寒波

最強最長寒波というのが来ていたらしい。

確かに寒かった。

歳のせい?とも思ったが、若い人にとっても寒い日々だったようだ。

懐だけではなく、確かに寒かった。

来てほしいのは寒波ではなく、カンパだった…ってもっと寒いですか?

ところが、今年は暖房器具を使いそうにない。

今迄、この最強といわれた寒波の間も一切の暖房器具は使って来なかった。

むかしから寒いのは平気だったので、友人が遊びに来ても「寒い」と言ってすぐ帰る。

それくらいに家の中の温度は低かったようだ。

実際にはある程度の温かさを保った方が体にもいいし長生きする、という話だが、もう充分長生きしている。

「じゅんじ、さむうないか?」という杉田二郎氏の声が聞こえてくるようだ。

省ちゃんも寒がりだったなぁ。

「指先がめちゃ冷えるんや。これタバコのせいやで」と言いながら美味しそうにタバコを吸っていた。

手は確かに冷えるので、鍋にお湯を沸かし、そのお湯で温める。

そうするとけっこう身体も温まるもんだ。

それに室内運動をすればもう暖房は要らない。

しかし、これ、夏になったらそれはそれで死にそうなくらい暑い。

それでも、去年の夏は寝る時以外は冷房も使わなかったなぁ。さすがに寝ている間に死ぬのもなぁ…と思って点けたけど。

そうして考えるとこの国の夏と冬の気温差は50℃にもなるのかな?

人間にも酷だが生身の楽器にも悪影響を及ぼしているんだろう。

食中毒にも気をつけなくちゃ。ま、一年中だが。

幸い、僕はそこにも強いらしい。

以前、同じものを食べたピアニストの小倉超が「城田さん、あんたどういう胃袋しとるん」と言いながら吐いていた。

とにかく、最強寒波というのもなんとなく通り過ぎたようだが、まだまだ2月半ば。

油断大敵だ。

手洗いうがいをしっかりして、沢山着こんで、沢山運動をして、朝と昼はしっかり食べて、早寝早起き…理想的だなぁ。

最強最長カンパというの、どこかから来ないかなぁ…って、まだ言うか!

不眠

ある歌が最近僕を不眠にさせている。

いやいや、歳のせいもあるかもしれないが、あらぬ時間に眼が覚めて朝まで眠れない。

毎日ではないのでそう大変ではないが。

前置きはともかく、その歌のタイトルは「Hello Vietnam」という。

これはニャンちゃんに教えてもらった歌。

ベトナム行きの飛行機の中でこの歌が流れるそうだ。

特に降り立つ時、この歌を聴くと涙が止まらなくなる、という。

どこかで聞いた話だな…と思ったが、そうだ!スージーさんだ。

何十年も離れていた日本に帰った時、富士山を見て涙が止まらなかった、という話。

彼女の場合は懐かしさと、もうここは自分の帰る処ではない、という寂しさが入り混じっていたのだろう。

さて、この歌はベルギー生まれのベトナム人歌手Pham Quynh Anhという女性が歌っている。( 因みに Johnny Wrightというシンガーが、‘65年に同じタイトルの歌を唄っているが全くの別物 )

内容はこんな感じだ。

「私が生まれた時につけられたこの難しい名前の事を教えてください」というくだりから始まる。

「あなたについて知っていることは、コッポラの映画で飛び交うヘリコプターの轟音。そんな戦争の事だけ」

「いつの日かあなたの土に触れよう。いつの日かあなたの魂を知ろう。いつかあなたに会いに行って言おう。ハローベトナム」

両親の生まれ故郷を知らない難民2世、或いは追われてきた世界中のベトナム人の間で歌われている歌らしい。

どうしても思い出してしまう。

コロンバスデイのお祝いで飛び交うブルーエンジェルスの爆音に、大声をあげ、耳を押さえて震えながら机の下に隠れていた若い男の子。

俺、何のために産まれてきたんだろう、と言い残して死んでいったマイク。少なくとも、故郷で死ねて幸せだったと思う。

ボートでの過酷な思い出を話してくれたヴィンさん。何よりも教育が大切だ、と言っていた。

「I Love You」と「新年おめでとう」のベトナム語を教えてくれたミセズ・ホート。海賊から我が子を守るためには、自らの手で子供たちを殺して海に飛び込む覚悟をもってやって来たという。

スイカだったら、いくらでも食べられる、と言っていたルオンは多分アメリカ生まれ。

映画館で「プラトゥーン」を見ていた時、立ち上がって画面に怒号を浴びせていた若い男の子の集団。

因みに、マイクと喧嘩した時に僕が発した言葉なので何と言っていたのか分かる。

とりわけベトナム人との付き合いが多かった僕にとっては、どうしてもふと思い出してしまって眠れなくなるのも無理ないかな。

なんか羨ましくもある。

故郷を想って涙する。そして、帰りたいという気持ちが一杯湧いてくる。

僕はアメリカに居た時、そんな気持ちになった事が無かった…と思う。

多分それは、いつでも帰れる恵まれた環境に育っていたせいもあるんだろうなぁ。ここでダメだったらもどりゃいいや、みたいな。

「俺はベトナムに産まれた事、後悔していない。どうせ死ぬんだったらベトナムで死にたい。美しい国だぞ」

別れの時そう言った彼の事をどうしても忘れることができない。

今、彼は故郷の土に帰り、この歌を聴いているかもしれない。

今、僕は日本でこの歌を聴いている。

鶴ヶ峰 陽の当たる道

2月1日 土曜日、5年ぶりの陽の当たる道。

横浜からどうやって行くんだったかな?なんて迷いながらも無事着いた。

天気の事は心配だったが、全然心配する必要もないくらいの上々の天気。

まだまだ晴れ男として君臨できそうだ。

少し早い目に着いてコーヒーをいただいた。

あ、これは美味しい!と、久々に外で頂いたコーヒーに感激した。

そして近くのスーパーを散策。

食べる気のなかったアンドーナツがやけにおいしそうだったので買ってペロリと平らげてしまった。

なんという意思の弱さか…。

コンサートは和気あいあいでスタート。

一部はバンジョーだけで、ブルーグラスチューン、ジャズ曲、コンパクトな世界巡り、

などを経て、やっぱりラストはJust a Little Memory

この曲はDouble Cチューニングなので、ここでWCタイム。

皆さんおかわりのコーヒーなどをいただいて、僕もみなさんと少し歓談して、2部に突入。

この2部はたっぷりやりたかったので1部は少し短め。

先ず「海に向かって」で犬飼さん夫妻にも声を出していただいた。

ナターシャーの想い出が蘇ってくるような雰囲気を味わうことが出来た。

後は諸々。ヒューマンズーの曲からフィールドフォーク、そして最近歌っている「今またヒーローが…」

この歌も歌詞がなかなか定まらずにいたけど、少し固まってきたかな。

今の時代にどんな歌を唄えるのだろう。

歌ではこの混沌とした世の中を変えることは出来ない、と思うが、60年代にはいろんな反戦歌を唄っていた。

そしてアメリカで出会った難民たちの壮絶な経験を知り、僕たちはなんと呑気に反戦歌なんか唄っていたのだろう、などと思い、そして911が起こり、アメリカが戦争ムードになってきたとき、また、歌で世界は変わらないけど…と思いながらの葛藤と共に作った歌だった。

これからこの世界はどうなってゆくのだろうか。

アメリカファーストよりも地球ファーストにしてほしいものだ。

話は飛躍したが、高石氏の詩の中でも大好きな「ダッチマン」と「ミー&ボビー・マギー」そしてお決まりの「チャップリン・イン・ニュー・シューズ」

トータルで1時間40分ほどだったと思うけど、ちょうどいい感じだと僕は思っている。

終わってからも少し皆さんとお話しできるし。

そう言えば、もう一杯コーヒーをいただこうと思っていたが忘れてしまった。

その気持ちは次に行った時にとっておこう。

陽の当たる道、5年ぶりでしたが、少しも変わらないあたたかい雰囲気がなんとも素晴らしい。

ひとえに犬飼さん夫妻の人となりの成せる業なんだろう。

誰からも愛されるであろうこのご夫妻。

いつまでも人々に幸せを届けてあげてください。

アメリカ文化センター

今日は急に想い出したことがある。

その理由は後ほど出てきますが、烏丸三条の辺りにあったアメリカ文化センター。

通称「アメセン」あれ?僕らがそう呼んでいただけかな?

確か毎月第3土曜日とかにブルーグラスやカントリーのコンサートをやっていた。

僕ら、ブルーリッジマウンテン・ボーイズも必ず出演していた。

立命館のサニーマウンテン・ボーイズ、同志社のマリースロック・マウンテ二アーズ。

テネシーシャンティ―・ボーイズやテネシー・ファイブも、ここの会場でよく聴いていたんじゃないかなぁ。

聴きに来ていた人も毎回沢山いたなぁ。

とに角ブルーグラスは各大学の腕試し、みたいな雰囲気が有って、しかもしっかりした交流が有ってなかなか素晴らしかった覚えがある。

アメセンを想い出した理由というのはその時おそらく初めて生で観たジョッシュ大塚さんだ。

何故かそのシーンはかなりよく覚えている。

とにかくかっこよかった。

どのようなメンバーで来ていたのかの記憶はないが、彼がバンジョーを弾いていた。

曲はFlint Hill Specialだった。

バンジョーはボウタイのRB-250だった…ような。

でもそれは定かではない。ただあの頃の憧れのバンジョーだったので、有無を言わせずそう見えただけかも。

もちろん、その他にも彼はリードボーカルではなく、バンジョーを弾いていた、と記憶しているので…いや、ギターとボーカルもやっていたかな。

とに角そのFlint Hill…がかっこよすぎてほかの記憶がない。

彼が逝ってしまったというニュースを聞いて驚きとともにそんな事を想い出してしまった。

けったいな人だったが、その明るさと、元気いっぱいの人懐っこい様は正にJoshだった、と感じている。

しかし、あのバンジョープレイ、かっこよかった。

昼下がりコンサート2025

12月はバタバタと過ぎ、1月は何故かそこそこ長く感じる。

2月は…28日までか。これまた短いだろう(そんな風に感じるのは僕だけだろうか?)

そして春を感じさせる3月…何やかやして4月もすぐ来てしまう。

今年は4月19日の土曜日、七人の会スタッフの主催による昼下がりコンサート。

東理夫氏がやってくる。

高石氏の盟友であり、ブルーグラススタイルを擁したザ・ナターシャーセブンの原点と言える一人だ。

僕も高校時代、彼の教則本を手に取って「この人の名前…う~ん、なんて読むんだろうか…あずまりお?」なんて思った覚えがある。

ドクターサウンドの小林君も興奮している。どんどんルーツが掘り下げられていくようだ、と。

彼も歴史の1ページとしてこれは会っておかなくては、と感じている一人だ。

そして、少なくとも1971年以降のザ・ナターシャーセブン、そして髙石ともや、これを論じるためには、七人の会スタッフ及び、ずっと支えてくれている昼下がりコンサート実行委員会のメンバーの存在が不可欠だ。

彼らは本当の意味で、長きにわたり僕らに寄り添ってくれている。

そんな意味でもこの昼下がりコンサートは重要なポジションにある、と僕は感じている。

4月19日(土)14:00~

京都市 円山音楽堂

この場所だっていつまであるか分からない。

僕らもいつまで元気でいられるか分からない。

しかし、髙石氏やザ・ナターシャーセブンの軌跡を辿りながら懐かしさに浸るも良し、歴史の深さを感じるも良し、その中からもこれからの生き方を探るも良し、そんな会になったらいいと思っている。

七人の会のスタッフ&実行委員会のメンバー達は古き良き時代を大切にし、そして、これからの時代をどう生き抜いていくか思いを巡らせながら、ひたすら前を向いて皆さんの参加を心待ちにしているはずです。

誕生日

明日はお前の誕生日やなぁ、省悟。

生きてりゃ75歳だぞ!

木田ちゃんもおっさんも(高石さんのこと)元気にしているか?

そっちにアメ横あるか?

アラミス売っているか?

使いすぎると気持ち悪くなるぞ!

よく三宮の高架下にコンバース買いに一緒に行ったけど、あんな店あるかな?

そっちでも靴必要か?

裸足で行ったみたいだし、もう手に入れているか。

それに饅頭屋だ!

ババロアもだ。

ジジイになってもババロアとはこれいかに、なんてしょうもないこと言っていたけど、そちらではやっぱりジジイになるのかな?

こちらではジジイになる前に逝ってしまったからな。

誕生日はやっぱりケーキか?

それよりもお好み焼きの方が好きかも…って、全然違うやないか。

お好み焼き作るのは流石やったなぁ。

泰輔相手に「たいぼー、おいちゃんの手の動きをよ~見とれや!」なんて言って、右京さんの紅茶みたいに生地を垂らしてきれいにま~るくしていたっけ。

もうあれから20うん年。

産業大学で出会ってから60年近く。

「あのぅ、すいません。バンジョーについてですが…」

忘れもせんぞ。

「カポして合わせたらどうしても5弦が切れるんですが…」

「それ当たり前あるよ。ここにこうして釘を打って…」

「ところで、何回生ですか?」

「なんや、同級生かいな」

こんな会話を今でも鮮明に覚えている…いや、昔の事だから覚えているんだろうか。

さっき何食べたっけ…?

けむり

先日、何気なしに餃子が食べたくなり、ここは自分で作っても良いけど、たまには外食してもいいか、と思い、看板をみた事のある店に出向いてみた。

居酒屋っぽい感じで、まずいことに喫煙可という貼り紙が見えた。

ま、普通、分煙にでもなっているだろうと、期待して階段を降りてみた。

駅に近い、ビルの地下だ。

入り口で店長らしき若者が「いらっしゃい!」と大きな声で出迎えた。

「禁煙席でお願いできますか?」と訊くと「全席喫煙可です」と言うので「え、禁煙席ってないんですか?」というと驚くべき答えが返ってきた。

「うち、タバコがメインなんで」

おいおい、メインは餃子ではなかったのか…とは言わなかったが驚いた。

今どき、こんな店があることに。

料理人、味分かるのかな?舌を疑ってしまう。

タバコの煙モクモクの中で食事できる人の神経と味覚は、理解しがたいものが有る。

中は見えなかったが、ひょっとして従業員はガスマスクをしているのかも。

話は変わるが、地方のホテルなどでも喫煙ルームという階がある。あんまり変わらないか…。

そんな部屋に当たったら不運だ。

たまに禁煙ルームが一杯で、先方の主催者の方が自らも煙草を吸う人だったりすると、大きな問題だとは感じないのだろう。

以前、フロントでファブリーズをもらってふりまいたが一向に改善しないという事があった。一本を使い切っても効果なし。窓を開けても効果なし。

壁、ベッド、机、いす、カーテン、カーペット、ハンガーから電気コードに至るまで、全てが臭い。トイレットペーパーまでもが臭い。

この部屋では寝むれないが他にないのなら選択肢はないのか。

本当にタバコは困る。

今、僕の住んでいる処の駅前は、ここ数か月前から大きな工事をしていて、駅から少し離れていた喫煙所が駅のすぐ横に来ている。

そこは常に煙草臭い。

そこから出てくる人が前を歩くと…臭い。

やっぱり煙草を吸う人のアイデァなんだろうな。こんな駅の入り口、出口に近いところに、例えテンポラリーであっても喫煙所を持って来るっていうのは。

僕はそこを通らないと帰ることができない。

その辺りに「なんとかの証人」商人ではないですよ。彼らがニコニコして立っている。

非常に面白いことに、その仲間が道を隔てて立っている。

あれ、見張っているのかな。ちゃんと布教するかを。

或いは誰かに絡まれた時の用心か。或いはだれか引っかかったら、ハイエナのように群がってくるつもりなのか。

よく分からないが、面白いことにニコニコして立っている人達は寒空の下。

タバコの匂いがするようなところで…平気なんだろうか。

そして、見張りだか何だかわからない人達は、向かいの暖房が効いた建物の中に居ることが多々ある。

けむりとは関係ない話に飛んでしまったが、ま、あれも他人を煙に巻くような…、あ、いや、これ以上は止めた方が良いかも。

人それぞれ。

何はともあれ、キャベツ1000円もするんだったら、タバコ一箱1万円にしたらいいのに。

Cat nap~うたたね~

今回はお知らせです。

2020年のアルバム、Cat napについてです。

素晴らしく可愛い猫の写真や、アイルランドの風景を収めたものでしたが、

その写真集が絶版となりました。

元々CDに対して、嵩張ることも有り、少しずつの印刷をお願いしていたものです。

なので、ここにきてCDの残りが多少ではありますが出てしまいました。

しかし、僕個人としては、10数年間作ってきたアルバムの中でも、最も気に入っているものです。

曲目に於いても演奏においても、とても気に入っています。

なので、少し考えました。いや、いっぱい考えました。

これはもっと多くの方に聴いてほしいので、写真集なしで販売が可能だろうかと。

そこで今回、自家製の袋を作ってその中にCDを収めて販売させていただく決断をしました。

お値段ですが、写真集共々¥3000だったので¥1500ということで考えました。

なお、袋については城田純二の手作業、かなりの手作り感が有ります。

袋のカラーに関しては何種類かありますが、届いてからのお楽しみ、とさせていただきます。

なお、このアルバムに関しての情報は、当HP、コラムの2020年11月24日付の記事に掲載しております。

世界が閉塞感に包まれていた頃、城田、内藤共にそっと世間の状況を見ながら、それでも自分たちの「心の音楽」を表現することに気持ちを向けていた…そんな情景が感じられるアルバムだと、僕は確信しております。

2025年

もう早10日も過ぎてしまう。

本当に早いもんですね。

Back to Banjoも嬉しい事に完売となり、Just a Little Memoryも順調な滑り出しを見せており、皆さんには感謝の言葉しか有りません。

2月に入ると、鶴ヶ峰の「陽の当たる道」でソロライブを行います。

かなり久しぶりにお邪魔します。

そして2月22日にはサウンドタムでソロライブ。

今回は全く一人で頑張ってみようかと思っています。

今年は、やっぱりなんか一人になってしまったなぁ、という気持ちが強く、ナターシャー色の濃いものが出来たら良いかな、と。

71年に高石氏と出会って、金海君を紹介して、73年からは省悟を引きずり込んで、そして木田ちゃんが来て…もちろん進藤君、兼松君等、まだ健在だが、84年に僕が抜けてからの事はあまりよく知らない。

僕個人としては、やはり71年からマネージャーの榊原氏の件、までの感じかな。

高石氏も榊原氏も僕を育ててくれた恩人だと言える。

それだけに、榊原氏はずいぶん前だったけど、高石氏がいなくなる、と言うのは衝撃だった。

フォークソングを唄っていた人達のほとんどが、売れ筋路線に突入していった中、よくあんなことをやりながら全国を動き回っていたなぁ、と今更ながらに不思議に思ってしまう。

高石氏の才能は大したものだった。

間違いなく唯一無二、そしてバンドも唯一無二だっただろう。

ナッシュビルのステーション・インの入り口で、ベラ・フレックと立ち話をした時、自分のバンドは、日本語で歌ってブルーグラススタイルの…と話をしたら「それでそんな大手のレコード会社からそんなにレコードを出していたのか!」と驚いていた。

84年、まだ彼も若かったなぁ。

想い出話なんかしたら、何時間あっても足りないだろうけど、出来ればみなさんと思い出に浸り、今を楽しみ、そんなに長くないはずの将来を見据えた会などを今年は考えてみてもいいかな、と思っている。

あ、そして5月24日、サウンドタムの35周年という事で、河合徹三、松田アリちゃんと僕が行きます。

考えたらこの二人も高石氏とは縁が深かったんだなぁ。

僕は今年、またタムちゃんにお世話になって、ナターシャー・セブンに捧げるものを作ってみてもいいかな、と思っている。

生き残りとして、また、生きているうちに。

そのためにもJust a Little Memoryにもう少し頑張ってもらわないと。

さらば伊達巻

正月もあっという間に過ぎてしまった。

考えてみるに、今年は6本も伊達巻を食べてしまった。

3本は自分で作った物。3本はいただいた市販の物。

市販の物を食べるまでは自分で作った物で充分だと思っていた。

形良し、味よし、食感良し…。

ところが、やはり市販の物は良く出来ている。

察するところ、はんぺんで作るものと、本当にすり身の魚を使うものの違いだろうか。

それに、いい加減な粉末の出汁とちゃんとした出汁の違いだろうか。

あと、やはり自分では砂糖を控えめにしてしまうから、だろうか。

それにしても6本は多いんでないかい?

おまけに、プラス栗きんとんだ。

これはもうじっとしているわけにはいかない。

なので正月早々、ほぼ毎日2万歩も歩いている。

初詣も2万歩は軽く超えていた。

餅はあまり食べない。そろそろ危険な歳になっているし…てなわけではない。

それでも今年は丸餅をいただいたので、京都から西京みそを買ってきて、京風のお雑煮を作ってみた。

子どもの頃のお雑煮はおすましだったが、大学で京都に出てからはもっぱらこのスタイルが気に入っていた。

結局、そのお雑煮と紅白のかまぼこ、栗きんとんに主役の伊達巻。

僕の正月はそれだけだった。

だが、大満足だった。

おせちも時代とともに随分と変化してきているんだろうけど、伝統というものはいいもんだ。

そうして思うと、黒豆くらいは煮ても良かったかな。なんて、全部甘いものではないか!

今、気になるのは、あちこちの店で余っただろう伊達巻はどうなっているんだろう。

街から伊達巻が消えて、今は七草粥のパックが鎮座している。

春はそこまで…にしては寒い!

余談だが、こどものころはイタチマキだと思っていた。これ、前にも書いたなぁ。

でも、ジョン・ウェインの西部劇の看板を見て「西部のいたち男」って何だろうと思っていた事を想い出した。

初詣

1月3日、友人に初詣に行こう!と誘われたので、たまには良いかと重い腰を上げてみた。

その前に友人の私用により原宿で待ち合わせたが、もうその時点で挫折しそうになった。

明治神宮に出掛ける人、原宿にショッピングに出掛ける人、人、人…。

ずっと昔、北海道から出てきた平塚研太郎君が「まるで無数のニワトリが歩いているようだった」と原宿、竹下通りなどを表していたっけ。

この後浅草に出掛けるつもりだったので、明治神宮はいいかな、と思っていたがせっかくなのでちょっと行ってみたところ、やっぱり挫折。

このままこの行列に付いていったら何時間かかることやら。

同じ時間を費やすなら、目的地、浅草に向かった方が得だ、と判断。

迷わず電車に乗っていざ浅草へ。

お、結構遠いんだな、と思いながらも、久々の浅草に少しの期待を持っていた。

でも、感慨にふける間もなく、電車を降りた途端、ほとんど歩ける状態にない。

やっとの思いで外に出ると、こりゃまた人、人、人…。

あたり前のことだが。

雷門を通過して、お参りを済ませるまでに30分近くかかったと思う。

友人が、おみくじをひきたい、と言うので「こんなもん100円で判断されてたまるか」と、ひねくれつつもひいてみた。

僕は見事「大吉」をひいた。

友人は見事「凶」をひいた。

「だから止めときって言っただろ。俺の大吉あげようか?」

なんて言いながら、その場を去り、なにか食べる事にした。

友人は「食べる気がしない」としょげていたせいか、なかなかこれ!という店も見つからない。

その辺の屋台で食べても、立ち食いでもいいか、と思いつつ、少し座って、と思っていたところ、怪しげなタイ料理を見つけた。

よし、そこに入ってみよう、と狭い階段を上がり、中に入って「しまった」と思いつつ、店も狭くて、すぐに店主が居て眼が合ってしまったので時すでに遅し。

もちろん期待もせずに待っていたらその通りのものが出てきた。味が悪いわけではないが、「これ、自分で作れる。なんか店主の余り物喰わされているんかも」

なんて思いつつ、友人のガパオライスもそんな感じ。

そこで「そうか、このご飯は君のおみくじのせいだ。ならばこれでチャラだ」とポジティブな考えを伝えた。

友人は微妙な反応を示していた。

僕はあまり宗教と言うものには興味が無い。

あれだけ教会に通っていた母親にも、亡くなった時、お坊さんが来ていた。10歳の僕にとっても不思議な事だった。

でも、飛行機が揺れ出すと何故か「神さま、御助けを」と言いたくなる。

結局、友人は自分から張り切って「浅草でお参りする」と言っていたが、帰りは少しげんなりしていた。

僕は余りの人ごみでげんなりした。

そう言えば、帰りにアメ横も寄って来た。この際だからいいか…と思い。

懐かしいアメ横。

省悟、好きだったなぁ。二人でよく来ては、僕はいつも店の外で待っていたなぁ、なんて想い出しながら人々の列に埋もれていた。

結局、昨夜は10時間も寝てしまった。

やっぱり家でじっとしているのが一番いい。

ボケない程度にいろんな人に会い、一生懸命身体を動かし、一生懸命練習して、出来れば空いている時に外出して…等々。

今年も普通に生きる事が出来たら良いかな?と思う。

何といっても「大吉」

おいおい!信じなかったんじゃないのか?

2025年1月2日

あれよあれよと言う間に正月も過去の話になってしまう。

なにかニュースでもあれば見てみるか、とテレビをつけたら途端に聞こえる芸能人のバカ騒ぎの声。

慌ててチャンネルを変えると、芸能人が食べつくす!とか言ってワイワイやっている。

慌てて再びチャンネルを変えると、また芸能人の笑い声。

ま、嫌なニュースがない分良しとするか、ということで消してしまう。

しかし、よくもあんなくだらない番組を企画出来るもんだ。

いや~、恐れイリヤノクリアキンだ!

去年は大変だった記憶があるので、今年はもうこりごりだ。

だからかな?あんなくだらない企画を考えれば、みんな忘れてくれる、と思うのかな?

いや、企画している側は「素晴らしい!」と思っているんだろうなぁ、きっと。

それにしても、なんか日本人をふぬけにするような、芸能人と食べる事にしか興味を抱かない民族にするためにテレビは一役買っているような気がする。

僕もかなりひねくれてきたもんだ。

さて、ちょっとお知らせです。

全ての方達に、ではありませんが。

何故か、僕が数日間演奏で出かける時になると、CDのご注文やご入金をされる方が必ず数名いらっしゃいます。

以前のようにアイルランドに3か月、とかいう場合はそれなりに告知して、その間は業務をストップするのですが、今回は3日ほどだったので特にそれはしませんでした。

ところがその後、お正月という事で今年は6日まで郵便局が開かないのですね。

なので少し発送が遅れます。

この場をかりて、で申し訳ありませんが。

本当に、出かけると、その前何日も音沙汰がなかったのに急に注文が入ったり、ご入金があったり、本当に有難いことですが、ツァー中には対処できないので申し訳ありません。

これ、僕は一種の「マーフィーの法則」ではないかと思っています。

あの、トーストが落ちる時、必ずバターの側が下になって落ちる、という…。

これは絨毯の値段に比例する、とかいう冗談も有りますが、テーブルの高さにもよる、と分析した人もいるようです。

3メートル以上のテーブルを使い、必ずバターの面を上にして…ほんまかいな!

よくアメリカのすしバーでも使っていました。

閉店間際、ほとんど片付けが済んでいるのに、お客さんが入ってくる。しかも、片付けたものばかり注文する。

そんな時必ず「Oh!This is Japanese Murphy’s Law」と言っては笑ったものです。

お正月にはなんの関係もないことで呟いてしまい、申し訳ありませんでした。

2024年12月29,30日 静岡、京都 

いよいよ後期高齢者の仲間入り。

まさか自分がこんな歳になるなんて…。

静岡はいつものセレンディピティ。

同級生たちも後期高齢者…当たり前か。いや、まだなっていない奴もいるかも…。

どうでもいい事か。

取りあえずこの街は僕のフォークの原点。

例によって天気も上々。

前日入りして高校時代の盟友と共にしばしの時を過ごす。

あいつ、どうしてる? あ、随分前に亡くなったよ。

あいつは? なんか圧迫骨折とかで今回来られないかもしれない。

そうか…、あ、あいつは? あいつは奥さんと来るって言っていた。

なんていう話をしながら少しビールを飲んで…これがメインかな?なんて思ってしまう。

コンサートは本当にラフな形で進行させてもらった。

知った顔ばかり、そしてみんなの顔が良く見える場所だし、なんか同窓会で演奏している様な感じ。

そうそう、その前に店主の岩堀さんを含んだメンバーによるご機嫌なブルーグラスが前座としていい感じで盛り上げてくれる。

これで帰っても良いかな?なんて思わせる歌と演奏を聴かせてくれた。

と言うわけにはいかないので、僕も今回はバンジョーと歌。

同級生が娘さんを連れて来てくれたのが驚きだった。

名前を言われた時、本当にあの頃の顔が蘇ってきた。あまり大きく変わっていなかったのかな、彼は。

とに角みんな元気でいてくれるといいな。

次の日には京都に向かう。

東京を出てきた28日。品川駅は「何事だ!」と思うくらいの黒山の人だかり。

きっと居酒屋ぴんも今晩はこんな感じなんだろうなぁ、なんて思いながら人々を眺めてしまった。

外国人、親子連れ、カップル、なにかの団体…なにもこんな時に動かなくても。あ、いや、そんな事はないか。

例によって天気は心配だったが、今のところ雪による遅れもなさそうだし、ここは晴れ男の自分を信じて。

そう言えば関ケ原にも白いものは見えなかったし。

そして京都。いや~!凄い人だ!いろんな言葉が飛び交っている。

中学生の頃からずっとコンサートに来てくれている京都の仲間の一人Nさん、としておこうかな。

ピックアップしてもらって、ひとまず彼女の家に向かう。

黒豆の仕込みを仕掛けてきたので、という事案もさる事ながら、今度の春に100歳を迎えるお母さんのお顔を拝見しに行くのも僕にとっては大きな目的だ。

元気に動いて同じ話を10回くらいする。

僕も10回頷いて同じ返事を10回する。勿論5回の時もあれば15回の時もある。

さて、京都はいつもの都雅都雅。

ここにも懐かしい顔、顔、顔。

あっと云う間の2時間だった…ような気がしたのは僕だけだったろうか。

大変な幕開けだった2024年、もうすぐ終わってしまう。2025年は素晴らしい幕開けであってほしい。勿論一年を通じてそうであれば尚更いい。

今願う事は…沢山、いや、少しはあるけど、いちばん願う事は、お母さんが101歳を迎えることができる、という事。

110歳まで行けばもう一頑張り行けるかもしれないよ、と耳元でかなり大きな声で言っているが、ニコニコして聴いている。

20回でも30回でも聞くので、元気にお話してください。

そして今回の静岡、京都の会に足を運んでくれた方達に感謝します。

セレンディピティの岩堀さん、奥さん、同級生たち、仲間たち、そして、都雅都雅の広瀬さん、PAの沢さん(澤さんかな?)スタッフのお二人、友人達、すべての方に感謝。

素晴らしい大晦日を。そして良いお年を。

年末

あ~忙しや…忙しや。

師でもないのに走り回っている。

今年は衝撃的な話題がここ数ヶ月の間か、数週間の間かに。

居酒屋ぴんが閉店という、とんでもないニュース。

あらゆる分野の音楽ファン、そしてスポーツファンにとって聖地のひとつ。

とても残念だ。

年末に京都に行くことが多かったので、どうも日程が合わず、別な機会にはよく白波瀬さんの元気なお顔を拝見しに行ったものだ。

今年もこれから静岡、京都と出掛けるが、毎年この時期には行けないことは分かっているので、またの機会に…と思っていたが。

本当にちょっと衝撃的!

ま、彼も若くて勢いのある人だし、またみんなのためになにか考えてくれるだろう。

本当にみんなに愛されている人だ。

ひょっとして今日(28日)が最終日?

とんでもない黒山の人だかり、Black Mountain Rag(?)となる事だろう。

警察や自衛隊、SWATが出動して交通整理にあたるかも。

みなさん、良いお年を。

白波瀬さん、お疲れ様。ありがとう。

またお会いしましょう。

ダマスカス

最近、想い出した曲があった。

1990年くらいに書き下ろしたバンジョー曲で「ダマスカスへの道」というもの。

何故想い出したかと言うと、このところのアサド政権崩壊のニュース。

ダマスカスがいきなりフューチャーされてきたからだ。

90年というと湾岸戦争の頃。

ダマスカスは当時あまりその名が挙がっていなかったが、ではなぜこの曲を思いついたかと言うと、それは聖書からだった。

新約聖書の使徒行伝第9章に起因する。

僕にとってその章はまるで大好きな映画「未知との遭遇」そのものだった。

サウロと言う人物が空から眼が見えなくなるほどの光を浴びせられるそのいきさつは正にあの映画そのものだった。

そのサウロなる人物(後にパウロと改名する)の向かっていた先がダマスコ、今のダマスカスだ。

そしてついでに「デザートストーム」という曲も書いた。

これは「砂漠の嵐作戦」という湾岸戦争の代名詞ともなった作戦をヒントにした。

中東というとやはり日本からはかなり遠い存在に感じる。

が、2003年になるとイラク戦争が始まり(これは第二次湾岸戦争と呼べるのかな)サン・フランシスコでも多くの人が戦争に反対するデモを起こし、僕の目の前でも結束バンドで手を縛り上げられて連行されていく人が一杯居た。

中東が身近に感じられた。

そして、アイルランドに出掛ける途中に立ち寄ったアブダビやドバイ。

ここじゃぁ神の存在を信じなければ生きていけないな、なんて感じてしまった。

今、またダマスカスの映像を見たりしていると、そんな事を感じてしまう。

これからこの土地はどうなっていくんだろう。

最近、面白い記事を目にした。

海外で、偽の日本米ブランドが横行している、というもの。

そんなこと、40年も前から知っていたけどなぁ。

記事ではこう言っていた。

「数年前までボストンで暮らしていた女性。ある時、スーパーで日本ブランドのお米を買っていたら、友人に、カリフォルニア米食べているのね、といわれて驚いた」

こんな事が今更記事になる事に驚いたが、時はめぐっているんだなぁ、

僕はあまり米にこだわりはない。

といえども、先日、新潟のギターリペア職人の白井さん(通称ホワイティ―)が新米を送ってくれたが、これは流石にお米の味がよく分からない僕も唸ってしまった。

ちょうどアメリカから来ていた息子に炊いてあげたら「米が光っている。立っている」と感激していた。

彼は普段カリフォルニア米だろう。

しかし、カリフォルニア米も決して美味しくないわけではない。…と思う。

そういえば、ずいぶん前に日本でお米が足りなくなったという話があって、アメリカから一時帰国する友人がカリフォルニア米を持って帰っていたなぁ。

タイ米より美味しい、と言っていたような気がする。

ひょっとしたら、その地の味に慣れてしまって以前のことを忘れてしまう、というのが正しいのかもしれない。

そして、量にしてもそれが言えるのかも。

日本の物で2人前とか、何皿分というパッケージのものを見るが、この基準は幼稚園児を想定しているのではないか、と思われるものがよくある。

さて、米の話に戻るが、最近は電気代節約のため、いっぺんにたくさん炊いて小分けして冷凍しておく。

どうせお米はそんなに食べることはないし、これならお粥にしても、チャーハンにしてもいいし。3合も炊けば2ヶ月か3か月くらいもつ。

お米の値上がりも僕にはまるきりダメージが無い。

それでも流石にいただいた新米でそんな野暮なことはしない。

そういえばパンも値上がりするらしいですね。

これも今更いう事ではないか。

それよりも煙草を一箱1万円にした方がいいと思うが…。

話は飛躍するが(思い立った時に書かなければ忘れるかもしれないので)コンニャクを作る人達の苦労話を聞いた。

金銭的にも体力的にも相当大変なようだ。

結局、消費してもらってなんぼ、というものらしい。

確かに、おでんならばコンニャクが一番、と言う人でもそれ以外、なんでもかんでもコンニャクを一品、というわけでもないだろうし。

そういえば、省悟はコンニャクが苦手だった。

「味せんやろ」と言っていた。彼の場合、もう一つの理由は歯に有ったようだが、

取りあえず、彼の残したコンニャクは僕が食べていた。

味噌田楽は美味しいと思うが、確かにあれは味噌が美味しいのだろう。

コンニャク芋の農家の人が「コンニャクステーキ」なるものを紹介していたが、作ってみると、ニンニク、醤油、バターという美味しいに決まっているソースがかかっていても、やっぱりコンニャクはコンニャクだった。

シンプルなきんぴら風コンニャクが一番美味しいし、また米には良く合う、と思う。

米からコンニャク、そして米に上手い事戻った。

しかし、そういうものを食べた後は必ずパンを食べたくなる。

その逆は…無いかな?

2024年まとめ

今年はとに角CDの制作に明け暮れた一年であった、と言えるかな?

Back to Banjoを発案してから、こりゃ練習しなくてはいかん!と心に決めてみたけど、

いかんせんそれだけの気力と体力が圧倒的に衰えていることを感じる。

ここ、こうだったかな?こっちの方がいいか?などフレーズの確認や右指のフィンガーリング、左の運指…頭が混乱してくる。

こんなにもうるさい楽器なのに、弾いていると眠たくなる。

なんということを考えてしまったんだろう、なんて思いながら、それでも徐々に思い出していく。

進ちゃんと電話で話をしていた時、彼が後押ししてくれた。

「素晴らしい!じゅんじさんならいけますよ!それに、気に入らなかった処はレコーディングなら直しも出来るし。」

自分でも分かっていた事なのに、あ~そうか!という気持ちにさせてくれた彼には感謝だ。

ジャケットも発案と同時にすでに決まっていた。

近所で拾ったあの猫をバンジョーの上に乗せた写真、あれだ!

まだ生まれたての子猫だったので、何もわからず、グレートレイクス・ヴァンガードの上にチョコンと乗ってくれた。若干「これの皮にされるんじゃないか…」という不安げな表情はしていたが。

その猫も今や8キロ。もうバンジョーに乗せるわけにはいかない、と飼い主のアルマジロが言っていた。

主人と同じくお腹が出過ぎているようだが、本人(本猫?)も嫌がるし、バンジョーも壊れるかもしれない。

何で猫?という疑問には「今や猫をモチーフにした作品をつくればなんでもかんでも売れる」と言っておいた。

そんなこんなで、おかげさま、それなりのバンジョーアルバムにはなったようだったし、売れ行きも上々、というか、すでに完売というところまで半年で到達した。

それもこれも皆さんのおかげです。

それに気を良くして、というかBack to Banjo制作中にすでに頭には浮かんでいたが、次のものを作らなくちゃ、と考えた。

#2という事で良いか…と思っていたところに、フッと浮かんだタイトルがJust a Little Memoryだった。

これならBack…に対してもなんとなく繋がりを持たせることができるんではないか、と感じて、すぐにそう決めてしまった。

しかし、前作とはまた違った感じのものでないといけない、ということも考えた。

そんな時、ふと思い出した曲がEnglishman in New Yorkだった。

この頃、毎日のように顔を合わせるスーパーのアジア人クヮルテットが、アメリカで働いていた時の同僚たちを想い出させ、登場する歌詞のI’m an Alienというところや、何といっても曲調が大好きだったので、これで行こうと考えた。

そして何気なしバンジョーで弾き始めてみたところ、結構うまくハマったように感じている。

そんな中、高石さんが亡くなる、という前代未聞の…いや人間、誰でも死ぬが、あの人だけは何が起ころうと生き抜くんではないか、と思っていた。なので、そんな事もあるんだなぁ、

もうみんないなくなったなぁ、ひとつの時代が終わったなぁ、俺もあと何年だろう…などと考え始めた。

生きて、まだ余力が残っている間に残すものは残しておいた方が良いかな、等と考えて、一層このアルバムに力を注いだ。が、なにか言葉では言い表せない喪失感と言うものを感じていたことも事実だ。

1971年の出会い以来、僕をこの道で最大限に生かしてくれた張本人なのだからそれは仕方のないことだろう。

大学時代から共に歩んで来た省悟とはまた違った喪失感だった。

省悟に関してはまともに食らったフックみたいな…高石さんは徐々に効いているボディブローのような…ボクシングの事はよく分からないが、そんな感じ。

そしてこのアルバムでは何年か前に書いた、その当時はMemoryというタイトルを付けていたものだったが、そのオリジナル曲を少し書きかえてJust a Little Memory として収録することにした。

なんか出来過ぎた感じだ、と思うのは僕だけかもしれないが。

そして、高石さんの詩の中でも特に印象深い「疲れた靴」も、何となく彼の死という事がおこる前から録音してもいいかな?と感じていたが、もうこれはやるしかない、と録音に踏み切った。

録音が終えて僕がタムちゃんに「ねぇ、このあとバンジョー弾いていい?」というと「もちろん!」とにっこり答えてくれた。

何も予定していなかった。でも何故か「ヘイヘイヘイ」を弾きたくなった。

何も言わなかったがタムちゃんが、どこかへ遠ざかるように、でも消えていくのではなく、ちゃんと終わるようにこの曲を終わらせてくれた。

これは頭の曲Englishman…でも同じ手法が取られているが、こちらの方は僕の要望だった。

かくして出来上がった2枚のアルバムが今年の自分が生きてきた(まだ生きている)証拠となって残った。

2024年はこんなことに尽きるかな。

2025年はどんな年になるのだろうか。

トランプは世界をどのように変えてしまうのだろうか。変えてくれるのだろうか。

バカが狂って核爆弾など使っても、日本のテレビは「大食いハンター!」とかやっているのだろうか。

日本の総理大臣はなにか仕事らしいことをするのだろうか。

極端な話し、あまり関係ないことかも。

それよりも日々、普通に幸せに生きていくことを考えたほうが建設的なのかも。

今年は静岡と京都に参ります。

去年は74歳という中途半端な年齢だったのでスキップさせてもらったが、いよいよ後期高齢者。

ますます清潔にしていなくちゃ、と思う。年寄りほど身の回りをすっきりさせたいと思う。

来年もそこのところは気を付けて過ごしたい。

質素に簡素に清潔に、そして何事にも謙虚に、色んな事に興味を持って(僕にとっては特に音楽)…他にあるかな?…。

そんな風に人生を全うしていこうかな。

総括としては、まだ早いような気がするけど、取りあえず、と言う感じで記しておこうかな、などと思った次第です。

まだ2週間ちょっとあるのでなにか起こるかな?

出来れば平和に、平穏に、穏やかに…って同じ事ばっかりか。でもそれが一番!

