あれは1993年頃だったかな?ファーストアルバムをリリースしたばかりのマーティン・ヘイズがサン・フランシスコのプラウ&スターズに登場した。
ギタリストはランダル・ベイズ。
僕はぎっしり詰まった客席の前から3番目くらい、ほとんどかぶりつき、という場所に居た。
アルバム同様、モーニング・スターから始まった素晴らしい演奏。
マーティンもさることながら、借り物のヤマハのギターを弾いていたランダルの素晴らしかったこと。
終了後、少しマーティンと話をし、そしてランダルにDADGAD?と訊くと、そうだよ、とにっこりして答えてくれた。
それからほどなくしてデニス・カヒルが相方としてバークレーに現れた。
この音楽には精通していなかったデニスのデビューは、まだまだ僕には満足いくものではなかった。
ギタリストとしてはミホー・オドムナルをよく聴いていた僕は、その流れでランダルの様なプレイの方が性に合っていたのかも。
マーティンとデニスはかなり前からの音楽仲間であったらしいが、このスタイルはまだまだ実験段階のように感じた。
しかし、徐々に二人の演奏はがっぷり四つに組むようになってきた。
その頃にはどこのフェスでも一緒になる事が多く、彼ともよく話をするようになった。
「いやぁ、大変だよ。覚えることが多くて」なんて良く言っていた。
ある日、彼等のコンサートがプラウ・アンド・スターズであったのだが、確かデニスが最初の奥さんを事故で亡くした直後だったと思う。急遽、僕がギターを弾くことになった。
事前に向かいのイタリアンレストランでピザを食べながら、曲の相談などを軽くした。
「あんまりぶっ続けにやるなよ。身体が持たないから」「いや、大丈夫だよ。気楽に行こう」
なんていう会話をして、さていよいよ始まり。
パブには入りきれないほどの人が今か今かと待っている。
初めてあんたを観た時、俺はあの辺に居たんだよ、なんて彼に言ったら面白そうに笑っていた。
やがて、チューニングを始めると、それだけで騒がしかったパブが静まり返った。それから先は…心配した通り、20分ほどのセット。次から次へと曲が繫がる。
そして、乗ってくるとひとつの曲を5回も6回も弾き、髪を振り乱し、徐々に近づいてくる。時間と共に魔物とも云える変貌をとげていく。
デニスが、覚えることが多くて大変だ、と言っていたけど、どうやらそれだけではなさそうだ。この終わりの見えない嵐のような演奏に付き合うためにはよほどの精神力が必要なのだろう。別な意味で「嵐を呼ぶ男」だ。♪おいらはフィドラー♪
2011年から毎年フィークルのフェスに出掛けていた。
デニスはギターのワークショップを担当していたが、ある年のワークショップでこう言っていたそうだ。
「みんな、このフィークルにいる間にジュンジのギターを聴け」
僕は常にアンドリューと共に演奏していて、それはそれは兄弟の様な演奏ぶりと良く言われていた。
彼がどうしたいか、どんな事を望んでいるかが手に取るように分かった。
ひょっとして、あの初めてのデニスの登場からすると、今やもうマーティンにとってデニスはそんな存在だったのだろう。
あまり詳しくは書かないが、2015年にフィークルに演奏に来ていた希花さんが、デニスの命を救った。
その5時間ほど前「よーデニス。お前いくつになった?」「俺、もう60だよ」「そうか。お互い身体には気を付けような」なんていう会話をした。
その後、僕らはイデル・フォックスとのギグがあり、その時、司会の女性が希花さんの事を「彼女は医者の資格も持っている」と一言入れたことで彼の命が救われたのだと思うと、なかなかに奥深い。
その翌年、命の恩人に挨拶に来たデニスが言われていた「これからは毎年きちんと健康診断にいくのよ」
いや、実際こう言ったかどうかは分からないが、とに角身体に気を付けるようには釘を刺したようだ。
ここ最近になって彼の事をまた聞くようになったので、ちょっと心配していた希花さんが心情を語った。
「あの時、自分の持っている知識で何とか彼を救うことが出来たけど、誰だっていつかは死ぬんだし…複雑だなぁ」
今日、持っている知識を全て使い、渾身の力を振り絞って、助けた命が明日どうなるか分からないって、それは医者にもどうしようもできないことだ。
恐らくデニスの死に関しては、多くのミュージシャンやファンの人達が感じている喪失感とはまた違う視点から、彼女は複雑な気持ちになっているに違いない。
90年代半ばからのこのデュオは至高の芸術だったと云えるだろう。
マーティンに寄り添ってきたデニス・カヒル、素晴らしい芸術家であり、愛すべき人物だった。