ザ・ナターシャー・セブンとその時代背景 5

1975年初期になると、メンバーに木田たかすけを加え、さらにバンドとして厚みが増してきた。

木田たかすけは見事にそれまでのナターシャーサウンドに溶け込んでくれた。

もちろん、音楽に関しては何もかもお見通しの彼だったが、非常に寛容で、あれだけポップスの第一線で活躍していたのにブルーグラスにも鋭く反応してくれた。

彼はナターシャーに入るまでベースを弾いたことはなかった。なんの楽器でもそうだったが、「ちょっと待っててね」と言って、考え事をすること10分程。「よし、じゃぁいこうか」

どこかでイングリッシュ・コンサルティーナを買って来た時もそうだった。もちろん、流暢に弾くわけではないが、簡単な音階はアッと言う間に弾いていた。

ティン・ホイッスルの時もそうだった。手にして10分後にはレコーディングにまで使っていた。

「こういうもんは雰囲気だから」柔和な笑顔でいつもそんな風に言っていた。

かくして、歌い手として、またショーマンとしても超一流である高石ともや、フラットピッキング・ギターの名手でコメディ・センス抜群のハスキー・ボイス坂庭省悟、編曲家として高名であり、幅広い視野を持つ木田たかすけ、そして僕という、前代未聞の組み合わせのバンドが完成した。

ザ・ナターシャー・セブン第2期黄金時代の幕開けだ。第1期と第2期があまりに近すぎるような気もするが、細かいことは抜きにして…。

そしてこの頃になると当時の売れっ子バンド“ダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンド”ともよくツァーをすることがあった。

一見(一聴)全然関係なさそうだが意外と共通点があった。ギターの和田は静岡市に住んでいたことがあるらしく、ローカルな話題に華が咲いた。彼が良く言っていた言葉を想い出す「フォークはいいなぁ。歳が言ってもそれなりに出来るし。でもロックはいつまでもやってられないしなぁ」体力的なことを言っていたのだろうけど、どうして、どうして、まだまだ現役だ。

宇崎さんはカントリーもこよなく愛し、“ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー”を僕らと一緒にやったりした。途中で何故か“月の法善寺横丁”に変わっていってしまうのだ。

鼻にティッシュ・ペーパーをいっぱい詰めて“ほうちょういっぽん、さらしにま~いて~」と唄う様は見事だった。

そんなふうにがっぷり組んでのジョイント・ツァーは結構続いたものだ。ダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンドを聴きに来て、半ば事故のようにザ・ナターシャー・セブンという、海のものとも山のものとも分からぬグループを見てしまったおかげで、今もバンジョーを弾き続けているひともいる。

野球もそれぞれにチームを作ってやったものだ。

そういえば、ビル・モンローも野球チームを作っていたんじゃなかったかな。他にも松山千春チームというのもあったな。もちろんコンサートでもよく一緒になったものだが、野球での彼は、当時読売ジャイアンツにいた新浦から教わった、という“フォークボール”でバッタバッタと三振の山を築いていた。僕も2三振食らった。

そんな人達とのジョイントも、木田たかすけという有能なアレンジャーがいたからこそ、音楽的にも楽に物事が進んでいったのだろう。

1980年、バンドを離れて、再度アレンジャーとしてスタートしはじめていた木田たかすけが事故で亡くなった。

そのすぐ後、松山千春と野球をやった。 彼が僕の肩を抱くようにして言った「残念だったね。お互い頑張ろうね」

すでにバンドを離れていたとはいえ、木田たかすけは、それから先のザ・ナターシャー・セブンにも多大な影響を与え続けたメンバーだ。