12月も半ば

しかし12月というのは早く過ぎてしまう。

世の中がせわしなく動くからそう感じるのだろうか。

省悟の命日もやって来るが、今年はどんな甘いものを用意しようかな。

小豆は買ってあるので、今年はぜんざいでも作るか…。

いや、また団子か饅頭でも買ってくるか。

それに静岡の緑茶。

最高の組み合わせだが、省悟にそのようなお茶を出してあげてもあまり感激しなかったなぁ。

静岡生まれの僕としては「この味が分からんか?」というところだったが、これって不思議だなぁ。あんなに和ものが好きだったのに。

番茶でじゅうぶんだったみたい。

蕎麦、うどんはいつも省ちゃん、パスタやパンは僕。饅頭の省悟、ケーキの僕。

それにしても甘いものとなると二人とも眼が無かった。

さんざん書いてきたので、もういいが、この15日が来ると「何か甘いもの用意しなくちゃ」と思ってしまう。

ところで僕はこんなに甘いものが好きなのに、血糖値とかで引っかかったことがない。

昔から饅頭ひとつ、ケーキひとつで御所1周とか、糖質にはそれなりに気を付けてきたからだろうか。

省悟はどうだったんだろう。あいつ煙草も吸っていたしなぁ。

散歩しようか、と言っても「石に蹴躓いたら困る」なんて言っていたしなぁ。

辛いもんも結構好きだったし、晩年は酒もそこそこ強くなっていたし。

そう言えば、これ以上卵が値上がりする前に伊達巻をつくろうかな。

15日に合わせて伊達巻を作る、というのも良いかもしれない。

と言っても、彼が伊達巻を好んでいたかどうかはあまり定かではない。もしかしたら「お前は魚か卵か!おかずかお菓子か!はっきりせい!」と言っていたかもしれない。

まぁいいや、またお正月に作っても良いし。

饅頭買ってきた方が楽か…。

言語

先日、面白い会話のやり取りがあった。

例のニャンちゃんが「ジージュ―に行く」と言ったので僕は「G-10」とかいうお店の事かと思って聞いていると、どうやら洋服屋さんの「GU」の事らしい。

「それはジーユーだよ」と言っても「ジージュー」

なので、「ユー」と言ってごらん、というと、はっきり「ユー」と言う。

それを何度か言わせて、よし「じゃぁジーユーと言ってごらん」と言うと「ジージュ―」

更に「じゃぁ、英語のSee Youは言える?」と訊くとはっきり「シーユー」と言う。その要領で「ジーユー」を言わせてみるとまたしても「ジージュ―」

この会話で思い出したことがある。

レストランに居た時、タイ人のウエイターが居た。

その彼が「トンカチュ」と言うので「それはトンカツだよ」と言っても「トンカチュ」

では「ツって言ってごらん」すると「ツ」とはっきり発音する。何度も言ったあと、

満を持して「じゃぁトンカツって言ってごらん」すると「トンカチュ」

どうやら単独では言えても文字が重なってくるとダメみたいだ。

多分、僕らの英語なんかでもそういうのがあるんだろうなぁ。

通じないわけではないものとか、通じないものとか。

人名にしてもなかなか発音できないものがある。

僕が苦手なものに女性の名前でAnneとか。これ不用意に発してしまうとUnのようになってしまう。

Theoとかいう名前も…これはそこそこThの発音には慣れているのでいいが、これをカタカナで書け、と云われると困る。テオと表記するしかないのだろうか。

言葉ではやっぱりアメリカという人種のるつぼに於いて非常に面白い経験はいっぱいあるが、多くは忘れてしまったなぁ。

中国人のシェフに、チキンは?と訊くと「チー」おへそは?と訊くと「チー」紙は?と訊くと「チー」地面は?と訊くと「チー」

全部「チー」上下左右、あ、いや、左右という事はないか。ともかくそれぞれの上がり下がりが違うようだし、実際には「ディー」とか「ズィー」なのだが僕らには全部「チー」に聞こえたようだ。

「トンカチュ」も「ジージュ―」もそんな風に聞こえるんだろうか。

全てはバベルの塔を作った奴らが悪い。

追加ライナー Just a Little Memory

例によって、ライナーで書き切れなかった事をここに記しておきます。

★ Englishman in New York / Jordu

長い間聴いてきたスティングの大好きな曲を、いつかバンジョーで等とは考えていなかったが、ある時ふとバンジョーを手に取った時、突然弾き始めてみた。

お、なんかいい感じ!と思いながらも、これを形にするにはもうひとひねり何か必要だな、と感じ、Jorduを挿入することにしてみた。アイディアは、原曲の途中でブランフォード・マルサリスのサックスが入るのをヒントにして。これは結構ハマったような気がする。

思い入れがあったこの曲には、アメリカでの経験が大きく左右している。多くの移民に囲まれて過ごした想い出がこのアルバムのタイトルとしても、最初の曲としてピッタリだと感じた。

★ Count on Me

特によく聴いていたわけではないが、ブルーノ・マースの、僕にとっては名曲という感じ。

どことなくOver the Rainbowを連想させるこのメロディはとても印象に残った。

これ、バンジョーで、と思った瞬間に曲終わりまでの構想が成り立った。

詩の内容もYou’ve got a Friendを思い出させるほのぼのとしたものだ。

バンジョーのチューニングはダブルC、クローハンマーで演奏している。

★ Margaret’s / The Grey Owl

Aly Bainの演奏でよく知られている曲。とても親しみやすいメロディだと感じる。

2曲目のGrey Owlは実際にはDで演奏されるものだが、ふとバンジョーを手に取ってGフォームで弾いてみたらうまくハマったので、これでキーをAにしてみたら…と思い、それならばMargaret’sと良く合うんではないかと考えた。

★ The Boys of Ballycastle / The Pride of Petravore

ここらでごく普通のアイリッシュチューンを。

多くのホーンパイプは5弦バンジョーにとって比較的アレンジしやすいものだと感じている。この曲はKevin Burkeの演奏でよく聴いていた。コード進行についてはいろいろ試行錯誤したが、これが自分にとってのイメージ。少しテキサス・スウィングからヒントを得てみたが、僕は多くのホーンパイプでそんな手法を取っている。

2曲目はEileen Ogというタイトルでも(この場合は歌)知られているがDe DannanがRights of Menに続いて演奏したものがとても有名で、セッションではその2曲はほとんど必ずといっていいほどメドレーとして演奏されることが多い。

Rights…はすでに録音しているのでここではこの形にしてみた。

★ Mr.O’Connor

出た!という感じのオキャロランによる訳の分からない曲。しかし、このメロディは大好きだ。こういう曲に接すると何故か想像以上にハマってしまうのは何故だろう?

僕は常日頃から思っているが、本人は間違えて演奏したものが採譜されてそのまま現代に伝えられているものなんていうのもあるんではないか、なんて。

これもそのひとつで、どういう感覚で作られたものか見当がつかない。しかし、なんとも美しい。初めて聴いた時には、おいおい!という感じ。これを伴奏者に伝えるのは…勿論コード譜などを書けばいいのだが、そういうものでもないような気がする。究極、メロディを身体に入れなければどうしようもないものなのかもしれない。

★ The Bold Fenian Men / Sally in the Garden

1曲目はアイルランドの美しいメロディを持った歌唱曲。カリフォルニアのギタリスト兼シンガーで、名前は忘れたけど、彼の歌うこの歌が好きで、僕はよく彼にリクエストしたものだ。プロのミュージシャンではないけど、この歌はとても味わい深く歌ってくれた。

キアランも大好きでよく歌っていた。本当に美しい曲だと思う。

Sally…は過去にも録音しているが、ここではクローハンマーとスリーフィンガーのダブルバンジョーにしてみた。

★ Lost Lula

ジェイソン・ロメロの大好きな曲。過去にも録音したことがあるので、ここではあっさりと。

★ Flatbush / Clinch Mountain Backstep

最初はアンディ・スタットマン作のマンドリン曲。これは様々な分野で人気の高い曲だ。

この曲を聴くと何故か「山ネズミ ロッキーチャック」のテーマソングを思い出してしまう。

もし興味が湧いたら聴いてみてください。共感する人って居るかなぁ。

Clinch…も過去に録音しているが、ここではマイナーのメロディに敢えて正面からメジャーのコードをぶつけてみた。モーダルサウンド炸裂というところだ。更にダブルバンジョーにすることによって、ちょっとうるさ目の祭囃子のようになったかもしれない。

それもひとつの狙いではあったが…。

★ The Shadow of Your Smile / The Bluemont

Back to BanjoでもMistyを収録したが、このような曲をバンジョーの為にアレンジするのが大好きだ。暇さえあれば(いつも暇といえば暇だが)こういったものをポロンポロンと爪弾いては最適なコード選びを楽しんでいる。

Bluemontも過去に録音しているが、なんと美しい曲だろう。そしてまた、前曲にバッチリ合うような気がしてならない。

★ The Monaghan / Waterman’s

最初の曲は最も好きなジグのひとつ。この美しいメロディに最適なギターコードを乗せていく時がたまらなく好きだった。続いては限りなく現代的な曲。マイク・マゴ―ドリックのフルート演奏によるエキサイティングな、スリリングな曲。バンジョーでどんな味が出るか分からなかったが、ベースの河合徹三がここでも大活躍してくれた。そのおかげで少しは形になったようだ。

★ Just a Little Memory

この曲は数年前に書いたものだが、今回のアルバム用に更に書き加えてみた。アルバムはここからMemoryの域に入る。Englishman in NYに始まり多くの(全てではない)想い出がこの曲に、そしてこのアルバムに詰められている。

★ Blackberry Blossom

フィドルチューンとして、またバンジョーチューンとしても有名なこの曲。ナターシャー・セブン最初のアルバム、通称「お地蔵さん」でも弾いたもの。当時はギター無しでバンジョーだけだった。多分ヴェガのスクラッグスモデルを使っていたと思う。今聴いてみると、確かに若い!という感じが満載だ。でも、今回もそれなりに元気いっぱい弾いているように聞こえる…なんて思うのは僕だけだろうか?とても好きな曲。E マイナーになるところがたまらないが、アイリッシュでは全く違うメロディのBlackberry Blossomが存在するので、当初二つの曲をメドレーで、と考えたが、ここではMemoryという意味も含めて単独で録音した方が良いかな、と考えた。

★ Thirsty Boots

疲れた靴は高石氏の唄の中でもとても好きなものだ。

初期の頃、高石さんのボーカルと僕のギターだけで録音したことがあったけど、あれってレコードに入っていたっけ?だんだん記憶が…。

ナターシャー・セブンの録音では確か僕が12弦ギターを弾いたような気がするけど…あれ?省悟だったかなぁ。この辺はドクターサウンドの小林君に訊くと、彼は何故か知っている。とに角、高石氏の訳詩には素晴らしい感性を見出すことができる。

ライナーにも書いたけど、そのうち笑い話でもしに行くんで、また「あの子の膝まくら」から始めてみましょうか。

ところで…何気なし突然、ヘイヘイヘイを弾いてしまいました。自分の中のひとつの時代の締め括りなのか、イメージなのか、やっぱりJust a Little Memoryなのか…。

思ったよりも

Just a Little Memory 当初、12月8日発売開始を予定しておりましたが、思ったよりも早く皆様のお手元に届けられそうです。

来週早々にはお振込みを頂いた方々に順次、純二が発送いたします。

皆様がろくろ首になる前に…今や行燈の油なんて無いか…。

Just a Little Memory

先行予約受付を始めます。

Back to Banjoに続くバンジョーアルバムですが、おそらく聴いた途端、今までとは違った世界を感じることができるものと確信しています。

発売予定日も決まりました。

12月8日を予定しています。

皆様、よろしくお願い致します。

Just a Little Memory            リリース予告

いよいよ人生も最終章に差しかかるか…いやいや、もうちょっとあるか…などと思いつつ、Back to Banjoをリリースしてから半年余り。

正直Back…ではそこまで思ってはいなかった。

まぁ、アルバム作りもこれで最後かな?くらいの感じ。

それどころか、久々に弾くバンジョー、上手くいくかどうか、その方が気がかりだった。

しかし、自分としてはそこそこの出来だっただろうと自負している。

そこで次なるアルバムを、と考えたが、これだけ短い期間で作って果たしていいのだろうか…という考えもよぎった。

しかしながらタイトルだけは決めていた。次はこれだ!と。

突然、ふっと浮かんだタイトルだった。

何事も直感というものは大事だと思う。取りあえず直感で決めて後から考える。

そして他にいいアイディアが出ればまた考えればいいのだし。

でも、今回はかなり強い意志でこのタイトルが良いと思っていた。

試行錯誤して曲も出そろい、テンポも決まり、アレンジも大体こんな感じ、ということを決め、いよいよ録音に入ろうか、と言う時に高石さんの事があった。

思えば、木田高介が、そして省悟が逝き、今度は高石さん。

この不動の黄金時代のメンバーは僕だけになってしまった。勿論、他にも素晴らしいメンバーは在籍していたが。

とに角、それを感じたのは107ソングブックシリーズ11(想い出の赤いヤッケ)の4人がそれぞれの手法で描いた自画像を見た時。

「あれ、みんないなくなっちゃったじゃん…」と思わず呟いてしまった。

彼等と過ごした時間の中には沢山の小さな想い出がひしめいている。

木田ちゃんとはわずか数年間だったが非常に濃いものだったし、省悟とは18歳からだったし、高石さんはあの時、まだ29歳か30歳だった。

そんなみんなの事を思いながらも、今回のアルバムのコンセプトは当初からあくまでもBack to Banjo #2というところにあった。

それでもなにか副題として、或いは本題として何か無いかな?と思った瞬間に思いついたのがこれだった。

しかし、それにしてもJust a Little Memoryとは…なぜこのタイトルが思いついたのか自分でも分からない。

ただ、彼等の事もさることながら、アメリカで共に働いた人達の事もかなり自分の心を占めていた。トータルで18年くらいだったし、労働時間も長かったし、必然的に一緒に居る時間は相当なものだった。

いろんな国の人がいた。

特に多かったのはベトナムから来た難民たちだった。

僕らが何の苦労もなく、見よう見まねで反戦歌など呑気に歌っていた時、彼等は僕らの想像をはるかに超える過酷な状況を経験していた。

この辺のことは「アー・ユー・オープン」で「聞くも涙、語るも涙の物語」として書いてきた。

そんな風に状況は違ったが、僕らはみんなAlienだった。

これって映画のAlienと一緒だが、異邦人という意味で正式名称だ。宇宙人だけではない。

そして僕はアルバムの最初にAlienという歌詞が入ったスティングの名曲を持ってきた。

確かにこの歌はよく聴いていた。

でもいつかバンジョーでやってみよう、等とは思った事もなかった。

僕はもしかしたらこのタイトル(Just a Little Memory)に引きずられて突然このアイディアを思いついたのかもしれない。

今のところ、このアルバムは12月中旬迄には皆さんに聴いていただけると思います。

ベースには前作と同じ、河合徹三氏に参加していただきました。

今回は最初から素晴らしいサポートをしていただきました。

昔ならこう言うのかな「お、針を落とした瞬間、何かが違う」そんなアルバムに仕上がったのも徹三氏のおかげです。

Back to Banjoが売り切れ、という現状に於いて、このアルバムはBack to Banjo#2としても、Just a Little Memoryとしても、それなりに価値のあるものになると確信しています。

そしてあらためて、皆さんに感謝いたします。

発売予定日などに関しては改めてこのHP上でお知らせします。

渾身の1作、どうかご期待ください。

2024年11月16日 伊豆、夕鶴記念館

なんだか寒いのか暖かいのかよく分からない気候が続く東京を後にして、熱海に向かう。

当初、在来線で向かおうと思っていたが、お金は倍ほどかかってもやっぱり新幹線で行った方が仕事モードになるだろうなぁ、などと勝手に考えて…やっぱり「新幹線はうんと早い♪」だった。

アルマジロ君が仕事帰りに熱海でピックアップしてくれる。

僕は降りる時、自動改札機に切符を入れたが、出てこなかったのでそういうもんか、と思って出口に向かったら、もう一つ改札口があった。

「あれ?」と思い、その窓口に居た駅員さんに、(女性二人だった)切符が出てこなかった旨を伝えたが「いや、絶対に出てきたはずですからもう一度戻ってください」と強い口調で言われた。

仕方がないので戻ると、今度は男の人で「あ~そうですか。そんなことも有りますよね。どこから来ましたか?」と柔らかい口調、先ほどの二人とは全然違う口調で同意してくれた。

「どこからですか?」と訊かれたので「〇〇です」と言ったら「あ、僕もそこの出身です」と言ってニコニコして手続きしてくれた。

僕はその証明を持って、先の出口に行き「やっぱり出てこなかったってよ!」と強い口調で吐き捨ててきた。

大人げなかったかな、なんて思いながら。

さて、夕鶴会館はコンパクトでとても良い会場だったと思う。

しかし、バンジョーの音はでかい。

僕のグレートレイクスはガンガン響いていた。

RE TAKESもいつも通りの感じで、脱退した福嶋さんも駆けつけてくれて2曲ほど。

僕も久々に「朝の雨」なんかのリクエストに応えて歌わせていただいた。

そう言えば、楽屋には櫻井航君が自作のアイリッシュハープを持ってきてくれた。

すぐに撮影して希花さんに送ったら「素晴らしい出来。パキスタン製よりも全然良い」という返事が返ってきた。

制作にはかなりのコストがかかりそうだが、その分素晴らしい音がしていたし、作りも流石のものだった。

他にも沢山の方から甘いものや果物をもらったりと、やっぱりちゃんとした音楽をやらなきゃなぁ、と思わざるを得ない…いや、貰わなくてもちゃんとしなくてはいけないが…。

また訪れてみたい会場だったし、何といってもみんなの顔が見えて、表情を感じることができて、そしてちゃんとしたコンパクトなホールで、というところが良かった。

アルマジロ君が見つけてきた場所。でかした!という感じだ。

みなさん、有難う。

皆さんのおかげでいい音楽会になったと思います。

今年も終わりに近づいてきました

先日、町で見かけた光景。

流行りの電動キックボード、LUUPというものに乗った若い奴が、横断歩道を結構なスピードで横切った。

そこでは歳の頃は僕と変わらないか、或いはもう少し上の人が数人渡っていた。

そしてその乗り物に乗った奴はその間をすり抜けて、接触するかと思うくらい近くを走り抜けた。

おじいさん(やっぱり僕より上か…)は驚いてよけていた。

するとバカは通り過ぎて一瞬止まっておじいさんを睨みつけて去っていった。

一体どれほどの利権が絡んで、こんなものをこういうバカが我がもの顔で走れるようにしたんだろう。

危険極まりない。

それで思い出した。テレビのCM、車の自動制御システムを謳っているもので雨の日に横道から自転車が飛び出してくる、というシチュエーション。

これを見た時、明らかに自転車の方が悪いだろう、と思っていたが、ネットでもどうやらそう思っている人が多数いるみたいだった。

アンサーではこう言っていた「どのような状況でも車の不利益になり得ることを想定している」と。実際にはもっと長い文章だったが。

しかし、僕が思った事はそこではない。それは充分理解している。

問題は、その自転車の奴が全然悪びれていないように見える。車の前にとまったまま、先のLUUPの奴のように車の運転手を睨みつけているように見える。

「あ、すみません。大丈夫ですか?自動制御システムが有って僕も助かりました!」てなオチが有ったら…って、そこまで考えられないし、時間も足りないのかな。

とに角、問題になっている「闇バイト」の件でも、結局は便利になり過ぎた世の中で、スマホの小さな画面にしか世界のない人達が多くて、そういう人達の想像力の欠如というのもひとつにはあるんじゃないかと思っている。

また思い出してしまったが、先日、駅で友人と待ち合わせをしていて、ふと目についた光景。

普通のOL然とした女の子がスマホに眼を落として歩いている処に、白い杖をカンカンと鳴らしながら目の見えない人。

あっ!と思った瞬間にはもう遅かった。

見事に杖につまずいて、おまけに本人にまで当たっていた。が、そのOLはすぐにその場をまたスマホを見ながら立ち去っていった。

ま、それでこけたりしたら少しは対応したのだろうけど。これも想像力の欠如をおもわせる光景だった。

さて、トランプが当選してしまった。

やりたい放題、自分に都合のいい事ばかり打ち出してくるんだろうな。

ま、赤ん坊のように駄々をこねるところは、今現在戦争を始めた処のトップ、加担している処のトップとほとんど同じ。

そして、彼を支持している人達とほぼ同じ。

この4年の間に世界はどうなるんだろう。

意外や意外、色んなことが好転していけばいいが、それにしても彼に都合のいいように全てを持って行くのだろうし、それはそれでその成り行きを見ていくのも面白いかも。

ハリスの旋風は吹かなかった。

有名な予言者とか何か言い残していないだろうか。

ところで、日本の政治の事は…なんかありましたっけ?くらいのしらけ模様。あ、僕だけかな?

11月も中旬に差し掛かり、グッと冷え込んできた。

先日、焼そばを作ろうと思って、キャベツを買うつもりで出かけたら、その値段にのけぞってしまった。

そう言えば一時すごく高くて1000円くらいの時が有ったが、またしてもその再来だ。

何でも高くなってきましたね。

去年、よく作った伊達巻、今年はせいぜい1本かな?

11月2日(土) 大森 風に吹かれて

だいぶ遅くなってしまったが、その日のレポートを少しだけ。

ナターシャー祭り、とでも言おうか、全員がナターシャー・セブンの唄を歌いまくるというコンセプトで沢山のナターシャーソングを堪能した。

関西からも、そして新潟からも…そう雨が降って大変だっただろうに、ギター、バンジョー等を担いでみんながやって来た。

そう言えば、関西組はかわいそうに、新幹線が途中でとまってしまったそうだ。

1時間55分の遅れ…う~ん、出来すぎているなぁ。

僕はやはり晴れ男なんだろうか。

家を出るとそれまで降っていた雨が傘要らずの天気になっていた。

みんなの唄声を聴いて、僕が1時間ほど歌と演奏をして、さて、それからみんなで楽しくセッション。

最後はヘイヘイヘイで締めくくり。

長い時間を感じることなく、楽しく過ごせたのもみんなのおかげだろう。

みんな本当にナターシャー・セブンを愛しているんだなぁ。

企画部長のキリンさんに感謝。

お店の金谷さんにも感謝。

そしてバンドのみなさん、近場から、遠いところから本当に有難う。

良い時間を有難う。

みんなが中に居た時にはかなりの雨だったようだが、またしても帰り道では雨に降られることは無かった。

11月

あれよあれよと言う間に11月。

寒いな、と感じる日も出てきたので、それなりに一歩一歩冬が近づいているのかな、という感じがする。

ウォーキングをしていると秋も感じ取ることができるが、それは比較的緩やかに涼しさがやってきているから、だろうか。

松茸とか栗とかにはあまり興味が無いし、果物もそんなに…というか高くて買えないのか。

ま、あまり食欲の秋というキャッチフレーズは僕には関係ない。

と言えども、最近、初めて生春巻きというものを作ってみた。

中華の春巻きは作ったことがある。省悟と「春ま来た~春ま来た~♪」とか歌ったものだ。

しかし、生春巻きはなかなか難しかった。

ライスペーパーの戻し具合、それに巻く時の、巻きずしとは違った感触。

しかし、訊いてみるものだ。

ライスペーパーはぬるま湯に、あるいは水に少しだけ浸す、と書いてあったが、レタスの葉っぱを濡らして、それで表面をサッと濡らすのがいい、という事だ。

確かにそれでやってみたら上手くいった。

中身は豚、エビ、レタス、キュウリ、春雨、それに人参とシソを入れた。

ニラも入れるらしいが、シソが入っているし、それでいいかな。

でも、結局はソースの勝負かな。生春巻き自体はほとんど味がしない。

それはうな丼にも感じる。

もちろん、クオリティの全く違うウナギならその違いは歴然としているが、そこそこのウナギだったらタレ勝負ではないかと思ってしまう。

そういうまでもなく、高いのでまず食べることはないし、

大ご馳走という感は否めないが、なくても生きていける…って、大袈裟か。

むかし、寿司を作っていた時、結局はシャリ勝負だよな、とよく言っていた。

エビやたまごは別として、どこの店も同じ魚屋から来ているからだが、それもアメリカだから、かな?

やっぱり秋だなぁ。食べ物の話になってしまった。

今日はまだ10月の最終日。

ハロウィーンという事だが、これは日本にはあまり関係のない、似合わないという方が妥当か、と思えるイベントだ。

思えば9・11の後のハロウィーンは静まり返っていて良かった。

毎年、子供たちが来ないように灯りを全部消して、静かにしていたものだ。

あ、そうだ。

今日はドジャースの優勝だけはしっかり観ていた。

あれ、最後はみんな胃が痛かっただろうなぁ。

政治家の動向よりも気になるドジャースの試合。

日本の総理大臣よりも気になるアメリカの大統領選。

北のミサイルも飛んだらしいが、気にもならなくなってきた。でも、気にしてほしいんだろうな。

あと数時間で11月。そしてすぐ12月が来るんだろうなぁ。

秋の夜長。バンジョーでも弾くか。うるさいかな…。

巷では…

またコロナが流行っているらしいですね。

コロナだけではなく、マイコプラズマ何とか、や、その他諸々。

最近ではすっかり忘れていた手洗いうがいも再開しましたが、溢れるほどにあまっているマスクの付け方なんか忘れてしまいました。

岸田元首相の「聞く耳」とやらが、あれはマスクのひもを引っかけるためだけに付いていた事を想い出し、そうかあそこに引っかければいいんだ、と…。

ま、冗談はさておき、友人がかかってえらい目に遭った、というところからこんな話になっているのですが。

やっぱり流行真っ最中の時よりこちらの警戒心もうすれているし、一旦かかってしまったら大変なのかもしれませんね。

蚊も全盛期の真夏より秋口の方が子孫継続のために必死になるようです。

でもこの頃は暑すぎて蚊も飛べないみたいですね。

良い季節になってきました。

どこもかしこも人でいっぱい。

家に居るのがいちばん。

なんてこと言ってるとボケてしまう可能性が高いので要注意。

ところでまた選挙が始まるのか。

しばらくは気が狂ったように「嘘八百」を並べる政治家の雄叫びに耳を塞がなくてはならない。聞く耳どころではない。

今年の流行語に「嘘八百」って出るかな?

そんな事より、明日またちょっと出かけるので人は多いだろうし、多分マスクは付けないと思うけど、手洗いと、うがいは帰ってきてちゃんとしておこう。

みなさんも気を付けて。

10月9日 2024年

新たなレコーディングも佳境に入り、世の中は随分ひんやりとしてきて、政治の世界も相変わらずしらけた事をやっていますね。

そして、今年の夏は暑かった!と来年もまた言っているでしょう。

そんな暑いさ中から始めた録音。

始める直前に高石さんの訃報。

ひとつの時代が、そして僕にとってのひとつの時代も終わった感覚が有りました。

今回のアルバムのタイトルは「Just a Little Memory」

随分前から考えていたタイトルでしたが、なんだかあまりに意味のあることになってしまいました。

これは前回リリースした「Back to Banjo」の第2弾。前回漏れた曲や、こんなものもやってみたい、と思うものがいくつかあったので制作を決心しました。

これで終わりかも…とか言っておきながら。

でも、もう歳も歳だし、いつ逝くか分からないし、なんて思いながら、お金もかかるし

いい加減にしろ!と云われるかもしれないし…いろいろ考えながらの録音でした。

タイトルの「ほんのちょっぴりの想い出、或いは、小さな想い出」そんな思いが自分を後押ししてくれました。

今回もベースで河合徹三氏が参加してくれました。

やっぱりこの人、単なる酒飲みの音楽家とは違う、実に的を得た演奏を展開する人です。それも短い時間で的確に出来る事を考えに考える人です。

おかげで自分なりにもかなり気に入ったものになりそうです。

発売日などに関してはまた後日公表できると思います。

言えることは、これでしばらくは無いかな?また1年先かな?いやいや、あんまりそういう事は言わないようにしよう。

我が国の総理大臣みたいに、ボクやっと総理大臣になれたし、嬉しくて仕方ないので今まで言っていた事、全部忘れちゃった…みたい、な。

あ~いやだいやだ。

アルバムの話に戻りましょう。

これ、Back to Banjoとセットで持っていたらいいと思います。似ているようで、似ていない絶妙な出来だと自負しております。

ところでサラッと言っちゃいますが、Back to Banjoかなり品薄になってきました。

唯々、皆様に感謝です。

クリス・クリストファソン

クリス・クリストファソンが亡くなった。

彼の名前、アメリカではクリストオファソンと云わなければ通じない。

通じないわけでもないのかな?日本人に慣れている人なら分かるかもしれないが、かなりはっきりとクリスト・オファソンみたいに言わないといけない。

何はともあれ、僕は誰かが「カントリーシンガーで好きな人は?」と尋ねたら、迷うことなく彼の名前を言っていた。

といえども、彼の作品や歌を良く知っているわけではない。

映画俳優としての彼が大好きなのだ。

Convoyなんかめちゃくちゃかっこ良かった。

さて、京都から戻ってきて友人が教えてくれたことだったが、ふと、一昨日の昼下がりコンサートを思い出してしまった。

僕はドクターサウンドの小林君と二人で進ちゃんにギターを弾いてもらって、恒例の「フォギー・マウンテン・ブレークダウン」をやり、その後「コーちゃん」を呼んで「川下りブラックジャック」を演奏し、そしてその後、僕が選んだ歌は「ミー・アンド・ボビーマギー」だったのだ。

これは高石さんの素晴らしい訳詞の中でも1位2位を争うくらいに好きなものだった。

そこでクリストファソンの話をした。

この歌の出来た経緯などの話もした。

なんという偶然だろうか。

今は亡き高石さんの素晴らしい詩とクリストファソンの素晴らしいメロディと…。

時差があるのでアメリカではまだ27日だったのかなぁ。その辺、深く考えると頭が痛くなるので、取りあえず、そんな時にこの歌を選んで歌った事に我ながら驚いてしまった。

そしてボビー・マギーなる人物はある作曲家の秘書であった、という事。

その作曲家が作ったと云われる彼の名曲を最後に演奏して終わった。

偉大なシンガーだった。

Highwaymenも凄かったなぁ。

また一人逝ってしまった。

昼下がりコンサート 2024年9月28日

元、七人の会スタッフのプロデュースによる昼下がりコンサート。

今年は行かせていただくことが決まっていた。

そうなると先ず、円山音楽堂ということで、天気が心配だ。

「まかしゃんかい!」と大見栄を張った手前、少なくとも雨だけは困る。曇っていても良い。

雨だけは困る。

それは集まってくれる人全員の心からの願いだ。

予報を見る限り、なんだか台風も発生しているようだけど、幸い、関東には多少の影響があるが、関西には行かないようだ。

出来ればもう能登には絶対に行って欲しくない。

そんなことを考えながら新幹線に乗った。

やはり京都なのでちょっぴり気持ち的にはゆっくりしたい感もあり、2日ほど早く出た。

こーちゃん(ロッキードではなく元のスタッフ)が彼の生まれ故郷である舞鶴に連れて行ってくれた。

天然キャラ炸裂のこーちゃんはほとんど一日中あらゆる事柄で笑かせてくれた。

本人は至って真面目なんだろうけど…。

舞鶴から帰ってきて居酒屋ぴんの白波瀬さんにも久しぶりにお会い出来た。

コンサートもさることながら、いろんな友人に会う事もとても大切なひと時となる。

さて、コンサートだが。

早くからスタッフとともに会場に入った。

みんなで一緒に荷物を運び、お客さんがのぼる階段の掃き掃除をし、そしてみんなが様々なセッテイングを手際よくやってくれている。

見たところ百戦錬磨の集団だ。

これを生業にしている人、全然関係ない仕事をしている人、みんなが同じ方向を向いてみんなが本当に楽しみにしていることが僕の心にビシビシと伝わってくる。

今回も楽器は借りることにした。

僕が初期の頃使っていたギブソンRB-500を所有している猪間君。

省ちゃんが花嫁で購入したギブソンRB-800は今日PAを担当する、てっつんが所有している。

2台のバンジョーの必然性は、というと、今回僕はドクターサウンドの小林君に来てもらう事にしたからだ。

今の僕のバンジョー熱を呼び起してくれた彼、そして父親の影響でバンジョーを持って産まれてきた、と言っても過言ではない永遠のバンジョー少年、そんな彼とのダブルバンジョーを是非やりたかったから。

そんな彼、お父さんと二人で現れて、なんとなくお父さんの方は興奮しているが息子の方は落ち着いているように見える…が、実はとうとう聖地にやって来ることが出来た、と感慨にふけっていたらしい。

やがて我夢土下座のみんなも現れて、楽屋は当時の昼下がりコンサート、宵々山コンサートを彷彿とさせる雰囲気が漂ってきた。

そこへ「まいど!」と茶木みやこさんも現れて京都色はさらに濃くなる。

当時の女の人、女の子はみんな関西のおばちゃんになっている。

さて、ライブのことを書き始めるときりがないのでコメントは控えさせていただきますが

(ありゃ?政治家みたい)

とに角素晴らしい一日を過ごさせていただいた。

案の定、雨は一滴も降らず、太陽も照りつけることなく、少しの蒸し暑さだけがあったけど、まぁまぁ晴れ男の面目が立った。

しかし、一人一人がそれぞれの役割を、実に見事に楽しそうに、こなしている姿を見ていると、本当にナターシャー・セブンはみんなに愛されてきたんだな、という事がよく分かる。

お互いに育て、育てられて今日まで来ているんだな、という事がよく分かる。

スタッフ、というのかな?実行委員会というのかな?みんなお疲れ様。

ほんとうにありがとう。

いい会に呼んでもらって。

今、つくづく思う。木田高介、坂庭省悟、そして高石ともや、みんな逝ってしまった。

でも、この3人は昼下がりコンサートに出演しているよ。

だって、これだけ素晴らしい実行委員会の人達がいて、そしてお客さんも楽しみに集まってくれて意義のある楽しい会になって、それはいろんな「しがらみ」を越えてみんなが一つになっている姿を彼等が見ているように感じるからだ。そして「おー俺達も寄せてくれ!」と言っているように感じるからだ。間違いないよ。

お疲れ様でした。ただひたすら感謝です。

ところで今日もやっぱり一番受けたのはこーちゃんでした。

夜中の番組

またまた夜中に目が覚め、何気なしにテレビをつけてみた。

今夜はやはりBSで興味深いものをやっていた。

あれ、BSだったかな?普通の総合テレビだったかな。

9,11以後のアメリカの状況。

僕はあの当時、もろに影響を受けたし、それ以後のアメリカもずいぶん見てきた。

中東には知り合いの息子さんも行ったし。

その中で伝説のスナイパー、クリス・カイルの話も出ていた。

映画「アメリカン・スナイパー」のモデルとなった人物だ。

そして9,11で犠牲になった日本の家族の事。

ある人はビン・ラディンに会うために中東に出掛けて行ったという。

なぜ、自分の息子があのワールドトレードセンターで死ななければならなかったのか、そんな気持ちを、疑問を押さえられなくなり中東に出向いたのだと。

そして、ビン・ラディンに会うことは叶わなかったが、多くの人達と素晴らしい交流を持ったという。

中にはアメリカ軍の攻撃でひどいけがを負った少年もいた。

必ず報復してやる!と言っていたその少年も日本から来た見も知らぬ人と徐々に打ち解けてきた。

そして見た目だけでも穏やかな青年へと変化していったが、ある日あるテロの記事で(テロと云えるか戦いと云えるか分からないが)首謀者で殺害されたメンバーの中に彼と同じ名前の人物を見つけたが、本人がどうか分かる術もなかったという。

またまたあのジェイミー・フォックスの映画のラストシーンを思い出してしまった。

この連鎖は止めることは出来ないだろう。

出来ないから何もしなくていいのか、と云われればそれまでだが、スー・チーさんがいくら頑張っても周堤さんがいくら頑張っても、バカは自分の事しか考えないことは明らかになってきた。

これ、そろそろ人類は一度滅亡してリセットしないとダメかな、なんて思いつつ、地球はいつまで存在するんだろう…てなことまで考えてしまう。

そんな中、中国で痛ましい事件が起きた。

ふと思い出したのが、アメリカに渡ってすぐの頃、カリフォルニアの比較的近いところの学校で、5人ものアジア系の子供が自動小銃を持った男に殺された事件だ。

確かにどこにいても起こりうることではあるが。

あの中国の報道官の平然とした(一見)態度では納得できるものではないが、少し前の、身を呈して子供を守って亡くなった中国人の女性のことも有ったし、こういう事も変わらず起こり続けるんだろうな、と思ってしまう。

9,11以前でも人種の壁みたいなものは充分感じていたが、ヘイトの連鎖はいつまでも続くものなんだろう。

9,11からもう20年以上経つんだなぁ。

America Open Business 、 America Stands!などの看板、至る所で見た、銃を持った民兵。

そんな光景を思い出しながら番組を観ていた。

河合徹三プロデュース Back to Banjo 9月15日、日曜日

9月も半ばだというのにとても秋とは程遠い気候だ。

それでも、雨だけは免れているので、ま、晴れ男ここにあり、かな?

徹三氏には随分前からCD制作に関わってもらっている。

僕が思うに「至高のベース弾き」もちろんベースだけではなく「至高の音楽家」の一人だと云える。

この日、一部は僕一人でやらせていただいた。

紹介では「いつもは若手をプロデュースしていますが、今日は…大ベテランを…」

と言う話だったが、考えてみれば敬老の日?いや、一日後がそうなのかな?2003年から第3月曜日となったそうですね…ま、いいや。とに角そんな感じではじまり、僕は一部、バンジョーのいろんなスタイルを演奏してみた。

群馬から田村さんがわざわざ出向いてくれて、素晴らしい音をプロデュースしてくれる。

何もストレスを感じない音づくりは流石だ。

世界巡りでは「アルハンブラの想い出」などをやってみた。

なかなかこれは弦の数が足りない分苦労したが、もう少し研究したらいいかもしれない。

そして2部。

徹三氏のベースプレイが冴えわたる。

特に僕が感じたのは「疲れた靴」をやった時だった。

実はこれ、ふたりでやったこと無いのです。

僕は簡単なコード譜(いい加減なコード譜)だけ渡し、しかもキーをワンステップ上げて歌った。そして間奏ではそれまでのスリーフィンガーを捨てて、メロディだけを弾いてみた。

イメージとしてはデビッド・ブロムバーグのミスター・ボージャングルのライブ録音。

これも徹三氏ならではの、僕のイメージそのもののバックアップを見せてくれた。

これには脱帽…いや、分かっていたのだが…今更ながら、かな。

ショーは少し短い目だったかもしれないが、やはりそれなりに疲れた。

この日も滋賀県から、京都から、と、遠くからも来ていただいた。

終了後、京都からの友人と、久しぶりに遅い時間にビールを飲んで餃子なんか食べてしまったが、もう50年来の友人、高石さんのことも含め、いろんな良い話が出来た。

こうして、たまにはライブで多くの友人に会い、あまり近しくなくてもずっと応援してくれている人達に会い、そして昔ばなしにも花が咲き、これからもずっと応援してくれることを知り、やっぱり素晴らしい世界に生かされていることを感じる。

なんて、幸せなことだろう。

河合徹三氏に感謝。なんか、鼻歌で「どうせがらくた~♪」なんて口ずさんでしまっています。

スタッフの方達に感謝。

そして皆さんに感謝の一日だった。

残暑

よく省悟と「な~んざんしょ!」といっていたものだ。

この残暑は本当にそう言いたくなる。

朝晩が少しの風も有り、ちょっぴりマシになってきたせいか、昼の暑さが身体にこたえる。

それは自然体で生きていると、なおさら良く分かるような気がする。

それでもこの頃、早朝でも日差しが強く、ウォーキングには適さないようだし、気温を見ながら日暮れ前くらいから歩き始める。

1時間も歩くと汗びっしょりだ。

気温は27℃とか出ていても、湿度は90%とかになっている。

こりゃ、汗もかくはずだ。

それで、戻ってから水シャワーを浴びる。

もう5月下旬から一度も湯沸かし器は使っていない。

水シャワーだけで1分半ほど。湯船に浸かる習慣もないので、一日に数回、その程度のシャワーを浴びる。

すると、季節の移り変わりを感じることができる。

この9月に入ってから、水がめっきり冷たくなってきた。

やっぱり秋って来るんだなぁ、と感じるが、それはウォーキングの最中にも、トンボが増えたり、雲の感じや空の高さなどからも感じることができる。

そうなると、何気なくあの暑さが懐かしい、なんて思えるようになるんだろうか。

しかし、あの暑さの中、外で働いている人もいる。そういう人達をみると、この温暖化は何とかしないと大変な事になるんだろうなぁ、と思わざるを得ない。

2100年には人間が住めなくなる、とも言われているが、ミサイルなんか撃ちあげて、手を叩いて喜んでいる場合じゃァないだろう。

さて、次の総理大臣って誰なんだろう。

絶対にこの人、単なる賑やかし、とか、こいつは世界に出すべき顔じゃァないな、とか…でも今までにも居たなぁ、そんな人。

案の定、何も出来ない、何もしないうちにすぐ辞めたけど。

ま、あまり自分の生活に関係ないのか、大ありなんかもよく分からない。それくらいに解離したことがらなのかも。

それよりもこの残暑を何とか乗り切りたいものだ。

あと、半月くらいは水シャワーでいけそうだし。

年寄りの冷や水だ。

ところで、外れていた小学校の時計の針。まだそのままのノッペラボウ。これもいつ針が付くのか楽しみだ。暑すぎて作業をする業者が見つからないんだろうか…時はどんどん過ぎてゆく。

ちょっとだけノスタルジック

この夏、高石さんが亡くなった事は多くの方達にとってショックだったろう。

今、あれから2週間が過ぎている。

僕にとってはどうだろうか。

自分では想像ができなかったけど…どこから来るんだろうか、言葉では言い表せない喪失感を感じている。

やっぱり自分にとって大きな大きな人生の1ページが終息を迎えたような気持ち。

言葉ではなかなか言い表せないけど、また省悟の時とは違うのは、70歳も中盤に入り、やっぱりみんないなくなるんだなぁ、という気持ちがもっと顕著に現れるからなのかな。

僕は母親を自分が10歳の時に亡くしているが、その時「なんで死ぬのに産まれてくるんだろう」なんて思ったりした。

どうせ死ぬのなら生まれてくる必要は無いんではないか、と思ったものだ。

それが自分では選べない道ということも知らなかったし。

話はちょっとあらぬ方向に飛んだが、あの高石さんでも死ぬんだなぁ、と言うのが僕の素直な気持ち。

この前のコラムでも書いたが、絶対に最後まで生き残るのは彼だと思っていたので。

それだけになんか、心に穴が空いたような…。

別にそんなに親しかったわけでもない。

省悟のように説明がつかないくらいに分かり合える仲でもない。

なのに、この喪失感はいったい何なのだろう。

やっぱり先に言ったように、最も多感で、身も心も軽々と、なんでも出来る、なんて思っていた時代を共に過ごしたからだろうか。

そんな時代が終わった。

もちろん時は過ぎてゆき、どんどん新たな時代がやってくることは当たり前なのだが。

その辺のジレンマなのかな。少なくとも少しの間は。

先に進まなくてはいけないし、また、いやがおうでも先に進まざるを得ない状況が生きている限り続く。

そんな時、やっぱり一番頼りになるのはナターシャー・セブンを愛してくれた人達の存在だろうな。

本当にそれはつくづく感じる。

今、ビールの後にちょっぴりのウイスキーを飲んでいるので、勝手な事を書いていますが、どうせそんなに飲める方ではないのでこれで寝てしまうと思います。それでも最終的には皆さんに感謝の気持ちを伝えたくて…。

高石さんもステージ上ではあんな感じですが、本当に恥ずかしがり屋、悪く言えば気の小さい人だった。良く言えばすごく思慮深く軽はずみなことが言えない人だった。

でも、本当に皆さんには感謝していると思います。僕はそんな彼を知っています。

I am 総理

やっぱりこいつら全員クズだなぁ。

そんなに隠し持っている金を返したくないのか。

また、返せ、と言っている奴もいざトップに立ったら「そんな事言いましたっけ」くらいの態度になるんだろう。(想像の域ですみませんが)

もう全てが見え見えで面を見るのも時間の無駄、こんなことを考えるのも時間の無駄。

それよりも台風や地震の心配をした方が良さそうだ。

一昨日、あれは夜中の2時頃だっただろうか?

