本当は最初に書くべきことかもしれないけど、敢えてこの最終回に書いてみようかな、という事柄からまず始めます。
高石氏が住んでいたところ、福井県、当時は遠敷郡名田庄村といっていたが、今は合併されて名前が変わっているそうだ。
初めて名田庄村を訪れた時、これから吹き始めるだろう新しい風をまだ感じることはできなかった。
大学にも、ろくに行っていない中途半端な学生気分だったのだろう。
でも、来る日も来る日も、近くのお不動さんの滝のところまで山道を歩いては、声を出して自然の中からかえってくる自分の声に耳をすませた。
今、演奏しているアイリッシュ・ミュージックも同じだ。自分の演奏は自然の中に溶け込んでいかなくてはいけない。それでこそ音楽を演奏している、といえることだ。多くのアイリッシュ・ミュージシャンから後に学んだことは、今思えば1971年から体の中にいれていたのかもしれない。
山の彼方からかえってくるカーター・ファミリーソングの数々。それに、バンジョーの小気味よい音も、マンドリンのトレモロも、ギターのベースランも、みんなみんな山の中に吸い込まれて、そうして、かえってくる。
フォークソングの真の姿がそこにあった。いや、全ての音楽の真の姿がそこにあった、と言えるだろう。
名田庄村から始まったザ・ナターシャー・セブン。世に名前が出てくると、普通の音楽に物足りなさを感じていた若者たちが、まるで名田庄村を聖地のように訪ねてきた。
確かに、その時代背景の中にあって、他に類をみないグループであった。本当に高石氏という稀有な存在がなかったら、僕らも開花しなかっただろう。
そして、数多くいたブルーグラスの演奏者たちのなかから、これはなにかを持っている、新しい風を起こすことができるかもしれない、と感じて僕らを起用してくれたことに於いても、並はずれた感性を持ち合わせていた、と思わざるを得ない。
実際、多くのフォークイベントにも参加したが、僕らのようなスタイルは皆無だった。そういう時代からずっと日本の音楽界に感じることは、誰かみたいなサウンド、というものが多すぎることだ。
ナターシャーの最初のころ、よく高石氏が言っていた。「お客さんは、アール・スクラッグスも、ジョン・マキューエンも知らない。知っているのは今目の前にいるあなただけだ」
そして、それはアメリカでアイリッシュを始めた時もずっと意識してきたことにつながっていった。
最近面白い話を聞いたが、ある友人のハーモニカ・プレイヤーの教室に、他でも習っている、という若者が訪れたそうだ。
そして、まず、なにか吹いてみてくれ、というと「オリジナルです」といって訳の分からないものを吹き始めた。そこで「例えば、ブルースのスケールのようなものはどう?」と訊くと「それってなんですか?」という答えがかえってきたそうだ。
他のところでは「まず、オリジナルを作れ、と教えられた」ということらしい。
オリジナルというのが、果たしてオリジナリティーだろうか。もちろん、僕にしても多少のオリジナル作品はあるが、それは当然のことだろう。
ナターシャーにもオリジナル作品は数多くある。
だが、音楽に於いて本当のオリジナリティーというものは、そのサウンドを聴いた時、他の誰でもない、という音を提供できるかどうか、ということだろう。
並みいるマンドリン弾きの中でも、サム・ブッシュの音は明らかに違う。デビッド・グリスマンもそうだ。ジェスロ・バーンズも。B・Bキングの歌とギターは…とにかく、音に歌に個性が溢れ出ている。
ザ・ナターシャー・セブンが1971年からずっと追い求めていたもの、そして数多くの人達を惹きつけてきた理由は、ザ・ナターシャー・セブンでしかない何かが確実にあったからだといえる。
‘84年までしか分からなくて申し訳ないが、井芹まこと(フィドル)蓑岡修(ベース)山本よしき(ベース)北村けん(ベース)金海たかひろ(マンドリン)伊藤芳彦(ベース)木田たかすけ(全て)兼松豊(パーカッション)進藤さとひこ(ベース)そして、大学時代からの無二の親友だった、坂庭省悟(いろいろ)これだけの人達が、ザ・ナターシャー・セブンとして一緒に唄い、演奏した。
今僕は、ナターシャーで得たお金には代えがたい財産と、新たな音楽パートナーとで、他の誰とも違う音楽を目指している。
同じアイリッシュを演奏していても、最もシンプルな「フィドルとギター」という、決定的に難易度の高い組み合わせをどう表現するか。
ナターシャーで唄ってきた歌を自分たちの基本であるアイリッシュ・ミュージックと、どう組み合わせて他と違うものを創り出していくか。
ピアノから音楽を始めて、かれこれ60年、今までに聴いてきた音楽、演奏してきた音楽をいかに自分のスタイルにしていくか。
まだまだ課題は山積みだが、ザ・ナターシャー・セブンで培ってきたものは、今また新たなパートナーと共に、自分の中でふくらみつつある。
高石ともや氏、そして、マネージャーであった故榊原詩朗氏に、そして僕らの為に働いてくれたスタッフの面々に、そしてもちろん、あの時代、どこにもなかったへんてこなサウンドを支持し、そして今でもその気持ちを変わらず持ち続けておられる皆さんに深く感謝いたします。
また、なにか思いついたら書きますが、ひとまずこれで終わり。