時は’93年。サンタ・ローザを拠点に活動していたフィドラーの、スコット・レンフォートとのデュオを始めた。
当時、彼はまだサン・フランシスコの人気バンド「ティプシー・ハウス」に参加しており、ちょうど次期フィドラーのポール・チェィフィーと交代する頃だった。
ケビン・バークをこよなく敬愛するスタイルを持った彼のフィドリングは、ミホー・オドンネルとケビン・バークの演奏に心酔していた頃の僕にとって、あこがれだった。
セッション以外で、初めて彼と真剣に合わせたのは…よく覚えているが、メンドシーノという小さな町から少し入った山の中での「ラーク・イン・ザ・モーニング」という大民族音楽祭の最中だった。
カリフォルニアレッドウッドの森の中で、僕はミホーのプレイを思い出しながら彼と合わせた。
ピジョン・オン・ザ・ゲイトやプロムナード、フェアーウェル・トゥ・エリンなどを演奏すると、朝もやの森の中に心地よい音が響き渡った。その時からフィドルとギターというデュオは僕の基本となっている。
彼の音楽を日本に紹介したく、それでも誰かもう一人入れて三人でやってみようか、という話をした時、彼が言った。「ハンマー・ダルシマーなんてどうだろう。いい人がバークレイにいるんだけど」
僕は早速その人に会いにいった。
彼女の名前は、ロビン・ピトリー。西海岸ではすでに高名な音楽家だ。セッションには参加することはないが、アイリッシュ・ミュージシャンとしても、また、西海岸らしい様々な音楽をミックスした音作りにも長けていてファンも多い。
セッションに参加しないのは、ハンマー・ダルシマーという、ある意味リミテッドな楽器ということもさることながら、無類のタバコ嫌いだからだ。
当時パブではまだ喫煙可能だったので、頭のてっぺんから足の先まで煙にまみれてしまったものだ。
彼女のご主人は、ダニー・カーナハンといって(今は違うが)オクターブ・マンドリンで素晴らしい歌を歌うシンガーでありコンポーザーでもある人だった。
彼が作った”ウェイク・ザ・デッド”というグレイトフル・デッド好きの勇者を募ってのバンドは素晴らしかった。デッドの曲をアイリッシュ・チューンと
クロスオーバーさせる手法は、そのアレンジ能力の高さと、演奏技術の確かさで多くの人の心を掴んだものだ。
とにかくロビンとの顔合わせも無事終わり、三人でグループを組む話はまとまった。そういえばその時、彼女が聴かせてくれた沢山の資料の中に若きジェリー・オコーナー(バンジョー)のテープがあった。「ずっと前、アイルランドで偶然見かけた若いバンジョー弾きで、あまりの凄さにテープで録音してきたの。多分10代後半だと思うけど。彼がジェリー・オコーナーだと知ったのは随分後になってからよ」と、どこかのパブでの演奏を聴かせてくれた。
スコットもロビンも共に60年代のフラワー・チルドレン時代から音楽をやりつづけている人間だ。ヴェトナム戦争に突入していったアメリカを、反戦運動に沸き上がっていた頃のバークレイを直に体験した世代だ。二人からはそんな話も聞けたものだ。
さて、日本を訪れるにあたり、ひとつ問題が生じた。ハンマー・ダルシマーという、かつて運搬経験のない楽器をどのように運ぶか、だ。
彼女曰く、大きなハードケースがあるが、とても持ち歩くことはできないらしい。彼女はとても華奢で、か細い人だ。
そこで、僕は春日部に住むハンマー・ダルシマー奏者の高橋さんに尋ねたところ、丁寧に教えてくれた。
取りあえず航空運搬のためにはハードケースで持ってくるしかないし、確か空港でそれは預かってもらえるはずなので、あとはソフトケースを持ってきておけば、それで解決するだろう、ということだった。
税関とのやりとりも気になったが、そのことについても懇切丁寧にアイデアをくれた。
コンサルティーナやフルートのひとはどんな時も楽でいい。ピアニストもだ。
かくして日本ツアーも無事終了することができたのだが、(いや、一度だけ居酒屋に感激したロビンが暴飲暴食で軽く倒れたが、大事には至らなかった)思えばその辺がアイリッシュ・ミュージックの始まりだったのかもしれない。
アンドリュー・マクナマラとの出会いがあり、ひたすらシビアなセッションでもスコットが気軽に声をかけてくれた。そういうことがやがてはこの世界で生きていくきっかけになったのかもしれない。
余談だが、スコットとはセッションで会うよりも5年ほど前にすでに出会っていたのだ。
ユニオンストリートというところで、ストリート・フェスティバルがあったとき、4人ほどのアイリッシュ・バンドが演奏していた。声をかけてみると、その時もにこやかに応対してくれたのがスコットだったのだ。
バンド名は「Inishmore」テープを買ったことを覚えているが、セッションで初めて出会ったときには同一人物であることは認識しなかった。実に不思議な巡り合わせだ。
だがある日、とんでもないニュースがとびこんできた。
スコットが車を運転中に脳梗塞かなにかをおこしたらしいのだ。その頃僕はもうティプシー・ハウスのギタリストであり、また、東海岸やアイルランドからの演奏者のギタリストとして忙しくなっていたので、あまり会う機会もなかったのだ。
道路脇に止め、ハンドルにうつ伏せになっていた彼を偶然通りかかった人が見つけ、すぐ救急車を呼んでくれたため、幸い一命は取り留めたが、それからの彼はもうフィドルを持つことが出来なかった。
しかし、ロビンがこう言った。「彼は筋金入りのヒッピーよ。自然食とヨガと仲間に囲まれてきっと回復しているわ」
僕もそれを願っている。