キャッシュのドキュメンタリーをやっていた。

元々カントリーにはあまり興味がなかったので、一生懸命聴いたこともなかったし、あまり詳しくはない。

しかし、1984年にジョー&ジャネットを訪ねてHilton Virginiaにステイしていた時、彼らの一番上のお姉さんであるグラディスの家によく行っていた。

そこはオールド・ホーム・プレイスと呼ばれ、アメリカンフォークのルーツといわれる場所だった。同じくこんな看板もかかっていた。「Home of Johnny Cash」

なので、いつもその看板を見ながらドアをノックしていた僕にとってジョニー・キャッシュはどこか身近な感があったのだ。

今回のテレビ番組で彼のことがよく分かって、たまにはテレビもいいかな、と思ったものだ。

僕にとってはウェイロン・ジェニングス、クリス・クリストファソン・ウイリー・ネルソンとの4人でやっていたThe Highwaymanで彼の歌も聴く程度のものだった。この4人はめちゃくちゃかっこよかった。僕はクリス・クリストファソンが結構好きだったので。

でも、もう一度じっくりジョニー・キャッシュの歌を味わってみるのもいいかも。

そういえば、12月にやってくるキアラン君がBob Dylan & Johnny Cashの映像を送ってきて「これ(The Girl From North Country)がやりたい」なんて言ってた。

僕が今一度ジョニー・キャッシュを聴いてみようかなと思い、ボブ・ディランがノーベル賞なんか取って、なかなかにいいタイミングかもしれない。

ブレンダン・ベグリー

とうとう来てもらうことにした。アイリッシュ・ミュージックを語るうえでなくてはならない最重要人物のひとりだ。

1999年の5月、僕はアンドリュー・マクナマラと共にケリーに居た。そして、パブに入りきれないほどの人の中にブレンダンが居た。演奏が終わると彼を交えての激しいセッションが始まった。次から次へとポルカの応酬。アンドリューは嬉しそうに飲んでいるし、僕はひたすらブレンダンのためにギターを弾いた。そして、彼は「歩いてすぐだから家に来い」と云って多くのひとを引き連れて表に出た。時間はとっくに午前2時をまわっている。

真っ暗な道を10分ほど歩くと彼の大きな家が現れた。

中に入るとこれまた大きなキッチン。「さぁ、やるぞ」とアコーディオンを出し、またまたポルカだ。10人ほどの男女が入り乱れて踊り狂う。アンドリューは嬉しそうに飲んでいる。

その頃コーマックはまだ高校生くらいだったろうか。記憶にないのでおそらくどんちゃん騒ぎをものともせず、2階で寝ていたのかもしれない。いつものことなのだろう。

とに角そのまま朝まで大騒ぎをして別れた。

それから確か2003年頃、彼と再会した。その時「一緒にフランスに行こう」と誘われたが時間が合わずにそのままになっていた。

2010年に再び会うことが叶い、彼とまたゆっくり話したり、演奏することが出来た。それからは毎年彼と様々なかたちで会っている。

それらの様子は「2011年アイルランドの旅」から毎年少しづつ書いてきた。

彼を日本のアイリッシュ・ミュージック・ファンに紹介したい、と思い始めたのはその2011年の頃からだろう。

しかし、果たして日本のアイリッシュ・ミュージック・シーンに本物の彼のアイリッシュ・ミュージックが分かるだろうか、という疑問はある。

本来、彼のような人の演奏を、そして歌を聴かずしてアイリッシュ・ミュージックを語ろうなんて言うのは大きな間違いだ、と僕は確信するのだが…。

70年代、80年代、生活の一部として過ごしてきたフォークソングやカーター・ファミリーの音楽にも共通する彼の生活と音楽の全てを目の当たりにするチャンスです。

アイリッシュ・ミュージックがどういうところから生まれてきたかを体感するチャンスです。

まだ詳細は決まっていませんが、彼とのやり取りは続いています。来日の日程も決まっています。

アイルランドからスペインまで小さなボートを漕いで行ってしまう人ですが、さすがに日本までは無理そうなので、いや、言えばやりそうなので怖いから飛行機も予約しました。

彼はやってきます。

詳細が決まり次第お知らせいたします。

 

Irish Music その101

久々に書いてみようかな、という気になった。今まで何曲のレパートリーを載せたのか、もう分からなくなってきているので、一項目1曲にしたほうが良かったのかな、と思いつつ、やっぱり何曲かまとめて、を基本にした方がいいか、という結論に達した。

今回はまずこの曲から。

★Johnny Cope (Hornpipe)

この曲はまず、Noel Hillがやろうということで持ってきた曲だ。なんとなくは聴いたこともあるし、タイトルも知っていたものだが、なにせ6パートのどこも似たような、それでいてちょっと変わった曲なのでもう忘れていた。彼自身も長らく演奏していない曲なので、やりながらどうもこんがらかっている様子だった。彼とのツァーも終わり、Dale Russにこれをやろう、とメールしたら、「俺の心を読んでいるなぁ。最近やり始めたところだ」というメールが返ってきた。スコットランド発祥の古いパイプチューンのようだ。どこかくせになるような曲である。また、ギタリストにとってはとても深い考えが必要な曲でもある。

 

★Geese in the Bog (Jig)

別名、Lark’s Marchと呼ばれる5パートのジグ。パートによってはほとんどLark in the Morningと言える。実際、これも8パートのバージョンもあると言われているし、同じタイトルで似たようなものもあるが、僕らはこのバージョンが好きなので敢えてこれを選んだ。

 

Irish Music その102

★Horizonto (Jig)

古いBlowzabellaのアルバムから。Paul James(Bagpiper)のペンになるいい曲だ。この人の作品も同じグループのメンバーであるAndy Cutting同様、なかなかに味がある。それにメロディーもいい。Bello Horizonteという古いオペラハウスを題材にしているようだ。

 

★Ritual / The Black Pat’s (Reel)

最初の曲はThe Old Blind DogsのパイパーであるRory Campbellの作。このバンドはスコットランドからの若者たち(元)で、その昔僕もすごく仲のよかった連中だ。彼らのアルバムではローホイスルによる素晴らしい演奏を聴くことができる。

2曲目はTommy Peopleのペンになるフィドラー必須の曲。

Irish Music その103

★Harp and Shamrock / Fairies’ Hornpipe (Hornpipe)

一曲目はPat Crowleyの作。古くからあるものと思っていたほどポピュラーな曲。とてもいいメロディで親しみやすい。タイトルは“ベタ”な感じがするのだが、作者の親が持っているパブの名前?あるいはそのパブで名付けた、というからやっぱりその名前のパブだったのかな。2曲目については、僕はかなり前Dick Gaughanのギターアルバムで覚えた、とても簡単ないい曲だ。

★The Devil and The Dirk

どこまでもScott Skinnerらしい曲だ。相当なテクニックが必要だろうが、それはそれなりに盛り上げる要素満載の曲と言える。決して名曲とは思えないが。

Irish Music その104

★Niel Gow’s Lament for His Second Wife (Waltz)

ニール・ガウ (1727–1807)の作品。彼が亡くなる2年前に亡くなった二人目の妻に捧げたものだ。因みに最初の妻も二人目の妻もマーガレットという名前だったという。一応ワルツとしておいたが、ジグという人もいるし、エアーとする人もいる。どちらにせよ美しいメロディで、僕はハープがきれいだと思う。本人はフィドラーであったというからフィドル曲なのかもしれないが。クラシックの分野でも特にギタリストに好んで取り上げられているようだ。有名な曲なので覚えておいて損はない。

 

★Jackson’s (Reel)

これは以前出た同名の曲とは違う曲だ。Jackson’s FavoritesとかJackson’s No1とかいうタイトルも付いている。おそらくMichael Colemanでよく知られている曲だと思うが、これもShips a Sailingに近い曲と言われている。その89に登場したDorogheda Bayという曲も同じような曲なので、これは3曲メドレーでやったら大変なことになるだろう。リード楽器は頭の混乱を覚悟しなければならないし、伴奏者に於いてはメロディは弾かないが全ての音の動きを把握していなければならないし。脳トレにいいかも。

Irish Music その105

★Planxty Davis (Hornpipe)

PlanxtyというとO’Carolanと思ってしまうが、これは違うようだ。しかもメロディもとてもO’Carolanっぽいので初めて聴いた時は完全にそう思っていた。どうやらスコットランドの有名な曲Battle of Killiecrankieが基になっているようだ。定かではないがThomas Connellanというアイルランドのハープ奏者(長年スコットランドに居たという)が書いた曲らしい。彼は1600年代、兄弟のウイリアムと共に700以上の曲を書いた、という記事が残っている。更にもう少し詳しい記事を見つけた。1694年に出版されたもののなかに載っているらしいがそこではKilliecrankieとなっており、後にロンドンでも出版された書物も同じタイトルであるが、なぜかアイルランドではPlanxty Davisとして知られるようになったのが1742年以降。正式なタイトルとしてはThe Two William DavisesとなっておりO’Carolanの作品とされている。聴いてみると確かによく似ているが違うところはかなり違う…がよく似ている。このあたりが「O’CarolanはCopycatだ」と言われる由縁かもしれないが素晴らしい作曲者であることも確かだ。この曲はNoel Hillから習った。

★The Maple Tree   (Mazurka)

Blowzabellaからの選曲。マズルカは元々、ポーランド発祥のリズムと言われているが、確かにこの曲はリズムもさることながら、曲調もそんな感じがする。因みに作者はJon Swayne & Jo FreyaどちらもBlowzabellaのメンバーだ。

Irish Music その106

★O’Carolan’s Cup
さて、これはどうもCarolanの作ではなさそうだ。いろんな見解があるようだが、結局のところこの曲に関する資料はないようだ。因みにメロディはかなりCarolanっぽい。さもありなん、という感じはするのだが…。一方であまりにも「らしすぎる」感も否めないではない。

★Paddy’s Return   (Jig)
Kitty Lie Overというタイトルもある。僕はKevin Burkeでその昔覚えた曲だ。
初心者にも非常に分かり易い曲だと思う。

★Up In The Air   (Jig)
Kevin Burkeの作。とてもいいメロディだ。Jody’sでも録音したことがある。

Irish Music その107

★Trolley (Reel)
Cape BretonスタイルのフィドラーColin Grant作の美しいリール。最初はスローで始めるのだが、それがなんとも美しい。速くなってくるとそんなにいいとは(勿論いい曲であることは確かだが)思えず、よくある感じになってしまうので、僕らは敢えてスローだけで演奏している。

★Carriag Aonair   (Air)
実に17年前、Dale Russ & Todd Denmanと録音したものの中に含まれている曲。飢饉から解放されるため北米に船出したアイルランド移民たちが、コークを出て「これがアイルランドの見納めだ」と称した小さな島Fastnet Rockのことらしいが、これは又「The Lonely Rock」というタイトルでもあるようだ。故郷を後にする移民たちの心をえぐるようなメロディが美しくも哀しい。

Irish Music その108

★Farley Bridge (Reel)
Duncan Chisholm作のこの曲はリールというよりも、スロー・リール、或いはエアーと呼んでもいいくらいの美しいメロディを持った曲だ。キーはEmajorでギターなど伴奏楽器の音の配列によっても大きくニュアンスが変わってきそうな気がする。僕らはいくつかの歌の後にこの曲を合わせている。

★Lonesome Eyes (Waltz)
Jerry Holland作のこれも美しいワルツ。彼のフィドリングは昔から好きでいくつかテープを持っていた。1955年にアメリカで生まれ、2009年にカナダで亡くなるまで、実に素晴らしい演奏を残している。思ったより若かったことにびっくり。

2016年 沖縄 石垣島 そして竹富島

今回はギグではなく友人に誘われるがままに、クリスマスを南国で過ごすことにしてみた。

ちょうどアイルランドからキアラン君が来ていたので、できれば地元の音楽を聴けたらいいな、と思っていた。

沖縄には返還直前の1972年に行ったのが初めてだ。もう記憶には薄いが、本部の野外でなんか船の前で演奏したと思う。

1985年にはかまやつさんと二人で九州と沖縄をまわった。

その時の印象は強烈だ。コザに出掛け、当時すでに解散していただろうか、コンディション・グリーンの人達と一緒に演奏した。

ベトナム戦争はもうとっくに終結していたが、当時の熱い話をいろいろ聞くことが出来たわけだ。

そして2000年ころだろうか。省悟とふたりで行った沖縄は飲み過ぎた覚えがある。と言いながらよく覚えていないくらい飲んだ。

しかしながら、石垣島、竹富島は今回が初めて。

特に、アイルランドに非常に詳しい古矢さん、早野さんにとって、この竹富島もほとんど故郷といえるくらいの場所なので彼女たちに任せておけば間違いない、とキアラン君にも伝えておいた。

気温25℃ほどのやわらかい風が心地いい。確かに「ざわわ、ざわわ」とサトウキビ畑から声が聞こえてくるようだ。

僕らは民宿「マキ」に着いた。ザ・竹富といえるくらいのお母さんが、数日前に腕を骨折したにも関わらず、満面の笑みで僕らを迎えてくれる。

骨折のほうはもうかなり良くなっているという話だが。

とにかく、気候は僕には少し暑いけどその程度でとても気持ちがいい。なんといっても風がさわやかだ。

それに島の人達がいい感じだ。そこに猫だ。

キアラン君も初めてなので目をくりくりしている。

そんなこんなで夜になり、さて、彼女たちが昔から良く知っている糸洌さんの三線と歌を聴く。

例えば、アイルランドの特にゲール語地区で、歌の謂れを聞いてからその歌に耳を傾ける、それと全く同じ光景だ。

そして民宿「マキ」の息子さん(忍さん)による一期一会と歌と三線。こちらもめっちゃ良かった。

ぼくらも3人でトラディショナル・アイリッシュ・ミュージックを披露する。

みんなが「こんなの生で聴いたの初めてだ。すごい!」と言ってくれた。近いうちに竹富に来てもう一度、今度は島のみんなにも聴いてもらいたいから、と促された。

勿論だ。僕らも島に伝わる古い歌をもっともっと聴きたい。

時の流れが、穏やかな海の波のようにゆっくりと漂う中、陽がどっぷりと暮れてきて満天の星をビーチで眺めた。

次の日、僕らは石垣島に向かう。波止場には民宿のみんなが見送りに来てくれている。ご近所の90歳のおばあちゃんがお別れの歌を唄ってくれる。

その歌声は波の音にかき消されることなく、波止場が遠のくまで聴こえてきた。極上の時をありがとう。

そして、石垣島ではキアラン君が海に飛び込んで思う存分泳いだ。

なんでもカーロ―ではクリスマスの日に川で泳ぐ風習があるらしい。本当かな、と思うけど、彼の家族や友人達だけではなさそうだ。

キアラン君大満足だったようだ。

この夏、彼には本当にお世話になったので、ぼくらも彼が満足してくれたらそれでとても嬉しい。

古矢さん、早野さん、どうも有難うございました。

民宿「マキ」の皆さん、本当に御世話になりました。

とてもいいクリスマスを過ごさせていただきました。

Irish Music その109

★The Fisher’s Wedding / Lady Harriet Hope

Alasdair Fraser & Jody Stecherの古いアルバム「Driving Bow」からの選曲。僕が90年ころからずっと聴いてきたもので、希花さんとやり始めた頃、彼女にCDを一枚選んでプレゼントしたものがこれだった。Jody Stecherはサン・フランシスコの人で一度だけ電話でお話したことがある。フォーク系の人でフィドルやバンジョーもこなすが、このアルバムでは素晴らしいギターを聴かせてくれる。Alasdairは何度か会ったことがあるものの、スコティッシュ・スタイルのフィドラーで音楽を合わせたことはなかった。彼もまた素晴らしいフィドラーだ。僕がよく一緒にやっていたLaura RiskやAthenaは彼の生徒さんだったと聞いている。因みに彼女たちは10代でスコティッシュ・フィドル・チャンピオンになっている。
1曲目に関しての資料は無いが、2曲目に関しては諸説ある。1800年頃Edinburghで出版されたものに記載されているようだ。又は1759年というピンポイントで指摘する人もいる。Lady Henrrietta Johnstone(1682 -1750)と云う女性がCharles Hope(1681 -1742)と結婚したという史実は残っている。後にHenrriettaはHarrietと呼ばれるようになったらしいが、彼女の娘も孫娘も同じ名前だったというからややこしい。

 

2016年 今年も有難うございました

気がつけばもう年末。2015年もお世話になりました、なんて書いてからもう1年が経つなんて…。2017年も書いておこうかな、なんていうことを考えてしまう。

今年のアイルランドでは何といってもキアラン君との出会いが大きな収穫だったかもしれない。

おかげでブリタニ―にも行って二コラとも会えたし。

モン・サン=ミッシェルも観たし。

誰か特別な機会でも作ってくれなければなかなか足を延ばさなかったかもしれないし、そんな意味でもキアラン君に感謝。

それに、あり得ないシチュエーションでミルタウン・マルベイのど真ん中にも滞在できたし。

トニー・マクマホンにも再会できたし。

そして、10月のノエル・ヒル来日、というのも僕らにとって大きな出来事だった。

もう何年も前にステージを一緒にやってそれ以来なのでこちらも少々緊張したが、間違いなく素晴らしいミュージシャンだった。

ふりかえってみれば、特筆すべき劇的な人命救助みたいなことはなかったけど、いろんな意味でいい年であったことは確かだ。

2011年の1月から本格的に始めたデュオも、来年は7年目に入る。

2017年はどんな年になるだろうか。

みなさんの健康を心から祈っています。そして来年もよろしくお願いします。

これからバースデイ・コンサートのために京都に向かいます。

67歳になるようです。なんか他人事みたい。

Irish Music その110

Irish Music その110

★Planxty Dermot Grogan (Jig)
最初はHolly Geraghtyのハープの演奏で聴いたもの。これは彼女によって書かれた曲で、2006年の2月4日に48歳という若さで他界した、Co.Mayoのフルート&アコーディオン奏者Dermot Groganに捧げたものだ。2009年に彼女自身が録音しているが、2016年、アイルランドのあちこちでこの曲を聴いた。美しいメロディでワルツとして、あるいはエアーとして演奏してもいい。

★Kilmovee (Jig)
多くの人が演奏していて、前々からよく知っている曲ではあったが、これもいろんな名前がある。そのひとつにDermot Grogan’sがある。Brendan Larriseyの作だという説もあるが、定かではない。

2017年 初頭に

あっという間に過ぎてゆく時間。毎年毎年「こうして過ぎてゆくんだなぁ」と思いながらも何にも変わり映えしない時を過ごしてしまう。

ま、特に困ったことさえなければそれで良し、としよう。

ところが今年は新年早々風邪をひいてしまった。もう「ファンの集い」で報告済みだが、面白いことがあったのでここに書いておくことにした。

その昔「風邪の効用」という本を読んだことがある。野口晴哉の有名な本だ。

風邪は治すな、経過させろ、というキャッチフレーズのような教えが新鮮だったのを覚えている。

若い時は「風邪だ」と思ったらすぐ走りに行った。京都御所の周りを2~3周して、汗を一杯かいて治したものだ。これなんかも「治した」というよりも、身体を動かして経過させたことになるのだろうか。

しかし、思うにこれだけ歳がいくと走りに行くのは辛い。風邪の状況にもよるのかも知れないけど、年末、結構忙しかったので、ゆっくり休んだ方がいいのかな、と思っていた。

そう思ったのが1月2日。でも3日、4日とゆっくり休んでも一向に良くならない。

もともと薬はあまり飲まないほうなので、今回も飲まずにいた。

症状はけっこう辛いものがあったので、熱を測ってみようと思ったわけだ。頭のまわりが熱かったので「こりゃ38℃」くらいはあるかもしれない、と体温計をセットして意気揚々と測ってみるも、表示は「36.1℃」

