突然ですが、数年前に書き始めていた、アメリカのレストランでの話を今回から掲載してみようと思います。
タイトルは「アー ユー オープン?」
では、まずプロローグから。
突然ですが、数年前に書き始めていた、アメリカのレストランでの話を今回から掲載してみようと思います。
タイトルは「アー ユー オープン?」
では、まずプロローグから。
プロローグ すし、そして寿司職人。
すし、それは日本の食文化を語るうえで、その中心ともなり得るものだろう。しかし、専門的、学術的な見地からの解説は、その筋の専門家の方々にお任せすることにして、ここでは、海外に存在する日本食、あるいは日本食を提供するレストランに従事する人たちに関する、日本では、まず遭遇することがないような様々なお話しを書いていきたいと思う。
また、日本食なるものに馴染みのなかった人たちが、いかに日本食レストランでふるまうのか、非常に興味深いお話も出てくる。
今や、日本食も世界各地に浸透している。それが「まさかこんなところですし?」と思わざるを得ないところであっても。
殊に、これから語ろうとしているアメリカでの日本食は、すでにブームというものも通り過ぎ、深く庶民の間にまで根付いている部分もある。
日本食については、様々な書物でも紹介され、各メディアなどにも露出度は高く、俳優、歌手などの、いわゆる外タレさんたちも「日本食はお好きですか?」と問えば必ずと言っていいほど「Oh!yeah,I love SUSHI!」または「Sake!my favorite」というようなお決まりの台詞が返ってくる。
もちろん「嘘でしょ」というつもりもないし、確かに彼らにとっても、そして、かくなる僕たち日本人にとっても、すしや刺身というものは特別に魅力的な食べ物であることは否定できないだろう。
しかし、ものによってはもう芸術の域を超えている感もあるほど、どこか敷居が高く、あまり軽々しく語れないものである、というような思いも多少は持ち合わせている。
そして、それは事実、長年アメリカという国で寿司職人として従事したことによって更に気づかされた一面でもあるのかもしれない。
アメリカでは、多少素人でも立派に寿司職人としてまかり通ってしまうことも決して不可能ではない。
それでも、人々の健康にまで影響する仕事。それなりの注意と努力は必要だ。
話題のレストラン、ということで参考のために出向いた寿司屋では、若い白人のおにいさんが、今でいう「イケメン」でしょうか、アロハシャツにブルージーンで「らっしゃ~い」と、いいながら不器用な手つきで、すし(みたいなもの)を握っている。
どこかしら「スシドナルド」といった感じだ。
フロンティア精神というものを充分理解しているつもりだったが、なぜか「すしをなめてかかっているんじゃないだろうか」と、心の中で疑いを持ってしまう。
そうかと思えば、入った途端に、何か異様とも思える緊張感と重圧を感じる寿司屋もある。そこには、その筋の人も顔負け、というような風貌の職人が(もちろん日本人)黙々と握っている姿がある。
この人、なぜアメリカで寿司屋なんかやっているんだろう?と首をかしげたくなってしまうのだ。
でも、東洋の神秘みたいなものが好きそうな白人にはいかにも受けがよさそうなのも否めない。
又、中国人経営の食べ放題を売りにしているレストランでは、さまざまな国籍の老若男女が、皿の上にすしを乗せ、その上から焼きそばを盛り、さらに焼き飯や鳥のから揚げなどを乗せてあっちへ行き、こっちへ行きしている。もはや、すしは潰れて原型をとどめていない。
そんな不届き千万なお店も大繁盛なのだ。
このようにして、今やアメリカのどこへ行っても日本食を食べることが出来…と言いたいところだが、実際はとんでもなく広い国。すし、刺身などという言葉すら知らない人たちがいることも忘れてならないことなのだ。
特に南部の奥深くではそんなことは当たり前のことだが、大都会ですら、黒人の子供たちの「すしってチャイニーズ?」「うん、そうだよ」というような会話も耳にしたことがある。
想像をはるかに超えた広い国である。
寿司職人としてアメリカに渡った人は数知れずいる。また、アメリカでの生活手段として寿司職人になっている人もいる。そのほうが圧倒的に多いかもしれない。
頭は角刈り。一見渋い菅原文太みたいな寿司職人。コムデギャルソンのロングコートに身を包み、ブランド物のバッグを大事そうに抱えてオープン前のレストランに入っていく。
あのバッグの中身はやなぎ刃と出刃かな、なんて思うと笑えてくる。
向うは向うで、あいつも流れの寿司職人か、という顔をしてチラ見していく。
外国人の寿司職人(と呼べるのかどうかわからないが)も多少はいる。前出の白人の若者しかりだ。
単にお金になるから、とか、もてる、とか、理由は様々だ。
知る限り、中国、韓国、インドネシア、ベトナム、モンゴル…他にもいたかもしれないが、やはり顔は東洋系か、全くかけ離れた白人か、だろう。
中近東、アフリカ系はちょっと躊躇してしまう。人種に対して差別意識は全くないが、やっぱりその辺は難しい。
アメリカという国では、人種によってものの考え方、価値観の違いというものがどんな時でもついてまわる。
体験しなければ理解できない話、思わず笑ってしまう話、涙なくしては語れない話、そんな人々との出会いの話をこれから少し書いてみたいと思う。
多くのレストランにおいて、営業時間の設定としては午前11時半オープン、ランチタイムを経て午後2時に一旦クローズ、そして午後5時に再びオープン、午後10時まで営業、というのが普通だ。
もちろんお店の諸事情や、ロケーションなどにより、多少の違いはあるが、ほとんどの日本食レストランがそのようになっている。
従業員(料理人)は仕込みのために10時までには店に入るが、その瞬間から多種多様、大小取り混ぜた問題が起こる。
「アミーゴ、かあちゃんが病気だから今から国に帰る」たしかこの間かあちゃんが死んだって言ってたけど。
急に、というのは困るが、しかし、これなどまだましなほうで、何も連絡がないまま消えてしまうメキシコ人(何もメキシコ人に限ったことではないが、圧倒的にメキシコ人に多い)それも、若い子に多い。その多くは友達からの情報で、もっと給料のいいところがみつかったとか、あるいは仕事に飽きたり、とかいう理由だ。
まぁ、日本の若者にも起こり得ることかもしれないが、それでも日本人の場合は突然消えるというケースはまず無いと見ていい。
あとは、移民局の強制検査が入って、有無を言わせず連れていかれる、というケースもあるだろう。
あるいは、賭け事に負けた金がたまりにたまって払えなくなり、殺されないために姿をくらます、といったケースもある。
