当時、高校生だった僕らはギターに夢中だった。それも、どんな安物だったかも覚えていないくらい、また、どこで手に入れたかも覚えていないくらいのエレキ・ギターが最初だった。
云わずと知れたベンチャーズのコピーを一生懸命やっていた。
誰もが「テケテケテケテケ♪」とやりたかった時代。
僕らはドラムセットなんて言うものがなかったので、確か長谷川という先輩が机を叩いていた。
やっぱり一つ先輩の小柳さんがリードギター。彼は楽譜を持ってきて「ハイ、これがパイプライン」「これが10番街の殺人」と、次々にレパートリーとなりそうなものを提示してきた。同級生の三好君がやはりギターを弾いていたと思う。ベースのパートだったかな。
そんなある日、机担当、遊び人の長谷川さんが来なかったことをきっかけに(いや、他にもきっかけがあったかもしれないが)小柳さんが「こんなのやってみようよ」と言って持ってきたのが「パフ」の楽譜だった。
「こりゃいいわ。電気代もかからないし、ドラムも必要ない」
僕らは3人でそのままフォークソングに没頭していった。
まず、手掛けたのが「パフ」だったので当然PP&M。しかし、これは明らかに女性が必要だったので、僕らはすぐ、キングストン・トリオに転向していった。
少し前からブラザース・フォア―に憧れていた僕はバンジョーも弾いていたのでちょうど良かったのだ。
やがて12弦ギターもバンドで手に入れた。となると決まってやる曲は「グリーングリーン」
確か「ニュー・クリスティ・ミンストレルス」のバリー・マグワイヤーが“だみ声”でソロを唄うやつ。
これには相当しびれたものだ。
何故か希花さんが知っていたが、その理由は教科書に載っていたからだそうだ。
12弦ギターのサウンドにしびれた曲としては他にもルーフトップ・シンガーズの歌った「ウォーク・ライト・イン」があった。
でもあれ、チューニングするのがいやだったなぁ。
何はともあれ、周りにもフォークソングを歌う人達が段々増えてきて、僕らはサークルを作り、定期的に演奏会を開いた。
自分たちの主催で市の公会堂なんかを借りて、その当時は良く入ったものだ。
一度は東京からいろんなフォーク・シンガーやグループを呼んで(ほとんどが大学生)駿府会館なんていう大きなところでコンサートを開催したこともある。
成城大学だったか「オックス・ドライバース」あと「ニュー・フロンティアーズ」そういえば青山学院の「ブルーマウンテン・ボーイズ」も呼んだかな。
最も印象深かったのはニュー・フロンティアーズの瀬戸さんが「少し前までキングストン・トリオのジョン・スチュアートの家にいて、作ったばかりの曲を覚えてきたので歌います」と言って歌った曲が「デイドリーム・ビリーバー」
1967年12月のビルボードヒットチャートの1位というから、あのコンサートは67年の夏の終わり頃だったという記憶は確かかもしれない。
この曲も希花さんが「忌野清志郎で知っている」と言っていた。面白いものだ。時代を感じる。
当時のフォークソングで印象に残っている曲は沢山あるが、そのうちの多くはアイルランドやイングランド、スコットランドから渡ってきたものでもあった。
そんな風にフォークソングを歌ってきて、ごく自然の流れかもしれないが徐々に古いものへの興味が湧いてきた。
当時ニューポート・フォーク・フェスティバルの録音などを聴くと、僕らの知っているフォークソング、いわゆるモダーン・フォークというものとは少し違った演奏や歌が聴けたものだ。
モリス・ブラザース、フランク・プロフィット、クラレンス・アシュリー&ドック・ワトソン、ニュー・ロストシティ・ランブラーズ。
ブルースではミシシッピ・ジョン・ハートやブラウニー・マギー&ソニー・テリーといった人たちの唄もよく聴いたものだ。
どの演奏にもしびれた。だが、そういうものにしびれながらもモダーン・フォーク・カルテットのコーラスのコピーに明け暮れる毎日だった。
1965年から68年の高校生活はフォークソングに明け暮れていた。が、67年に来日した「ビートルズ」はやはり衝撃だった。と、いえども衛星中継でしか見ることができなかったが。
ビートルズで言えば1963年から64年になりかけている時くらいだろうか、町の小さなレコード屋さんで何気なしに「面白そう」と思い購入したものが「Please Please Me」だったような気がするが「I Want to Hold Your Hand 」だったかもしれない。
そして、確実にそれは彼らのメロディラインやコード進行に没頭した僕のフォークソングへの入り口となったのだろう。