もう一度やり直しても同じ結果だ。横に居た希花さんが「あたしも測ってみよう」と言って測った表示は「37.6℃」

なんで風邪ひいて熱があるはずの僕の方が低いんだろうと、よくよく考えてみたら、僕は普段から平熱が低いのだ。大体「35℃台前半」しかない。

希花さんはまるで小動物だ。

ま、取りあえず医師免許はあるので、こういう時は来ていただくのだが、結果「あーせい、こーせい!あーするな、こーするな!」だの、うるさいことを言ってとっとと帰っていく。

でもおかげで(おかげかどうかは良く分からないが)7日には「七草粥」も作って元気は回復した。

僕の2017年は風邪で始まった。

とうとうやってきます、ブレンダン・ベグリー

98年、アンドリュー・マクナマラに日本の地を踏んでもらいました。僕がアイリッシュを始めたきっかけともなる人物です。

その翌年の99年、アンドリューが僕にアイルランドの地を踏ませてくれました。

その時のツァーの中で初めてブレンダン・ベグリーに会いました。

ぎゅうぎゅう詰めのパブ。アンドリューと僕の演奏に熱狂する人々の中に彼がいたのです。

終了後、アコーディオンを抱えたブレンダンがケリー独特のポルカをこれでもかと演奏しました。

満足気に飲みまくるアンドリュー。弾きまくる僕とブレンダン。

場所を移してブレンダンの家のキッチンで朝までポルカ、スライド、そしてダンス。

彼には何度か一緒にフランスへ行こう、ドイツへ行こう、などと誘われましたが、なかなか実現しませんでした。

2011年から毎年、夏になると彼に会っています。

いろんなところに連れて行ってもらい、コンサートでも演奏し、ラジオ番組にも紹介してもらいました。

そんな彼をいつか日本に連れてきてあげたい、と常日頃から思っていました。

僕は先ず彼を中津川の付知町に連れて行きます。

彼と共に時間を過ごした、あの大西洋の荒波が押しよせる崖で見た空や雲。やさしくそよぐ風。その中で歌を聴かせてくれたブレンダン。

その全てが僕にとって1972年の中津川の人達との出会いにクロスオーバーしました。また、それは1984年のカーターファミリーとの生活も同じでした。

アイリッシュ・ミュージックもオールドタイムもフォークソングも形だけではなく、本当に生活に根付いたなかから生まれてきている、という点で全く同じでした。

だからこそ、彼を中津川の人達に会わせたいと思ったのです。

そしてまた彼らも心からブレンダンの音楽と生活を分かってくれるだろうと感じています。

次の日には京都に行きます。

このところずっとお世話になっているジェイ&郷子さんにお願いして、これまたずっとお世話になっている永運院です。

フランキー&パディそしてノエル・ヒルと立て続けにお世話になり、みんなが気に入ってくれた場所です。

翌々日には奈良に行きます。ここも彼を連れて行きたい場所。丘の上食堂です。昔からの友人である栄くんたちにお願いしての会です。

ここのワイルドなマスターに、これでもかというくらいワイルドなブレンダンと会っていただくことも目的のひとつ。

翌日は静岡に行きます。

僕の生まれ故郷で、高校時代、フォークソングに明け暮れた仲間たちが彼を出迎えてくれる予定になっています。

そうして修善寺で一泊。そのあいだにいつものアルマジロ君が富士山にでも連れて行ってくれるかもしれません。

ブレンダン、天気が良かったら頂上まで行きたいなんて言うかも。

その翌日には小田原に行きます。

もう10年以上も夏休みを利用してアイルランド中を走り回っている古矢さん、早野さんコンビによる会です。

ブレンダンを訪ねて観光地のディングルから遥か大西洋の入り口まで行ってしまう彼女たち。そこら辺のアイリッシュ・ミュージック愛好家よりもこの音楽の成り立ちが良く分かっている人たちなので彼女たちに是非お願いしたいと思いました。

そして翌日はアルマジロ君主催の川のほとりコンサート。僕らも大好きな場所です。

ここで聴くブレンダンの唄はまた格別だと思います。

最後に東京に戻ってきますが、今回は川崎での会にしました。

会場的にはそれまでの「どうしても連れて行きたい」とか「ここでなければ、この人たちとでなければ」ということではありませんが、ツアーの最後に一応コンサートという感じを持って来たかったのです。

勿論、それまでもコンサートですが、どこも思い入れが激しいところで少なくとも僕にとって意義のある場所です。

どれだけの方に来ていただけるか分かりませんが、人間ブレンダン・ベグリーをアイリッシュ・ミュージシャンという観点から、またその逆の観察もできる最後の大物とでもいえる存在です。

先に触れたように98年にアンドリュー・マクナマラ、99年にブリーダ・スミス、2000年にアンドリューとジェリー・フィドル・オコーナー、2002年にトニー・マクマホン

その後、ジョン・ヒックス、パディ・キーナン&フランキー・ギャビンそしてノエル・ヒルとアイルランドからのミュージシャンを日本に紹介してきました。

それよりはるか前92年にマーティン・ヘイズを連れて行こうと思い日本のプロモーターに打診しましたが「聞いたことない」と言って断られました。

そんな時代からだいぶ時が経ちました。

今ではマーティン・ヘイズ、ルナサ、ダービッシュ、ソラスを始め、中堅から若手までこぞって来日するようになりました。

そんな彼らも子供の頃から聴いてきて、一目、いや、それ以上に認めざるを得ない存在、ブレンダン・ベグリーの来日公演は聴き逃したら損です。

彼の歌とアコーディオンで、彼らの生活から生まれてきた真のアイリッシュ・ミュージックを体験していただきたいと願っています。

Brendan Begley Japan Tour 2017 特設サイトはこちら

キース・チューナーのメインテナンス

つい最近、ひょんなことからキース・チューナーのメインテナンスを考えてみた。長年使っているため、いや長年使っていなかったためと言った方が正しいのかな、とに角動きもスムーズでなく、きっちり止まらないことが多かったからだ。

アイリッシュ・ミュージックでは全く馴染みのないキース・チューナー。

アール・スクラッグスが初めて使用した(当時はタイプが違うものでその名前では呼ばれていなかった)時はまだ秘密のものだった。

このあたりの話はブルーグラス・フリークにはたまらない、いや止まらない話となる。

なにはともあれ、そのタイプのものをビル・キースが素晴らしく改良したものがキース・チューナーだ。

あまりに初歩的で簡潔に書いているので、興味のある人は是非調べてください。

そのキース・チューナーを専門的に診断し、修理する人が日本にいる、ということを前々から知っていたが、今回、真剣にメインテナンスを考え、思い切って電話をしてみた。

梅本さんというその方は電話口で詳しくどういうことをするのかを説明してくれた。

僕もバンジョーに出会ってかれこれ50年余り。

色んな人とバンジョー談義に花を咲かせてきたものだ。

そして、バンジョーという楽器、そしてその部品のひとつひとつにまで愛情を注ぎ込んでいる氏のお話を聞いていて「これは素晴らしい」と感じ、本格的にメインテナンスをお願いした。

それはまるで時計の修理と同じことらしい。いわゆる精密機械なのだ。

やっぱり長年、放っておいてはいけないものだったのだ。

2週間ほどでメインテナンスが終了し、詳しい(本当に詳しい)レポートが添えられて戻ってきたキース・チューナーは生き返っていた。

思えば、ビル・キースが省悟の車の中の何だったか覚えていないが、多分カーステレオ(?古い!おまけにカセットだった)に興味を示し、その構造を納得いくまで調べていた、そんなことがあった。

省悟も「おっさん、好きなんやなぁ。道理でキース・チューナーなんか考え出すはずや」なんて言っていた。

梅本さんはそんなビル・キースとの交流を通じ、日本に於ける唯一の公認キース・チューナー・メインテナンス職人の資格を得て、あらゆるバンジョー弾きの悩みを解決してきた人だ。

生き返ったキース・チューナーは何とも気持ちのいい動きをしている。

僕は梅本さんに「これからも多くのバンジョー弾きに感動を与えてください」という言葉と共に感謝の気持ちをメールで送った。

ブレンダン・ベグリー初来日

長かったような短かったような10日間が怒涛のように過ぎました。

足を運んで頂いた皆さんには心から感謝いたします。

彼を目の当りにせずにアイリッシュ・ミュージックを語ることはできない、と強く断言した僕の気持ちが分かっていただけたと思います。

生活から生まれる感情を、何百年にも渡って語り伝えられているメロディに乗せて歌い、演奏していく。そんな彼の姿を何年も観てきて、僕らにとっては外国の音楽であるアイリッシュ・ミュージックを心から感じ取るためには最も必要な人物である、と確信しました。

外タレが来日すると見逃すことはご法度だった時代から随分変わって、今や部屋の中でいくらでも観ることができてしまう時代になりました。

そんな時代なのでなおさら彼のような本物は自分の眼で確かめなくてはならないでしょう。

安っぽい「アイリッシュ、ケルト系の音楽が云々」というような日本のお決まりのフレーズに騙されているわけにはいかないのです。

彼、いつか四国の周りをボートで巡りたい、と言っていました。

四国というのがどこから出てきたのか知らないけど、お遍路の旅なんかも限りなく似合いそうです。

元気に戻った、というメールも来ていました。

皆さんによろしく、とのことです。

It’s A Crying Time

1971年か72年頃(詳しくはムーンシャイナ―に掲載されていると思うが)関西で話題に上ったグループがあった。それが山口さとし、清水英一、大西一由、勝見明の4人からなるIt’s A Crying Timeだった。

あれから46年余り。

各メンバーとは別々にこの40年以上の間に数回は会ったかもしれない。しかし、ほとんど40年ぶりくらいだった。

今回ベースの勝見明は出てこられなかったので代わりに藤井孝三君がやっていた。

とに角、関東ブルーグラス界の重鎮である佐々木仁さんの取り計らいでこのバンドが関西から出てくると言うので、行きたい、と心から思ったわけだ。

久しぶりのブルーグラス。それもストレートと言えるだろう、大西君のテナーが光るコーラス。清水さんの当時の超絶バンジョーも今は「いぶし銀の魅力」そのタイミングや思いのこもったプレイはさすがだった。山口君のボーカルもいつもながら笑顔でいい感じが出ている。

そこに今回は渡辺(井上)三郎夫妻がフィドルで参加という、これまた行かない手は無い、というシチュエーション。

希花さんを連れて「さぁ、ブルーグラスを聴きにいくぞ」と出かけたわけだ。

彼のフィドルプレイに関しては面白い意見を言っていた。

「音程とか正確さとかは度外視して、さすがに長い年月真剣にこの音楽を愛してきた心が感じられる。その切り込みのタイミングや歌の後ろのうねり。どれをとってもブルーグラスの醍醐味を感じさせるプレイだった」

Crying Timeのメンバーも“サブ”もみんなすごく輝いていて良かった。

加えて、最後に佐々木仁さんと渡辺三郎と僕の3人でのトーク。面白い話も沢山聞けたし、いつか近いうちにまたブルーグラスとアイリッシュの会を作ろう、という話にもなったし、

懐かしいお顔も沢山見れたし、少し遠い小金井市だったが非常に有意義な日になった。

佐々木仁さん、有難う。

内藤希花&城田純二CD New Releaseのお知らせ

2枚組セット 価格¥3500(送料¥150)

1 Gentle Wave 全9曲
2 今 風の中  全9曲

1か2、どちらかを単独でご購入の場合、¥2000(送料¥150)とさせていただきます。

内容

  1. はフィドラー、内藤希花を中心にしたインストルメンタル集。オリジナル曲を含む全9作品。ゲストにピアニスト宇戸俊秀を迎えての圧巻のセット。オールドタイム・バンジョーの響き、ビオラやアイリッシュ・ハープ、コンサルティナの演奏から、珠玉のエアーなど、アイリッシュという分野を意識せずにも十分な聴きごたえのある作品に仕上がっております。
  2. は城田純二を中心に、初代ナターシャーセブンのメンバー、金海孝寛、そして城田脱退後もバンジョーやベースでナターシャーセブンの音づくりに貢献した進藤了彦と共に、往年のナターシャーセブンサウンドを今によみがえらせています。故坂庭省悟とのデュエット曲や、同じく故木田たかすけとのデュエット曲など、懐かしい歌、懐かしい曲、全9作品。是非皆さんにも一緒に唄っていただきたいアルバムです。

 

単独でのご購入も可能ですが、現状況に於いてはセットで聴いていただいた方がより、僕らの音楽を感じていただけるかと思います。

それにセット価格は随分お得かと思います。

尚、1のGentle Waveはアイルランドでの発売もあります。

試聴・お申し込みはこちらからどうぞ
https://www.marekanaito.com/gentlewave-imakaze

フォークソング 1965年~1968年

当時、高校生だった僕らはギターに夢中だった。それも、どんな安物だったかも覚えていないくらい、また、どこで手に入れたかも覚えていないくらいのエレキ・ギターが最初だった。

云わずと知れたベンチャーズのコピーを一生懸命やっていた。

誰もが「テケテケテケテケ♪」とやりたかった時代。

僕らはドラムセットなんて言うものがなかったので、確か長谷川という先輩が机を叩いていた。

やっぱり一つ先輩の小柳さんがリードギター。彼は楽譜を持ってきて「ハイ、これがパイプライン」「これが10番街の殺人」と、次々にレパートリーとなりそうなものを提示してきた。同級生の三好君がやはりギターを弾いていたと思う。ベースのパートだったかな。

そんなある日、机担当、遊び人の長谷川さんが来なかったことをきっかけに(いや、他にもきっかけがあったかもしれないが)小柳さんが「こんなのやってみようよ」と言って持ってきたのが「パフ」の楽譜だった。

「こりゃいいわ。電気代もかからないし、ドラムも必要ない」

僕らは3人でそのままフォークソングに没頭していった。

まず、手掛けたのが「パフ」だったので当然PP&M。しかし、これは明らかに女性が必要だったので、僕らはすぐ、キングストン・トリオに転向していった。

少し前からブラザース・フォア―に憧れていた僕はバンジョーも弾いていたのでちょうど良かったのだ。

やがて12弦ギターもバンドで手に入れた。となると決まってやる曲は「グリーングリーン」

確か「ニュー・クリスティ・ミンストレルス」のバリー・マグワイヤーが“だみ声”でソロを唄うやつ。

これには相当しびれたものだ。

何故か希花さんが知っていたが、その理由は教科書に載っていたからだそうだ。

12弦ギターのサウンドにしびれた曲としては他にもルーフトップ・シンガーズの歌った「ウォーク・ライト・イン」があった。

でもあれ、チューニングするのがいやだったなぁ。

何はともあれ、周りにもフォークソングを歌う人達が段々増えてきて、僕らはサークルを作り、定期的に演奏会を開いた。

自分たちの主催で市の公会堂なんかを借りて、その当時は良く入ったものだ。

一度は東京からいろんなフォーク・シンガーやグループを呼んで(ほとんどが大学生)駿府会館なんていう大きなところでコンサートを開催したこともある。

成城大学だったか「オックス・ドライバース」あと「ニュー・フロンティアーズ」そういえば青山学院の「ブルーマウンテン・ボーイズ」も呼んだかな。

最も印象深かったのはニュー・フロンティアーズの瀬戸さんが「少し前までキングストン・トリオのジョン・スチュアートの家にいて、作ったばかりの曲を覚えてきたので歌います」と言って歌った曲が「デイドリーム・ビリーバー」

1967年12月のビルボードヒットチャートの1位というから、あのコンサートは67年の夏の終わり頃だったという記憶は確かかもしれない。

この曲も希花さんが「忌野清志郎で知っている」と言っていた。面白いものだ。時代を感じる。

当時のフォークソングで印象に残っている曲は沢山あるが、そのうちの多くはアイルランドやイングランド、スコットランドから渡ってきたものでもあった。

そんな風にフォークソングを歌ってきて、ごく自然の流れかもしれないが徐々に古いものへの興味が湧いてきた。

当時ニューポート・フォーク・フェスティバルの録音などを聴くと、僕らの知っているフォークソング、いわゆるモダーン・フォークというものとは少し違った演奏や歌が聴けたものだ。

モリス・ブラザース、フランク・プロフィット、クラレンス・アシュリー&ドック・ワトソン、ニュー・ロストシティ・ランブラーズ。

ブルースではミシシッピ・ジョン・ハートやブラウニー・マギー&ソニー・テリーといった人たちの唄もよく聴いたものだ。

どの演奏にもしびれた。だが、そういうものにしびれながらもモダーン・フォーク・カルテットのコーラスのコピーに明け暮れる毎日だった。

1965年から68年の高校生活はフォークソングに明け暮れていた。が、67年に来日した「ビートルズ」はやはり衝撃だった。と、いえども衛星中継でしか見ることができなかったが。

ビートルズで言えば1963年から64年になりかけている時くらいだろうか、町の小さなレコード屋さんで何気なしに「面白そう」と思い購入したものが「Please Please Me」だったような気がするが「I Want to Hold Your Hand 」だったかもしれない。

そして、確実にそれは彼らのメロディラインやコード進行に没頭した僕のフォークソングへの入り口となったのだろう。

ブルーグラス1968年~1970年

大学入学初日からバンジョーを持って学内を歩いていた僕が入部したのは軽音楽部。

そう、今で言う「けいおん!K-ON!」だ。それももう古い言い方かも。

そこに所属するブルーリッジ・マウンテン・ボーイズ。

最初はトイレの前でバンジョーの後打ちに明け暮れる毎日。トイレにベンジョ―。しゃれにもならないが、とに角これを制覇しないとブルーグラスにはならない。

フォークソングをやってきて、なんちゃってフォギー(と言えども結構完コピだったはず)をはじめ、例えばキングストン・トリオの「MTA」やブラザース・フォアの「ダーリン・コリー」に代表されるスリーフィンガー・スタイルは弾いていたが、完全なブルーグラス編成になると、この後打ちが大切なポイントとなってくる。

電車の遮断機がおりると自然と「カンカンカン」という音に対して「ウンカ,ウンカ,ウンカ」と口ずさんでしまう。

お寺の前を通りかかったら聞こえてくる木魚の「ポンポンポン」という音に対して「ウンポ,ウンポ,ウンポ」非常に不謹慎である。

そういえば、最も不謹慎な例としてこんなのがある。

友人の一人で大学を卒業後、家業のお寺さんを継いだが、彼は無類のブルーグラス好き。ある日、法事に出掛けた時の事。

袈裟を着て車で出かけ、信号待ちしている時に「アメイジング・グレース」を口ずさんでしまったという。手には数珠。ま、神も仏も寛容だとは思うが。

ブルーリッジは、フィドル、バンジョー、ギター、ベースという最もシンプルでそれらしいブルーグラス編成だった。

最初に僕も先輩に交じって演奏したのはShe’ll Be Coming Round The Mountainだったと記憶している。

今の学生バンドはまずやらないだろう曲。他にも「キャベツを茹でろ」とか。

場所は京都会館。軽音学部の発表会だったのかな。余談だが、そこに5弦バンジョーを始めて間もない坂庭省悟がいたのだ。

やがて、フィドルが抜けて徐々にカントリー・ジェントルメンのスタイルになっていくが、この辺のことは既に書いているので先に進もう。

この頃はまだニューグラスなるものは少なくとも日本では存在しなかった。アメリカでは既に新進気鋭の、当時ティーン・エイジャーだったサム・ブッシュやトニー・ライスというところが頭角を表してきたところだったろう。

僕らはカントリー・ジェントルメンの他にもジム・アンド・ジェシーやオズボーン、スタンレー、レノ・アンド・スマイリー、勿論ビル・モンローのブルーグラス・ボーイズ、フォギー・マウンテン・ボーイズ、渋いところではジョー・バルや、グリーン・ブライヤー・ボーイズなどをお手本に次から次へとレパートリーを増やしていった。

