ビル・キース

長年のアイドルであったビル・キースが先日亡くなった。僕が5弦バンジョーなる楽器に出会った60年代初頭、日本に於いてこの楽器はまだそれほどポピュラーでなかったが、その当時(詳しくは63年頃)彼はビル・モンローのブルーグラス・ボーイズにいた。彼の回想記の中にこんな文章があった。

「GからCにいくとき、僕は7thだけではなく、9thを強調したフレーズを弾くことにしている。そうすることによって次のコードにいく予感が更に増すんだ。一番最初にそれをやった時、ビル(モンロー)がハッとした表情で後ろを振り向いたのを覚えている」

この“予感を与える”という音運びの選び方に感動したものだ。もともとピアノお宅の僕にとって和音の組み立てはとても面白い作業だ。

70年代、ずっと会いたかった彼を自宅に招待した。来日時、すぐ近くに宿泊していたので連れ出した、というわけだ。

ジャズ曲のアレンジに関する様々なアイデアを見せてくれた彼は、何度も何度も「うん?ここはこの方がいいかな?」などといいながら、親切に説明してくれた。

また、いろんなものの構造を穴のあくほど見つめ、中身がどうなっているか調べてみたい、という顔を見せる彼がキース・チューナーの考案者であることはうなずける。

もの静かな勉強家という感じだ。

その彼と、アイルランドで再会したのは2002年頃。ジョニー・キーナン・バンジョー・フェスティバル、ロングフォードでのことだった。

偶然にも同じB&Bに宿泊していた彼と朝食を共にしたが、話が弾んで2時間以上も紅茶を飲んで過ごした。他にピート・ワーニック夫妻、それからモーリス・レノンも同席していた。モーリスは言わずと知れたStockton’s Wingのフィドラーだ。ブルーグラスとアイリッシュの両面から…話は弾むはずだ。

彼のメロディック奏法は、今では頭が混乱し、指がもつれてなかなか弾けないが、長い間僕の重要な一部分であった。

Beating Around the BushやNoraなどは最も得意とする曲だった。

彼の話で、本当に彼らしいなと思ったエピソードがある。

「映画Deliveranceの音楽を担当しないか?という話があったんだけど、よく考えた末に断ったんだ。あの時僕は世界を見てみたかったし、旅をすることがとても好きだった。そしてそれをできるのは今しかない、と思っていた。だから断ったんだけど、映画は大ヒットし、Dueling Banjoも大ヒットし、世界のどこでも演奏されるようになった。おかげで僕の代わりにこの仕事を受けたEric Weissbergはハリウッドに居た切りになってしまった。どこへも旅ができなかった。お金はいっぱい入ったかもしれないけど、僕にとって大切なのはお金じゃぁない。その時自分がなにをしたいか、そして本当にやりたいことに向かって進むことがとても大切だと僕は思う」

ビル・キース 75歳。多くのことを教えてくれた人だった。