最終章 アー・ユー・オープン?

日本食、それもすし、刺身に代表されるように、とりわけ生魚を食するような文化に、アメリカの人達が接するようになってから、すでに随分時は経っている。

それでも、何度もいうようだがアメリカという国は想像するよりもはるかに大きい国だ。

テキサス人はナイアガラの滝を見て、これくらいの水道漏れはテキサスじゃぁしょっちゅうだ、なんていうし。ま、これはアメリカンジョークのひとつだが。そういえば、アイルランド人を小ばかにしたジョークにこんなものがあった。

“ある時、テキサスを訪れたアイルランド人(特にケリーの出身)にテキサス人が言う。「どーだ、広いだろう。あの地平線のかなたまで行くのに車で3日もかかるんだぞ」

アイルランド人は胸を張って言う「そういう車だったら俺達も持ってるぞ」

ポーランド人は最後にアメリカに渡ってきた移民として、いまだに「ポーランド人が電球を変える時は6人必要だ。一人が電球をつかんで、残りの5人が彼の乗ったテーブルを回すんだ」などと言われる。ちなみに、このジョークはどこの国の人達にもつかわれているようだが。

日本人の目が吊り上っているのは「Oh,No! Rice again」(またお米?)と、がっかりして頬杖をつくから、らしい。米を食べる民族は自分達より劣っている、ということなんだろうか。

人々がいろんな文化を持ち込んでは、それぞれにアメリカ人となっていく。

それでも、アメリカ人としてひとくくりにはできない文化の違い、しいては価値観の違いというものをいたるところで経験する。

単にレストランという仕事場でも、従業員でいえば、東洋系、ラテン系、南太平洋、その他、お客さん側でいえば、プラス、白人、黒人、中近東など、本当に沢山の異文化と接することになる。

印象深い話をいくつか書いておこう。特にこの文章を書こうと思ったきっかけになったようなお話しから。

ランチタイムが11時半から始まり、お昼休みと同時にまかないを食べた後、店の電気を消して1時間ほど、ほとんどの従業員は昼寝をする。それぞれに、椅子を並べてベッド替わりにして、休むのだ。

ただ、ドアのカギはかけない。何故ならば、そのあいだにも食材の配達が来たりすることもあるからだ。

もし、危険な地区にあるレストランだったら、カギは必ずかけるべきだろうが。

ともかくそんな風に休んでいると、入り口の方で声がする。

Excuse Me, Are You Open?」ふと見ると白人の若い男が立っている。「まだ開いていますか?」と聞いているのだが、はっきり言って“見てわからんか”と思うのだ。

どこの世界に、電気の消えたレストランで、従業員みんなが寝ているままオープンしているレストランがあるだろうか。

多分、日本人だったら状況を見て判断するだろう。ひどいのになると、寝ているのをわざわざ起こし「Are You Open?」なんて言うやつもいる。「クローズのサインが見えなかったのか?」と聞けば「But,Door Is Open」ときたもんだ。こちらも負けじと「お前のためじゃぁない」と言ってしまいそうだが、こんなことでいちいち頭に来ていられないくらい、こういったことが頻繁に起こるので、こっちも知らんふりすることに慣れてしまう。

つくづくよく言われる“Me Firstの国だ”ということを実感してしまう。私がなにをしたいか、私がなにを言いたいか、それがまず第一、と考えるのだ。少なくともアメリカでは。実際、幼稚園などでよく見かける光景だが、ひとりひとりに「今日、あなたはなにをしたいか」と訊く。子供たちもそれに対して、はっきりと自分のしたいことを言うようになるのだ。  いかにもアメリカの教育らしい。 

人種の多様さも類を見ないだろう。

同じジェイウォーク(横断歩道のないところを横切る行為)をしても、前を行く白人はお咎めなしだが、有色人種は罰金のチケットを切られる可能性がある。

ロサンジェルスのロドニー・キングの事件(1991年)を覚えているだろうか。黒人が白人警官にボコボコにされた事件だ。Curfew(戒厳令下の夜間外出禁止)という英語を初めて知ったのもその時だった。

ベトナム戦争から戻って、未だにジャングルでの恐怖から逃れられない、というやつも沢山いた。

そういえば、エディという男がいつも同じところに立っていた。首からぶらさげた大きな紙にはこう書いてあった。

「私はエディといいます。元空軍のパイロットですが、ベトナムから帰ってきて仕事がありません。どうか助けてください」

道の反対側にマイクというやつが立っているが、彼の掲げているボードにはこう書いてある。「僕はマイクといって、エディの弟です。兄貴はベトナムから帰ってきて毎晩うなされています。仕事もできません。どうか兄貴を助けてやってください」

日が暮れると、仲のいい兄弟は集めた小銭を数えてどこかに帰っていく。

いろんな人生があるものだ。

9・11からも随分時が経った。朝、銀行に行って「アー・ユー・オープン」と言っても返事がなく、ドアも閉まっていたので、変だな、と思っていたら大変なことが起きていた。

テレビではアナウンサーが血相を変えて盛んに「カミカゼ攻撃を受けた!」と言っているが、ちょっと違うだろう。日本人としては手っ取り早くカミカゼなどと言ってほしくないのだ。

こちらはこちらで、まだなんの声明も出ていないのに「こんなことするのは中近東のやつに決まってる」と言ってしまう。だがもし、中近東で寿司屋をやっていたら、彼らのうちの誰かは愛すべき常連客だったかもしれない。

そして、冷めた意見を持つ高校生くらいの子供たちは「アメリカが今までに中東にしてきたことを考えれば当然の報いだ」と言う。

中止になったプロレスの中継でも、レスラーがそれぞれ強いアメリカをアピールし、犠牲者を追悼した。彼らはまるで俳優のようだった。

初めの日は、東で起きたことが、会社の休みにつながった、という理由か、公園でバレーボールなどを楽しむ人たちも見た。それだけ広い国なのだ。

しかし、2日、3日と経ってくると、それだけ広い国が全て葬式のように沈黙に包まれた。とにかく多くの市民が死んだ。まぎれもない戦争だった。やがて、道のいたるところに自動小銃を持った軍人や、民間兵が立った。町はまだ静まり返っていた。

そして、もう少し経つとそれは明らかに変わってきた。

「アメリカは屈しない!今こそ立ち上がる時が来た!」フリーウェイにも、バスの車体にも、ビルディングにも、町のいたる所に看板が立てられた。

ヴィンさんの言うように、明らかに人々の結束が高まった。決してすばらしいことではないのだが。

ミネソタの田舎では狭い一本道をアーミッシュが馬車で行き来していた。また、同じ道をヘルス・エンジェルスが隊列を組んで颯爽と走っていた。

そんな、全く違う意識を持った人たちも口々にUSA Stands!と叫んでいた。

そういえば、こんな看板もあった。「America Open Business!

「アー・ユー・オープン?」と聞く必要はなさそうだ。

 

すしの話から始まって、様々な民族にまつわるほんの少しのストーリー、そして、アメリカという国のほんの一部を書いてみた。