何気なし眼が覚めてじっとしていたら、ユラユラと感じたので「あれ?地震かな」と思っていたらドシン!とひと揺れ。

本当に、これが続いたらやばい!と思う余裕もないくらいの一発だった。

それにしても地震、雷、火事、親父とはよく言ったものだが、ま、親父はもう要らないかも。

アメリカでの友人に地質学者で地震専門の奴がいた。

ちょうど阪神淡路地震の時、地震に関するシンポジウムがあって大阪に宿泊していた彼だが「めちゃ怖くて何もできなかった」と言っていた。

ところで今現在も史上最強クラスの台風が九州に近づいているという。(上陸!)

段々地球も古代に戻りつつあるのかなぁ。

滝で遊んでいてウイルスに感染なんて、段々人間が弱くなってきたのか、ウイルスが強靭になって来たのか、暑さで想定外の事が起きているのか。

これからも庶民は様々なことで苦しみ続ける可能性があるけど、やっぱり自分たちの肥やした私腹は減らしたくないんだろうな。

備蓄米のことも、奴らが最終的に生き残るためではないか、なんて余計な勘ぐりをしてしまうほど信用は地に落ちている。

誰が総理大臣になろうが変わりはしないと思っているのは僕だけだろうか?

一人として「この人なら」というのも、どんなに消去法を用いても無理がある。

ま、仲間内で選ぶんだからとやかく言っても仕方ないが。

面白いだろうなぁ。

あと10年くらいして大谷翔平が、突然立候補して最終的に総理大臣なんかになったら。

どの政権か知らんけど支持率100%…なんて。

つまらないこと言ってI am sorryだが、彼なら胸を張ってI am 総理と言ってくれるだろう。

台風、長居するようです。みなさん気を付けて。

高石ともやとザ・ナターシャー・セブン

1971年の出会いから半世紀も過ぎた。

ナターシャー・セブン…何ちゅう名前や?

変だなぁ、日本語で歌うって…。

僕にとってはそんな風に始まったこのグループも、その黄金時代(自分で言うのもおかしいが)のメンバーは僕だけになってしまった。

予定では高石ともやが最後に残るメンバーであったはずだが…ってそんな予定あるか!

でも、自分で言っていた。

「わたしには蛇年のしぶとさがあるんです」なんて。

ずっと「私はB型です!」なんて言っていたのにある日「A型でした」なんていうすっとぼけた部分も有った。

あまりA型のイメージは無いけどなぁ。

青森か何処かの駅で汽車が止まっている時、ホームを駅員さんが歩いていた。

それを眺めていた僕が「ねぇねぇ、ともやさん。獅子てんや、瀬戸わんやって、どっちがてんやで、どっちがわんやだったっけ?」

と問うと、ただひとこと「うん、似ていましたねぇ」と言った。

このあたりの受け応えは流石に詩人、という感じがする、なんて思うのは僕だけだろうか?

思えば旅ばかりだった。

彼の言葉でひとつ印象深かったものがある。

「あなたと僕はもう家の奥さんがやきもちを焼くくらいなんですよ」

それくらいの旅、また旅だったのだろう。

それくらいお互いを理解することに必死だったんだろう。

僕は彼の歌にギターを乗せるのが好きだった。

そしてそれはどこで音楽を演奏していても、彼のために伴奏をしている時と同じ次元のものとなっていったはずだ。

僕は今でも、彼は日本に於ける至高のフォークシンガー、筋金入りのフォークシンガー、唯一無二のフォークシンガー、そして類まれな才能を持った詩人、だと信じている。

なので、少しだけ、ひとつの時代が終わったかな?という思いは持っている。

そして少しだけまた心に穴が空いたかな?という思いも持っている。

榊原氏は僕と高石さんを結び付けてくれた人。

あの頃、僕は彼の期待に少しは応えることが出来たはずだ。

木田ちゃんは、本当に良い時のグループを更にワンランク持ち上げてくれた人。

僕らは彼のほとばしる才能に対し、少なくとも多少応えることが出来たはずだ。

省悟は…もう言う事ないかな。

僕らは唯一無二のコンビとして皆さんの期待に応えることが出来ていたと思う。

そして高石氏。

もしもまだ元気に歌っていたら、横でギターを弾きたかったことも事実だ。

勿論バンジョーも。

彼の紡ぎ出す詩を聴きながら、どんな音を創っていくか、そんな事を考えながら。

多分、彼の想いが詰まった詩に対して、まだまだ応えることが出来ただろう。

ひとり残され、この世の旅の終わりに

あいつに会ったなら あの世で二人また旅に出よう…

いやいや、もう旅はいいかな。

でも、あなたのためにギターもバンジョーも弾くよ。

暑いけど…その2

暑い暑いと言っているうちにも、何かが少し変わってきたように感じる。

それは朝、晩のウォーキングの時。

空の感じが少し変わってきたようだ。

でも、蒸し暑さはしっかり残っている。

そんな中、やはり最後と思えるアルバム作りを始めようと考えました。

Back to Banjoの続編、そしてもう少しナターシャーセブンを思わせるものも含めて、

と考えております。

本当にこれでしばらくはお休みにしたいと思っています。

ライブも全然やっていないので、次のアルバムが出来たら、少し動いてみてもいいかな?

という考えも有りますが、こう暑くちゃ…。

何でも2100年の東京の予想気温は46℃らしいですよ。

これは日本だけの問題ではありません。

世界では50℃を超えるところが沢山出てきそうです。

段々、地球も人間の住むところではなくなるかもしれませんね。

喜んで戦争なんかしている場合ではないですよ、あなた達。

少しは環境の事でも考えればいいのに、バカはいつまでもバカなんですね。

日本の総理大臣って変わったらなにか変るんでしょうか。

話し合うのに高い料亭に行くスタイルは変わらないでしょうね。

さてさて、そんなこんなで、また田村さんのところ「サウンドタム」にしばらくの間出かけます。

皆さんも季節の移り変わりを感じながら、元気に活動してください。

皆さんが元気でいてくれてこそのアルバム作りなので。

時は過ぎてゆく

広島の日も、長崎の日も、そして御巣鷹山の日も過ぎてしまった。

2018年のフィークルで、ちょうどその日「上を向いて歩こう」を演奏したシェーマス・ベグリーも、もはやこの世に居ない。

そしてまた終戦記念日がやって来る。

「暑い暑い」と言ってもまた「寒い寒い」という日がやって来る。

なんかこの暑さにも慣れてきた。

湿気が多いのには相変わらず参ってしまうが。

面白いことに最近ベトナム語で「すごく暑い」と言うのを教わったが、それを言ってもあまり暑く感じない。

むかし、マイクとキッチンで大きなごみ箱を持ち上げる時、ベトナム語で「モッ、ハイ、バー!」1、2、3だがそう言って持ち上げた。彼はそれで一番力が出るようだった。

フェルナンドとは「ウノ、ドス、トレス!」

彼は「アミーゴ、いち、にー、さん、じゃ力が出ない」と言っていた。

ハリーさんはやっぱり「イー、アル、サン、アイヤー!」

いちばん困ったのはフランス語しか話せないモロッコの奴が来た時。

「アン、ドゥ、トゥワ」では…バレーじゃないんだから。

言語と言うのは面白い。

話は横道に逸れたが、とに角、暑い暑い1日が過ぎてゆく。

いつまで続くんだろう。

また台風なんかが次から次へと押し寄せるのだろう。

何とか無事に暑さを乗り越え、更に色んな事柄からも無事に1年を終わりたいと思うが。

まだ来年もあるんだなぁ。

そして時はどんどん過ぎてゆくんだなぁ。

暑いけど…

ひたすら暑いけれど、この数日、夕方の風を感じるようになってきた。

今迄はその風も熱風だった気がするが、少しは気持ち良さを覚える感覚がある。

なので、夕方のウォーキングも少しは楽だ。

汗は相変わらず出るが、その分、風が当たると気持ちが良い。

こうして季節はどんどん変わっていくのかな。

その前に地震だ。

非常に日本沈没を彷彿とさせるような…。

ま、こればかりは恐れていてもどうしようもできない。

勝てねぇもんだなぁ!と言うしかない。

急に話題は変わるが、オリンピックもそろそろ終りかな。

セーヌ川で泳いだ人達、無事だろうか。

是非、バッハ会長には大田区を流れる「美しい呑川」で泳いでほしいもんだ。

そう言えば、小池知事、足を痛めたようだけど、運動不足と美味しいもんの食べ過ぎじゃないかな、なんて思ったりして。

突っ込みどころ満載。

先日、駅前を歩いていたらいつも居る「アフリカ、ガーナの貧しい子供たちのために小学校を…」と肉声で頑張っているガーナの人達。

その少し後ろの方で、思い切りスピーカーを使ってどこかの政治団体が何か言っている。

これってどうなんだろう。

他者の邪魔をしてまでも自分の云いたいことを言う。状況を読む能力が無い。

ガーナの人達に「すみません、ちょっと後ろで声を出しますので」などとお願いしたとは到底思えない。

結局、そういう人間が政治に関わりたいんだろうな。

またまた突っ込みどころ満載のウォーキング。

そう言えば、例の小学校の何ヶ月も4時を指していた時計の針が外れていた。

この夏休み期間中に直すつもりなんだろうな。

色んなことを考えている今日この頃ですが、ひとつ自分の事で。

やっぱり今年中にもう一つアルバムを作ろうかと考えています。

もうタイトルも決めました。発表は少し後にしますが、恐らくこれ以後は少なくともしばらくは無いだろう、と思います。

日本列島が沈没する前に、と言うわけでもありませんが、Back to Banjoもおかげさまで順調な売れ行き(もうちょっと…かな)決してそれで気を良くしているわけではありません。願わくばBack to Banjoの続編を感じてもらえる様なものにしたいと思っています。

只々、まだ止まっている、また、留まっている時ではないかな、と感じているので。

そんな事を考えながら今日も体力づくりに励んでいます。

剥離骨折を起こさないためにも。

辛いもの

甘いものの事はよく書いているので、たまには辛いもの。

基本的に甘いものは大好きだが、辛いものも決して食べられないわけではない。

担々麺など、辛さの度合いで選ぶ時はいちばん辛いのから二つくらい手前のものにする。

お腹痛くなったりしたら元も子もないので。

さて、こう暑いと辛いものが食べたくなる。勿論、ソーメンは別格だが。

そこで僕はタイやヴェトナムで使われるチリソースは常に用意しておく。

そして、バタールを買ってきてヴェトナムサンドウィッチ(バインミー)を作る。

よくマイクが買って来てくれたり、一緒に食べに行ったりしたものだ。

ここで必ず必要になるのがパクチー。

初めてこれを口にした時は「なんだ、このカメムシみたいな味は」と思ったものだ。

ほとんどの日本人には理解できる感覚だろう。

しかし、このパクチーがないとベトナムサンドウィッチも単なるサンドウィッチだ。

そして、本来はレバーペイストを使うらしいが、このために買うのも…それに、そういうの結構苦手だし…そうだ、ピーナツバターで代用しよう。

そう思い、スキッピーのピーナツバターにチリソースを混ぜ、肉は豚でも牛でも良いので、焼き肉のたれで味付けし…と自分なりにアレンジしてみた。

更にどうしても必要なのは人参の酢漬け、いわゆるナマスだ。

本来大根も使うそうだがここは人参だけでも良さそう。

さぁ、バタールを少しだけトーストして、全て挟んで、懸案のパクチーだ。

これが一度買うと量が結構ある。

割と高いし(変換では高石と出る)僕ら日本人の料理ではほとんど使うことがない。

かと言って鬼のように入れるわけにもいかない。

そこで僕はインスタントのフォーを買っておく。

これはいいアイディアだ。

このフォーにはレモン(本来ならライムだがこれも高石、いや高いし)あれば、もやし。それにチリソース。

そして大量のパクチー。これできちんと消費できる。

サンドウィッチにもフォーにも多めにチリソースを使う。

この辛さが蒸し暑い時にはバッチリだ。

マイクが山のようにかけていた。

そういえばまかないで「ざるそば」を作ったらメキシコ人が「アミーゴ、全然味がしない」とぼやいていた。

マイクはしょうゆベースのめんつゆに、これでもか!というくらいチリソースを入れていた。

話が飛んだが、暑い時のカレーもできるだけ辛い方がいい。

そう言う意味ではタイカレー、特にグリーンカレーは好きだ。

陳さんの麻婆豆腐なんかも良いなぁ。

あれと餃子とビールなんていう組み合わせは最強だ!

組み合わせの妙としては「冷たい麦茶とそうめん」そしてやっぱり「ヴェトナムコーヒーとバインミー」更に「インドカレーとマサラチャイ」夏だなぁ…。

でも、甘いものも辛いものも節度をわきまえないと。

余談だが、ヴェトナムにカメムシは居ないようだ。

オリンピック(パリ)

始まったようだが、なんか興味が湧かない。

また誰かが儲けるんじゃないか、とか、あの差別発言爺さんとか、会長の顔が浮かんできてしまう。

選手たちには何の文句もない。

大変な思いをして身体を鍛えているんだろうな、と、尊敬に値する。

それに群がる連中とのギャップで興味が湧かないのだろう。

素直に応援して楽しめればいいが。

僕としては平野美宇に頑張ってほしい。

あの、普通の時の感じとサーブを打つ時のこちらの「ギャップ」は可愛くてとても好きだ。

さて、暑い。

やっぱり湿気を思い切り含んだこの暑さは異常なものだが、これからはこれが当たり前になるんだろう。突然の雷と大雨。洪水。竜巻。

その上、トランプが大統領になったら、こりゃあ地球滅亡のサインかも。少し大げさか。

何とか「ハリスの旋風」を起こして欲しい。

色んなことが絶望的だが…と言っていたところにキアランからメールが届いた。

彼は1週間ほどの日本滞在を済ませて、一昨夜、帰っていったのだが、その前に二人でワインを一本開けた。

僕にとっては珍しく遅い時間だったが、彼のフライトが夜中だったので、その前にゆっくり話しながら飲んだわけだ。

彼は先ず、仁川に飛ぶ、と言っていたがその後はパリだと言っていた。

「今、パリはオリンピックで人が一杯だぞ」なんて僕も言ったが、その彼からのメール。

「鉄道が全てキャンセル…」

僕はすぐに「日本に戻るか?それともそこで「へ~」と言うか」と返信した。

それ以後の情報はないが、フランスにも友人が一杯いるし、自称フランス語も多少話すし(けっこう怪しい)「へ~」の要領で何とかするだろう。

僕はだから旅が嫌いだ。

予定通りにいかないと結構パ二クる方なので。

先日の新幹線の件など、見ていて「あ~、家に居て良かったな」なんて思ってしまう。

話は飛んだが、このオリンピックもなんとか無事終了してほしいものだ。

今から平野美宇の試合時間だけチェックしておこうかな。

いや、もし負けたら可哀そうだし…なんて考えるのはマイナス思考なんだろうなぁ。

大谷なんか「もし打てなかったら」なんて絶対に思わないんだろうなぁ。

その時点で、彼等とは全く思考回路が違うんだろうなぁ…なんて考えながら暑さをのり切っている。いや、のり切ろうとしている。

しゅうまい

僕たちはまるで焼売のようだ。

暑すぎて、湿度が高すぎて、まるで蒸されている焼売のようだ。

どうか「歩く崎陽軒」と呼んでください。

となると、しゅうまいではなく「シウマイ」か。

いっそのこと瓢箪型の入れ物に水を入れて歩くか…てな、しょうもない事を言っていないで、とにかく暑い。

急に話題は変わるが、もうトランプで決まりかな?

バイデンにも是非言って欲しかった「お前らもその歳になるんだ。ばかやろう!」って。

もしそう言ったら、これはほとんど全てが「お前のかぁちゃん出べそ」程度の言い合いが現実味を帯びてくる。

結局、これを言った日本の政治家も小学生にも劣る〇ミソの持ち主か。

小学生と言えば、議会でゲームをやっていたところを沢山の小学生に見られてしまった奴、どうしているのかな?

言い訳があまりにもみっともなくて、見ている方が恥ずかしくなった。

正に、こんな大人になってはダメだ、という見本だ。

テレビはほとんどつけないが、ニュースだけは見ていると、暑い暑いという話題の合間にこんな事ばかり出てくるし、相変わらず大食いなんていうバカげた企画で喜んでいるようだ。

食べるものがない子供たちに分けてあげればいいのに。

先日、夜中に眼が覚めて水を飲んだついでになんとなくテレビをつけてみた。

ちょうど、ベトナム横断の旅かなんかをやっていて、何気なしに観ていた。

最近、マイクやらと話していたほんの少しのベトナム語を思い出していたせいか、何となく分かる言葉が沢山出てきた。

そしてその後で今度はミャンマーのドキュメンタリーが始まった。

これは見入ってしまった。

少年が民兵として戦いたくて志願したいのを母親が困っていた。

でも、彼の意思は固く、ではその前に僧侶の修行をしろ、と母は言う。

僧侶になる、という事は得を積むことになるから、もしあんたがこの後、どうしても!という気持ちになっても、きっとあんたに弾は当たらないよ、と母は言うので、しばらく少年は僧侶としての生活をする。が、しかし、自分と同じ年齢の仲間たちが国軍と戦っているのに、という心の葛藤から、やはり民兵として志願する。

なんともやるせない気持ちになったまましばらくは眠れなかったが…。

しゅうまいから一転、こんな話題になってしまうのは暑さでだいぶ脳みそがやられてきたから、かな?いや、それでもあいつらよりはましだろう……。

しゅうまい。冬はよく作るが今はちょっと…。

しかし、シウマイ弁当は美味しい。平和だなぁ。

Back to Banjoライブのお知らせ

ちょっと先の話ですが、と言いながらそんな日はすぐ来てしまうのですが…。

来る9月15日(日)18:30開場 19:00開演

というスケジュールで、場所はグッドストック東京という会場。

今回はベースの巨匠、河合徹三氏のプロデュースで開催されます。

詳しいことは「グッドストック東京」のHPで。Godstock-tokyo.com

徹三氏は今年の僕のアルバム「Back to Banjo」で流石!と唸らせてくれるベースを聴かせてくれました。

最も演奏者に寄り添うことの出来る素晴らしいプレイヤーの一人だと思います。

僕もどちらかというと、歌い手や演者に寄り添う音作りに喜びを感じてきたほうなので、そこは自分なりに最も大切に思うところであります。

いつも一緒に音楽を演じているわけではないので、まだまだ未完成な部分はあると思いますが、それも含めてライブならではの緊張感も味わえると思います。

9月になってもまだまだ暑い日が続くでしょう。

みなさん、体調を整えて元気に秋を迎えましょう。

そしたらすぐ「寒い寒い」と云わなければならない日がやってきます。

マジ?

今日は大谷君、最後の打席の三振を見とどけて「やっぱり俺が観ていたからかなぁ」なんて思いながら何気なし、消す前に他を見てみた。

いや、別の局では打っているかも、等とは思っていない。

まだ脳の方は大丈夫。

そして、他の局の情報番組を観ていたら、マジですか?という事柄についてやっていた。

なんでも、どこかの県(覚えているが敢えて…)で「一日一度は笑おう」という条例が可決された、というものだった。

コメンテーターも多分あきれてものが言えなかったと思うが、これ「バカじゃないの」とは、テレビでは言えないのだろう。

そのような環境づくりを考えるのが行政の仕事ではないか、とお茶を濁していたが、心の中では「あんたたちバカじゃないの」というのが見え見えだった。

しかも、これ「努力義務で罰則は無い」だそうだ。

こういうのって、どうしたらいいんだろう。

これを考える人の頭の中ってどうなっているんだろう。

元気のない友人に「ちょっと笑おうよ」と言うのとはわけが違う。

こんなことを話し合うために会議でお金と時間を使っているのだろうか?

笑うどころかこれでは「笑いもの」になってしまう、とは思わないのだろうか。

本当に本心からマジで「素晴らしい条例が可決された」と大笑いしているのだろうか。

そんなことより、選挙のポスターの為のボードはもう必要ないだろう、という事を話し合った方が良いような気がする。

いまだにほとんど貼られていないか、訳の分からない広告が何十枚も貼られているものが放置されている。

また、僕の散歩コースにある小学校の時計はもう4ヶ月ほど4時を指したままだ。

(キアラン君の家の時計じゃァないんだから。彼はそれを見て「あ、いかん!遅れる」とか言っているが…)

それも校門の正面にドカ~ンと堂々といつでも4時だ。

なんか訳があるんだろうか。面倒くさいんだろうか。合わせるのが大変なんだろうか。

子どもたちは毎朝4時に登校している。

こんなことで、どうも行政に携わる人達、教育に携わる人達、そういう人達の感性と能力を疑ってしまう。

ま、その県の人達、一日に一度は笑う努力をして下さい。

そのうち罰則が付くかもしれませんよ。

いや、失礼。あまりにバカバカしかったのでついつい。

ブルーリッジマウンテンボーイズ同窓会

2年に一度、恒例の同窓会。

今年も声をかけてくれたことにひたすら感謝。

朝早く、4時に起きて(ま、いつもの事だが)コーヒーを飲み、いつもは歩きに出るが、今日は支度をして用意万端、忘れ物はないかチェックして、一応熱中症対策に朝のオートミールとバナナを朝食にして、いざ出かけた。

もう既に暑い。京都も暑いだろうなぁ、なんて考えながら電車に乗った。

品川から新幹線に乗るつもりで、もうすぐ品川と云う時にとんでもないことに気がついた。

スマホだ!スマホを忘れた!

これがないと「スマホを忘れた」という連絡すらできない。

待ち合わせの場所も、新幹線の中でやり取りすれば良い、と思っていたがそれも出来ない。

さて、一生懸命考えて、新幹線をひとつ遅らせて取りに戻るしかない、という決断を下し…

とまぁ、すったもんだあったがすべてスムーズに事が済んだ。

しかし、もはやスマホがないとなにも出来ないと分かっているのに、よりによって忘れるとは。

あれ良し!これ良し!とすべて声出し確認をするが、なんでそんなことになったんだろうか。

やっぱり同窓会でみんなと会えるのが楽しみでそのせいだったのか…。

それでもだれよりも早くホンキ―トンクに到着することが出来た。

せっかちな僕なので、全てを早い目早い目に考えていたことが功を奏したようだ。

やがて、皆が集まり、楽しい会話、昔ばなしに花が咲き、演奏も聴けて美味しい料理もいただいて、ホンキ―トンクの若い女の子たちも面白くて、何とも言えず良い時間を過ごすことが出来た。

今のところみんな元気だったが、やっぱり初代のメンバーは今回お休みだった。

2年後にまた計画してくれたら、その時はみんな来てくれるだろうか。

丸谷君を始め、みんながブルーグラス愛に溢れ、ブルーリッジ愛に溢れている様子が手に取るように分かる。

この歳になってもそんな刺激を受けさせてもらうのはとても嬉しいことだ。

本当に声をかけてくれて有難う。

京都は暑かったけど、ホンキ―トンクは特に熱かったです。

みんな元気で!また会おう!

食品と気候

昨日、スーパーに行って、ある料金表示に思わずのけぞった。

三つ葉 9円 一瞬間違いではないのか、と思い、いつも居る店員さんのSさんに訊ねたら、「あら、本当だ。ねえねえ、これ合っている?」と、他の人に訊いたら「ちょっと訳アリできょうはこの値段。沢山買っていってね」とにこにこして教えてくれた。

でも、訳アリと言いながら見たところ、すぐ使えば全然問題は無さそうだ。

それでも、何に使うか、親子丼ぶりでも作るか。いや、そのために作るのもちょっとなぁ、これだけ買ってレジで9円払うのも恥ずかしいしなぁ、と思い、その時は買わなかった。

夕方になって、ちょっと親子丼ぶりというのが頭をよぎって、いっそのこと「たっぷり三つ葉の親子丼ぶり」などと考え、まだあるか分からないけど又行ってみた。

そしたら、まだ大量に有ったので4束も購入。

ちょうど他の店員さんTさんが居たので立ち話。「わたしも買っちゃいました」と言っていた。

さて、レジに行くといつものニャンちゃんが「あ、これあたしパクチーだと思って間違って買ったことがあるけど食べられなかった」って言っていたので、マイクのホットドッグ事件の事を話してあげた。

僕らにとっては三つ葉だと思ってパクチーを買ってしまう方がよほどインパクトがあるが、彼女にとってはその真逆なんだろう。

また、食の違いというのも、結構その国々の気候に寄ったりするところがあるんだろうなぁ。

アイルランドでお茶漬けを食べるほど味気ないものはない。

なんだろう。あの気候に合わないのだ。

もちろん水の違いなど大きな要因はあるが。

気候と言う面から考えれば、いちばん顕著なのは夏のソーメンだろうなぁ。

僕は一日パン食でもいいが、さすがに夏になるとちょっとソーメンは食べたくなる。

それは多分にただ暑いから、と言うだけではなく、やはり湿気とか、えも言われん空の感じとか、空気感かな、そんなものがそういう気持ちにさせるのだろう。

アメリカ南部の景色にはグレイビービスケット。

インドだったらやっぱりカレーなんだろうか。あそこで肉じゃがなんて食べても美味しくなさそう。

それにしても日本人の食に対する意識と言うものは凄いものが有る。

食に関する番組の多さには慣れてしまっているが、「大食い何とか」だけは世界の恥みたいな感覚がある。

さて、日本も東南アジア化してきたんだろうか。

しかし、フォーとかベトナムサンドイッチとか美味しいと思うが、アドボとかはまだ食べたいとは思わない。そう考えると結局好みかな。

食と気候、または食と景色…なのかな。

いや、もっといいタイトルが有った。食と風土。Foodと風土…これは決まった!

7月

とうとう7月になってしまった。

今年はBack to Banjoの事も有るし、元々、アイルランド行は考えていなかったので、この暑い日本でなんとか生きていかなければならないが、先ず、その前に、この湿気たっぷりの梅雨を越えなければ夏に生きているかどうかも分からない。

先日、どんより曇っていて雨はすぐには降りそうもなかったので、朝の5時頃からウォーキングを開始した。

日差しもなく、風はそこそこあったが、やたらと汗をかいた。

これは湿度80%くらいかな、と思い、スマホを見てみると88%となっていた。

気温は20℃だったが、結局、湿気なんだろうな。

これで湿度が40%くらいだったら気持ちがいいんだろうな。

しかしながら、汗をかいた後の「年寄りの冷や水」は気持ちが良い。

勿論、夕方のウォーキングの後のビール、あ、いえ、発泡酒も美味い。

最近、近所で大幅な工事をやっているが、そこにいつも立っている警備員のおじさん…ひょっとして少し年下か、その人はすごくにこやかにみんなを誘導している、とても感じのいい人で、よく立ち止まって話をする。

雨が降っていたりすると「傘、入りますか」と相合い傘で話したりしている。

彼が「僕はもっぱらウイスキーです」と言ったので「山崎とか?」と訊いたら、すごく嬉しそうに「そうです。箱買いでいっぱいストックを持っています」と言っていた。

何故こんな話題になったかと言うと、その人が「発泡酒は絶対飲まない」と言っていたからだ。

本当にお酒の味が分かる人って発泡酒なんか飲まないんだろうなぁ。

僕はたまにビールを飲んでも苦いなぁ、と感じ、やっぱり発泡酒の方がいいや、なんて思ったりする。いや、ケチ、というのもあるんですが。

話変わって、年寄りになるとやたらと涙もろくなる、というけどみんなそうなのかな。

能登の地震からはや半年が過ぎ、色んなニュース番組で被災地の取材をしているのを見るだけで食べているものが出そうになってしまう。

もし自分だったら…と考えるとどうしたらいいのか分からなくなる。

何とかあの自民党の裏金を回せないだろうか、なんて非現実的なことを考えてしまう。

先だってのヴェトナム戦争終結から50年、というドキュメンタリーで、ナパーム少女と云われたあの有名な写真の人が出ていたが、それを見ていても食べ物が出そうになった。いえ、なにも食べていなかったが。

本当に運命のいたずらか、偶然にも自分の生きている時代に戦争しか頭にないバカが共存してしまったのか。

でも、結局のところ今でもそうなんかな。

取りあえずこの周りは平和だが、あっちこっちでバカが幅をきかせていることは確かだ。

先日の討論会も面白かったな。いや、面白くなかったのか。

というくらいにお互いの悪口を言い合っている「お前のかあちゃん出べそ!」だった。

さて、本題の7月。

これから少なくとも3か月は暑さと、もしかしたら強烈な台風なんかと闘わなければならないのかな。

みなさん、しっかり食べて、適度に身体を動かして、ちゃんと寝て、色んなことを考えて頭を働かせて…他に何かあるかな…。

とに角お元気で!

コーヒー

カリフォリニア大学でコーヒーの研究機関が(正式な名称は聞き逃したが)出来た、というニュースをたった今見た。

アメリカでは本屋さんの店内などで無料のコーヒーを飲みながら、本を読んだりしていたけど、今でもそうだろうか?

多分、そんなことももうないだろうけど。

録音スタジオなどにも常に沢山のコーヒーが用意されていて、一日録音していると気がついたら10杯以上のコーヒーを飲んでいた、なんて言う事がよくあった。

別に飲みたかったわけでもないだろうなぁ。

ただ単にコーヒーに手が伸びることが癖になっていただけだろう。

そしてそのコーヒーは決して美味しいものではなかったが、多分美味しいものだったらそんなにガブガブ飲まなかっただろう。

世の中そんなもんだ。

僕は余りコーヒーなるものは好きではなかったので、最もよく飲んでいたのが、グレイハウンドのバスディーポにあるような…なみなみと大きな紙コップに入っていて当時50セントほどのものだった。

僕にとってはこれぞコーヒーだった。その何とも言えない美味しくもなく、惜しげもなく飲める安物の味。

水では物足りないし、緑茶は無いし、紅茶でもないし…と思ったらコーヒーしかないのだ。

これとドーナツでしめて1ドル。充分お腹は満たされる。

やがて、スターバックスのようなファンシーなコーヒー屋さんがヨーロッパの影響で出現すると、ま、それはそれで美味しいかな、と思うようになってきた。

よくあんなもん夜中のバスディーポで飲んでいたなぁ、なんて思ったりもした。

働いていたレストランの向かいがスターバックスだった。

日本人のウエイターの子に「コーヒー買ってきて」と頼んで「ⅡCoffee」と書いた紙を渡したら「11個出て来て焦りました」なんて言う事があったなぁ。

レストランの隣はスターバックスが経営の一部を担っている「ノアズベーグル」というベーグル専門店が有った。

知りあいのジューイッシュは「外食もの」としてはここのベーグルしか食べなかった。

確かひとつ60セント。コーヒーをスターバックスで買い、ベーグルを買ってきて店にあるスモークサーモンを挟み、たっぷり山のようにクリームチーズを塗り、キューリをスライスして朝食。そりゃコレステロール値も上がるわな。

でも、そんなものとコーヒーはやっぱり絶妙だ。

緑茶でも紅茶でもない。

ここ最近は1日2~3杯、たまに4杯くらいは飲むし、そのうちの1杯はヴェトナムコーヒーだったり。

ちょっと控えたほうが良いかな…。

またまた散歩

最近気がついた。

例の、山のように靴があったアパート。

かなりの数の靴が減っている。

察するところ、続いている円安のせいで国へ帰った人が大勢いるのか。

見たところ洗濯物も半分くらいに減っている。

我ながら「なんちゅうところに気がついているんだろう」などと思うが…。

円安は、国の家族にお金を送っている人にとって確かに大変な事だろう。

考えたら昔は1ドル360円だった。

確か初めてハワイに行った時、250円だったような記憶があるが定かではない。

それでもウハウハ言っていた。

そのうち1ドル100円計算が成り立つようになったり、75円くらいになったり、いろいろ大変だ。

今、アメリカの都会でランチを食べると30ドルほどは当たり前らしいが、僕の近所の中華料理でランチを食べると750円、多分味はこちらの方が良いだろう。

量は圧倒的に向うの方が多いだろうが、それにしても4000円ほどのランチはなかなかのものである。

それだけに格差も激しくなり、サンフランシスコのダウンタウンなどは「こんなところに身を置くべきでない」と感じるとも言う。

30~40年前からしたら想像が付かない。コロナのせいだけでもないんだろうなぁ。

2時間ほど歩いているといろいろ考える。

看板も見るのが好きで「米屋不動産」というのを見ては「あんたんとこは米屋?それとも不動産?」なんて独り言を…、ほとんど老人。

近くに川が流れているが、その川はこの上なく汚く、僕は東京一汚い川と思っているのですが、ずいぶん前外国人向けの一時宿泊施設が「You Can See Beautiful River! from Your Room 」と書いていた。

これは嘘も方便ではなく詐欺だ。

なんていうことも思い出しながら早朝の散歩を楽しむが、やはり湿気と言うものは暑さを増長する。

同じ20℃でも湿度90%と40%とは全く違う。

汗びっしょり(省ちゃんの汗とは違う)になり、頭から水をかぶる。因みに5月からもうお湯のシャワーではなく水だ。

年寄りの冷や水、とか自分で言いながら。

ところで今朝もチャールズ・ブロンソンに会った。

そこで思いだしたのがまた省ちゃんだが、彼はあのマンダムのCMソングが大好きだった。

しょっちゅう「ウ~ン、マンダム」と言っていた。

勿論、こんな事ばかりではなく、ちゃんと建設的なことも考えているので「アホやなぁ」と思わないでくださいね。

来月7日に京都産業大ブルーリッジマウンテンボーイズの同窓会に出掛けます。

暑いだろうな、京都。

でも、ブルーグラス愛に溢れる産業大学の先輩や後輩たちの素晴らしい笑顔にまた会えると思うとそれだけで嬉しい。

素敵な仲間たちです。

それまで、またできる限り身体を動かして汗を沢山かいておこう。

素晴らしい後輩たちと演奏して冷や汗をかく前に…。

散歩

散歩という見出しだが、限りなくウォーキングである。

もう暑くなってきたので、朝4時には起床して4時半か、5時には家を出ないと、途中から暑くなってしまう。

全行程1時間半くらいなので帰る頃はもう太陽が照りつけている。

まだ風が気もち良いが、あと半月もしたらこの時間でも無理になってくるかもしれない。

カラオケ屋さんから飲み屋、コンビニなどが軒を連ねる通りを行くと、朝帰りの若者が男女でわーわー騒いでいる。

ほとんど毎日、色んな所で多くのこういった若者を見かける。

やっぱり徴兵制でも有ったらいいのに、と思ってしまう。

戦争では役に立たなくても、自然災害が起きた時くらいは猫の手よりはましかもしれない。

韓国でバンジョー教室をやった時の若者たちの事が蘇ってきた。

礼儀正しく、吸収したいことに対する目の輝きが素晴らしかった。

この子たちも兵役に行っていたんだなぁ、ということを感じさせてくれた。

更に進むと、選挙のポスターを貼るボードが乱立している。

こんなもの必要なんだろうか?

また、バカな迷惑ユーチューバーみたいな奴が立候補しているみたいだけど、一体どうなっているんだろう。

公約、公約と叫んでいるけど実は単なる口約束「口約」ではないだろうか。

蓮舫とか言う人が出てきたので、僕はあのちゃんに出て欲しかった。(?)年齢からすると無理なんだろうか?いやいや、そんなことを考えるほど真剣に思っているわけではない。

更に歩いていくとお寺の敷地に大木が有って、それが、このところの風や雨で、見たところ大きくえぐれている。

道にその木くずが大量に散らばっているが、結構危険なところまで来ていそうだ。

行政ってこれでだれか下敷きになって死んだりしないと動かないんだろうなぁ、とつくづく思いながら歩く。

ふと見ると、もう6~7年前になるだろうか、まだ僕も走っていた頃によく出会って立ち話をしたおじいさんが歩いていた。

向うも覚えていて、かなりしっかりしていた。確か僕より10歳くらい上だった。

またあの時のようにしばし話をしたが、こうして散歩の途中で懐かしい人に出会ったり、初めての人と会釈を交わしたり、それはなかなか良いことだ。

しかし、同じく何年も前から猫に餌を与えているおばあさん…おっと、同じ歳だった人は、入院していた、という話を近所の人から聞いていたけど、2年ほど前に会った時、声をかけたら「どちらさんでしたっけ?」と言っていた。

今では同じところで毎朝猫に餌をやっている別なおばあさんがいる。

いつも「おはようございます」と元気に言ってくれるが、顔がチャールズ・ブロンソンにそっくりだ。ほっとけ!と云われそうだが…よく似ている。

夕方は6時過ぎでないとこれまた無理だ。

そのうちそれでも無理になってくるんだろうなぁ。

ヴェトナムコーヒー

ヴェトナムコーヒーのフィルターをお土産にもらった。

マイクが自慢気によく飲みに連れて行ってくれたもんだ。

そんな事を想い出しながら、ゆっくりとドリップされていくコーヒーを眺めていた。

それでまたいろんなことを思い出した。

ある時、省ちゃんがコーヒーのミルを購入。

「この挽いている間がなんともええんや」と、本当に嬉しそうだった。

そして数ヶ月経ったある時、それは電動のものに変わっていた。

「面倒くさくなってきた」とあっさりそう言った。

イノダにもよく行ったなぁ。京都人の定番かな?

なんか、家から(東寺)意気揚々とバスに乗ってイノダに着いて、深々と椅子にもたれて、ふと見たらチャックが全開だった、なんて事が有ったらしい。

「わし、泣きそうでしたわ」と言っていた。

あいつ、結構そういうところが…まぁ、それも含めて英語で言えばHe is a so in Character!!と言ったところだ。

自分の事で言えば、コーヒーはあまり好きな飲み物ではなかったが、最近は毎日2~3杯は飲む。

アメリカの新聞で「コーヒーを一日2杯以上飲む人の自殺率は低い」なんていう記事を読んだ。

コーヒー屋さんのある意味、陰謀?(策略)だろうか。

そう言えば、別な新聞でアニサキスの拡大写真を記事にしていて、これは肉屋の陰謀、強いては日本人に対する差別か、と思われた。

事実、記事には生魚なんてとんでもない、とすし屋排除的な文言も見受けられた。

陰謀でそんなことも思い出したが、コーヒーはゆっくりゆっくりと落ちていく。

ヴェトナムではこの時間を楽しむ、という話だが、僕の様なせっかちには向かない。

しかしながら、放っておけばいいんだし、ま、その間に他の事をすればいいのか。

いや待てよ。

これはアイスコーヒーとして飲むんだったらいいけど、そのままだったらえらくぬるいな、なんて思っていろいろ調べたら、ヴェトナムは暑いのでほとんどアイスコーヒーとして飲む、と書いてあった。

あれ、マイクと飲みに行った時もそうだったかな?なんていう疑問もわいたが、確かにこのコーヒーは練乳を入れてもかなり濃い。

このフィルターをくれたニャンちゃんにもいろいろ詳しい事を訊こうと思ったら衝撃的な答えが返ってきた。

「あたしコーヒーが嫌いなので全然飲まないです」

なんじゃそりゃ…?

Back to Banjo 皆様へのお礼

今の時代、なかなかCDを手に入れたり、聴いたり、ということも無くなってきたかもしれませんが、皆様の温かいご支援のおかげで好調な売れ行きを呈しております。

2023年夏からの着想、それと同時にジャケット写真も決めてかかり、大体予想通りの期日で出来上がりました。

選曲にも苦労しましたが、とに角久々のブルーグラスバンジョーでスタート、そしてブルーグラスバンジョーで終わる、そして一息つく、なんていう事だけは決めていました。

僕にとっては、自分名義としてこれが最後の録音というつもりで取り掛かりました。

今になって更に第2弾ということも考えておりますが、やはりバンジョーをメインにした、それでも前作とはちょっと違うものでなくてはなりません。

今年75歳になります。

こうして考えているうちはまだ大丈夫かな?と思いつつ、あまりライブとかをやろうとは思っていません。

僕も出かけるのが億劫になっているし、皆様も様々な事情でなかなか足も運びにくいかと思ってしまいます。

でも、ライブをやらないと、ある一定のところでCDがお嫁にいかなくなってしまうことも分かっております。

ぶっちゃけた話、そうなると「次作」という考えを躊躇してしまう事も事実。

しかし、まだ生きています、という証に録音物を作る、と言うのは大切なことかもしれません。作り続ける、という事に関しては何とも言えませんが。

そんな意味でも75歳という節目に2作というのは有りかな?と考えています。

迷い続けるのも人生、そしてその迷いの中で決断を下していくのも人生。

何を言いたいかというと、結局のところ、突然第2弾を出したら「やめる辞める詐欺」と思われるかもしれない、と怖れているだけかもしれません。

本当に作らないかもしれません、作れないかもしれません(様々な事情で)

でも、作る意欲は湧いています。

正直、前回の録音はかなり疲れました。

久々の5弦バンジョーでしたから。

60年代、ピアレスかナルダンか迷い、ピアレスを手に入れ、様々なバンジョーを弾いてきて、やっぱり以前記事にも書いてみたけど、バンジョーの想い出みたいなものが蘇ってきました。しかし、重いでぇ…。

とに角、どんなことがあっても皆さんに支えられているな、と感じております。

僕は住所書きも下手な字でやっております。郵便ポストに出向き、収まり切れない数量の時は郵便局へ行き、おかげさまで窓口の人、みな友達ある。

そうして皆様にCDを送るのも楽しみのひとつ。

けっこう手間のかかることを一人で黙々とやるのが好きみたい。

でないと、趣味は掃除、洗濯、料理なんて言う事もないかもしれません。

また話がそれそうですが、暑中お見舞いというか…まだ早いのかな?皆様にお礼を申し上げたいのと、もう少しCDにお嫁に行って欲しいな、というお願いと、それが言いたかっただけかも。

あ、それと今年中の2作目…う~ん、有かな?

考えています。

2024年6月2日(日)サウンドタム

6月1日の土曜日に安中に向かう。

品川から乗った電車の中では鉄道オタクの熱い語りを約2時間、聞いていた。

いえ、決して面と向かって聞いていたのではなく、聞こえてきたのだ。

北は北海道から、南は九州まで、JRの路線にまつわる話や、電車の車両、座席の事など、

正にオタクの成せる業。

電車が高崎に着くと、他にもカメラの三脚を持ち、何台ものカメラを携えている若者が一杯降りていった。

なんか有ったのだろうか。いや、それともいつもの事なんだろうか。

とに角、安中に無事に着いた。

今回は河合徹三、通称「てっちゃん」とのライブ。

考えてみれば、てっちゃんに会う前に大量のてっちゃんに会ったわけだ。

こちらのてっちゃんは、3週間ほど前、人生初の骨折をしたらしく、痛々しい感じで足を引きずりながら大きなウッドベースと共に現れた。

本人曰く、もうリハビリの段階に入るらしいので、もうちょっと、という事だが、リハビリって結構大変なんだろうなぁ。

そんなこんなで、この日は夕方から雨。

明日の本番もぐずついた天気になり、雨は免れないだろう、ということを聞いたが、晴れ男としては何とかしたいものだ。

さて、リハーサルも済み…なんせ一緒にふたりだけでやるのは初めて、という事で一日前のりしたわけだが、目的は他にもある。

そちらもかなりメインに近いイベント、宴(うたげ)だ。

僕は12時で失礼したが、結局3時まで飲んでいたらしい。

そんな前置きはともかくとして、今回は初めてのデュオと言うことも有ったが、何といっても僕の「Back to Banjo」レコ発、という触れ込みだったので、僕は先ず、一人でバンジョーを弾いて始めてみた。

CDの一曲目「Got Banjo?」のセットから。緊張したが自分としては95点くらいだったかな?

