1984年回想 前編

今から約35年前、急に思い立ってアメリカ南部の旅に出掛けた。今回は急にそんなことを想い出したので、記憶を辿ってなにかめぼしいものを書いてみようかと思い立った。

いつも、思い立ったら今でしょ(古い?)という性質なので取りあえず誰の許しも得ていないが書き始めることにしよう。

‘84年春、カーターファミリーのジョー&ジャネットに連絡した。しばらく置いてくれるか?という問いに「いつでもOK」という返事がすぐに来た。

が、まず、‘79年にサンフランシスコで知り合った勝見君という友人に連絡して、西から行くことにした。

彼は「It’s a Crying Time 」という実力派ブルーグラスバンドでベースを弾いていた人だ。

アメリカ遠征の後、ウエスト・ヴァージニアに住み、サンフランシスコに越してきた彼は僕の計画を聞いて「グレイハウンドの旅は長い道のりだぞ。あまり長くてけつが割れるぞ。その証拠にアメリカ人見てみ。前かがみになるとみんなジーンズからけつが見えてるだろ」

確かにそうだ。特におっさんの前かがみでTシャツとジーンズの間に少しけつの割れ目が見える。結構若い奴でもそんな時がある。

ま、これだけ長々と書いたが冗談だ。でもテキサスへの道のりはバスに揺られて40時間ほど。

途中ArizonaやNew Mexico で麻薬の売人にも出会うし、トイレ休憩で置いていかれたりしても誰も面倒見てくれないし、おまけにけつは割れるし。

そもそも何故テキサスかと云うと、そこにも数人の友人が居たので中継地点にはちょうどいいからだ。それにやはりテキサス人という最もアメリカ人気質が強いと云われる連中とも関わってみたかったからかもしれない。

とに角、しばしここ、サンフランシスコで過ごすことにしたが、この辺にも有名なブルーグラスのグループは存在する。

High Countryはその代表だったし、サンタクルーズに行けばローリー・ルイスやサイド・サドルスも、そしてあのデビッド・グリスマンはちょっと北に行けば居るはずだ。

そんなこんなで僕も重いのにバンジョーを持って行ったが、今では持って歩きたくない。やっぱり若かったんだなぁ。

様々な場面でブルーグラスを聴き、そして演奏をしてきた。

勝見君曰く「彼等、西海岸の連中にはあの南部の匂いが出せない、というのも彼らの悩みなんだ」

やはりこれは時間をかけて東へ東へと進み、テネシー、ヴァージニアを体感しなければいけないだろうな、と、約1か月後に乗り込んだ長距離バスの中で思ったのだ。

テキサス人はナイアガラの滝を見て「俺ん家の水道漏れくらいだ」というくらい自身の住む州に誇りを持っている、ということが良く分かった。

コルト45も撃った。それも友人のオフィスの地下室でだ。どこまでもテキサス。

そしてまた約1ヶ月、荒野に夕陽が沈んでゆくのを眺め、再びバスに乗り込んで並行する貨物列車の数を数えた。

さて、いよいよテネシーだ。メンフィスを通りナッシュビルへ向かう。ここまでくると楽器屋さんに置いてある楽器もほとんどがフィドル、バンジョーなどだ。そこらへんに放ってあったものから良さげな物まで。ある店ではコンバースの靴と同じところにフィドルが置いてある。

ここではステイション・インに入りびたり、若きベラ・フレックやマーク・オコーナーそしてジム・ルーニーやピーター・ローワンなどのステージに見入り、また、仲良しになったバンジョー弾き、ジェイムス・マッキニ―とのジャムに明け暮れた。当時流行っていたスウイング系のジャズバンジョーだ。

様々なジャムに出掛けて行ったがどこかの納屋で行われたジャムの時、どえらい感じのいいギターでLast thing on my Mindを唄いながら聴かせてくれた若者のプレイは今でも覚えているが、多分その辺の兄ちゃんだったのだろう。

外に出ると、ダグ・ディラードがべろんべろんに酔って話しかけてきた。一緒にDixie BDを弾いた。酔っていてもダグ・ディラードだった。

ナッシュビルでの想い出は数々あれど、あー、もう想い出せない。

とに角ブルーグラス漬けの毎日。それもかなり高度なものだった。

後編に 続く