これなどは中国人やベトナム人に比較的多い。
とにもかくにも、ここでは一人のメキシコ人の若者を紹介することにしよう。
カビヤ・ロドリゲス・ゴメスという25歳の男。入ってくるなり「おはよーございます。カビアと申します。仕事を探しているのですが。おにーさん、仕事ありますか?」
それはそれは驚くほど流ちょうな日本語をしゃべる。
因みに、カビアという名前。実際には「カ」と「ハ」の中間の発音だ。Javierと書く。「日本の方にはとても難しい発音だと思います。だからどちらでもいいです」と、更に流ちょうな日本語が続く。
日本食レストランでの経験も豊富で、会話の端々にその働きぶりを伺わせる言葉が飛び出す。
「冷蔵庫見せてください。えーっと…。はい、わかりました。ランチタイムのコンビネーション、こちらでは何のすしを付けますか?刺身はナンカンデスカ?一番忙しい時で何人ぐらいのお客さんが入りますか?-あぁ、それなら私ひとりでも大丈夫です。100人くらいなら問題ありません」
実際、よく働く男、カビア。
メキシコ人のよくあるパターンとして、友人あるいは親せき縁者一同が狭いアパートに同居し、先に仕事を見つけた奴が同じ店にそのうちの一人を紹介する、というのがある。これも労働条件が良ければ、の話だが。カビアのアパートにも7~8人いたが、名前がほとんど“ホセ”だった。
それはともかくとして、店の経営者には気を付けなくてはならないことがあるのだ。それは、そのようにして、次から次へと同じ民族で固めていくと、それが例え友達同士、親戚同士でなくても、やめる時には一斉にやめてしまう、という現象だ。
そうなると残された人は悲劇極まりない。しかし、そんなことは日常茶飯事、どこのレストランでも一度や二度は経験していることだろう。なかにはしょっちゅうそんな目にあっているレストランもあるが、その場合、店側になにか問題があるのかもしれない。
カビヤは遅刻もせず、せっせと働いたし、仲間を引き入れることもなかった。
当時ちょうど、リッチー・バレンスを題材にした映画「ラ・バンバ」が上映されており、1時間に一度はラジオから「パラバララ・バンバ~♪」と、陽気な音楽が流れてきていた。
彼らのヒーローだ。ラジオのボリュームを最大限に上げ、大きな声で一緒に歌いだす。そして「さぁ、おにいさんも一緒に歌いましょう」しまいにこちらまで歌詞を覚えてしまう。
また、それだけではなく、一緒に出掛けることも度々あった。
一旦レストランがクローズした昼休み、彼らの聖地である、通称“ミッション・ディストリクト”めがけて。日本人向け観光ガイドブックには絶対に近づかないように注意書きがなされているところだ。
どこの町にも、ある一定の民族が多く固まって暮らしている地区がある。ここはヒスパニック系の地区だ。バスの中はスペイン語しか聞こえてこない。
まして、2時を少しまわると、子供たちの学校が終わる時間になる。小・中・高生たちがなんの秩序もなしにがやがやと乗ってくる。
ダブダブのジーンズにダブダブのTシャツ、顔のいたるところにリング、そんな男の子や女の子たちをいっぱい乗せたバスは奥地へ奥地へと進んでいく。
やがてひときわにぎやかなバス停に降り立つとそこはもうメキシコさながら。歩道の脇にはウイスキーの瓶と一緒に寝転がっている人。他人の車の上に乗ってチェーンを振り回して遊ぶ不良少年たち。
ソンブレロを被りギターを抱えた少年たちもいる。彼らはレストランに入って行って、歌を唄いながら小遣い稼ぎをしているのだ。日本でいう“流し”みたいなものだ。
「ここには俺だって夜は来ないぞ。いつ何時ピストルの弾が飛んでくるか分からないし、ディスコなんて行けば絶対喧嘩になる。喧嘩になったら間違いなく銃だ。命がいくつあっても足りゃしない」
地元の人間でないと足を踏み入れることができないような、小さなメキシカンのファスト・フード店で、タコスとハラペーニョをあてにコロナビールをラッパ飲みしながら彼が言った。
そんなカビアも、いったん国へ帰ることになった時、彼は律儀にもひとりの若者を紹介してくれた。
彼の名は、フェルナンド・カサレス・ロハス。カビアが連れてきた若者はまだあどけなさが残る17歳の少年だった。
カビアとは正反対でおっとりした性格、日本語はまるきりしゃべらないし、英語もほとんどダメなのだが、どこか好感の持てる少年であった。
やはり第一印象というのか、それは大事だ。しかし、この一見おっとりした少年は、充分第二のカビアとしての素質を持っていることに、後から気付くこととなる。
他にもヒスパニック系としてはグァテマラ人やエル・サルバドル人などもいたが、みんな真面目だった。
カビアの穴埋めというのは彼にとっても容易なことではなかったはずだ。
しかし、そんな彼もやはり天性のものを持ち合わせていたのだろう。徐々に頭角を現すまでになっていく。
スペイン語まじりで少しだけ知っている英語を駆使して一生懸命に訊ねてくる彼に対して、日本語まじりのスペイン語で答える。とても奇妙な師弟関係だ。
言葉が通じない、というのも悪いことばかりではない。何故ならば無駄話の時間が減るからだ。
フェルナンドもだいぶ慣れてきたころ、日本からとても大きなニュースがとびこんできた。
昭和天皇が危ないという、そう、あの昭和の最後のころだった。
日本人の従業員たちは、来る日も来る日も一様に新聞を読んでは、いったいどうなるんだろうか、下血というのはなんて読むんだろうか、などと話し合ったものだ。
そんな日本人たちのやりとりを見ていたフェルナンド。てんぷらを揚げる手を休め「アミーゴ、いったいどうしたんだ?」と訊いてくる。
このメキシコの片田舎の少年に、日本の天皇陛下のことを話しても無駄ではないだろうか。しかし彼も興味津々だ。
意を決して訊いてみた「Do You Know Japanese Emperor?」すると彼がきょとんとした顔をして答えた「てんぷら?」
説明は必要ないだろうが、敢えて言うと「エンペラー」と「テンプラ」の発音が彼には区別がつかなかったのだろう。
なんともかわいいやつだったが、そんなフェルナンドも結婚を機にやめていった。
カビアやフェルナンドとはそれからも個人的によく会っていた。
カビアは、いったんメキシコに戻ったが、風の便りでふたたびアメリカに潜入した、と聞いた。潜入とは一般的に不法入国のことだが、彼らにとっては当たり前のことらしい。よく聴いていた“ロス・ディアブロス”というグループの歌で突然叫び声から始まる歌があった。何と言っているかといえば「移民局に気を付けろ!」だそうだ。
そんな歌、日本には無いはずだ。
また、カビアはこう言っていた「本当に怖いのは移民局のパトロールではなく、森を抜ける時に出くわす蛇だ。パトロールなんて、捕まれば追い返されるだけ。またいつでもチャンスはある。でも蛇はマジやばい」