ひょんなことからバンドを抜けると、どうしてもやりたくなったのがオールド・タイムだ。

先ずはニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ。この3人編成にはしびれた。

中でも、バンジョーで言えばマウンテンマイナーチューニングの独特な響きに魅力を感じた。他のいい方ではモーダルサウンドということになるのだろうか。

マイナーともメジャーとも言えない独特の響きがなんとも気持ちがいい。

考えて見れば、フォギー・マウンテン・ブレークダウンのEmの部分。最初の録音でギターがEを弾いているのなんかがそれに当たるのだろう。

アイリッシュでも時折登場するが、リードは明らかにマイナー・スケールを弾いているのにギターがメジャーをぶつけることがある。

勿論同じ進行でも次の小節に使う音でモーダルシフトは取らないほうが良いものもあるので、この挾間が何とも気持ちがいいのだ。

ブルーグラスで最も顕著なのはクリンチ・マウンテン・バックステップのあの感じ。明らかにマイナーと言えるメロディに対して正直にギターが完全なマイナーを弾いてしまったら雰囲気が出ない。

こういうものを数多く聴いてくると、中にはもしかしたら最初にやった人の和音感覚が無くて…なんて思ってしまうものもあるが、それも諸説のうちのひとつかもしれない。

なので、たまには大昔の「こりゃひどい!」と思える演奏にも耳を傾けることが、少なくともこういった音楽には必要なことだ。

様々な憶測も加味しながら自身のスタイルを作っていく、という点に於いては。

大学生活のコピー、コピーに明け暮れた日々に別れを告げたのが71年頃から始めたバンド「ザ・ナターシャー・セブン」によるものだったが、それでも結局は毎日毎日様々な音楽をコピーしていた。

1971年.この年にはアメリカでテレビやラジオによるタバコのCMが全面禁止になったと聞くが、2017年の今でも、街角や料理店で他人の吐いた煙を吸わなくてはならない場面に遭遇する日本。

また、マクドナルド第一号店が銀座にオープンしたのもこの年らしい。

全く関係のない話になってしまったが、60年代から70年代にかけてはなかなか面白い時代であったかもしれない。刺激は沢山あったが、自らの手でそれをつかみ取ろうとしない限りはいつまでも手に入らなかった時代。

自身に関する音楽シーンだけをとってみてもそんなことが言えるだろう。

今 風の中

もうご存知のように先日、アルバム「今風の中」を作った。

このアルバムでは初代(と言える)ナターシャー・セブンのメンバーであったマンドリン奏者金海たかひろと、ひと世代下のメンバーだった進藤さとひこに参加してもらった。

参加してもらったというよりも大活躍してもらったわけだが。

60年代も終わりころ、竜谷大に通っていた金海君に「君はマンドリン」と言って無理やりマンドリンをやらせたのは僕だったらしい。

本人曰く。バンジョーがやりたかったそうだ。

もともと器用だったのでバンジョーもギターも弾くが、メインはやはりマンドリン。マンドリンに於いては紛れもなくジョン・ダフィーの流れを汲んでいる。

アルバムの中でも「Night Walk」でその片鱗を余すところなく聴くことが出来る。

考えてみれば、バンジョーのような重い楽器はこの歳になると相当辛い。その点マンドリンは良い。

よくステージでフラットマンドリンの説明をするとき、高石さんが「普通、マンドリンというのはお腹が膨らんでいますが、その部分は彼のお腹の中に入っています」と言っていた。

彼は今よりも体重があったからだ。

そういえばこんな話もある。

彼に変わって坂庭君が入った時、必然的にマンドリンを弾かなくてはならなくなったのだ。そんな坂庭君「こんな女々しい楽器はいやや」と最初は言っていた。

しかし、サム・ブッシュやデビッド・グリスマンの登場により、マンドリンという楽器の可能性は大きく変わっていった。

金海君もナッシュビルで素晴らしいマンドリン(1964年製)を手に入れている。

今回はそれを使っているが、彼はまたレコーディング・エンジニアとしての大きな功績も残してくれた。

今回、スムーズに事が運んだのも彼のおかげだ。

ボーカルものは難しい。それにものがものだけに著作権のことも考えなくてはいけないし。その辺も長く音楽業界に携わっている金海君にいろいろ相談した。

そして、大体を作り終えて進藤君には後からベース、ドブロ、コーラスを重ねてもらった。

静岡で3人が揃う、というのも不思議な話だ。

ちょうど進ちゃんの誕生日だったので、豊川から武ちゃんがケーキを持ってきてくれた。

そんな進ちゃんにも大活躍してもらった。

進ちゃんは、僕と省悟にとっては弟分みたいなもの。中学生か高校生の頃から良く知っていてさんざんいじらせてもらったものだ。

今では「我夢土下座」のメンバーとしても大活躍している。今回はバンジョーを弾いてもらわなかったし、リード・ボーカルも無かったがドブロとベースにおいて「流石」というプレイを聴かせてもらった。

しばし会わなかったうちに著しく成長したものだ。

このメンバーによる第2弾はまだ考えていない。しかし、これから先、今年に限り本当に少しだけコンサートを考えている。

現実問題としてみんなが揃うのはとても難しいし、そんなにやるものでもない、とも考える。

なので、またどこかで皆さんとお会いしましょう、としか言えない。

でも、気の合う者同士、また、長年様々な形で音楽に携わってきた者同士、みんなそれぞれに歳も重ねてそれなりにいい演奏(渋い演奏?)を聴いてもらえるだろう。

たまには明日の活力のために懐かしさに浸るのもいいし。

また、CDには3世代ほど若い内藤がハープ、フィドル、コンサーティナで参加しているのでコンサートではいくつかの楽曲に付き合ってもらうことにしている。

そうして懐かしさだけではない「今」を出したいと思っている。

生きているうちは誰でもが「現在進行形」なので。

Irish Music その111

★Aisling Yoshua

先日、CD 「Gentle Wave」をリリースしたが、その2曲目のワルツは、長い間のフェバリッツ・チューンだった。

それは2014年8月21日(木)アイルランド、カウンティ・ケリーの午後。

僕らはシェーマス・ベグリーのバックヤード、いやフロントヤード(あそこまで広いとどこが表口かどこが裏口か分からない)に止めてあった一台のバンから聞こえてくるラジオ放送にくぎ付けになった。

美しいその曲は見渡す限りの緑の丘と、気持ちのいいそよ風に乗って僕らのハートに突き刺さった。

現代っ子の希花さんにすぐ録音してもらい、誰の演奏でなんというタイトルかを言うだろう、と待っていたがすぐ次の曲に入ってしまった。

が、僕らは早速希花さんのコンサーティナと僕のギターで自分たちのレパートリーとして取り入れた。

でも、どうしても曲名が知りたい。自分が演奏している曲のタイトルを知らないのは恥だと考える僕なのでその日から検索オタクになってしまった。

アイルランドからのミュージシャンにも尋ねた。アイルランドのラジオ局にも問い合わせた。が、分からないという。

あれから3年ほど。とうとう見つけた!

Johnny Og Connollyの書いたAisling Yoshua(Josha’s Dream)という曲だ。

彼とは一度だけSpiddle というところのバーで演奏したことがある。彼の親父さんでメロディオン奏者として著名なJohnny Connollyと、なんとチャーリー・レノンもいた。

同じ2014年の、この曲を聴くだいぶ前、6月28日(土)の夜だった。
2014年アイルランドの旅~ジョニーの家~参照。

3年経った今、やっと見つけた。

しかし、先日来日したBrian McGrathがレコーディングでピアノを弾いていたようだ。あの時、時間があれば彼にピアノを弾いてもらってこの曲やろうか、と思っていたがやらなかったのだ。もしやっていたら「あ、俺それ知ってるよ」ってな話になったと思うと残念だ。

それにしても結構近いところにヒントがあったもんだ。

先ほど、Johnnyからメールが来た。演奏してくれてありがとう。その曲が日本という素晴らしい国で聴いてもらえるなんて嬉しいよ、という主旨のメールだった。うん、政治家以外は素晴らしい国かもね(僕の心の中)

僕も素晴らしい曲をありがとう、とメールしておいた。

懐かしいレコードの数々

多分書き始めてもきりがなくなり、忘れてしまったものを急に想い出したり、きっとまとまりのない話になると思うが、そこを敢えて文章にしてみようと思っている。

まず、小学生の頃に擦り切れるほど聴いた、ネルソン・リドル・オーケストラの「遥かなるアラモ」半音高かったが、カポをしてEmからB7 Em D G Am F# B7そしてその次がE7このE7を発見した時、胸が高鳴ったのを覚えている。ハーモニカでスタートする、なんとも哀愁のある演奏だった。でもその裏の曲のタイトルが「皆殺しの唄」これには驚いた。しかしこれもトランペットの響きが素晴らしい名曲だった。

「遥かなるアラモ」は僕が初めて静岡から東京まで一人で観に行った映画だ。1960年か1961年。11歳、12歳?親もよく行かせてくれたものだ。

なのでギターでコードを取ったのはその2~3年後かな。

そうこうしている間に出てきたのがビートルズだ。ビートルズの前はもっぱら映画音楽に興味があったようだ。ディミトリ・ティオムキンや、モーリス・ジャール、バーンスタインなど、何度も何度も聴いた。

他にも好きな曲としては「鉄道員のテーマ」や「ひまわり」とかやたらと暗いメロディも好きだった。そしてどれもこれもギターやピアノでコピーに明け暮れていた。

ビートルズくらいから自分のお小遣いでレコードを買いあさるようになった。

「リバティ・バランスを射った男」はフェァマウント・シンガーズという人達が唄っていたもので裏面が「悲しきむらさき貝」後にこれが有名な「Molly Malone」アイリッシュ・ソングだということを知る。

ハリー・ベラフォンテの「マティルダ」確か裏面は「ダニーボーイ」だったような気がする。

最も有名なのは「バナナ・ボート・ソング」かな。

ポールとポーラやボビー・ソロ、クリフ・リチャード。全部ドーナツ盤だ。もう時代が交錯していてよく分からないが、全て今の自分の音楽観に結びついていることは確かだ。

初めて自分で買ったLPはピート・シーガーのカーネギー・ホールだが、家には様々なLPレコードがあった、と記憶している。

「ウエスト・サイド・ストーリー」「西部開拓史」「アラビアのロレンス」全部映画音楽だ。

多くの映画音楽はオーケストラが素晴らしいアレンジをしているので、真剣に聴けば音楽的にはとても役に立つものだ。

「栄光への脱出」なんて今聴いてみても“えも言われん”コード進行だ。中学生くらいの時にはこの超難解なものをギターで弾いていた。

考えてみれば小学生の時にはプラモデルにお小遣いをはたき、中学になってからはもっぱらレコードに移行したのかもしれない。

明らかに「9500万人のポピュラー・リクエスト」の影響かな。

懐かしいレコードの数々2

多分こうなるだろうとは思っていたが、また思い出したものなどがある。特にこういうことを大体同じ年ごろの友人と話していると、出てくるわ出てくるわ、でなかなか終わらない。

最もそういう人達もかなりいろんなものを聴いてきているし、そのためにお金も使っている。

映画音楽で思い出したグループに「フェランテとタイシャ―」というピアノのデュオがあった。

もう二人とも10年ほど前に亡くなっているが、当時は僕にとってもピアノサウンドというものが身近だったので、とてもよく聴いていた。

今聴いてみても何故この人たちの演奏がそんなに受けていたのかよく分からないのだが、世界的に聴かれていたことは確かだ。

あまり聴かなかったモダン・ジャズという分野の中でもビル・エヴァンスとジム・ホールの「Undercurrent」というアルバムは忘れられない。

ジャケットもどういういきさつか、かなり不気味なものだ。

後はマイルスの「Sketches of Spain」これぞ名作だ。僕にとっては、と付け加えておくが。

ジャニス・ジョプリンの「Cheap Thrills」これは良く聴いていたが、サン・フランシスコに居た時に、彼女のバンドでベースを弾いていた人に出会った。

そんなこんなで、想い出したらきりがないくらいに、自分にとっての名盤が浮かんでくる。

当時はまだLPで、やっぱりジャケットというものには魅かれた。サイズも大きいので迫力もあったし。

キング・クリムゾンの「In The Court Of The Crimson」なんか、その最たるものかも知れない。

ジョニー・ウインターはジャケ買いしたことはないが、彼の音が好きで多くのアルバムを持っていた。

ジャケ買いしたアルバムには他、何があるだろう。上記のアルバムはほとんどがそうだ。そして、大好きだったブラザース・フォアのアルバムの中では「B.M.O.C」というアルバムのジャケットが特に好きだった。「Best Music On/Off Campus」というのが正式なタイトルだったのかな。それと「The Big Folk Hits」というアルバムのジャケットも、にんまりしながらよく眺めていた。

トラベラーズ・スリーというグループのジャケットを虫眼鏡で見て、バンジョーのピックの付け方を知ったわけだから、今のCDではなかなかできないことかもしれない。

ブルーグラスのジャケ買いの最たるものはカール・ジャクソンの「Banjo Man」だろうか。

こんな風にジャケット写真のことを想い出してみるのも面白いかもしれない。

7月、アイルランド遠征直前

恒例のアイルランド行まであと8日ほど。もう6年間ずっと、ほとんどが6月半ばから9月半ばまでという期間であった。

しかし、今年は様々な事情で7月を日本で過ごすこととなったのだが、ただひたすら暑い。

体中に湿気がまとわりついている。

耳も良く聞こえないし、眼も開きにくい。いや、歳のせいだけではなさそうだ。

希花女史も「耳にカバーがされているようだ」と言っている。

このような環境の中で、本来、楽器の持つ最善の音を導き出すことが非常に困難だと感じてしまうが、やはり和楽器には良い環境なのだろうか。いや、必然的にそうなるのだろう。

耳が塞がれているような感覚という、自分たちの体の状態もさることながら、楽器も鳴りにくいのではないかと感じてしまう。特に洋楽器にはそれを感じる。

そしてよく聞こえない、というのはやはりしんどい。政治家などは「聞かない」というところに重点を置いているようだが。あ、この話には関係ないか。

しきり直して、確かに音の届き方の違いというのは海外に出た経験のある音楽家の全てが口を揃えて言うことだ。

僕も砂漠のど真ん中で、グレイトフル・デッド、サンタナ、デビッド・リンドレーの想像をはるかに上回るジョイント・コンサートに出掛けて行ったのだが、それは強烈なものだった。

カラカラに乾いた空気の下、何百メートルも離れた場所からも、ひとつひとつの楽器の音がかなりクリアーに聴こえてくる。

いろんな要素があるのだろうが、やはり空気感が違うのだろうか。

だが、たまに日本でもかなり低い湿度を計測することがあることを考えると、そのことだけではない、ということも何となく分かるような気がする。

アイルランドの夏は、あれだけ雨が降る国なのに乾燥していて、実際の温度よりも寒さを感じる。

冬には湿度を感じるせいかビュービューと吹く冷たい風の中でも、日本の“刺すような”寒さというのはあまり感じない。

楽器が良く鳴るような気がするのは建物の造りのせいも多分にあるのかもしれないし、自分の気の持ちようでもあるのかもしれない。

とにかく、もう少しでまたアイルランドだ。

帰ってきてもまだめちゃくちゃ暑いんだろうなぁ。

クロウハンマーと記憶

最近、このクロウハンマーにまた目覚めてきた、と書いたのはもう1年半も前のことだったようだ。

段々慣れて来てはいるが、こればかりをやってもいられないので、なかなか難しい部分もある。と、これは単に言い訳に過ぎないのだが。

というのも、若いころはこればっかりやっていたのだから、根気がなくなっているのだろう。

今のところとても気に入っている曲が数曲あるので、それらを記録しておかないと忘れてしまう。

なんせ、アイリッシュ・チューンと同じで数千曲ありそうなので、さっき「お、いいな」と思った曲でもすぐ忘れてしまう事がよくある。

しかし、多くのオールドタイム・チューンはアイリッシュ・チューンのようにメドレーで次から次へと演奏されるような形式は取らない。

10回も20回も同じことを繰り返す。ほぼ同じメロディーを20回も繰り返すほどの気力と、ある意味、体力も必要になってくる。

バージニアのオールドタイム・フィドラーズ・コンベンションでは4日間に30分位しか眠らなかった記憶がある。倒れている暇があったら曲を覚えるために常にミュージシャン達と一緒に居なければならない、と考えたのだ。

クロウハンマーバンジョーに於いて面倒くさいのは曲によってチューニングを変えなければならないこと。面倒と言うよりはややこしい、といったほうがより当たっているかな。

ギターではいちいち変えるのは面倒だから、と言って全てDADGADで済ませているが、やはりブルーグラス系のものはそれでは雰囲気が出ない。

何はともあれ、最近は「Farewell to Trion」「Cold Frosty Morning」などが気に入っている。

最初の曲はgCGCD(ダブルCチューニング)2曲目はgDGCDのチューニングだ。これも書いておかないと忘れてしまいそう。

「All Young」と言う曲は2曲目と同じ、通称マウンテンマイナーというチューニング。

「Through the Old Caw Over the Fence」という気の毒な曲はgDGBDのスタンダード・チューニング。「Red Haired Boy」もだ。「Possum Up a Simmon Tree」「June Apple」も。

「Kitchen Girl」はマウンテンマイナー

少し前になんかややこしい曲を覚えたはずだったが、使ったこともないチューニングだったので、すっかり忘れてしまった、というものもある。

医師曰く「思い出そうと努力することが大切」らしい。

多くの場合の、あれどこやったっけ?あのひと誰だっけ?など、そして一般的な疑問も出来る限りネットに頼らず思い出すことにしているが、無理なこともある。

ここでは申し訳ないが自分のために、自分の記憶を辿って書いているわけだが、今のうちにレパートリーを書き留めておかないとやばいことになるかも。

でもあんまり情報をインプットしないほうがいいだろうか。

もう記憶ボックスも端っこの方は破れてきているのかもしれないから。

Irish Music その112

★Jem the Miller     O’Carolan

この曲は僕が今、一緒にギターを弾くことで、ついでに教室としても考えてもらっている、通称、ケニア君という友人から教わったもの。

日本人ではあるが、ケニアに永く滞在した経験があるのでなんとなく僕がケニア君と呼んでいる。

彼が、ジャッキー・デイリーの演奏から覚えたと言って弾き始めたが、かなり前のことで忘れてしまったという。

少しだけ聴いてもなかなか良い曲だったので調べてみると、一応O’Carolanの作品となっているが、実際はもしかしたら、Co. LimerickのフィドラーNed Goggin(1844~1850’)の作品ではないかというかなり有力な説があるようだ。

メロディは美しく、時代背景からジグだと言う人もいるが、ワルツとして演奏することができるので、僕らはこの後、何にいくかは決めていないが、Ukepick Waltz にいくのもThomas Farewellにいくのも良さそうだ。

ケニア君に感謝。

2017年 アイルランドの旅 1

7月31日(月)午後。晴れ、ひたすら暑い。

例によってエティハド航空のカウンターに向かう。

荷物の制限が12キログラムと書いてあるが、周りを見ると、とんでもなく大きなバッグを持っている人で溢れている。

ここは日本人の僕らとしては「これじゃダメなんじゃないか」と、特にA型の僕はソワソワと気になり始める。しかしO型の希花さんは、

気にしながらも「知らんふりして持って行っちゃったらいいよ。なんか言われたらそうですかって言えばいいし」と落ち着いたものである。

かくしておそるおそる荷物を預ける手続きをしたが、それに関しては何もお咎めない。一体何のために書いてあるのだろう。

ま、そんなことはいいとして、友人からアイルランドはそろそろ長袖が必要です、と言ってきた。

その人は、今年のフィークルのパンフレットに僕らの名前を見つけました、と喜んで教えてくれたが、なんか毎年同じものを使い回しているんじゃないかな、

と僕らは思う。行かなくてもいいかもしれない、と思いつつ、セッションホストを受け持つ日本人の僕らは目立つから、そういうわけにもいかないかな。

機内食は僕がサーモンの照り焼き、希花さんは中東風チキンのベークしたもの。

なんやかや、暇な時間を過ごすが、この午後のフライトの方が、いつもの夜中くらいに出発するのより早く着くようだ。ということは、機長がやる気満々なのか、機体が新しいのか、風が強いのか、よく分からないけど、そんなことを考えている間にアブダビに着いた。

