ジプシー・スウィングからドーグへ

1969年か‘70年頃、昔のことで記憶は曖昧ではあるが(もっと昔のことで、よく覚えている事柄もあるくせに)当時、聴いている音楽の殆どがブルーグラスだった僕の耳に心地よく入ってきた音楽があった。

“ホット・クラブ・オブ・フランス”というバンドはギターのジャンゴ・ラインハルト、そしてヴァイオリンのステファン・グラペリが中心となるご機嫌なスウィングジャズだった。

何と言っても1930年代の録音物である。日本全国にすでにコピーバンドとして演奏している人達はいただろうが、当時、僕らのまわりで彼らの音楽に傾倒している人はいなかった。

僕は、数人の友人と共に聴きながら「これ、マンドリンでやったりしたら面白いんじゃない?」などと話し合い、必死になってコピーしたものだった。

以後、出来得る限りの彼らのアルバムを手に入れたものだ。

時は経って、1976年、あるグループの来日公演が決定した。そして、そのメンバーの中に大好きなバンジョー弾きであるビル・キースの名前を見つけた。

デヴィッド・グリスマン・クインテットというそのグループは、なんでも1部にブルーグラスを演奏し、2部には彼ら独自の音楽を展開するらしい。

おまけに、彼らは公演前日に、とあるフォーク喫茶でセッションをする、というではないか。勿論、行かん手は無い。

集まったメンバーはビル・キースとリチャード・グリーン、そしてデヴィッド・グリスマン。キースとグリーンについてはよく知っていたが、グリスマンなる人物については、まだまだ勉強不足だったせいか全くといっていいくらいに知らなかった。

だが、セッションが始まると、そのプレイは驚異的なものとなった。聴いたことのない配列の音が飛び出してくる。

当時、まだ真っ黒な髭と髪の毛だった彼が、首を振り振り激しく弾きまくる姿は、その視線がどこを見つめているのか見当もつかないのと同様、どこから考えだされたアイディアなのか、まったく不可解なもので、驚異的なテクニックに加え、その独創的なスタイルには完全にノック・アウトされてしまった。

次の日、僕は彼らのコンサート会場にいた。

デヴィッド・グリスマンが彼のクインテットを引き連れて最初の音を出した瞬間、今までに経験したことのない衝撃が会場を駆け抜けた。ドーグ・ミュージックと呼ばれるその音楽は、聴いたことのないものだった。その音使い、アンサンブル、限りなく仕組まれた仕掛けの多さ、全てにおいてそれまでに無い音楽だった。

70年代初頭に起きたニューグラス旋風では、ブルーグラスを基盤とした“ニューグラス・リバイバル”のアイディアに度肝を抜かれたが、今回のクインテットの音楽は、一体どこからヒントを得て創り出された音楽なのか見当もつかないものだった。

しかし、後に様々な情報が明らかになった。

そのひとつとして、先に挙げたジャンゴの音楽からの影響があったのだ。あの時、「これ、マンドリンでやったら…」と考えたのは僕だけではなかったのだ。

しかし、彼はそれを実現させ、そして彼独自の音楽へと発展させた。

更に、‘20年代のロシアン・ラグなどに代表される“デイブ・アポロン”というマンドリン奏者の影響も忘れてはならないところだろう。

マンドリン奏者として考えるならば“ヤンク・レイチェル”も考慮にいれなくてはいけないかも知れない。こちらの方はライ・クーダーに影響を与えた人物だろうか…。

とにかく、類まれな探究心から独自の音楽を創り出してしまう才能というものには恐れ入ってしまう。

もし機会があれば、ドーグ・ミュージックとホット・クラブ・オブ・フランスの共通点などを感じながら今一度聴いてみるのも面白いかもしれない。

彼らの出現以来、ブルーグラス・フリーク達の間にも名を知られてきたジャンゴやステファン。

どんなカテゴリーの音楽を演奏していても、いつでも聴いていたいものである。