ザ・ナターシャー・セブンとその時代背景 1

1971年、1月。高石ともや氏と出会った。ちょうど同じ時期、ブルーグラス45の2代目がアメリカ・ツァーをするので、バンジョーで参加して欲しい、という依頼があった、と記憶している。僕の記憶が確かなら、僕の代わりに黒川君というとても上手いバンジョー弾きが行ったと思う。

何と言っても、もう40年以上前のことだ。そうそう覚えていない。だが、この話はちょうどナターシャーをやり始めた頃にぶつかっている、という点に於いて、とても似た話しが僕にはあるので、確かである。

その似た話しというのは…ちょうどアイリッシュを始めた時、ピーター・ローワンから電話があり、新しいプロジェクトでバンジョーを弾いてくれないか、ということだった。

今はアイリッシュにぞっこんだから、と言って断った。1991年のことだ。

 

さて、ナターシャーの話に戻ろう。

みなさん知っているように、高石氏は当時、すでに高名なフォークシンガーであったが、やはり根っから音楽が好きな人である。

お金とかいうものにはかなり無頓着な人だ。名声というものはこの商売に関わる人にとっては魅力的なものだ。それは当り前のこと。

ただ、彼がキャリアを一旦捨てて、本当のフォークソング探しの旅に出たことが、後にナターシャー・セブンを生む事になったのだから、“富も名声も捨てて”という表現があてはまるのだろう。

事実、ナターシャーの初期「高石ともやは気が狂ったか」と評した人達もいたそうだ。そして、ブルーグラスを日本語で唄うという事に対しても「もうすでにブルーグラスではない」「ブルーグラスをバカにしている」などいろいろあったものだ。

だが、僕や坂庭君は気にもせず、高石氏の素晴らしいアイディアを追従しながら、とことんトラッドな20年代のスキレット・リッカーズやリリー・ブラザース、モリス・ブラザースなどにも聴き入り、自分たちなりにブルーグラスやオールドタイムも研究していた。

ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズもしかりだ。思うに高石氏も僕も坂庭君も、うわべの音楽が嫌いだったのだ。

ちょうど当時、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドとクロスビー・スティルス&ナッシュ(ニール・ヤング加入前)のアルバムが出た頃で、たしか高石氏のお気に入りの二つであった。特に、ニッティ…ではフィドルとバンジョーのジョン・マッキューエンがひと際彼らの音楽にスパイスを加えていた。いや、カントリー・ロックの中にブルーグラス魂を開花させていた。それは、当時多く存在した、どのカントリー・ロック・バンドとも違うサウンドを生みだしていた。

そして、こんな音楽でありたい、というのが高石氏の口癖だった。

僕が当時良く聴いていたのは確かピ-ト・シーガーの“ウィー・シャル・オーバー・カム”というタイトルのライブ盤だった。なんか逆みたいだが…。そんなものをまだ、クライマックスで売れまくっていた坂庭君が加入する前に高石氏と二人でよく聴いたものだ。

そして、ある時アメリカから里帰りした元ブルーグラス45の大塚あきらさんとバッタリ東京駅で出会った。その時に彼が持って帰ってきたアルバムの中に“ニュー・グラス・リバイバル”のデビュー盤があった。

今のブルーグラスで一押しだ、という彼の言葉を信じて早速購入。そして、針を置いたとたん体中を稲妻が走ったようだった。火の玉ロックから始まったそのアルバムにはまさにぶっ飛んだ。

時に、ほとんどリアル・タイムで日本に到着したニュー・グラスの幕開けに、僕らも必死になって“ロンサム・フィドル・ブルース”をコピーし、演奏したものだ。

後になって、事実上のリーダーであるサム・ブッシュが参加していた69年頃のバンド“プアー・リチャーズ・アルマナック”を聴くことにより、彼の素晴らしいトラッド志向と限りなく幅広いアレンジ能力を知るのだ。

1972~3年。ナターシャー・セブン初期のこと。ほどなくして、ボシー・バンドやディ・ダナンのレコード盤と出会うことになる。