ある日、新聞にとても興味深い記事が載っていた。
“メキシコからの不法移民の、とある事柄が今、問題となっている。彼らは何人かがまとまってアメリカのハイウェーを渡る。それはほとんど夜も更けてからであることが多いのだが、必ずといっていいほど最後尾の数人が車にはねられる。それは彼らのほとんどが田舎の、それも極度に貧しい地方の出身者で、アメリカのハイウェーでのスピード感覚を理解していないからだ”
そんな記事だったが、カビアたちは若いし、もう慣れたものでちょっとしたピクニック気分だったようだ。
生まれたところ、住むところが違えば苦労の種類も本当に違うものだ。
ところで、ある日、フェルナンドには日曜の朝、黒人街ちかくの、とある公園に行けば会える、という情報を手に入れた。
彼はそこで仲間たちとバスケットをやっている、という話だ。行ってみると、まるで映画のシーンのように、ラテン系、ヒスパニック系や黒人の少年たちがサンサンと輝く太陽の下で遊んでいる。そして、その中に女房らしき女性と抱き合っている彼を発見。相変わらずトロ~ンとした眼で女房を紹介してくれた。「ロサ・マリアだ。アミーゴ」16歳だという。
彼らの生きていく“力”はストリートから生まれるのだろう。英語のスラングでいう
“Street Cred”という、学校で学ぶことのできないものだ。
彼らがよく言う「アミーゴ」という言葉。直訳すれば“友達”“同志”みたいな意味だが、彼らは、会った時、別れる時、また、それ以外の時でも必ずと言っていいほどこの言葉を口にする。
それは民族同士のつながりの深さを感じさせるものだ。いいものだな、と感じる面もある。日本人だったらいちいち「おはよう、友達よ」「また明日、同志よ」なんて言わないだろう。
ちょっと話はそれるかもしれないが、黒人がよく「man」という言葉を語尾につけているのを聞くことがある。
それは彼らの奴隷制度時代の経験からきている、という説がある。彼らの祖先が奴隷としてアメリカに連れてこられた頃、どんなに大人の男であろうと、ひとりの男として、しいて言うならば人間、あるいは人類(mankind)として認識されなかった。一般的に“boy”と呼ばれていたそうだが、青二才、若造、ましてや未熟者などという意味もある。
そんなことから「我々も人間である。一人の男だ」という意識が生まれ、お互いを「man」と呼び合うようになった、という。
いずれにせよ、民族のつながりというものは、その民族が他からの強烈な抑圧を受けたり、なんらかの、自国がひっくりかえるような出来事があればあるほど強くなるような気がしてならない。
そして、そんなことを強く感じさせてくれる人たちがまわりに沢山いたことも事実だ。
ベトナムからやってきた男、マイク。本名はフン・タン・ウィン。年齢不詳、彼自身にもわからないようだが、多分25歳くらい。
小さな漁村で生まれ育った彼にはベトナム戦争のさ中、何の苦労もなく育っていた日本の若者たちとは全く違う人生があったようだ。
ある日、彼が子供の頃、ベトコン(ベトナム・コミュニスト)が来て、村の大人たちを彼らの目の前で殺していった。彼ら子供を広場に集め、大人たちが次から次へと撃たれていくのを見せられた、というマイク。
彼の唯一の楽しみはギャンブル。負けても負けても懲りずに続ける。一晩で1か月分の給料を使い果たしても、借りたお金でまた出かけていく。
彼はまた、よくベトナム料理のお店にも連れて行ってくれた。それも、いわゆるレストランと呼べるようなところではなく、屋根はあれど、壁はあれど、ほとんど屋台に毛が生えた程度の(もちろん毛は生えていないが)ところだ。
ベトナム語以外は全くと言っていいほど通じないだろうおばちゃんたちが、何やら甲高い声で話しながら料理をしている。
「彼女たち、北の出身だ」マイクは言う。なんでも南の人のほうが低い声でソフトに喋るそうだ。
そして、出てきた料理は確かに、これぞベトナム料理、といえるものだった。いくつかのベトナミーズ・レストランにも出向いたことはあったが、そんなところのものよりも見た目は悪く、量も多く、しかし味は良かった。
はっきり言って、ベトナム料理の味が分かるのか?と言われれば、そこはそれで微妙だが、マイクに言わせると、これこそが真のベトナムの味、いわゆる家庭料理ということだ。
ここで料理を作っているおばちゃんたちにも、僕ら戦後生まれの日本人には想像できないほどの強烈な体験があるのだろう。
当時「プラトゥーン」という映画が来ていたが、ここのおばちゃんたちはみんなその映画に出てくる農村の人達のようだった。
しかし、どこの国でもおばちゃんというのは強いものと決まっている。
マイクにとっては、ここのおばちゃんたちと会話して、彼女たちが作った料理を食べて、ビールを飲んでいる時が本当に平和なころの故郷にいるような感覚になれる時間なんだろう。そんな幸せな時間は彼には沢山はなかったのだろう。
マイクがベトナムを出てきたときの話
「俺たちは漁師だったから海に出るのは簡単だった。いつものように漁に出かけるふりして舟を出したんだ。やつら(ベトコンの沿岸警備兵)気がつかずに手を振っていた。あいつらはトビウオと同じくらいバカだ。そして、俺たちはフィリピンを目指した。ところがとんでもないミスを犯したことに気がついた。水だ。水を積んでくるのを忘れたんだ。おれたちもトビウオ並みだった。フィリピンまで5日間。喉がカラカラだった。もうちょっと長くかかっていたら、多分ダメだったなぁ。水は本当に生きていくために必要なものだ」
彼らはそれでもやっとの思いでフィリピンに到着。そしてアメリカに来ることができたそうだ。
そして更に「初めてニュー・ヨークに着いて、ある看板を見つけた時には一目散にその店に入って行ったよ。Hot Dogって書いてあったんだ。おなかの空いた俺達にとっては、やったぁー、犬が食えるぞ、ってね。それくらいの英語は読めたからさ。でも実際に出てきたものは見たこともない奇妙なものだった。そういえば、キャット・フードの缶詰をそうとは知らずに食って、アメリカにはまずい食べ物があるなぁ、と思っていたころもあった」
マイクの話の全てが、戦後の復興も進んでいた日本に生まれ、なんの苦労もしなかった身にとっては驚きの連続だった。
マイクの他にも、コト(あるいは、ホトと発音するのか)という名のベトナム人がいた。彼はマイクよりも更に若く英語はまるきりダメだった。
マイクが聞いた話によると「あいつのボートではみんなが死体を食べていたらしい。あいつは食ってないっていったけど、じゃぁどうやってここまで生き延びてきたんだろう」