そして、随分前に高石さんから詩をもらった「鉄道暮らし」いやいや「徹三暮らし」ではありません…それを歌って、杖を突いたてっちゃんを呼びだした。

そこからは彼の釣りに関する話題から、酒に関する話題までを曲に合わせて、例えば

「Fisher’s Hornpipe」「Whiskey Before Breakfast」などを演奏して、しっとりと「Misty」なども演奏。

彼のベースは、ベースと言う枠を超えている感がある。勿論、長年知った仲ではあるが、二人でやるのは初めて。それでもナターシャーや希花とのデュオでも手伝ってもらったり、今までに「あ、やっぱりいいなぁ」と思わされたことは何度もある。

なんかえも言われん「人間の出す音」を感じさせてくれるミュージシャンの一人なのかもしれない。

2部は、やはりウイスキー関連「Whiskey You are the Devil」なんて言う曲からスタートして、新しいアレンジの「3つの箱」そして、てっちゃんにも歌ってもらい、そこでも「Rye Whiskey」なんかが登場して盛り上がった。

後半には僕も「今またヒーローが」など歌わせてもらった。

この歌はアメリカに居た時9月11日からイラク戦争の当時書いたものだが、結局、いまだに歌詞を模索している。

60年代にのんびり反戦歌なんか歌っていた自分たちとはかけ離れた世界に居た人達、そんなかれらとの生活を経験したことにより、どんな形になっても唄っていっていいのかな、という思いが最近になって生じていた。

今迄よりも気持ちが入って歌えたが、これもてっちゃんのおかげかもしれない。

歌に引き続きの「Both Sides Now」も弾いていて気持ちよかったし、「Time After Time」も、そして最後の「Back to Banjo」セット。

全体を通して、ギターがいない、というのもひょっとして新しい形なのかな、ということを感じている。

何かが足りない分、出来得る限り二人で寄り添うことに集中するような緊張感も生まれるし、曲によっては二人だけで充分、という感覚にもなるし、そういう意味ではまたやりたい、とおもえるような気分を味わえた。

問題は集まってくれた人達が、また聴きたい、と思ってくれるか、だ。

だが正直、終了後のみなさんの顔を見る限り、お、またやってもいいのかな、という自信につながったかもしれない。

おかげさまでCDも予想を大幅に上回る売れ行き。みなさん、本当に有難う。

皆さんは僕の宝物です。宝者だろうか。

ところで雨。

僕は始まる時に言った「皆さんがお帰りになる頃には止んでいますよ」と。

事実、皆さんが集まってくれた頃には昼過ぎから降っていた雨も一時止み、、皆さんが中に入っている時少し雨の音が聴こえ、終了後はまた上がっていた。

何となく「晴れ男、多少は健在なり!」と云える程度にはなっていたと思う。

足を運んでくださった皆さんに感謝します。

タムちゃん、夏子さん、川端さん、そして前日から一緒に飲んでくれた佐々木君、そして、

何よりもレコーディングで散々骨を折ってくれた河合徹三氏。

今回は本当に骨を折って現れて、素晴らしい人間味あふれるプレイを聴かせてくれたことに感謝。

僕自身にとっても楽しい二日間、そして楽しい音楽会でした。

5月も終わります

先日、電動キックボードの事を朝の番組で取り上げていた。

テレビはその時間くらいしか観ないので、昼も夜も取り上げているんだろう。

事故が多発しているというが、もう最初から分かり切っていることだろうが。

ああいうものを軽い気持ちで承認する奴ってきっと、街に出たことがない奴なんだろうなぁ。

自転車の滅茶苦茶な走行状況を知っていれば、その上、別な危険なものまで歩道を走らせる、などという発想は生まれないだろう。

明らかに利権がらみか、自分たちはそんなところを歩かないから関係ないだろう、とふんぞり返っているか、全く世の中のことを知らないか、この3点だろう。

大体、この手のものを決める奴と言うのは現場を知らない奴、という事は決まっているようだ。

医療の現場を知らない、飲食の現場を知らない、或いは知っていても知ったことではない、というスタンスか。

いずれにせよ、どこの国でもその国を治めている連中と世間との溝はとてつもなく深いものなんだろう。

ずっと見ていて、あの日本の総理大臣は小学生が将来「総理大臣になりたい」と言った(今は違うのかな)そのままの感じがする。

要するに小学生レベルの総理大臣という感じだ。

小学生レベルというと、先日思わず笑ってしまったのが「北の汚物風船」だ。

これ、正に小学生のいたずら程度の事なので、本当に笑ってしまった。

僕らが子供のころ田んぼのあぜ道に点在する「肥溜」に石を投げては遊んでいた、あの70年も前のことを思い出す。

それをまじな顔をして張り切って正しい事をしている、などというような事を言う国のトップ。頭の中、どうなっているんだろう。

結局「お前のかあちゃんでべそ!」くらいの考えで人々が苦しんでいるのだったら、たまったもんじゃない。

やっぱりテクノロジーも進歩し、なんでも便利になり、とてつもない速さで東京から大阪まで行けるようになり、ミサイルはどんどん遠くまで飛ぶようになり、いろんなところで人間の人間たるところは確実に失われていくような気もする。

いや、決して不便が人間らしさを維持するとは言っていない。

僕らは常に進歩、進化の恩恵を受けてきたけど、何にせよ両面を知る、という事が大切な事なんだろうな、という事はつくづく感じる。

「書を捨てよ、町へ出よう」という有名な言葉もあるが、政治に携わるものには

「欲を捨てよ、町へ出よう」がぴったりだ。

でも残念ながら町でも欲のかたまりになるんだろうなぁ、あの人達。

明日から安中に出掛けます。

そこでニュース。安中の住宅にクマ出没。

お酒大好き、心臓を始めとする病のエキスパート、その上バイタリティ溢れる友人が注意喚起をしてくれました。

すかさず「ディズニーランドではクマがバンジョー弾いています」

と返しておきました。

言葉

今までに聞いた言葉の中には、相当前のことでも、そのシーンまで想い出すくらいクリアに残っているものが有る。

感動した言葉とか、人生を変えたかもしれない言葉とか、偉人の言葉とかいろいろあるだろうが、今回は、ある動作をするたびに想い出すような、大したことではない、それでも何故か忘れられない言葉について書いてみようかな。

まず、僕は朝必ず一杯のコーヒーを淹れる。

それはほとんどの場合顆粒状のインスタントコーヒー。

そこにホイップしたミルクを入れて飲む。

そこで、想い出すのが京都産業大ブルーリッジマウンテンボーイズの合宿でのこと。

僕が先輩の細谷さんにコーヒーを淹れた時の事である。

同じく顆粒状のコーヒーをスプーン2杯入れたその時、細谷さんが言った。

「あ、お前、それけっこう濃いぞ!」

何故かその口調から声から全て物凄く残っている。

なので、今でも朝、スプーンに取ったコーヒーを見つめて独り言「あ、お前、それけっこう濃いぞ!」なんて自分自身に呟いてしまう。

省ちゃんの言葉なんか数えたらきりがないかもしれないけど、僕にはシャワーを浴びる時必ず想い出す言葉がある。

省ちゃんが嬉しそうに「お前、人間の身体でいちばん汚いところどこか知ってるか?」と言ったが、恐らく彼は僕が「股か?尻か?」と答えると期待していたんだろう。

「どこ?」と言うとまたもや嬉しそうに「わきの下や」と言った。

再び僕はシャワーの時「わきの下や」と呟いてしまう。

うんと昔に見た西部劇の映画で、主人公が男の子に「耳の後ろを良く洗え」と言っていたこともついでに想い出すが、あの省ちゃんの嬉しそうな顔はよく覚えている。

沢山の人に出会って、もちろん覚えている言葉は沢山あるけど、なんか自分でも同じ言葉を呟いて見たくなるなんておかしいな、と思ってしまう。

そう言えば、同じく省ちゃんが言っていた。

「髭は朝7時から伸び始めるんや」

本当かな?でも、それ以来僕は7時過ぎないと髭は剃らない。

ま、あまり4時や5時に剃ることもないけど…。

なんというタイトルだろうか、と思う人もいるだろう。

僕自身、もう少し良いタイトルが無いか、と迷ったが、ま、いいか。

実を言うと、先日、朝早く高齢の(お~なんでこんな風に変換されるんだ)恒例のウォーキングに出て、いつものお寺の階段(大人の階段ではない)を駆け上がり、ぐるっと一回りして、もう一度階段を…と思っていたところに、ふと奇妙な物体を発見した。

まるでヒモか糸のように細いもの。色は黒。

「うん?ミミズ?」と思ったがよく見ると頭が三角形で大きい。

子どもの蛇だ。

長さは15㎝ほど。いや、ピンと伸ばせば20㎝はあったかも。

胴回りは多分5㎜もなさそう。

本当に小さい蛇がじっとしていた。

このままでは踏まれてしまう、と思い、落ちていた葉っぱでつついて脇に寄せてみた。

通りかかったジョギング中の若者が「お、蛇ですね。可愛い!」と言った。

確かに僕も可愛いと思ったが、蛇を見てそんな風に思ったのは初めてだ。

勿論、子蛇(こんな言い方あるんだろうか)だからだろうが、大きかったら思わず逃げただろう。

そう言えば、まだ小さかったころ、家の大掃除をしていた父が脚立から飛び降りて「棚から蛇(牡丹餅ではない)が出て来てペロッとなめられた」と言った。

そしてその蛇は困ったことに雨戸のレールの処に入っていってしまった。

そこで近くの農家の知り合いを呼んでつかまえてもらったが、それは1mほどもあるアオダイショウだった。

父も驚いたが、多分蛇も驚いただろう。

足が沢山ある奴も苦手だが、ツルツルと胴体で這うのも苦手だ。

しかし、今回の蛇は連れて帰りたかったくらいに可愛かった。

でも、あれって将来どれくらいの大きさになるんだろうか?

何を食べさせたらいいんだろうか?

なんて考えると、取りあえず無事に生きていてくれたらいいかな、と思うだけだ。

コミュニケーション

先日、あるコンビニでこういうことがあった。

コーヒーをレジでお願いして、ちょっとしたウオークインというのかな、座るスペースが奥の方にあり、少しそこに座るか、とその時に思っていた。

そしてそのスペースに背を向けるところにコーヒーのマシンがある。

コーヒーがカップに注がれていく様子をみながら、ふと、そのスペースに眼をやると、こう書いてある。

「このスペースをご利用の方はご購入時にお声がけください」

そうか、と思い、先ほどコーヒーを買ったのと同じ店員さんに「すみません、ここに座っても良いですか?」と尋ねたところ、帰ってきた答えが

「購入時に申告していただくことになっております。まぁ、今日は空いているし構いません」

その時はそんなに嫌な気はしなかったが、徐々に煮え切らない気持ちになった。

その理由は、

レジのところにはそれが明記されていない事。

入り口からレジに立てばそのスペースは見えるがそのような但し書きはそこからは見えない。

これはシステムの誤りではないか。

そしてもう一点。

店員さんの言葉不足、というかコミュニケーション能力だ。僕だったら、

「あ、どうぞ使ってください。次からご購入時に申し出てくださいね」と、まず、自分の方の理論をつき出すのではなく、相手を立ててから実はこう言う事になっております、という説明をする。

そうなれば当然「あ、そうなんだ。有難う。次はそこで言うよ」となる。

細かい話だが、コミュニケーション能力に欠けているのか、自分の状況を先ず言い放つ人と言うのは増えてきたのかもしれないし、そういう人は増えてきているので、みんなそれで当たり前だと思っているのか、よくわからない。

但し、これを指摘すると、今流行りの「カスハラ」と思われてしまうのだろうか。

春夏秋冬

この言葉も消えつつあるような…。

昔は絶妙な配分だったような気がするが、このところ日本の夏は長い。

もう5~10月は夏だという感じがする。

一年の半分は夏。まだ常夏の島というわけではないが、そのうちそうなるかも。

だが、冬は冬でとんでもない量の雪が降る。

そして、温暖化という事が問題になってからもう何年になるのだろう。

確かに文明の進歩とともにある程度は仕方のないことかもしれない。

その「ある程度」というのはどの程度かよく分からないが。

しかし、僕が思うには、世界に点在しているバカ共がミサイルを撃ちあげては悦に浸り、また別なバカ共は爆弾をあっちこっちに落として破壊しまくっているが、こういったことも温暖化に一役買っているんではないかなぁ。

そりゃあ誰が考えても暑くなるはずだ。

爆弾って多分熱いと思うので。

それだけではない。ほとんどの武器は使えば多分熱を発するだろう。

あのバカ共がいなくなったらそれこそ「ある程度」で推移していけるんじゃないかな。

来年にはまた大規模な太陽フレアが…という噂もある。

あれ、破裂したらもう有無を言わせず終わりだ。

楽で良いだろうけど。

さて、地球っていつまで持つだろう。

いろんなことで終焉に近づいているような気もする。

俺が先か、地球が先か…なんてことはないか。

こんな壮大なスケール、言ってみればどうにも対処できない事柄を考えながら、逮捕された「なんとかの党」の連中を見ているとほとんど「蚤の糞以下」だ。

あれを政党として認める選挙管理体制っていったいどうなっているんだろう。

ただ騒ぎたい連中、有名になりたい奴を政界に送り出す無能さはいったい何なんだろう。

壮大な宇宙の危機感と蚤の糞みたいな連中を並べている自分も嫌になってくる。

今回の題目「春夏秋冬」はいったいどこへいったんだろう。

やっぱり消えつつあるんだろうか…。

5月

偉大なキダタローが亡くなったと聞いた。

直接的な接点はなかったが、その名前を聞くと同じように才気あふれる木田ちゃんを思い出す。

考えてみれば5月18日。

当時31歳だった?若かったなぁ。驚くことに44年前?

僕も省悟も30歳だった。

3人で夜のすすきのをふらふらと歩いてホテルに戻ったことをよく思い出す。

神戸国際会館の帰り、木田ちゃんが借りてきたフェアレディ―Zで3人ワイワイ言いながら帰ってきたなぁ。

石川さん(鷹彦さん)と4人でつまらない遊びを考えだしたこともよく覚えている。

いや、僕ら4人は結構楽しんだが。

木田ちゃんは僕や省悟よりもひとつ年上。

でも、いつもにこやかに一歩引いているようなところがある人だったなぁ。

そして、どこかすっとぼけた人だった。

俗にいう天才ってあんな感じかな?

しつこいようだが….あれから44年?

近所

いつもウオーキングをしているコースに風変わりな家がある。

アパート然としているが、その玄関には無数の靴が重なり合うように置かれている。

いや、脱ぎ捨てられている。

ある靴は廊下まで、ある靴は外にまで飛び出している。

推定50~60足。

因みに玄関はいつも開いている。暗くなっても、だ。

作りが普通のちょっと大きめの家、といった見かけなので、もしかしたら何かの教室で多くの人が集まっているのかな?と、最初は思っていた。

が、どうやらそこには外国人が一杯住んでいるようだ。

アパートだったわけだ。

そして横の方の軒下にはおよそ4~50着の洗濯ものがいつもかかっている。

勿論、僕も雨の日には通らないが、曇った日でも必ず大量の洗濯ものがぶら下がっている。

あまり人を見かけないのでみんな仕事に行っているのだろう。

数回、インド系の人を見たので、そうか外国人向けのアパートだと分かったわけだ。

どれだけの人数が居るか分からないが、靴の数を見るに15人以上は住んでいるのかな?

同じ国の人かな?

アメリカに居る時、メキシコ人のアパートに行った。

出て来るわ、出て来るわ、7~8人の同居人。2ベッドルームくらいのそれほど大きくない部屋にみんなで住んでいるらしい。

5人くらいが「ホセ」だった。

マイクの所も彼以外は家族のメンバーだったが7人くらいで住んでいたな。

どこもみんな仕事に出掛けるし昼はがら空きになる。

ハリーさんも言っていた「誰か一人が先に来て、仕事をしながらリサーチを重ね、みんなを呼んで、それ!とばかりに仕事に繰り出す」

凄いパワーだな。

この日本でもみんながんばっているんだなぁ。

円安はかなり痛いだろうなぁ。

なんていうことを考えながら、今日も乱雑に脱ぎ捨てられている靴を横目で見ながら歩く。

今度、数を数えてみようかな…て、そんなことをして何になる?

いや、いっそのこと綺麗に揃えておいてあげるか…て、単なる怪しいおじさんだ。

テレビ

ここ最近、テレビをつけることがほとんどなくなった。

勿論、電気代の節約もあるが、あまりに馬鹿げている企画が多すぎるからだ。

それでもニュースは見るが、ある一定の時間を過ぎるとほとんどが食レポになるので、よっぽど興味が湧かない限り消してしまう。

あ、それとドジャースやっているかな?と思ってつけてみることはある。

また山本が打たれている。大谷、今日は全然だめだなぁ。観るの止めよう…とか。

後はBSなどで時々興味深いドキュメンタリーを観たり。

中にはとてもためになる企画もあるし。

知らなかったことや、あらためて確認できることなど、たまには良いものだ。

しかし、もう何度もおなじことを書いているかもしれないが、飢えた子供たちや、血まみれで運ばれている人たちの映像の後で、芸能人が食べて食べて食べつくす!なんていう番組の宣伝を見てしまうと、正直「バカか、こいつら」とか思ってしまう。

あの大食いの企画だけはもう止めてほしい。

別に観なければ問題ないか。

しかし、日本人の7~8割は芸能人が美味しいもの食べているのを観るのが好きなのかなぁ。

それに、一般の人にしても自分がなにか食べているところを動画に撮って他人に見せている神経がよくわからない。

ま、世の中の動きと共に人間の感性も変わってきているのだろうし、一概に毛嫌いもできないのだが。

小学生の頃、初めて家にテレビが来た時のワクワク感はよく覚えている。

それまでは街頭テレビで…いや、何を見ていたのかは覚えていない。

近所のお米屋さんの軒先で相撲をみたような覚えもあるような、無いような…。

ビートルズの来日時は数人の友達が僕の家に集まって食い入るように画面を観ていた。

あんまりよく見えなかったが。

アポロ11号、月面着陸の時も興奮してみていたなぁ。

そう言えばこんなジョークが有った「アポロ13号はフォレスト・ガンプが操縦してたんだ!じゃぁ問題が起きても仕方ない」

話がそれたけど、以後、中東の戦争はテレビでオンエアーされるまでになったし、9・11は日本の人達が映画の宣伝かと思ったらしい。

これからも日本のテレビ業界は今の様な感じでいくのかなぁ。

まぁ、何も考えなくていい、というコンセプトなら今のままでいいか。

Back to Banjo 詳細 後編

9   Steam Powered Aereo Plane

スティーム・パワード・エアロプレイン、John Hartfordの素晴らしいアルバムAereo Plainから。アルバムタイトルはPlainそして曲はPlaneよく分からない。とに角名曲中の名曲といえるだろう。そして彼の、彼等の(タット・テイラー、ノーマン・ブレイク、ヴァッサー・クレメンツ、ランディ・スクラッグス)演奏も素晴らしく、このアルバムはある意味ブルーグラス音楽のバイブルのひとつ、と云えるかもしれない。

因みに彼は12月30日生まれ。1937年というから丁度一回り違いだ。

この曲からベースの河合徹三氏が音に厚みを、そして小気味よいリズムを加えてくれた。

10   Misty / Sleepwalk

超有名なジャズ・スタンダード。何も言う事はないが、こういう曲をバンジョーで考えるのは大好きだ。2曲目のスリープウォークも、バンジョーで演奏すること自体普通では考えられない事だ。元々スティールギターの曲で、リッチー・ヴァレンスの伝記映画「ラ・バンバ」で冒頭から使われていたのが凄く印象的だった。アメリカで観た映画で、映画館の中はヒスパニック系の子供たちが(小学生だろうか)先生に連れられて、映画鑑賞の時間を過ごしていた。そして映画が終わった途端、女の子の大きな泣き声が聞こえたことをよく覚えている。

11   Irish Washerwoman / Morrison’s

アイルランドの洗濯女というこの曲は、恐らく世界で最も知られているアイリッシュ・ジグだろう。なので,ほとんど演奏したことはない。ここにきて何故か5弦バンジョーを使ってみたら意外とマッチした。敢えて少しストレート気味に弾いてみた。

同じく2曲目のモリソンズもよく知られている、言うなれば初心者曲である。敢えてその二つをつなげてみたら、なかなかうまくいったような気がする。何となくこれを録音するのは恥ずかしいかな?と感じていたが、出来上がりを聴いてみると、どうしてどうして、どちらもなかなかいい曲じゃないか!と思えるようにもなってきたから不思議だ。  

12 Tribute to Peadar O’Donnell

トリビュート・トゥ・パダー・オドンネル。この曲を初めて聴いたのは随分昔だ。多分1985年のMoving Heartsのアルバムで。その時から何故か頭から離れることはなかった。特に最初のエアーの部分はいつかギターで弾きたいと思っていたので、それは既に録音済みだが。今回はバンジョーで、と考えた。どうしてもギターの様なふくらみを持った音にはならないが、何とかなるかな?とおもいながら作ってみた。これは音の延びる楽器向きだとは思うがこの際、好きな曲という事で。続くジグはいかにもドーナル・ラニーの好みだ。ひたすらややこしく作られている。こういうものにハマってしまうと大変だ。

13  Time After Time

タイム・アフター・タイムは僕がポップスの中でも最も好きな歌の1つ。このアルバムShe’s So Unusualは僕の愛聴盤だった。この手のものではJanis JoplinのCheap Thrills以来の興奮だったかもしれない。

14  Back to Banjo

敢えてこのタイトルにしてみた。メドレーでロンサムロード・ブルース、シャッキン・ザ・コーン、グランド・スピード、ディア・オールド・ディキシー、そしてフォギー・マウンテン・ブレイクダウン、これは練習が必要だった。これらの曲はもうほとんど弾いていなかったからだ。フォギー…は別格だったが。スリーフィンガースタイル、正確にはスクラッグス・スタイル。一筋縄ではいかない。1964年頃、初めてバンジョーの音色を聴いた時の衝撃を、そして興奮を思い出して何度も何度も弾いてみたが、あの頃のようにはいかない。100回弾いても飽きなかったあの頃。今も飽きてしまうわけではないが、そこまでの根気が続かない。他にしたいことがあるわけでもないのに。他にしなければいけないことがあるわけでもないのに。それでもBack to Banjoと謳った以上頑張らなくては、と久々にすっ飛ばしを決め込み、少しは頑張った…と思う。

15 Shenandoah

この曲に初めて出会ったのはミッチ・ミラー合唱団によるEP盤だったと記憶している。調べてみると1963年だそうだ。西部開拓史という映画のサウンドトラック。それにシェナンドーを歌っていたのはノーマン・ルボフ合唱団だそうだ。裏面の「ジョニーが凱旋するとき」がミッチ・ミラー合唱団だったようだ。実際にはそちらを聴きたくて購入したレコードだったのだろうか。あまりよく覚えていないが、A面のシェナンドーもいたく気に入ったものだった。そしてその頃からギターではよく弾いていたが、後に手に入れたバンジョーでもポロポロと弾いていた。Back in the Day…..

Back to Banjo 詳細 前編

ライナー・ノーツに書き切れなかった解説をここに掲載します。

Back to Banjo このタイトルに決めたストーリーについては、既にアルバムで書いたのですが、もう一つ候補が有りました。それは「Return to Banjo」

これを教えてくれたのはTaisukeでした。彼曰くBack to Banjoはそのストーリーが有れば変ではないけど、そのストーリーを知らなければ少し変。変というか、ワイドな意味合いが無くなる。おそらくその状況下にあって、バンジョーに戻ろう、という解釈と、さぁ、またバンジョーに戻ってみるか、というニュアンスの違い、という事。

おー、そうか、なるほど。難しいもんだ。でもここはその状況下に於いてその言葉から発したことなのでBack… で行っても大丈夫だろう、という結論に達しました。タイトルを決めるのもなかなか大変です。

ところで、表紙の写真についてここに書かせていただきます。

よく、あちらこちらの店で猫のキャラクター付きの商品を見かけては「何でも猫を使えば売れると思いやがって!」なんて文句を言っていた僕ですが、とうとうその波に遅ればせながら乗ってしまいました。

でも、ストーリーはこんな風に始まったのです。

2019年、夏の早朝、ウォーキングからの帰り道、近くの駐輪場あたりから子猫の鳴き声が聞こえてきました。

何気なしに覗いてみると、生後間もない子猫がじっとこちらを見ています。

ちょっと腕を伸ばしてみたら、すんなりと手の中に納まってしまいました。

困ってしまってワンワンワワンではなく、ニャンニャンニャニャンです。

取りあえず連れて帰り、ぬるま湯で身体を洗ってみました。

まっちゃ色の水がしたたり落ちて、血尿が出たかとビビリましたが、どうやらかなり汚れていたようでした。

すぐ希花さんに連絡をいれました。

「こんなのが落ちていたんだけど、どうしたらいい?」と。

そして取りあえず、動物病院で何かしらの処理をしていただきました。

その後、連れて帰ったのですが、かなりよくできた子猫で、泣かないし、用意したトイレでちゃんと用を足すし、とても大人しく、借りてきた猫のような猫です。

そこで何気なし、置いてあったグレートレイクスのヴァンガードの上に乗せてみました。

ライナーの表紙、白黒の写真が最初のショット。

少し恐れおののいている表情が伺われるのは、これの皮にされるんではないか?と思ったからでしょうか…てなわけないか。

表紙のショットは少し落ち着いて周りを見回すような仕草。

このCDのことを考え始めたのとほぼ同時に「そうだ!あの時の写真」と思ったのでした。

なお、現在この子は友人のアルマジロ君の伴侶となっています。

相変わらずとても大人しく、人当たりもよく、どこへ何時間連れて行っても何一つ文句も言わず、巷の噂では「飼い主より良くできた猫」と云われております。Got Banjo?

1 Got Banjo?

  Cripple Creek / Devil’s Dream / Cherokee Shuffle

クリプル・クリークはバンジョーの基本的チューンとでも云おうか、あまりマジに弾くこともないくらいに知られ過ぎてしまっていると感じるこの曲から敢えてスタートしてみた。久しぶりに弾くと、あ、やっぱりいい曲だな、なんて思ってしまう。デビルス・ドリームは、敬愛する故ビル・キースのスタイル。この曲はアイリッシュ・チューンのMason’s Apronと同系列のものと思われる。1984年にワシントンDCのグループ、Grazz Matazzのフィドラー、マイクと、二人でよくこの2曲を交互に演奏したものだった。チェロキー・シャッフルはアイルランドでも人気のある曲でジャムでも何故かたまに出てくる。美しいメロディーをもった曲だと思う。ロスト・インディアンというイースト・ケンタッキーに伝わる古いフィドル・チューンと同系列の曲。なお、このひとくくりのタイトルはCMの「Got Milk?」から取ったものです。この表現もちょっと古いな、と言われましたが、ま、古い人間ですから仕方ないかな。言葉も時代時代で変化するものですね。

2 Good Time Charlie’s Got the Blues

グッドタイム・チャーリー・ゴット・ザ・ブルース、日本語タイトルで「オールのない舟」というのもあるらしい。ダニー・オキーフ1967年の作品。グッドタイム・チャーリーとは一般的には「放蕩者」とか「気楽な男」とかそんな意味で使われるらしい。古い言葉だろうけど。この街に暮らすのは時間の無駄だと、多くの友人が街を出て行った。ある者は貨物列車で、ある者は飛行機で。確かに彼らは正しい。そこで勝者になる奴もいるし、敗者になる奴もいる。俺だっていつまでもこうしてはいられない、と思う事もあるけど、このままでも気楽でいいか。閉塞感と将来への不安。面白いことに歌詞の中では「もう俺も33にもなるし…」という部分が出てくる。33歳、僕はソフト・シューズを出した少し後だったか…。人生半ば。いろいろ考え始める頃か。そしてあきらめと自己肯定の中でまた歳をかさねていく。

3 Few Bob / The Harp and the Shamrock

ヒュー・ボブはあまりポピュラーな曲ではないが、綺麗なメロディーだと思う。ひょんなことからこんな曲を見つけるのは非常に面白いことだ。ハープ・アンド・シャムロックはとてもポピュラーな曲。これも綺麗なメロディーを持った曲だと思う。このようなGのホーンパイプは5弦バンジョーにとてもよく合うものだと感じる。

4 My Love She’s But a Lassie Yet / Mississippi Sawyer

マイラブ・シーズ・バット・ア・ラッシー・イェット、これは古いスコットランドの曲だが、ここではビル・キースの演奏から学んだメロディーをクロウハンマーで演奏してみた。かなり難易度が高く、小林氏は「頭のてっぺんが焦げそう」という実に的を得た表現をした。確かにそれくらいに複雑な右手と左手の組み合わせになっているかもしれないが、僕自身がメロディックスタイルからアレンジしたものなので仕方がない。原曲はかなりシンプルだ。ミシシッピー・ソウヤ―はかなりポピュラーなフィドル・チューン。これも一見シンプルそうに感じるがそこそこ難易度は高い。

5  Boyne Water / A Minor Breakdown

ボイン・ウォーターはAllison De Grootの演奏から学んだ。いろいろ調べてみると結構有名な曲で歌詞も付いているようだ。なかなかいいメロディーだな、と思う。マイナー・ブレークダウンはGreen Brier BoysのBob Yellinが書いた、とても東洋的、或いは中東的な曲。それもそのはず、彼は作曲当初まだタイトルを決めかねていて「The Mount Sinai Breakdown」と呼んでいたそうだ。実際はもう少し、というか「かなり」ともいえるくらいに早く、そして高いキーで演奏されているが、ここでは前曲とのかみ合わせを考えて少しペースを落としてみた。長年お気に入りの曲のひとつだ。

余談だが、彼の使用していたバンジョーはGibson RB-4であり、同じくバンジョープレイヤーのRoger Sprungのアドバイスで1958年に$125で購入したもの、という事らしい。

6  La Bruxa

ラ・ブルハ、これは「魔女」というとても官能的な曲だ。ガリシアのバンドMilladoiroのメンバーAnton Seoaneの作品。初めてこの曲に出会ったのはJody’s Heavenのレコーディングの時だった。まさか僕自身、この曲をバンジョーで演奏するとは思っていなかったが、何気なく弾いてみたところ「なかなかいいかな?」と思い、今回録音することにした。

7  Gold Ring

大好きなジグ。初めて聴いたのは多分Boys of the Loughのレコーディングだっただろう。アイリッシュミュージックを始めるよりもかなり前から知っていたものだ。いくつかのバージョンがあるがこのバージョンが弾きやすかった。2弦をCにしたマウンテンマイナーチューニングで試したところしっかりハマってくれたようだ。どこもかしこも同じようなところを行ったり来たりする、こういったチューンを何百曲も覚えることがこの音楽の醍醐味でもある。また、そのような曲を如何に盛り上げるかを考えながら伴奏をするのも同じくこの音楽の醍醐味である。

8   Calum’s Road / Planxty Fitzgerald

カルムス・ロード、Donald Shawの作品。これはバンジョー弾きのBrian McGrathから学んだ。最初聴いた時はなんかちょっとダサイ曲だな…なんて思っていたが徐々にハマってきた。そういう曲って結構あるかもしれない。プランクスティ・フィッツジェラルドはハープ奏者のMichael Rooneyの曲。この人いい曲を一杯書いている。アイリッシュ・ハープの代名詞ともいえる人だ。これもつい最近East West Fiddlesで録音したが、ここではバンジョーで、また違ったいい味が出たと思う。コード進行も結構きれいな感じ。

後編に続く…

発送

Back to Banjo 予想よりも早く出来上がったので、連休明けと共に、ご入金された方から順次、発送を開始させていただきました。

因みに、ニュースなどでも順次という言葉が出るとついつい返事をしてしまいそうになりますが、それはともかく、今週中(5月9~10日)くらいにはほとんどの方に届くと思います。

遠方の方にも来週早々届くと思います。郵便局の方々に感謝!

さて、ここでひとつお知らせしておきます。

言ってみれば個人的なお知らせなので、ここに書く必要があるかどうかは疑問ですが。

今回、ご入金された方の中に「城田純二」としてお振込みされた方がいらっしゃいます。

僕には身に覚えがないので、おそらく焦って僕の名前を入力してしまったと思いますが、

お振り込みのお知らせには名前しか表示されないので全く手がかりが有りません。

「入金は済ませたのにCDが届きません」という問い合わせまで待っても良いのですが、

もし、身に覚えのある方、或いはいくら待っても届かない、という方がいらっしゃったら、

何月なん日にお振込みされたかを明記の上、10strings迄、メールを頂けたら幸いです。

このコラムを読まれている方であることを祈って。

ところで、暑くなってきましたね。

冷麺が食べたくなる季節。

ベトナムサンドイッチ作りに凝っているのですが、当地で500人超の食中毒が発生した、というニュースが飛び込んできました。

夏に限ったことではありませんが、これからの季節、特に気を付けましょう。

通常の衛生観念ではこの気候変動には追い付かないと感じます。

2024年

とうとうアメリカの大学でまた学生運動が起こった。

しかし、ベトナム戦争当時のそれとは明らかに違う。

当時のアメリカは、そして徴兵を控えていた学生たちにはもっと深刻な状況だっただろう。

今回のデモは、間接的(と言ってしまえば確かにそうである)な戦争への加担に対するものである、という部分が大きい。

しかし日本は平和だ。

政治家は我が身の懐を肥やすことくらいしか考えていないし、一般の人は芸能人が食事をしているのを見るのが好きみたいだし、本当に平和だなぁと思ってしまう。

僕が本当にそれを感じたのは、やはりアメリカに居た時だったろうか。

人種差別的なことも多くのシーンで感じたし、ベトナムからの帰還兵も沢山知っていたし。

コロンバスデー(コロンバスが最初の航海を始めた日)にビルの谷間をぬって飛ぶブルーエンゼルスの爆音に、耳を塞いで叫び声をあげ、キッチンの隅に隠れたベトナム人の若い子。

当時はもうベトナム戦争から随分と時は経っていたが、周りのほとんどはボート・ピープルだった。

ひょっとしたら彼らにとってはもう過去の事になりつつあったのかな。それでも心の傷はそう簡単に癒えることはないだろう。

初めて聞いた話なんかも含めて、僕自身は時代を引き戻されたように感じていたのかもしれない。

UCバークレーのキャンパスを歩いていた時も「サークルゲーム」が頭の中をクルクル回っていた覚えがある。

今起きている出来事を見て、少しばかり思い出してしまった。

世界はどんどん悪い方向に向かっている様な気もするが、僕が体験した9・11当時の静まり返ったアメリカ、その後のイラク戦争…全てが繫がっている…と感じる。

僕らがこの世を去った後、いったいどうなっているんだろうか。

母親、ピアノ、ウイスキー

2023年の6月に、フジコ・ヘミングをテレビ番組で観ながら、ウイスキーを呑み、昔を想い出した、と云うようなことを書いた。

幼少期の自分と母親とピアノの関係が、とてもよく似ていたことも有ったのだろうか。

そして心に沁みるピアノ演奏に乾杯でもしたかったのだろうか。

なぜあんなにも打ち込んでいた(だろう)ピアノを僕は止めたんだろうか。

それほどまでに母親の死はショックだったのだろうか。

ちょうどまだよく分からない年齢から、少しずついろんなことが分かってくる、というか自己が形成されていく年齢だったんだろうな。

自分の意識と無意識が交錯するような…。

一旦は手放してしまった音楽と、結局は人生を共に歩んで来た。

年齢のせいかそんな昔の事などをよく想い出したりするが、フジコ・ヘミングのドキュメンタリーは刺さるものがあった。

92歳か…。

また今晩はウイスキーでも…って、あ、なかったんだ。

もう5月になってしまった

今日気がついたのだが、1975年の4月30日がベトナム戦争終結の日という事らしい。

僕らの世代、最も身近な出来事のひとつだったであろうベトナム戦争。

何も知らずに呑気に反戦歌なんか歌ったりしていた。

後に多くのベトナム人との接点があった僕としては考えることが多々あった。

それはそれで自己を責めることではないし、他者を責めることでもないと思うが。

何をしたところでバカは止められない。

政治的、宗教的な関わりがあるのでひとくくりにして「バカ」とは言えないが、単純に考えてもバカであることに間違いはない。

この世に人類が誕生してからは仕方のないことだろうか。

日本でもいまだに原爆の影響で苦しむ人がいるように、ベトナムでもいまだに枯葉剤の影響で苦しんでいる人が一杯いる。

分かりきっていることなのに忘れられていく。

忘れて次に進むことは大切だが、忘れて繰り返すのはダメだろう。

今起きていることはその連続だ。

今朝、ニュース番組で、戦争終結から49年のベトナムという特集をやっていて、ふと、こんなことを感じてしまった。

人類は進化しているのかもしれないが、進歩しているのだろうか。

しかし、進化と進歩の定義は難しい。

大谷は進化している人類の姿だろうか?

いや、あれは日ごろの努力で進歩している結果なんだろう。

そしてそれが進化へと繋がっていくんだろう。

人類が進化したら5秒台で100m走る奴なんて出てくるだろうか?

200㎞のボールを投げるピッチャーなんて出てきたら、バッターボックスには危なくて立てないだろうなぁ…なんてしょうもないことを考えてしまう。

あ~僕ももう少し進歩しなければ…。

なんだかわけが分からなくなってきたのでこの辺で後退しますが、ベトナム戦争終結から49年。

約半世紀前、ナターシャーセブンは日本全国を旅していました。

双子

最近よく行っているスーパーのアジア人トリオ、ニャン、テー、オウの3人組の内、オウさんが双子だという事が判明した。

トリオではなくクヮルテットだったわけだ。

「なんか今日は雰囲気が違うね」と言ったら「あたしたち双子です」という答えが返ってきた。

僕は今迄どちらとよく話をしていたんだろう。

どちらも、だったんだろうけど全然気がつかなかった。

むかし、アメリカで勤めていたレストランに同じく双子のウエイトレスがいた。

シャーニーとシャーレットという姉妹だったが、時々お客さんが戸惑いを見せていた。

この二人は割と分かり易く、性格も全く正反対だった。

シャーレットは見た感じ地味だったけど、かなり行動的だったが、シャーニーは派手な見た目のわりに大人しかったようだった。

2人が一緒に働いている時が良く有ったのでこちらは分かり易かったが、オウさんの場合、次回スーパーに行ったらシフトの事など知らないし、多分どっちだか分からない。

取りあえずオウさん、と言っておけばいいか。

ずいぶん前、僕らは、おすぎとピーコのふたりと、時々永さん繋がりで一緒になる事があったが、その時も「あ、久しぶり」と言うと「さっき会ったじゃない」とか言われたものだ。

省ちゃんにはその違いが分かったようだが、僕にはさっぱりだった。

僕の周りにはそれくらいだったかな。

ところで今回の「双子」というコラムには関係ない話を思い出した。

といえども、シャーニーから聞いた話。

ある時、彼女の友人がラス・ベガスに行っていて、夜そこそこ遅い時間にホテルのエレベーターに乗った。

その時は一人で、早く扉が閉まらないかなぁ、と思っていたそうだが、案の定、閉まる直前に屈強そうな黒人が二人乗ってきた。

彼女は一瞬固まったそうだが、その時彼らが発した言葉で一層恐怖に襲われた。

「Hit the Floor」「床に伏せろ」彼女は、命ばかりは御助けを、とばかり床に伏せたそうだ。

それを見た黒人の二人はポカンとして「What are you doin’ lady?」と。

なんと彼らの発した言葉は「Hit Fourth」「4階を押してくれ」と言うものだった。

状況が状況だっただけに分からないことはないが、ネイティブスピーカーでもそんなことがあるんだなぁ、と感心してしまった。だが、話はそれで終わらない。

翌朝、チェックアウトの為にフロントに行った彼女。また驚いた。

「料金は支払われております。はい、エディ・マーフィー様で」

なんと彼等、エディ・マーフィーのセキュリティだったのだ。

床に伏せた彼女、よっぽど哀れに見えたんだろうなぁ。

暑くなってきました

さて、ここしばらくはBack to Banjoに関することばかりでした。

録音ではさすがに少々疲れたようでしたが、これを調整するエンジニアの田村さんはもっと疲れるんじゃないかな。

僕は自分の事だし、あーだのこーだの要望を出せばいいけど、それをことごとく聞きながら、ずっとコンピューターの画面を見ながら、そして音を聴きながら答えていくわけなので、エンジニアは疲れると思う。

それに、常に別な顧客も抱えているのだろうし。

やっぱり本当に貴重な存在はどんなことにせよそれを支えてくれる人だ。

なので宅配の人やスーパーのレジなどで文句を言う人の神経がよく分からない。

明らかに「これは許せん」というような状況でない限りは普通に振る舞うべきだ。

その尺度は人それぞれかもしれないが、それを差し引いても、と思う事もある。

近所のコンビニに、もう10年も働いている、それもこの人、寝る時間あるのだろうか?と思うくらいにいつでも働いている女の子がいる。

しかもよく動く。すごく仕事ができそう。

ところが愛想がまるでない。

けっして態度が悪いわけではない。

ただただ余計なことは一切言わず、マニュアル通りの対応をするが、確かに仕事は出来そう。

一度だけ、ちょっとひょろっとしていて本田翼的なところがあるので「あんた本田翼みたいだね」と言ったら突然顔が真っ赤になって「あたしあんなに可愛くないです!」と言った。

10年でその時だけだ。余分な話をしたのは。

最近友人が、道路工事の場でよく立っている警備員の仕事を始めたが、話を聞く限りあれもかなり大変そうな仕事だ。

友人が始めたことがきっかけで、僕は必ず彼らに「お疲れ様です」と声をかけるようにしている。

何故ならば、今まではもう少し誰でも出来そうな仕事だと勘違いしていたからだ。

話は飛ぶが、よくスーパーなどで奥の部屋から売り場に出入りする従業員たちがお辞儀をしているのを見かけるが、あれ、要らないんじゃないかな、と僕は思う。

別にふんぞり返って出てくるようなこともないし、普通に出入りしたらいいんじゃないかなと思ってしまう。

眼鏡屋さんでお客さんの後ろ姿にいつまでも深々とお辞儀をする従業員たち。

新幹線で車両ごとにお辞儀をする乗務員たち。

スーパー開店時にズラッと並んでお辞儀。あれ、苦手だ。1分くらいなのかな。

駅にはスーパーの中を抜けて行くのでその時間は避けたい。

逆に「あなたたちのおかげで僕らの生活が成り立っているのです。なにもそこまで…」と言いたい。

「お客様は神様」を勘違いした昭和の名残、というのもあるんだろうな。

だいぶ暑くなってきました。

疲れはそれもあるのかもしれません。

僕はどちらかと言えば寒い方が好き。なんか気持ちがシャキッとするし。

なので冬も温かい部屋が苦手。

これからは今どころじゃないだろうな。

ドバイか東京か、どちらが暑いか、なんていう日が来るんだろうなぁ。

思い出す。あの口から吐く息が熱かったドバイのお昼時。

アラビアのロレンスを彷彿とさせる、砂漠にしずむぼんやりした太陽。

黄砂のせいもあるかもしれないが、よく似ている。

とりとめもない文章になったけど、疲れているという云い訳で……ダメか!

