ザ・ナターシャー・セブンと、その時代背景 3

1973年後半から坂庭省悟が加わった。クライマックスでさんざん売れた後、もうこりごり、と大学に戻った彼をまんまと引きずり込んだかたちだ。

彼との出会いについては、もう多くの人が知っているはずだ。京都産業大学で共にバンジョーを弾いていた。

彼は“ザ・マヨネーズ”というフォーク・グループ。僕はブルー・リッジ・マウンテン・ボーイズだ。

よく僕の部室に来ては一緒に弾いたものだ。彼もブルーグラス・バンジョーに大きなあこがれを抱いていた。そんな中で印象深かったのは、彼の弾く小気味よいリズム・ギターだった。

ちょうど映画“卒業”が流行っていて、主役のダスティン・ホフマンが赤いスポーツカー(発売されたばかりのアルファ・ロメオ・スパイダーらしい)を走らせているとガス欠になって、徐々にスローダウンして車が止まってしまう。

そのシーンでギターのカッティングが段々ゆっくりになっていくのを、ものの見事に楽しそうに再現していた。

アイビールックに身を包んだ彼は、まるで映画のシーンそのもののようにうれしそうに弾いていたものだ。

やがて音楽に関する熱い思いを語り合うようになる。

加茂川の河川敷で夜通し“Earl’s Breakdown”を弾いたこともあった。あの、エリック・ワイズバーグとマーシャル・ブリックマンのダブル・バンジョーのコピーだ。

彼は無類のリズムおたく。僕は無類のコードおたく。ちょうどいい組み合わせだった。

かくして、ザ・ナターシャー・セブンは、いわゆる社会派フォークシンガーとして突出した高石氏、エンタティナーとしての限りない才能を持ち、リズム感に優れた坂庭省悟、そして僕とで、他に類を見ない、それこそまわりのほとんどが、オリジナルで世に出るのが個性であり、売れることが音楽を目指す者の使命だと思っている中、トラッド志向を大切にした稀有な存在として日本のフォーク界に一石を投じたのだ。

僕に於いてはその信念は今も変わっていない。自分がもしブルーグラスを、アイリッシュを愛しているのなら、そしてそれらに生かされているのなら、どんな苦しみをもそれらの為に捧げたいし、今日よりは明日、そしてその次の日も研究を惜しむわけにはいかない。トラディショナルに身も心も捧げる者の宿命だ。

それは高石氏の提案した107ソング・ブックを見ても分かる通り、やはり元のかたちを知ろうとする気持ちが無ければ、うわべだけの新しいものになってしまう。

今、107ソング・ブックを読み返してみると、よくこんなものを作ったな、と感心させられる。

ラジオの深夜放送が終わってから、また、ツァーから戻ってきては、地味な糊づけをし続けた。来る日も来る日も。

くしゃみもできない。せきもできない。印刷屋に頼めば簡単なことを自分たちの手で作り上げたのだ。

もっとも、監修者の笠木透は、これしか方法は無いと言っていた。ぼくらは、じゃぁ仕方がないな、と彼を信じた。でも実際はもっと簡単にできる方法はいくつかあった、と後できかされたのだ。

でも彼曰く「苦労して作ったものほど愛おしいものは無い。この日々をわすれてはいかんぞ」

そうして出来た本をそれぞれに30冊ほど持って売りに歩いた。文字通り北は北海道から南は九州、沖縄まで。

自分たちの知らないところで、自分たちの作ったものが、知らない人に買われるよりも、買ってくれた人の顔を見て、話を聞いて、そうして世に送り出してあげようじゃないか、という考えだ。

なんでこんなことをしてまでも、という気持ちは正直あったが、その経験は音楽上でも生かされているだろう。

未だにそのころのザ・ナターシャー・セブンの思いを胸に抱いてくれている人達、共有してくれている人達が日本全国に一杯いる。そんな人達に感謝すると同時に、107ソング・ブック作りを提案した高石氏の音楽に対する一種生真面目さにも、そして製本のために苦労した仲間達にも、みんなに感謝だ。

ステージ作りに関しても、高石氏は他に真似のできないものを持っていた。もちろん、そこには僕と省悟という稀有な存在が必要不可欠であっただろうが。

間違いなく、ザ・ナターシャー・セブンの黄金期は1973年から始まっていたのだ。