日本の大学生たちが反戦歌に耳を傾け、戦争反対!と大きな声を出してみんなで歌っていた頃、僕らよりずっと若い彼らはそれどころではない、壮絶な経験をしていたのだ。
もう一人、年老いた皿洗いのおじさんがいた。
南ベトナム解放軍の兵士だった、という彼。全くしゃべることがなかったので名前も知らなかったが、長い間ジャングルの中で数々の戦闘場面を潜り抜けてきたらしい。鋭い目をしていた。
他にも、みんながミセス・ホートと呼んでいた、元はサイゴンのお金持ちだった、とても教養のある50代の女性がいた。
マイクを自分の子供のように思い、自分たちの家の一部屋を彼に与えていた。
本当の名前は“キム・チー・リー”というが、フランス語とベトナム語しか喋らないご主人、ミスター・ホートが、彼女よりも一足先に働きに来ていたとき、彼女の名前を尋ねたが、一向にらちがあかないので、ま、いいや、ミセス・ホートでいこう、という話になったのだ。 彼らは、アメリカ兵とベトナム人との間に生まれた孤児を養子にすることで比較的スムーズにアメリカに渡ることができたそうだ。
この人からも想像をはるかに超えた話を聞くことが出来た。
「私たちのボートは迷うことなく目的地(おそらくフィリピン)に着けたけど、そうでない人達は何日も漂流する。そこへ出てくるのが海賊。だいたいタイの漁師だけど。そうなると悲惨ね。まずわが子を殺して海に放り込む。あいつらに連れていかれて売り飛ばされるよりはまし。それから自分も死ぬ。私たちもそれなりの覚悟はできていたけど、幸運だったわね」
同じ時代に生まれた、同じ人間なのに、どうしてこの人たちはこんな経験をしなければならなかったんだろう、と思わざるを得なかった。
もうひとりベトナム人のお話し。
やはり50代半ばの彼は唯一の楽しみが“宝クジ”。毎週2回ある当選者番号の発表時間が迫るとそわそわしてくる。
それは午後8時だ。5分ほど前になると「さぁ、写真を撮ってくれ」と言って、天ぷら鍋の前、エビを高々と菜箸で持ち上げ、腰に手を当て、胸を張ってポーズを取る。そしてこう言うのだ。
「ノーモアてんぷら!さよならレストラン」それから、ポケットに入っていた宝クジを握りしめ、全神経をラジオに集中させる。
だが、数分後にはうなだれていつものようにてんぷらを揚げる彼の姿がそこにある。愛すべき人だ。
彼は言う。「私は子供4人と女房を連れて、横になるスペースも無いボートに乗ってきた。それはそれはきつかった。私たちは、弱って死んでいった奴を海に放り投げた。できることはそれしかなかったんだ。だんだん人が減っていって、やっとスペースが出来た頃、フィリピンに着いた。あの戦争で全てを失ったけど、幸いにも一番大事なもの“家族”だけはかろうじて残った。ひどい経験だったけど、私はこう思うんだ。戦争は悪いことと決まっている。それは誰もが知っていることだ。でも、時として戦争というものは民族にパワーを与えることになる。日本人からは民族の結束が感じられないし、なんとしても生き抜くだけのパワーも感じ取ることができない。車や電化製品は素晴らしいけど。
ベトナムではああして戦争が起きて、おせっかいなアメリカが首を突っ込んできてあんなことになったけど、おかげで私たちはなにものにも屈しない精神を持つことになった。
それと、もうひとつ。本当に大切なのは教育だ。教育さえちゃんと行き届いていれば、もしかしたら戦争じゃなく、もっと他の方法で民族の真のパワーを示すことができるかも知れないんだ。私はこれから学校に通って勉強しようと思っている。いくつになっても勉強はしなくちゃぁな」
ヴィンさん、当分宝クジは当たりそうにないが、それでもそれなりの幸せは自らの手で勝ち取っている人だ。
さて、またマイクの話に戻るが、ある日のこと仕事が終わると玉突きに行こう、と彼が言う。
たまにはいいか、と思い、いざダウンタウンへ出かける。彼がよく出入りしているバーなんだろう。入り口に玉突き台があり、10人ほど腰かけられるカウンターがその横にあり、奥のほうにテーブル席が3つか4つ。よくある“どうでもいい”ようなバーだ。客はそこそこ入っているが、ほとんどが東洋系だ。
マイクは、フィリピン人が溜まっている玉突き台を意気揚々と目指してハスラー気取りで歩いて行った。やがて相談もまとまったらしく彼らは仲良くゲームを始めた。…かのように見えたが、ほどなくしていやな予感が的中した。
マイクが相手のフィリピン人に激しい言葉を浴びせている。相手も声を荒げた。と、次の瞬間、マイクが手に持ったキューを高々と振り上げた。
相手もすかさず応戦。仲間も加わる。瞬く間にバーの中は西部劇で良く見かける乱闘シーンさながらとなる。ただ違うのはカウボーイ同士ではなく、フィリピン人と居合わせたベトナム人の壮絶な殴り合いだ。
誰かがフラフラとジュークボックスに近寄る。そして意を決したようにコインを入れた。流れてきたのは、イーグルスの“Take It Easy”実にぴったりだ。
ビールを片手に観戦するのに出来すぎているシチュエーションだ。気がつくとマイクは店の外、大通りの真ん中でフィリピン人に馬乗りになられ、しこたま殴られている。
そこに警察の登場だ。15~6人の屈強そうな警官がワゴンから連なるように飛び出してくる。
マイクを殴っていたフィリピン人はすでにどこかに消えてしまっている。警官が横たわっているマイクを蹴飛ばしている。もちろん右手は腰の拳銃をいつでも抜くことができるように用意されている。
しばらく警官に問い詰められていたマイク。顔は血だらけでかなり腫れ上がっているが、顔見知りとの単なる喧嘩だ、と作り笑顔で答えている。
しかし、驚いたことに店にはもう新しい客が来て、酒を飲んでいる。すでに営業が再開されているのだ。
窓は割れ、椅子の破片などが散乱しているのに。こんな場所ではよくあることなんだろうか、店も慣れたもんだ。
帰りのタクシーの中でマイクが泣きながら言った「俺はフィリピーノが大嫌いだ。やっとの思いでフィリピンに着いた時、あいつらに牛か豚のように扱われた。あいつら俺たちのことを人間だと思っていないんだ」
やっとのことで彼のアパートに戻った時、時計の針はもうすでに3時を回っていた。泣きながら眠りについたマイクに何が起ころうと、ベトナムで何人死のうと、時は流れていく。
やがて、マイクの体に異変が起きた。
ほどなくして、食道がんの診断を受けることとなり、レストランの近くにある大きな病院に入院することが決まった。
見舞いに行くと、マイクではなく本名で入っている。フン・タン・ウィンはどうスペルするのか、正確にどう発音するのか、こちらも受付嬢もわからない。
困っていたところに点滴を引っ張ったマイクが、トイレに行きたかったんだろう…フラフラと歩いてくるのが見えた。そしてやっとのことで、無事彼の病室に入ることが出来た。
