ブルーグラス1968年~1970年

大学入学初日からバンジョーを持って学内を歩いていた僕が入部したのは軽音楽部。

そう、今で言う「けいおん!K-ON!」だ。それももう古い言い方かも。

そこに所属するブルーリッジ・マウンテン・ボーイズ。

最初はトイレの前でバンジョーの後打ちに明け暮れる毎日。トイレにベンジョ―。しゃれにもならないが、とに角これを制覇しないとブルーグラスにはならない。

フォークソングをやってきて、なんちゃってフォギー(と言えども結構完コピだったはず)をはじめ、例えばキングストン・トリオの「MTA」やブラザース・フォアの「ダーリン・コリー」に代表されるスリーフィンガー・スタイルは弾いていたが、完全なブルーグラス編成になると、この後打ちが大切なポイントとなってくる。

電車の遮断機がおりると自然と「カンカンカン」という音に対して「ウンカ,ウンカ,ウンカ」と口ずさんでしまう。

お寺の前を通りかかったら聞こえてくる木魚の「ポンポンポン」という音に対して「ウンポ,ウンポ,ウンポ」非常に不謹慎である。

そういえば、最も不謹慎な例としてこんなのがある。

友人の一人で大学を卒業後、家業のお寺さんを継いだが、彼は無類のブルーグラス好き。ある日、法事に出掛けた時の事。

袈裟を着て車で出かけ、信号待ちしている時に「アメイジング・グレース」を口ずさんでしまったという。手には数珠。ま、神も仏も寛容だとは思うが。

ブルーリッジは、フィドル、バンジョー、ギター、ベースという最もシンプルでそれらしいブルーグラス編成だった。

最初に僕も先輩に交じって演奏したのはShe’ll Be Coming Round The Mountainだったと記憶している。

今の学生バンドはまずやらないだろう曲。他にも「キャベツを茹でろ」とか。

場所は京都会館。軽音学部の発表会だったのかな。余談だが、そこに5弦バンジョーを始めて間もない坂庭省悟がいたのだ。

やがて、フィドルが抜けて徐々にカントリー・ジェントルメンのスタイルになっていくが、この辺のことは既に書いているので先に進もう。

この頃はまだニューグラスなるものは少なくとも日本では存在しなかった。アメリカでは既に新進気鋭の、当時ティーン・エイジャーだったサム・ブッシュやトニー・ライスというところが頭角を表してきたところだったろう。

僕らはカントリー・ジェントルメンの他にもジム・アンド・ジェシーやオズボーン、スタンレー、レノ・アンド・スマイリー、勿論ビル・モンローのブルーグラス・ボーイズ、フォギー・マウンテン・ボーイズ、渋いところではジョー・バルや、グリーン・ブライヤー・ボーイズなどをお手本に次から次へとレパートリーを増やしていった。

ひょんなことからバンドを抜けると、どうしてもやりたくなったのがオールド・タイムだ。

先ずはニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ。この3人編成にはしびれた。

中でも、バンジョーで言えばマウンテンマイナーチューニングの独特な響きに魅力を感じた。他のいい方ではモーダルサウンドということになるのだろうか。

マイナーともメジャーとも言えない独特の響きがなんとも気持ちがいい。

考えて見れば、フォギー・マウンテン・ブレークダウンのEmの部分。最初の録音でギターがEを弾いているのなんかがそれに当たるのだろう。

アイリッシュでも時折登場するが、リードは明らかにマイナー・スケールを弾いているのにギターがメジャーをぶつけることがある。

勿論同じ進行でも次の小節に使う音でモーダルシフトは取らないほうが良いものもあるので、この挾間が何とも気持ちがいいのだ。

ブルーグラスで最も顕著なのはクリンチ・マウンテン・バックステップのあの感じ。明らかにマイナーと言えるメロディに対して正直にギターが完全なマイナーを弾いてしまったら雰囲気が出ない。

こういうものを数多く聴いてくると、中にはもしかしたら最初にやった人の和音感覚が無くて…なんて思ってしまうものもあるが、それも諸説のうちのひとつかもしれない。

なので、たまには大昔の「こりゃひどい!」と思える演奏にも耳を傾けることが、少なくともこういった音楽には必要なことだ。

様々な憶測も加味しながら自身のスタイルを作っていく、という点に於いては。

大学生活のコピー、コピーに明け暮れた日々に別れを告げたのが71年頃から始めたバンド「ザ・ナターシャー・セブン」によるものだったが、それでも結局は毎日毎日様々な音楽をコピーしていた。

1971年.この年にはアメリカでテレビやラジオによるタバコのCMが全面禁止になったと聞くが、2017年の今でも、街角や料理店で他人の吐いた煙を吸わなくてはならない場面に遭遇する日本。

また、マクドナルド第一号店が銀座にオープンしたのもこの年らしい。

全く関係のない話になってしまったが、60年代から70年代にかけてはなかなか面白い時代であったかもしれない。刺激は沢山あったが、自らの手でそれをつかみ取ろうとしない限りはいつまでも手に入らなかった時代。

自身に関する音楽シーンだけをとってみてもそんなことが言えるだろう。