フィドルミュージック

1971年アメリカ・ツァーを終えたブルーグラス45のバンジョー弾き、渡辺三郎が、いみじくもこう言った「この音楽、究極、フィドルミュージックやで」

全く同感だ。

あれから45年も経とうとしているが、いまだに心に残っている言葉だ。

今僕はアイリッシュ・ミュージックのギタリストとして、様々なフィドラー(ここではフィドラーに限定しておくが)と関わっている。いや、関わってきた。

マーティン・ヘイズは僕が最初にステージを共にした大物だ。全くセットも決めず、次から次へと繰り出されるチューンの連続。すでにデニス・カヒルとの形が出来上がり始めた時、彼の代役を務めることとなった僕は大好きだったファースト・アルバムから、ランダル・ベイズのスタイルを自分のスタイルに取り入れて挑んだ。

マーティンはのりに乗ってくれた。

フランキー・ギャビンとはグループの一員として何日も一緒に動いた。レコーディングでさえも、突然予定されていない曲に突入する彼のフィドリングは強烈だ。

ジェリー・フィドル・オコーナーもケビン・グラッケンも、デイル・ラスも、ジョニー・カニンガム、そしてトミー・ピープルスも、みんなフィドルの怪物だった。

様々なスタイルのフィドル・プレイを体験してきた。

今、日本でもフィドルミュージックを生活の糧にしている人たちが一杯いるようだが、その多くは、ほとんど本物のフィドルミュージックを体感していないように思える。

特にクラシックからジャズなどを経てこの世界に入った人たちのアイリッシュ・チューンは素晴らしいテクニックに裏付けされ、文句のつけようのないものだと言える。

が、それだけだ。

それでも、残念ながらこの国では耳障りの良いもの、ポップにアレンジされたもの、テレビで流れるものが価値のあるものとして扱われる。

売れれば勝ち、表に出れば勝ちなのだ。

本物のフィドルミュージックに触れてしまえば、そんな日本の現状が如何に価値のないものかが分かるはずだ。

60年代のジャン・リュック・ポンティ、スタッフ・スミスやパパ・ジョン。勿論ブルーグラスではケニー・ベイカーやポール・ウォーレン。彼らを聴きながらもマハビシュ・オーケストラでのジェリー・グッドマンなども聴いていた。

それでも自分でフィドルを真剣に弾こうと思わなかったのは何故だろう。当時はやっぱりバンジョーが全てだったのかな。勿論難しい楽器だった、ということもある。

それでも「フィドルミュージック」という言葉はとても言い当てた言葉であることは実感していた。

フィドルとギターという自分にとっての基本形の中で、どのようにギターを乗っけて行けば一番フィドルにとっていいのだろうかを常に考える。

それは「フィドルミュージック」に対するリスペクトであり、45年にも渡って思い続けていることの証かもしれない。