「どうだ?」と尋ねた後、彼が言ったことを生涯忘れることができない。
「ベトナムじゃ毎日のように俺の目の前で沢山の人が死んだ。小さな子どものころから人間の頭が吹っ飛ぶのを見た。内臓が飛び出しているのにまだ生きて助けを求めているやつもいた。そんなこと、どうってことなかったんだ。おれは死ぬなんてこと何とも思わなかったはずなのに、今はなぜかすごく怖い。できれば助かりたい。今にも死にそうなやつをさんざん見殺しにしてきた俺でも助けて欲しいと思ってるんだ。
俺、なんのために生まれてきたんだろう。でも、ベトナムに生まれたこと、決して恨んではいない。すごく美しい国だ。帰りたいなぁ。どうせ死ぬんだったらベトナムで死にたい。そうだ、俺が帰ったら遊びに来いよ。楽しいぜ。毎日釣りして、酒飲んで。いろんなところに連れていってあげるよ。必ず来いよ。約束だ」
「わかった。お前も必ず良くなれ。約束だぞ。でも、もう玉突きには行かないぞ」
そう言って別れてから2週間ほどして彼がフラっとやってきた。そして本当に嬉しそうに言った「ベトナムに帰るんだ。もう発つから。いろいろ有難う。遊びに来いよ。いいな?」
抱きしめた彼の体は驚くほど小さくなっていた。
それから2か月ほどしたある日、ベトナムから手紙が届いた。マイクの姉からだった。それは、彼とはもう2度と会うことが叶わない、という知らせだった。
とにかくよく働くハリーは中国人のおばちゃん。本名は難しいが、シト・ビクシャというような発音をする。シトは司徒と書くらしいが、ビクシャというのは美になんだか見たことがない漢字がついていた。あまり、聞いたことのない名前だ。陳さんとか、廣さんとかいうのはよく聞くが。
それはともかく、40キロに満たない華奢な体で重いものでも「エイヤー」と持ち上げる中国雑技団みたいな人だった。
ご主人はどこかのチャイニーズ・レストランで働いているそうだ。元は学校の先生だったが、文化大革命の最中、英語の本を持っていたことを理由に投獄されたことがある、と聞いた。
見るからに頭の良さそうな、そして人も好さそうな初老の男性だ。中国人を絵に描いたようなルックスにも何故か好感を覚える。
毎日、小さな赤いオンボロ車でハリーを迎えに来る。彼も疲れているのだろう。大体は車の中で静かに目を閉じている。
そこに仕事を終えたハリーが乗り込む。ご主人はむっくり起き上がって、おもむろにカセット・テープをセットする。ボリュームを上げ、自分が指揮者になったようなつもりで両手を高々と上げ愛する女房に向き直り「いいだろう、この音楽」しかしハリーの反応は冷ややかだ。「そんなことどうでもいいから、早く車を出してちょうだい。私は疲れてるの」
ご主人は隊長にでも怒られたかのように慌ててエンジンをふかす。
確かに彼女は疲れているはずだ。聞いたところによると、朝7時から朝食を提供するレストランで働き、10時から2時までここで働き、2時半からチャイナタウンで働き、6時にはまたここに戻ってきて10時まで働く。それを週に6日。掃除、洗濯は夜12時から、残った家事は日曜の午後。晩には家族のために晩御飯もちゃんと作るそうだ。それに、驚いたことには、日曜の朝ならまだ働きに出てもいい、と考えているらしい。
彼女に限らず、中国人の、特に女性はよく働くようだ。知る限り、男性はわりと多趣味だったりして、生活をエンジョイしている人も多いが、女性はかなり現実的で、働けるだけ働いてお金を作る、ということを人生の目的としている人が多い。(ような気がする)
だが、決してつらいとは思っていないのだろう。働くことを楽しんでいるようにもみえるのだから。
わき目もふらず働く彼女にマイクや他の従業員はよくイタズラをしたものだ。
ランチタイムの一番忙しい時間に、親子丼、かつ丼など、丼もののために用意されている卵をすべてゆで卵にしておく。3つも4つもいっぺんに入るどんぶりのオーダー。
ハリーは一目散に作り始め、頃を見計らって卵を割る。「Oh My God!」という声がキッチンに響き渡る。2回も3回も続くと叫び声が変わる「アイヤー」「アイヤー」
いい加減に気がつけばいいものをあまりに一途過ぎてなかなか気がつかない。
彼女は真っ赤になって怒っている。卵に向かって。
ある時、近くの空き地で煉瓦を拾った。それはすり減った砥石を修正するのにちょうどいい、もってこいの大きさだ。
いつも砥石を水につけてあるバケツの中に一緒に入れておいたが、ハリーが一生懸命、その煉瓦で包丁を研いでいた。あまりの一途の姿になにも言えなかった。
ハリーはよく言っていた。日本人は刃物を研ぐのが好きなのか?と。彼女は言う。「昔、日本兵がそうやって刀を研いでは中国人を試し切りしたものだ。日本兵のことを“鬼子”と言うの知ってる?(“こいつ”と発音する)私のおばあちゃんは日本兵に捕まって金歯をむりやり抜かれた」
彼女は思うに中国人の代表のような存在だった。
まず、けたたましく、やかましいのだ。それも広東語の独特の響きなのかもしれないのだが。
確かに中国人のおばちゃんと携帯電話というのは地球上最悪のコンビネーションだ、といわれていた。特に広東語。
そのあまりにも周りを気にしないおおらかさ(?)は中国4000年の歴史の重みから来るのだろうか。
同じ中国語でも北京語は少しソフトに聞こえる。中国には数知れないほどの言語がある、と言われているが、中国人向けのテレビを見ていると確かに、必ず字幕が漢字で表示されている。
大きく分けても広東語と北京語では、書き方は同じでも読み方は全く違うのだ。そこに更に台湾語や上海語などがあるし、もしかしたらまだ発見されていない言語も存在するかもしれない。
ハリーに訊いてみた「日本人は漢字を忘れたら平仮名っていうのを使うけど、中国人の場合はどうするの?」彼女、胸を張って「私たちは忘れない」中国4000年の歴史の重みだ。
地球を滅ぼすことのできるのは中国だ、と言った人がいた。もし中国人がみんなで手をつないで一斉にジャンプしたら地軸がゆがんで地球はお終い、らしい。
なんの根拠もない説だが面白い。最近の中国に於ける大気汚染を見る限り、もしかしたら、という気になってくる。
そんな事とは関係なく、今でもハリーは中国人代表として働き続けていることだろう。あるいは、さすがにもうリタイヤして、チャイナタウン辺りで麻雀でもやっているか。
ある日、モロッコ人の若者、ユーセフという男が仕事を求めてやってきた。非常に感じのいい青年だが、経験は全くない、と言う。そのうえ、英語は全く話せない。フランス語だけ。
取りあえずキッチンに案内して、いろいろな作業をやらせてみることにする。見た感じに違わず、とても真面目な態度だ。
