ザ・ナターシャー・セブンとその時代背景 2

初めて高石氏と練習した曲は“Roll in my Sweet Baby’s Arms”だったと記憶している。そう、“あの娘のひざまくら”だ。

ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズや、バスター・カーター&プレストン・ヤングを参考にして、何度も何度もくりかえし歌った。

当時、まだ僕は日本語で歌う、ということ、特にブルーグラスではそのことに慣れていなかったので、なんか変だなと思ったことも事実だ。多分、大学時代にさんざん英語で歌っていたものだから、だろう。

もちろん、‘66年頃の“バラが咲いた”から始まった日本のフォーク・ブームだったし、いくつかのフォークソングは日本語でも唄っていた。高校時代のバンドではオリジナルもよく作ったものだ。

ちょっと昔話。最初に聴いたフォーク・グループは“ブラザース・フォァ”だった、と記憶している。

まだ小学生の頃、“遥かなるアラモ”という映画を観るために東京まで出かけて行った。その時Dm~Dmajorという進行で美しく唄われた“The Green Leaves of Summer”は後に僕がギターを手にした時の最初の課題曲だった。

やがて、バンジョーを手に入れると、その演奏技術がもう少し高かった“キングストン・トリオ”へと移行していったが…。

当時は“ハイウェイメン”“タリアーズ”“トラベラーズ・スリー”それに少しあとになって“モダーン・フォーク・カルテット”などをよく聴いていた。

余談だが、“トラベラーズ・スリー”のレコードジャケットを虫眼鏡で見て、バンジョーのピックの付け方を研究したものだ。

ナターシャーを始める少し前は“モダーン…”とブルーグラス、オールドタイミーをミックスしたようなバンドを作っていた。

その当時は、ジャンゴの“ホット・クラブ・オブ・フランス”もよく聴いていたうちのひとつだ。

“モダーン…”は当時のフォーク・グループでは珍しく、コーラスが“フォァー・フレッシュ・メン”ばりのジャジーなものだったが、かなり忠実にコピーした。

コーラスのパートひとりひとりの音階は面白いように飛んでいる。今までの僕らの常識では考えられなかった。高校時代から聴いてはいたが、正式にコピーし出したのは‘69年から‘70年にかけてくらいだろう。

京都産業大学ブルーリッジ・マウンテン・ボーイズで先輩と喧嘩してグループをぬけることになる前後かな。

大学では法学部(京産では別名“ぁ法学部”)に在籍していたが、ブルーグラスを演奏するために行っていたようなものだったので、将来何をするかも考えていなかった。

音楽で生活をすることも考えていなかった。もし、母親があんなに早く亡くならなければ確実にピアニストの道を選んでいただろうけど。

そんなときに高石氏と出会ったわけだ。あの娘のひざまくら~と唄いながら、変だなぁと感じつつも、これは面白いかも、って思っていた。

やがて三木トリローの“サン・サン・サン”や“近江の子守唄”などもレパートリーとして取り入れた。

もちろん“Foggy Mountain Breakdown”も。そして、日本語で唄う、ということにもだいぶ慣れてきた。

高石氏の歌は、人々の心の奥深くまで感動を与えるほどの魅力あふれるものであったし、僕も彼と出会ったことで音楽観が変化していくだろう予感がした。

いろいろ変わった人達とも共演した。イッセー尾方、ツノダヒロ、なぜかアイドル歌手の渋谷哲平と仲が良くなった。岩崎宏美とも仲良しだった。

小沢昭一、野坂昭如、永六輔、若林美宏(11PMのベッド体操の人)浅川マキ、などとも一緒に出演したものだ。

野坂さんが僕らの楽屋に来て「新人歌手の野坂です」とすっとぼけた挨拶をして出て行ったこともあった。

浅川マキさんと同じ楽屋になった時「あたしが化粧を落とした顔を観たのはあんたたちが初めてよ」とすごまれた。

若林美宏が突然ステージで素っ裸になったのには度肝を抜かれた。あれはどこだっただろう。渋谷公会堂だったかな。超満員のお客さんは一瞬言葉を失った。他の出演者もスタッフもオロオロするばかり。

しかし、あまり見事すぎて、そして自然発生すぎて、大胆すぎて何が起こったのか分からないくらいに時間が過ぎてしまった。“ワイルドだろぉ~”どころではない世界だ。

まだ初期の頃、僕らは高石氏の文化人としての活躍ぶりに目を見張るばかりだった。