ザ・ナターシャー・セブンと時代背景 4

1974年になると月に20日も外に出ることもあった。それでも新幹線の連結部分では必ず練習に励んだものだ。

今だったら騒音防止法とかいうものがあるのだろうけど。それでもさすがにバンジョーは練習しなかったかな。

省悟と二人で、マンドリンとギターを出してビル・モンローの曲やドック・ワトソンの曲など、よく弾いていた。

青函連絡船の甲板でも弾いた。本当に疲れている時でも、いつもいつも「ここ、こうしようか」「このほうがいいんじゃない?」なんていいながらやっていたものだ。

そしてお互い家に戻ってからも、電話で「さっきのあれ、こうじゃないか?」なんていいながら、肩で受話器を抱えて弾いたものだ。

僕らはコンサートの中でも必ずそれなりの曲(漠然としたいい方だが。受ける受けない関係ないという意味で)を数曲やらせてもらった。

ビル・キース、デビッド・グリスマン、ダン・クレイリー、様々なインストゥルメンタルをやりながら、日本語のブルーグラスをつくりあげていった。

日本民謡もずいぶんやった。高石氏が持ってくる多くのアイディアを僕らがアレンジしてかたちにしていった。

それらのいくつかは、今でも演奏させてもらっている。どこへ行く時もその土地のことを意識する、というのは素晴らしいことだ。

そして、今、僕らがアイルランドで演奏する時もそういったレパートリーを持っていることが自分のアイデンティティ-を明確にする上でとても役に立つのだ。

去年(2012年)のアイルランド、フィークルのペパーズというパブでアンドリュー・マクナマラと演奏した時のことだ。

アンドリューは鉄砲獅子踊り歌が大好きで、もう随分前から(多分15年くらい前から)一緒にやっている。とても覚えにくい節回しらしく、4文字言葉を連発しながら練習に励んでいたものだ。

彼は必ず僕に、唄ってくれ、とせがむ。そして本当に嬉しそうにアコーディオンをかき鳴らす。

そして2012年の夏。午前3時頃、最後の曲でお開きになった直後、みんなになんでもいいから日本の古い歌を聞かせてやってくれ、とアンドリューが言った。

いろいろ迷ったが、僕は“そでやま節”を唄った。その時、パブが一瞬水を打ったようになってしまった。大体、歌が始まると礼儀として静かにするものだが、ほとんどの人達が、明らかに異文化に触れている不思議な感覚を味わっている、という顔をしていた。

1984年にジャネット・カーターと、ヴァージニアの小さな小学校を訪れた時、ジャネットの唄う“School House on the Hill”をそのまま日本語で「背よりも高い~」と続けた時の子供たちの驚き様は今でも鮮明に覚えている。

フィークルではその時と同じような感覚だった。

これらの歌は、もし高石氏の思い描くザ・ナターシャー・セブンをやっていなかったら自分のレパートリーには無かったものだ。

初代高橋竹山の元を訪れたのはいつごろだったか。76年のよいよい山コンサートで、竹山師匠をゲストとして呼んでいるし、その前にも75年には何度かご一緒させてもらっているので、74年くらいだったかもしれない。

僕と省悟の二人で青森の小湊という小さな町に降りたった。

当時、弟子をとらないことで有名だった竹山師匠の元に、拝み倒して弟子にしてもらったという、東京から来た18歳くらいの女の子がいたが、それが今の2代目高橋竹山だ。

僕はバンジョーを師匠に渡し、僕が師匠の三味線を弾かせてもらった。そこで津軽じょんがら節のセッションとなったのだ。

情けないことに日本人であるはずの僕でも、日本の民謡は覚えにくい。アイリッシュの曲だったら500~600、苦でもないのだが。

そうして3日ほど泊めていただいて僕らは北海道へと渡り、また演奏に出た。

時に、ザ・ナターシャー・セブン、もう京都では知らない人がいないくらいの、押しも押されもせぬ大スターだったが、地方に行けば誰も知らなかった。

また青函連絡船のデッキで練習をしたが、新しく津軽じょんがら節もレパートリーに加わっていた。

全てはザ・ナターシャー・セブンで得た大きな財産だと言える。