ところが、未経験ということもあり、包丁の持ち方すらわからない。もちろん菜箸などというものにお目にかかったこともないらしい。
何故、そういう人がレストランでの仕事を求めるのか理解に苦しむところだが、その昔、誰かの書いた本で、正確には覚えていないが「全てはディッシュ・ウオッシャーから始まった」という、移民の話があった。レストランというのが一番手っ取り早いことは確かだ。食事も付いているし、特に言葉というものの壁がある場合には。
いくつかの調理場における基本的な仕事で彼を試してみるも、まるで話にならない。皿洗いもやらせてみるが、来年までかかりそうだ。(因みにその日は大晦日ではない)仕方がないので、ダイニングへと彼を連れて行った。
言葉がダメなので、ウエイターは無理だ。残るはバス・ボーイ(テーブルを片付ける役)しかない。
比較的楽な仕事なので、少し説明して後は任せておいたが、これが悲惨な結果を招くこととなる。
ほどなくして、ウエイトレスがすっ飛んできた。そして「お客さんが怒って帰っちゃった」と言う。その理由を聞くと驚愕の事実が浮かび上がった。
ユーセフがテーブルの上のお客さんの食べ残しを食べながら片付けている、ということ。さすがに驚いて、彼を呼び注意するも「Why?」の連発。
Whyはフランス語でSorryではないだろう。
結局、彼には何が悪いのかわからないようだったが、もしかしたら彼の生まれた国では普通に行われている行為なのかもしれない。しかしいい加減な憶測は誤解を呼ぶ。彼が特別だったのかもしれないのだ。
とにかく即刻辞めてもらったが、次の朝、またやってきて「Help Me」とくいさがった。その気丈な姿勢はとても大切だが、自分に向いている仕事を探す努力を惜しまないことも大切なことだ。
ケンとトムは兄弟で、ベトナム生まれの中国人だ。とても良く仕事をするこの二人、ケンはすし職人、トムはウエイターだ。
トムはウエイターという仕事を得たが、ベトナム語と中国語以外は分からない。しかし、ほどなくして“ウエイターの鑑”とまでいわれるようになるのだ。天性のものを持っていたのだろう。
手際の良さ、接客態度、すべてに抜かりがない。言葉が分からないのに、人々の求めているものが何であるか分かるのだから大したものだ。
同じようにケンもだれにでも好かれる男だったが、こちらのほうはベトナム語と中国語のほかに英語もそこそこ達者だ。気遣も素晴らしく、この兄弟はどういう育ち方をしてきたんだろう、と思わせる。
それでも他のベトナム人の例と同じ、大変な苦労を強いられてアメリカに渡ってきたに違いないのだ。
国境を渡って中国からやってきた、という話も聞いたような気がするが定かではない。いずれにせよ、そんな苦労に比べたら、アメリカで慣れない仕事に従事することくらいなんともないのだろう。
ケンの英語はそこそこだと言ったが、中国人独特の発音で何度も聞かなければわからない時がある。
おそらく、ネイティブな人達には想像がつくのかもしれないが、それはたどたどしい日本語で話しかけられた時の我々と同じことだ。
「ケン、ヘレンは元気か?(ヘレンはケンの女房)」するとこんな返事が返ってくる。
「ヘレンはチポエで働いている」
チポエというのはどこかのレストランかと思い、どこの何料理を出す店か再三問いただしてみるが一向にらちが明かない。
そのうち、その“チポエ”なるものがTriple A(トリプル・エー)という保険会社であることが判明。かかること5分ほど。
「ソシェカップ」「ケン、サケカップならウエイトレスに言ってくれ」お酒のおちょこのことを酒カップと呼んでいたが、ケンはそれを求めているように聞こえた。
そして、何度も何度も「ノー、ノー。ソシェカップ」と言う。更によく聞いてみるとこう言っているのだ。
「Soft Shell Crab」これは殻がやわらかい脱皮したばかりの蟹のことで、フライにして食するととても香ばしくて美味しい。
中国人の英語というのは分かりにくいと思うが、我々のも大したことはない。英語圏の人からすれば同じようなものかもしれない。
中国人の素晴らしいところは臆面もなく言葉を発するところだ。そこに躊躇する気持ちは全くない。
ある意味アメリカ的だ。いや、大陸気質と言えるだろうか。
ある時、お客さんが尋ねた「ドゥ ユー ハブ エダマメ?」しばらく迷ってケンは答えた。
「ノー、バット ウィー ハブ アマエビ」当時まだエダマメをおいていなかったレストランでケンが絞り出した答えがそれだったのだ。彼にとっては発音が似ていたのだろう。とに角答える、という姿勢は素晴らしいものだ。
トムのたどたどしい英語と一生懸命笑顔で応じる接客態度、ケンのひたむきな頑張りは誰からも好かれていた。
先に登場したケンの場合もそうだが、聞き違いや勘違いと言うものは、移民には避けては通れない道だ。しかしそれも勉強のうち。
笑える話もあるが、笑えない話も、いや、時が経てば大抵のことは笑えることなのだが、悲惨な結果を招くこともある。
ここでは笑える話だけを…。
フランス人のお客さんが来て「サヴァ」これはフランス語での挨拶なのに、早速“サバ”を握って出してしまった寿司職人。
日本で「はぃ、すみません」と言ってすしを出してきた寿司職人。常に「ソーリー」といいながら出していた。
ある日のこと、お客さん同士が喧嘩を始めてしまった。仲裁に入った女性も手に負えなくなったのか、急いでキッチンに駆け込んできた。そして言った。「Call Cop!」(警察を呼んで!)ちょうど日本から来たばかりのウエイターが一目散に奥からあるものを持ってきた。「はい、コールド・カップ」よく冷えたグラスだ。
女性はしばらくポカンとしていたが「Forget it!」(忘れてちょうだい)と言って出ていった。
日本から若い女の子が寿司職人を目指してやってきた。彼女も英語は苦手だったが、実戦で鍛えようと、自らすすんでカウンターに立った。
そもそも彼女が来た理由は、この店に長くいた日本人の「のりさん」が他の店で働くことになり、その後釜として、ということだった。
ある日、よく来るゲイのカップルがカウンターに座った。ふたりとも50代半ばくらい。ちょうど彼女の真ん前あたりに座ったその二人。カリフォルニア・ロールを作る彼女の動作を、寄り添って穴のあくほど見つめていた。
カリフォルニア・ロールは裏巻きだ。まず海苔いっぱいにしゃりを乗せ、パッと裏返す。そうすると海苔が上に来る。そこにカニとアボカドを乗せ、くるりと巻く。巻かれた表面はもちろん、しゃりとなる。海苔が隠れてしまう。これが裏巻きだ。
それを見たカップルが目をまん丸くして言った「Wow! Where Is Nori」(海苔はどこにいったの?)
