1964年、15歳、世の中が新幹線やオリンピックで盛り上がっている頃、その少し前にギターを弾き始めた。
家の近所の谷津山という小さな山に友人たちとギターを持って登ると、そのすぐ近くを、開通したばかりの新幹線が走っていくのが見えた。
時は少し進んで‘66年にはビートルズが来て、時事放談(じじい放談)で小汀利得が「世の中でもっともけがらわしいもの」くらいの勢いでけなしていた。
マイク真木が「バ~ラが咲いた♪」と唄ったのも‘66年だったかもしれない。
更に進んで‘69年にはアポロが月に行った。(らしい)西山千さんの同時通訳に聞き入って、こんな職業があるんだと感心したものだ。同じ頃、新宿の反戦フォーク集会に7000人も集まった。
その頃僕は、5弦バンジョーを弾くことに身も心も捧げていた。ピアレスからカスガのバンジョーへと飛躍していった頃だろうか。
とに角当時から他人のやらないようなことをやるのが好きだったのかもしれない。ピアノの楽譜を書きかえていたように、何かとビートルズの曲を弾いてみたり、大好きだった映画音楽を弾いてみたりしたものだ。
勿論、一方では必死になってFoggy Mt.BDもDixie BDもコピーしたが、如何せん、映像も教則本もなかった時代では勘しか頼りになるものがなかった。
それでもありとあらゆる手段でコピー、コピーと歩き回った。大学時代には、レコード屋さんで試聴させてもらい、耳に叩き込んできたものを「こうだった…ようだ」と繰り返し弾き、そして次の日も、また次の日も頼み込んでは聴かせてもらったものだ。
今でもよく覚えている。スタンレー・ブラザースがA面、レノ&スマイリーがB面のアルバム。
お金もままならなかった貧乏学生に気持ちよく聴かせてくれたのは、京都の十字屋さんにいた宇野さんという人だった。
彼もまたブルーグラス大好き人間で、そんな必死になって食い下がる学生を大切に思ってくれた貴重な存在だ。
最近オリンピックつながりで1964年の話がいろいろ出る。新幹線のことも。そういえば貿易センターのビルが出来たのもこの年の終わりごろだったかもしれない。ビートルズがアメリカ進出を始めたのも‘64年だったかな。
僕らが、今やっているアイリッシュ・ミュージックの基ともなるフォーク・ミュージックに興味を示し出した頃。もしかしたら僕にとって‘64年というのは非常に意味深い年かもしれない。
同じころ日本全国にやはりそんな風に悪戦苦闘していた(もちろん楽しくて仕方なかったが)人たちは沢山いただろう。
とに角‘64年ころから‘70年に至るその時代のことを今思い出すのはとても面白いし、それなりに意味もあることだ。初心に帰る、ということに於いても。
歳取ると小言が多くなる、というがやはり音楽一つをとってみてもそれは仕方ないことだ。
アイルランドでさえも、彼らの伝統ある音楽を若者たちはいとも簡単に変えてしまう、と嘆くベテランのミュージシャンが多くいる。
やはり、何も情報がなかったところから必死になって見つけ出す苦労とは、何事にも代えがたいものかも知れない。
情報がいくらでも飛び込んでくるこの時代に、僕は相変わらず飛び込んでくる情報以外のところで音楽をやっている。そんな気がする。‘64年、あの頃の気持ちのままに。
もちろんこのご時世、有難く頂戴させていただく情報も沢山ある。