ご注文有難うございます

続々とご注文いただいております。

残りわずか、、、嘘です!嘘は政治の世界だけで充分です。

1か月先の発売ですが、早速ご注文いただき感謝です。

とか言うのも、僕はご存知のように古い人間で、ちゃんと注文が入っているだろうか?なんて自分だったら気になってしまうのです。

ツアー先の宿泊も僕が電話で予約を入れようとすると希花さんが言ったこと「ネットの方が記録が残る。電話じゃァ、聞いてない、と云われりゃハイそれまでよ(とは言わなかったが)」

それは確かに一理ある。

でも、なんか相手の声を聞く安心感というものに囚われてしまっていた。

今ではネットの方が安くなるということも分かってきたが。

他にはずっと前、サンフランシスコからニューヨークに行くとき、HISでチケットを買ったら「イーチケット」と云われて心の中で「悪いチケットってあるのかな」と思ったもんだ。

E ticket なるものを初めて使ったのもその時だった。

やっぱりなんか自分でチケットを持っていないと心配だった記憶がある。

世の中の変化になかなかついて行けない。

バーコードなるものを初めてみた時、省ちゃんと二人で「なんやろこれ?」といろんな角度から見たものだ。

今ではあのQRコードというやつ。あれいったいどうなっているんだろう。

しかし、これ、逆もまた真なり。

初めてカセットテープを見た希花さんが躊躇することなく耳に当てていたことを思うと、世の中面白いものだ。

結局何を言いたいかというと「安心してください(ご注文は)入ってます」

皆さん、有難うございます。

だいぶ首が伸びると思いますがしばらくお待ちください。

Back to Banjoご注文について

コラムで紹介させていただいた新たなアルバム「Back to Banjo」についてのご注文はこちらへどうぞ! よろしくお願い致します。

先行予約を開始いたします。

https://tenstrings.easy-myshop.jp

New Albumのお知らせ

4月って結構長く感じます。

それまでの、特に2月、3月あたりはどうしてか分かりませんが、あっという間に過ぎていったような気がしますが。

これも自分次第でしょうね。

さて、その4月に入ってからレコーディングをしておりました。

去年の夏頃から考えていたことですが。

人生も終わりに近づいて、ここらで今一度バンジョーをフィーチャーしたアルバムを、と思った事からでした。

これが城田純二名義の最後のアルバムになるのか、はたまた終わりの始まりなのか(バカボンパパみたいですね)それはまだ分かりませんが、いままでこの60年あまりを共に過ごしてきたバンジョーと、その演奏に活力を与えてくれた皆さんに感謝の気持ちを込めて作ったアルバムです。

タイトルは「Back to Banjo」

約54分、全編バンジョーが鳴りっぱなし。

速いブルーグラスチューンから、あまり5弦バンジョーでは弾かれてこなかったアイリッシュチューン、ポピュラーな曲からジャジーな曲まで、盛り沢山のこのアルバムはきっと皆さんに満足いただけると勝手に信じております。

本当に久しぶりのバンジョーに明け暮れた日々でした。

エンジニアの田村氏、ジャケットデザインを担当していただいた夏子さん、そしてアルバム後半にベースで参加していただいた河合氏。

彼等に支えられて良いアルバムになったと確信しております。

そしてなにより、皆さんの今までの支えが必要不可欠でした。

多分5月の中旬か後半にはリリースできると思います。

(今の処5月23日発売の予定)

ご注文方法や先行予約に関する情報は近々HPのCD案内に掲載いたします。

皆さん、どうかよろしくお願い致します。

我夢土下座と共に 2024年4月13日 西尾市

久しぶりの遠征は、言わずと知れた我夢土下座とのジョイント。

僕の大好きな人達だ。

1971年の頃から…記録によると9月くらいからの付き合いらしい。

とんでもない連中に関わってしまった、と言うのが最初の印象…だったと思う。

その辺のことは確か別な項目ですでに書いているはずだが。

みんな若かった。もちろん、僕なんか21歳?だったかな?計算すればすぐ分かるが、まぁいいだろう。とに角みんな若かった。

若い時からたぐさんは渋かった。無表情ともいえる淡々と歌うその様、歌声は心打つものがあった。

今回もじっくり聴かせてもらったし、もしかしたら初めてだったかもしれないが、まともにハモッていただいて一緒に唄った。

もちろん進ちゃんにも手伝ってもらったし、なんやかやメンバー全員の名前が出てこないし、顔と名前が一致しなかったりで申し訳ない。

僕は省ちゃんや進ちゃんほど彼等と繋がっていなかったので、無理もないと思うが。

彼等グループの織りなすサウンドはとても真面目で清らかな自然のイメージがある。

ブレンダン・ベグリーに連れて行かれた、大西洋を見下ろす崖。

そこで大自然の織りなすそのすべての音、音として聞こえてこない「なにか」までが音楽だ、と感じ、彼らの織りなすサウンドが僕の心の中でひとつになっていた。

そんな彼等との音楽会は僕にとっても至福のひとときとなったし、おそらく集まっていただいた皆さんにも喜んでいただいたことだろう。

数か月前、西尾の「て―さん」から「よー!我夢土下座と一緒にやらんか?どうやろか?」みたいなお話をいただいて、喜んで参加させていただくことにしたのは正解だった。

あんまりやり過ぎると飽きられてしまうかもしれないが、彼等もそうしょっちゅう出かけられないだろうし、お互い歳も取るし、またいつ出来るか分からないけど、またやりたいと思っている。

こんな機会を与えてくれた「てーさん」とその仲間たちに感謝だ。

そして我夢土下座も今のまま、歌を作り続け、歌い続けて、この大自然の中で生きていってほしい。

折しも今日、西尾から戻ってきたら、イランがイスラエルを攻撃した、というニュースが流れてきた。

せっかくの大自然を破壊することしか頭にない最低のバカどもはいつまでそんなことを続けるつもりなんだろう。

僕はジェイミー・フォックスの出ていた2007年の映画「The Kingdom」のラスト・シーンを思い出してしまうのだ。

それでも、我夢土下座との余韻に浸れる僕は幸せだと感じている。

あれよあれよと云う間に

光陰矢の如し、あれよあれよと云う間に…本当に気がついたらもうすぐ4月。

つい最近まで、ウオーキングをしていると「ホー…ホー…ホゲギョ」と、ぎこちない鳴き方をしているうぐいすがいた。

しばらくするとそれは「ホー、ホゲキョ」と変わっていた。

そろそろ「ホーホケキョ!」と変化を見せてくれるだろう。

ところで、ここのところ世間の風当たりがきつい。

僕はこう言うのだが、要するに風の強い日がやけに多いような気がする。

窓ガラスがピューピュー鳴ったり、ゴウゴウという風の音が聴こえたり、なんかが吹き飛んでいくような音も聞こえたりする。

毎回「春の嵐」のようだ。恋人よさようなら…♪は海の嵐…か。

世間では今、大谷、水原の事で大変。

どちらも珍しい苗字ではないので、こんな時に大谷家と水原家の結婚式なんてあったらとても面白いのになぁ、なんてあまり公には言えないことを考えてしまう。

しょうもないうそつき議員どもの裏金問題もかすむ位のビッグニュースだ。

あれも何だかうやむやになって、そのうち忘れられるんだろうなぁ。

嘘つきが嘘つきに密室で「嘘ついてないだろうな?」と問い合わせても無理がある、と思うのは僕だけだろうか。

さて、アメリカはまたトランプなんだろうか。

ネタニヤフとプーチンは現代のヒットラーのまま突き進むのだろうか。

挙げればきりがないほどあっちこっちでいろんな事が起き、また起きつつある。

願わくば、良い春になってほしい。

なんとなく、最近多い地震も怖いけど。

3月

あの地震からもう13年にもなる。

いまだに復興とは程遠い場所もあるだろうし、戻れない所もあるだろう。

その間に多くの議員は自身の懐を満たすことばかりを考えてきた。

挙句の果てに「覚えていない」「公金として使用した」などの逃げ口上や、白々しい嘘の連発を繰り返している。

とに角13年。

あの時は本当に怖かった。

立ち上がることもできなかったし、全てが壁から落ちた廊下をどのようにして外まで出たのか、すら…それこそ「記憶にございません」

薄々思い出すのが、近くのオフィスビルから沢山の人が出て来て、みんなが公園に集まったこと。

その公園の前にあるアパートの室外機が、余震が起こるたびに激しく揺れていたこと。

その時はまだ津波という情報は入ってこなかった、と思う。

しかし、やっぱり地震というのは怖い。

あれ?と思ったらもうアタフタしてしまう。

それに揺れが収まった後もなんか揺れている様な気がする。

皆さんもそれぞれに怖い思いをしたでしょうね。

あの地震の次の日だったか、いや、少したってからか僕は電車に乗って何処かに向かっていた。

何処かの駅でドアが開き、一見労務者風(この文言、大丈夫かな)のおじさんが丸めた新聞を持って入って来た。

さほど混んでいなかったので僕のすぐ近く、向かい側に座った。

すぐに新聞を拡げ、食い入るように見つめていた。

やがて彼は大きな声で「勝てねぇもんだなぁ!」と呟きにしては大きな独り言を発した。

僕は咄嗟に「おじさん、また競馬でスッたか」と心の中で思ってしまった。

するとしばらくして引き続きおじさんが大きな声で言った。

「いや~、自然の力とは恐ろしいもんだなぁ…勝てねぇもんだなぁ」

東北の地震の頃になると必ずおじさんを想い出すが、あの日、本当に辛い思いをした人達、そして今も辛い思いをしている人たちがなんとか幸せに生きていけるように願っている。

見つけた!

なんとキャッチ―なタイトルだろう。

先日、京都からナターシャーの元スタッフ、西田君がやって来た。

ここらではロッキードと呼ばれている彼。

通称名が「コーちゃん」なので、何故そう呼ばれているかはお分かりだろう。

因みに、越路吹雪も「コーちゃん」か…。

彼は、いつもSuicaを探している。

電車に乗る時、電車から降りる時、ポケットからありとあらゆるものを出しては、おかしいなぁ…と。

「さっき財布の中に入れていたけど」と言うと「ほんまか?」と言って今度は財布を探す。

世の中で探し物をすることほど無駄なことはないと思う。

「あれどこいったかな?」とハンガーにかけた上着のポケットを探る時。

絶対にありえない引き出しを開けてみる時。

しまいには冷蔵庫まで開けて財布を探したり…ま、あんまりないか。

僕は割と置き場所を決めている方だが、それでも急いでいたりすると想像もつかないところに置いてしまう事がある。

ロッキードコーちゃんだが、今回も見せてくれた。それも一日に何回も。

アメ横、皮製品の店でベルトを購入した彼。

省ちゃんの買い物の時のように僕は何を見るわけでもなく、店の中を眺めていたら、ふと目に入ったのが古びた皮の財布。

ショーウインドーの上に売り物のようにして置いてあったそれを、僕は「これも売り物?」

と、店の親父さんに訊いたら「それ、わしのや。そんなとこに…」と、コーちゃん。

そのアメ横に出掛けた時も改札口に入る時、出る時、やたらと時間がかかった。

そのおかげで僕はある物を見つけた。

仙台物産展。

なんと「萩の月」と堂々と書いた旗がたなびいているではないか。

まだ探し物に躍起になっているコーちゃんを無視して、僕はそちらの方に吸い寄せられてしまっていた。

つい先日、友人が送ってくれたばかりなのに、そうそう買えないので、また買ってしまおうと、甘いものに本当に目が無い自分を反省しながらも、何といっても萩の月だし、と言い訳をして購入。

やっぱり美味い、お、これはいつものスーパーのアジア人トリオ、ニャンちゃんと王さんとテ―さんにあげようと思い、持って行った。

僕もアメリカで働いていた経験上、よその国で働くのは大変だろうな、と思うので、この子達とはよく会話を楽しんだり、ちょっとしたお菓子を持って行ってあげたりしている。

そしたらテ―さんが、驚いたことに「あ、これ美味しいですよね。仙台のお菓子ですよね」と流暢な日本語で言った。

「おぬし、できるな!」というところだ。

しかし、美味しいお菓子は心を落ち着かせてくれる。

ところでロッキードコーちゃんだが、別れ際「それじゃぁね」と言いながら改札口まで来て、僕が中に入るとまたしても、後ろの方でポケットのものを全部出しながら首をかしげている。

しばらく待ったが一向に見つからないらしい。

ま、帰る方向も逆だし、先に行けばいいか、と手を振って階段を下りた。

戻ってから、立ち寄ったドクターサウンドの小林君に今日のお礼と、結局そういうわけでコーちゃんは置いてきてしまった、とメールしたらこう返事が来た。

「さっきお店で財布出した時、中にSuicaありましたよ」

※なお、コーちゃんは他に類をみないほどに気が利くし、動きも機敏だし、話も頓珍漢なことは無いので、いわゆる「天然」というところなんだろう。

「甘いもの」に関して

前回の「甘いもの」に関して、友人からコメントをもらった。

1人目は酒のみの人。

彼に甘いものは無縁のようだ。

血糖値に気を付けてください、と言っていたが彼曰く「今更高血糖になってもいろんな症状が出るのは10年くらい先」という事。

彼、お医者さんのお得意さんなのでやたらと詳しい。

因みに僕はこんなにも甘いものを好んで食べているが、いままでに血糖値とかで引っかかった事がない。

虫歯も65過ぎてから一回だけ。しかも一日で、一本だけなんかかぶせて終わりという簡単なものだった。

今ではそんなことも無いが、若い時はホールのチョコレートケーキをペロッと食べるくらいだったのに。

これ読んでいる彼はきっと吐きそうになっているだろう。

もう一人、萩の月を送ってくれた友人から。

「萩の月には省悟さんとの想い出もあるのですね」というコメント。

そうです。

彼も好きだったなぁ。

どちらも酒のみではなかったので、コンサート終了後もチョコレートパフェとか食べに行ったりした。

省悟はババロアもかなり好きだったようだ。

「ジジイになってもババロアとはこれ如何に」なんて言っていたかも。でもジジイにならなかった彼だった。

省悟とは絶対に二人でしか成立しない会話が有った。

省悟がめちゃくちゃトイレに行きたいときに「あ~もれそう。モレシャン先生や!」と言うと僕らのPAをやってくれていた人が決まって「旦那、友達やねん!」と言った。

それからはトイレに行きたいとき「あ~旦那友達や!」と言うようになった。

これ、絶対他の人には分からない。

因みに、モレシャン先生とはフランソア・モレシャンの事。

また、サインなどしている時、終わってからマジックのキャップを探して必ず交わす言葉があった。

「キャップはどこや」「ひさごやろ」

これ「事件記者」という50年代後半から60年代半ばまでのテレビ番組で、主役の相沢キャップが必ず「ひさご」という小料理屋に行っていたからだ。

そのうち「ひさごはどこや」ということになり、これまた他の人には絶対にわからない会話となる。

急須は「バンジ」これは分かるかな?

でも関係ない人に突然「すみません。バンジはどこですか?」と訊いても無理だろう。

「甘いもの」を書いたおかげでまた思い出してしまった。

甘いもの

最近また甘いものをよく食べるようになった、と感じている。

自分で「感じている」というのもおかしな話だが。

お正月の伊達巻も今年は自分で作ってみた。

非常に簡単で、しかも市販のものとあまり変わらない見かけのものが出来た。

ま、高級なものと比べると味はフラットかも知れないけど、ああいうものは多分良い魚のすり身と厳選された卵。出汁も厳選されたもの、とか、そういった感じだろう。

僕はスーパーで買ったはんぺん、安い卵。出汁もその辺で売っているものを使うけど、充分満足できるものになった。

伊達巻の違いが分かる男、なんて…。

ホットケーキも100均でリングみたいなやつを買ってきて、そこに流し込んで蓋をして15分位待って背の高い真ん丸のホットケーキにする。

これがまたおしゃれなお店で出している様な感じに出来るんだなぁ。

自分で作ることも好きだけど、最近のコンビニのスイーツはあなどれない。

洋菓子も和菓子もちょっと食べたくなったら手軽に買うことが出来るし、値段だって比較的安い。

日本はたいしたものだ。

でも、やっぱり東京で言えば、大國屋のおだんご、谷口商店の甘納豆、ポルトガル菓子ド―ス・イスピーガのプリン、京都は出町双葉の豆大福などは絶品。

静岡発祥のキルフェボンのタルトとか、言い始めたらきりがない。

八天堂のクリームパンとか…饅頭好きの省悟も好きだろうなぁ。

東芝で107ソングブックシリーズの録音が終わったら、プールに寒天やプリンを作って飛び込みたいとか二人で言っていたなぁ。

最近想い出したもので、萩の月、というお菓子がある。

仙台のお菓子だが、僕はこんなことをよく覚えている。

ナターシャーで東北をまわっていた時、汽車の窓から…ハンカチは振っていない…何気なく、流れていく外の景色を見ていた。

見渡す限りの田んぼだった。

その前の晩だったか、前の前の晩だったか、省悟と二人でホテルの部屋でテレビを観ていた。

なんかUFOに連れ去られたという農家のおじさんが出ていた。

おじさん、こう言っていた。

「なんか訳の分かんねーうちに光さ浴びせられただ。どれくらいの時間が経ったのか分かんねーけど、ふっと気がついたら地上に立っていた。辺りを見回してみたら、田んぼだなぁ。おら驚いた。田んぼだなぁ」

それを見て二人で笑い転げて「田んぼだなぁ」といいながら寝た。

汽車の窓から二人で「田んぼだなぁ」と何回言っただろうか。

そんな中、ある看板が目に付いた。

仙台銘菓萩の月、と書かれていた看板に超美味しそうなものの写真がドカーンと。

まるで月に初めて降り立った宇宙飛行士が、月の石に呼ばれたようだった、という逸話にも似た感覚でその看板を凝視してしまった。

「省悟!寝ている場合ではない。あれを見ろ!」「なんだ。あ、田んぼだなぁ」

「いや、田んぼじゃなくてあの看板」

汽車はそれほど早くなかったので二人でよだれこそたらさなかったが見つめてしまった。

恐らく、松任谷由実よりも早く僕らが見つけたかもしれない。

その萩の月、東京ではなかなか手に入らないが、つい先日、友人が送ってくれた。

埼玉の人で、仙台物産展みたいなのがやっていてそこで手に入れました、とわざわざ送ってくれたのだ。

開けてびっくり。思わず歌ってしまった。

「月が~出た出た、月がぁ出た~あよいよい♪」…これは福岡か…。

2月でまたまた

2月で想い出したことがあった。

薄々ではあるが、想い出してきた。

明日になると「記憶にない」という、何とか大臣のような事になりかねないので、今のうちに。

確か初めて渡米したのが79年の2月だったと思う。

チケットが安かったのだが、そのせいで関空からソウルに飛んで、また羽田に戻って、ハワイに飛び、そしてロスに着いた。

トータルで24時間くらいかかったんじゃないかな。知らんけど…。

その飛行機の中で知り合ったのが、何故か桑名晴子だ。

そして、今は亡き塩次伸二もいた。

ちょっと調べてみると、79年にサンフランシスコ・ブルース・フェスティバル参加のため、渡米、とあるのでその時だったんだろうか?いや、フェスが8月だったはずなので、そのための渡米ではなかったのだろう。

とに角、彼等と意気投合した末に、着いたらすぐに兄貴の処へ行くから一緒に行こう、と誘われた。

兄貴。そう、桑名正博だ。

初めてのロスの街を歩いて、夜の8時頃にアパートに行った。

数人の仲間とともにもうかなり出来上がっていたようだった。

そして奥の部屋から出てきたのがアン・ルイスだった。

訳の分からぬままに数時間過ごしてホテルに戻ったことを薄々ではあるが、覚えている。

そして確か次の日にサンフランシスコに向かった。

ロスはあまり好きな感じの街ではなかったのですぐに向かったのだった。

前日のパーティの疲れか、あまりの太陽のまぶしさに眼が開けられなかったサンフランシスコの青空をよく覚えている。

それからどのように過ごしたのかはよく覚えていない。確か2週間ほど。

この時かな。グレートレイクスのオープンバックを手に入れたのは。

その翌年にも行っているし、その時だっただろうか。

またもしかしたら記憶が蘇ってくるかもしれないので、突然なにか書き始めるかも…。

あの大臣も早く記憶が戻ればいいのに…って知ってて知らんふりしているのは見え見えだが。

2月9日

今日は2024年2月9日。

昨夜、いや、正確に云うと7日の夜11時頃就寝して、8日になり、何故か1時半ごろ目が覚めた。

それはそれで良くあることだが、それから全く眠れなくなった。

そしてあんなにクリアーに眠れないと感じたことは珍しいかも。

考えてみたら、いや、想い出してみたら1982年のニュージャパンはその日だったのだ。

単にこじつけともいえるかもしれないし、一度眼が覚めてなかなか寝付けない、ということも無いことではない。

結局、再び少し眠ったのが5時過ぎだった。

以前にも書いたが、あれでバンドの運命が変わったことは否めない。

あれからしばらくの間は、どこに宿泊する時も避難経路や消火器の場所とか、念入りに確認したが、そんなことももう忘れている。

それに、いまだに喫煙室の或るホテルが存在することも不思議だ。

急に、あの眠れなかった、それもいつもとは少し違った感覚はなんだったのだろうか、ということを思い出してこんなことを書いてしまった。

信じるか信じないかはあなた次第…。

春節

このワードを聞くと思い出すことがいっぱいある。

レストランに居た頃、周りにチャイニーズ、ヴェトナミーズが多かったので、この時期には仕事終わりによく出かけたものだ。

春節のチャイナタウンはかなり賑わっていた。

屋台の夜店みたいなところでゲームをしたり、いろんなものを食べたり飲んだり。

定番の爆竹が鳴り響く中、みんなと歩き回った。

別な日にはハリーさんとハリーさんのご主人、何故か彼らの娘さんまで一緒になってレストランに出掛けて行ったり。

また、ヴェトナミーズの家族と一緒に訳の分からないままに春節を祝ったり。

あれは確かミセズ・ホートが家に招待してくれたのかな。

居候のマイクも居たし、子供たちは4人。

そのうちの一人はアメリカ兵とヴェトナム人の間に生まれた孤児。

確かジュリーと云う名前の、リンダ・ロンシュタットによく似た綺麗な子だった。

ミセズ・ホート曰く「この子を引き取ったのでボートに乗ってアメリカに来ることができた」そうだ。

まだ若い女の子だったが、ある日働いていたレストランでシェフが誤って肉のスライサーで指を落としてしまったらしい。

彼女は躊躇することなく落ちた指を拾い集め、すぐ病院に連れて行ったそうだ。

話が飛んでしまったが春節なんていう言葉はそんなことまで想い出させてしまう。

食事は見慣れないものばかりだったので、生春巻きくらいしか覚えていないが、日本のお正月のように豪華だった。

なんか、近所の人も来ていて10人くらいのヴェトナム人に囲まれて、ほとんど、いや、さっぱり何を言っているのか分からなかった。

ミセズ・ホートから「新年おめでとう」のヴェトナム語を教わったがすっかり忘れていた。

だが、ネットで調べたら、彼女のあの甲高い声がよみがえってきたので、さっぱり分からないはずなのに読めた。

これは試してみなくては、と思いスーパーのニャンちゃんのところへ行って読んでみた。

「わ!凄い」と云われてホッとしたが、この子達けっこう日本語喋るのだ。

あ~恥ずかしや。

春節でもうひとつ想い出すのは、あのコロナ禍が始まった時。

ちょうど春節の頃、そう僕の70歳バースデイコンサートの直後だったか、街から人々が消え、春節で移動してくる中国人が居なくなった。

明らかに街の様子が変わっていた。

それはそれで静かで良かったが、なんとなくあのチャイナタウンの喧騒、飛び交う爆発音(会話と爆竹)ヴェトナム語の響き…懐かしくもある。

レッド・ツェッペリン

昨夜、あまり点けないテレビを何気なく点けたら「お宝鑑定団」をやっていて、その中でとても面白いことに遭遇してしまった。

ある人が、レッド・ツェッペリンのサイン入りアルバムを出してきた。

特に興味があるわけではなかったが、どんなものだろうと思い、そのまま見ていた。

彼はまだ若かったので、彼曰く「僕の親父さんが彼らの来日時に彼らの宿泊先まで押し寄せていってもらったものらしいです」と。

そこで僕は身体を乗り出してしまった。

2017年に「ザ・ナターシャー・セブン最初のレコーディング」という記事を書いたが、その時のことが書かれている。

宿泊先はヒルトンホテル。録音は1971年の9月24日からのスタートだった。

多分、前日か前々日にホテル入りしていたと思われるが、ヒッピー然とした外人がウロウロしていた。

僕がロビーにいた時、周りを歩いていたのだが、その時の事。

以前のコラムで「まだそれほどのビッグネームではなかった日本では押し寄せるファンもいなかった」というような事を書いたが、わずかに一人か二人、明らかにアルバムにサインをしてもらっている日本人が居たのを記憶している。

そのことについては書かなかったが、彼の親父さんの話を聞いていて鮮明によみがえってきた。

確かにいた。彼らの処に駆け寄ってサインをもらっている人が。

僕自身、彼等のことを知らなかったのだから考えたら非常に残念なことをしたものだ。

なぜならばそのサイン、160万!という値段が付いたのだから。

光陰矢の如し

早いなぁ…明日でもう1年経つ?

シマエナガの日、というのを知ってから1年。

生きていればお前も74歳か、と、ついつい呟いてしまう。

でも教えてあげたい。

74になってもあんまり変わらないぞ、ということを。

もちろん、身体はしんどい部分があるけど、気持ちは、心はあまり変わらない。

まぁ人によって違うんだろうけど。

相変わらず甘いものが好きだ。

今年は何がいい?

やっぱり団子かな。

省悟の物凄く好きだったのは「亀山」だったかな。

水無月も。この辺は京都の人でないと分からないかもしれない。

よく二人で清水のかさぎ屋さんに行って、彼は必ず亀山。僕は汁粉だった。

まぁ、この辺で亀山は無理だし、水無月も季節ではないし、コンビニスイーツで我慢してもらおうか。

いや、一年に一回だ。なんか饅頭の美味しそうなものを探してきてあげよう。

1月16~17日 サウンドタム訪問

この日、ひたすら寒かった。

風はどこまでも冷たく、風花が舞ってこの上なく寒かった。

群馬とは何と寒い所だろうか、と僕が言うと、タムちゃんが「いや、今日は特別です」と言った。

ちょっとした打ち合わせでやってきたのですが、ひとつ大事なお知らせです。

少し前に発売になった「See You at Tam’s」がそろそろ完売になりそうです。

サウンドタムで繰り広げた各人、各グループの素晴らしい演奏が集結したアルバムです。

僕らも1曲メドレーをやっておりますが、やはりライブの緊張感と、素晴らしいサウンドエンジニアーとしてのタムちゃんの技術と心が入り混じった、僕としてはなかなか気に入ったものになっています。

他の方達の歌、演奏も素晴らしく、サウンドタムを訪れたことのない方にも、何度も訪れている方にもその臨場感が伝わってくる素晴らしいアルバムだと思います。

僕の一押し。ご注文は、お早い目にこちらへお願いします

https://soundtam.jp/live-cd.html

これは決して宣伝ではありません…ってか、宣伝か…。

寒い!

僕は比較的寒さには強い方だが、やっぱり歳だろうか、少しは寒さが身に沁みるようになってきた。

それでも何故か、今年はまだストーブをつけていない。

勿論、節約もあるが、それなりに着込んでいれば何とかなるし、時々温かいものでも飲んだりしていたら何とかなる。

それでも、いままででこれは我慢できない!と思った寒さはどんな時だっただろう。

想い出すに、2003年初頭のニューヨークだったかもしれない。

摩天楼を歩いていた時、これは死ぬかもしれない、と思ったことがある。

いや、普通に皮のジャンパーを着ていたと思う。中はアロハだったかもしれないが…。

そこで目の前に見えてきた1ドルショップに飛び込んだ。

そして帽子とマフラーと手袋を買った。

勿体ないけど3ドルなら死ぬよりましか、と思いながら…。

本当に寒かった。

その昔、初めてのナターシャー北海道ツアーに出掛けた時の事。確か9月の終わりころ?

いや、記録によると72年の11月後半に初めて北海道に出掛けているようだ。

その時、僕は薄手のウインドブレーカーを着ていたら、髙石さんが「あなた、そんな格好じゃ死にますよ」と言ったのを覚えている。

結果、そんなにもまだ寒くはなかったが。

パディ・キーナンと二人でカナダのカルガリーに出掛けた時も雪が降っていて結構寒かったし、ミネソタも寒かった。

ミネソタでは道端で犬の糞が凍っている、という漫談を聴いたことがあるが(前にも書いたかな)アメリカでも最も寒いところだ、と云われている。

しかしながら摩天楼のあの寒さに匹敵するものは今までになかったかもしれない。

日本ではこれ、夏になったら40℃とかが当たり前になってきて、冬にはマイナスになるってすごい温度差。まるで国民と議員の金銭感覚くらいに違う。

最近では、あきれてしまってもう何か言うのもバカバカしい、バカは放っておくしかない、と思えるような裏金問題。

被災地では人々が大変な思いをしているのに、今までの裏金はもう使ってしまったんだろうからあいつらの預金を全部引き出して被災地の為に使えないだろうか?なんて現実味の無いことを考えてしまう。

しかし、そうでもして奴らに懐の寒さを、あの摩天楼の寒さと同じように味あわせてみたいものだ。

寒い、という話からまたとんでもないところに結論がいってしまった。

急に想い出した

最近、近所のスーパーで働いているベトナム人のニャンちゃんとよく話をする。

ほとんど毎日のように8時から夕方の5時まで働いているようだ。

その子と話をしていてなんだか急にマイクを想い出した。

そして、久々に「アー・ユー・オープン?」を読んでみた。

彼とは10年近く朝から晩まで一緒に働いたものだ。

喧嘩もしたし、飲みにも行ったし、ベトナムの旧正月に招待されて、訳の分からないままに大勢の家族(本当の家族では無いが)に囲まれていろんなものを食べさせてもらった。

2人ともまだ若かったし、といえども、マイクに関しては推定年齢でしかないが。

とに角前にも書いたようにとんでもない、想像を絶する人生を歩んで来たことは確かだ。

戦争当時、僕らは散々恩恵を授かりながら反戦歌を呑気に歌っていた。

毎日の彼等との付き合いからはそんなことを感じざるを得なかった。

ベトナムとは関係ないが、89年に天安門事件が起こり90年に入ってからアメリカで制作されたテレビドラマが放映されていた。

天安門で軍に抵抗した若い兄弟がアメリカに渡る話で、兄は真面目に仕事をしながら、天安門の事を世界に知ってもらおうとしていた。

弟の方はマフィア(多分中国系)の一員となり、最後には兄を追い詰める。

天安門事件を境に仲の良かった兄弟が壮絶な最期を遂げる、というようなストーリーだった。

連続ドラマだったので僕は毎週食い入るように観てしまっていた。明らかに傍観者だ。

ベトナム戦争しかり。

マイクだけでなく僕の周りでは多くのベトナム人がボートピープルだった。

その壮絶な体験は筆舌に尽くしがたいものがある。

ニャンちゃんはまだ推定20代後半。おそらく両親は子供の頃戦争に巻き込まれただろうか。

いやいや、両親も戦後の生まれかもしれない。チャンスがあったら一度訊いてみようかな。

それにしても、なんと愚かな人間が世の中に存在しているんだろうか。

いまだに眼の色を変えて戦争、戦争と躍起になって破壊、殺戮を繰り返すバカが世界中至る所に居る。

人間が居る以上これは無くならない事だろうな。

なんかニャンちゃんから、マイク、そして天安門事件まで想い出してしまった。

暗くなってきたので面白い話を。

マイクは誰から教わったのか「気持ちの良いことしよう」なんていう日本語だけ知っていた。

ある時、日本町を歩いていたらある看板が目に入ったが、そこにはこう書かれてあった。

Kimochi Home マイクは鼻息を荒げて「ジュンジさん、あれ、なにをするところ?」

僕はあきれて答えた「アホかお前!あれは老人のケアーセンターだ」

誕生日

この歳での誕生日というものは、一歩一歩終わりに近づいている、という事実に気づかされる。

先日、誕生日とは関係なく、クリスマスでキアラン、お兄ちゃんのデクラン夫妻と子供、

あとデクランの仕事仲間のご夫妻とで、後楽園の辺りのイタリアンレストランで集まった。

折しもSexy Zoneかなんかのコンサートが有ったらしく、若い女の子がわんさと押し寄せていたが、場所がよく分からず、ウロウロしている姿はちょっとばかり怪しいおじさんに見えたかもしれない。

やっとの思いでレストランを見つけるとキアランが立っていた。ふたりで「分かりにくい場所だったなぁ」と話したがデクランは「すぐ見つかりますよ」と言っていた。さすがアイルランド人。

そのさすがアイルランド人だが、レストランに入ると赤ワインを立て続けに3本オーダーした。デクランの奥さんはポーランド人なのでそこそこ飲む。

日本人ご夫妻はそんなに飲まない。僕も。

多分2本はキアランとデクランで飲んだだろう。

そのワインだが、ここでも流石ヨーロッパ人と言う出来事があった。

赤ワインがキンキンに冷えているので、彼等が、これ、こんなに冷やしたら駄目だし、ちょっとあたためてくれる?と訊くと、意味が分からない様子で「そのようなサービスはいたしておりません」ときたもんだ。

トニー・マクマホンなら間違いなく店を後にするだろう。

ところで、僕もまぁまぁ飲んだかな。

レストランを出るとデクランの息子(8歳くらいかな)が得意な「太鼓の達人」をやって帰るというが、僕は先に失礼した。

そこで、僕は結構危険なことをしてしまった。

家に着くと急に寒くなって、あまり入らないバスタブに熱いお湯を半分くらい溜めたが、その間にも身体が硬直したままガタガタと震えている。

やっとの思いで入り、かなり熱いお湯だったが、中でもガタガタ震えていた。

これ、良くないんじゃないかな、と思いつつも、中で10分位寝てしまったようだ。

このまま逝ってしまったら素っ裸だしマズいなぁと思っていたことは確かだが。

その次の日はそれでも朝9時から2時間くらいウォーキングをした。

昔からそうだが、調子が悪いと必ず御所の周りを2周位したものだ。寝ていたらどんどん悪くなるような気がするので、無理の無い範囲で身体を動かすようにしている。

今日は二日酔いから二日たったが、身体が痛い。ガタガタ震えた時、相当力が入っていたんだろうなぁ。ま、少し風邪気味かな。

その上、後楽園で若い女の子をいっぱい見て血圧が上がったかな…。

20年

2023年。12月がまたやって来た。

大学の時から、考えてみるに18歳からの親友、省悟が亡くなってもう20年が過ぎる。

美空ひばりも石原裕次郎も大体同じくらいの歳で亡くなっている。

省ちゃん、どちらも好きだったなぁ。

10年ひと昔、と言うけど、もうふた昔だ。

考えてみれば僕とは正反対といってもいいくらいの性格の違いがあった。

唯一の共通点は音楽のセンスだったかもしれない。

音楽という全体像ではなく、そこにある「センス」というところだ。

ひとつの音、コード、リズムを聴いて、これだ!と感じるような感覚。

こればかりは生まれつき、というところに左右されるのかも知れないが、これが本当に大切なことだと感じる。

いくら気が合っても、いくら同じタイプの音楽を好んでいても、えも言われんセンスと言うものが合致しないとなかなか難しいものがある。

音楽では本当に大切だが、最近、息子がこう言っていた。

「省ちゃんはいつもびしっと決めたファッションだったけど、親父は適当だったなぁ」

小さい時からよく見ていたもんだ。

本当にあらゆる面で違っていた、ともいえる二人だった。

ホテルの朝食はいつも和食だった彼。僕は洋食。

服屋、靴屋には必ず入っていく彼。僕は外で待つ。

虫歯だらけだった彼。歯医者に行ったことがない僕。

髪の毛が薄くなってきた、と悩んだ彼。髪の毛が多すぎて困る、と言った僕。

「いやなやっちゃなぁ!」とよく言っていた。

それでも、二人の共通点は甘いもの好き、かな…いや、そこでも和ものが省ちゃん、洋ものが僕だったか。

煎餅が好きだった省ちゃん「バリバリっと硬い煎餅食べたいなぁ」とよく言っていた。

ケーキだったら柔らかいのに。

今でこそ、僕も饅頭は大好きだけど、あの頃は饅頭の省ちゃん、ケーキの僕だった。

「お前、そんなにケーキが好きだったらケーキ屋になったら?毎日お店のケーキ食べて、今月はけーき(景気)が悪いで!ってなことになるで」なんて言っていた。

僕がダメで彼が好きなものってあったかなぁ。

基本的に僕にはダメなものがあまりない。省ちゃん、エビとか蟹、怖がったなぁ。

それとコンニャク。「味せんやろ」と言っていたが確かに一理あるかも。

あ、そういえば僕は若い時、そば屋さんの出汁の匂いが苦手だった。省ちゃんが「お前、変わったやっちゃなぁ。このええ匂い分からんか?」と言っていたなぁ。

そんな事をしょっちゅう想い出すが、僕もそろそろ終活に入らねば、と最近つくづく考えるようになった。唐突かもしれないが彼よりも20年も余計に生きているので。

健康状態は至って良好だが、これをキープしていくことを考えなければいけない。

また、息子との会話だが、彼ももう45歳。少しはそういう話を…というか、トレーナーである彼にとって、高齢者の顧客も多いせいか、如何に健康体を保ったまま最期を迎えるか、という話に於いても少しは真剣に語り合えるようになってきた。

ついでに死後の世界は僕には分からないが、そんなものが存在するかどうか疑問である。

しかし、彼は「そうでもないらしい。あるみたいよ」と言う。

前に書いたが、彼の友人のモン族の人からの言い伝えだが、僕ら凡人は、何とでも云える、と思ってしまう。

しかし、どうやら、会ったこともない故人の容姿から服装まで全て見えてしまうらしい。そこにいる、と明言する相手は息子の古くからの知り合いで5年ほど前に亡くなった知る由もないはずの人だというが。

過去500年の生まれ変わりも分かるという。

そこら辺はどこまで信用していいのか分からないけど、かなりの信ぴょう性がありそうだ、とも言っていた。

信じるか信じないかはあなた次第、の世界かな。

だとしたら省ちゃん、どうしているだろう。

まだ歯医者さんに行っているかなぁ。それか、もうバリバリと煎餅を食べているかも。

さて、世界情勢に眼を向けてみると…まるで救いようのない世の中になってきた。

いつも想い出してしまうのが「アメイジング・グレイス&チャック」だ。

今、大谷が「世界が平和になるまで野球はや~めた!」と言い、トラウトもジャッジもやめて、レブロン・ジェイムスも八村も…あの悪名高きバッハも、平和のための祭典だからや~めた!と言い、KポップもJポップも、テイラー・スウィフトもみんな何もしなくなったらどうなるんだろう。

温暖化対策なんかも取沙汰されているが、いくら頑張ってもあっちこっちで爆弾なんか落としたり、ミサイルをアホみたいに打ち上げたりしていたら、それだけでも無意味だろう。

そんな事を考えている間に、今年も終わってしまい、また変わり映えのしない一年がやって来るだろう。

ある意味大きく変わらない、というのは平和な事ではあるが、もういい加減、大食いとかいうのはみっともないから止めた方がいい、と思う。少なくとも世界が平和になり、ちゃんと子供たちに食糧が行きわたるようになるまで。

政治家は相変わらず金に眼がくらんで、挙句の果てに白々しい嘘をつくか、なにも言わないか…そりゃ「はい。やりました」なんて言うわけがない。

やっぱり「嘘つきは泥棒の始まり」ではなく「嘘つきは政治家の始まり」だ。

そんな中、最近のニュースで嬉しかったのは周庭さんがカナダに居る、という事。良かった、良かった。

結局、何をやってもどれだけ頑張っても、どれだけ自分を犠牲にしてもバカには通じない、という事だろうか。

良かった、と喜んでばかりはいられないが、とに角、周庭さんの安全と幸せを祈るだけだ。少なくともそれくらいしか僕らに出来ることはない。何とか無事に生活できるようになる方法はないのだろうか。

世界中、こんなところに産まれさえしなければ、と思える場所が至る所にあるように見えるが、それって単なる運だろうか…。

忙しくもないのに、何となく心情だけは忙しいような気がする12月。

母を失ったのも12月。省ちゃんも12月。そして僕が産まれたのも12月。ありゃ、周庭さんも12月生まれだ…関係ないか。そんなこと言えば高石さんだって12月。

自分のことを思うと、来年は生きているだろうか?なんて、段々そんな事を考えるような歳にもなってきた。

それでもまだまだ健康ではあるので、このままの状態で最期を迎えられたらいいかな?と思っている今日この頃。

あまり長生きはしたくないのも事実。

ところで、お気に入りのGold Tone12インチのバンジョーはかなり優れもの。

これが出てきてからは重いバンジョーはケースの中で眠ったまま、という困った状況だ。

久々に重いギブソンを引っ張り出してみたけど、音もでかいし、重いのでどうしても軽いものに手が行ってしまう。

それでも満足する音なので、時代は変わったなぁとつくづく感じる。

軽いバンジョー、省ちゃんに見せてあげたいけど、あいつ金が好きだし、これで金色のものがあったら…なんて言うだろうか。値段上がるでぇ。

いろいろ想い出したり考えたりしているうちに12月も走り去ってゆく。

そして、また1年、また1年…20年もあっという間かな。

イスラエル

アメリカにいた頃、お隣さんがオーソドックスジュ―、いわゆるかなり敬けんなユダヤ教の家族だった。

親しくしていてお互いの家にも行き来があったが、その生活パターンの違いには驚かされたものだ。

土日は安息日。郵便が来ても決して開かない。

外食は一切なし。今日、美味しいものが有るけど一緒にどう?と言うと「匂いだけかがせてね」と言って玄関先でそれだけで満足して帰って行った。

コンサートなどにも決して行かない。

よく、僕が練習していると、嬉しそうに聴いていて、聞こえてくるものは決して拒否しないけれど、自分から出かけて聴きに行くことは無い、と言っていた。

ご主人はフォトグラファーで、僕がアメリカでリリースしたアルバム「サリー・ガーデンズ」のジャケット写真、それとバンジョーアルバムのライナーノーツの「Tree of Israel」というのも彼の作品。

彼のお葬式は僕にとって初めてのユダヤ教のもの。棺に土もかけた。もう何年も前のことだ。

今回の事が勃発した直後、彼の奥さんからの話を聞いた。

アメリカに住む多くのユダヤ人は歳取るとイスラエルに帰るらしい。その辺は日本人にも共通したところがあるのかもしれない。

彼女も今はイスラエルに住んでいるらしい。確か娘さんがいたよね。どうしてる?と訊くと、もう5人も子供がいる、と言うから驚きだ。

僕が知っていた頃は15~16歳くらいだったかな。そして彼らもイスラエルに住んでいる。そして、ご主人は兵役に取られたが、情報収集の部署なので今のところ前線には行っていないそうだ。

もう一人の友人の息子は兵隊として出向いていたが、5人ずつのグループに分けられて前線に送られるそうだ。

彼はちょうど期間的な理由でイスラエルに戻って来たらしいが、その直後、彼の5人のグループ、多分一人補充されたのかもしれないが、彼らが前線に送られたらしい。

そして全員がすでに戦死。いったい何を言ったらいいのだろう。

余りにも長い歴史の、僕らには理解できない世界の事なので何も言う事が出来ないが、本当に無駄なことだし、世の中の指導者たちは本物のバカだな、と思うしかない。

他に考えなくてはならないことがあるだろうに。

彼女の話を聞いて、本当に心が痛んだ。どちらが悪いのかもよく分からない。でも、彼女は言っていた「首を切られても手足を切られてもユダヤ人は屈することはない。ユダヤ人は強い!」

もしかしたら「それでも神風は吹く」というのと変わりないのかも。そしてイスラム社会はまた別な強さも持っているのだろう。

どちらにせよ、それらの精神を,、強さを何とか地球存続のために活用してほしいものだ。

Al Petteway

日本では知る人ぞ知る、と言うギタリスト、アル・ペタウェイ(日本語表記が分かりません)が9月25日に亡くなったという記事を見かけました。

この人、僕にとっては結構縁の深い人でした。

長年会っていなかったのですが、1984年、ワシントンDCに滞在していた時によく一緒に演奏していました。

当時は大塚章さんのお宅でお世話になったのですが、彼等のバンドがGrazz Matazz という、ブルーグラ スジャズのようなバンド。

そのギタリスト兼ヴォーカルがアルだったのです。

なのでアルの家にも宿泊して夜通しジャムを繰り返していたこともありました。

バンドのヴォーカルのパティさん、フィドラーのマイクも交えていろんなジャンルの曲を一緒に練習しました。

マイクは海兵隊員の特権、海兵隊割引でステーキを買ってきてくれたり…それはとてつもなく大きく、バンド全員がお腹いっぱいになるくらいの肉でした。

日本円で300~400円くらいだった記憶がありますが、何せ昔のことで。

初めてそのままの形の豚が串に刺されて火にあぶられてクルクル回っているのを見たのもワシントンDCで…あれ、これは他の人のパーティだったかな。

とに角アル達とはよくステージでも演奏しました。

セルダム・シーンの本拠地としても有名なバーチメアで。       

当時の彼はスタンダ―ドチューニングで独特なフラットピッキングを演奏していたと記憶しています。

かなりジャジーなスタイルだったと思います。         

ここ最近、10年ほど前にひょんなことから彼の映像を見つけたら、DADGADでのものが非常に多く「へぇ~」と思っていました。

2~3回メールでやり取りしたような記憶もありますが、これもこの10年ほどの間。
なんだか色んな人と出会い、再会し、色んなところに行って、よく覚えていないのですが 、彼の落ち着いた優しい眼はよく覚えています。

それに、とてもツボを得た気持ちのいいギタープレイも。

すみません。記憶も定かでないのにこんなところに書いてしまって。

でも、1984年、アメリカ大陸を横断した時、最もよく一緒に演奏した仲間の一人でした。

またしても時の流れを感じてしまいました。

デヴィッド・マッカラム

この名前を見てピンとくる人も少ないだろう。

ならば、イリヤ・クリヤキンではどうだろうか。

つい先日彼が亡くなったという記事を読んだ。

僕らの世代には有名だった「ナポレオン・ソロ」というテレビ番組。0011だったかな?