彼女が慌てて答えた「Nori working another Restaurant」(のりさんはよそのレストランで働いている)
カップルはキョトンとしていた。
Salmon Roeというものも結構聞き取りにくい。鮭の卵だから「いくら」なのだが、サーモンを巻くのか、Salmon Rollだと思ってしまうことがある。
どうしても知っている日本語を使いたがるお客さんが、「いくら」と言うので「いくら」を出すと、お勘定だったり、英語は英語で「How Much?」と言えば「ハマチ」と聞き違えたり、鯖は英語で「Mackerel」(マカローというような発音)マグロに聞こえたりもする。
日本語を無理に使いたがったり、すこしは知っているというところを見せたい人もたまにいる。
あるおじさん。入ってくるなり、まずすんなり座らずに、ネタケースを端から端まで見つめて歩く。
そしておもむろに座ってこう言う「ヒリャーメ ウスジュクーリ」ヒラメのウス造りか。なかなかできるやつだな、と勘繰る。
その“ヒリャメ”を一口頬張り、満面の笑みで言う「ウ~ン、オイシーイ」更にネタケースを眺め、今度は「タイ ウスジュクーリ」ほう、なかなか詳しいじゃないか。白身はウス造りに決めているらしい。
再び一口頬張り「ウ~ン、オイシーイ」半分ほど平らげ、そしてまた一言。
「マグロ ウスジュクーリ」」
多分、魚と言うものは、特に刺身は根本的に口に合わないのだろう。彼らにはやっぱりハンバーガーの方が口に合うはずだ。
人生最後に何が食べたいか。おそらく彼らはステーキか何かだろう。決して刺身ではないはずだ。
こんな話もある。
営業が終わって店を出ると、一人の黒人が立っていた。見るからにホームレスとわかる男だった。そして、弱弱しい声でこう言った。「Help me please, I’m hungry」本当にお腹が空いていそうだった。そこで、持って帰るつもりだった余った寿司(海苔巻の類だったが)を見せてあげた。男は箱の中を覗き込み、また弱弱しい声で、しかしきっぱりと言った。「Oh!No Thank You,Man」これは勘違いでも何でもない。明らかに食文化の違いだ。
スージーさんというのはアメリカ人ではない。生粋の日本人だ。長崎で生まれ、アメリカ兵と結婚して渡ってきた人だ。
だが、もう国籍はアメリカなので「アメリカ人ではない」というのは間違いだ。
戦後間もなくのアメリカと日本の両方を見てきた人だ。特にアメリカで苦労を重ねてきた、と言えるだろう。
彼女は、いい時代のアメリカのことも良く知っている。「ダウンタウンを歩くと、男の人はみんな帽子をちょこっと外して挨拶する。あの頃はそれが普通だったのよ。今のアメリカにそんな人はいない。国をあげてよその国のお節介ばかり。自分の国が唯一の正義だと思っている。結局、自分たちが作り上げた難民を沢山受け入れてこの有様よ」
彼女はもう20年以上日本に帰っていないらしい。ここで犬と暮らして充分幸せだけどいよいよ歳がいったら故郷の長崎に帰ろうと思っている、とも言っていた。
そういえば、あの日、疎開先で木登りをしていたら物凄い閃光を見たそうだ。それが原爆だったなんて、後から知ったらしい。
本当なら被爆者として扱われてもおかしくないはずだったのに、戦後のどさくさの中でアメリカ兵と一緒になってしまった、と言う彼女の話の数々は、俗にいう戦争花嫁(あまりいい表現ではないが)の真実に満ち溢れていた。
やがて、離婚後に知り合い、ずっと人生を共にしてきたブラッキーさんとの死別(カナダ国籍の元軍人)、そして最愛の“はじめちゃん”(愛犬。弟さんの名前を付けたようだ)との別れ、そんな辛い時を経た後、意を決して日本を訪問することを決めた。なんでも25年ぶり、ということだ。さぞ、胸が高鳴っただろう。
「東京に着いて、飛行機を乗り継いで、ちょうど朝日に輝く富士山が見えた。とても美しかった。思わず涙がこぼれたわ。あー、わたしの故郷だ。本当に戻ってきたんだ、という実感がわいてきたの。でもそれと同時にこれから先、もし日本に帰って来ても、もう自分の居場所は無いような気がした。多分富士山を見るのもこれが最後。やっぱりわたしはアメリカで死んでいくのかしら」
久しぶりの彼女の日本訪問は、祖国への別れの挨拶となったようだ。
お客さんも従業員も、多国籍で、毎日同じ仕事をしているレストランに於いても、日々様々なことが起きる。
ニュー・ヨークから流れてきた、ある日本人シェフ。宮崎県出身だが、もうアメリカがかなり長いせいか無国籍人という感じ。
彼は自分のことをこう言っていた「わたし、ニュー・ヨークで交通事故やっちゃいまして、その時しこたま頭を打ったせいか、あれから変になりました」
そうでなくても十分変わった人だった。アメリカが長い、といえども宮崎弁は全く抜けていない。なのに、語尾にOh Yeah!などと付く。
久しぶりに日本に電話して友達と話しても、宮崎弁の中にOh Yeah!を連発してしまうそうだ。
レストランという仕事は一日がとても長い。それだけに彼の信条は“できる限り早く帰る”ということだ。
お客さんが次から次へと入ってこようが、お構いなしに片付け始める。閉店15分前にはもうほとんど片付いている。
しかし、それも段々エスカレートしてきて、気がついたら30分前には大体の掃除も終わってほとんど片付いている。
「さぁ、とっとと帰りましょう。こんなところに長い時間いたら、ますます頭がおかしくなりますよ」
10時閉店のレストランの料理人が10時15分には店を出る、なんていうことはありえないことだ。しかし、それは非常に嬉しいことなのだ。
ほとんどのレストランでは10時から後片付けを始め、それから食事をして…というのが当たり前で、店を出るのはどうしても11時をまわってしまう。それを彼は「時間の無駄だ」という。
カレーなどを作っても、どこかのこれ見よがしのレストランのように、何時間も煮込んで、などと言うのはガス代と時間の無駄だ、と切り捨てる。「こんなものは30分で充分ですよ」とことん陽気な慌て者である。
昼寝中に火事のサイレンが聞こえたりすると、脱いでいた靴をしっかり両手に握りしめて一目散に出ていく。そして暫くすると「いやー、ちょっと遠いからやめておきました」なんて言いながら戻ってくる。
ちょっと暇になると「さぁ、みんなでベトナム踊りを踊りましょう」と言ってわけのわからない創作ダンスを踊り出す。マイクがいやそうな顔をして見ている。
トイレから出てくると、なぜか長く切ったトイレットペーパーを両方の手で振りながら「チャイニーズ・ダンスです。さぁみんなで踊りましょう」と言う。ハリーがいやそうな顔をして見ている。
彼はしかし、とても頭がいい。おかしくなったといえども、素晴らしく才覚がある、と思われる。抜群の英語力で、業者とのやりとりも流暢だ。Oh Yeah!も堂にいったもの。一応日本における英語教師の資格をもっている、と聞いた。
そんな彼が作る“まかない”がこれまたユニークだ。3日に一度は“ひやじる”。初めて見たときは“猫のごはん”かと思ったが、これがなかなか美味い。
しかし他の従業員からはかなり評判が悪いときている。彼がひやじるの用意を始めると、他の従業員達はあわてて自分で何かを作り始める。それが、ウエイトレスやウエイターでさえも。
ある日、閉店間際になって“すきやき”の注文が入った。「ありゃー、めんどくさいですねー。せっかく片付けたのに。あっ、白菜がない。ちょっと冷蔵庫行って持ってきてください」
誰かが叫んだ「白菜、もうありませんよ」彼が言った「えーい、それじゃぁレタス持ってきてください」
目の前に出てきたレタスをザクザクと切る彼は、笑いを抑えきれない様子でこう言った。「レタスのすき焼きかぁ。まじーだろうなぁ。クックック」
アメリカが長くなるとこんなものだ。
