「アー ユー オープン?」第6話 ハリー

 とにかくよく働くハリーは中国人のおばちゃん。本名は難しいが、シト・ビクシャというような発音をする。シトは司徒と書くらしいが、ビクシャというのは美になんだか見たことがない漢字がついていた。あまり、聞いたことのない名前だ。陳さんとか、廣さんとかいうのはよく聞くが。

それはともかく、40キロに満たない華奢な体で重いものでも「エイヤー」と持ち上げる中国雑技団みたいな人だった。

 ご主人はどこかのチャイニーズ・レストランで働いているそうだ。元は学校の先生だったが、文化大革命の最中、英語の本を持っていたことを理由に投獄されたことがある、と聞いた。

 見るからに頭の良さそうな、そして人も好さそうな初老の男性だ。中国人を絵に描いたようなルックスにも何故か好感を覚える。

 毎日、小さな赤いオンボロ車でハリーを迎えに来る。彼も疲れているのだろう。大体は車の中で静かに目を閉じている。

 そこに仕事を終えたハリーが乗り込む。ご主人はむっくり起き上がって、おもむろにカセット・テープをセットする。ボリュームを上げ、自分が指揮者になったようなつもりで両手を高々と上げ愛する女房に向き直り「いいだろう、この音楽」しかしハリーの反応は冷ややかだ。「そんなことどうでもいいから、早く車を出してちょうだい。私は疲れてるの」

 ご主人は隊長にでも怒られたかのように慌ててエンジンをふかす。

 確かに彼女は疲れているはずだ。聞いたところによると、朝7時から朝食を提供するレストランで働き、10時から2時までここで働き、2時半からチャイナタウンで働き、6時にはまたここに戻ってきて10時まで働く。それを週に6日。掃除、洗濯は夜12時から、残った家事は日曜の午後。晩には家族のために晩御飯もちゃんと作るそうだ。それに、驚いたことには、日曜の朝ならまだ働きに出てもいい、と考えているらしい。

 彼女に限らず、中国人の、特に女性はよく働くようだ。知る限り、男性はわりと多趣味だったりして、生活をエンジョイしている人も多いが、女性はかなり現実的で、働けるだけ働いてお金を作る、ということを人生の目的としている人が多い。(ような気がする)

 だが、決してつらいとは思っていないのだろう。働くことを楽しんでいるようにもみえるのだから。

 わき目もふらず働く彼女にマイクや他の従業員はよくイタズラをしたものだ。

 ランチタイムの一番忙しい時間に、親子丼、かつ丼など、丼もののために用意されている卵をすべてゆで卵にしておく。3つも4つもいっぺんに入るどんぶりのオーダー。

 ハリーは一目散に作り始め、頃を見計らって卵を割る。「Oh My God!」という声がキッチンに響き渡る。2回も3回も続くと叫び声が変わる「アイヤー」「アイヤー」

 いい加減に気がつけばいいものをあまりに一途過ぎてなかなか気がつかない。

 彼女は真っ赤になって怒っている。卵に向かって。

 ある時、近くの空き地で煉瓦を拾った。それはすり減った砥石を修正するのにちょうどいい、もってこいの大きさだ。

 いつも砥石を水につけてあるバケツの中に一緒に入れておいたが、ハリーが一生懸命、その煉瓦で包丁を研いでいた。あまりの一途の姿になにも言えなかった。

 ハリーはよく言っていた。日本人は刃物を研ぐのが好きなのか?と。彼女は言う。「昔、日本兵がそうやって刀を研いでは中国人を試し切りしたものだ。日本兵のことを“鬼子”と言うの知ってる?(“こいつ”と発音する)私のおばあちゃんは日本兵に捕まって金歯をむりやり抜かれた」

 彼女は思うに中国人の代表のような存在だった。

 まず、けたたましく、やかましいのだ。それも広東語の独特の響きなのかもしれないのだが。

確かに中国人のおばちゃんと携帯電話というのは地球上最悪のコンビネーションだ、といわれていた。特に広東語。

 そのあまりにも周りを気にしないおおらかさ(?)は中国4000年の歴史の重みから来るのだろうか。

 同じ中国語でも北京語は少しソフトに聞こえる。中国には数知れないほどの言語がある、と言われているが、中国人向けのテレビを見ていると確かに、必ず字幕が漢字で表示されている。

 大きく分けても広東語と北京語では、書き方は同じでも読み方は全く違うのだ。そこに更に台湾語や上海語などがあるし、もしかしたらまだ発見されていない言語も存在するかもしれない。

 ハリーに訊いてみた「日本人は漢字を忘れたら平仮名っていうのを使うけど、中国人の場合はどうするの?」彼女、胸を張って「私たちは忘れない」中国4000年の歴史の重みだ。

 地球を滅ぼすことのできるのは中国だ、と言った人がいた。もし中国人がみんなで手をつないで一斉にジャンプしたら地軸がゆがんで地球はお終い、らしい。

 なんの根拠もない説だが面白い。最近の中国に於ける大気汚染を見る限り、もしかしたら、という気になってくる。

 そんな事とは関係なく、今でもハリーは中国人代表として働き続けていることだろう。あるいは、さすがにもうリタイヤして、チャイナタウン辺りで麻雀でもやっているか。