午前 4時10分(日本時間)午後11時10分(アブダビ時間)この時間でも35℃はゆうに超えている。そう言えばさっきまで45℃と聞いていた。

待ち時間に希花さんが「ラウンジで映画の(ライフ オブ パイ)みたいな顔した人がやっぱりカレー食べてる」と喜んでいた。僕らにもやっぱり寿司とかが似合うんだろうか…。

2017年 アイルランドの旅 2

8月1日(火)ダブリン。曇り。気温13℃。

ゴールウエイから「和カフェ」のオーナー、早川芳美さんが、預けてある僕の楽器をわざわざ持ってきてくれた。朝早かったのに本当に感謝です。

しばし再会のコーヒーで話が弾んでいると、キアラン君が来てくれた。

今回も彼のところにお世話になる予定だ。

全く変わらない景色を見ながらカーロウに向かう。時折雨がサーっと降り、左側は太陽がサンサンと輝き、右側は真っ黒な雲で覆われている、そんな空を見ながら。

キアラン君の家はヒーターがついていた。

今晩はニューヨークから来ているDana Lynに約15年振りに会うことになっている。

それも、偶然ここからすぐ近くの友人宅に彼女が滞在している、というのだ。

そして、それも今日、明日まででニューヨークに戻るという。なので、本当に偶然が重なってやっと会えるのだ。

電話すると、懐かしい声がした。早速、キルケニーでセッションがあるからそこで会おう、という話がまとまった。

滞在先は、以前ソーラスでアコーディオンを弾いていたMick McAuleyの家だ。それも偶然、キアラン君の家にも時々やってくる仲だったのだ。

セッションは彼がホストを務めるもので、彼の兄弟、Anthonyも来る、という。

かくして、午後8時、キルケニーに向かった。

パブに入るとすぐのところにDanaが立っていた。なんだか大きくなったみたいだ。僕が縮んだのかもしれない。

時の流れを感じたが、すぐセッションの始り。曲の間にむかしの話を色々したが、とても時間が足りないので明日も会おう、いう話になった。

そして、10時半頃解散したが、さすがアイルランド人のキアラン君、もう一軒寄って行こうと言うのでこちらも勢いで付いて行った。

場所はキアラン君の生まれ育った街のローカルなパブ。ここからなら多少飲んでも捕まる事はないし大丈夫だ、といって多少どころではないギネスを

あおって帰って来たのが1時ちょっとまわった頃。

さすがに眠くなって来たが、かえってこれくらいの方がバッタリと眠れて良かったのかもしれない。

8月2日(水)カーロウ、バグナルスタウンのキアラン宅。 曇り 気温10くらいか少し寒い。

朝、それでも7時に起きて外をみると小雨が降っているようだが、すぐにあがりそうだ。キアラン君の洗濯物が庭ではためいている。

多分、3日ほどあの状態が続いているのだろう。

アイルランド人の動物的勘というやつで大した雨はしばらく降らない、と予測しているのだと思う。

2時半頃DanaMickがワインとアップルパイを持ってやって来た。

彼女はずっとベジタリアンで通している。そういえば日本に来た時もいろんな所に食べに連れて行ってあげようと言っていた省ちゃんが困っていたのを

思い出した。

なので、キアラン君はベジタブル・カレーとチキンの焼いたものと別に2種類を用意してくれた。それと定番、ベイクドポテト。

話は限りなく続いて結局、最後のアップルパイが終わった頃には9時を少しまわっていた。

Danaは明日、朝7時にダブリン空港に行かなくてはならない、と言っていたが、ちゃんと起きられるだろうか。

日本に行く時、家に忘れてきたパスポートを取りに戻ったことを思い出した。

無事にニューヨークに帰れることを祈って、そして再会を願ってこの日は別れた。

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2017年 アイルランドの旅 3

8月3日(木)9時起床。少し薄日が差しているが、さっきまで小雨が降っていたようだ。1日目の行動のおかげで時差ボケを感じない。

やっぱり無理にでも起きていた方が良さそうだ。

隣の家のニワトリがやって来た。こっここっこ言いながらキアラン君の庭を歩き回っている。

昔は僕の家でもたくさんのニワトリを飼っていた。卵を生むからという理由だったのだろうか。あの鳥たちはどうしたんだろう。

近所のお店で唐揚げにでもなったんだろうか。

そんなことを思い出しながら、ポリッジをあげたら喜んで食べていた。1時間ほど昼寝。なんだかんだ言ってやっぱり体は疲れているようだ。

夜はフィドラーのDave Sheridanに会いにカーロウの街に出た。

キアラン君もたくさん飲みたいので電車に乗って行ったが、面白いことにお金を払わずに済んだ。詳しくはライブで。

セッションで盛り上がって、Daveの奥さん、Michelleが車で送ってくれて家に戻ったのが3時ころ。またワインを飲んで4時頃眠りについた。

8月4日 (金)晴れ。やっぱり15くらいだ。

朝、ポリッジを入れた入れ物をカンカンと鳴らしたら一目散にニワトリが駆けて来てがむしゃらに食べていた。こっここっこ言いながら。

そういえば去年、あらぬ時間によく「こけこっこ~」と聞こえていたが、こいつだろうか。声だけでは判断は難しい。

昼にこの近くに住むれいこさんが会いに来てくれた。カーロウに来たら必ず会うことになっている。彼女も忙しい人なので再会を祝して、近々また食事でも、

ということで今日は別れた。

夜はここ、バグナルス・タウンのローカルなパブLawlowでセッション。地元の人たちの集まりなのでスーパープレイヤーはいないが、みんなそれぞれに

いい味の歌を聴かせてくれる。

パブを出たのが2時。それもみんなと一緒に総勢6人ほどでタクシーに乗ってキアラン君の家に向かう。

フランスへ行った時に一緒だった若者たちもいる。

それからが大変。結局寝たのはほとんど朝の5時。ケリーじゃないんだからもう。

2017年 アイルランドの旅 4

8月5日(土)よく晴れて、気温は15℃くらいだろうか、少し暖かいような気がする。

8時頃に起きて昨夜の後片付け。キッチンにお皿からグラスからフライパンやら細かいものが山のようになっているので、いや、キッチンだけではない。

リビングのいたるところ、しかしよく飲む連中だ。彼らがお酒を飲める年齢から死ぬまでの酒の量って太平洋の水よりも多いんじゃないかな。

アホなことを言っていないでみんなが起きて来るまでにさっさと片付けたい。どうせ10時前に起きて来るやつは居ないだろうけど。

今日は今回の旅のメインイベントの一つがある。

キアラン君のお誕生日だ。

その40歳の誕生日を彼の友人二人がお祝いしてくれるらしい。それも素晴らしいレストランで。

僕たちも一緒に来てくれ、というので「いいのかな」と思いつつも付いて行った。

キアラン君も友人たち(ナイルとコルム)二人も口を揃えて、川の辺りにある山あいの素晴らしいレストランだと言う。

車で30分ほど、それも例によって細い田舎道を80キロくらいで他の車とすれ違いながらすっ飛ばす。やがて対向車や後続の車など一切見えなくなるような

場所へと進んでいく。

着いたところは小さなお城みたいな素晴らしいレストラン。駐車場にはそれでも10台以上の車が止まっている。

すぐ横を流れる川は水が澄んでいて、これをそのまま下っていけばダブリンに行くらしいが、今日はまず食事だ。

森に囲まれた素晴らしいレストラン。中は思ったより広い。そして多くの人で賑わっている。知らなければ絶対に来れないところだ。

しかし、思うに本来だったらガール・フレンドと誕生日を祝うような場所に男友達と来ている、というのがとても面白い。

こうして同性の友人たちと過ごすのが気楽で好きそうなキアラン君。やっぱりみんなも彼のことをいい奴だと心底思っているのだろう。

彼と一緒に過ごすのが好きみたいだ。

美味しいワインと、見た目も美しく美味しい食事と楽しい会話で2時間があっという間に過ぎていった。

8月だと少し日が短くなっているのだろうか。夜10時。森はすっかり闇に包まれている。

僕らも連れて行ってくれた彼ら3人に感謝だ。

そのあと飲みに行くというので先に帰ったが、午前2時頃、無事に帰宅したような音がなんとなく聞こえた。

キアラン君、お誕生日おめでとう。Happy Birthday!

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2017年 アイルランドの旅 5

8月6日(日)小雨。今日は寒々としていよいよ秋到来、という感じ。

日本は今頃35とか軽く超えていて暑いんだろうな。

まだみんな起きて来ないので、ひとりポリッジを楽しんでいる。お、キアラン君が起きたみたいだ。

今日は一日中こんな感じの雨がしとしと。時折あがるように見えるのだがやっぱりアイルランドだ。

キアラン君、少し雨が上がって来たみたいだし、軽く走って来るか、と言っていつものコースまで車で出かけて行ったが5分位で戻って来た。

すごい雨が降って来たからだ。

「100メートル走ったら雨が降って来た」と言ってずぶ濡れ状態でコーヒーと適当なサンドイッチをほうばった。

これからみんなでれいこさんのところへディナーに出かけることになっている。

僕らとしてはそろそろ醤油味が食べたくなって来た。それを予測してのサンドイッチだろうか。

れいこさんの家には、以前家をシェアしていた好青年のダラウも来ていた。犬と猫も。

トンカツや炊き込みご飯、味噌汁、その他、お箸が止まらないものばかり。

キアラン君もまだ途中なのに、数少ない日本語のボキャブラリーで「美味しかった」と言いながら食べていた。

とても忙しい中、たくさんのご馳走を作ってくれたれいこさんに、そして後片付けを黙々とやってくれたダラウに感謝。

一日中雨が降ったり止んだりの日曜日に楽しい思い出ができた。

8月7日(月)曇り。相変わらず寒い。

お、こけこっこが元気よく鳴いている。現在720分。なかなかいいタイミングだ。この緑に囲まれた景色とこけこっこはよく合っている。

思えば広島の日が過ぎ、長崎の日がやってくる。それなのにまだミサイルを飛ばしている奴がいるかと思えば、涼しい顔して「断じて許せない行為で厳重に抗議する」くらいのコメントで美味しいもの食べている奴もいる。

そういえば「違うだろう!この..」の議員、どこで美味しいもの食べていつまで隠れているんだろうか。

「空(くう)です」と言ってニッコリ笑い、それまでのことをうやむやにした人にはまだ給料が払われ、高い洋服を買って美味しいもの食べているんだろうか。

せっかくアイルランドに居るのだから取り敢えず考えても仕方のないことは考えない方がいいかもしれないが、腹はたつ。

ここに美味しいものは少ないし。

晴れてきた。絶好とは言えないかもしれないが洗濯のチャンスか

今日は近くの養老院でボランティアの演奏をすることになっている。

2時に現場に出向く。おじいさん、おばあさん達がそれぞれ得意の歌を披露してくれたり、僕らが演奏したりで1時間ほどが過ぎた。

終了後、お決まりの紅茶と焼きたてのカップケーキなどをいただいてしばし歓談。

と言ってもみんなかなりのお年寄りで言っていることはほとんど解らない。去年会ったマギーというおばあさんがいた。あの時もさっぱり解らなかったが、

無理もない。キアラン君でも解りづらいらしい。

今日はそんな感じで早く家に帰れるので、できるだけ飲まずに早く寝よう。

2017年 アイルランドの旅 6

8月8日(火)曇り。6時起床。

今日はKilkennyでブズーキやマンドリンの制作をしているPaddy Cleereに会いに行く。彼のマンドリンはアンディ・アーバインなど、著名な音楽家も使用しているとてもクオリティーの高い物だ。

7時半、キアラン君の目覚ましが激しく鳴っている。遠くからこけこっこも聞こえる。起きる気配はない。

7時40分、お、また目覚ましが鳴った。今度はガタガタと音がする。お、なんか落としたようだ。

11時、彼の工房。誰の工房へ行っても雑然とした中にも数々のこだわりを感じる。

主にマンドリンとブズーキを製作している彼はテナー・バンジョー奏者、ということだ。

その彼が作り出すマンドリンの音は、これがブルーグラスで使われるものとは全く異なるものだ。そのタッチから音の一つ一つの粒まで、

やっぱりアイリッシュ・チューンを弾くために作られたものだ。

そしてブズーキ。これが極上の音がする。スプルース・トップのものとシダー・トップのもの、2種類を弾かせてもらったが、これはどちらも凄い。

抜群の鳴りだ。これもアイルランドという土地だからかな。

いや、この音の立ち上がりは他に持って行ってもそれなりのものなんだろう。

もし、これから、もうちょっとブズーキを研究したいと思っていたなら喉から手が出るほどの物だ.

訊いてはいないが結構な値段がするだろう。

しかし、真剣にこの楽器に取り組もうと思っているとしたら、一度は手にしてみる価値がある。

IMG_7342 (1)Paddyが3人で演奏している動画を撮っていいか?というので今日はフィドルを持っていない希花さんはマンドリンを弾く。

かくして、キアラン君はいつもの自分のフルートじゃないしなぁ、と言いつつ、僕はキアラン君の所有するテイラーギター(これは絶品)を弾き、

希花さんは「いいのかなぁ」と言いながら1年に数回も弾かないマンドリンを弾く、という動画が完成してPaddyも喜んでくれた。

素晴らしい楽器を見せてもらった後は一路Kilkenny市内へ。

因みに彼の工房は市内から20分ほどのところにある。

今日は、もう一つのビッグイベント、この3ヶ月アイルランドにホーム・ステイしながら英語の勉強をして来た早野さんが、帰国直前に僕らに会うために、

エニスからわざわざやってくるという。

10何年もの間、夏休みを利用してのアイルランド探索を続けて来た早野さん。

持ち前のバイタリティで、こんな遠くまで、2時間ほどというほんの少しの時間、僕たちに会うために長い時間かけてやって来てくれた。

そしてそんな彼女をキアラン君が一杯ケアーしてくれた。

早野さんにも、キアラン君にも感謝です。

2017年 アイルランドの旅 7

8月 9日 (水)小雨。7時半起床。

冷たそうな風が吹いている。庭でキアラン君の洗濯物が昨日からはためいているので、後で晴れるのだろう。

明日から集中的にコーク、ケリー、クレアと回るので、しばし忙しくなる。ネット環境もよくないところばかりなので、

どういうことになるやら。もっとも、古い時代の音楽シーンにはそんなものは関係なかったのだが。

音楽、特にこの音楽(民族音楽全般といったほうが正しいだろう)では、極悪の環境の中でも歌い継がれてきたもの、演奏され続けてきたもの

の魂を感じることが最も大切なことかもしれない。

幼いスタンレー兄弟が眺めていた景色も、ブレンダン・ベグリーが眺めていた景色も、本で読んだり聞いた話だけではこの手の音楽には入っていけない。

音楽と生活との結びつきは特に語ることでもないような気がする。

今日は、去年ここにいた時にお世話になったジョン(バンジョー大好きおじさん)がバケーションから戻ってくるので、後でワイン片手にやってくるだろうか。

3時頃からカーロウの町に出かけるので、ご飯を炊いてオムレツを作り、持ってきたわさびふりかけと一緒に食べた。

今現在はとてもいい天気。気温は16くらいだろう。部屋の中をミツバチが飛んでいる。

急に庭仕事をすることになった。また芝刈りと垣根の葉っぱをカットする。広い庭も結構大変だ。こんなに涼しいのに汗びっしょりになった。

裏庭ではニワトリがこっここっこ言ってウロウロしている。なんか丸々と太ってきたようだ。

カーロウから帰ってきた。何を思ったか急にキッチンの掃除を始めたキアラン君。

希花さんが「ちゃんと食器用の布巾とそこらへん拭く布巾と分けているかな」と心配しているが、見なければ問題ない。

それくらいで病気にはならないだろう。日本にいたら気にするが、ここでは大体のことは仕方がない。

晩御飯はタイカレーと定番のワイン。そろそろ8時半だがまだ全然明るい。日本の4時くらいか。明日からの長旅の用意をしなければ。

家の中がタイレストランの匂いになっている。

8 10日 (木)晴。7時。朝からキラキラと輝く快晴だ。

今日は午前中に、キアラン君の知り合いの女性のギターレッスンをすることになっている。シンガーだというので、多分スタンダード・チューニング。

どちらにせよ、ギターはなかなか教えるのが難しい。定期的に段階を踏まえて、という感じならばそれなりにやり方があるのかもしれないが。

とにかく見てもらうしかない。

基本的なアルペジオやフィンガー・ピッキングと、ベースランのアイデア、コードワークのアイデアくらいで1時間くらいはすぐ過ぎてしまうだろう。

ましてや話好きのアイリッシュ。それだけで半分くらいの時間が過ぎそうだ。

お、アンドリューからメッセージが入った。彼も歳と共にあまり眠れなくなったか。いや、これから仕事に出かけるらしい。

土曜日の夜、僕と希花とTara&Dermey Diamondの4人でセッション・ホストをやることの確認を、出かける前にしたかったみたいだ。

3時過ぎに家を出たが、町でばったりDave Sheridanに会ったが最後、立ち話で30分ほどかかる。とことんアイリッシュだ。

6時45分頃、コークのCorner Houseに到着。お店のオーナーも顔見知りになったので快く迎えてくれる。

Mattが手ぐすね引いて待ってくれていた。そして、一人のパイパーを紹介してくれた。彼は僕のことをよく知っている、と言って、話を聞いてみると、

約17年くらい前になるだろうか。サン・フランシスコのプラウ・アンド・スターズでケヴィン・グラッケンと一緒にクワルテットで演奏した時の

パイパーだった。名前はEoin Oriabhaigh(難しい名前だ)フルートはConal Ograda、色々と謎だった人脈が繋がって来た。

この日は8時までのセッションなので、キアラン君はそれからカーロウに戻って行った。長い旅路をありがとう。

Mattの家で奥さんのLizが用意してくれた絶品料理とワインでしばし歓談。12時頃に就寝。

2017年 アイルランドの旅 8

8 11日(金)晴 8時頃起きて外を見ると、どんよりとしているが雨は降りそうにない。

目一杯のおもてなし朝食をいただいた後、Eoinのパイプ工房を見学。京都でいうなら平安神宮くらいの土地の広さがある緑に囲まれた家の中にある

工房は、もう町工場並み、弦楽器の工房とは全然違うものだ。

10匹ほどの羊が餌をもらいにやって来た。人懐っこい犬もいる。定番のコーヒーとビスケットをいただいてしばし昔話を含め、いろんな話に興じて家に戻り、

いよいよCastle Islandに向かう。

途中、Sliabh Luachraの音楽の聖地見学に連れて行ってくれた。

音楽しか娯楽がなかった時代の、それも人里離れたこの環境の中で生まれ、人々に伝承されて来たものをじっくりと見せてもらったわけだ。

これを見てしまったら、やれバンドだ、やれライブだなんて軽く言えるものではない。もっとも、アイルランドにはそういう所がいっぱいあるし、

Mattのように伝統をしっかり受け継ぐ人も沢山いるはずだ。

Castle IslandではJackie Dalyが待っていた。彼とは今回が初めてだ。

今晩はShoe Makerというパブでセッションがある。考えたらここはもうKerry、地元の人たちも参加してのセッションはやっぱりポルカやスライドが

多く出る。まだ小学生くらいの女の子が絶妙なコンサーティナとティンホイッスルを聴かせてくれた。

パブに飾る絵の除幕式の後に再び始まったセッションは2時まで続き、ジャッキーはすっかり寝てしまっている。みんなが楽器をしまいかけると、急に

起きてまた弾き始める。中でも、彼の作曲したFly Fishingという曲は圧巻だった。僕らがよく知っているとは思わなかったのだろう。

この曲を聴いたのは、クレアからのたった一つのレコーディングだった。あまり知られていないが名曲だ。

ついでにアルバムEaves DropperからBlackbirdも,Buttons and BowsからBluemont Waltzも一緒に演奏してもらった。

やり出したら止まらないが、そろそろ2時半も回る。

今日はMattの友人の家に泊まる。この辺の大きな音楽イベントを手がけている人だ。

またまたワインでしばし歓談。結局3時半頃就寝。朝方、起きてトイレに行くと、リビングのソファーでJackieが座ったまま寝ている。

電気も点いたままだったので、そろそろ明るくなっていたし、そっとスイッチを切っておいた。

2017年 アイルランドの旅 9

8 12日(土)小雨から曇り。後、快晴。9時起床。

それぞれが起きて来て10時頃から朝食を食べながらしばし歓談。庭をウサギが駆け抜けて行った。

僕らは今日、何年か前に知り合ったアンガスという男にピックアップしてもらってフィークルに行く。彼は音楽家ではなく、様々なフェスティバルの間

飲んで歩いて音楽を聴いて回るのが好きなのだ。因みにローリーという兄貴がいるが、彼とはフィークルで待ち合わせているという。

アンガスとの待ち合わせは2時半頃。

朝食の後、時間があったので、Jackieがまたアコーディオンを弾き始める。Mattもフィドルを出す。ちょっとの間セッション。
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こういう時間がとても貴重だ。

