フォークソング考

音楽評論家でも、歴史研究家でもないので、詳しい話は書けないかもしれないが、日本にフォークソングなるものが上陸したころから歌い、演奏してきたのでなにか想い出して書いてみてもいいかな、という気がする。

それというのも先日、初めて南こうせつのコンサートというものを聴きに行ったのだが、それはそれは驚きだった。

今の若者たちが立ち上がって盛り上がっているのとほとんど同じような光景が、開演前から見られた。でも、明らかに歳のころは僕と一緒くらいか、5~10歳くらい下の人達だったが。

確かに僕も宵々山コンサートでの盛り上がりは経験している。しかし、それとは明らかに違う盛り上がり方だ。

恐らく、アリスや他のいわゆる“売れているフォーク・グループや、フォーク・シンガー”のコンサートというものはああいう感じなんだろう。

実に面白い。もう、もはやフォークソングではない。すくなくとも僕にとっては。

フォークソングを始めた頃、よく感じたのは東京方面の人達はいわゆる“モダーン・フォークというものに憧れて、ひたすらPP&M, Kingston Trio, Brothers Fourなどのコピーを展開する、あるいはそのスタイルを取り入れた人達が多かったのに対して、関西では早くから自分たちの言葉、スタイルでフォークソングを解釈する人達が多かったような気がする。

もちろん、反戦運動は東京でも起きていた。

僕は静岡という立地上、東京に出向くことが多く、記憶によると森山良子、PP&Mフォロワーズ、フロッギーズ、ニュー・フロンティアーズなどのフォーク・グループをよく聴いていた。

中でもオックス・ドライバーズという2人組の演奏に魅かれていった。彼らはキングストンやライムライターズのコピーをしていた。他にもハイウェイメン、タリアーズ、トラベラーズ3などのコピーもしていたかも。

とに角、多少の反戦、反社会的な息吹きは残しつつ、あくまでモダーン・フォークであったことは事実だ。

大学入学と共にブルーグラスに傾倒していったが、フォーク・グループとの接点もかなりあった。

高田渡と知り合ったのも、坂庭君と知り合ったのも大学時代だ。

京都産業大学ではいなかったが、立命館や京大に出向くとヘルメットをかぶって、角材を持った連中が一杯いた。

フォークソングも1975年のベトナム戦争終結後には少しづつ変化していったようだ。いや、少し前の泥沼化したころからかな。そして、いわゆるニューミュージックなる言葉が頻繁に使われ出したのもこの頃だろう。

僕自身、さんざんピート・シーガーやボブ・ディランなども聴いてきたが、そのメッセージ性よりも音楽としてのフォークソングに興味があったので、彼らのルーツを探ることの方が面白かったのかもしれない。

そして行きついた先がブルーグラスやオールドタイム、カーター・ファミリー、ということになるのだろう。

“売れたい”“テレビに出たい”というような欲望もなく、更に、メッセージ性を出したい、といった思いもそんなに強くはなかったのだ。

そんな中で高石氏と出会った。当時は彼のことを“反戦フォーク・シンガー”として認識していたが、彼もニューミュージックなるものの出現は予知していたのだろう。いち早くフォークソングのルーツを探る旅に出たのだから。

やがて、僕らは日本に於いて特殊な存在となった。

ブルーグラスでも、反体制でも、ましてやニューミュージックでもない。しかし高石氏のカリスマ性による何かしらのメッセージを残すという、それこそ新しい形のフォーク・グループとなったわけだ。

あの頃が良かった、という気もないし、時代背景も多分に影響していたのだろう。それと何といっても組み合わせの妙、というものは大きかった。

とに角、最初の話に戻るが、あんなに盛り上がるコンサートの中でも何故か“しらけている”自分。こうせつは友達として大好きで、音楽的にも優れているし、素晴らしい感性を持ち合わせているし、申し分のない男で、ショーも楽しい。

これはひとえに自分の性格なんだろう。他人と一緒になって大騒ぎ(バカ騒ぎではない)できないのだ。

幼稚園の時も「みんなと一緒に踊りましょう」なんて言われようものなら、一人だけ隅っこで立っていた。そんなことを思いだした。

フォークソング。その社会性と音楽性、イベント性。様々な視野から今一度考えてみるのも面白いかもしれない。

ついでに、2015年を機に、再び安保闘争という言葉が聞こえてくるか、も。