主演はロバート・ヴォ―ン。共演がデヴィッド・マッカラムだった。その彼の役名だ。

でも、どちらかと言えば彼の俳優としての名前よりも、イリヤ・クリヤキンの方が僕らにははまった名前だった。

それくらいに彼にとっては「はまり役」であった…らしい。

僕らはよく「恐れ入りました」と云う時「おそれイリヤのクリヤキン」と言っていたものだ。

ま、これもほとんど僕と省悟との間だけだったかも。

恐れ入谷の鬼子母神、と言うのが一般的なようだが。

とに角僕らの世代にはとても馴染み深かった名優がまたひとり消えてしまった。

90歳だったということ。

そんなに時が経ったんだなぁ…。

East West Fiddles

2022年にアイルランドで録音したアルバム。もうじき日本でも発売になります。

メンバーは僕と希花に加えて珠玉のミュージシャン二人。

マナス・マグワイアーは元医師。現在は退職していますが、現役中から様々な音楽シーンで活躍。僕も2012年にリムリックで初めて彼の演奏に接した時、興奮して「あ、マナス・マグワイアーだ!」と思わず叫んでしまったことがあります。

Buttons & Bows, Moving Cloud はアイルランドでもベストバンドのひとつです。

一方、マンドラとギターを巧みに操るギャリー・オブリエンもベテラン中のベテラン。

僕は90年代にサンフランシスコで会っていますが、その頃から素晴らしいミュージシャンであることを認識しておりました。

古いジャズなどにも精通している彼の渋いプレイとボーカルは一聴の価値があります。

こちらもSkylark, Buttons &Bowsを始め、多くのバンドで活躍してきた人です。

希花はノエル・ヒルをして「最もアイリッシュ・フィーリング溢れる、アイルランド人以外のアイリッシュ・フィドラー」と言わしめています。

このコラボによるツイン・フィドルをどうかお楽しみください。

そしてそこに絡まるギャリーと僕の同世代、円熟味溢れる音にも注目してください。

発売に関しては、近くご案内します。

なお、日本発売は数に限りがあるので、売り切れごめんという事でよろしくお願い致します。

夢グループからの発売は考えておりません。

帰ってきました

帰ってきて早速、ザ・ニッポンという出来事に遭遇。

オーバーサイズで預けた荷物が、航空会社によってそれ専用の処から出てきたり、また、そうでない場合もある。

手荷物係りの、見た感じスリランカ人の男性職員が、ちょっとたどたどしい日本語だったけど親切に説明してくれた。

そこに通りかかった日本人の女性職員がこれまた親切に対応してくれた。

その係りではなく偶然通りかかっただけなのに。

これには恐れイリヤのクリアキンだ。

さて、到着が成田。荷物も多いし、重いし、羽田までバス、と考えチケットをゲットしに行った。

デイパックから財布を出そうと、背中に背負っていた12キロのバックパックを、降ろせばよかったのだがそのまましゃがみこんだら、見事にその重さに引っ張られ、転がってしまった。

亀さんのように、だ。

その時、後ろにも列ができていた。

ここがザ・ニッポンだ。誰一人動かないで見ている。

これアイルランドだったら小学生の男の子でも駆けつけて声をかけるだろう。

流石に日本人。他人に関わるのを極端に避けているようだ。

苦労して起き上がり、カウンターに行って無事チケットを購入。

乗り場の説明を受け、ぐるっと回った所に12番と云うのが有ります。すぐそこです、と言う感じだった。

ところが、すぐそこではなかった。

アイルランドを出た時には12℃、ここは今日はそれでも30℃くらいだろうが、物凄く遠かった。

ちょっと一言、その荷物だとカート使った方が良いかも、とか結構遠いですよ、とか言って欲しかったなぁ。マニュアルには無いんだろうなぁ、そう言う事。

さて、バス乗り場に這う這うの体で着いたら、一組、見るからにアメリカ人のどでかい身体の夫婦がベビーカーとスーツケースで並んでいた。

その後ろに並ぶと係りの若い男の子が現れ、アメリカ人夫婦に対応。

荷物を一旦列から外し、積み込むためのスペースに置いた。

僕の処に来て、手続きを済ませたので「この荷物あっちに置いた方が良い?」と尋ねると「あ、あとでこちらがやります」と言った。

さて、荷物はまだ僕の足元にあるが、もう乗車の時間だ。

このままでは後ろに並んでいる人たちに迷惑だろう、と思い、仕方なしに僕が積み込みスペースまで運んだ。

そして一言「君、あとでやるって言ってたよね。でもやらなかったから俺がやったよ」と言うと、その応えは「はぁ」だった。

彼、特別仕事が出来ないわけではないだろう。

しかし、なんかボーっとしているのだ。

日本の若者に多いタイプ。

仕事はそこそこ普通に、そつなくこなすが、どこか覇気がなく、ボーっとしているのだ。

やっぱり、戻ってくるとみんなが幸せそうに見えない。

ニュースで総理大臣が「女性ならではの…」と言ったことに批判が、とか言っていたが、僕の感じでは、これ批判するような事か?

一般的に見て、男性に向いている事柄もあれば女性に向いている事柄もあるのは当然だ、と思うが。批判されるだろうか…。

これで差別意識がある、とか言って噛みついてる方が差別意識の塊のような気がする。

僕も今の総理大臣は嫌いだ。聞く耳とか言うのはどこに行った!とほとんどのケース、突っ込みどころ満載だが、これに関しては別にそう言ってもいいんじゃないかな、と思った。

しょうもないことに反応してSNSとか訳の分からない場所で匿名を使って批判なんかしているから、普段の仕事でボーっとしてしまうんではないか、なんて思ってしまうが、あんまり関係ないか。

取りあえず、また眠れません。

変な時間に眼が覚め、変な時間に眠たくなり、少しでも動くと汗がにじみ出てくる。

それでも一番暑い盛りは経験しなかったんだなぁ。

文句言ってる場合じゃないか。

2023年アイルランドの旅 補足

もう少しで日本。

何気なく見ていたニュース。

大阪の選挙区で、ある党の候補者のポスターだけ残して、後は見えないようにした議員。

単純に考えて、とうとうここまで落ちてしまったのか、と、もう既に修正不可能なその頭の中身にただただ驚くばかり。

大あくびして居眠りする奴。公金をちょろまかす奴。偉そうにふんぞり返る奴。

もういらねぇんじゃね、と思うが注意されるだけで終わってしまう。

電動キックボードの事故もあった。

ジャニーズ問題もあったし、処理水の問題も…なんかオイシそうに食べてたけど、一回食べただけでニュースにしたところで…と思ってしまう。

僕は、とりあえずそろそろ魚が食べたい。

肉の安さから、というか魚の値段とクオリティからどうしても食べるとしたら、フィッシュアンドチップスになってしまう。

帰ったら「東京一美味しい本場の味」というのでも…いやいや、要らんなぁ。

また人々の顔の輝きが違って見えるんだろうなぁ。

良いのか悪いのか分からないけど、力いっぱい一生懸命働いて、必要以上にお金を貯めるでもなく、仲間と話をしながら陽気に飲む。

週末は朝から晩まで飲む。音楽を楽しむ。アウトドアを楽しむ。日曜大工を楽しむ。

もちろん、そういう人ばかりではないが、それぞれが幸せそうに見える。

道を歩いていてすれ違っただけで、軽く会釈をし、ドアは開けたら必ず後ろに人が来ないか確認する。

どんなに遅くまで飲み明かしても道端で吐く奴なんていない。たまに寝ている奴はいるけど。

日本に帰ったらまだマスクしないと非国民かなぁ。

いや、そう考える自分が悪いのかも。僕も日本人だなぁ。

でもなんとなく迷惑だったらマスクしてもいいかも。他人に迷惑かけてまでも自分の主張は押し通したくないので。

いろいろ面倒くさいなぁ。まぁ、どこの国に居てもそれなりに面倒くさいこともある。

総理大臣もそろそろ「貧乏人はかすみでも喰っておけ」と…いや、もうそう言っているようなもんか。

かすみ、か…どこで売っているんだろう。霞が関?なら結構高いぞ…?

霞ヶ浦? あー、いかん。予科練の歌を想い出してしまった。

2023年アイルランドの旅 40

いよいよEast West Fiddlesのツアーも終わりを迎えて、日本が近づいてきた。

どこのコンサートもサウンドエンジニアが素晴らしく、音に関してはなんのストレスも感じることがない。

僕らのサウンドもかなり決まってきたように感じるし、お客さんの反応もかなりいい。

主催してくれる人たちのリスペクトも素晴らしく、みんながこの音楽に慣れ親しんで、どこまでもサポートしていこうと考えているのがよくわかる。

そうしてみると本当にこの音楽ってこの人たちのものなんだな、受け継がれている文化なんだな、ということを実感してしまう。

そこに異文化を紹介することも大事。

但し、本当に僕らは、いや少なくとも僕は日本の何を知っているんだろう、と思ってしまう。

戦後間もなくの生まれで、ほとんどが西洋化されたもので育ってきたし、日本の古来の音楽についても良く知らない。

その方面の学者になるよりは、やっぱり西洋音楽に慣れ親しんで、それを演奏することに喜びを感じてしまった。

子供のころの音楽の授業ってなんのためだったんだろうな、と、つくずく考えてしまう。

音楽を楽しむのではなく、こんな作曲家が居ました、こんなひとも居ました、こんな曲があります、という学問とも言えないその程度のものだったんじゃないかな。

これは正に日本の教育に関する事だと思うので、あんまり適当なことは言えないが。

昔から何かにつけ、決められた方法で決められた事を学ぶ、という感じがせんでもない。

日本人の多くが自由と身勝手の違いが分からないようになっているのは、戦後の歪んだ教育制度にも多少影響されているんではないか、とも思ってしまう。

いやいや、こんなことは僕ごときが言うことでもないか。

とにかくあと数日で日本だ。

食べ物はおいしいだろうなぁ。

また地震に怯えなくちゃならないのかなぁ。

いつになったらすずしくなるんだろうなぁ。

いろいろ考えてしまうが、とりあえず今回の旅のレポートはここで終わり。

途中、コロナで途切れたが、2011年から続いてきたアイルランドの旅、その間、アイルランドの、少なくとも景色は全然と言っていいほど変わっていなかった。

音楽は新旧交じってさらに盛んになっているように見えるけど、そこもあまり変わっていないのかも。ずっと長きにわたって、その素晴らしさを世界中に発信してきていることも確かだ。。

今回、ダブリンのSeamus Ennis Arts Centreで演奏できたことはとても有意義なことだった。

アイリッシュミュージックの代名詞ともいえる人物の名前を冠した会場。

小さなコテージのような作りで、レストランもあり、極上の食事も楽しめる(僕はアイルランドに於いて、かなり美味しい所だと思った)スタッフもとてもフレンドリー。

ここで演奏するEaster Snowは格別なものであった。

マナス・マグワイヤー、アイルランドを代表するスライゴースタイルのフィドラー、そしてギャリー・オブリエン、数々のグループを経て今なお活躍する、僕が思うに最も渋い音楽家の一人。

そんな二人との共演アルバムは、近々日本でも販売のご案内をさせていただきます。

どうか楽しみに待っていてください。

2023年アイルランドの旅 39

店頭に芽キャベツが並び始めた。

大きな粒が20個ほど入って日本円で200円ほど。まだ旬ではないせいか、少し高め。

日本ではあんまり食べる人いないから高いんだろうけど、8個で300円などという東京、なかなか買おうと思わない。しかしここではついつい手が出てしまう。

ここの食材の安さに慣れてしまうと、日本のチマチマした量でそこそこの値段をみて、また手が出なくなってしまうだろう。

しばらくは豆腐、納豆、モヤシくらいが主食になるかな。

厚揚げなんかも買っておくとけっこう便利かもしれない。

焼いてしょうが醬油だけで食べても「あ~、日本人で良かった」などと思ってしまう。

基本的にはパンやミュースリなどは大好きだが、やっぱり醤油味には敵わない。

だんだん、そんな味が懐かしくなってきた。

もうしばらくじゃがいもはいいかな?

ビールもいいかな、と思いつつ日本の天気を見ると、なに!34℃?体感42℃?おいおい、ふざけるなよ。やっぱりビールじゃないか!

ということになってしまうだろう。

今年はビールが売れただろうなぁ。暑すぎて蚊も飛べなかった、という話も聞いた。

海水浴も暑すぎて、浜辺の砂で足の裏火傷とか。

犬とか猫とか、かわいそう。

もちろん人間もかわいそう。

僕が帰る頃にもまだ30℃以上の日が続くようだし、気を引き締めて帰らなくては。

昨日はユジーンが、知り合いの漁師さんから大量のムール貝をゲットしてきたので、彼らの家で大ムール貝パーティ。

多分、一生分のムール貝をいただきました。

ムール貝とビールで早くから爆睡していたところにノエルが戻ってきた音がしたので、しばし、川のせせらぎを聴きながら歓談。

街ゆく若者たちが陽気に歌いながら次のパブへと橋を渡って行く。

彼らの歌っていたのはI’ll Tell Me Maだった。

涼しい海風、若者たちの幸せそうな歌声、川のせせらぎ、緑一杯の庭でノエルはビール、僕は冷たい水。

そして爆睡の続き…Zzzz……。

2023年アイルランドの旅 38

今日はもう9月3日。あと10日程で帰国だ。

ジモピーのあゆ子さんが連絡をくれたので、いろいろ連れて行ってもらうことにした。

天気もまずまず。雨は降る様子もない。

先ず、選んだのはCoole Park ここには以前ジョニー・リンゴと来たことがあったが、うっそうとした森と広い芝生、湖もあって大好きだった素晴らしい国立公園。

有名なAutograph Tree の有る所。

しばし森林浴を楽しんで、この周りをドライブ。

バレン高原は石灰石の山が広がる、とても有名な観光スポットでもある。カルスト地形というのかな。

途中Temple Cronanという誰も行かないような12世紀の教会跡に寄った。

ここ、本当に入っていいの?と思えるところを牛の糞に気を付けながら進むと、朽ち果てた小さな教会にたどり着く。

多分来る人もほとんど居ないだろう。その証拠に人の糞は落ちていない…なんじゃそりゃ。

その後、今度はCorcomroe Abby という所へ向かった。

ここは比較的有名らしく、何台かの車も止まっていて数人の旅人たちも見受けられた。

いろんな人のお墓、古くは1500何年とか、もうすでに読み取ることもできないくらい古いものもあるが、比較的新しいものもある。

Abbyというからにはもともと修道院だったのだろう。

ここはそこそこの大きさがあり、中をゆっくり歩いていたら、ふと目に入った墓石があった。Droneyという名前。

「うん?もしかして、もしかすると」と思い、よく見ると墓石にコンサーティナが書き込まれているではないか。Chris Droneyのお墓だ。

East Clareコンサーティナの大御所Chris Droneyではないか!

2020年の9月9日に95歳で亡くなっている。

彼のアルバムDown From Bell Harbourはとても好きなアルバムだ。

ここは僕も全く知らなかったところで、あゆ子さんが行ってみたいところの一つ、ということで付いていったのだが、僕にとっての思わぬ偶然の大感激に彼女もとても喜んでくれた。

まだまだ知らないところに多くの先人が眠っている。

そんなことを感じた、ここに呼び寄せてくれたChris Droneyとあゆ子さんに大感謝の一日となった。

2023年アイルランドの旅 37

こちらのいい天気の日は、これだったら外でいっぱいやりたくなって当然だな、とおもわせるような気候。

空気は澄んでいるし、夏でも気温は20℃前後,後、になることはほとんどないけど、昼の日差しは日向に居れば少し暑いかな、と思う程度。

日本の秋のめちゃくちゃいい天気の日といった感じ。

またこちらの悪い天気の日では、寂し気な雨がしとしとと降る、これまた家で飲んでいたら憂鬱になってしまうので、外へ行ってみんなと飲みたくなるような気候。

これやっぱり酒飲みにはたまらない国だろうな。お金も溜まらないだろうな。

昨日、近場のパブでギネスを一杯のんでいたら、お店の姉ちゃんが「これ余ったからあげる」といってもう一杯持ってきた。

普通、一杯で十分だが、もらっておいて悪いので飲み干したら完全に酔ってしまった。

外はまだ明るい8時頃。

戻ってきてそのまま爆睡してしまった。

ユジーンに訊いてみた。どれくらいで「飲んだ!」といえるのか、と。

するとキアランと同じ答えが返ってきた。8パイントだそうだ。

500mlの缶ビール大体8~9本?無理!

僕は1本で十分。してみると2パイントではやっぱり酔うわけだ。

しかし、不経済な連中だ。

アイルランド人の数に対する答えで面白いのがかならず「2ミニッツ」という答えだ。

それ言われた時には、あーこいつどれくらいかかるか分からないんだな、と思って間違いない。

してみると8パイントと答えるのは6,7,8,9,10くらいの感じなんだろう。

そんなに適当なのにほぼ廃屋と言えるものを、全部自分で電気、ガス、水道も壁をぶち抜いて通して立派な家にしてしまうんだから驚きだ。

いろんな事柄が適当なアイルランド人。

飛行機がどえらい遅れでカウンターに行って訊いても「あたしのせいじゃないわよ」というアイルランド人。1分でも電車が遅れると「まことに申し訳ありません」とアナウンスが流れることが当たり前だと思っている日本人。

どんなにレジで人が並んでいようが、一向にお構いなしに世間話に興じる店員。

二人ほど並んでいると、どこからともなくサッとあらわれる日本のコンビニ店員。

一長一短あるだろうが、お国違えば…というところを毎日のように感じる。 

2023年アイルランドの旅 36

1979年の9月2日に省ちゃんとロンドンデリー・エアーを録音した。

何故そんなことを急に言うかというと、またしても小林氏から「44年前」という珍しい記事が送られてきたからだ。

ナターシャーファン歴30年という(ほとんど産まれてすぐ聴かされた)…ちょっと待てよ。

30年前はほとんど僕がアンドリューと出会ってこの音楽に没頭し始めたころではないか。

とにかくそんな彼は僕よりも歌詞は良く知っているし、歴史にも詳しい。

送られてきたのは、シングル文庫のライナー。

ライ・クーダー大好きだった僕がレニー・カールソンとのアルバムを見つけて「こんなんしよう!」と省ちゃんに詰め寄って無理やり録音したものだ。

チェット・アトキンスのアレンジも好きだったが、特にFirst Nashville Guitar Quartetに於けるアレンジが相当好きだった。

そのアルバムは1979年。レニー・カールソンのものは1978年だったらしい。

チェットの演奏はかなりまっとうにツボを得たものだったが、一方でレニーのものはかなりジャジーな作りだったので「ほほう、こんなんも有りか」という思いで一生懸命コピーしたものだ。

確かこれ、始まってすぐ木田ちゃんから電話がかかってくる、というコント形式のものだったかな。コントでもないか。

僕はコラムのIrish Musicその174でこの曲に関してかなり詳しく書いている。どこまで信頼がおけるかわからないのだが…。

44年前の今日。まだまだ体力も気力も溢れんばかりの頃だったのかな。

そして、ライナーの最後にはこう記されてあった。

9月2日、上野タカラホテル317号室にて録音。ホテルの窓からは夏の暑さと、秋を告げる夕暮れ。

2023年アイルランドの旅 35

とうとう9月になった。

今朝もどんよりしていてなかなかに寒そうだけど、日本はまだ30℃以上だと聞く。

半ばくらいからでも少し涼しくなるといいが、秋は10月までおあずけかな?

昨夜はエンダ・スカヒルとのセッション。

9時半からというのは、なかなかに遅いので…といえども普通にあることだが。

ちょうど一日前にニッケル・クリークがダブリンに来ていたらしい。

その話で盛り上がり、2メートルくらいの身長の若者がマンドリンを持っていて、興奮気味に話していた。

エンダの音はひたすらでかい。

その上にあのテクニックだ。

でかい身長のマンドリンの若者も良い音を出している。

2時間ほどのセッションでオールドタイムやブルーグラス・チューンも飛び出し、歯切れのいいバンジョーの音色に包まれたひと時だった。

こういうセッションが毎日いたるところで昼夜問わず行われているのだから、それは日本とは環境が違う。

でもやっぱり少しばかり体力の衰えは感じる。

特に若者が相手のセッションでは。

それでも、そのパワーを受けながらの演奏はそれなりに価値を感じることも事実。

相手に不足はない、と相手にも思わせることができるならば、それがまた成長へとつながっていくと思うし。そういうのを切磋琢磨というのか…。

何はともあれ、次のツアーまで少し休むかな。

今、天気予報をみると今週は暑くなりそう。週末に25℃とかいう予想がたてられている。

これ、アイルランドの人、溶けちゃうかも。

2023年アイルランドの旅 34

ドクター・サウンドの小林君から懐かしい映像が送られてきた。

普通にYouTubeで見ることができるものだが、ダン・クレイリーの映像だった。

この人のLady’s Fancyというアルバムはどれほど聴いただろうか。

このタイトル曲はSay old man, Can you play a Fiddle?としても知られているし、1976年だったかPoor Richard’s Almanacでサム・ブッシュがフィドルで弾いていたものだ。

ダン・クレイリーのアルバムは、確かこの曲も含めて多くの曲を省ちゃんと二人でコピーして、電話であれやこれや情報を出し合って…そういえば彼、モスマンのギターも買ったなぁ。あのウッディ・ガスリーの映画で僕らだけの間で話題になったギターだ。

こうして、ブルーグラスやフォークソングを聴いていると昔を想い出す。

みんなそうなんだろうな。歌は世につれ人につれ…だったかな。

その想い出は僕の場合、ほとんど省ちゃん絡みのものかもしれない。

青函連絡船の甲板で、新幹線の連結部で、今だったらさしずめ迷惑系ユーチューバーかな。

ふと考えたけど省ちゃんの絶対的存在って誰だったんだろう。

僕はビル・キースとエディ・アドコックだったのかな。

彼はもしかしたらクラレンス・ホワイトだったかも。いや、ドック・ワトソンかな。

今度会ったら訊いてみよう。(大丈夫。僕まだ正常です)

ダン・クレイリー、今回送られてきた映像では、テイラーのシグネチャーモデルを使っていたが、突っ込みどころがいかにも楽器屋さんらしく「ずっと昔からヤマハのカポ使ってます」

細かいところまで良くみているなぁ。

全くアイルランドの旅とは無関係な記事でした。

午前7時、気温13℃、晴れ。このままお昼になっても17℃以上にならないようだ。

そしてこのところ定番の雨が少ない。

少し曇り気味の空にめちゃくちゃでかい太陽が見える。

あれがポトッと落ちてきたら終わりだなぁ…。

2023年アイルランドの旅 33

差し出し人不明のメールが入った。

31日の木曜日空いてるか?もし空いていたらWood Quayのパブに9時半に来てくれ。

というそのメッセージ。

それどこ?あんた誰?

とりあえずあんた誰?だけメッセージしてみた。返事はこれだった。

Enda Scahill Sorry!

なんだ、去年の10月17日に道で会ったエンダ・スカヒルじゃないか。

実は僕らの今回のCDリリースコンサート初日のゴールウェイに来ていたらしい。

マナスとは旧知の仲、僕も別なサンフランシスコ時代の知り合いなど、けっこう人も多く、

その時は話はできなかったが、マナスに「すごく良かった」といって帰っていったらしい。

なので彼に連絡先を聞いたのかもしれない。

マナスには他にも、僕の昔の友人という数人が連絡先を知りたいと言ってきたらしく、律儀な彼はその都度、僕に「教えてもいいか?」と尋ねて来ていたが、エンダなら僕も知っているし問題なし、と思ったのだろう。

マナスはいろんな人に今回のプロジェクトの話をして、メンバーの事を言うと、ほとんどの奴がジュンジを知っているんでびっくりしている、と言っていた。

エンダ・スカヒルは今やすっかり売れっ子になっているWe Banjo 3のバンジョー弾き。

20年前には若い兄ちゃんという感じだったが今やすっかり大人だ。

その20年前にはまだ基本3人編成だったと思うが、僕の記憶ではまだFergal Scahillが居なかったんじゃないかな、アメリカ人のドブロバンジョーの人を入れての4人だった。

「俺たち数学が苦手なんで」と言ってお客さんを笑かせていた。

日本にも確か来ていたはずだ。その時はエンダとファーガルの兄弟、デビッドとマーティンの兄弟という4人編成がすでに固まっていたはずだ。

その辺のことも今度訊いてみよう。

しかし、9時半からは遅いなぁ…。

おじいちゃんはもう寝る時間なのに。

子供もそうだよなぁ「子供は寝たか、もう8時だよ~♪」

2023年アイルランドの旅 32

この3日間ほど風邪をひいて寝込んでしまった。

今頃風邪をひくとCOVIDの疑いがあるのだが、そんな事もう誰も気にはしない。

症状は普通にひく風邪と変わりなかったが、これで検査に行ったら、もしかしたら陽性だったかもしれないし、全然普通の風邪だったかもしれない。

4日目になるが、もう何事もなかったかのように回復している。

なんとなくカレーが食べたくなって作ってみた。

それというのも、あまり食欲がなかったせいと疲れからか、甘いものが食べたくて甘いものばかり食べていたからかも。

さて、アイルランドのカレーパウダーを使ってみるか、と…いや、数回使った経験はあるが、そのたびに日本のカレールウはこの上なくよくできている、と感じてきた。

だが、今回は近場で手に入るカレーパウダーで済ますことにした。

作りながら味見をする。なんか味に輪郭を感じない。ひょっとしてやっぱり…と思い他の物を口にしてみるといつもと変わらずしっかり味がわかる。

ならばやっぱりこいつのせいか、と思い、手持ちのチリを加え、コーヒーを作ってそれも加え、そうだ!チョコレートもあった、とそれも加え、さらにりんごをすりおろし「りごとはちみつとろ~り溶けてる」なんて歌いながら味を調整。

定番のターメリックとクミンも大量に投入。

昔アミンというグループがいたな、トップガンはマーベリックだったかな?なんて思い、リンゴのすりおろしの時は「比叡おろし」ってたしか小林けいことかいう人だったかも、高石さんお気に入りのシンガーだったな、なんて。

それよりも前、玉ねぎを切りながら木田ちゃんを想い出し…なぜかというと、新幹線移動中「お客様のきったたかすけ様、きったたかすけ様」という呼び出しが僕と省ちゃんのつぼにはまり、それ以来ものを切るときには「たかすけ」と言っていたものだ、なんてことを想い出しながら。

しょうもないことのように思えるが、すべての事になにか関連付けて面白かったことを想い出すのも脳のトレーニングにはいいことではないかと思う。

どうしても想い出せないこともできる限り検索することをせず、それは最終的手段として、とにかく手を動かしながら想い出す。

確かにそう考えると楽器なんかはとても良いものかもしれない。

さて懸案のカレーだが、いろんなものを入れてみたおかげで少しは味に輪郭が出た。

この「味の輪郭」とは日本人がいちばん得意とする分野、しいていうならば白人が最も不得意とする分野…いや、根本的に美味しいというものの観念がちがうので、この言い方は却下。

アイルランド人も日本でギネスを飲んで「なんだかなぁ」と思っているかもしれない。

とにかく少し辛い物を食べたくなっていた僕には満足のいくものに仕上がった。

風邪も峠をこえたようだし。

ところで小林けいこのけいこってどんな字だったかなって、これも必死になって考えた。

確か「啓子」だったよな、と思い、そこで初めて検索してみた。当たり。

一生懸命考えて良かった。脳トレ脳トレ…。

2023年アイルランドの旅 31

今回は「友あり、遠方より来たる」編とでもいおうか、伊豆のギター制作家、櫻井航くんが僕らを訪ねてきてくれたことを中心に。

その日僕らは演奏のためにウォーターフォードに来ていた。

トラモアにある、ラフカディオ・ハーン日本庭園、言わずと知れた小泉八雲ゆかりの地。

航くんは数日間のアイルランドの旅、最初に選んでくれたのが僕らとの再会。

ちょうど初めて出会ってから10年になる、という。

以来、様々な場所で音響を担当してくれ、またギター制作に関する多くの知識を聞かせてくれた人。

今回の演奏もマナス、ギャリーとのクワルテット。

庭園は美しく、天候にも恵まれたが、前日はすごい雨だったらしい。ひょっとしてまたもや晴れ男全開だったのか。

お客さんも沢山来てくれたし、中にはこちらに住む日本人の方もいた。

まれかさんが「君が代やろうか」と言ったので急遽君が代も演奏。

その日本人の方が「まさかここで君が代を聴くとは思わなかった」と感激していた。

マナスとギャリーも満足そうにポカンとしていた。

サンフランシスコ時代の知り合いも偶然近くに住んでいて駆けつけてくれたけど、当時小さな女の子だった娘さんがあれから30年ほどになるのかな、面影といのは分からなかったけど居たことは覚えていた。

そして、コークからわざわざリズとマットのクラニッチ夫妻、カーローからは1時間ほど、ということでキアラン君も。

帰りはマナスとギャリーとは別れてキアラン君の所へ。

夜10時に、れいこさんとも合流。いつものカーローの夜が始まった。

キアラン君は嬉しそうにチーズ、ガーリックブレッド、ハムそしてワインも開けて、いつもの面白さ全開。

フルートも出してきて数曲。

これには日本から到着したばかりでくたくたのはずの航くんも「凄い肺活量」と感心していた。

それでも1時ころには寝床について、僕はまた早起きで6時には裏庭のウサギを鑑賞して、あ、そう言えば4時ころだったかな、それから僕が起きるまで猫のペンギンが僕の上で寝ていた。ゴロゴロという音がしばらく聴こえていたっけ。

次の日にはゴールウェイに戻るので、航くんを含めた僕らをキアラン君がキルデアまで送ってくれた。

そこで観た光景はまた違ったもの。なにが面白かったかというと、羊たちが道のわきにいっぱい居たのだが、どこにも柵がない。

なので道路を勝手に歩いていたりする。これには驚かされた。

考えてみれば、これなら車はスピードを出せないし、周りの住宅にとってもいいのかもしれない。

そんなキルデアを後にして昼過ぎにゴールウェイに着いた。

疲れている航くんをパブに連れていき、先ずいっぱい。更にダニエルのドーナツを食べ、そしてパブフードを食べに出かけ、また一杯飲んで、9時半からチコリでミック・ニーリーがやっているのでそれまでにワインとチーズを少々。

さすがの航くんもミックたちの演奏を聴きながらパイント半分くらい飲んで「あ、僕もうだめかも。帰って寝ます」ということでその日は沈没。

次の日にはダブリンに戻るという弾丸ツアーなのでせっかくだからジモピーのあゆ子さんにモハーの断崖まで連れて行ってもらった。

天気も上々。またしても晴れ男の面目が立った。

崖を見ながら歩いていたら、オーイン・オニールがアコーディオンの人とバンジョーを弾いてバスキングしていた。

いつもはエニスで歩いていると出会ったりしていたが、今回エニスには立ち寄っていなかった。それがまさかこんな所で出会うとは…。旅は時として驚きの連続だ。

モハーを堪能した航くん、帰りはドゥーランに寄って、僕らがよく演奏していたガス・オコーナーというパブでいっぱい。それからゴールウェイに戻り「いっぱいいくか」と誘ってみようと思ったがアイスクリームにしておいた。

ダブリンに着いてから寝る前にちょっとどこかで飲んだらいいし。

夕方、5時15分、航くんはダブリン行きのバスに乗って行った。多分バスの中で爆睡したことだろう。

なんと2日間でダブリン~キルケニー~トラモア~カーロー~キルデア~ゴールウェイ~モハー~ドゥーランを巡り、ビールとワイン攻めにあったとんでもない弾丸ツアーだったはずだ。

そういえばゴールウェイで楽器製作者のポール・ドイルの工房も訪ね、かなり話も弾んだようだった。

アイルランドの後も数か所寄って楽器制作の現場などを見て帰る予定だと言う。

修行のためにイギリスに住んでいたのはずいぶん前だったらしいが、また本人の中で胸騒ぎが起こっているかも。

そんな充実した旅になったと思う。

今日のゴールウェイは15℃で晴れたり曇ったり。

だんだん日も短くなってきた。

2023年アイルランドの旅 30

僕はつくづく自分で自分がケチだと思う。

先日、少し甘いものが食べたいな、と思いスーパーの甘いもの売り場に立った。

こちらにはどぎつい色をしたいろんな甘いもんが並んでいる。

アップルパイやクランベリーパイ、各種マフィン、ロールケーキ、タルト等々、さすがに大福はないが、それでもチョイスはいっぱい。

そんな時でもまず、値段から先にみてしまう。

ケチでない人はそのルックスから入るんだろうなぁ。

いやいや、そもそもそういう人はあんまりこんなところで買おうとしないか。

気を取り直して、

ふと目に入ったのが、わずか2ユーロ程で小さなマフィンが12個も入っているもの。

同じ値段で同じだけ入っていてレーズン入りもある。

なんとなく、下手になんか入っているよりもシンプルな方がいいかな、と考える。

いや、この際アップルパイかな、と、また売り場を動く。

これもピンからきりまで。

目いっぱいリンゴが入っているものは5ユーロくらいしている。

日本では2000円くらいするだろうか。その大きさから見ても。

安いのは3ユーロ程で…でもこれ、ほとんどパイだろうなぁ。先っちょのほうに申し訳ない程度のリンゴが入っていそうな気がするなぁ。

などと考え、横にあるどぎつい赤い色をしたロールケーキも見てみる。

安いけどちょっとこれはないかな。

またマフィンの売り場に戻って3~4ユーロのものには目もくれず、やっぱり2ユーロのものを購入。

そこでいろいろ考えた。

12個あれば5~6日楽しめる。紅茶のお供に、コーヒーのお供に、なんなら緑茶だっていい。

高いもので4つしか入っていなかったら2日しか持たないかもしれない。

ならば6日に渡って楽しめたほうがいいのではないか。

高いものは美味しいと思ってまた買いに行ってしまう可能性があるし。

おー、なんとケチなんだろう。

このままではケチな人生で終わってしまうかもしれないので、たまにはフランス菓子の店でも覗いてみるか。

でもきっと覗くだけで出てくるんだろうなぁ。

それでも、京都出町ふたばの豆大福、キルフェボンのタルト、ラパンの食パンなどは…ありゃ、けっこう贅沢じゃん。

2023年アイルランドの旅 29

ここらで休肝日を設けないといけないと思いつつも、少し街へ出てみれば朝からみんな楽しそうに飲んでいるし、気温も15℃くらい、風もなく穏やかな日差しに包まれて飲むには絶好のシチュエーション。

だからと言って朝からはちょっと無理。知った顔がいたら観光客に混じって身を隠し、そっと通り過ぎる。彼らのテーブルにはまだお昼前なのに空のグラスがズラリと並んでいる。

マナスの家では一本だけあったビールを分け合って、一度だけワインを開けたが、さすがに医者夫婦、節度をわきまえて飲む。

外へ繰り出したりもしない。

フェスティバルではみんなから「もう結構」というまで飲まされる。

ゴールウェイに帰ってきたらすぐまたお誘いが来る。

ありがたいことです。

そんなこんなで、ちょっと調べごとをしていたら面白い記事を見つけた。

経済学者の森嶋通夫、この人が25年ほど前に書いた「なぜ日本は没落するか」の中からの引用である。

国際的評価を得られない「哲学なき政治家」

政治家は国を代表して対外折衝をするがゆえに、自ずと国際的評価の対象となる。

しかし、日本の政治家の中に国際的評価を得るレベルの政治家は少ない。

政治、産業、教育、金融、あらゆる部門にわたって日本を、そして政治家の様子を見てみると日本の荒廃のおよその見当はつく。

今のような政治家があふれている日本に豊かな未来はないだろう。

政治が悪いから国民が無気力であり、国民が無気力だから政治は悪いままでおれる。

こういう状態は後50年は続くだろう。そうして私たちが引き出さなくてはならない結論は残念ながら日本の没落である。

偏差値型ロボット教育、価値判断を欠いた無機的教育を一刻も早く無くさなければならない。

とりわけ海外、欧米諸国偏重ではない、アジアとの交流をにらんだ教育体の確率が必要であろう。

日本はアジアから孤立しているばかりではなく、憧れている西欧からも利用しやすい愚かなアジアの国としてしか相手にされない。

かいつまんで書いてしまったが、やっぱりちゃんとした人はきちんとしたことを言うなぁ、と感心しきり。

僕みたいに日本の政治家は「○みそが腐ってる」なんて言わないなぁ。

さて、ちょっとたかりにでも行ってみるか。

2023年アイルランドの旅 28

ゴールウェイ午後8時。

まだ太陽はサンサンと輝いている。

そんな太陽の下、またギネスを片手に友人たちと語り合う。

本当にここの人たちは人生を謳歌しているように感じる。

友人たちと飲んでいると、その友人たちが現れる。

まぁ一杯、と、散々飲んできた仲間にまたビールを勧める。

たわいもない会話がまた始まる。

結局、さっきまで一緒に飲んでいたはずなのに、それぞれが別なバーで飲んで、いつしかまた合流している。

今晩は流星群が見えるらしい。そんな話もしている。

特に明け方あたりがいいらしいが、それまで飲み続けるのだろうか。

恐るべきアルコールの消費量。

2023年アイルランドの旅 27

8月15日、事あるごとにこの日についての思いを今までにも書いてきた。

そのほとんどが、あまりにも情けない政治家の言動にがっかりしたものばかり。

僕の父がサイパンに居て、運よくトラック島に配属が変わって、生きて帰ってきたのは何歳くらいの時だったんだろう。

毎日毎日戦友が死んでいって、全てを火炎放射器で焼き尽くされて、降伏しかない、という英断を下した時の心情たるや、想像できるものでもない。

そんな青春時代を送ってきた彼らにとって、今の日本は一体どういった価値のあるものなんだろう。

本当に昨今の政治家のいい加減な言動を見るたびに、一応この国の成り立ちを形成するためにある存在にしては、あまりにお粗末だと感じてしまう。

人間としてお粗末だ。お粗末どころか終末だ。

なので、国民までやたらとSNSとやらで要らんことを言っては嬉々としている。

全然関係ない話だが、先日YouTubeを見ていて「聴き比べ」というのが目に入った。

もちろん、ある歌の元をたどることには大賛成だが、そこにコメントしてくる輩がバカ丸出しなのであきれてしまう。

何も知らないくせにかなり失礼なコメントも見受けられるが、頭が悪すぎる。

政治家になったらいいのに。

あ、そんな人ばかりではないことも伝えなくてはならないですね。

もともとこれを嬉々としてあげるのも、音楽を演じたことがない人なんでしょう。

大体、音楽に携わっていると「聴き比べよう」なんていう意識は生まれてこない。

あくまで、もと歌を「聴いておこう」ということだ。

アイリッシュでの曲もそうだ。

ケヴィン・バークのこの演奏、やっぱりマイケル・コールマンから聴いてみよう。

ほほー、なるほど。ここはこうしているのか。ならば僕らはどっちをとるか。

一つの曲の一つの音遣いが気になり、10人超の演奏を聴く。多数決を取りたい。そして、どうにかして作者の古い録音を見つける。

「聴く」というのは僕にとってそういう作業だ。

まあ、「聴き比べ」というのも言葉のあやかもしれないので、目くじら立てるほどのことではないが、あまり好きな感じはしない。

結局、何を言いたいかというと、今を生きる人間としては、古い時代のことを幅広く知るという事が大切なんかな、ということだ。

命を賭けてこの国を守ろうとしてきた人たちに失礼のないように生きたいものだ。

かなり無理に異次元な終わり方をしてしまったようで反省。

2023年アイルランドの旅 26

8月12日 土曜日 ゴールウェイの窓越しに見る光景は、ただ一言「めっちゃ寒そう」

お隣さんの煙突から出ている暖炉の煙がすごい勢いで横に流れている。

少し雨も降っているのだろうか。

道行く人もみんなコートを着て背を丸めて震えあがるようにして歩いている。

ちょっと日本の天気を確認すると、時間の違いはあれど、東京34℃となっていた。

今現在ここは16℃、恐らく東京の同じ時間になっても20℃以上にはならないだろう。

そんなゴールウェイも久しぶり。

6日から今までフィークルフェスティバルのため、クレアーに居た。

ゴールウェイ市内とは一変して深い緑に囲まれた生活。

マナス・マグアイヤーの家で朝のコーヒーとグラノラ、昼の各種サラダ、夜のチキンや野菜、全て緑一杯の庭での食事。

別にゆっくりしに行ったわけではないが、これも含めて全てこの音楽。

本当に時々しか聴こえない車の音と牛の鳴声を背に話が弾む。

この民族は本当に話好きだ。

食事はそれぞれが持ち寄った話を聞き、沢山の質問をし、ジョークを言い、時間をかけて楽しむものだ、ということがよくわかる。

少し遅くなったときには、暖炉の前でチーズとワインでまた語り合う。

よくこんなに話すことがあるな、と思うくらいに話す。そしてまた話す。

音楽シーンでも同じかもしれない。

今回僕らはEast West Fiddlesとしての比較的短いセットのコンサートでの演奏と、セッションを担当していた。

ここでも「アイルランドあるある」が炸裂。急に出演順が変わるなんて…さっきまでの、いや、1か月前までのあれはいったいなんだったのだろう、みたいな。

また「あるある」の一つとして、サウンドエンジニアのこの音楽に精通した音の作り方だろう。

いろんなグループが演奏するので、いろんな楽器が登場する。ボーカルもある。しかし、決してハウリングなどは起こさないし、めっちゃバランスがいい。モニターにもなにか注文することはほとんどない。

出演順がわずか数秒の間で変わってもなんの問題もない。これも不思議な「あるある」だ。

加えてお客さん。一杯のお客さんの反応もこちらの気持ちを高揚させてくれる。

ステージが終わってから、一杯飲むためにバーに出かけるとそこでは大きなセッションがあちこちで行われている。見た顔が一杯。

久しぶりにランダル・ベイズにも会った。ジェリー・ハリントンがまた大きな声で笑っていた。コーマック・ベグリーもマリーさん(アンドリューのお姉ちゃん)そしてアンドリュー。

しばし、ピート・クインとカレン・ライアン夫妻、アンドリューと語り合い、ギネスとハイネッケンを飲み干し、その日は帰路に就いた。

いろんな人に会ってそれぞれにいろんな話をするのもけっこう疲れるもんだ。そのうえビールも一杯飲むし。半分くらいになると必ず誰かか「もういっぱいいくか」というので、もしいくらでも飲める人だったら大喜びだろう。

僕は断るのに大変「本当にいいのか?」なんて念を押されてしまう。変な奴だな、と思われるのかな?