アンガスはきちんと連絡をくれる。少し遅くなるというので、待ち合わせ場所のホテルのロビー、というか素晴らしいスペースでコーヒーを飲みながらゆっくりする。

3時過ぎに彼が来てくれた。なんだかんだ言って毎年顔だけは合わせているが、なかなかゆっくり話もできない。

クレアまでは2時間半ほどなので話はいっぱいできた。途中、リムリックで彼らの母親が入院している病院に寄り、またクレアに向かう。

景色は段々クレアそのものになって来た。

僕らはアンドリューの家の前で降ろしてもらい、フィークルで会う約束をして別れた。

しばしアンドリューの家で休み、彼と一緒にガタガタ道をフィークルに向かう。

夜はTara&Dermy DiamondそれにGerry Harington Charlie Piggotも来て、12時まで演奏。

さて、アンドリューの家までどうやって帰るか考えていると、目の前に今まさに出発、という女の人がいた。相手が女の人なので希花に声をかけてもらった。

そしたらEnnisまで戻るからいいよ、と言ってくれる。

道中、色々話を聞くとNorth Carolinaから引っ越して来たばかりだという。さらに話をしていると、何とJodys HeavenCDを、いつ、どこで手に入れたか

覚えてないけど持っている、というのでお互いびっくり。

彼女のおかげで無事アンドリューの家に到着。2時半頃就寝。

813日(日)曇り。ひたすら寒い。8時55分に目が覚めた。よく寝たようだ。

しばし散歩。

フィークルでは、僕らが到着する前の日はずっと雨だったらしい。

お昼を近くのチャイニーズレストランで済ませ、一路フィークルへ。

まず、3時からBohansというパブでセッションホスト。全く知らないのに弾いている困ったちゃんが2人いたが、先日初めて会ったデイブ・シェリダンの

奥さん、ミッシェルも参加してくれてアンドリューも大爆発。

困ったちゃんは有名らしく、どうしようもないのでマイペースで進めていく。3時間ほどで終わって、ペパーズに移動。

ここで9時過ぎからピート・クイン、カレン・ライアン、アンドリューの面子に混じって演奏する。

例によって自分の好きな相手で自分を取り囲むようにセッティングするアンドリュー。この時が一番シリアスで嬉しそうだ。

アイリーン・オブライエンやジェリー・ハリントンも来て、大盛り上がり。そこにデイブとミッシェルも来て更に大盛り上がり。

ピートはキーボードだが、僕とコード感覚が良く似ていて、彼も僕の出す音に頷きながら嬉しそうに弾いてくれる。2人で「そう、これでなくちゃ」

とにんまりするシーンがいっぱいある。

帰りはミッシェルの車でTullaまで。時刻はもう3時を回りかけている。就寝は4時近くになって、いや、4時回っていたかもしれない。

頭の中を沢山のチューンが駆け抜けている。

2017年 アイルランドの旅 10

814日(月)曇り。少し晴れているが、もうずっと寒いままだ。15ないだろう。

今日は後でエニスへ行って、そのまま移動する。アンドリューとも暫くお別れだ。

姉のマリーさんの車に乗って一路エニスへ。段々暖かくなってきた。

マリーさんの娘も相乗りして、やっぱりいつものやんちゃなアンドリューはどこかに消えてしまっていて小さくなっていた。

さすがのアンドリューもお姉ちゃんたちにはかなわないようだ。可愛いものである。

今日はアコーデイオン弾きの町田かなこちゃんの所に泊めてもらう。

旦那のブライアン・マグラーが夜、パブでセッションがあるので行くか?と訊いて来た。今日のお相手はアラン・ケリーだという。

有名なピアノ・アコーデイオン奏者だ。今までに会ったことはないが、素晴らしいアコーデイオン奏者で来日経験も豊富な人だ。

ブライアンのバンジョーもさすがである。またじっくり聴きたいものだ。

2時間ほど一緒に演奏して帰って来てディナー。かなこちゃんと希花さんが美味しい中華風のお料理を作って待ってくれていた。

ゆっくり会話を楽しんだ後、久しぶりに12時前には眠りについた。

815日(火)晴れ。

またまたよく寝れたようだ。6時頃一旦目を覚ました時にはかなり雨が降っていたが、次に起きた8時半には明るい日差しが窓から入っていた。

本来、今日ケリーに行く予定が変わったのでもう一晩ここに泊めていただくことになった。

朝食はブライアン特製のブルーベリー&バナナが入ったポリッジ。

昼からキンバラに出て買い物をする。途中、ジョニー・リンゴがコーヒーを飲んでいたところに遭遇。

僕と同じユニクロの商品、同じデザイン、同じ色の、多分サイズも同じ上着を着ていたので大笑い。しばし話をして、マーケットに行く。

「ここではテリーと会うことがよくある」とブライアンが言っていた矢先にテリー・ビンガムがひょこひょこと示し合わせたようにやって来た。

誰かしらミュージシャン仲間と会わないことはない、という小さな街の小さなマーケット。

お昼のレタスチャーハンと夜のハンバーグの具材を買って帰って来た。

夕方からはまたキンバラに出向き、有名なパブ「M Green」で演奏させてもらった。

ブライアンと希花、僕、そしてまだ2ヶ月も経っていないベイビーの「ショウナちゃん」を胸に抱えたかなこちゃんがアコーディオンを弾く。

その姿からは子育てをする母親としての力強さ、そしてミュージシャンとしての生命力を感じずにはいられなかった。

ピュアな演奏と素晴らしい光景を見せてくれたかなこちゃんに感謝。

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2017年 アイルランドの旅 11

816日(水)雨のち曇り。7時過ぎに起きた時にはかなり雨が降っていた。

今日はブレンダン・ベグリーとAdeaという小さな村で待ち合わせをしている。

エニスまでブライアンが送ってくれるのでそこからバスで行くことにしている。

どこの街に行っても「あんた達Fleadhに行くんでしょ?」と言われるが、それで盛り上がっているエニスは僕らにはいつも通過地点だ。

「いや、あんなにすごい人波は東京だけで充分」と言ってお茶を濁す。

Adeaの待ち合わせ場所には時間通りにブレンダンが待っていた。

一路ディングルを目指す。

途中でいくつかのレストランに立ち寄ったが、どこも時間的にランチタイムは終わっていたので、ディングルまで我慢。

結局、本日の演奏場所St.James Churchのすぐ近くの小ぢんまりしたレストランで食事をした。

ブレンダンが全ての支払いを済ませて早々と別な場所に行った。僕らは直接教会に向かう。

サウンド・チェックは6時から、と言われたが、やっぱりアイルランドだ。誰も来ていない。

庭で野良猫が数匹ウロウロしている。

しばらくすると、スタッフが現れてあっという間にサウンド・チェックの始まり。

アイルランド人というのは、やり出すまでは時間がかかるけど、やり出したらとんでもなく早く終わらせるという話を聞いたことがある。

この日のサウンドマンもあっという間に音を決める。それも最良の音を。

かくしてコンサートは7時半から僕らがファーストハーフ、ブレンダンと息子のブリアンがセカンドハーフを演奏。

コンサートが終わるとすぐに近くのTommy OSullivanの経営するパブへ。ここでも演奏だ。

教会の静けさとはうって変わってこちらは思い切りたくさんの人が飲んで楽しんでいる。

それでも注意深く音楽を聴く人で溢れているのだ。

ブレンダンが言う。「John Sheehanが来ている。引っ張り出そう」
かくして世界的に有名なDublinersのフィドラーが加わったわけだ。

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セッションは限りなく続く。ケイプブレットンスタイルの若手Rosie MacKenzieという女性も加わって迫力ある演奏を披露する。

1時も回ったころ、連日の仕事疲れがたたっているブレンダンと一緒にその辺で失礼することにしたが、まだセッションは続いたようだ。

暗闇をすっ飛ばすブレンダン。

彼、自慢のトレイラーハウスに到着したのが1時半頃。

ワインを飲んでしばし話をして、眠りについた。

817日 (木)快晴。

855分。よく寝たようだ。しばし散歩をしてケリーの雄大な景色と澄み渡った空を、そして冷たく美味しい空気を楽しむ。

10時過ぎにみんな起きて来た。ブレンダンは相当疲れているようだ。

3分の1ほどの体の希花さんもブレンダンの10分の1ほどの動きで疲れ果てているようだ。

それというのも、この家は彼が自らの手で組み立てたトレーラーハウスなので、都会暮らしに慣れている現代っ子には相当厳しいものがある。

そのあまりに大きいギャップから尚更神経が疲れているのかもしれない。

僕も都会っ子だが、戦後間もない生まれなので、多少のことには動じない。といえどもこの家には筆舌に尽くしがたいものがある。

何はともあれ、彼の建てた家はいろんな意味でアイルランドの、特にミュージシャンの間では有名なのだ。

そんな家の中で聴くアコーディオンの音色にはまた格別な味わいがある。

時間は矢のように過ぎてしまい、11時に出発してディングルに向かう。僕らはそのままゴールウェイに行くことになっている。

ランチを一緒に食べよう、という話になり、ブレンダンお気に入りのレストランに入った。

おしゃれで、食材にも気を配った小ぢんまりしたとてもいいレストランで前にも立ち寄ったことがある。

また彼がご馳走してくれるというが、よっぽど日本でいい思い出を作ってもらった、と感じているのだろう。

こちらが出したお金を全く受け取らず、次はアイルランドNo.1のコーヒーを飲みに行こうというので、それは僕らがご馳走することにした。

確かに美味しいコーヒーでお店も大繁盛していた。しばし一緒に時を過ごし、僕らは一路ゴールウェイに向かう。

彼も早く帰ってゆっくり休んだ方がいい。ブレンダンに感謝だ。

ゴールウェイにはトラリーを経由し、途中リムリックに寄ってそれからゴールウェイ、という道のり。

着いた時にはすっかり暗くなっていた。945分。ずいぶん日が短くなったものだ。とはいえ、今年の来訪は8月に入ってから。いつもの7月は11時でも

まだうっすら明るいので時間の感覚がおかしくなる。

友人のアパートまで歩いていると、後ろから「ジュンジ!」という大きな声が響いた。振り向くとミッシェルが立っていた。

ディ・ダナンでボーカルを担当していたミッシェルだ。

ちょうど通り過ぎたレストランで食事をしていた、ということ。よく見つけて声をかけてくれたものだ。

その少し後で今度は、フルートとブズーキのジョージ・グラッソに出会った。

彼はまだ高校生だった頃カリフォルニアで僕とトニー・マクマホンのコンサートに来ているが、今はれっきとしたプロのミュージシャンとして

様々な活動をしている。

やっぱりしばらく住み慣れていた街だ。明日からも多くの再会があるかもしれない。

2017年 アイルランドの旅 12

818日(金)快晴。6時起床。気温11

10時くらいから激しい雨。必要なものの買い物に出てひとしきり雨に濡れた後はまた晴れている。めっちゃいい天気。

今日は1日ゆっくりすることにした。

場所はゴールウェイ。海辺の静かなソルトヒル。

このアパートの住人、ローリーとは2014年に会っている。弟のアンガスと一緒に僕らの演奏するパブに来ていた単なる飲み客だった。

それから何故か、事あるごとに声をかけてくれる。

スライゴーに行くけど一緒に行くか?山に登るけど一緒に行くか?いつでも泊まりに来ていいぞなど、不思議な連中だ。

本当に極自然体で親切な兄弟。ローリーとアンガス。

もの静かで一見とっつきにくそうな兄貴と対照的に人懐っこい陽気な弟。

今回まで彼らの苗字も知らなかった。彼らは未だに僕らの苗字も知らないだろう。

また少し降った先ほどの通り雨のせいか、海をまたいで大きな虹が架かった。

明日、ちょっとだけエニスに顔を出そうかと思っている。

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819日 (土)小雨交じりの曇り。7時半起床。

外を歩いている人を見ると、傘をさしている人もさしていない人も、コートの襟を立てて寒そうにしている。

結局、晴れてきて気持ちのいいエニスへの道のりとなった。

着いたらすぐにMatt Cranitchと会う約束になっている。Andrewにも連絡しておく。

歩いているとJosephine MarshDeclan Coryと出会う。しばらく立ち話をしてMattとの待ち合わせ場所に出向く。

一緒にお茶を飲んでいると次から次へと知った顔も現れて、やっぱりFleadhは忙しい。

やがてAndrewもやって来て話をしていると、Eileene OBrienも立ち止まる。

この辺はもう知った顔ばかりで、僕らもすっかりClareの人間となっているようだ。

Mattは他に用事があるので、Andrewと一緒にJosephineに会いにいく。彼女からメールをもらったのでどこにいるかは分かっているのだが、

Andrewは人ごみを避けて人知れぬ裏道をひたすら歩く。僕らには今どこを歩いているのかさっぱり分からない状況。

目的の場所に着くと既に多くの人が彼女を取り囲んでセッション真っ盛りという感じだ。

そことは違う少し離れた別室が結構静かでいいスペースだったので、僕らはそこで始めることにした。

イギリスから来たフィドルとアコーディオンの夫婦がとても感じのいいデュオを聴かせてくれ、そこにMattも現れて、そうこうしているうちに

キアラン君も現れて、とても質の高い良いセッションになった。

立ち寄った人たちも大喜びだった。

名残惜しいが、キアラン君もカーロウに、Mattもコークに、そして僕らもゴールウェイに戻るためにまだ残るみんなに挨拶をして6時頃にパブを出た。

これがなかなか大変なのだ。みんなに声をかけられ、出るだけでも2030分かかることもある。

ゴールウェイに着いたのが8時ちょっと過ぎ。途端に電話が鳴った。元気のいい声で「こにちわ~」

Noel Hillからだった。近々また会うことを約束して、そのまま僕らはワインを飲んで眠ることにした。

時刻は11時を少し回ったところ。

なんだか忙しい、それでも充実した1日だった。

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2017年 アイルランドの旅 13

820日 (日) 7時起床。曇りのち雨のち曇り。

外を見ると、ジョギングをしている人、ウォーキングをしている人、犬の散歩をしている人、それぞれに日曜の朝を楽しんでいる。

ほとんどの人が昨夜、飲み過ぎているんだろうけど。

歩いている人は本当に寒そうだ。見た感じ10くらいか、それを下回るくらいかもしれない。

寒いところの人の方がよく飲むのかな。いやいや、九州の人も、沖縄の人もよく飲むし。やっぱり人それぞれなんだろう。

とにかくお酒をよく飲む人にとっては、この国を訪ねるということは相当価値のあることだ。

僕らのようにほとんど飲めない人間にとっては、あまりにもみんなが「なんか飲むか?」と訊いてくるので断るのが大変だ。

特に大きなセッションの最中だと、人並みをかき分けてトイレに行き、また人並みをかき分けて席に戻る、という動作をしたくないので、

できるだけ水分は控えておきたい。

見ていると、4時間ほどのセッションの間に普通によく飲む人があけるビールは、パイントグラスで6杯くらい。もちろんセッションの前も、終了後も

飲んでいるので、例えばフェスの間のAndrewなんか軽く15パイントいっているだろう。

特に彼の場合、食べ物に対する執着は全くない。冷蔵庫の中はスッカラカン。食べるものは自分で作ったハムサンドだけ。それでも最近野菜なんか食べるように

なっている。

初めてアイルランドを訪れた’99年頃、あまり毎日、肉、また肉だったので、まだグローサリーストアをやっていた姉のマリーさんの店で野菜を買おうとしたが、

これ、というものがなかった。そこで彼に「野菜ジュース」みたいなものが欲しい、と言ったら「そんなものアイルランドにはない」と言っていた。

もちろん都会に行けばあったのかもしれないけど、それから数年してAndrewの家の斜め向かい辺りにヘルスフードの小さなお店ができていた。

彼は行ったことがないだろうけど。

この国の人間にも健康指向というものがかなり浸透して来ているようにも見える。

それでも’80年代のバージニアと今のTullaとはほとんど変わりがない。それがまた嬉しいところである。

今日は用事でゴールウェイの街まで出るが、なんだかすごく寒そうだ。ここから街までは歩いて30分くらい。

一生懸命歩けば暖かくなるかもしれない。

結局雨が降って来た。雨の中を歩いて和カフェまで。

昨日着いた京都大学医学部の留学生の男の子を連れて、街を案内する。それが用事だったのだが、アイルランドお決まりの雨。

まだ着いたばかりで体温調整ができていない彼も雨の中で寒そうにしていた。

いくつかのお店に案内していると、観光客然としたおじさん2人が声をかけて来た。なんでも飲むためにアイルランドに旅行に来たという。

話を聞くとアイルランドだけではなく色々回って、帰りには北京にも寄るらしい。乗り換えの関係上か。

彼らの旅行の責任者ともいうべき仲間も呼んで総勢6人で最寄りのKings Headというパブに飲みに行くことになった。

世代は僕と同じくらい。

みんな教職についていた人たち。ちょっと笠木透を彷彿とさせるような人柄で、なかなかいいお話をたくさん聞かせてもらった。

どこか引き込まれる話もさることながら、なかなか聞き上手なところも気持ちのいい3人だった。

ついつい3時間近くも話し込んで楽しい時を過ごさせていただいた。

あとちょっとスコットランドにも寄って行くらしい。旅慣れているとはいえ、3人の安全を願って雨の上がったソルトヒルの海沿いの道を歩いて帰った。

2017年 アイルランドの旅 14

821日 (月)雨。915分起床。

本当はもっと早くから起きていたが、疲れが溜まっているせいか、珍しくベッドでゴロゴロしていた。

僕は、横になったりゆったり時間を過ごしたりすることができないたちなので、たまにそんなことでもあるとどこか悪いんじゃないかと、

自分自身で心配になる。が、すぐにまた動き出す。外を見てみよう。

朝からしっかりした雨が降っているのに、外人というのは面白い。

散歩する人や、ジョギングする人、更にここから見える公園で子供を遊ばせ、自らも楽しそうに傘をさしたままブランコに乗っている奴もいる。

絶対的に感覚が違うのだろう。

昨日出会った彼らは、今日モハーの断崖に行きたい、と言っていたがこれでは恐らくクレアーの方も何も見えない、とういう状況だろう。

もし、そうだったら早い目にダブリンに出て、ギネス博物館か、トリ二ティカレッジのオールドライブラリーに行くように勧めておいたが、

どうしただろうか。

男3人の気ままな飲み会みたいな旅。予定はいくらでも変更できる、と言っていたのでそうしたかもしれない。

そういえば、彼らと話していて、この旅の1に書いた荷物の12㎏と云うのは手荷物の範囲だと云うことが判明。ドキドキして損した。

そうこうしているうちに外に目をやると雨は激しさを増している。今日は1日こんなかもしれない。

と思っていると午後になったらなんとなく晴れて来た。本当に山の天気のようだ。

4時半、ノエル・ヒルから電話があり、少しだけ近くのコーヒー屋で会うことになった。

今晩エニスで2曲だけ演奏するらしいが、サウンド・チェックが5時からだと云うのにゆっくり座って話をする。

こっちは焦って、早く行かさなくちゃと思うのに「今何時?お、5時か。連絡しておこう」ってな調子だ。

恐るべきアイルランド時間。

今はまた雨が降っている。

恐るべきアイルランド気候。

8時も過ぎ、雨もあがって良い感じの夕方になって多くの人が海辺を散歩しているのが見える。

僕らもちょっと出てみることにした。

犬を連れた人たち、この寒いのに水着で戯れる人たち、ジョギングをする人たち、多くの人がそれぞれ雨上がりの道を行き交っている。

ちょっと静かなパブを見つけたので一杯だけ飲んで帰って来た。

それで十分。

明日の天気はどうなんだろう。

822日(火)7時起床。今現在曇っているが今日は晴れそう。

もう後10日もすれば暑い日本だが、ここは僕らが来てからずっと寒々としている。

体がついていけるだろうか。

明日か明後日にはゴールウェイからカーロウに向かうので、今日は色々と街を見てみることにした。

前々から気になっていたタイレストランがあったのでそこに入ってみた。

高級そうなオシャレな造りだが、もちろん最初にメニューと値段は確認する。それはどこに行っても最重要なことだ。

アイルランドで比較的間違い無いのはインド料理とタイ料理だろうか。

アメリカでほぼ間違いない中華はこの国では比較的外れが多い。が、しかし味も個人の好みであるから一概には言えない。

偉そうなことを言うが、結局パッと目についてオーダーするものは大抵いつも決まっている。

グリーンカレーだ。全く芸がない。

希花さんはエビチリみたいな料理(なんて言ったか忘れた)

