前回、初めて外タレを見に行ったのは…というようなことを書いたので、もう少しなにか想い出してみようかな、と思う。
幼稚園から小学校4年までは、とに角クラシックに浸かっていた。
しかし、2歳年上の姉は先生のいうことを忠実に守っていたようだが、僕は自分なりの解釈を大切にしていたようだ。
生徒の中では全くの異端児だったらしい。
初めてフォークソングなるものに触れたのは、恐らくラジオから流れてきたブラザース・フォアの「グリーン・フィールズ」だったと思う。
1960年ということなので、まだ小学生だ。
東京の放送局から流れてきた、それはそれは受信状況の悪い中、なんと美しいんだろうと思った記憶がある。
ほどなくして同じグループの「遥かなるアラモ」を聴き、この映画を何としても観なくては、と思い立ち、一人で上京。
もちろん新幹線など無かった時代。しかもまだ小学生だった。
その後「9500万人のポピュラー・リクエスト」なる番組が、どうやら1963年に始まったらしいが、当時、ギターを手に入れたか入れないかの瀬戸際だったような記憶がある。
取りあえず、流れてくるいろんな音楽をピアノやギターで真似してみた。
そして、街の小さなレコード屋さんで「ビートルズ」という聞き慣れないグループのドーナツ盤を買ったのもこのころだ。
片端から当時のヒット曲をギターでメロディとコードを弾いてみた。もともとピアニストを目指していたせいか、さほどの苦労も無かった。
そして、衝撃的な「フォギー…」との出会いに続いてゆくのだが、まだバンジョーなる楽器がどんな形をしているのか見当もつかなかった頃だ。
やがてバンジョーを手に入れると、あらゆるフォーク・グループの演奏を耳にタコができるほど聴きに聴きまくった。
ひとつの音も聴き逃すまい、と、コピーに明け暮れる毎日だった。
キングストン・トリオのMTA ブラザース・フォアのDarling Coreyに始まり、徐々にブルーグラスへと興味が移っていった。バンジョーという楽器に惚れてしまった者にとっては当然の結果だ。
考えてみればブルーグラスという音楽はコピーに明け暮れるものだ。もし、「あなたのプレイはアール・スクラッグスそのものだ」と言われたらブルーグラス・バンジョー奏者にとっては最高の栄誉だろう。
もちろん、ドン・レノしかり、エディ・アドコックしかり、J Dクロウしかり、そして、僕のアイドルのひとり、ビル・キースしかり、みんなそれぞれのスタイルを持っている。
しかし面白いことにその誰もがブルーグラス魂を持ち合わせている、と感じる。
僕らは日本でなんの情報も入らなかった頃から、こんな感じだろうか…という方法でしか弾くことができなかった。
やがてピート・シーガーの教則本を見つけ、アール・スクラッグスの教則本を見つけ、段々いろんなことが解明されてきた。
それと同時に外タレの来日も徐々に増えてきた。
マイク・シーガー、リリー・ブラザース、ビル・モンロー、デビッド・グリスマン、トニー・トリシュカ、ピーター・ローワン……。
まだまだ挙げればきりがない。
だが、元々様々な音楽に興味があったので他の分野のコンサートにもよく行っていた。山下和仁、チック・コリア、ジョージ川口、後藤みどり、エマーソン・レイク&パーマー、何故か欧陽菲菲も聴きに行ったことがある。
他にも前出したサード・ワールドなどはブルーグラス畑の人はまず、わざわざ出かけて聴きに行かないだろう。やっぱりどこの世界に居ても結構な異端児だったのかもしれない。
91年からのアイリッシュでは、この音楽の奥の深さにとことん引きずり込まれていった、と言えるだろう。
だが、相変わらずホット・ツナ、BB King、ジョージ・ウィンストンなどを聴くために様々な場所に出掛けて行ったものだ。そういえばTower of Powerなんかも聴きにいった。
とに角、ギタリストとして他人の持ち合わせていないスタイルで、なお且トラッド魂をきちんと踏まえた存在になること。そればかりを目指してきた。
そんな意味でも、いろんな場所に顔を突っ込む異端児であったことは大いに役立ったと感じる。
様々な音楽の要素を取り入れて作り上げてゆく独自のスタイルを持つことと、この音楽に対する敬意を常に忘れずにいたいものだ。
伴奏者にとって最も大切なところだ。
たまに昔のことを想い出してみると、欧陽菲菲や、Tower of PowerのWilling to Learnでもまた聴いてみようかな、なんて思う。