ブルーグラス・ミュージック

今まで、ほとんどをアイリッシュ・ミュージックについて書いてきたが、自分のひとつの歴史であるブルーグラスについてすこし書いてみよう。

バンジョーという楽器を始めたのはフォークソングからだった。1964年か65年くらいだったと思う。

ピアレスという日本製のバンジョーは確か15000円くらいで、当時としては目の玉が飛び出るくらいの値段だった。他にナルダンという会社のものもあって、12000円くらいだった記憶がある。

ピアレスのほうが、音にメリハリがあるような気がして、そちらを選んだのだと思う。なんといってもバンジョーなる楽器にそうそうお目にかかれる時代ではなかっただけに、よくは分からなかったのだが。

とにかくブラザース・フォアをお手本にしてポロポロと弾いていたが、幾つかの彼らのレコーディングで衝撃的な音を聴いた。

ダーリン・コリーという曲でイントロからずっと流れているバンジョーは明らかに違っていた。

解説には「ご機嫌なバンジョーはマイク・カークランド」となっていたが、どうも疑わしかった。

後にだれかが「あれは、グレン・キャンベルだ」と言ったり「エリック・ワイズバーグ」だ、と言ったりしたが、本当のところは僕には分からない。

そして、当時はそれがブルーグラス・スタイルのバンジョー・プレイだということも知らなかった。

それからキングストン・トリオを聴くと、もう少し音がバラけていて細かい動きをしているように聴こえた。だが、まだブルーグラスではなかった。

そしてその頃はアリアというメーカーのロングネック・バンジョーを使っていた。ロングネックはもちろん、ウィーバースやクランシー・ブラザース以来、ほとんどのフォーク・バンジョー奏者が弾いていたものだ。

ほどなくしてフォギー・マウンテン・ブレイク・ダウンを聴いたときの衝撃は、とても文章で言い表せるものではなかった。

これは間違いなく2~3人でよってたかって弾いているに違いない。あるいは回転数を間違えたか…、などと思ったりしたものだ。

大学に入学するすこし前にフォギー・マウンテン・ボーイズを東京まで観にいった。そうか、これこそがブルーグラスか。大学ではこれをやろう、と心に誓った。

そして、入学したその日からバンジョーを持って、構内を歩いたところ、数人の先輩と思しき人から声をかけられた。

京都産業大学ブルーリッジ・マウンテン・ボーイズの初代の人たちだった。バンジョーが酒井さん、フィドルが松井さん、ギターとボーカルが細谷さん、そしてベースが山本さん。マンドリンにあまり目立たない人があとから少しの間加わっていた記憶もある。

ビル・モンローはもちろんのこと、フォギー・マウンテン・ボーイズ、スタンレー・ブラザース、レノ・アンド・スマイリー、オズボーン・ブラザース、ジム・アンド・ジェシー、ジミー・マーティン、それらが人気だったあの時代。

アメリカ文化センターという、たしか四条烏丸あたりにあった場所で、毎月一回ブルーグラス・コンサートが開かれていた。

常連は、立命館のサニー・マウンテン・ボーイズ、同志社のマリース・ロック・マウンテニアーズ、そしてわが産大のブルーリッジだ。時々ブルーグラス45や、桃山学院ブルーグラス・ランブラーズなんかも来ていたかな。京都大学にもグループがあったなぁ。

産業大学では、僕がエディ・アドコック好きだったので徐々にカントリー・ジェントルメンのレパートリーが増えていった。

当時の僕のアイドルはエディともうひとり、ビル・キースだった。全く違うスタイルの二人だったが、エディのギャロッピングとシングル・ストリングの早弾きと、ビルの滑らかなメロディック奏法はどちらも魅力的だった。

とにかく来る日も来る日も、耳に入るものは全てコピーしまくった。まだ若かったから根気もあっただろうし、脳みそも柔らかかったのだろう。いちど聴いてすぐそれなりに弾いたりしたものだ。

楽譜があるわけでもない。実際に弾いているところが見れるわけでもない。頼りになるのは自分の耳だけだ。

そうして勉強もほとんどせず、大学時代を過ごしたが、以後、日本にも多くのブルーグラス・バンドが来日するようになった。

スタンレー・ブラザース、カントリー・ジェントルメン、ジム・アンド・ジェシー、デル・マッカーリー、ジミー・マーティン、ピーター・ローワン、J.D・クロウ、セルダム・シーン、ニュー・グラス・リバイバル、レッド・レクターや、ブルーグラスともちょっと違うけど、リリー・ブラザースも来ていた。もちろんビル・モンローもだ。

75年には衝撃のデビッド・グリスマンも。

ブルーグラスは徐々にその全貌を見せていった。本物のトラッドから、ニュー・グラスまで。

しかし、そのニュー・グラスの演奏者の誰もが、素晴らしいトラッド追従者であったことは印象的なことだ。

思うにブルーグラスの演奏家たちは、例えばバンジョー弾きは、アール・スクラッグスを出来る限り忠実にコピーすることから始まるような感があるし、フィドルはテキサス・スタイルにせよ、バージニア・スタイルにせよ、ケニー・ベイカーやテーター・テイトなどをとことん研究することから始まるような感があるし、マンドリンはやっぱりビル・モンローだろう。

