坂庭君秘話

あんまり文句ばかり言っていても仕方ないので、少し休憩して、良い話をしよう。

と、思い立ったのが坂庭君とのいろんな話。

もう出尽くしている感もあるけど、想い出せばまだまだある。

彼が生きていればもうじき72歳の誕生日を迎える。

高石さんが12月9日、僕が12月30日、坂庭君が1月20日。

そうしてみると、全員同じ曜日なのだ。ちょうど21日違い。

ラジオ番組とかやっている時はそれをつくづく感じていた。

それよりも前、大学時代に戻ってみよう。

もう書いたことがあるが、初めて彼と出会ったのが京都産業大学の体育館の下の食堂。

今はもう変わっていると思うが、そこでカレーうどんやオムライスを食べるのが日課だった。

オリエンテーリングの日に早くもブルーリッジ・マウンテンボーイズに入った僕はいつもバンジョーを持って通学していた。法学部の勉強…したかな?

そんな僕が新入生歓迎コンサートで先輩たちに交じってバンジョーを弾いた。

その時は、もしかしたら新入生という紹介がされず、新メンバーくらいのかたちで出ていたのかもしれない。

その場にいた坂庭君が数日後、食堂でオムライスを食べている僕を発見。

「あのー、すみません。ちょっと質問が…」「はい。あ、それはこうしたらいいんですよ」などと云うやり取りの後「ところで何回生?」どちらからともなく尋ねると、お互い1回生という事が判明。

あ、その前に僕がバスを降りる時に車掌さん(当時居たのです)にお辞儀をして降りたのを見たらしい坂庭君。ひょっとしてめちゃくちゃいい奴かも知れない、と思い、意を決して話しかけたらしい。

とに角それ以後はなにも言わなくてもお互いの思っている事が解ったりしたものだ。

大学時代は僕がブルーグラス、坂庭君がフォークということなので、あまり一緒に弾くことはなかったかもしれない。

しかし、元々僕もフォーク小僧。僕の憧れはキングストン・トリオ。坂庭君はハイウェイメン。どちらも男性コーラスでバンジョーが入っていて…という共通点があった。

なので、お互いの家(僕は下宿だったが)にはよく行き来していたのでやっぱり弾いていたんだろうな。

下宿生だった僕は坂庭君の家の冷蔵庫を「勝手知ったる他人の勝手」と云いながら開けて残り物を食べていた。

坂庭君のお母ちゃんがもう一品作ってくれたりした。

弟の泰三君、当時まだ小学生だっただろうか。「おい、コーラ買うてこい」なんて坂庭君が云うとピョンピョン走って僕らの為にお使いに行ってくれた。

チロという犬が良く吠えていたが、僕は噛まれたことが無いのに坂庭君はよく噛まれていたらしい。

下宿ではあまり派手に音が出せないので坂庭君の家は、僕らの楽器を弾く場所になっていたのかも。(あ、それと僕にとって家庭のご飯を食べる場所)

まだまだ二人で同じものを求めて、というよりもお互いの知っている事なんかをあーじゃない、こーじゃないと云いながら遊んでいた法学部と経営学部の学生だった。

ナターシャーを始めてからの二人での練習は、多分、他人が見たら「よく飽きもせずに」と云うくらいのものだったろう。

今では無理な新幹線の連結部、連絡船のデッキ、駅のプラットホーム、旅館の部屋、もちろん鴨川の河川敷、逢っている時はほとんど練習していたんだろうな。

ま、そんな意味では大学時代とあまり変わらなかったかな。

以前、坂庭君のことを沢山書いた時に、まだまだ面白い話があるだろうからいつかまとめてみようかな、などと書いたことがあるが、どうも無理なようだ。

18歳から彼が亡くなる53歳まで、最も多感な時期を、そして最も生きている実感のあった青春時代を、遊びも仕事も共に過ごした相手のことなどそう簡単にまとまる気がしなくなってきた。

もしかしたらこんな風に想い出して、彼の誕生日や命日が近くなったら、そして別にそんな日でなくてもまた書いてみたらいいのかもしれない。