喫茶店?それともカフェ?

  喫茶店とカフェの違いなんて、百貨店?それともデパート?炉辺焼き?それとも居酒屋?っていうくらいの「世代の違い」程度のことなんだろうか。いやいや、そうでもなさそうだ。

最近、昭和の香り漂う喫茶店がまた話題になっている、という話を聞いた。それでも僕は喫茶店というものには入らない。

最大の理由は、ほとんどの喫茶店とよばれるところが、たばこの匂いと共に成り立っているからだ。

勿論、分煙がきっちりできている喫茶店もあれば、見た感じおしゃれなカフェでも喫煙可というところもある。

しかし理由はそこだけではない。多分、コーヒーいっぱいで何百円も払えない、という考えからだろう。

カフェでも数百円は当たり前だが、どうもそういったところで落ち着いて何時間も過ごしたりすることができない、という性格なのだ。

コーヒーを飲んでいていちばんそれらしい気持になるのは…例えば、長距離バスのバス・ディーポで飲む安いコーヒーだ。

グレイハウンドの、とても綺麗とは言いがたい発着所で、一杯60セントくらいで“なみなみと”入っている美味しくないコーヒーが一番好きだ、と感じることもあった。

大体、ヨーロッパの人のように紅茶やコーヒーを、多少高いお金を出しても楽しむべきだ、と考えてスターバックスのような店がアメリカにも登場した、ということなので、アメリカ人、イコールがぶ飲みコーヒー、というところは確かだ。

本屋さんにもいつでもただで飲めるようにコーヒー・メーカーがセットされているところもあるし、レコーディングスタジオでは、一日過ごせば10杯どころでは済まない。

コーヒーにまつわる話としていつも思い出すのが、多分6歳か7歳くらいの時だと思うが、父親が喫茶店に行くのについて行ったことがある。その時コーヒーというものを初めて見た。

値段を聞いてぶったまげた。確か50円…だったと思う。そんなに高い飲み物があるんだ。それじゃぁ一口だけ、と言って飲んでみてまたぶったまげた。

まずい。世の中でこんなまずいものがあるのだろうか。しかも、こんなものに50円も払うなんて、大人は変わっている。

これが僕の初めてのコーヒー体験だ。そういえば初めてチーズを食べたときは、間違って石鹸を食べたんじゃないかとおもったこともあった。

そして、いつごろからコーヒーなるものを飲むようになったのか、と考えると、やっぱり60年代後半、大学に入ったころからだろうか。

当時ジャズ喫茶というのが京都のあっちこっちにあった。いまでも多少はあるんだろうけど。

暗い空間で、コルトレーンやマイルスを聴きながら、それこそ、漂う煙草の煙の中でほとんど半日過ごしてしまう、なんていう人達もまわりにはずいぶんいた。

僕もブルーグラスをやりながら、たまにはそんなところに行ってウェス・モンゴメリーやジョー・パス、ビル・エヴァンス、オスカー・ピーターソンなどに耳を傾けていた。

コーヒーというとそんな生活を想い出す。

だが、今は豆さえ買ってくればいくらでも自分でつくれるし、コンビニなら100円でそこそこ美味しいし、よそでゆっくり座っているより、自分なりのことが出来る自分の空間にいたほうが気楽だ、と思ってしまう。

誰か友人が来て、食事以外で会うとしたら、やっぱりミスタードーナツ?マック?スタバはいつも混んでるし、ドトールは煙草が匂うし、と、そこでもまず、喫茶店という観念は生まれてこない。カフェと名の付くような感じのところだったら行くかもしれない。

どこかしら、カフェというのは明るくて、喫茶店というのは暗い。そんなイメージを持っているのだろうか。

場末の喫茶店、というものはあっても、場末のカフェというものはないかな。しかし最近は場末のカフェというのも、その立地条件にも関わらず、マスターの人柄、こだわりなどからコアなお客さんの寄り集まる場所として多く存在しているようだ。(場末という言葉には少し語弊があるかもしれないが)

60年から70年初頭にかけては、いわゆる「カフェ」というもの(言葉?概念?)はなかったんだろうな。少なくともぼくらの周りには。

冒頭に書いたように、最近また静かなブームを呼んでいるらしい喫茶店。多分に昭和というものが遠い昔になってきた、という証かもしれない。あるいは高齢化社会の証か。

因みに僕はどちらかというと、紅茶。そして紅茶より日本茶だ。静岡生まれのせいかお茶にはかなりうるさい。

でも、季節の変わり目、特に春や秋の早朝、どこからともなくコーヒーのいい香りが漂ってくると、ちょっと飲みたくなってくる。