2日目は、バーの一角を借りてのCDラウンチとセッション。

マーティン・ヘイズが僕らのことをアナウンスしてくれる。

そして僕らのCDから数曲の演奏を聴いてもらった後で、集まった人たちとのセッション。

いろんな人が現れる。

キャサリン・マカボイとマリーさんも来てくれて、久しぶりにデュオの演奏も聴けた。

そして、中でも驚いたのがサンフランシスコ時代の友人たち。

数年前に再会したサラ・コリーと、こちらはもう30年ちかくになるだろうか、弟のデイブ。

彼とは彼がまだ15歳くらいの時以来だ。

そしてもう一人。同じく20年は会っていなかっただろうか。グロリア・グレッグ。彼女はハンマーダルシマー奏者でサンフランシスコのセッションではいつも一緒だった。

一見怖そうな顔をして真剣にダルシマーに向かっている姿は、最初かなり近寄り難かったが、後年は家に招待してくれるなど交流を深めたものだ。

マーティン・ヘイズがバンジョーを弾くのを初めて観たのも彼女の家だった。

そんな風に今回はアンドリューとのセッションはなかったが、会っていろいろ話をすることはできたし、いろんな人との再会もあったし、それなりにフェスティバルの意味合いは大きなものと確信している。

今、こうしてこの文章を書いている最中、とんでもない雨が屋根を叩きつける音が聴こえたがいつのまにか静かになっている。

こういう日が続くと外へ飲みに行かなければノイローゼになってしまうかもしれない。そろそろ朝晩は10℃を切りそうだし。

パブが大流行なのもよくわかる。そして重要な存在なのもよくわかる。そして音楽も大切な命の源なのもよくわかる。

あれ、晴れてきた。ちょっと久しぶりに町の様子でも見に行ってみるかな。

帰りには濡れネズミになっていないことを祈って。

2023年アイルランドの旅 25

ゴールウェイのレースウイークというのが始まった。

良く知らないし、興味もないが、競馬かな。

とにかく凄いのは街の人出。

ATMの前には行列ができ、どこのパブも溢れんばかりの人、また人。

今日も例のユジーンとあゆこさん、ユジーンの友人たちと飲みに出かけた。

といえども彼らはもうすでに3杯目くらい、というところに呼ばれて行ったのだが、隙間のないくらいの人がパブにぎっしり。

向かいのパブも隣のパブもぎっしり。

道路を歩いている人たちもぎっしり。

何10軒あるか知らないが、この街のほとんどのパブはどこもぎっしりで、それぞれひとり10パイントくらいは行きそうだ。

そんなぎっしりのお客さんが入れ替わり立ち替わり。

すごい光景だ。

そして、誰もがにこやかで本当に楽しそうにしていて、隣同士すぐ仲良くなってしまう。

飲み過ぎで気持ち悪くなる人など、いないようだ。

幸せいっぱい夢いっぱい、ギネスもいっぱい、という感じだ。

日は少し短くなってきたが、現在8時。まだまだ明るい。

本当の週末の夜はこれから始まる。

本心から幸せに友人たちと語り合い、知らない者同士がともに飲んで、歌なんか歌って。

これはこれで愛すべき民族だ。

明日からはフィークル。

マナスの家でしばらく過ごすことになるので、しばしお休みします。

彼も、リタイアしているがもともとは医者、奥さんも医者なので、健康的には留意して暮らせそうだ。

飲み過ぎでヘロヘロになるようなことはないでしょう。

2023年アイルランドの旅 24

毎年アイルランドでセッションに参加してきたが、ここ数年は本当にそういった場に立ち寄らなくなった。

多分、ギタリストの立場というのもあるかと思う。

リード楽器はそれでも大勢で弾いて楽しい、というのがあるだろうが、ギタリストの場合、特に僕の場合かもしれないけど、決して楽しくない場面に遭遇することも多い。

先日もセッションを聴いていて、ある曲のある部分、ブズーキが二人いたが、僕が思うことと違うことをしていた。

決して間違っていたわけではないが、この曲の持っている魅力を引き出すにはそこでこの和音を使ったほうがより効果的、ということを考えてしまう。

メロディーから考えるに、こういうベースノートで進行させてここに落ち着かせるみたいな、こうでなくてはいけない、というものでもないので、感覚勝負だがこれは分かる人にはたまらない魅力につながると思う。

もし、僕がその場にいたらその場に合わせなくてはならない。

それは単に時間を費やす、という事になってしまう。

みんなはそれでじゅうぶん楽しそうなので、僕がひねくれているだけなんだろうけど。

多分、リード楽器のほとんどの人もそんな事には気が付かないだろう。

カレン・ライアンが「ワオ、今のそれ!それが欲しかった」と叫んだり、僕はそのような感覚を持ち合わせた人とやりたい、と思ってしまう。

なのでセッションに参加することは、時として苦痛にもつながることがある。

考えてみるに、セッションというのは、曲を覚える、牽引する人からそのグルーブを体得する、などが大きな目的だが、どうしても各曲の持つテキスチャーという部分には、特に人数が多いと到達しない。

でも、それが僕にとってかなり大事な部分だ。

それにしても、もっと音楽を楽しめたらいいのに、と我ながらに思う。

少人数で音を大切にするセッションが好きだ。

急に変わりますが、台風が迷走しているようですね。

いろんなところでまた災害が起きなければいいけど。

今年はまた、暑さだけでも災害級といわれているようですが、今や30℃に到達しないと「比較的涼しい」ということになるのでしょうね。

本当にここは天変地異とは縁遠いような、飲んでいれば忘れてしまうような、もし、空からギネスが降ってきたら誰も働かなくなるからそれはひとつの災害かも。

2023年アイルランドの旅 23

今日は、初めてジェームスという凄くでかい声で歌っているシンガーと話をした。

彼はVegaのロングネックを弾きながら街角で歌うストリートミュージシャンの一人。

前出のロビンと二人でなにやら話をしていた。

ピート・シーガーがこうやって弾いていた、なんていう会話を耳にして僕もなにか話をしたくなったのだ。

一度立ち止まって仲良くなってしまうと、彼、いつもいるから必ず顔を合わせることになる。

まるで商店街の「カレ~トテモオイシ~!ゴ~ヒャクゴジュウエン」みたいなもんだ。

でも、持っているバンジョーにちょっと興味があったので取りあえず話してみることにした。

「Vega?ピート・シーガーモデル?トラスロッドは金属?それとも木?」と訊くと気さくに「2本入っていて金属。これ、ディーリングなんだ」と嬉しそうに話す。

「そうか。僕もディーリングのVega持っているよ」

「ロングネックか?」「いやいや、ロングネックはペグに手が届かない」

なんていう話をした。

彼もそんなに大きい男ではないが、歌がメインなのでキーがE やFにするにはやっぱりロングネックだ。

しかし、そんなにでかくないのに声はとてつもなくでかい。

歌は往年のフォークソングからアイリッシュ・バラッドなど、ちょうどクランシー・ブラザースのような、ウィーバースのような、そういった雰囲気のものを歌う。

マイクロフォンなんか要らない深い声だ。

ちょっと調べてみたら、そのバンジョーもけっこう良い値段するのに、彼も少々の雨だったら平気で歌っている。

でも、さすがにかなり降っているときはいないかな。

先日はロビンが土砂降りの雨の中、マンドリンで歌っていた。

いかにアイルランド人といえども傘をさして歩くくらいの雨の中。

ジェームスのほうが少し常識人なのかな?

2023年アイルランドの旅 22

日本のニュースを見ていると、あまりにしょうもない芸能界の話とかがやっぱりみんないちばん興味がある事柄なんだろうな、ということがよく分かる。

相変わらず「大食い」とかやっているんだろうか。

相変わらず芸能リポーターなる商売がいろんなところに首を突っ込んで、みんなそれを喜んでSNSとやらで論争を巻き起こしているのだろうか。

全く、平和ボケというか、自由と身勝手をはき違えている国民性になり下がってしまったような気がする。

もちろんみんながみんなそうではない、ということは重々分かっている。

しかし、先日もなんか30何人だかでフランス旅行をした議員。

これを甘えさせている以上、日本は世界レベルから見ても最低の政治体制国家だと言える。

これも、中心人物はもともと芸能界から出てきている奴だった?

もしそうだったらやっぱりみんな芸能界って好きなんだろうなぁ。

暑い日本を抜け出したかっただけかと思いきや、あの人たちは涼しいところで過ごしているのだから関係ないだろう。

嘘でもいいから、もう少し仕事モードの写真を載せたらよかったのに、その辺はやっぱり浮かれていて気が回らなかったんだろうな。

そのうえ、何だか自分に対する批判みたいなものを論点をすり替えてかわそうとしているようだが、少し頭を使って考えればなぜみんなが怒っているのかが分かるはずだ。

頭を使う頭があるんだろうか?疑問だ。

本当に日本人は大人しいというか、興味ないんだろうな。やっぱり。

投票率が0%でも自民党の老人たちは自分たちが勝った!というんだろうな。

ま、こんなことをとやかく言っていても仕方ないが、そう考えている以上、僕もあまり興味がなく、どっちでもいいけど、いい加減にしろ!という程度かな。

では、言うな、と思うだろうけど、年寄りだから仕方がないと思ってください。

とにかく、ちゃんと政策に生かせていただくことを願うだけかな。100年かけてでも。

さて、日本では熱中症で若い子まで死んでいる。

健康の度合とか、暑さに弱い強いはあるだろうし、運が悪かったこともあろうが、かわいそうだ。

しかし、学校側も認識しなければいけないとは思う。

水を定期的に飲ませたり、休憩を取らせたり、いろんな配慮はあっただろうが、それに合わせて個人差もあるのだから、その辺を考えたら、リスクを背負ってまで部活はしなくてもいいと思うが。

そのうち、アスファルトの上で目玉焼きが焼けるくらいの温度になるだろう日本。

いやぁ、生きていくのは大変だ。

そりゃ、海外にでも出たくなる。しかも公金ならばなおさら美味しい。

2023年アイルランドの旅 21

昨日は珍しく飲みに出かけた。

いや、珍しくないか。シチュエーションとして珍しかったかな。

去年、よく出会ったユジーン、実際にはユージーンのほうが近い仮名表記なのかな?

でも友人のユージーンというのが変で、ユジーンとした覚えがある。

その彼の奥さん、日本人でアユコさんという人から連絡があった。

彼女とは去年、顔だけは合わせた程度に知り合いになっていたが、先日、8時をすこし過ぎたころ、和カフェ(現、和すし)のよしみさんから「今シェリダンズのワインバーでアユコさんと飲んでいるけど来る?」という連絡が入り、出かけて行った。

シェリダンズは有名なチーズ屋さんで、入るなり強烈なチーズの香りが漂うところ。

お店はもうクローズしていて、2階のワインバーだけは開いている。

なので、お店ほどその香りが強くはないが、開いている時間のお店には僕は入れないほどのなかなかのチーズの香りだ。

ほんのりと香り漂う2階なので慣れてしまえば大丈夫。

よしみさんの方は2015年以来の深いつながりで、なかなかのバイタリティの人ということは承知していたが、アユコさんはその上をいくかもしれない。

ちょっとヌートバーのお母さんを彷彿とさせる。

フランスが長いので、英語よりもフランス語のほうが通じやすい、という神奈川県の人。

話が世界中に飛ぶので、しかもヌートバーのお母さん然としているので、めまぐるしい。

面白かったのが、コロナ禍の直前にアイルランドから、ダイビングの免許を取りたくて、エジプトに行って、そこでコロナということになり、7か月間エジプトにスタックしてしまった、ということ。

国籍が日本なので、アイルランドにも戻れず、という状況だったらしいが、なかなか聞けない話をいっぱい聞いた。

さて、ここまでは先日の話。今日は何が珍しかったかというと、セッションをやっているバーで飲む、ということだったかな。

普通、静かなところでしか飲まないが、アユコさんが「4時からフォークミュージックをやっているところ」なんていうので「それ毎週やっているセッションだよ」と返信して、ちょっと出かけてみた。

ユジーンはもうすでに何杯目だろうか。

「この人とまともに付き合って飲んだら死ぬよ。だから適当に帰りたくなったら帰っていいよ」というアユコさん。

重々ご存じです。

奥の方で、フィドラーのマイケル・チャンを中心に10人ほどだろうか。中の数人は良く知った顔だ。

日本人の女の子も数人来ていた。

そのうちの一人はもしかしたら、数年前フィークルでのアンドリューとのセッションの時に会っているかもしれない。

でも、若い女の子に「前にどこかでお会いしましたっけ?」って、なんとなく訊きにくい。

演奏を聴きながら僕もギネスで話が弾む。

やがて、グラスが空きかけると、ユジーンが立ち上がり、新しいギネスが目の前に置かれる。これだ!

アユコさんとも話が弾む。

3人姉妹の末らしいが。2人の姉はあたしどころではない、という。

なぜ「2代目かしまし娘」としてデビューしなかったのかと思うが、曰く、方向性が全く違う3人、ということだ。

このバイタリティで3人三様の方向性、しかも2人の姉のほうが輪をかけて凄い、という。なんとも想像を絶する家族かもしれない。

いや、上の2人は一番下の妹が強烈で、と、きっと言っているだろう。

世界にはいろんな人がいるもんだ。

ユジーンが立ち上がった。

「いや、もうけっこう」と言って逃れる。

逃げるタイミングというのもなかなか難しいが、どうやらそんなことはあまり考える必要がないようだ。

7時。セッションはまだ続いていた。

街がにぎやかになっていくのはこれから数時間後だ。

別なバーからもセッションの音が聴こえてくる。

2023年アイルランドの旅 20

さて、外を見ると、お、なかなかいい天気じゃぁござんせんか。

洗面所に行って、歯を磨いて顔を洗って、今一度外を見る。

なんと、かなり激しく雨が降っている。油断も隙もあったもんじゃない。

でも空は明るい。

申し合わせたように傘もささずに歩く人。

仕方がないので、コーヒーを飲みながら外を眺める。

やっぱりだ。急に太陽が顔を出した。

一番初め、今日はTシャツで十分、と思ったがこれでは羽織るものを用意しないと大変な事になるかもしれない。

雨に濡れることが大変でないのは、空気が比較的乾燥しているからだろうが、その辺がよくわからない。

こんなにしょっちゅう雨がふるのに…。人口密度も関係するのかなぁ。

みんなが二酸化炭素を吐き出すから湿度も温度もあがるのかなぁ。

もしそうだとしたら、アイルランドで100人居るような所に、日本では10000人の人が居れば当然湿度も高くなるはずだ。

アメリカ、特にサンフランシスコ辺りでは、ジーンズの洗濯なんて1か月に一回くらいで十分だったような記憶があるが、僕だけだろうか。

雨に降られてもすぐ乾くし。

アイルランドでも、すぐ乾くというほどではないが、あまり気にならない。

濡れた後にまとわりつく湿気というものがあまり感じられないんだろうなぁ。

想い出すなぁ。

キアランの家のお隣さんの洗濯ものが何日も雨に降られたり、太陽に当たったりを繰り返していた光景を。

でも、やっぱり生乾きになるだろう。

さて、ちょっと外へ出てみるか。

う~ん、雲が低い。こりゃ雨の匂いがする。

2023年アイルランドの旅 19

毎日、日本のニュースで日本列島が真っ赤になっているのを見る。

これから先、いったいどうなっていくんだろう。

毎年毎年「今年の暑さは異常だ」という話が出るが、涼しい顔しているのは政治家だけだ。

彼らが守られていて、大したことをしていなければ、国民が苦しむのは当然、という構図が出来上がっている。

政治家も熱中症で倒れたりするんだろうか。いや、聞いたことがないけど…どうなんだろうか?

嘘がばれて都合が悪くなって入院、という話はしょっちゅう聞くが。

7月の日本は快適でスポーツに向いている、とか日本には打ち水という文化がある、だとか、涼しい顔して良く言ったもんだ。

友人が「ダニは50℃で死滅する」と言っていたが、40℃越が当たり前になってきて、50℃にも達するようになれば、もはや人間は住めなくなる。

ダニどころか人間も死滅する。

日本にもそんな日がやってくるのではないかと危惧しているが、とりあえずここ数年の間に40℃ということは当たり前になってくるだろう。

そうなったらあのガンドゥーラなるものを着るしかない。

面白いだろうな。役所とかみんなあの格好していたら。どこの国に来たかわからなくなるだろうなぁ。

でも、涼しいから着ているわけではないだろう。これ以上は宗教上の問題なので考えない方が無難だ。

さてさて、午前7時。14℃だ。

昨日、昼間にカッパを着て歩いたら少し暑いな、と感じた。どうやら18℃くらいあったようだ。

東京の半分か…。しかし、じめじめした空気と人が一杯のあの感じでは、体感温度は40℃を優に超えているかもしれない。

四季折々の日本は確かにいい。でも夏の暑さだけはちょっと異常だ。

といえども、夏の暑さが好き、とか、夏が待ち遠しい、とかいう人も沢山いるだろうし、それで商売が成り立つ人もいるだろうし、一概には言えないけど、せめて30℃までにしてほしいものだ。

2023年アイルランドの旅 18

アイルランドの国民的歌手、いや、世界にその名を轟かせた人物がこの世を去った。

シネイド・オコーナー

特にフォローしていたわけでもないので、有名な曲とかあまり知らないが、よく好んで聴いていたのは「フォギー・デュー」だった。

なんとも力強い歌声に心を奪われたものだ。

そんな関係で、映画「マイケル・コリンズ」も何度観たことだろうか。

ジュリア・ロバーツが「She Moved Through the Fair」を歌うシーンは一般的にどこでもアイルランド人が集まれば当たり前の光景だった。

家族で、友人同士で。

演奏を楽しみ、ダンスを楽しみ、そして歌を歌う。

多分、アイルランド人にとってシネイド・オコーナーの死はけっこう大きな出来事だろう。

去年は9月の初めころ、やっぱりアイルランドでエリザベス女王が亡くなったことを知った。

僕にとってはそれに匹敵するくらい、いや、彼女がまだ若かったから尚更かもしれない。

56歳。精神的にも色々あったみたいだ。

あれだけのシンガーだったし、社会に対する思いも半端ではなかったし、なかなかに濃い人生だったんだろうなぁ。

2023年アイルランドの旅 17

今日は一転して寒々とした、しとしと雨模様。子連れ狼のような天気。

ちょっと外へ出てみると、まぁ大したことはない。

フードさえかぶっておけば大丈夫だ。

ストリートミュージシャンのロビンが、今日はバンジョーでなくマンドリンを弾いて歌っている。

けっこう安物のようなマンドリン。やっぱりワイルドウッドのバンジョーをびしょぬれにするのは気が引けたか。

あるいは修理にでも出しているのか。

いや、アイルランド人、たいがいの修理は自分でやってしまう。

先日、ギャリーがマンドラの指板を自分で取り替えた、と言っていた。

そういえばイデル・フォックスがコンサーティナをばらばらにして世間話をしながら直していた。

笑い声がコンサーティナくらいうるさかった。

アメリカで、なんか個人で楽器を販売しているようなおじさんがいて、よく出入りしていたころ、テナーバンジョーをそのおじさんから買った。

そこそこ1000ドル位したんじゃないかな。

「ここ、ちょっとフレット浮いてるみたい」と言ったら「あ、ほんとだ」と、言って、やにわに金槌を持ち出し、思い切り3~4回叩いた。

「これでどうだ」満足そうな顔をしてそう言った。

ま、確かに直っているようには見えるが、なかなか日本ではあり得ない経験だ。

煙をもくもく出しながらゆっくり走ってくるポンコツ車から、ふにゃふにゃの髪の毛をしたおじさんが出てきて、やにわにボンネットを開けてレンチみたいなもので、思い切りガンガン叩いている。

そしてすぐ乗り込んでそのまま走り去っていった。

ところがどっこい、3ブロック先で同じことをして、また走り去っていった。

僕もティプシーハウス時代、フィドラーのポールの車が発進するときはいつも押していた。

下り坂がある時には必ずそこに止めて「これなら楽にスタートできる」なんて言っていた。

ところで、その車も自分でエンジンを積みかえたらしい。

ノエル・ヒルなんか古い古い枠組みだけしかない家を購入して、3年くらいかけて見事な家に作り上げた。

ガスも電気も水道も壁に穴を開けて自分でひいたらしい。

ここは電圧が非常に高い。220~240下手すると大変なことになる。

先日も新しいライトを壁に取り付ける時「ジュンジ、スィッチオンにしてくれ」見るとドライバーかなんかの先っぽで火花が飛ぶ。

「よし、今度はオフにしてくれ。そのままいじるなよ。フランキー・ギャビンが来たらオンにしてもいいぞ」なんて笑って言いながら見事にライトの完成。

どうりでカーリーヘアーの奴が多いと思った…って冗談いっている場合ではないのだ。

今日は一日中雨のようだ。こんな天気のほうがアイルランドらしい。

2023年アイルランドの旅 16

美味しい「やぶきた茶」をいただいたので朝から飲むことにした。

いつもはコーヒーだが、日本茶もたまに飲みたくなる。

そんな中でも「やぶきた茶」は力を込めて淹れたい一杯だ。

調べてみると、生みの親として、杉山彦三郎という人物の名前が出ていた。

もちろん静岡の人。

杉山姓は静岡に多いと思う。小学校の頃からクラスに2人や3人は杉山が居た、と記憶している。

「やぶきた茶」…ま、日本茶としておこうかな。日本茶は偉大だ。

それは多分に、僕が日本人であるのと、静岡人であるからだろうが。

それにしても、大福相手にコーヒー、みたらし団子相手に紅茶、なんて考えられないけど、ケーキに渋い日本茶は…それは僕だけだろうか。

余談だが、醤油も偉大だ。

前にも書いたかもしれないが、寿司はソースでは喰えたもんじゃない。でも、ハンバーグだって大根おろしと少しの醤油で、とんかつだって、ステーキだって、残りの天ぷらだって、コロッケだって、醤油で食べられないものはない、と、これも日本人だからかも知れないな。

さて、「やぶきた茶」やっぱり美味しい。

ここは硬水なので比較的風味が出にくい感はあるが、それでもこれだけ美味しいのだから大したものだ。

ただ、惜しむらくは、僕がコーヒーカップしか持っていないこと。これは何とかせねば。

以前、トニー・マクマホンがサンフランシスコで、ちょっと安価なメニューの並ぶリーズナブルなレストランに入ってワインをオーダーしたらワイングラスではなく、コップで出てきたらしい。

彼は怒り心頭ですぐ店を出たそうだ。

ワインはヨーロッパの人間にとっては、何で飲んでもいい、というものではない。

ギネスを紙コップで出されたようなもんかな。それ、僕でも嫌だな。

ざるそばを頼んだらフォークが出てきて、箸はない、と言われたようなもんかな。

食文化はなかなかに奥の深いものがある。

ずっと昔、テキサスで友人と飲みに行って、よくわからなかったので適当にオーダーしたら、毛虫(芋虫?)入りのテキーラが出てきた。

これなんかは、そういうものだったのだが、予想もしていなかったのでぶったまげたもんだ。

友人が「前にどこかで、フレンチフライにマルボロの吸い殻が混じっていて、ウェイターを呼び、悪いけど俺、マルボロは吸わないんだ、って言ったら、そのウェイター、すみません。すぐセイラムとお取替えします。ってなかなか面白いやつだった」

これなんか良い話だなぁ。そんな風にしてその日初めてあった人とのコミュニケーションが取れたらあんまりしょうもないトラブルなんて起きないだろうな。

なんのはなしだったっけ。

あ、そうだ、後で湯のみ茶碗として使えそうなものを見に行ってみようかな。

もしかしたら、ジャスミン茶とかウーロン茶を飲むような、ドラゴンが描かれた蓋付きのケバイ色の物はあるかもしれない…って。う~ん…?それもちょっと…。

2023年アイルランドの旅 15

今日はこちらに来て一番いい天気だったかもしれない。

全く雨の気配もなく、一日中穏やかな晴天に恵まれて、気温は17℃という日本の皆さんには申し訳ないような気候だ。

今は夜7時過ぎだが、まだまだこれからが本番のこの町。

太陽はまだサンサンと輝いている。

こちらもついついつられて、フラフラと飲みに出かけてしまう。

途中で知った顔に出会うが、名前が出てこない。いや、これは仕方がない。多分名前も知らない人。

どこかのパブで演奏していた時によく話をした人…だと思う。

そういう人、沢山いるので、まぁ良しとしよう。

先日、静かなパブを見つけてそこに入った。

と、言えども、そこそこ遅くなってきたらやかましくなってくるのだろうけど。

5時とか6時ならまだまだ静かで、ゆっくりギネスを楽しむことができる。

やっぱり静かなほうが良い。

人がいっぱい居てにぎやかで楽しい、とかあまり思わない性質なので、どうしてもそういうことになってしまう。

ここを最初に見つけた時も、入り口にいるセキュリティーのガタイのいい兄ちゃんに「静かなパブを探しているんだけど」と言ったら「今は静かだよ」と言われたので入ってみた。

そして今日も静かだった。やっぱり静かな方が良い。

酔っているせいか、同じことを書いている気がする。

たまにはこんな文章も自然体でいいかな。

2023年アイルランドの旅 14

今日はちょっと驚いたことがあったので、短いけど書いておこうかな。

さっきまで降っていた雨も止んで、何気なくどうしようかな、と思い窓際に行って外を覗いてみたら、屋根のところに、かもめの子供がいる。

屋根が滑るせいか、足元がおぼついていない。

一生懸命足を踏ん張っている。

そのうち意を決したか歩き始めた。

すると、ツルツルと滑って下のほうまで落ちていった。

ほどなくしてバタバタとすごい音が聞こえた。

慌てて見てみると、なんと、大人のカモメがそのこどものカモメをつついている。

それも、とても遊んでいるようには見えない。

まさに襲っているのだと思われる。

僕はとりあえず窓を激しく叩いてみた。

すると、効果あったのだろうか。なんとか逃げ出すことができたようだ。

自然界とは恐ろしいものだ。

多分、いわゆる田舎に住んでいたら、けっこうよくあることかもしれないが、シティ・ボーイの(これ死語?)僕にはなかなかにすごい光景だった。

2023年アイルランドの旅 13

ずいぶん疲れていたせいだろうか、9時間くらい寝てしまったようだ。

それでも、この歳になると「あるある」だが、3回くらいトイレに起きている。

ま、起きれない(正しい日本語ではない)よりはましか…。

午前8時。コーヒーを飲んで、シリアルを食べて。

さて、気温は…15℃

天気は曇り。いや、よく見ると霧のような雨が降っているようにも見える。

向こうのほうから女の子がランニングして来るのが見える。

短パンにTシャツでしっかりとした走りだ。

なんだ、窓越しに降っているように見えたのは目の錯覚か、と思って今一度よく見てみると、やっぱり降っている。

それもけっこう降っている。

これでは普通、ちょっと散歩などとも考えられない。

毎日のルーティンといえどもこの中で走るって…いや、今日は日曜日。多分普段は仕事で、土曜と日曜のこの時間に走ることを決めている人なんだろう。

ほかにも傘をさす、でもなく、普通に紙袋持ってゆっくり歩いている人…まったく彼らの行動から物事をはかり知ることはできない。

他人は他人。自分は自分だ。

この雨の中、もし日本で傘をさしていなかったら、あいつは井上陽水か、と思われてしまう。「傘がない~♪」って、コンビニで買えよ!と突っ込んだものだ。

「雨が空から降れば~♪」って、当たり前だろう。そんなもん足元から降るわけないだろう、なんて。

仕方がないので上がるまで待つか、いや、アイルランドあるあるを甘く見てはいけない。

少し晴れてきたのでダニエルのドーナツでも、と思い、外に出てみた。

やっぱり気が向かなかったのか、いや、朝は雨だったからか、居なかった。

甘いものを売っているダニエルだが、甘く見てはいけない。

2023年アイルランドの旅 12

今日は小雨が降る土曜日。

これくらいの雨だったら傘は要らない。

ほとんどの人はそのまま歩いているし、アイルランドあるあるの光景だ。

今、ゴールウエイは「アートフェスティバル」の真っ最中。

その中の一つとして今日はランチタイムコンサートで1時間ほど演奏することになっている。

ちゃんとした会場でPAもきちんとしていて、やたらと音がいい。

といえども、僕らが到着した時、それと同時にサウンドエンジニアーがやってきて、そこからセッテインング。

いつもながら、その手際のいいこと。音決めの早いこと。

やっぱりこの音に、このバランスに慣れているとしか思えない。

母親の胎内で聴いてきた音がもう、身体にしみついているとしか思えない。

お客さんも立ち見がいるくらい大勢入っている。

4人で合わせた最初の演奏としては、そのショーの進行もなかなか良かったのではないかな。

また、やっぱりお客さんの反応も聴きなれている人達、という感がある。

調子の良い曲では身体を揺らし、スローな曲ではあちらこちらからため息が漏れている。

100人近く入っていても、そんな反応を肌で感じることができる。

後ろのほうは見えないが、前の方の人たちの表情がとてもいい。

僕らも1時間ほどをみんなと楽しむことができて、気持ちのいい疲れが残った。

お腹が空いたので、その会場の下になっているパブで何か、と思ったが、先日書いたように、ここではちょっと前に食べたし、結構にぎやかでうるさかったので、近くのハンバーガー屋さんに行った。

ハンバーガーといってもファストフードではなく、それなりの店だ。

とても美味しかったが、死ぬ前に食べたいものとは違うなぁ、なんて言いながら、それでもチップスとチキンバーガーとビールで大満足して帰った来た。

人生最期に食べたいもの、何かなぁ?

アイルランド人はイモだろうか、。いや、食べるものはいいから飲ませてくれ、というだろうなぁ。

2023年アイルランドの旅 11

いったい、いつごろから日本でもシリアルなるものが食されるようになったんだろう。

僕の記憶としては、中学くらいの時にシスコーンシュガーとかいうものを食べていたと思う。

ちょっと調べてみると1963年に発売になった、とあるので、やっぱり記憶は正しいのだろうか。

それ以来、日本ではあまり食べていなかった。

ひとつには需要が少ないせいか値段が高い、というのもあった。

やっぱりアメリカでは結構食べた。種類も豊富で、売り場などは日本の10倍ほどのスペースを確保していた。

ここ、アイルランドでもそうだ。

僕はこういったものがかなり好きなので、選択肢はいっぱいあると嬉しい。

ともすれば1日2回ほどこれを食べればそれで満足、なんていうこともある。

この類のいわゆるシリアルとはまた別に、最近ますます気に入ってきたものでミュースリがある。

まるきり「鳥の餌」なんて思いながらも、そこにヨーグルトとはちみつ、それから牛乳を入れて食べるとかなり美味しい。

噛み応えもあり、しっかり食べた感もある。

たまに晩御飯として食べたりもするくらい気に入っている。

キアラン君も立ったままそんなものを食べて「いってらっしゃい」と言って出かけていく。

帰ってくると「おかえり」と言う。???

ともかく、こういったものがいたって好きな僕はどこに行っても不自由しないから便利だ。

そういう意味ではアンドリューとよく似ているかも。

ちょっと余談だが、ポリッジって食べすぎると便秘するらしい。

食物繊維=おなかに優しい…ようだが、そうとばかりは言えないようだ。

経験者は語る。

一時、3食ポリッジで数日間、これでおなかの調子はバッチリ、と思っていたら、そんなことになって身に覚えのある事柄として、検索してみた。

やっぱり何事も度を超えたらいけません、という事ですね。

2023年アイルランドの旅 10

ギターのブリッジが少し浮きかけているようだ。

これはやばい。このまま放っておいたら飛ぶなぁ、と思い、応急処置で仕方ないから誰かいないかな。これはいくら何でも自分では無理だし。

そんなことを思いながらいろいろ検索してみると、工具もいるし、やっぱり楽器店か、と考え、あ、そうか近くに2軒あるな、ということを想い出した。

ひとつはキーラン・モロニーズ。

フルート奏者のパディ・モロニーの息子の店だ。

パディ・モロニーズ・フェイバリットといういい曲を僕らもレパートリーに取り入れている。

すぐ近くだが、それよりももっと近くに一軒あったのを想い出した。

ポール・ドイルだ。通りに出たらほとんど見えるようなところ。

こりゃ幸い、と持って行った。

使う予定があったので一応状態だけ見せに行って、次は明々後日だけど、という相談を持ちかけるつもりだった。

対応してくれたのが若いフィドラーの女の子。

見るなり「あーこれだったらまだそう悪くないし、1時間くらいでできる」と言っていた。

ほんまかいな?と思いつつ「明日居る?」と訊くと「うん、1時には来ているからあたしがやるし大丈夫」と太鼓判。

「じゃぁ明日の1時に持ってくる」と言って店を出た。

そして1日経ち、1時に店に行ってみた。

アイルランドあるある。ピタっとドアに鍵がかかっていてなんやら張り紙がしてある。

HPには10時オープンと書いてある。

それでも一応その張り紙には「そんなに遠くへは行っていないからここに電話してくれ」と書いてあるので、早速電話した。

するとポールが出た。事情を話してここで待っているから、という事になり、しばらく…そうだなぁ、20分程だったかな。

以前にも会ったポールとはちょっと違う感じのポールが「俺を待っているのは君か?」と言って歩いてきた。

どうやら病気を患ったようだ。

とりあえず昨日のことを話して「彼女来ている?」と訊くと、アイルランドあるあるだ。

多分もうすぐ来る、という返事。

そりゃそうだな。中にいるのにきっちり鍵がかかっているわけがない。

そして待つこと10分。普通の顔をして現れた彼女の最初の一言「あら、あんた早いわね」アイルランドあるある。

ま、それでもすぐに取り掛かるから1時間して戻ってきて、と言われた。

果たして1時間というのは本当だったが、そんなんで大丈夫なんだろうか。

ポールは身体の具合がかなり悪そうだし、女の子はどうみてもリペアーマンには見えないし。でもノーチョイスだ。

恐らくキーランの所に持っていったら何日か預けてくれ、と言われていつ仕事を始めるか分からない。その危険は十分にある。

そのうえチャージもそれなりにされそうだし。

そんなわけでとりあえず、応急処置で良いので彼女にまかせることにしたのだ。

そして1時間経って行ってみたら今度は「あら、あんた早いわね」とは言われなかった。

「弦、もう張ってもだいじょうぶかな?」と訊くと「多分大丈夫」という返事。

その「多分」は90パーセントくらいの自信のようだ。

ご飯粒で貼り付けたわけではなさそうだ。アイルランドだし、イモか。

とりあえず今日1日くらいは休ませておこうかな。

因みに25ユーロの出費だった。

なんとなく彼女の小遣い稼ぎに一役買ってあげた気持ち。

2023年アイルランドの旅 9

ずっと雨予想だったのがそこそこ良い天気が続いている。

でも歩いていると、時々「あれ、雨かな?」と思う時があるので、一応雨、としておけばいいとでも思っているんだろうか。

確かに、晴れるよ、と言っておいて雨よりは、雨、と言っておいて晴れたほうが人々の喜びは大きいかもしれない。

昔は運動会なんて面倒で、雨降らないかなぁ、と思ったこともあったな。

ところで、例のサワードウブレッド、最後の二切れはとうとうゴミ箱に旅立ちました。

そりゃそうだよな。

推定10日も経っていれば罰もあたらないだろう。

これ以上挑戦すると口の中が傷だらけになるし。

昨日はキンバラにあるギャリーのスタジオに出かけ、久々にみんなで音合わせ。

楽譜も置くわけでもなく、誰かが始めれば自然と音が重なって一つの完成した世界が出来上がっていく。

とてもリラックスできる瞬間だ。

外はゴールウェイよりも暖かく、きらきらとした入り江に緑の山が写りこんでいる。

やっぱりこの音楽、これだよな!と感じてしまう。

1週間経ってまだどことなく時差ボケが抜け切れていない僕にとって、この景色とこの音楽はとても心地が良い。

ひょっとしたらこんなぼーっとした感覚が最も人間にとって自然体なのかもしれない。

いや、ちょっと言い方が悪いかな。

要するに、余計なことに惑わされず、余計なことを考えず、全てお任せ!みたいな。

やっぱり人間は自然体で生きていけるのが一番かな。

アイルランド人って自然体なのかな…。

2023年アイルランドの旅 8

人間の許容範囲や対応力などについて考えている。

というのも、先日のサワードウ、石みたいなやつ。

どでかかったのでまだいっぱい残っているが、さらに磨きがかかって、岩石といえる感じで鎮座している。

もちろんその前に切り分けておいたが、その時ですらナイフが折れるのではないか、と思ったくらいだ。ジェイソンには連絡がつかなかった。

しょうもないことを言っていないで、今朝、それをオーブンに突っ込んで、少し焼いて食べた。

これ、普通の人なら捨てるんだろうな、とも思えるその岩石は省ちゃんだったら絶対に無理。

そんなことを考えながらハムとチーズを乗せ、気を付けながら口に入れた。

そうしないと口の中が傷だらけになるかもしれないからだ。

僕はこの数日間で極めて顎が丈夫になった気がする。

なんでそこまでして食べるのかと思うだろうが、なかなかに好きなのだ。

もちろん、日本の匠の技に裏付けされた素晴らしい食パンも好きだが、ライ麦パンとかソーダブレッドの類も好きだ。

しかし、こんなに固くなった「元パン」は普通の人だったら、やっぱりもうゴミ箱に入れるかもしれない。

そこには僕の「もったいない」という考えと「まだいける。悪くない」という思いと、そこそここういったものが好きだ、という感覚がある。

食べながら外の朝焼けを眺め、コーヒーを飲みながら(飲み物がないととても大変)美味しいなぁ、とつぶやく。

そう。美味しいなぁと思うことは大事だ。

もちろん、美味しいものを食べたときには、中には言葉で表現できないくらい美味しいものもあるし、普通に美味しいものもある。

僕はあまり「あ、これ不味い」とか思ったことがない。これって料理をする者にとってあまりよくないことかもしれない、と時々思う。

どんなものでも美味しいと思っていたら、なかなかちゃんとした評価ができないのではないか、とも感じるからだ。

そんな僕にとってやっぱり「これダメ!」というもの、いや、好き嫌いは別として、そんなものが今までにどれくらい存在しただろうか。

今、想い出してみると…そうそう、バグナルスタウンの、とあるパブでまれかさんがオーダーした、タラかなんかのソテー(?)だったかな。

彼女が一口食べて首を傾げた。「あ、無理」と顔に書いてあった。

僕は「もったいないから全部食べなさい」と言いながら、一口ほおばってみた。

次の瞬間「あ、これ無理!」と僕もつい言ってしまった。

その辺の排水溝から釣り上げたんではないか、と思われるその料理はいったい何だったのだろう。

しかも排水溝から釣り上げて1週間ほど忘れ去られていたんではないだろうか…。

たまにレストランでまったく味のしないスープなどが提供されるが、そのためにテーブルに塩とか胡椒とかが置いてあるのだ。

しかし、そのタラの何とかは…。

そういえば、大学時代、友人の家で出されたお茶が異常に不味かった記憶がある。

その辺の草か!と静岡育ちの僕は京都人に新たな疑念を抱いたほどだった。

いわゆる番茶だったのだが、敢えて言わないが銘柄まで覚えている。そうしないと間違って買ってしまうかもしれないからだ。

一生懸命岩石と格闘しながら、またいろんなことを想い出してしまった。

時間をかけて食べることは良いことだ。

2023年アイルランドの旅 7

久しぶりにアール・スクラッグスのアルバムを聴いている。

もちろんフォギー・マウンテン・ボーイズだ。

想い出すなぁ。

ニューヨークに居たときの、どことなくブルーグラスが似合わない感覚。

あの町はやっぱりジャズだ。

バスがバージニアに入った途端フィドルやバンジョーの音色がやけにマッチして、テネシーに入るとそこにスティールギターが加わったり、そのサウンドが周りの景色にこれでもかというくらいにマッチしている。

山々、丘、空、そして流れゆく雲でさえも。

果たしてフォギー・マウンテン・ボーイズの音色は…どこかよそものの感じがする。ここでは。

面白いもんだなぁ。

音楽は世界共通言語なのに。

何かが悪いわけではないが、空気感かなぁ。

ここでは日本食よりもやっぱりフィッシュ&チップス。

ま、決定的に水の違いで出汁が出にくいとかそういうことはさておいて。

なまじ両方の音楽を手がけてきたせいもあるだろうし、普通の感覚とはまた違うのかもしれない。。

それにしても最初の録音のフォギー・マウンテン・ブレイクダウン、素晴らしいなぁ。

1949年12月11日の録音なので、僕がおぎゃ~といった(知らんけど)少し前。

これ、やっぱりすべてのブルーグラスバンジョー曲の基本なんだろうなぁ。

2023年アイルランドの旅 6

ここまでほとんどアイルランドでなくてもいいようなことばかり書いてきた。

それというのも今回はマナス・マグワイヤーとギャリーオブリエンとのクワルテット

East West FiddlesのCDリリースがこの先10ヶ所ほど控えている。それがメイン。

なのでセッションなどにはあまり顔を出さないようにしている。

もともとフラッとセッションにでかけたりはしない性質だし。

ちょっといつもと違って仕事モード。あんまり大きな声では言えないが。

まれかさんも仕事が忙しいし、ギャリーも僕も良い歳だし…まぁ、医者が二人いるのでその辺は何とかなるかもしれないが、無理は禁物。

今日は来て初めてパブフードが食べたくなって近くのパブに出かけた。

多少、晩御飯には時間が早かったので静かで人も少なかったし落ち着いて食べることができた。

僕はハイネケン、まれかさんはグラスのギネス。

のはずが、なぜかグラスのハイネケンが来た。アイルランドあるある。

ギネスに変えてもらって一件落着。

あとは僕がクラムチャウダー、まれかさんがムール貝、そしてシェアできるサイズのフィッシュ&チップス。定番だ。

テーブルには今日のスペシャル「チキンカレー」とあったが、アイルランドあるある感があるある。一瞬考えたがこれはパス。

フィッシュ&チップス頼んでおけば、ほぼ間違いないはずだし、ここはよく来ていたところだし、チャウダーの味も覚えている。

このパブではこの土曜日に演奏することになっている。

ということは、ひょっとしてまた同じもの食べなくてはいけないかもしれない。しまった。

今、京都の友人たちから続々とメールが届いて、その中に温度計の写真があった。40℃と表示されている。

アブダビと変わらないではないか。

早速、こちらの13℃という表示を送ってあげた。お昼には19℃くらいまで上がるようだが、明日の朝は10℃に満たないようだ。

なんかどこかに書いてあったけど、世界の中で天変地異に縁がない国としてアイルランドが挙がっていた。

フランスやスペインに熱波が来てもアイルランドはすり抜けていくようだ。

日本のみなさん、おつかれ生です、どころじゃないなぁ。

2023年アイルランドの旅 5

またまた2時に起きてしまった。

でも、夕べ眠りについたのが9時頃なので5時間は寝ている。

大谷君ではないので、ましてや年寄りなのでそれくらいで…十分というわけではないが、そんなもんだろう。

普段でも6時間くらいで目が覚めるので、こういう時は思い切って起きてコーヒーでも飲めばなにか新たな発見があるかもしれないし。

そうでなくても、布団(ベッド)の中でコロコロできないタイプなのだ。

昨日買った世界一美味しいダニエルのドーナツとコーヒー、ってか2時だぜ。

日本はまだお昼前、朝の10時ころなので良いだろう、と決めつけているがこんなことをしているといつまでも時差ボケがおさまらないかもしれない。

まぁ自然にまかせよう。

ところでドーナツは一日経っても異常に美味しい。全然油っこくないから不思議だ。

でも、このダニエルという伊達男、気が向いた時しか店を出さないので皆に勧めることができない。

本職はテーラーということだけあって、街で見かけると、自前のどえらく格好のいいしゃれた服を着ている。

2014年の8月にこのダニエルのドーナツについてはすでに書いている。

当時は6つ買うと4ユーロだったらしいが、前回からかな、5ユーロに値上がっている。

ドーナツではよく覚えている話があるが…すでに書いたかなぁ。まぁ、いいか。

アメリカでもよくドーナツ屋に出かけて行った。仕事場の近くにもあったし。

ドーナツ屋は警察官の休憩所としてもよく知られている。

そんなドーナツ屋で、ふと見かけたのがYesterday Bakeと表示され、大きな箱に75個のドーナツが入っていてそれを5ドルで売っている。

そんなにしょっちゅうあるわけではないが、その日は75個という大量のドーナツ。

どうしようかな、と思いつつ、今はレストランの昼休み。従業員は5人ほどいるし、あとからウエイトレスもやってくる。

全部食べなくても大損はしないだろう、と考え思い切って買ってしまった。

僕が3個、ほかの連中は1個か2個。結局60個以上捨てたかな。

まさかデザートとしてお客さんに配るわけにもいかないし。

さて、ちょっと天気予報を見てみよう。

お、水曜日に19℃まで上がる。この10日間で最も暑い日だ。

2023年アイルランドの旅 4

なんだかすごくいい天気になったけど、時々サーっと雨が降るので、一応雨の予報は当たっている、ということなんだろう。

楽器の鳴りが良いので、バンジョーでSanto&JohnnyのSleep Walkなんかを弾いていたら眠くなってしまった。

夜中の2時ころ目が覚めて作った曲ということなので、無理もないだろう。

さて、今日はサワードウブレッドを買った。

スーパーで4日前に見て、買おうかな、と思っていたが、その時は買わず、今日買ったのだが結局、あの時の残りに違いないということは買ってみて判明した。

電動のこぎりが必要なくらい。ジェイソンでも呼ぶか。

恐らく、僕が最初に見たのが3~4日経ったものだとすればあの固さは納得がいく。

今頃きっと処分するのを忘れていた店員が「おかしいなぁ、もうひとつあったとおもったけどなぁ」なんて…思わないか。

しかし、サワードウブレッドはもともと保存食。

サンフランシスコでは1849年のゴールドラッシュ以来のものだが、当地のものはかなり酸っぱい。

ともかくそのサワードウブレッドを苦労して切ってオーブンに突っ込んで食べると、どことなく懐かしい香りと味に包まれた。

日本のフワフワもっちりとは全然違う、いうなれば粗雑な感があるが、一生懸命食べている感じがする。

このひと切れとコーヒーでもあれば十分晩御飯になる。

もうそろそろ8時になるがまだまだ明るく、日本の午後4時くらいの感じだ。

昨夜はノエル・ヒルから飲みに行くお誘いが来ていたが、気づかずに寝てしまっていた。

時差ボケのせいで早くに寝てしまったので悪いことをした。

夜に出没してもヒルとはこれ如何に。

昼に出没してもナイトというが如し。

あまりにしょうもないので今回はこれにて失礼します。

寝たほうがいいかもしれないので…。

あ、その前にサワードウブレッドは先に切っておいたほうがいいかもしれない。明日になったらジェイソンでも無理かもしれないし。

2023年アイルランドの旅 3

日本で言う「夏、本番」というのはやっぱり7月8月の2か月間のことだろうか。

それでも今や、6月から、下手すると10月くらいまではとんでもなく暑い日があったりする。

ともすれば5月に入った途端30℃とか、11月に台風とか…やっぱり地球の悲鳴をきちんと受け止めなければいけないんだろう。

それなのに嬉々としてミサイルで遊んでいるアホとか、自己満足で破壊を繰り返すバカとか、地球上に要らん奴が多すぎる。

原発の汚染水を海に流すんだったら、原子力開発委員会の連中は、1か月くらいは家族とともにその海で泳ぎまくって安全を自ら示せばいいのに。

そしたら絶対断るんだろうな。

たったの1回でもやらないんだろうなぁ。

そんなことを考えているうちに、気が付けば京都では祇園祭だったのかな?

