さあいよいよヴァージニアだ。目的地はテネシーとヴァージニアのちょうど州境、ヒルトンという小さな村だ。
そこにカーターファミリーミュージアムがある。ミュージアムというとえらい立派な鉄筋コンクリート(古い言い方。またの名をテッコンキンクリート)の建物を想像するが、ここは昔営業していた万屋みたいなものをそのまま使っている。グロッサリーストアだった、ということだ。
その真後ろにこれまた木造のコンサート会場がある。
毎週末、アメリカ全土からカーターファミリーミュージックを求めて老若男女が観光バスでやってくる。
恐らく周りの景色は昔と全く変わっていないだろう。
僕は毎週ジョーやジャネットとこのステージに上った。
ジャネットと二人で地元の小学校でも演奏したし、ジョーと二人でナッシュビルまで出かけていったりもした。
ジョーは運転中によく寝ていたものだ。それほどに広く長い、なにも刺激のない道をひたすら走る。ときおり鼻歌を歌いながら。でもその時は起きているから安心だ。
彼とは近くのホルストンリバーという川で昼ごはんのナマズを釣ったものだ。
朝ごはんはジャネットの作るグレイビーとビスケット。これが絶品で時折トマト味のグレイビーも作ってくれる。
この朝食は僕のフェイバリッツになり、よそのダイナーに寄っても必ずグレイビー&ビスケットを注文したものだ。
庭の野菜作りも手伝い、山に登り南北戦争当時の薬きょうや先住民の使っていた道具などを見つけては遠い昔に思いを馳せたりもした。
思えばこの時の感覚は今でもアイルランドで感じているものと同じだ。
それは、どんなに多くの音楽を聴いてきた音楽評論家でも得ることのできないものだろう。
何度も書いてきたかもしれないが、音楽が大自然からの恵みだということがアイルランドで感じて来たことだったが、そこにはこの‘84年のカーターファミリーとの暮らしの中にも感ずることだったのだ。
あの時はそれを本当に心から感じるには若すぎたのかもしれないし、まだまだ行くぞ!みたいな自分だったのかもしれない。
人生を折り返してしばらく経った今の自分だからこんなことがいえるのかな。
朝の光が緑に囲まれた大地を照らし、急に激しく降る雨は容赦なく山々を打ち、そしてまたキラキラと光る水玉を含んだ緑が大地を包み、やがてオレンジ色に輝く夕焼け空を見上げ、夜になるとまるでラッシュアワーの新宿のように無数の蛍が飛び交い、遠くにコヨーテの鳴き声がする。
そんな暮らしの中でカーターファミリーソングを夜な夜な唄って過ごす。
それにしてもA P・カーターの持ち物だったというマーチン000-28(だったと思う)は凄いギターだった。よく弾かせてもらったものだ。
そして、ワシントンDCに向かい、大塚あきらさんと共に多くの時間を過ごした。
セルダム・シーンとのステージやあきらさんのバンドGrazz Matazzとも毎週のように演奏させてもらった。
まだ髪の毛ふさふさだったデビッド・グリア―と出会ったその晩、彼の父、ラマー・グリアと会った。僕にとっては伝説のバンジョー弾きだ。
ここでも毎日ブルーグラスに明け暮れた。
そしてニューヨーク。
街を歩いているとフィドル・フィーバーのコンサートをやっていたがソールド・アウトだった。でも小さな公民館のようなところで外に音が漏れていたので少しだけ聴くことが出来た。
でも、この大都会にはやっぱりジャズが似合う。レス・ポールを間近で見たのもこの大都会の小さなバーだった。
ここにいると無性にヴァージニアに戻りたくなったりもした。
実際、何回グレイハンドに揺られたことだろう。この大都会を拠点にして、テネシー、ヴァージニア、ケンタッキーなどをあの重いバンジョーを持って駆け巡った。
この音楽の匂いを求めて。
そんな1984年を今少し振り返ってみた。