9月5日(金)晴れ
いざ、コークへ。鉄道のほうがバスより安いので鉄道を使うことにした。
コークの駅では、フィドラーのMatt Cranitchが出迎えてくれる。マットは名の通ったフィドラーだが、公式に会うのは今回が初めて。
お互いに知ってはいたが、いつも挨拶程度にしか会うことができなかった。
フィドラーを彼と合わせることは僕にとっては大切な使命の一つでもある。
思った通り、彼は、同じ曲でも1921年のマイケル・コールマンの録音と1935年のジェームス・モリソンの録音とを耳を澄ませて聴くべきだ、と力説する。そこにさらに1952年のパディ・クローニンも例に出し、全てのアイリッシュ・ミュージシャンはこれらの事柄に正面から真摯に向き合わなければいけないという姿勢を持っている。もちろん彼は演奏者であるが、博士号を持っている人でもある。
ただ、そうでなくてもアイリッシュ・ミュージックという分野に首を突っ込んだ以上、そこまで向き合う姿勢を持つのは当たり前のことだと僕は思う。
彼が、かなり上級のフィドルの生徒さんにいつもどんな演奏家の演奏を聴いているか尋ねたところ、やはりルナサやソーラスの名前が出てきたそうだ。そしてマイケル・コールマンやケヴィン・バークですら聞いたことがない、というそうだ。
日本にも同じ話しは存在する。
アイリッシュ・フィドラーと自身を詠って他人にまで教えている人達の中には、先に出たような先人達の演奏に耳を傾けたことが無い人もいる。
マットは早速希花の演奏に聴き入り「僕は君に教えてあげられるほどではないけど、いろんな話しを聞かせてあげよう」と言って、自身の勉強部屋で多くの資料を引っ張りだし、貴重な音源を聴かせてくれた。
そしてLord Gordonを一緒に弾こう、とフィドルを持ち出して来た。一通り終えると「誰の演奏から覚えた?」と聞く。「マイケル・コールマン」と言うと「うん、確かにその影響が出ている。素晴らしい」と言う。
こういった経験は今までにもしてきたが、実に大切なことだ。遠くまで来たかいがあった。
夜にはCornor Houseというコークで最も有名なパブでセッション。そこはアンドリューと15年ほど前に一緒に演奏したことがあるパブだ。オーナーも覚えてくれていてにこやかに出迎えてくれた。
そして、コークに住んでいるから来ることがあったら連絡してくれ、と言っていたジョン・ヒックスも会いにきてくれた。
セッションは比較的早い時間だったので、家に戻ってから奥さんの作った料理で話しが弾んだ。そしてまたマットと弾いてその日は過ぎて行った。
9月6日(土)晴れ
かわいい猫が2匹、食事を待っている。徐々にみんなが起きてくるまで猫にちょっかいを出して遊んでみた。
ヨーグルトや果物主体の朝食でまた話しが弾み、さぁ、またフィドル談義だ。マットが様々な実例を見せてくれる。それに即した資料も見せてくれる。僕らは3時過ぎの電車でカウンンティ・クレア、エニスに向かうが、それまでたっぷりの講義だった。希花にもとても良い勉強になったことだろう。
奥さんが、土曜日のお昼に必ず焼くというスコーンを紅茶と一緒にごちそうになり、マットが駅まで送ってくれた。
「次はもっと長く滞在するように」と念を押された。こちらとしても願ってもないことだ。ありがとう、マット、そしてリズ(奥さん)。
エニス。今晩はアンドリューとパブで待ち合わせ。そこで12時頃までやって、アンドリューの家に泊まる。
12時過ぎ、タラ。僕にとっての故郷だ。いつも行くフランのパブの中から話し声が聞こえる。この時間パブは鍵を閉めて新しいお客さんは入れないようになっている。そう法律で決まっているようだ。
何度かドアをノックしてみる。やっと中から人が出て来た。「毎年ここに寄ってフランの顔を見て安心してから日本に帰ることにしている」と話すとにっこりして中に入れてくれた。
そしてその奥の方、5〜6人の、僕らもほとんどみたことがある常連さんに囲まれて、きちっとスーツを着たフランが座っていた。
もう店は甥に任せて、週末には必ず常連さんのお相手をするために店にいる、というアンドリューの話しは本当だった。
少し話しをしてフランや常連さんたちと別れた。また星降るタラの夜だ。
9月7日(日)晴れ
早くに目が覚めたので近くを散歩した。6月下旬、アイルランドに来てから今日まで、ほとんどいい日和に恵まれている。確かに誰もが、今年は珍しいくらい良い天気が続く、と言っている。
思い出に残る雨はフィークルのフェスティバルの時くらいだが、あの時も決定的に困ったことにはならなかった。
アンドリューの家のまわりを歩きながら、様々な思い出に浸る。
初めて来たのは2000年だったと思っていたが、もしかすると1999年かもしれない。どちらにせよ、もう随分前だ。
あの時フランのパブを見つけ、隣にあるインド人夫婦経営のチキン・バーガー屋さんでよくテイクアウトをした。今は経営者がかわり、ケバブ屋さんになっている。
洗濯屋さんも変わらずある。パブも同じ数だけある。たった一軒のスーパー・マーケットも、あの年出来たレストランもまだある。
アンドリューがランチにつれて行ってくれた。2人でポーク・チョップを食べ「チップは?」と訊くと「そんなものアイルランドには無い」と言ったのをよく覚えている。今では場所により置いたり置かなかったり、とその判断も曖昧で、且難しい。
モハーの断崖にも連れて行ってくれた。あの時は広場になっている所に勝手に車を止め、そのまま柵も無い断崖をこわごわ見つめたものだった。
その数年後にユーロ圏になり、入場料も徴収されるようになり、落下防止の柵も出来た。今ではすっかり観光地然としている。
アンドリューとテリーとで作ったアルバムFrom There to Clareでカバーに使った写真の場所を歩く。
ここにも思い出がいっぱい詰まっている。初めて見た緑のトンネルに興奮したものだ。
アイリッシュ・ミュージックを演奏し始めて、アンドリューと出会い、様々な人とのステージを経験して来た。
僕にとっての本当の意味での故郷はやっぱりここかもしれない。
15年前とほとんど変わらない景色が嬉しい。
今回の旅でも多くの人との出会いがあり、また以前からの知り合いにもお世話になった。
僕らはまた来年、この地を踏むことになる。
2014年の旅も素晴らしかったが、来年はさらに素晴らしい旅になるように僕らも頑張って生きて行こう。
月並みだが、タラの景色を見ながらそんな思いでいっぱいになった。