ザ・ナターシャー・セブン(昼下がりコンサート)

1971年の高石氏との出会いから、事実上僕が脱退した1984年までの事などは既に

「ザ・ナターシャー・セブンとその時代背景」というコラムで書いてきました。

なので、何を今更、という感も無いことは無いけど、つい先日、当時のスタッフたちが中心になって円山音楽堂で昼下がりコンサートが開催されました。

僕は不参加でありましたが、このコンサートに関する熱い思いは、彼等からずっと聞いていました。

それにしても、このコロナ禍での中止のうっぷんを晴らす好天気に恵まれたようで、本当に良かったと思っています。

ザ・ナターシャー・セブンという表記が正しいのか分かりません。

ザ・ナターシャーセブンなのかな?

よく想い出すのが、マネージャーの榊原さんが「ナターシャ」ではなくて「ナターシャー」です、と、やけに「シャー」と伸ばすところを強調していたことです。

もう50年にもなるのですね。多くの人にお世話になりました。

当時、既に芸能人として活躍していた高石氏とは違って、僕は完全なドロップアウト大学生でアマチュアバンドの仲間のひとりでした。

そこから始まったバンドに多くのスタッフが集まってくれました。

そんな彼らが満を持して、と云うのでしょうか、この灯は消してはならない!という思いで開催してくれた今回の昼下がりコンサート。

確かに日本全国にナターシャーに影響された、という人が一杯おられます。

その多くは1973年~1984年の11年間の僕らを見て、聴いてきた人達だろうと思います。

僕が思うにザ・ナターシャー・セブンの本当の意味でのナターシャーたるところはその11年間だったろうと思う。

更にマネージャーの榊原氏を失ってからは僕にとってのナターシャーはもう終わりを見はじめていたのかもしれない。

僕が去り、坂庭君が去った後のナターシャー・セブンというのは果たしてザ・ナターシャー・セブンと云えたかどうか、僕にはよく分かりません。

高石氏が頑張ってその名を引き継いできた、というような美しいストーリーはそこには存在しないと僕は思います。

なので、もしかしたら本当に内部からザ・ナターシャー・セブンを語ることが出来るのは、高石さんと僕…省ちゃんと木田ちゃんはいないし、金海君は短かったし、もういないし…それとずっと一緒に働いてくれたスタッフだけだろう。かろうじてメンバーとして進ちゃんが入るかな?

僕が抜けた後にもナターシャーの一員になった人が何人かいるようだが、僕はあまりよく知りません。

もしかしたらそれこそがナターシャー・セブンだと感じておられる方もいるかもしれないのであまり下手なことは言えませんが。

どう考えても高石氏のみなぎるパワーに伴うアイデァと表現力を最大限に生かすことが出来たのは、僕と坂庭君しかいなかっただろう。

この際、木田ちゃんは別格として。

1973年の坂庭君の加入で僕の持っていたものと彼の持っていたものが絶妙に炸裂したものがザ・ナターシャー・セブンのサウンドを決定づけている、と感じます。

そんなナターシャーの意思を受け継いだスタッフたちの今回の企画には本当に頭の下がる思いだし、大いに感謝しています。

この昼下がりコンサートはおそらく毎年くらいのペースで続けていくでしょう。まだはっきりしたことは聞いていないのでいい加減なことは言えませんが。

僕は少し遠いところから見ているようなところがありますが、そのうち参加させていただくかも知れません。

ザ・ナターシャー・セブンの生き証人として、出来れば高石さんと共に…。