これは解決しない話だ。世界にはどれくらいの人種がいるのだろうか。もちろん学術的に区別されていて、こうだ!というのがあるんだろうけど。
夢グループの翻訳機で「世界106か国語」という謳い文句。
そんなに必要か?っておもわず突っ込んでしまう。
それにしても「社長、おいくらにしてくれますか?」「やす~い」と相変わらず気持ち悪さ満載だ。
いや、そんなことはどうでもいい。
言語ではなく人種の話だった。
アメリカの高校では大体のパーセンテージが決まっていたようだ。
そして、たいてい同じ人種がつるんでいることが多い。大きくわければ白人、黒人、アジア、場所によってはメキシコ人も、フィリピン人も多い。息子が「フィリピン人ってナイフが好きなんだよ」と言っていたが、一生懸命バタフライナイフのきれいな出し方を教わっていた。
高校の登下校時では必ず数台のパトカーが校門のところに止まっていた。銃撃というものもたまにはある。
思えば、そうして幼いころから多くの人種と関わっていると、考え方の違いも当然、文化の違いも当然、差別も当然、そういうことはもう分かりきっている事なんだろう。
彼等は友人同士で「ジャップ」「チンク(中国人)」「ベトコン(ベトナムコミュニスト)」「ニガー」などと平気で呼び合っている。
それはいじめとか差別ではなく、あたかも愛情表現であるかのような感じだ。
もちろん大人になってからそんな風に呼び合うことは無いが、高校生くらいまでは盛んにそうして仲良く遊んでいた。
そんな彼らを見てきたせいか、人種差別をする人間は狭い世界しかみた事が無いどうしようもない人達なんだろうな、と思わざるを得ない。
良くないからやめましょうと言って分かるような脳の構造は持ち合わせていないのだろう。
裏を返せば、幼いころから多くの人種と付き合ってきた人達にはそれが、良くないこと、という観念も持ち合わせていないのかもしれないし、別に差別しないことがいいこと、とも思っていない。差別ということの観念が違うんだろう。
「それぞれ違うんだからいいんじゃないの」くらいにしか思っていないだろうし、困っていたらどんな人種でも助けてあげるくらいの感覚でいるんだろう。
見るところ、なに人、なに人と云うよりも人間としてしか見ていない脳の構造ができあがっているように感じるのだ。
特にここ最近、人種差別の問題とか、いろんな差別の問題とかが多くて…困った世の中だ。
ほとんどの国のトップがそんな困った人間なのだから仕方ないのかなぁ。