こちらにはチキンがこれでもかと入っていて、エビチリには大きなエビがゴロゴロと豪華に入っている。

前菜に頼んだビーフサラダもいい味でオシャレなディッシュだった。値段もお手ごろだった。

いい食事をした後はまた街を歩く。

知った顔のストリートミュージシャン達があっちこっちで演奏している。子供達のトラディショナルも聴こえてくる。

この街も数軒のお店は変わっているが基本的にはほとんど変わりない。

夜、近くの有名なパブをちょっと覗いてみようと思い、通りを歩いていると聴き慣れた歌声がする。

ふと、ちょっと高級なオシャレなレストランを窓越しに見るとミッシェルが歌っている。

向こうも気がついたらしくステージ上から投げキッスを送って来た。

考えたら初日にミッシェルが食事をしていたところだ。

挨拶をしようと思ったが、トレパン、Tシャツでは中に入るわけにいかないので、そそくさと着替えに走った。

なんとなく持って来たスラックスとジャケットで出直し、無事挨拶をすることができた。

やっぱりゴールウェイ。どこかで誰かに会うものだ。1130分頃就寝。

823  (水)曇り。7時半起床。

今日一日ゴールウェイ。明日いよいよカーロウに戻ることに決めた。

太陽が顔を出した。この時間、潮が満ちているので海がキラキラと輝いて見える。

と、次の瞬間、横なぶりの寒々とした雨が降って来た。

水平線は霧で全く見えない、と言う状況になってきたがこの雨はしばらくしたら止む、と言う感じではなさそうだ。

アイルランドで天気のことを言うのは無意味で、字数かせぎな感もあるが、先ほど書いたことが嘘のようになるのでとりあえず書いておくことにしよう。

あれから15分。さっき全く見えなかった水平線が、今はくっきりと見えている。

どうせすぐに見えなくなるだろう。今日は一日そんな天気かもしれない。

お昼少し前になったらすごくいい天気になって来たので、今日中に済まさなくてはならない用事を済ますため、街に出た。

頃合いをみて、以前よく演奏をしたPucanというパブのムール貝は絶品だったので今回もそれを食べた。

和カフェにも立ち寄って、芳美さんと歓談。また夜会うことにして一旦アパートに戻る。

10時から和カフェのすぐ近く、Kings Headにブライアン・マグラーがギグで来ているので、ありがとうだけでも言うのにちょうどいいと思い、芳美さんと一杯飲みに出かけたわけだ。

始まる前にブライアンに挨拶して、少し滞在した後、混み合って来たパブを後にして僕らは有名なチーズ屋さんSheridansに移動。

2階の静かなワインコーナーでしばし、静かにお話をし、帰りにピザを食べて別れた。

こんな時間に飲んだ後、ピザを食べるコレステロールが気になる。

アパートに戻ったらちょうど午前0時。それから20分ほどで激しい雨が降って来た。やばかった

2017年 アイルランドの旅 15

824  (木)曇り。7時起床。

今日でゴールウェイとはお別れだ。ベランダにたくさんの雀がとまってピーチクパーチク言っている。

だいぶ雨が降って来た。嵐のような、ゴールウェイらしい横なぶりの雨だ。

なんとアパートの斜め向かいにタクシーが止まっている。みたところお休みしているか、なんか食べているか、個人的な電話をしているようだ。

訊いてみると空いているそうなので、この雨の中ではこれしかない、とタクシーでトレインステーションまで。

ラッキー!ついていた。

ゴールウェイを1505に出発。最初の駅Athenryに着いた。15:23。どう見ても駅とは思えない道端みたいな駅だ。

Fields of Athenryのメロディが浮かんでくる。

2つ目の駅Woodlawn3:38 。3つ目Ballinasloe,3:49Ballinasloe Fairのメロディが浮かんでくる。景色は相変わらずの緑、また緑。

見えるのはその緑の中に佇む牛や羊だけ。この辺に来ると雨はあがってきたようだ。

Athlone着。4:04Trip to Athloneという有名なJigがあるがあまり好きな曲ではない。お、一杯乗って来た。

Clara4:28、お、あんまり小さい駅なので通り過ぎそうになったのか、急ブレーキがかかった。昨夜のギネスが残っているのだろうか。

Tullamore着。4:38 そろそろパソコンをしまうかな。また少し雨が降っている。

僕らはKildareで乗り換え。そこから45分くらいで電車を降りる。

Kildareの駅は吹きさらしで、多くの人がまるでエスキモーのような格好をして震えていた。

Muine Bheagに着いたらキアラン君が迎えに来てくれた。

キアラン君の家に着くとニワトリが出迎えてくれた。

どうやら季節の変わり目で羽が抜ける時期らしい。自分で羽をむしっては抜き、体を振っては抜き、そこら中に羽を撒き散らして歩いている。

それを見たキアラン君「あ、病気じゃないか。きっと死ぬ直前だ」と、マジな顔をして言っていた。

それは羽の生え変わりの時期だということで納得したキアラン君もホッとしたようだ。

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825  (金)晴れ。7時半起床。

Muine Bheagこれがなかなか難しい地名で、アイルランド人に見せれば「ミューナビョーグ」たまに「ミューナベッグ」(あくまでカタカナ表記だが)

そのように教えてくれる。

ただ別名Bagenalstown(バグナルスタウン)ともいうのでそちらの方がわかりやすい。ローカルの人たちは未だに昔の呼び名Muine Bheagを使っているらしい。

お仕事に出かけるキアラン君は、立ったままコーヒーとトーストを頰ばり、8時40分に家を出た。

「全部持った?」と声をかけると「大丈夫」と言ってさっそうと出て行ったが、5秒で戻って来た。

いつものことだ。自分の部屋の窓を閉め忘れた、と言って2階に駆け上がり「じゃ!」と言って今度はちゃんと行ったようだ。

確かにいつ雨が降るかわからないこの国では、窓を閉めて出ないと部屋がびしょ濡れになるかもしれない。

余談だが、よく朝ごはんでも座って落ち着いて食べたい、という人もいるが、僕もキアラン君と一緒で、特に朝なんかは”食べなくてはいけない”なら

できるだけ簡単に済ませたい質だ。

時間があろうがなかろうが関係ない。なんなら食べなくてもいい。

また、ニワトリがやって来た。

こけこっこ~と威勢よく鳴くニワトリはオスの方らしいが、こいつはどうやらメスらしい。

近くで見ていたらどこかで聞き覚えのあるこけこっこ~が聞こえて来た。

こいつは「こっこ、こっこ」と小さい声で鳴きながら歩いていることが多い。

今日は雨が降らないかもしれない。洗濯のチャンス。ニワトリが落ち着いて座っている。周りにはいっぱい羽が落ちている。

2017年 アイルランドの旅 16

826  (土)曇り。気温15 7時半起床。早くもニワトリが佇んでいる。

昨夜はこの辺り一帯が停電になったようだ。

2時過ぎに玄関のアラーム音がピーピーと鳴りだした。音自体はかん高いそこそこの音だが、家の作りからか、ドアを閉めておくとそんなに大きくは聞こえない。しかし、連続して鳴っているとやっぱり気になって眠れない。

止めるにはどうやらコードナンバーが必要なようだ。

キアラン君を起こすわけにもいかないので、とりあえずそのまま寝てみることにした。

ここはもともと深い緑の中。それでも遠くの民家の警備灯か何かがいつも見えているはずなのに見事に真っ暗である。

この地域の停電ではないかと気がついたのはそんなこともあってだ。

5時少し前までまた寝たのだろうか。気がついたら音が止まっていた。

そして、やっぱりいつも見えていた灯が見えている。それからは安心して眠りに戻ることができたようだ。

8時半、お、キアラン君が起きて来た。昨夜のこと知っているかどうか訊いてみよう。

どうやら知っていたようだが、コードナンバーとかは要らず、何をしても止まらない、と言っていた。

びっくりして損した。

今日はMatt&Liz Cranitch夫妻がわざわざコークから僕らに会いに来てくれるという。

2時頃に来て、少し一緒に演奏して帰ると言っているが、往復で5時間もかかるというのに。

キアラン君も喜んで、泊まっていってもいい、と言っているが、日曜の朝には用事があるので帰るということだ。

今晩はこの辺りのミュージシャンや、飲み仲間たちが夜、一堂に集まってパブでセッションやら、なんやら大騒ぎのイベントがある。

Mattもよく知っているデイブとミッシェルのシェリダン夫妻も来るし、みんなMatt Cranitchが来れば大歓迎だろうが、そこに参加したら遅くなるし、

あくまで目的は僕らとゆっくり演奏を楽しみたいようなのだ。

現在、9時を少し回ったところ。キアラン君は走りに行くらしい。

少し薄日も差して来た。ここは明らかにゴールウエイとは違う天気だ。

2時過ぎ、MattLizがほとんど時間通りにやって来た。結局ずっと話に興じて少し景色を見て、セッションには最初の1時間くらいだけ付き合ってもらった。

遠いところをわざわざ会いに来て来れたMattLizに感謝。

セッションは大いに盛り上がって帰宅したのが5時頃。8月も後半になると5時でもまだ暗い。

827  (日)快晴。昨日は昼過ぎてから20超えたようだが、今日もそんな感じかもしれない。さすがに11時起床。

しばし庭でニワトリの生態を研究。未だに何を考えているのか、全然何も考えていないのかよくわからない。

ま、人間でもそういう人いるか

少しは昨日のパブのことを書いておこう。

Egansというパブで、僕はここのオーナーの息子たち、PatLarry178年前に会ったことがあるのだ。

一緒にステージでも演奏している。

Wexford Clonegalにある、音楽ファミリーとして結構有名なパブだ。

彼らが子どもの頃、14歳と11歳のアコーデイオンとコンサーティナのデュオとして演奏している姿をYouTubeで見ることができる。

今回は兄のLarryにしか会えなかったが、Patは以前からチャンスがあったら会いたい、というメッセージをくれていた。

お父さんもあたたかく歓迎してくれて、本当にローカルの感じのいいパブに来ている感触だった。

Larryは超絶アコーディオン奏者だ。こういう若者がいっぱいいるのだろうけど、それにしても上手すぎる。

普通にしていたらどこにでもいるアイルランドの若者だが。

兎に角Sheridan夫妻と家に戻ったのが4時半も大幅に回った頃だったので、今日は一日過ぎるのが早かったのだ。

やっぱり前の日にあまり遅く寝ると、結局、次の日は何もせずに終わってしまうことがままある。

今日はそうこうしているうちに去年知り合ったジョン(バンジョー大好きおじさん)がワイン片手にやって来た。

そして6時過ぎまでに2本のワインを開けて、話が弾んで、バンジョーを弾いて、嬉しそうに車ですっ飛ばして帰って行った。

完璧な酔っ払い運転だと思うが。

しかも、携帯も老眼鏡も忘れて行った。

僕らはそれを届けがてら彼の家に寄り、日本で言えばかなり大きな公園ほどある庭で、彼の娘さんの白馬が元気に走り回っているのを見てから

チャイニーズのテイクアウトをして帰って食べた。

そしたらもうすぐに10時過ぎてしまった。すでに時間の感覚がなくなってきている。

明日は早起きしよう。

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2017年 アイルランドの旅 17

828  (月)曇りのち晴れ。気温18 8時起床。 体感気温というのを調べて見ると今晩は6℃だそうだ。

今日はミッシェルが僕らをケビン・バークの弟、ノエルのところに連れて行ってくれる。

ノエル・バークはバイオリンの弓作りで今や世界中に名の知れ渡っている人物だ。

ミッシェルもノエルもカーロウに住んでいる。

彼の弓を一度でも使って弾くとその素晴らしさにノック・アウトされるという。少なくともそういう人が世界中にいっぱいいるらしい。

しかしそれだけに値段も半端ではない。

と言えども、クラシックの世界では弓だけで100万、200万は当たり前のことだろうが。

僕のピックは100円もしないのに。弓は楽器なのだ。

彼の工房でしばし歓談し、ミッシェルの家に立ち寄って紅茶とクッキーでしばし歓談して帰って来た。

家に着いた途端に少し雨が落ちて来た。

829  (火)曇り。8時起床。現在の気温は11、半袖ではちょっと寒い。早い時間は雨が降っていたようだ。

いよいよ帰りの準備を始めなければいけない。

庭を見ると、すっかりここの住人になったようなニワトリが座っている。そろそろ抜けるべき羽は全部抜けたのだろうか。

どこか落ち着いた表情だ。そんなの分かるか?

今夜はキアラン君とバンジョー大好きおじさんのジョンが僕らをレストランに連れて行ってくれるらしい。

ただ、どちらも忙しい身なので、テイクアウトの方がいいだろうと思いながら、いや、アイルランド人は話好きだから家で落ち着いたりしたら

4~5時間経過するのは当たり前のことになってしまうので、出かけて食べてさよならした方が賢いかもしれない。

以前、テイクアウトしたインディアンが美味しかったのでそこに行くつもりでいるみたいだ。

昔、友人がインドに行った時、電報を打つのに3時間ほどかかったという話がある。

目の前に局員。客は彼一人。局員は紅茶を飲みながら3時間「No Problem」と言い続けていたそうだ。

そういえば、全くお客さんがいなかった前回もテイクアウトで30分待たされた。

時間の感覚のないアイルランド人と時間の感覚のないインド人との組み合わせは、まるで地球が回っていないかのような錯覚に陥る。

僕は、持って帰って来たメニューを見て、今晩注文するものはもう決めた。

出かける20分くらい前に注文しておいた方が時間の無駄は省けるかもしれないが、そんな時に限って5分で作ったりしやがる。

こんなことを考えながら1日を過ごすのは無駄だ。

僕はちょっと困ったことがあるとなかなか寝られないのだが、希花さんはこう言う「考えてもどうしようもない時は考えるだけ無駄だから寝た方がいいんじゃない?」

確かにゴールウエイの友人のアパートの入り口のドアが開きにくかった事や、洗濯をするタイミングはいつが最適か、掃除はしたいが、ここの掃除機はちゃんと動くだろうか、なんていう結構どうでもいいことでも眠れなくなってしまう。

極めつけは、エレベーターのドアが開いたその隙間に手に持っていた鍵が落ちるんじゃないか、と心配になること。希花さんは「そんな事あるわけないじゃん」と言ったが、ある日アパートの掲示板にこんな張り紙があった。

「最近、エレベーターの隙間に鍵を落とされる方が増えています。気をつけてください」それを見た希花さん「みんなアホか」

ま、性格だろうな。

明日はダブリン。バスはちゃんと時間通りに来るだろうか。いや、彼らはやる時には誰よりも一発入魂に動く民族だ。ちょっと大げさかな。

晩御飯は予定変更になり、去年レギュラーで演奏していたホテルでジョンと4人でワインをしこたま飲みながら。と云えどもアイリッシュには通常の量だ。

すっかりお腹一杯になり、酔っぱらって帰って来た。

ジョンがご馳走してくれた。

そしてキアラン宅でしばらくチューンを弾いてまた酔っぱらい運転で帰って行った。今度は何も忘れていかなかった。

2017年 アイルランドの旅 最終回

830  (水)6時半起床。快晴。

キアラン君が最寄駅Paulstownまで送ってくれる。ジョンもさよならを言いに来てくれた。

915のバスでダブリンに向かう。途中Carlow945くらいに出発して一路ダブリンを目指す。

カーロウではいっぱい人が乗って来た。

走る道はN7ナターシャーセブンみたいだ。

ダブリン到着、11時。こちらも抜群の天気。

1ヶ月いたところで3ヶ月いたところで、時が経つのは早いものだ。

ただやっぱり密度は濃かったかもしれない。

会うべき人には大体会えたし、新しい友達も増えたし。それでもなかなか会えぬ人もいた。

Liam CunninghamというCo.Meathの彼には立地の関係もあるがなかなか会えない。

何年か前、ゴールウエイで偶然出会ったバンジョー弾きの男の子の親父さんだ。

去年キアラン君とタバカリーに行った時に大きくなった彼ダラウとお父さんのリアムに会った。

それ以前からお父さんはいつもいつも連絡をくれていた。どうしても息子と一緒にセッションしてほしいようなのだ。

今回もFleadhには来ていたようだが会えなかった。

来年はチャンスを見て会いに行こうかな。ダラウも最初に会った時は13歳だったようだ。2014年の81日のこと。

次に会う時には17歳か。

初めて会ったシェリダン夫妻にも本当によくしてもらった。彼らもとても僕らの音楽に共感してくれた。

同じく今回初めて共に演奏したジャッキー・デイリーも、あまり知られていない彼の作品を僕らがことごとく知っていたので喜んでくれたようだ。

ジョン・シーハンとの出会いも素晴らしいものだった。

今までにもさんざん一緒に演奏して来た仲間たちにも随分お世話になった。

これは日本にいても同じだと思っている。

昔からの友人も、新しくお付き合いが始まった人も、みんなの温かい気持ちがぼくらの活動の源となっている。

なんかアイルランドの人々の優しさと、日本の人々の優しさにはどこか共通するものがあるような気がしてならない。

2018年、またこの地を訪れて、また新しい出会いを体験し、いつもの仲間とも時をすごす。

どんな旅になるのだろうか。

でもほとんど変わらないだろうな。そこがまたいいところだけど。

831   (木)ダブリン晴れ。寒い。

ダブリン出発。アブダビ到着、出発(予定)

ダブリン空港では吐く息が白い。

これは大変。日本での体調管理を考えなくては。

今回の旅の報告はこれで終わり。

来年、ニワトリはまた顔を出すだろうか。一番気になるところだ。

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Irish Music その113

The New Land  Waltz

ロード・アイランド出身、現在はケイプ ブレットンに住んでいる楽器製作者Otis A Tomasのペンになるこの曲。実を言って僕は何年も前に聴いたことがある。省ちゃんが「こんな曲知ってる?めちゃアイリッシュっぽいんだけど。これトラッドか?」と言って弾きだしたのがこの曲。僕は「いや、聴いたことないけど、トラッドではなさそうだね。誰かが作ったんじゃないかな」と答えた。

正直、全くアイリッシュの雰囲気は感じなかったし、トラッドの曲調でもなかったが、日本では結構多くの人が「アイリッシュっぽい」と言って演奏していたようだ。それだけに反発して、どうも好きになれなかった曲だったが、今年(2017年)のアイルランド、キャスルアイランドのセッションで、ジャッキー・デイリーと演奏した時に彼が「君たちこの曲やる?」と言って弾き始めたのがNew Landだった。その日は、彼の作品の多くを僕らが知っていて演奏したことにとても心を開いてくれたようで、半分眠っている彼が嬉しそうに弾きだしたのだ。僕は素っ頓狂な質問をしてしまった「この曲もあなたの書いたもの?」彼は「いや、違うよ」と言いながら「ここ、こんなコードを俺は使っている。アコーディオンの特性としてこういきたい」などとゆっくり話しながら何度も何度も繰り返し弾いた。

それはとても美しいものだった。やってもいいかも、と思ったのはそれを聴いてからだ。

そのあと、ブレンダン・ベグリーの家に泊めてもらい、朝早くに散歩をしてから部屋に戻ると、ふと1冊の本が目に入った。「Fiddletree」というタイトルのその本。書いた人はOtis A Tomas

ページをめくると、彼が造ったフィドルや様々な楽器の写真が目に入った。自分でカットしたメイプルの大木1本から多くの楽器を作った話も。さらに進むとThe New Landという項目が現れた。他ならぬこの曲の楽譜と、書いた時の思い出などが綴られていた。彼が引っ越したケイプブレットンのSt.Annsのあたりの景色からインスパイアされたらしい。ここが自分の新しい土地だと感じた彼が「メロディが浮かんだのは確か…9月のいつ頃かよく覚えていないけど….」と語っている文章も載っていた。それ以来、これはこの曲をやるいいきっかけになるな、と思いレパートリーに取り入れた。キーはもともとFで書かれているが、Dで演奏する人も多いそうだ。

気にしすぎ?