想い出すあの宵々山コンサート。

始めたとき永さんはまだ30代だったと記憶している。間違っていたらごめんなさい。

僕もまだ23か4か、そんな頃だった。

あの時も暑かったし、サウンドチェックもままならないほどのすごい蝉の鳴声だった。

楽屋でのやかんの麦茶とか、アイスキャンディーとかが懐かしい。

そして、早くから並んでくれた人達の輝く笑顔が懐かしい。

四季折々の記憶というのはやっぱりいいもんだ。

光景としては、青い空とオレンジ色の柿がたわわになっている秋が最も好きかも。

菜の花がいっぱいなっている光景とか。

人生の終わりにはそういうものが走馬灯のように流れていくのかな。

多分、宵々山コンサートもそのうちの一つだろう。

7月も中旬に差し掛かってふとあの暑い夏の京都を想い出してしまった。

時計を合わせなくてはと思い、腕時計を操作しながらふとスマホを見ると、いつの間にかちゃんとアイルランド時間になっている。

アブダビに着いたとき、すでにアブダビ時間になっていたので、いったいどの時点でパッと変わるのかダブリンに着く前に見てみよう、と思いつつ、気が付いたらもう変わっていた。恐るべしスマホの威力。

今現在のあなたの時差ぼけ指数は何パーセント、なんていう機能があったら…って、なんの役にも立たないか。

2023年アイルランドの旅 2

朝の4時。なかなか寝付けないのはやっぱり時差ボケのせいだろうか。

普通、逆向きのほうがきついはずだが、これでは帰ってからが心配だ。

そして、今はダウンを着ている。気温は14℃ということだが、寒く感じることからも時差ボケであることは明確だ。

因みに東京は昼ではあるが31℃となっている。

ここしばらくはこちらは雨予報の連発。

少しだけ街に出ると、びしょぬれになってバンジョーを弾きながら歌っている奴がいる。

この界隈では有名なうちの一人。ちょっとマット・デイモンに似ているロビンという奴だ。

バンジョーだって、見たところワイルドウッドのロングネック。

あまり濡らしたくはない代物だ。

もう一人ヴェガのピート・シーガーモデルを弾いて5ブロック先まで聞こえる太い声で歌う男もいるが、今はいない。

雨だからだろうか。いやいや、あいつも土砂降りでもない限り歌うはずだ。

時間交代制なんだろうな。

この雨続きではストリートミュージシャンも大変だ。

さてさて、しばらくは美味しいものともお別れだが、僕の場合はシリアルやミュースリなどがいたって好きなので、あ、オートミールもだ…あまり気にはならない。

日本食でないと、とか、全然酒が飲めない、とか、そういう人は来ても仕方ない国かも。

しかし、自然の美しさと空気の美味しさ…おっと、空気が美味しいというのはとりあえず素晴らしいことだ。

そういったことを大切にしている国なので、そこら辺が日本との違いかな。

でも、最初に書いたように、なんだか解せない事柄にもよく遭遇するし…でもそれはどこに行ってもあることかもしれない。

今ちょっと天気予報を見てみたら、体感は12℃だそうだ。

風邪ひくかもしれないし、もう少し寝てみたほうが良いかな。

2023年アイルランドの旅 1

アブダビ空港、午前一時。こちらの方面の人が圧倒的に多い。

僕の隣で黒ずくめのヒジャブを着た年配の女性がスープを飲んでいる。

ちょっと見ると顔もほとんどおおわれていて、その顔をおおっている布をいちいちめくりあげ、ひとスプーンごとにまた顔をおおっている。

大変だなぁ…なんて余計なお世話だが、さらに純白のガンドゥーラというのかな、あの中東の衣装、それもさっき注文の物が出来上がりました、というくらいパリパリに糊が効いているような輝くばかりの白で、この人、何だかケチャップのパスタみたいのを食べている。

よせばいいのに。おとしゃしないかなぁ、とこちらも大きなお世話だが、慣れているのか 

全然こぼさない。大したものだ。

ところで、外の気温はこの時間で37度。昼は40度くらいあったらしいが、ま、東京とあまり変わらない。こちらのほうがカラッとしていていくらかましかも。

そしてダブリンに着いたら10度。

これは年寄りにはきつい。

夜はノエル・ヒル宅でビールと彼の調理したムール貝。締めに赤ワインで語らいながら、意識が朦朧としてきてまだ明るい9時には爆睡。

長いフライトと気温の差で…おっと、ひとつアイルランドあるある、ということがあったんだっけ。

空港で荷物受け取りの際、アブダビからのフライトは2番、という表示があり、ずっと2番のところで流れてくる荷物を見ていたが一向に出てこないので、ふと周りを見るとなんだか同じ飛行機に乗っていた人たちが1番にもたまっている。

そればかりではなく、3番にも見たことがある人達。

ちょうど空港職員らしき若い女の子がいたので、どこから出てくるの?と訊いたら「アブダビだったら1番か2番」というではないか。「じゃぁこの人ごみの中、両方見なくてはならないの?」と訊くと「ま、そういうことね。ところであなたのチケット見せて。あ、これは3番から出てくるわ」「え~聞いてないよ」

てなわけで3番で待っていたが一向に出てこない。そんな中一緒に乗っていたインド人の家族の大量の荷物のいくつかがまだでてこないらしく、二人の7~8歳の女の子と15~6際の女の子がしびれをきらして遊んでいた。すると大きいほうの女の子が「お父さん、あれ私たちの荷物じゃない?」と2番の方を指さした。

僕もつられて何気なく2番の方を見ると、なんと僕の荷物も流れているではないか。

あきれて引き揚げてから先ほどの若い女の子に「2番で出てきたよ」と言ったら大笑いでおわってしまった。

おおらかな、といえば聞こえがいいが、あまり信用もできないアイルランドあるある。

また、これからゴールウェイに向かうバスのチケットが一時間後のものだったが、目の前にそのひとつ前のバスらしきものが止まっていてちょうどドライバーが最後の確認をしていたので「これ一時間後のチケットなんだけど…」と言って見せたら「あ、荷物入れておけ。俺がこのバスに乗れるようにしてあげるから」と、早速手続きを済ませてくれた。

日本ではなかなかこんな具合にはいかないだろう。

どちらもその、適当な曖昧さがいかにもこの国らしく、うれしい時もあれば悲しい時もある。

言い換えれば、先が思いやられる感と何とかなる感が入り混じっている、そんな国だ。

サウンドタム See You at Tam’s

僕らがかねてからお世話になっている群馬県安中市のサウンドタムがこの度、素晴らしいCDをプロデュースした。

過去に出演したアーティストの録音の中から抜粋したサウンドタムでのライブアルバムだ。

全てのアーティストというわけにもいかなかったが、かなりの内容であると確信している。

長年に渡る膨大な録音が存在するので、第2弾とかあったらいいな、とも思っているが、まずは今回のこのCDを通じて是非サウンドタムのサポートをお願いしたい。

数量に限りがあるようなので早い目に注文を入れたほうが良いと思う。

僕はタムちゃんの創り出す音と素晴らしいアーティスト達によるこのアルバムに大いに期待している。

僕らもCrabs in the Skillet / Rolling Barmaidというセットで参加している。

因みにCrabs in the Skilletは、オニールの1907年に出版されたDance Music of Irelandに掲載されている曲だが、多くの人によって演奏されているため、様々なバージョンが存在する。僕らはTara Breenの演奏から学んだ。

Rolling Barmaidはマンチェスター(?)のバンジョー弾きTony Sullivanによって書かれた、とされるとてもキャッチ―な曲だ。

この音楽を始めた初期の頃、彼のチューンブックを2冊オーダーしたことがあった。

確かこの人、Sullyという銘柄のバンジョーも作っているんじゃないかな。

CDに関してのお問合せはサウンドタムまで。

善は急げ、です!

ゴールデンレトリバー

この表記でいいと思うが、決して「ゆりやん」ではない。

今朝、ウォーキングをしていると、ゴールデンレトリバーを連れた人に出会った。

そのゴールデンレトリバーが、飼い主を思い切り引っ張って、僕の方に近づこうとしていた。

見た感じ、かなり一生懸命な雰囲気だった。

ニコニコしていたようにも見えた。

そこで、忘れもしないアメリカでの出来事を想い出した。

もうすでにどこかで書いているかもしれないのだが、それはある週末の昼下がり。

近くの公園を散歩していた時の事。

飼い主の若い男性に連れられたゴールデンレトリバーが、多分20メートルほど先に見えた。

繋がれているわけでもなく、二人で気持ちのいい気候を楽しんでいる、という典型的アメリカ的な光景であった。

ところが、そのゴールデンレトリバーが僕を見つけるなり、一目散に駆け寄ってきた。

その時の彼の(彼女?)顔は限りなく「知り合いに会った」という顔をしていた。

犬の顔の違いを語るのは難しいが、明らかに嬉しそうに「あ、この人よく知っている。久しぶり。会いたかった」と言っているようにニコニコしていたのだ。

僕も思わず「どこかで会ったかな?昔からの知り合い?」と訊いてしまったくらいのものだった。

あまり信じてはいないが、生前どこかで繋がりがあったのだろうか。

そうとしか思えないほどの出会いだったので、鮮明に覚えている。

息子の友人で、過去500年の生まれ変わりや、関係の極めて深かった人の事などを観ることが出来る人がいるらしい。

その人が知るはずもないことをことごとく言い当て、知るはずもない亡くなった人についても、着ているものから何から何まで言い当てるらしい。

そこまで来ると信じざるを得ないが、あのゴールデンレトリバーの喜びようは一体何だったのだろうか。

チワワとかポメラニアンではまだ経験が無い。

シェパードはあまりニコニコしないだろう。

柴犬だったら有り得るかもしれないが、あの日のゴールデンレトリバーは格別だった、と云えよう。

やはり、多分、過去に何らかの繋がりがあったのだろうと今も思っている。

小芝風花

先日、そろそろ寝ようかと思っていた時間、なにか特別なニュースでもあるかな、と何気なしにテレビを点けてみた。

すると、なんだかとてつもなく早口でまくしたてている女の子が現れた。

それが小芝風花だった。

あまりにあっぱれな喋りに圧倒されてしまい、見入ってしまった。

ラジオのパーソナリティを演じているドラマだったが、あまりドラマなるものには興味が無いのでこれはあくまで僕にとって事故みたいなものだ。

しかし、何度も言うようだが、見事なもので、あれはアドリブ?

いや、大体の原稿はあるんだろうが、あれだけの文章を覚えることが、しかもあれだけ早口で言う事が普通できるのだろうか。

昨今のいろんな局のアナウンサーでも、短い文章でよく噛んでいるが。

政治家なんて書いてもらったものを見ながらタラタラ喋っていてもしょっちゅう間違える。

唯々感心してしまったのでついついここに書いてしまったが、俳優というのは凄いものだ。

いや、彼女が特別なのか。

勿論、やかましいと感じる人もいるんだろうが、少なくとも僕は感動した。

そして凄いものを見せられて小さな幸せと希望が生まれた。

無題

あえて無題としたのは、もうあまりにも情けなくて言葉もでないものを先日観てしまったからだ。

こんな事書くのも嫌だが、あまりに情けなくて何か言わないと自分の気持ちが収まらない。

観てしまったものは、元東京都知事の輩が会議の席で大あくびをしているシーン。

その後で使用禁止のはずの携帯が鳴った。

本人は、自分が使ったものじゃない、という表情で「あ、ごめん、ごめん」と言って、また偉そうに椅子に深々と寄りかかっていた。

しかし、大あくびはこの上なくみっともなかった。

この人、もうちょっとましだったはず…?いや、結局こんなもんだったのか。

あまりに長い間ぬるま湯に浸かっているとこういう事になるのか…。

その辺はよく分からないが。

これも注意だけで済ませているような政治集団なので、若者に見放されるわけだ。

また、あれが「恥ずかしい」と感じない本人の脳みそは完全にメルトダウンしているとしか思えない。

そんな連中に国の様々な事柄を決めさせていいのだろうか。

将来に希望が持てないこの国はあのような連中が作りだしているとしか思えない。

誰でも平等に出馬できるというモットーは分からないでもないが、迷惑ユーチューバ―とか、仕事もせず中東で豪遊する奴とか、選挙ごっこをして遊ぶ奴とか、管理する側もなめられたものだ。

ちょっと前は首相の息子と云うのもあったし。

あれ、本当にボーナス辞退?文書だけ?僕らには知る術もない。

しかし、あまりにも馬鹿げたものを次から次へと見せられるので、テレビに向かって文句ばかり言っていてもなぁ、という感情が湧いてくる。

バカバカしいから読まなくても良いですよ。

なら書くなよ、という批判が来そう。

しかし「いや~素晴らしい」というような政治の世界の事を一度くらい書いてみたいものですね。

ちょっと追加;

先日ウォーキングの最中、想い出したことがあった。

そういえば、大谷君もダグアウトであくびをしていたことがあったが、同じあくびでも、多くの人に夢や希望を与えている人のあくびと、わが身の保身しか考えず、他人のことなんか屁とも思っていない奴のあくびでは、やっぱり差が出るもんだなぁ。

ジョージ・ウインストン

ジョージ・ウインストンが亡くなった。

彼の最初のアルバムは1972年のBallads and Bluesというものだったというが、何故かこれ持っていた。

多分、彼の演奏がしょっちゅうラジオで流れていて、近所のセコンドハンドストアーで見つけたのだと思う。

ラジオで流れているものと少し変わった雰囲気で、ほほ~こんなところにルーツがあるんだなぁ、と思った記憶がある。

コンサートも聴きに行った。

場所はサンフランシスコシンフォニーホール。

老若男女、みな正装してばっちり決めていた。僕も一応スーツにネクタイというパリッとした格好で出かけた。

取りあえず、シンフォニーホールなので。

そこで登場したジョージ・ウインストンは、なんとよれよれのシャツに色褪せたジーンズ。

それに今思い出すに裸足だった。

昨日、慌てて友人に(例のお酒の好きな人)ジョージ・ウインストンが…とメールして、僕が観た時、運動靴で出てきました、と、裸足の印象があったのに何故かそう書いてしまったら、早速「裸足じゃなかったでしたっけ」と指摘を受けた。

いや~ありがたいことで、ありゃ、ボケたかな?と思い、昨日の朝ごはんは何を食べたかな?なんて考えてしまった。

フルグラにヨーグルトを入れて豆乳をかけて、コーヒーと…ばっちり覚えている。

って、ほとんど朝はそれ。忘れようがない。

晩はというと、これがピーナツバターバナナサンドイッチ。俗にいうプレスリースペシャル。

実際はこれにカリカリのベーコンを挟むのだが、僕にはそれはなくてもいい。

日本のピーナツバターでは作れない。これが絶妙に美味い。

しかし、こんなものを晩御飯にしている僕はちょっと変わっているかも。

何だっけ?そうそう、ジョージ・ウインストンの話ではないか。

アメリカでは15分に一度くらいは彼の曲が流れていた。

僕も母親があんなに早く亡くならなければ、ずっとピアノを弾いていたんだろうな、と思ったものだ。

とに角、素晴らしく語りかけて来るような演奏に耳を奪われた。

そこへ、シンフォニーホールでのコンサートのお知らせが新聞に出ていたのですぐチケットを手に入れた。

シンフォニーホールには五嶋みどりの演奏も聴きに行ったし、ケニーGも聴きに行った。

ケニーG も当時Songbirdが大流行でやはり15分に一回くらい流れていた。

彼は客席の後ろのドアから演奏しながら出てきた。

ジョージ・ウインストンは一部の最後に客席から数人のお客さんを呼び出し、何をするのかと思ったら、ちょっとスローなブルースからご機嫌なブギウギを弾き出した。

さぁ、踊れ踊れ!とみんなに促して盛り上げた。

やっぱり彼のルーツなのだ。

いろんな音楽を聴いていると、その人のルーツを垣間見るのがとても面白い。

ノラ・ジョーンズがDon’t Know Whyでヒットし始めた頃、多くの人がジャズの要素を語っていたが、僕はカントリーを感じていた。この人、ルーツはカントリーじゃないかな?と思っていた。

まさかラビ・シャンカールの娘だとは思わなかったが。

ジョージ・ウインストンは最もよく耳にしたピアニストだったかもしれない。

1949年12月26日生まれ。僕と4日しか違わない。

またひとり消えてしまった。

ショパンの面影を探して

これはフジコ・ヘミングのマヨルカ島でのコンサートに関するドキュメンタリーのタイトル。

既に再放送ではあったが、何気なしにつけたテレビからついつい観入ってしまったものだ。

夜中だったので、先日知り合いから頂いた高いウイスキーを少しだけ飲みながら。

普段からあまり飲める方ではないので、ウイスキーなんて味もよく分からないけど、何となく飲みたいような気持になった。

そして、この番組を観ていていろいろ想い出してしまった。

僕がピアノを始めたのは多分4歳くらいの時。

もう既に書いているが、母親の影響だった。そこはフジコ・ヘミングと同じように。

その母親と云えば、僕にはあまり記憶にないくらい、病におかされて、おそらく僕が5歳くらいの頃から入退院を繰り返していた。

父親が「どうも癌という病気らしい」と言ったのをよく覚えている。

「そういえば、写真を撮るといつも身体が少し傾いていたなぁ」なんて言っていたのもよく覚えている。

誰かに入れ知恵をされて、食用ガエルを手に入れてきて、知り合いの料理屋さんに持って行く最中に逃げられてみんなで追いかけたこともあった。

家の庭に小さな池があって「あの池が奥さんの病気に悪い」などと、まことしやかに言った人がいたせいで池を埋めたこともあった。

それを提案した人は「中西さん」と言う人で、当時、中西と云えば「太」だったので、母が亡くなった後、父が「あんなこと言ってふてーやろうだ!」と言ったのもよく覚えている。

それでなくても最近、中西太氏が亡くなって少し想い出していたが、まさかフジコ・ヘミングからそこに繋がるとは…。

よく病院にお見舞いに行った記憶はある。

コバルト療法というのをやっていて「コバルトという言葉を聞いただけで辛い」と言っていた。

どこだったのかは覚えていないが病院から出ると菜の花がいっぱい咲いていて、そこを散歩したこともあった。

菜の花だから春だったんだろうな。その年の冬に亡くなった覚えがある。

母親の想い出というのは、僕には多分2年か3年分くらいしかない。

しかし、音楽に関しては本当に感謝している。

もし、母が僕にピアノを勧めなかったら、父同様、消灯ラッパと起床ラッパの区別がつかなかったかもしれない。

それを危惧してピアノを習わせた、ということを後に祖母から聞いた。

母は39歳という若さだった。

祖母は草月流のお花のお師匠さん。母は幼少の頃からピアノを弾いていたらしい。

そんな家庭に育って、こともあろうに結婚した相手がとんでもない音痴だったので、こりゃ大変!と思ったのだろう。

そんな僕も母が亡くなってピアノから離れてしまった。10歳の時だった。

音楽から離れ、プラモデルに夢中になっていた頃、ギターという物が世の中に流行りだし、手にしてみれば「お、こりゃ面白い」という事になり、やがてはバンジョーの音にも魅かれていく。

そんな事を想い出しながら90歳にもなるフジコ・ヘミングの演奏に聴き入ってしまって、ウイスキーも少し多めに飲んでしまった。

このところ、お酒絡みの話が多いけど、今回はあくまで素晴らしいフジコ・ヘミングの演奏から昔を想い出して、という事なので、そこんとこよろしく!

引き続き、酒

決して二日酔いではありません。

早速友人からメールをいただきました。よっぽどお酒が好きなのかな?

彼は与論に住んでいたことがあるそうで、その当時のお話を沢山聞かせていただきました。

与論というと、ナターシャーの初期、ジーンズの会社の「青年の船」だったか、そういった名目でクルーズ船に乗り込み、数日間与論島目がけて航行する、という演奏を兼ねた旅のお供をしたことが有ります。

確かもう省悟だったので1973年頃か。

その当時、その会社のCMで使われていたのがジョン・デンバーの「サンシャイン~♪」というもの。

起床時、毎食事、何かイベントが始まる時、大きな音で最初の8小節くらいが流れるのです。

全日程が何日間だったか覚えていないけど、一日に何度も同じ曲を聴いて、しばらく頭から離れませんでした。

僕と省悟はトイレに行くときも「サンシャイン~♪」と歌って立ち上がるようになり、お互い「サンシャイン~♪」と発したら何かを始める、という風になっていました。

友人はワインの事も聞かせてくれました。

彼の友人で、断捨離の一環としてどえらく高いワインを処分した人がいたらしく、中には一本50万もするようなものがあったらしい。

彼は「僕だったら10万のワインを飲むより5000円のワインを20本飲みたい」と言っておりました。

僕だったら1000円のもの100本かな?多分死ぬまで大丈夫。いや、残るかも…。

キアラン君じゃあるまいし。

彼等ヨーロッパ人のワインに対する愛情は格別なものがある。

僕が安物を買ってくると「こんなクソみたいなワインを飲んじゃだめだ!」と言って、自分の保管してある物を開けてくれる。

彼の覚えている日本語は「飲み放題」「生大」「フツカヨイ」「いらっしゃいませ」「ゴメンナサイ」なんか全て飲むことに関するような言葉ばっかり。

そういえば、あのコーマックも僕のアパートで騒いで管理人に怒られ、後日「ゴメンナサイ」と管理人室を訪れていた。

お詫びに持って行ったのがなんと「日本酒」だった。

なんじゃそりゃ?

最近、友人とのメールで、お酒について少しだけやり取りした。

とは言っても、僕自身お酒がそんなに好きでも飲めるわけでもないので相手にもなれないのだが。

話のきっかけは、僕が最近安物のウイスキーを買って、寝る前にちょっとだけ飲んでいる、という事。

そして先日、ある人からちょっと高いウイスキーを頂いてその違いが何となく分かった(あくまでなんとなく)という事。

それはアルコールに弱い僕にとっては、本当にちょっとだけで眠たくなるのでちょうどいいのです、という事などから。

友人は、蒸留酒は全く飲まず、ワインかビール、或いは日本酒です、と言っていた。

僕もビールとワインは少しなら割と好きだ。

日本酒はいまいち、かな。飲まないこともないけど。

だいぶ前にホテルカリフォルニアの歌詞に出てくる1969年のスピリットに関することを書いたが、僕自身、蒸留酒とか醸造酒とかよく分かっていなかった。

いまだにそんなによく分かっていないのだが、確かに暑くなってくるとビールは美味しい。

と言いながら、安いし発泡酒で充分だが。

ピザには赤ワイン。

ボンゴレには間違いなく白ワイン。

刺身にはあまり飲めないけど雰囲気で日本酒。それもどちらかというと冷酒。

いずれにせよ、すぐ眠たくなるので出来ることなら家で飲みたい。

外に飲みに行くことはまず皆無。

アイルランド人のように家で散々飲んだ後、パブに繰り出すような真似は絶対に出来ない。

それでも、僕ももう少し飲めたらいいけどな、と思わないこともない。

さて、電気代も値上がりしたことだし、早い目に高いウイスキーでも飲んで寝るかな。

バンジョーは重いで。いや、バンジョーの想い出。

つまらないダジャレのタイトルで始めてみたが、いろんなバンジョーのことを想い出している。

何度か書いたかもしれないが、ピアレスを手に入れたのが14歳か15歳の頃。

それは京都産業大学まで持って行った。

カスガを手に入れたのは多分2回生のころだっただろう。

当時、関西では多くの人がフラムスを使っていたと記憶している。

東京での主流はなんだったのだろう。ケイを使用していた人を数人見た、かもしれない…かな?

もちろん、当時でもギブソン、ヴェガあたりを使用していた人もいただろうが…。

僕がヴェガのスクラッグスモデルを手に入れたのはナターシャーセブンに入ってから。

あれ、最初はカスガを使っていたんだろうか…?

1周年記念のシルクホールでのコンサートでイーグルを使っている写真が有った。

ニッティ・グリティ・ダート・バンドが来日した時、近畿放送のエレベーター前で、ジョン・マキューエンをつかまえ、opus36を弾いて聴いてもらった時はイーグルを使っていた。

後に彼が「あいつはもっといいバンジョーを使うべきだ」と言っていたらしい。

それって初来日の時かな?

イーグルは、確かまだヴェガを手に入れる前にケイを探していて出会ったものだ。

その後でヴェガだったので、恐らくナターシャーでは大きく分けると、カスガ~イーグル~ヴェガ~ギブソンRB500~グレートレイクスとなるんだろう。

ピアレスは散々プラカラーで塗りたくって、最終的にはトゥリーオブライフにしてみたり、と安物ならではの遊びの道具となってしまった。

しかし、ヘッドストックには、楽器屋さんでも見抜けなかったくらいに見事なフィドルシェープの形状が描かれていた。

カスガは流石に(シャレではない)4万円もしたのでそのまま使っていたが、もしかすると、ナターシャーの初期にはもうイーグルだったのかな。

イーグルは後にテナーのネックを京都の職人さんに作ってもらい、それをコンバート物としてテナー仕様になった。

その京都の職人さんは、ここ数年、ウクレレ製作で有名になっている占部さんだったが、銀杏の葉っぱをデザインした綺麗なネックを作ってくれた。

後のヴェガ、ギブソン、グレートレイクス、どれをとっても素晴らしい楽器だった。

今、僕はほとんどゴールドトーンばかり弾いている。

これは軽くていい音がして本当に優れものだ。

もちろん、高価な物を持った多くのバンジョー弾きに交じって弾けば、その音量や深みなど、大きく差が出るだろうが、数人で楽しむには充分過ぎるくらいだ。

そしてその軽さは年寄りにはかなり有難い。

これも軽くて「軽いでぇ」と言いながら良い想い出となり、ゆくゆくはもっと軽いものが出るんだろうか…?

いや、もうこれ以上は無理だろう。

リバティ・バランスを射った男

また懐かしい映画だが、今回は映画の話ではなく、音楽。

このシングル盤はよく覚えている。

映画を観た後だったか前だったかは定かではないが、近所の「うぐいすや」という小さなレコード店で買った。

そこではビートルズもよく手に入れたし…もうおやじさんこの世に居ないだろうなぁ…。

いや、このリバティ・バランスのシングル盤だが、その裏面(B面)が興味深い。

元々、リバティ…の唄と云えばジーン・ピット二―のものが有名らしいが、僕が手に入れたのは、フェアモント・シンガーズが歌っていたもの。

そのB面が変なタイトルだったのです。

結局、A面のリバティ…よりもこの変なタイトルの唄の方が気に入ってしまった。

そして後年、この歌が有名なアイリッシュパブソング「Molly Malone」だという事を知った。

この映画は1962年公開だったので、少なくともその頃から「あ、いいな」と思う歌がアイリッシュソングだったことはいくつか例にあったかもしれない。

フォークソングを歌っていた時も気に入った歌の多くはアイルランドやイングランドからのものだった。

しかし一体誰が「悲しきむらさき貝」なんていうタイトルを付けたんだろう。

そういえば、当時「悲しき…」というタイトルのもの、結構あったかもしれない。

「悲しき街角」「悲しき少年兵」「悲しき雨音」「悲しき北風」「悲しき天使」

日本人は悲しいのが好きなんだろうなぁ。

映画繋がりで…

2019年の9月に僕はAmazing Grace & Chuckについて書いていた。

さしずめ今だったら大谷君かな。

レブロン・ジェームスも…今のフットボールは知らないけど、あの当時だったらジョー・モンタナかな。

なかなか有り得ないことだけど、もしそうなったら何かが変わるだろうか?

いや、ロシア相手では無理か。

そもそも共産国では有り得ない事なのかな?

と云えども、日本でも有り得ない感がある。

「不当な差別はあってはならない」と「差別は許されない」どんな違いがあるのかよく分からない。

正当な差別って? そういう記者の質問に「それは屁理屈だ」と言って逃げていた奴がいた。

元々差別意識が強い奴らがあの党にはうようよしているんだろう。

政治に携わっている人間たちの頭の中身は真から腐っているとしか思えない。

努力義務っていったい何だ?

2時間ほどウォーキングをしていてすれ違う数百台にも及ぶ自転車。

努力義務とやらは一人か多くて二人くらい。

日本人ってこんなに努力しなかったのかなぁ?なんて思ってしまう。

こういう事を張り切って決める奴は、先に一度街に出て状況を見てみないとダメだ。

時々、後ろからギリギリのところを走り抜けていく自転車を見ると、あいつの頭は守ってあげなくてもいいだろう、と思ってしまう。

勝手にこければ…なんてね。おまけにスマホなんか見たりしているし。

他にも、どうでもいいことに金と時間をかけて出来るだけ長いこと美味しい生活をしようという魂胆が透けて見える議員たち。

脱線しまくりだが、大谷君の活躍を観ていて、あの映画を想い出してしまった。

世界中の政治家たちの脳みそが腐ってきた今、頼りになるのは大谷君だけだ。

彼は正にChuckだ。

映画のことを書いていたらまた次々と…。

僕が映画に夢中になったのは、多分母親の他界でピアノから離れてしばらくしてから。

洋画に夢中になり、ジョン・ウエインに夢中になって、コアなところではオーディ・マーフィーやランドルフ・スコットにも憧れ、そのほとんどの西部劇や戦争映画に足を運んでいた。

もちろんまだ子供だったのでシリアスな内容のものはよく分からなかったのは仕方がない。

日本映画はほとんど観なかったが、東宝の怪物ものなんかは沢山見たと記憶している。

マタンゴなどというキノコの化け物の映画はそれなりに怖かった。

あれを見てキノコが嫌いになった子供も結構いただろう。

怖い映画と云えば、これも省悟と二人で観に行った「シャイニング」

思い起こせば、赤坂の例のホテル、ニュージャパンに泊まっていた時、数日間空きが有ったので、映画でも行こうか?というノリで意気揚々と出掛けて行った。

この時も目的のものが有ったわけでもなく、何となく新聞か何かで「お、これ、面白そうじゃん」と言って出かけただけだった。

ところがこれがかなり怖かった。

その怖さはホテルに泊まっている僕らにとって特別なものだった。

暗くなってから赤坂に戻り、エレベーターを降りると、どちらが云い始めたかは覚えていないが「なぁ……」と。

それだけで僕らには分かる。

お互い1人部屋なのだ。

結局、そこそこ広い部屋だったので一つの部屋に枕とかけ布団を持って泊まった。

多分、僕が省悟の部屋に行ったと思う。

しかし、そのことを決めたホテルの廊下が怖かったのだ。

廊下の向う側に双子の女の子が立っている様な気がして。

それにバスタブから誰か出てきそうな気もして。

あの映画を観た人だったら分かるだろうなぁ。

後年になって観た中では「シックスセンス」

あの映画からやたらと家の引き出しが気になったりした。

いや~、映画って面白いですね。

それでは、さよなら…さよなら。

ついでに、また映画

先日、久々にイージ―ライダーを観ていろんな映画を想い出した。

その中のひとつ「未知との遭遇」は最も好きだった映画。

僕は兼ねてからUFOなるものにはとても興味があった。

特にそれらしきものを見たり、そんな場面に遭遇したこともないが、絶対にいる(ある)と思っている。

たしか、高石敏子さんが四条通りか何処かで見た、と言っていたなぁ。

「あ、円盤!」と呟いた途端に、周りの人は空ではなく敏子さんの顔を見た…らしい。

なんか分かるような気がする。

僕はこの映画を観て、即座に想い出したのが、新約聖書の使徒行伝 第9章だった。

天から突然光を受けるサウロ。

それは正にこの映画の全ての始まりに合致した。

そんな意味で非常に宗教観に満ちた映画だったような気がするし、あの5音のメロディを使ったところも非常に興味深い。

でも、あんなもんが実際に目の前に現れたら腰抜かしちゃうかもしれない。

僕はテレビをあまり観ないが、UFOに関するものは観てしまう。

だが、ついでに幽霊のようなものをやり始めると見ないようにしている。

消せばいいのだが興味ないこともない。

やばそうなシーンになると眼を背けたりしたまま、またUFOに戻らないか期待するが、その気配が無ければ消す。

どうも霊と云うのは苦手だ。

UFOには夢がある。ま、宇宙人が攻撃してくる可能性は低いと思うし。

そういえば、エイリアンと云う映画は省悟と二人で観に行った。

映画目的ではなかったが、お、面白そう!と二人で入り、観終わったら飯でも食おうか、と相談して、観終わった後二人ともげんなりして「今日はなんとなくスパゲティの気分じゃない」と…結局何を食べたか覚えていないが。

とに角あれも衝撃的な映画だった。

まだまだ想い出しそうだ。

あ、食べたもの想い出した。ハマムラの中華だった。省悟は肉団子だったと思う。何故なら、あいつどこへ行っても肉団子は食べていたから。定食屋では豚の生姜焼き。よく「しまいに牛になるでぇ」と言っていた。

イージ―・ライダー

衝撃的な映画だった。

しかし、これが公開された時点では(70年)若かった僕らにとって、それほどの衝撃は無かったはずだ。

それが年齢を重ね、更にアメリカと云う国を体感するにしたがってその奥深い内容が身に染みて分かってきていた。

因みに「今風の中」のメロディはこの映画のシーンを想い出して書いたものだ。

何度観てもいたたまれないエンディング。

南部で彼らに向けられた視線は、僕らにも覚えがあるものだ。

ヒッピーのコミューンに立ち寄るシーンにも見慣れた感があった。

70年代はアメリカにとって空白の時代だった、とも言われているが、あまりにも多くの、いわゆるサブカルチャーの出現を追う事が出来なかっただけではないだろうか。

70年代というのはすでに68年頃から始まっていた、とも言われている。

そして現代のアメリカを形成している基でもある。

好きな映画のひとつとしてトップに挙げられるのが「未知との遭遇」これも70年代後半だった。

宇宙人(?)と共に旅立っていく彼が羨ましくも思えた。

ディア・ハンターも70年代後半だった。

そういえばベトナムから来ていたマイクが「あんなロシアンルーレットなんか誰もやっていなかった!」と言っていたが、だいぶ年上の同じくベトナム人のおばちゃんが「あんたみたいなガキに何がわかるんだ!」と怒鳴っていた。

確かにあれは映画上の作り話だという説も多くある…が、しかしかなりのインパクトはあった。

とても観ていられないほどのシーンを持った何度も観たくなる映画だ。

同じように、イージ―ライダーのラストシーンは、参ったなぁ、観てしまったよ、と思いながらモヤモヤ感でいてもたってもいられなくなるくらいの映画だ。

そしてまた観たくなってしまう、

映画も、時をまたいで観るとなかなか面白いものだ。

久しぶりに…

あれよあれよと云う間に月日が流れてしまった。

身体の調子が悪かったわけでもないし、書きたくなくなったわけでもない。

しかし、やっぱりしばしのコロナ疲れだったのだろうか…。

特に何もしない事に慣れてしまったのか。いや、思いつくことはどうせ役に立たない政治家に対する愚痴くらい、そんなことに終始してしまう恐れもあった。

そして思い立って数か月ぶりに書いてもやっぱり「うな丼」はないだろう、なんて思ってしまうが、もうすっかり忘れられているのだろうか。

そういえば「捏造」と言い張った奴も相変わらず知らんふりして給料泥棒を平然とやってのけている。

こういう訳の分からない議員の数を減らして、要らん支出を押さえればなにも国民に増税を押し付けなくても暫くはいけるんじゃないかな。

もちろん素人考えだが、結構そう思っている人いるんじゃないかな。

さて、2023年も少しすれば半分過ぎてしまうが、世の中一向にいい方向に向かっているとは思えない。

地球と云う限られた環境の中でしか生きていけないはずなのに何故、破壊することばかりを考えるのかもよく分からないし。

本当に頭が腐っているとしか思えない。

僕はちょっと前に中、ロ、北〇鮮を地図上から排除してみたが、非常にすっきりしている。

また、一応この3つの国だけの地図も書いてみた。

これが意外と上手いこと引っ付いているんだなぁ。

ならばいっそのこと、この3つだけ出来得る限り地球から遠い星にでも引っ越してもらえればいいのになぁ。

そこでそれぞれが原爆でも水爆でも何でも落とし合って競いでもらえれば何も問題ないのに。

ま、他にもややこしいところは色々あるけど、考えれば考えるほど人類の終焉に近づいている様な気がしてならない。

さてさて、健康面に関しては相変わらず問題は起きていない。

一日15000から20000歩ほどハードに歩き、遅い時間には物を食べないようにしていたらジーンズがゆるくなってきた。

去年の夏からは8キロほど減っているが、腕立てや腹筋などは欠かさずやっているし、多分お腹周りがすっきりしただけなのだろう。

先日、息子と話していて、結論としては、長生きするための健康づくりではなく、死ぬまで健康体でいるために身体を鍛えておこう、という話に落ち着いた。

誰だって明日まだ生きているか分からないし、その時に大きな声で「はい、さいなら」と言えたら、そんなに良いことはない。

こんなことを息子と話すようになったか、と驚いてはいるが、パーソナルトレーナーとして生きている彼には当然のことのようだ。

プラス、そろそろ終活に入らなければならない自分としてもいいタイミングの話し合いだったかもしれない。

とは言え、食べ物に誘われてまたやって来ると思うので、次はもう少し詳しくトレーニングのやり方などを指導してもらおうかな。

そんな事を考えている時、ふと目に入ったのが、どや顔で「こどもまんなか社会」などと寝ぼけたことを言っている国のトップだ。

まず、自分たちの行いを振り返ってみたほうがいいのではないのかな?

結局はこんなことを書いてしまっているが、以前から思っていた、何故か日本人が幸せそうに見えないという事に関しては、やっぱり政治のせいもある、いや、大いにあると感じざるを得ない。

そんな社会を作り上げてきた政治の責任は重いはずだ。まずそこを考え直してからの話ではないか。

また言っていた「こどもの声を聞く」…らしいが、?だ。