歌とギターはレスター・フラットでドブロはアンクル・ジョッシュ、ベースはセドリック・レインウォーター、あるいはトム・グレイか…、もちろんあくまで個人的な見解だが。

それにひきかえ、アイリッシュはたとえば、クラシックをやっている人が興味を持ったら楽譜でも見ればその日のうちに弾くことが(吹くことが)出来るものだ。ところがそこが大きな落とし穴だ。

希花が研太郎に初めてあったとき、希花のブルーグラスをじっと目をつぶって聴いていた研太郎が「ブルーグラスはもっといい加減に弾いたらいいよ」と言ったのが印象的だった。

こう書くと、また誰かがこの言葉だけに反応して何か言いそうだが、僕にはその言葉の深い意味が凄くよく分かる。

希花のように、アイリッシュにおいて、どれほどにトラッドを体の中に入れなくてはいけないかを学んでいると、生半可なことは出来なくなってくるもんだ。

そこを敢えて「いい加減に」というのは、ジャンルの違いであれ、とことん体にその景色と音を入れてきた男が言える言葉だ。

だから、決してアイリッシュはいい加減ではいけなくて、ブルーグラスはいい加減でいい、などということではない。

彼の言葉の意味が分かるようになるには、おそらく何十年もの間、この音楽に身も心も捧げる努力を惜しまなくてはならない。

まだまだ若い希花のこれからの課題のひとつである。

また、研太郎はテキサス・スタイルとバージニア・スタイルの違いなども聴かせてくれた。

日本のブルーグラス・フィドラーの中でも、もっともブルース・フィーリング溢れる演奏をする男だ。

アイリッシュにもブルーグラスにもブルース・フィーリングは不可欠だ。淡谷のり子先生もそう言っていた…(?)ズロースの女王、と間違い表記されたこともあるらしいが。

ブルーグラスにおいては、70年代から始まったニュー・グラスの嵐、そして、80、90、2000年とずいぶん変わってきたが、若い演奏家たちがとんでもない音のシャワーを浴びせながらも、とことんトラッドもやってのける。

日本のブルーグラス演奏者たちにもそんな心意気を感じる。それはアイリッシュの世界よりも顕著かもしれない。

ルナサやソーラスは確かにかっこいい。しかし忘れてならないのは、かれらは一同に素晴らしい伝統音楽の継承者なのだ。

同じようにサム・ブッシュやトニー・ライスはめちゃくちゃかっこいい。だが、かれらは一同にビル・モンローの音楽を最も大切なものとしている。

日本ではアイリッシュよりもブルーグラスの演奏者たちのほうが、その辺の大切さがわかっているように思えてならない。

 

さて、84年、アメリカ大陸を横断したとき、いろんなバンジョー弾きやギター弾きに出会った。

ラマー・グリアーと会ったその日の昼に息子のデビッド・グリアーとも会った。まだ金髪のさらさらのロングヘアーをなびかせて、ディキシー・ブレイク・ダウンを猛スピードで弾いていた。

ラマー・グリアーのバンジョーは、驚くほどネックが細かった。

同じワシントンDCではセルダム・シーンの面々ともよく一緒に演奏した。もちろん大塚あきらさんのバンド“グラズ・マタズ”とも。

ナッシュビルではよく、ジェイムス・マッキニーという若いバンジョー弾きと会ってはセッションを繰り返した。

まだ若かった頃のベラ・フレックともステイション・インの前でジム・ルーニーなどを交えて立ち話に興じた。

ダグラス・ディラードとも会ったが、かなり酔っていた(彼が)。

ニュー・ヨークではパット・クラウドのバンドを見て首をかしげていたケニー・ベイカーの姿が印象的だった。

ブルーグラスは僕にとって今でも魅力溢れる音楽だ。自分が「これ凄い」と思い、影響を受けてきたブルーグラスを順を追って書いてみよう。

フォギー・マウンテン・ボーイズ、ブルー・グラス・ボーイズ、スタンレー・ブラザース、テネシー・カッタップス、バージニア・ボーイズ、オズボーン・ブラザース、ディキシー・パルズ、ニュー・イングランド・ボーイズ、グリーン・ブライヤー・ボーイズ、カントリー・ジェントルメン、ディラーズ、ニュー・シェイズ・オブ・グラス、ニュー・グラス・リバイバル、セルダム・シーン、

個人の名前を出したらきりがない。

だが、今自分も年とって「やっぱりいいなぁ」と思えるもののトップは、もしかしたら往年のスタンレー・ブラザースかもしれない。

アイリッシュ・ミュージックの真の姿を追い続けているうちに、本当に心あるブルーグラスを聴きたくなってきたのだ。