気になる、というのは人それぞれ”なりどころ”が違うのだろう。だから一概に「あんたこれが気にならないの?」などとは言えない。

僕は肌に関する感覚としてよくあることだが、麻などの生地が苦手だ。例えばチベットなどの民芸調織物とかというのは苦手で、それらの素材の手袋など、見るだけで痒くなる。

時として「どうしてこれが痒いの?」と言わんばかりにそういうものを身につけている人もいるが、僕は見るだけでも痒くなってしまうのだ。

僕らが子供のころ、よく洗濯物に「糊」と言うものが付いていることがあったのだが、それはそれは苦手だった。

ここまでは洋服などの素材の話で本題とは少し違う話だが、先日友人と寿司屋に行った時のことだ。

寿司屋と言ってもくるくる回るところ。

カウンターに座って、さてオーダーを決めようかな、と思っていたらふと隣に座っている3人の有閑マダムの会話が耳に入った。

その昔、有閑マダムというのはとても勇敢な女の人のことだと思っていた。

それはともかく、マダムと言うには少し歳がいっているその3人のうちの一人が「白魚がまだきていないわね」と言った。

他の二人も「そうね、訊いてみましょうか」と。彼女達はもうすでに随分皿を重ねている。

やがて、職人は忙しそうだったのでウエイトレスを呼んでそのことを伝えた。

ウエイトレスはベトナム人。最初は話がうまく通じないようだったが、大したものである。「シラウオですね」と言うと職人を呼んで「スミマセン、シラウオマダデス」と少したどたどしい感じで言った。

職人は「わかりました。今すぐに」と言っていたが、さぁ、この辺から気になりだしたのだ。

昔「出前の醍醐味」なる記事を読んだことがある。

「今作っています」「これから出るところです」「今そちらに向かっています」まことしやかにつかれる嘘を承知で受け入れる。

また受け入れる側が信じている、信じていないに関わらず嘘をにこやかに押し通す。このやり取りこそ出前の醍醐味である。という記事。

やがて彼女達は「そろそろ行きましょうか。まだ作っていないようね」無理もない。あれから10分以上は経過している。

僕がレストラン勤めの経験があるからだろうか。

他所でも、あそこの客がまだオーダーを聞いてもらえてないとか、水を欲しがっているんではないかとか、やたらと気になって仕方がない。

そんな時、代わりにウエイトレスに知らせてあげたほうが良いのか、余計な御世話なのか難しいところである。

今の世の中、そういうことをすると「変なおじさん」と言われかねない。

ところで白魚は。夜、布団の中でも気になってしまった。

Irish Music その114

Larry’s Favorite

長い間知っていたPaddy O’Brienの名曲。Amで演奏されることが多いようだが、何故今までレパートリーに加えなかったかと言うと、2013年にコーマック・ベグリーが練習をしていたという記事を書いた時のJohn BrossnanにAパートがよく似ているし、その上75に登場したSligo Maidに3パート目が似ているといえば似ている。そんな理由で今回レパートリーとして取り上げるに際し、Gmにしてみた。そうして色々と聴いてみると、Gmでやっているひとも結構いるようだ。特にこの曲に関する情報は無い。Larryというのが誰かも分からない。

この後で49に登場しているGarrett Barryを持ってきた。キーはFで。

もともとGarrett Barryが大好きな曲で、この曲に続くもの、或いはこの曲の前に来るものを探していた時に思い出したものだ。いろいろ聴いているうちに、DervishのLiam KellyがBmで演奏しているものがあった。そしてAでGarrett Barryに行っているのだ。考えることは同じだった。

シェトランド エアー?

最近、いや最近に始まった話ではないが、最近、また、シェトランドエアーというタイトルをある有名なバイオリニストの録音で見つけた。

日本ではおそらく最も名のあるバイオリニストだろう。

彼を含め、多くのバイオリニストが好んで取り上げているこの曲、いや、それだけでなく、沖縄出身のシンガーも取り上げているこの名曲。

美しいメロディなので、誰もが取り上げたくなることに関しては全くもって文句はない。文句を言う筋合いもない。

ただ、この曲の本当のタイトルをクレジットしてほしい、と思うだけだ。

僕は自分のコラムのIrish Music 76の項目で既に書いているが、この曲の背景には涙無くしては語れないストーリーがある。

もし、そのことをわきまえていたのなら、簡単に安直なタイトルをつけてしまうようなことはできないだろう。

森友・加計なんて小さな問題だとアホ面下げて言い放った政治家と比較するのもおかしいが、タイトルやその曲の背景は僕にとって小さな問題ではない。

もしかしたら、本当のタイトル Da Slokit Lightと表記するよりも、シェトランド エアーとした方がとっつきやすいからかもしれないが。

Irish Music その115

Planxty Mistress Judge

別名 Mrs. Judgeでいいのだが、どうやらこの長いタイトルが僕らの聴いたバージョンのようだ。Dale Russの演奏で覚えたものだが、彼はPaddy O’Brien(Offaly)の演奏から覚えたのかもしれない。非常にきれいなメロディを持った曲だが、Bパートが意外とややこしい。覚えられないものではないが、良くあるO’Carolanの曲で「そう行くか」というようなメロディなのだ。常識的に考えてこう行って欲しい、などという考えは捨てたほうがいいような曲は覚えるのが大変なのだ。アンドリューが覚えるのに苦労した「鉄砲獅子踊り」なんかもその類かな。この曲はどうやらO’Carolan’s Welcomeとそっくりな曲が後に付くらしいがPaddy O’Brienもそこまでやっていなかったので付けなくてもいいものかもしれない。ならWelcomeを付けてもいいかな。

 

Irish Music その116

Ryan’s Rant

以前書いたような気がしたが、コーマック・ベグリーが弾いていたものを僕が「なんだっけ?」と訊いたことがあるのでその時の記憶が残っているのかもしれない。この曲を最初に聴いたのはPaddy O’Brien, James Kelly, Daithi Sprouleの素晴らしいアルバムだった。これは僕にとってこの音楽のバイブルのようなアルバムだが、以前Edel Foxと見事に意見が一致したことがあった。彼女もよく聴いていたらしい。彼らはMan of the Houseからこの曲に行っているが、このMen of the Houseもバージョンが違う。明らかにBパートが聴いたことのないメロディラインだ。Paddy O’Brienの演奏には比較的そういうものが多いのだ。よく聴くとフィドルとアコーデイオンは微妙に違うメロディを弾いているが、それが心地よくぶつかっている。ややこしいメロディだし、人によってはGravel Walkと勘違いする現象もあり得るし、一体いくつのパートがあるのかもよくわからないくらいに似たり寄ったりのメロディを行き来する。メロディ奏者には面倒くさい曲かもしれない。

ザ・ナターシャー・セブン 最初のレコーディング

今、思い出しても結構鮮明に覚えている事柄があり、念のために調べてみた。

1971年9月24日から東芝EMIのスタジオで数日間行われたわけだが、その時の宿泊先が、赤坂にあったヒルトンホテル。

ヒルトンは、あのビートルズが宿泊したことでも当時、超有名なホテルだった。

さて、想い出すことのトップにくるのが、録音のことよりもフロントをうろうろしていたヒッピー然とした外人たち。

彼等こそ初来日していたLed Zeppelinのメンバーだったのだ。

ちょうど武道館の最初の公演が終えた日だったろうか。記録によると9月23、24日と2公演あったようだが、当時フォークやブルーグラス分野に居た僕らにはあまり馴染みがなかった。

しかし、彼らはマンドリンを使ったり、トラッド志向もかなりあったようだし、やっぱりそういう意味でも幼いころから民族音楽シーンに触れることが多いような環境にいたのだろう。それは非常に羨ましいことだ。

また、もし、僕らがもっともっとそちらの方面(ロック分野)にも明るかったら大変な騒ぎになったかもしれないが、彼らが真に評価され出したのはこの来日以後のことかもしれない。

事実、宿泊先に押し寄せるファンのような人は見かけなかったし、彼らも比較的自由にウロウロしていた。

ビートルズの時には分刻みでスケジュールが組まれていたそうだが。

ところで、そんな世の中とは隔離されたようなレコーディングは、あの伝説的な「私を待つ人がいる」のイントロで始まった。

金海君が、大きなスタジオの部屋の隅からマイクに向かって歩きながら「チャンチャンチャンチャカチャカチャカチャン」と弾いて、ちょうど良いところでマイクに近いところまでやってくるというシーン。あの時はまだ僕がプラカラーで巧みに書き上げたギブソンという文字がヘッドに光るジャンボのマンドリンだったろうか…。

みんなが、途中でこけないか心配したが、あの時はまだ若かったのでそれほど本気で心配したわけではない。

それでも、もし本物のギブソンだったら歩かせなかったかもしれない。

そんな風に始まったレコーディングのことを秋の夜長に想い出してしまった。

 

アイリッシュ・ミュージックと音楽の3要素

音楽の3要素は「メロディ」「ハーモニー」「リズム」だということは誰でも知っていることだと思う。

60年ほど音楽に親しんできて、その中でも僕が最も気にするのは「ハーモニー」だ。「メロディ」に関してはすでにそこに存在するものだし「リズム」もその曲のグルーブを決定するものだし。だが、「ハーモニー」に関しては別な意味でどうにでも色付け可能、というところがあるような気がする。

勿論“アドリブ”というところに代表される色付けはすべてに於いて可能性を広げるものではあるが。

長い間、ブルーグラスを演奏してきて思うことは、ブルーグラスはコピーに明け暮れる音楽だったということ。来る日も来る日も、一つの音も逃がすものか、ポジションも正確にコピーすること、などと、ひとりコツコツ練習し、行き詰ると友人たちと電話で、あるいは直接会ってコピー談義に花を咲かせていた。

そうしてコピーにコピーを重ねて、いわゆるブルーグラス独特のリズムである「ドライブ」を習得していく。

ハーモニーに関して、ブルーグラスに於いてはゴスペルも大切な位置を占めるのでこれはかなり高度に抑えておかなくてはならないし、ビル・キースのようなバンジョーを弾きたければとんでもなく複雑なコード進行にも明るくなくてはならない。

フィドルに関してもクラシックからは考えられない和音構成で切り込んできたりするからとても面白い。

間奏で「チャカチャチャッチャ…」というドライブしまくったリズムで切り込んでくる様はブルーグラスの醍醐味だ。プラス「えも言われん不協和音」これで決まりだ。

ブルーグラスはある意味ジャズだ。

アイリッシュに於いてはどうだろう。

もちろんメロディを覚えるためにはコピーという作業も存在することは確かだが、それよりも大切なのはリズムかもしれない。

アンドリュー・マクナマラはこの音楽を始めた頃の僕に「フロウ」ということを盛んに言っていた。

時には滝のように勢いよく流れ、また時にはそよ風のようにやさしく漂う。これがいわゆる「フロウ」なのだろう。

そしてそれは時としてオンビートとオフビートの挾間を行き来するような感触でもあるのだ。ブルース好きのアンドリューの最も彼らしいところだ。

「メロディ」は1000曲に近いくらいを覚えなくてはならない。それは例え伴奏楽器でも同じだ。

ただ、多くの場合単純なメロディが多いので一生懸命コピー、というところまでは必要ないだろう。だが、その単純さが厄介だ。

同じようなところを行ったり来たりしながら7パートも8パートも「どこが面白いんだろう」というくらいの曲も沢山ある。が、しかし、そういう曲に何故か異常にはまることもある。そんな曲を沢山知っていきながら独特なリズムを習得していく。

そして、それは演奏者の出身地によっても微妙に異なるのでそれも厄介なところだろう。

ブルーグラスフィドルでいえば、大きく分けてバージニア・スタイルとテキサス・スタイル。そしてその二つがクロスオーバーするようなスタイル。

ここで主題の「ハーモニー」だが。

アイリッシュを演奏している人が意外に持っていないのがその「ハーモニー感覚」だ。もちろん世界を舞台にしているくらいの連中にはその感覚はあるが、その辺でセッションなどしてみると、おそらくこの人、どんなコードを横で弾かれても関係なく演奏しちゃうんだろうな、ということがよくある。

それが自分中心からくるものなのか、あるいは和音感覚がないので気にならないのか、聞こえないのか、そこのところはよくわからないが、この音楽に伴奏は必要ない、と思っている人もいることも事実だし、僕も究極そう思う。

だが、そこに「にんまり」するような感覚が入ってくるとやはり「にんまり」してしまうものだが、そういう「音楽のアンサンブル」の良さをまったく感じない人も多くいるようだ。

なので、アイリッシュのセッションでは「みんなで弾けて楽しい」=「自分が弾けて楽しい」というところにとどまっている人が多くみられる。

僕は音楽イコール「アンサンブル」であり「会話」であると感じているのでそういうのは非常に淋しく殺伐なものと感じてしまう。

そして、ハーモニー感覚の無い人に限って、自分の感覚で「この音楽には伴奏は必要ではない」などとわかったようなことを書いたりする。

だが、それが言えるのは、少なくとも99%くらいの確率で確実な伴奏を出来る人のみだ。

「ハーモニー」の感覚を養ううえで最も役に立つのはやはりクラシック音楽だろう。そしてヨーロッパ方面のロック。彼らの音楽には特にクラシックの要素が多分に入っているような気がする。

Amazing Blondel, King Crimson, Matching Mole, Fairport Conventionなど、随分聴いてきたものだ。もちろんEL&Pも。

その上で荒々しいアメリカのロックも、聴いてきたものを挙げればきりがない。そしてポップスもブルースもジャズも「あ、これ!」と思ったらレコード盤が擦り切れるくらい聴いてコピーしてみたり「あ、無理」とかいろいろ試してみた。

僕がこの音楽の伴奏楽器を担当するうえで、それらはとても役に立っている。間違いではないけれど使ってはいけない和音、絶対に使ってはいけない和音、使ってもいいかもしれない和音、まさにここで使うべき和音、後に残しておくべき和音…“ハーモニーおたく”としてはどんな時でもそれは考えていたいものだ。

僕と省悟は、お坊さんのお経にも、電車のアナウンスにも、デパートのアナウンスにも必ずハーモニーを加えてみたりした。はい、今度はマイナー、7th 行ってみようか。7th が出たら9th は必須だ。Sus4なんかも。お経にマイナー7th はなかなかに気持ち悪い。マイナーからメジャーに行けばそれは「遥かなるアラモ」だ。そんなつまらない冗談も役に立つものだ。

音楽の3要素はアイリッシュに於いてもとても大切なものだし、なくてはならないものだ。その上に生活に根差したものでなくてはならないのだ。

自分自身も含め、とても偉そうなことは言えない。

Dale Russとの久しぶりの演奏

1996年の終わりころだったと記憶している。

Jack Gilderがひょんなことからフィドラーを誰か呼んでグループをつくろうじゃないか、と言い出した。

フィドラーのPaulがやめて、時々Chris KnapperやKevin Bernhagenが時間の空いた時に交代で参加してくれていた頃だ。

僕が何気なしに「Dale Russはどう?」と言うと、彼は「それ最高!」と膝を打った。

そしてバンドのCDは見事、北米のケルト音楽分野のブロンズプライズを獲得した

詳しいことは既にコラムに書いているので省略するが、当時のJody’sはあのLunasaのKevin Crowfordがサインをねだるくらいの評判だった。

Daleもあの頃に比べてかなり円熟してきたような気がする。それでも乗らせればグイグイとくるフィドラーだ。

大人しいプレイヤーが徐々に乗り出してくるのを感じるのは面白い。

初めて一緒に演奏した時のNoel Hillしかり、Martin Hayesしかり、Pat O’Connorも、彼らは僕のプレイをじっくり聴きながら「よし、いける!」と思うのだろうか。

その要求はどこまでも限りなく続いてくるのだ。

Daleからもそれを感じ取ることができる。

僕も東京のコンサートで「今の時代、フェイスブックやツイッターという手段を通してでしか自分の意見を言えない奴が増えているけど、きちんと相手の顔を見てものが言えるようでなければいけない。音楽(アイリッシュ・ミュージック)はその最たるもののひとつだ」

と言ったが、彼等との演奏では、音楽上の会話というものがいかに大切か、それが分かるのだ。

キャリアは積めば積むほど全ての意味に於いて深くなる。そして余計なことは発信する必要もない。きちんとお互いの音を聴き、自分がどう相手に寄り添っていくかを考える。

それが、この音楽にとって最も大切なことであり、ともすれば忘れがちなことかもしれない。

また来年も彼は来てくれるだろうか。

グレイト・レイクス2種

たまにはバンジョーのことでも掲載してみようと思い、今日は2つのバンジョーの写真を撮ってみた。

この二つに関しては2015年の3月くらいに「ひとりバンジョー談義」として詳しく書いている。

ギブソン、ヴェガに代表される名器は他にも数々あるが、これもまた名器として後世に語り継がれていくもののひとつだろう。

僕は楽器収集家ではないし、今現在の自分にとってどれだけ必要な物かを考えてみるとどちらか一方だけでもゆくゆくは本当に弾いてくれる人の元に行った方がいいと思っている。

が、しばしこうして二つのグレイト・レイクスをよーく観察してみるのも悪くないかな?

