反戦運動とフォークソング

俗に言うベトナム戦争というのは、1960年頃から1975年くらいまでだろうか。ちょうど僕らが高校、大学、そして社会へと進む時代だった。

何不自由なく、普通に暮らしている僕らにはほとんど無縁といえるものだった、としか言いようがない。

実際には数々の恩恵にも授かっただろうし、悪い方の影響もあったかもしれないが、そんなことも全く感じることなく暮らしていた。

フォークソングに興味が出てくると、当然のごとく反戦フォークなるものも耳に入ってきた。

だが、それらが本当に自分の気持ちに入ってきたのは正直、終結してから随分経ったアメリカに渡ってからだろう。

歩いていると多くのホームレスに出会った。

「空軍兵士としてベトナムから帰ってきて、職もなく困っています。どうか少しのお金をめぐんでください。エディ。」

通りの向かいには「僕の兄貴は空軍の元軍人でエディといいます。ベトナムから帰ってきて困っています。どうか彼を助けてあげてください。マイク。」

どこまで本当か分からないが、少なくとも見た感じエディの歳はそれ相応だ。親しくなってたまには25セントあげたりしたが、こちらも小銭が必要になったら貸してくれたりした。

また、道に腰かけてハーモニカを吹いているやつもいた。

彼が友達のところに連れて行ってくれたが、それはそれは驚きの光景だった。真っ暗な部屋にベトナム帰還兵が2人で暮らしている。一日中ほとんど部屋を出ることがない。

怖いそうだ。いまでもジャングルが脳裏から離れない。敵も怖いけど、蛇や身体に引っ付くヒルみたいなやつが寝ても覚めても襲ってくる、と云いながら煙草をふかし、ウイスキーをあおる。

こんな奴らが街角に、あるいは人知れない部屋の片隅にうようよ居た。

ゴールデンゲート・パークにもいっぱいいたし、すぐ近くのヘイト・アシュべリ―地区は言わずと知れたグレイトフル・デッドを始め、いわゆるヒッピー文化の発祥地だ。

また、対岸に行けば学生運動の街、バークレイもある。

そして働いていた先には多くのベトナム人がいた。彼らからの話はこのコラムで既に書いているが、僕らが普通に生活をしていた最中に起きていたことを多く知ることとなった。

湾岸戦争では、友人の息子たちが多く出陣していった。

街では多くのデモ隊が拘束されているのを遠巻きに見ていた。

世界中の偉い人達は絶対的に守られているので、庶民がいかに騒ごうが何とも思っていない。

税金を上げることばかりを考えないで、自分たちの給料を少し減らせばいいのに。知事なんかがネコばばしたお金を復興に使ったらいいのに…っていうのは簡単だけど、そうも言いたくなるくらいに守られている。

と、ここまで書いてきて何を言いたいのかが自分でも良く分からなくなってくるので、プロの小説家にもコラムニストにもなれないだろうことは良く分かる。

ただ、あの時代にフォークソングから学んだこともいっぱいあったことは確かだ。それは音楽的にも思考的にも。

そして、その思考的な部分をアメリカで体験できたことも確かだ。

だが、それほど音楽に思考的なもの、強いて言うならば思想的なものを入れたいとは思わない。僕自身それはそれとして、音楽を大切にしていきたいと考えている。