「アー ユー オープン?」第2話 フェルナンド

彼の名は、フェルナンド・カサレス・ロハス。カビアが連れてきた若者はまだあどけなさが残る17歳の少年だった。

カビアとは正反対でおっとりした性格、日本語はまるきりしゃべらないし、英語もほとんどダメなのだが、どこか好感の持てる少年であった。

やはり第一印象というのか、それは大事だ。しかし、この一見おっとりした少年は、充分第二のカビアとしての素質を持っていることに、後から気付くこととなる。

他にもヒスパニック系としてはグァテマラ人やエル・サルバドル人などもいたが、みんな真面目だった。

カビアの穴埋めというのは彼にとっても容易なことではなかったはずだ。

しかし、そんな彼もやはり天性のものを持ち合わせていたのだろう。徐々に頭角を現すまでになっていく。

スペイン語まじりで少しだけ知っている英語を駆使して一生懸命に訊ねてくる彼に対して、日本語まじりのスペイン語で答える。とても奇妙な師弟関係だ。

言葉が通じない、というのも悪いことばかりではない。何故ならば無駄話の時間が減るからだ。

フェルナンドもだいぶ慣れてきたころ、日本からとても大きなニュースがとびこんできた。

昭和天皇が危ないという、そう、あの昭和の最後のころだった。

日本人の従業員たちは、来る日も来る日も一様に新聞を読んでは、いったいどうなるんだろうか、下血というのはなんて読むんだろうか、などと話し合ったものだ。

そんな日本人たちのやりとりを見ていたフェルナンド。てんぷらを揚げる手を休め「アミーゴ、いったいどうしたんだ?」と訊いてくる。

このメキシコの片田舎の少年に、日本の天皇陛下のことを話しても無駄ではないだろうか。しかし彼も興味津々だ。

意を決して訊いてみた「Do You Know Japanese Emperor?」すると彼がきょとんとした顔をして答えた「てんぷら?」

説明は必要ないだろうが、敢えて言うと「エンペラー」と「テンプラ」の発音が彼には区別がつかなかったのだろう。

なんともかわいいやつだったが、そんなフェルナンドも結婚を機にやめていった。

カビアやフェルナンドとはそれからも個人的によく会っていた。

カビアは、いったんメキシコに戻ったが、風の便りでふたたびアメリカに潜入した、と聞いた。潜入とは一般的に不法入国のことだが、彼らにとっては当たり前のことらしい。よく聴いていた“ロス・ディアブロス”というグループの歌で突然叫び声から始まる歌があった。何と言っているかといえば「移民局に気を付けろ!」だそうだ。

そんな歌、日本には無いはずだ。

また、カビアはこう言っていた「本当に怖いのは移民局のパトロールではなく、森を抜ける時に出くわす蛇だ。パトロールなんて、捕まれば追い返されるだけ。またいつでもチャンスはある。でも蛇はマジやばい」

ある日、新聞にとても興味深い記事が載っていた。

“メキシコからの不法移民の、とある事柄が今、問題となっている。彼らは何人かがまとまってアメリカのハイウェーを渡る。それはほとんど夜も更けてからであることが多いのだが、必ずといっていいほど最後尾の数人が車にはねられる。それは彼らのほとんどが田舎の、それも極度に貧しい地方の出身者で、アメリカのハイウェーでのスピード感覚を理解していないからだ”

そんな記事だったが、カビアたちは若いし、もう慣れたものでちょっとしたピクニック気分だったようだ。

生まれたところ、住むところが違えば苦労の種類も本当に違うものだ。

ところで、ある日、フェルナンドには日曜の朝、黒人街ちかくの、とある公園に行けば会える、という情報を手に入れた。

彼はそこで仲間たちとバスケットをやっている、という話だ。行ってみると、まるで映画のシーンのように、ラテン系、ヒスパニック系や黒人の少年たちがサンサンと輝く太陽の下で遊んでいる。そして、その中に女房らしき女性と抱き合っている彼を発見。相変わらずトロ~ンとした眼で女房を紹介してくれた。「ロサ・マリアだ。アミーゴ」16歳だという。

彼らの生きていく“力”はストリートから生まれるのだろう。英語のスラングでいう

Street Cred”という、学校で学ぶことのできないものだ。

彼らがよく言う「アミーゴ」という言葉。直訳すれば“友達”“同志”みたいな意味だが、彼らは、会った時、別れる時、また、それ以外の時でも必ずと言っていいほどこの言葉を口にする。

それは民族同士のつながりの深さを感じさせるものだ。いいものだな、と感じる面もある。日本人だったらいちいち「おはよう、友達よ」「また明日、同志よ」なんて言わないだろう。

ちょっと話はそれるかもしれないが、黒人がよく「man」という言葉を語尾につけているのを聞くことがある。

それは彼らの奴隷制度時代の経験からきている、という説がある。彼らの祖先が奴隷としてアメリカに連れてこられた頃、どんなに大人の男であろうと、ひとりの男として、しいて言うならば人間、あるいは人類(mankind)として認識されなかった。一般的に“boy”と呼ばれていたそうだが、青二才、若造、ましてや未熟者などという意味もある。

そんなことから「我々も人間である。一人の男だ」という意識が生まれ、お互いを「man」と呼び合うようになった、という。

いずれにせよ、民族のつながりというものは、その民族が他からの強烈な抑圧を受けたり、なんらかの、自国がひっくりかえるような出来事があればあるほど強くなるような気がしてならない。

そして、そんなことを強く感じさせてくれる人たちがまわりに沢山いたことも事実だ。