今やお目にかかることは殆どない、といっても過言ではないバンジョーだ。

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Irish Musicその117

Coleman’s March  (Polka)

不思議な曲である。オールドタイムのフィドラーが「アイリッシュのポルカから」ということで弾いているのを聴いたことがあるが、それ以外ではあまりポルカとして演奏しているものを聴いたことが無い。
元々アメリカンチューンではないかと思うのだが。その理由はこの曲に関する物語(実話)からだ。1847年ケンタッキーに住んでいた靴職人でフィドラーのJoe Colemanが絞首刑になった。理由は彼が女房を殺した、ということだが、それも定かではなかったらしい。限りなく疑われて絞首刑になったらしいが、運ばれて行く馬車の上,棺桶の横に座り彼がフィドルを弾いたということだ。
詳しい話をすればもっと長いが、それが決してこの曲ではなかったようだ。多分あとからそのストーリーを聴いた誰かが作ってそれがフィドルチューンとして知られるようになったのだと思うが、どうしてアイリッシュ・ポルカになっているのかはよくわからない。物語は事実のようで彼の絞首刑の後、彼のフィドルを受け取った人物の名前まではっきりしているようだ。
ところで、この時代にはよくあったことかもしれないが、彼の体は親戚の人達によって運ばれ、その後、彼は息を吹き返したという話も残っている。やがて彼はナッシュビルのほうまで行って、2度とケンタッキーには現れなかった、という話もあるので結構真実かもしれない。
フィドルチューンだが、僕はCathy Finkの演奏を参考にして5弦バンジョーで弾いている。なお、Coleman Kills His Wifeという曲もあるが全く違う曲だ。

 

Irish Musicその118

Ashokan Farewell   (Waltz)

余りにも有名な曲であり、またアイリッシュ・チューンでもないので、既にコラムで書いたような書いていないような、よくわからない位置にいた曲だ。この曲についてはLover’s Waltzの項目(12)で触れていた。同じ作者ということで。

この曲を初めて聴いたのは1984年にリリースされたFiddle FeverのWaltz of the Windというアルバムだった。その年、NYのソーホー辺りをウロウロしていたら彼らのコンサートの会場に出くわした。偶然だったし、人気の高いバンドだったので勿論ソールドアウトで中には入れず、扉の隙間から少しだけ聴いた。

アルバムを手に入れたのはその直後だったかもしれない。いや、もう存在を知っていたのだから直前だったかもしれない。完全なジャケ買いだった。そして内容も素晴らしかったが、とに角Ashokan..に強く惹かれた。変なタイトルだな、と思って文献を読んでみたら、NYのAshokanで行われるMusic & Dance Campのテーマ曲であることが分かった。

ほどなくしてアメリカの公共テレビ局PBSで南北戦争を題材にしたドキュメンタリー番組が放送されたが、そのメインとなる音楽がこのAshokan Farewellだった。それはそれは素晴らしく番組を盛り上げていた。多くの人はあの番組の音楽、ということで知ったようだ。数多くの録音が残されているがあまりに名曲なので、これをむやみにアレンジする人もいない。ワルツではなく、スコットランドスタイルのラメント(哀歌)だと言う人もいる。また、Jay Unger自身、作った時からAly Bainの演奏をイメージしていたらしい。Transatlantic Sessionでそう語っていた、という記事もある。とに角しつこいようだが美しい曲だ。

懐かしいレコードの数々3

アイルランドからAlec Brownを呼んでトリオとして合わせてみたが、チェロ奏者との演奏というと、僕にとっては懐かしいものがある。

今はNatalie Haas & Alasdair Fraserのコンビが有名だが、70年代に僕がよく聴いていたRising Fawn String Ensembleというもの。

メンバーはNorman Blake, Nancy Blake, James Bryanの3人。オールドタイムやブルーグラスの世界ではよく知れた存在だ。

チェロとフィドルが絶妙に絡み合っていてとても気に入っていたものだった。

当時としては異色の組み合わせだったと言えよう。

そして、若いAlecと希花にとっては初めて聴くものであったかもしれないが、なにか彼らからのレパートリーも取り入れる事が出来るかもしれない。何といってもAlecは南部の出身だ。

なんて思いながらまたRising Fawn…を聴いている今日この頃。

Irish Musicその119

Farewell to Trion

これはオールドタイミーからの選曲。超有名なものではなさそうだが、最近多くの人が演奏している。出元は、アラバマのMack Blaylockと言う人が彼のおじさんに当たる人Joe Blaylockの書いたものだとして発表したらしい。彼(Joe)がジョージアのTrionからアラバマに戻ってくるときに書いた、とされている。そこにJames Bryanが3パート目を付けたものが今現在のかたちになっている。なので作曲者として3人Joe , Mack, Jamesの名前が記載されている。元はキーオブCで書かれたようだがGで演奏している人もいる。楽器によってだろうが。僕らは次に何かメドレーを、と考え、Dで演奏している。単独で演奏してもなかなかいいメロディの曲だ。その場合はオリジナルを尊重してCかな。Trionはデニムの町として有名だということ。今や世界中になくてはならないものであるジーンズの元になっている町だとは知らなかった。

2018年もよろしくお願いします

あっという間に数日過ぎてしまった2018年ですが、2017年の一年間、勿論その前からずっとですが、支えていただいた皆様、どうもありがとうございました。

皆さんにとってはどんなお正月だったでしょうか。

今年も何事もなく、無事に楽しく過ごせたらいいですね。

結局のところそれが一番かな。日々そんなに力まず、ごく普通に過ごせて、良い年だったねと言える年末を迎える。そして、また次の年もよろしくって言えることができたら、それが一番だと思います。

また12ヶ月が瞬く間に過ぎてゆくのでしょうか。

それを言うのはまだ早すぎるとは思いますが、健康にはくれぐれも留意して生きてゆきましょう。

そして、またどこかでお会いしましょう。

 

Irish Musicその120

Grey Owl (French – Canadian)

非常にキャッチーなメロディを持った曲だと思うが、フレンチ・カナディアンの別名Metis Tradという情報以外、いつごろ書かれたものか、誰か書いた人が居るのか、どうやって伝えられてきたのか等の情報が今のところ見つからない。

因みにMetis と言うのはカナダ・インディアン(いわゆるFirst Nations)とヨーロッパ人との間の混血民族ということだ。

アイリッシュ・チューンとは全く異なった感がある。フレンチ・カナディアン系の人をはじめBruce Molsky、Molly Tuttle、など、多くの人達が演奏している。

実際、あるグループのコメントで    Bruce Molskyに習ったものだが、あまりにいい曲で僕たちは20分間も演奏し続けた、とあったがそれくらいに名曲だと言える。

いろいろ調べていたら1942年生まれのフレンチ・カナディン・フィドラー、John Arcandの作、という記述も出てきたが定かではない。そうだとしても、おそらく、Tradからヒントを得たものかもしれない。

「なんちゃって」と「っぽいもの」

僕はよく「なんちゃってアイリッシュ」とか「アイリッシュっぽい」ものが嫌いだ、と言うが、それは1960年代のフォーク・ブームからずっと僕らがやってきたことだと思う。

如何にPP&M, Kingston Trio, Brothers Fourのように演奏し、歌うか、日々の頭の中にはそれしかなかった。

来る日も来る日もレコード盤に針を落とし、授業中も机の下で指はスリーフィンガーを練習していた。

やがて、ブルーグラスを演奏するようになると、それはそれで激しいコピーの毎日に明け暮れた。相変わらず自分の足で探しに行かなければ何も得ることが出来なかった。

「なんちゃって」と「っぽいもの」は同じではなく、もしかしたら「なんちゃって」のほうが「っぽいもの」よりたちが悪いかもしれない。

「なんちゃって」は表面上は知っていて、でもこんなんでいいじゃん。そこまで深く掘り下げる必要もないし…と言う感じで「っぽい」はあまり知らないけどなんとなくコピーも含めてそんな感じ、というところだろうか。

そうは言えども、この日本に於いては少しアコーディオンの牧歌的なサウンドが加わると「アイリッシュっぽい」なんて言う音楽関係者がいる。

なので「なんちゃって」は演じる側の悪、「っぽいもの」は受け取る側の悪という感もある。

そしてそのどちらからもこの深い音楽に対する敬意と、この音楽を受け止める幅の広さを感じることはできない、という意味でこのような言い方になってしまう。

ところが、僕らが1971年に始めた「ザ・ナターシャーセブン」も限りなくブルーグラスっぽかった、と言えよう。

しかし、その頃どれだけ多くの人がブルーグラスにどっぷり浸かっていっただろうか。

そこには僕らの「っぽいもの」でありながら決して「なんちゃって」ではない生き方があったからだ。

思うに、高石さんのフォークソングに関する知識やオールドタイム、ブルーグラスに対する情熱、そして日本語を大切にする姿勢と、坂庭君と僕の、どんなものにも貪欲に耳を傾けてきた姿勢は「なんちゃって」も「っぽいもの」も越えた場所に居たのかもしれない。

やがて、僕がアイリッシュの世界に入り始めた頃、もう世の中ではどんな資料も自分の部屋で手に入れられるようになってきた。

しかし、ティプシーハウスのメンバーになったころは自分の足で、耳で、身体で必死に食らいついていったものだ。幸か不幸かコンピューターを触れなかったからかも。

アメリカに於いてブルーグラスでさえも、西海岸のブルーグラスはブルーグラスっぽいだけだ、なんて言う人が…今でもいるとは思わないが、少なからず居たと思う。

ましてやアメリカ人の演奏するアイリッシュは言わずもがな、というところだろう。

ジャック・ギルダーの悩みがそこらへんにあったことを僕は良く知っている。

マーティン・ヘイズとコンサーティナ奏者とのクレア・スタイルで初めてコンサートをしたとき、奇しくもコンサーティナ奏者が「ジュンジ、本物のクレア・ミュージシャンとやるのは初めてだろ」と言った。

そこら辺から軒並みクレアのミュージシャン、或いはアイルランド全域のミュージシャンから声が掛かるようになってきた。

これはティプシーハウスというバンドでやってきたことが大きく影響していることだと思う。

ジャックは悩みを抱えながらも無類の勉強家だったと言える。その姿勢が「っぽいもの」を越えた場所に立たせているのだろう。

僕がこんなことを言えるのもさんざん「っぽいもの」をやってきたからだろう。

そしてすでにそんなところは越えてしまったからかも。

そして、それはクラシックを始めた1954年くらいからの自分の歴史かもしれない。

Irish Musicその121

★  Phoenix     (Reel)

Arcadyで覚えたこの曲。アコーディオン奏者のDave Hennesseyが書いた、何とも小気味よいリズムの名曲だ。多分Patsy Broderickが弾いているだろうキーボードが実に曲の感じを引き立たせている。タイトルはCorkに存在したパブの名前からとったということだ。

★  Jackie Daly’s Reel     (Reel)

こうクレジットされているが、2曲繋がっているので、どちらもそう呼んでいいのだろう。僕は特に1曲目が気に入っている。アコーディオンならでは、という感もあるメロディだが、とても好きだ。他の人の演奏ではあまり聴かないのでJackieの前でこれを演奏した時には彼も驚いた様子だった。ところでこの曲は2曲繋がっていると言ったが、最初の曲はCacodemonというタイトルで演奏している人がKathryn Tickellをはじめ、数人いる。Arcadyでは、これもPatsy Broderickのピアノ演奏から入る。そして2曲目はどことなくPhoenixに似た曲だ。

 

Modern Folk Quartet

 

ちょっと前にモダーン・フォーク・カルテットについて少しだけ書いたこともあったが、このグループは1963年頃から短い間に日本のフォーク少年(少女も)達に強烈なインパクトを与えました。

今までのフォークソング…みんなで一緒に歌おう、というものではなく、とても一筋縄ではいかない難解なコーラスを主体にしたグループだったのです。

当時、といえども彼らの存在が日本のフォーク界に知れたのはもう少し後の66年とか67年頃だったかもしれません。

そんな彼らのコピーというのは並大抵のことではなかったのです。

僕も早速、当時、龍谷大学に通っていた金海君、立命館にいた藤本君、同じく立命の寺川君と共に来る日も来る日もコピーしたものです。

バンドの名前はBasin Street Quartetだった。

カルテットなので4人ですが、それぞれのパートはなんとも不思議な動きをします。

しかし、その4声が生み出すコーラスは力強く、他のグループではあり得ないものでした。

そんなことを想い出していたらつい先日、友人のバンドが京都からやってきました。

みんな大学の時からそれぞれの音楽シーンで苦楽を共にした仲間です。

彼等はもう40年以上Bleecker Street Quartetという名前でモダーン・フォーク・カルテットのコピーバンドをやっています。

それも同じメンバーかな。それにみんな結構元気!

バンジョーの北村君、ギターの熊谷君、ベースの村田君、ギターの田中君。

彼等とは一緒にブルーグラスをやっていたこともあるし、北村君は初期のナターシャー・セブンでベースを弾いていたこともありました。

彼等のサウンドは、本家Modern Folk Quartetから認められただけに、さすがなものだ。

まず、4人の声のバランスがいい。それぞれどことなく本家に似ていて、コピーバンドとして相当いいところまでいっているように思えて、久々に男4人の力強いコーラスを堪能させていただいた。

北村君はヴェガのロングネックを使っているが、やっぱりそれでしか出ない音、という感がしたので、いろいろと話を聞いて納得。ロッドが木製のものを使っていた。

まだまだお話をしたかったが、彼らも京都に戻らなくてはならないため、その日はすぐ別れたが、彼等、まだまだ元気そうだったので、また京都で会えたら嬉しい。

そして、まだしばらくは彼らの力強い歌声と素晴らしい演奏は健在だろうから、これからもどこかで聴くことが出来るだろう。

Bleecker Street Quartetに乾杯!

’60年代

僕は‘49年生まれなので、‘50年代の記憶というものはあまりないのかもしれない。

朝鮮戦争は1950~1953というので、それが終わったころ僕はピアノを始めたんだろうか。

とに角自分自身の暮らしには全く影響がなかった…というか、あったのかもしれないけど知らなかった、というほうが正しいのかな。

小学生の時に「勝利なき戦い」というグレゴリー・ペックの映画を見てからかな…プラモデルのP-51 ムスタングのマークはアメリカ軍のものではなく、韓国軍のマークを描いては悦に興じていた。

それ以外はピアニストになるつもりでいた。と言うわけではないかもしれないが、とに角ピアノ三昧の日々だった。

そんな‘50年代を過ごし、やがて‘60年代に入ると急激に世の中が成長してきたのだろうか。一部では朝鮮戦争の恩恵、という見方もあるだろうが、その辺は敢えて詳しく調べないことにする。

とに角、1960年、カラーテレビの登場から 1969年のアポロ月面着陸まで、確かに激動の時代であったことは事実だ。

何故、急に‘60年代について考え始めたかと言うと、最近になってまたイーグルスを聴いていて、大好きな歌詞「We haven’t have that spirit here Since nineteen sixty-nine」というところを想い出したからだ。

この歌を初めて聴いた時からこの部分が凄く気になっていて、また、気に入っていて、やっぱり‘60年代って特別な時代だったな、と痛感している訳です。

ワインを注文した時、1969年からそんな「魂(スピリット)」はここには無い、というくだり。ワインはスピリットとは言えないがここに敢えてスピリット(魂、或いは精神)という言葉を持って来るところがなかなかに面白い。

ともあれ、マーチン・ギターでも‘70年代に入ってくると、どうしてもそれまでのものとは比較できない物になってしまい、ギブソン・バンジョーもRB-250に顕著に表れているように、今一つ人気が無い。

1969年を境にアメリカが希望に満ちていた時代は終わった、というのがこの歌詞の中にも含まれているのだと思う。

1969年というとウッドストックの時代でもあったといえる。その同じ年、ウッドストックから僅か4ヶ月後のオルタモント・フリー・コンサートでの悲劇は更に人々に良き時代は終わったということを感じさせただろう。

ケネディ大統領暗殺の1963年、そしてその後、立て続けに起きたキング牧師の暗殺とロバート・ケネディの暗殺。特に次期大統領候補として国民の支持を集めていた彼の暗殺には、国の将来に不安を感じる人が多くいただろう。

1969年のアポロ11号では多くの人がまた希望を持ったかもしれないが、宇宙開発はまた原子力開発や武器の開発にもつながる紙一重のものかもしれない。

また、ベトナムのテト攻勢開始の1968年を機に‘73年の撤退までは本当の意味での泥沼だったと言える。

反戦運動が一層高まったのもこのテト攻勢あたりからだろう。

‘60年代、僕らは大学生活をエンジョイしていた。

そこにはなんの不満も不足もなかったが、何も知らなかっただけかもしれない。

しかし後年、アメリカで多くのベトナム難民、また多くのベトナム帰還兵たちと接触することができ、またヘイト・アシュベリー付近に住んでいたということもあり、その名残を肌で感じることが出来たというのは幸せだったのかもしれない。

自分で選べた訳ではないけれど‘60年代を音楽と共に生きてこられた、というのはひとつの財産かな?

ギブソン・マンドリン2種

以前、グレイト・レイクス バンジョーのことを掲載してみたが、今度はギブソン・マンドリンのことを掲載してみる。

この写真のマンドリンは共に1900年代初期のモデルだ。

茶色い方が1913年のAモデル。当時としても安価なモデルだったと言えるだろう。

音はカラッとした、確かに高級モデルとは一味違う、どこか直接的な響きを持った…よく言えば大きな音のするものだ。

古いのに音程は他に類をみないほどいい。

黒いボディの方は1911年のA-4。これは当時の高級モデルだ。

糸巻きの装飾など、たまらなく美しい。そして限りなく弾き易く、上品な音色で、

当時の職人の腕と情熱が感じられる素晴らしいマンドリンだ。

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Junji Shirota

女性シンガー

何故か女性シンガーのLPレコードやCDはよく集めていた。フォーク・ソングをやっていた頃はブラザース・フォアとキングストン・トリオのLPは、ほぼ欠かさず持っていたが、それはあくまでグループとして、だったので、男性シンガーというものにはあまり記憶が無い。

女性シンガーではまずビリー・ホリデイだろうか。大学1年くらいの時には本当によく聴いていた。ここは音楽を奏でる者としては必須だろう。

ジャニス・ジョプリンもよく集めたものだ。Cheap Thrillsなるアルバムは擦り切れるほど、耳に胼胝ができるほど聴いた。

彼女が元々はオートハープを爪弾きながらフォーク・ソングを歌っていた、というのも驚きだ。

そしてナンシ・グリフィス。この人のアルバムはほとんど全部持っていた。

テキサスの香りムンムンの、最も好きなシンガーだったかもしれない。因みにジャニスもテキサス出身だった。

カントリーではリバ・マッキンタイヤーの声が好きでいくつかのアルバムを集めたものだ。

そういえば、アリソン・クラウスも好きでファンクラブにも入っていたっけ。

二―ナ・シモンやシンディ・ローパー、そうそう、ミニー・リパートンが出てきたときにはびっくりしたなぁ。

リンダ・ロンスタットが寿司屋に来た時もびっくりしたけど…関係ないか。でも、彼女のメキシカンのアルバムは僕のベストのひとつに数えられるかな。

フィービー・スノウが出現した時も相当なギターの腕前に圧倒されたものだ。彼女は、ニューヨークのクラブでデビッド・ブロムバーグのプレイを食い入るように見ていた、という話を聞いたことがある。

ボニー・レイエットを初めて見たのはジェリー・ガルシア・バンドのゲストとして彼女が出た時だった。ぶっ飛んだ。

この人が歌うStor Mo Chroiが、ギグに行く途中ジャック・ギルダーの車のラジオから流れてきたときのことは結構鮮明に覚えている。

ヒット曲の中ではこのボニー・レイエットの「I Can’t Make you love me」これは絶品だし、

アリシア・キーズの「If I ain’t got you」

これは、徳島の会でオープニングアクトを務めてくれた、なつきさんが唄っていて、僕はすっかり忘れていたにも関わらず「アリシア・キーズ並のボーカルだね」と言ってしまったが、それはそれで当たっていたので今さらながらびっくり。

他にも、トニ・ブラックストンの「Unbreak My Heart」それにSadeの「Smooth Operator」なんかは何万回聴いたか分からない。

グループの中では何といってもペンタングルのジャッキー・マクシーやフェアー・ポート・コンヴェンションのサンディ・デニーかな。

こうしてみると男性シンガーの方も少なからず想い出してきた。

また書いておこうかな。それでないと忘れるから…。