大学へ入学したその日からバンジョーを持って学内を歩いていた。大学に行ったらブルーグラスをやろうと決めていたからだ。
今でもはっきり覚えている。「自分、バンジョー弾くんけ?」とザ・関西ともいうべき言葉をかけられたことを。
それは初代バンジョー弾き、酒井さんだった。そして先輩たちに出会ったわけだ。
ギターとヴォーカルの細谷さんは僕とは全然違って坊主頭だった。フィドルの松井さんはニコニコして「お、新メンバー獲得」と、言ったか言わなかったか、そこまで覚えていないが、二人で嬉しそうな顔をしていた。長身のベース弾き山本さんはクールに出迎えてくれた。
僕が2代目ブルーリッジ・マウンテンボーイズのメンバーとなった瞬間だ。
さすがに先輩たちは練り上げられたサウンドでスタンレー・ブラザースや、バージニア・ボーイズの曲を歌い、演奏していた。
僕は必死になって裏打ちの練習をした。ブルーグラスの基本というべきだろうか。
やがて、新入生歓迎会というのがあって、京都会館で先輩たちと演奏したが、その時に僕の演奏にぶっ飛んだのが坂庭君だったのだ。
因みにこの時だったと思う。大阪歯科大学のブルーリッジ・マウンテンボーイズの連中が「わしらこそブルーリッジや」と楽屋に押し寄せてきたのは。
フラムスのバンジョーを得意げに弾いていた奴に思いっきりピアレスのバンジョーを弾いて勝負してやった。
喰うか喰われるかだ。絶対に負けるもんか。そんな気持ちでバンジョーを弾いていた。
やがて、先輩たちの卒業も間近に迫り、新たに加わったメンバー達とブルーリッジ・マウンテンボーイズを続けていた。
ベースは野口さん。彼は初代のひとつ下だったので、ベースマンとして残った。フィドルに伊藤さん。この人も一つくらい上だったかもしれない。そしてマンドリン奏者が入った。中村、いや仲村だったかな。ここで、ほぼフルの編成になったわけだ。
やがて、ひょんなことからフィドルが抜け、4人編成のカントリー・ジェントルメンスタイルに移行していった。
とに角この頃はエディ・アドコックに夢中で、来る日も来る日も彼の音を拾っていた。
ナイト・ウォーク、サン・ライズ、ブルー・ベル、ハート・エイクス、歌物では「ダイナおばさんのパーティ」もう破竹の勢いだった…かな。
とに角、京都産業大ブルーリッジ・マウンテンボーイズここにあり!という感じだった。
毎日遅くまで部室に残り、真っ暗くなった山道を二軒茶屋の駅まで歩いて帰った。しかもバンジョーを持って。
今なら絶対にやりたくない。いや、なかなかできない。それくらいに情熱を注ぎ込む力が体中にみなぎっていたのだ。
ほどなくしてベースの野口さんが抜け、バンドもなんとなく消滅状態になった。その少し前に、ジム&ジェシーが大好きという、藤田君が入ってきた記憶がある。ギターを少し斜めに構え、長身のなかなかハンサムな、いかにもジム・マクレイノルズが大好きって顔に書いてあったような感じだった。
しかし、僕もなんとなくグループから離れていって、個人的に川西の早川君、それから大阪の伊藤君と三人で、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズをお手本にオールドタイムにのめりこんでいった。
そうこうしている間に高石ともや氏と出会ったわけだが、ブルーリッジ・マウンテンボーイズはまだまだ続いていたようだ。
藤田君が引っ張っていってくれたのかな。
5年ほど前に後輩の木内君に出会うまで、ほとんどブルーリッジのことは忘れていた。しかし、彼がいいきっかけを作ってくれて、あれから約50年ぶりにもなる初代の面々と再会することもできたのがつい最近。
先輩も後輩も、みんながあたたかく出迎えてくれて、ブルーリッジ・マウンテンボーイズは自分のブルーグラスの原点であったことを再認識させられた。
いつか近いうちにもう一度みんなで会って演奏に、そして話に華を咲かせてみたいものだ。
ブルーリッジ・マウンテンボーイズの軌跡を辿る意味に於いても。