DADGADはレイジー・チューニングか?

DADGADのことをLazy Tuningと呼ぶ人が多くいるようです。特にアイリッシュの伴奏としての使用に限ってですが。

ピエール・ベンスーザンやアル・パトゥウエイ(日本語表記はわからないが、ワシントンDCではよく彼と一緒にステージをやったものだ)等の演奏には当てはまらない言葉です。

なにはともあれ、初めてランダル・ベイズに会った時、彼が冗談でLazy Tuningだよ、と言っていました。しかし、彼のギター・プレイにおける余りにも美しい音使いを聴く限り、それは謙遜による冗談でしかない、ということはすぐにわかります。

マーティン・ヘイズとランダル・ベイズによる‘92年のファースト・アルバムは今でも僕のフェバリットのひとつです。もちろんケビン・バークとミホー・オドネルも。

たまにリード楽器の人がギタープレイヤーに関してLazy Tuningの使用者として揶揄するのには勿論ギタリストの方にも責任はありますが、おそらくそのようなリード楽器の演奏家たちの音楽知らず、というところによるものでしょう。

確かにギタリストにとって、アイリッシュ・ミュージックに於いては、いくつかのノーマルなコードさえ知っていればカポタストを使うことによって、大体の曲は解決できてしまう部分もあるでしょう。

多くのDADGADによる伴奏者を聴いてきました。そんな中で、本当に音楽を理解している人が少ない事には驚きます。教育的なことだけではなく、感覚的な事に於いても、ですが。

勿論、音楽理論というものはある程度必要だと思いますが、それを大きく膨らませる感性というものが絶対的に大切なことだと思います。

何千という曲の伴奏をする時、その感性というものが必要不可欠なものとなります。

僕が初め、セッションにバンジョーを持って参加していたころ、数人のギタリストがいました。たまにはギタリストがいないこともありました。

そんな時は「ここでこういう風にベースが動いて行って、次の曲に行った時に気持ちを開かせるといいな」などと思いました。

また、ギタリストがいる時には「そこでその和音はないだろう。その3度の音はミュートした方が効果的だろう。ここで分数コードからルートのベースに持って行ったらいいのに」などと考えだすと、メロディが弾けなくなってしまうのです。

そこで「…なら僕が責任を持ってギターを弾こう」と思い立ったのがきっかけでした。最初の頃、ジャック・ギルダーがあらゆる曲を弾いて(吹いて)僕を試しました。よく覚えているのがPinch of Snuff Party Version,Curlew,Old Road to Garry,など。どれも当時はあまり聞き覚えのない曲ではありましたが、注意深く聴いていると大体の予測はついたのです。

これが、いわゆる理論と感覚の両方を目いっぱい使う、ということだと思います。すでにDADGADを使っていましたが、ジャックはそれまでのギタリストでは聴いたことのないコード感覚に惚れ込んでくれたようでした。

今でも覚えています。彼の家に招待されて「ジャニス(彼の奥さん)これこそ俺が見つけた今までで最高のギタリストだ」と嬉しそうに語る彼を。ジャックはクラシックからエジプシャン・ミュージックなどを経験し、少しだけジャズ・ピアノもたしなむような男でした。

アイリッシュ・ミュージックに於いては再三登場しますが、意地悪なくらいきっちりしています。

そんな彼だからこそ、音楽というものをよく捉えて僕のギタースタイルを受け入れたのだと思います。

このようにリード楽器を演奏していても、常に注意深くその和音の構成などに耳をかたむけることはとても大切です。

リード楽器奏者にそれだけのふところがないと、ギター奏者の音を聴きわけながら演奏するなどということはできないだろうし、結局そういう人達が「ギターは楽だ。曲を知らなくてもなんとかなるから」などという、頓珍漢なことを言ってしまうのだろう。

ギタリストが音楽をよく理解していないと、単調なものになってしまいます。そしてとことんトラッドに精通している必要もあります。勿論バウロン奏者も。伴奏というものはそういうものです。