思い出 ~プラモデル編~

多分、小学校の4~5年くらいから凝りだしたものだろう。子供のころ「丸」という本を読みあさっていた。丸は日の丸の丸だったろう。1948年から出版されていた月刊誌、ということだ。

激戦地から戻ってきた父親に色々なことを聞きながら…。彼は最初サイパン島に配属になった。もしそのままサイパン島にいたら、今の僕はいなかったかも。

ともかく、後にトラック島に配属が変わったそうだ。だから、なんとか生き残って帰ってきたが、かなりの激戦地であったことに変わりはなさそうだ。

戦艦大和がトラック島に寄港した時には、まるで山がひとつ増えたようだった、というような話しを聞いた覚えがある。

グラマンの操縦士の顔が見えるほどの至近距離での機銃掃射の話し等、子供の僕には実感のない、ただただかっこいい話しに聞こえたもんだ。

そんな中でプラモデルに興味を持ちだしたのは、やっぱり零戦からだろう。あの美しさはとても言葉では表せない。

世界的に見ても最も美しい飛行機のひとつだろう。僕がよく作ったのは日本のものでは隼、紫電改、アメリカものではP-51ムスタング、カーチスP-41、P-38ライトニング(山本五十六の搭乗機を落とした)他にはドイツのメッサーシュミット、フォッケウルフ イギリスのスピットファイヤー、そこら辺が戦闘機では圧倒的だった。

爆撃機でもっとも美しいものはB-17だと思うが、その思いは今も変わらない。因みにこの機はほとんどヨーロッパ戦線で使われたようで、僕の父のところにはB-25ミッチェルが来て雨あられと爆弾を落としていったそうだ。

僕らの家の隣はアメリカから来た宣教師さんで名前が“ミッチェルさん”だったが、“昨日の敵は今日の友”だ。

一日に数回プラモデル屋さんに行っては、いろんな縮尺のいろんな機種を買い求め、プラカラーもきっちり揃えて、先出の“丸”を見ながら、マークや数字も手描で細かく描いたものだ。

そのころから少しグラフィック・デザイナーにも憧れていた。プラモデル熱が冷めてきたのは多分ギターに出会ったころかな。

時は中学3年くらい。間もなくフォーク・ブームが押し寄せてくるころだった。