お客さんにも変なのがいっぱいいる。「今日は野菜のやきとりにしようかしら」串に刺さっているものは全部やきとりだと思っている。これなんかは勘違い、覚え違いだが、こんな人もいる。「酢の物ちょうだい。あ、わたし海藻嫌いだからわかめは入れないで」そういう彼女の箸には食べかけの海苔巻が挟まっている。
「日本人の舌は特別です。これだけ繊細な味覚を持っている民族は、地球上どこを探してもいないですよ。だけど、ここはアメリカなんだから、ある程度の基本的なことさえ押さえておけばどんなに改良してもいいんです。なにもここで頑なに伝統を守る必要はありません。臨機応変、それが一番大切です」
宮崎弁で熱く語る彼。今頃どこかで新メニュー“レタスのすき焼き”なんていうのを売り出しているかもしれない。ひょっとすると“ひやじる”も。
日本食、それもすし、刺身に代表されるように、とりわけ生魚を食するような文化に、アメリカの人達が接するようになってから、すでに随分時は経っている。
それでも、何度もいうようだがアメリカという国は想像するよりもはるかに大きい国だ。
テキサス人はナイアガラの滝を見て、これくらいの水道漏れはテキサスじゃぁしょっちゅうだ、なんていうし。ま、これはアメリカンジョークのひとつだが。そういえば、アイルランド人を小ばかにしたジョークにこんなものがあった。
“ある時、テキサスを訪れたアイルランド人(特にケリーの出身)にテキサス人が言う。「どーだ、広いだろう。あの地平線のかなたまで行くのに車で3日もかかるんだぞ」
アイルランド人は胸を張って言う「そういう車だったら俺達も持ってるぞ」
ポーランド人は最後にアメリカに渡ってきた移民として、いまだに「ポーランド人が電球を変える時は6人必要だ。一人が電球をつかんで、残りの5人が彼の乗ったテーブルを回すんだ」などと言われる。ちなみに、このジョークはどこの国の人達にもつかわれているようだが。
日本人の目が吊り上っているのは「Oh,No! Rice again」(またお米?)と、がっかりして頬杖をつくから、らしい。米を食べる民族は自分達より劣っている、ということなんだろうか。
人々がいろんな文化を持ち込んでは、それぞれにアメリカ人となっていく。
それでも、アメリカ人としてひとくくりにはできない文化の違い、しいては価値観の違いというものをいたるところで経験する。
単にレストランという仕事場でも、従業員でいえば、東洋系、ラテン系、南太平洋、その他、お客さん側でいえば、プラス、白人、黒人、中近東など、本当に沢山の異文化と接することになる。
印象深い話をいくつか書いておこう。特にこの文章を書こうと思ったきっかけになったようなお話しから。
ランチタイムが11時半から始まり、お昼休みと同時にまかないを食べた後、店の電気を消して1時間ほど、ほとんどの従業員は昼寝をする。それぞれに、椅子を並べてベッド替わりにして、休むのだ。
ただ、ドアのカギはかけない。何故ならば、そのあいだにも食材の配達が来たりすることもあるからだ。
もし、危険な地区にあるレストランだったら、カギは必ずかけるべきだろうが。
ともかくそんな風に休んでいると、入り口の方で声がする。
「Excuse Me, Are You Open?」ふと見ると白人の若い男が立っている。「まだ開いていますか?」と聞いているのだが、はっきり言って“見てわからんか”と思うのだ。
どこの世界に、電気の消えたレストランで、従業員みんなが寝ているままオープンしているレストランがあるだろうか。
多分、日本人だったら状況を見て判断するだろう。ひどいのになると、寝ているのをわざわざ起こし「Are You Open?」なんて言うやつもいる。「クローズのサインが見えなかったのか?」と聞けば「But,Door Is Open」ときたもんだ。こちらも負けじと「お前のためじゃぁない」と言ってしまいそうだが、こんなことでいちいち頭に来ていられないくらい、こういったことが頻繁に起こるので、こっちも知らんふりすることに慣れてしまう。
つくづくよく言われる“Me Firstの国だ”ということを実感してしまう。私がなにをしたいか、私がなにを言いたいか、それがまず第一、と考えるのだ。少なくともアメリカでは。実際、幼稚園などでよく見かける光景だが、ひとりひとりに「今日、あなたはなにをしたいか」と訊く。子供たちもそれに対して、はっきりと自分のしたいことを言うようになるのだ。 いかにもアメリカの教育らしい。
人種の多様さも類を見ないだろう。
同じジェイウォーク(横断歩道のないところを横切る行為)をしても、前を行く白人はお咎めなしだが、有色人種は罰金のチケットを切られる可能性がある。
ロサンジェルスのロドニー・キングの事件(1991年)を覚えているだろうか。黒人が白人警官にボコボコにされた事件だ。Curfew(戒厳令下の夜間外出禁止)という英語を初めて知ったのもその時だった。
ベトナム戦争から戻って、未だにジャングルでの恐怖から逃れられない、というやつも沢山いた。
そういえば、エディという男がいつも同じところに立っていた。首からぶらさげた大きな紙にはこう書いてあった。
「私はエディといいます。元空軍のパイロットですが、ベトナムから帰ってきて仕事がありません。どうか助けてください」
道の反対側にマイクというやつが立っているが、彼の掲げているボードにはこう書いてある。「僕はマイクといって、エディの弟です。兄貴はベトナムから帰ってきて毎晩うなされています。仕事もできません。どうか兄貴を助けてやってください」
日が暮れると、仲のいい兄弟は集めた小銭を数えてどこかに帰っていく。
いろんな人生があるものだ。
9・11からも随分時が経った。朝、銀行に行って「アー・ユー・オープン」と言っても返事がなく、ドアも閉まっていたので、変だな、と思っていたら大変なことが起きていた。
テレビではアナウンサーが血相を変えて盛んに「カミカゼ攻撃を受けた!」と言っているが、ちょっと違うだろう。日本人としては手っ取り早くカミカゼなどと言ってほしくないのだ。
こちらはこちらで、まだなんの声明も出ていないのに「こんなことするのは中近東のやつに決まってる」と言ってしまう。だがもし、中近東で寿司屋をやっていたら、彼らのうちの誰かは愛すべき常連客だったかもしれない。
そして、冷めた意見を持つ高校生くらいの子供たちは「アメリカが今までに中東にしてきたことを考えれば当然の報いだ」と言う。
中止になったプロレスの中継でも、レスラーがそれぞれ強いアメリカをアピールし、犠牲者を追悼した。彼らはまるで俳優のようだった。
初めの日は、東で起きたことが、会社の休みにつながった、という理由か、公園でバレーボールなどを楽しむ人たちも見た。それだけ広い国なのだ。
しかし、2日、3日と経ってくると、それだけ広い国が全て葬式のように沈黙に包まれた。とにかく多くの市民が死んだ。まぎれもない戦争だった。やがて、道のいたるところに自動小銃を持った軍人や、民間兵が立った。町はまだ静まり返っていた。
そして、もう少し経つとそれは明らかに変わってきた。
「アメリカは屈しない!今こそ立ち上がる時が来た!」フリーウェイにも、バスの車体にも、ビルディングにも、町のいたる所に看板が立てられた。
ヴィンさんの言うように、明らかに人々の結束が高まった。決してすばらしいことではないのだが。
ミネソタの田舎では狭い一本道をアーミッシュが馬車で行き来していた。また、同じ道をヘルス・エンジェルスが隊列を組んで颯爽と走っていた。
そんな、全く違う意識を持った人たちも口々にUSA Stands!と叫んでいた。
そういえば、こんな看板もあった。「America Open Business!」
「アー・ユー・オープン?」と聞く必要はなさそうだ。
すしの話から始まって、様々な民族にまつわるほんの少しのストーリー、そして、アメリカという国のほんの一部を書いてみた。