たまには音楽の話

たまには誠意のない連中の事から頭を離して、音楽のことでも書かないといけないな、と思っています。

もう1年以上動きが取れないような状況が続いています。

そんな中でも、いくつかの場所には行かせていただきましたが、そのたびに主催していただいた方達、集まっていただいた方達の熱意に感謝するのみでした。

幸い、僕の則近には医療関係者が居るので、そんな意味でもこの状況下に音楽会を開くことにはかなり慎重になることが出来たと思います。

さて、こういう状況になる前から少し思うところがありました。

僕等はこの10年間、アイリッシュミュージックというカテゴリーで演奏を重ねてきました。

ですが、僕は常日頃から、この音楽に付いていろいろ思うことがありました。

30年前、アンドリュー・マクナマラと出会って以来、深く関わってきて、それより7年ほど前、84年のカーターファミリーとの暮らしと重なる生活を体験してきました。

山に登り、先住民の残した矢じりや石器を掘り出したり、南北戦争の弾丸の残りを拾ったりしながら、太陽に照らされたアメリカでも最も貧しいと云われるプアーヴァレイを眺め、ジョー・カーターの唄を聴く。

同じような体験を何度も何度もアイルランドで繰り返していると、ことさら、アイリッシュミュージックなどと言っている事自体がナンセンスに思えてきてしまいました。

アンドリューは皮肉交じりで「俺はアイリッシュミュージックが大嫌いだ!」とよく言っていました。

僕と彼とで、どこかアイルランドの小さな町へ出掛けた時、朝ごはんで席につくと家主が嬉々としてパブソングのテープをかけました。

僕の方は仕方ないけど、彼はどう見てもアイリッシュだ。夜な夜なパブを飲み歩いてこんな歌を唄っている人だと思ってサービスしたのかな。

アンドリューは盛んにFを呟いていました。

通常、世の中ではパブソングやエンヤなどがいわゆるアイリッシュミュージックなのかもしれません。

特にこの日本では、イベント音楽のようなイメージか、妖精の国のヒーリングミュージックという認識の方が多いようです。

アメリカの方に眼を向けてみると、アメリカはやっぱり移民の国です。

ユダヤ教会ではクレズマーのコンサートを聴くことが出来るし、ギリシャ人街にいけばブズーキ音楽もたっぷり聴けます。

メキシコ人街に行けば危険と隣り合わせてもラ・バンバを聴くことが出来るし、同じ危険と隣り合わせとしては黒人街のブルースも熱い。

よく、なぜ自分はここにいるんだろう、というような場所に居合わせたこともありました。

その中でもアイルランド人と、或いはアイルランド系の人達と過ごすことが圧倒的に多かったのかな。

友人達の中には物凄くイギリスが嫌いな人も多く、ロンドンデリーなんていう土地名のロンドンを黒く塗りつぶす人もいるし、フェスティバル会場では、これは見ず知らずの人だったけど「その昔は俺達こういう所にはよく爆弾を仕掛けたもんだ」みたいな会話を耳にしたこともあります。

この音楽はそういう歴史のなかにも存在してきたものだという事がよくわかります。

そんなアイリッシュミュージックを演奏して30年。

そして希花さんはそれまでやってきたアイリッシュミュージックでは到底感じることが出来なかったであろう、奥深いところまで関わってしまった。

そんな中で僕らは、少なくとも僕はことさらアイリッシュミュージックという意識がなくなってきているのです。

でも、僕らがやっているのはアイリッシュミュージック。それも、ほとんどが古いもの。

ただ、もういろんなものが僕らの音になりつつあるような気もします。

それは本当に僕が描いていたものかもしれません。

アメリカでこの音楽を始めた時に、誰でもない自分の音を出すことを目指し、それでも多くの先人たちの演奏を注意深く聴く。そんな当たり前のことをずっと繰り返してきたからこそ、もうアイリッシュミュージックというカテゴリーに囚われなくなってきているのかな、と思うのです。

今年、またアイルランドに行く予定でいます。あくまでも予定。

そして自分たちの音を彼らの音楽に乗せていく。そんな気持ちでまたこの音楽を演奏していきたいものです。

あくまで僕等の中から湧き出てくるものと、数百年の歴史あるものを大事にしつつ、この音楽に取り組んでいく姿勢に変わりはないように思います。