2015年 12月 今年の総まとめ

また今年も終わってしまう。2000年問題、などと大騒ぎしてからもう15年が過ぎようとしている。

2015年という年、皆さんにとってどんな年だっただろう。

僕らにとってはなかなかに濃い年であった。

まず、1月早々、アイルランドに出掛け、パディ、フランキーとレコーディング。この二人は揃えるのになかなか難しい。

もう皆さんご存知のように特殊な人間であり、アイルランド音楽の中でも特別な存在であり、世界中のどこにいるかわからないような二人だ。

スタジオはゴルウェイ近郊のキンバラという小さな町(村落かな)から更に奥地へ行った、限りなく風光明美な場所にあった。

そこに4日ほど通い詰めての録音だったが、それはそれは寒かった。

1月にアイルランドへ来るのは初めてだったが、これでは鬱になりそうだな、という感じがひしひしと伝わってきた。

毎日が嵐のようで、風はビュービュー、雨はザーザー、スタジオ近辺はみぞれ交じりの極寒。

それでも湿気があるので日本の冬ほど肌を突き刺すような感覚はない。

元々寒がりではないけど、歳と共に寒さも感じてくるようになった。とは言え、暑さにもめっぽう弱いのだが…。

そして、帰ってきてすぐにオッピー今富君とツァーに出掛けた。それが10日間。アイルランドと合わせると、1月はほとんど出っぱなしだったので、正月だった、だの、新しい一年が始まった、だのという記憶があまりない。

3月にはかねてから希花さんが希望していたニュー・カレドニアにも行った。古くからの友人に同行させていただいたわけだが、そんな機会でもないと、少なくとも僕はいかなかっただろう。

美しい海を見てのんびりして。そのおかげで帰ってから自分たちの新しいアルバムをフレッシュな気持ちで作るいいきかけになった。

そして、夏にまたアイルランド。

ここでとんでもない体験をする。これが今年の一大事かな。

希花さんがいなかったら、大変なことになっていたことが2つ。特に最初のほうは僕らのアパートのキッチンでの出来事だったので、そこは、まるでERの撮影現場を見ているようになってしまった。

僕もパニックになりながら走り回った。

気がついたら何もできない自分と向き合い、倒れた奴の洗濯ものを回しながら、明けていく空を眺めてただただ祈るだけだった。

結局、死から蘇った彼、今はピンピンしている。これは紛れもなく希花さんの知識と経験、それと的確な指示能力のおかげだ。

もう一人は日本でもアイリッシュ・ミュージックの世界では知らない人はいない、という人物。なんとその彼の命も希花さんが救った。

これ以上詳しくは書かないが、とんでもない夏だった。

日本に帰ってきたらAEDが至る所で目に入った。アイルランドであれほど走り回ってもなかなか見つからなかったのに。

今はいろんな人がAEDを普及させる運動を展開しているが、今回のことで、それが無かった時どうすべきかも、きちんと知らなくてはいけないということを知った。

また、今回は和カフェのオーナー、早川さんとみんなでイギリスにも出掛けた。

アイルランドとはちょっと違った、こう言っちゃ語弊があるかもしれないが、どこか高貴な雰囲気が漂っていて、あまり好きではなかったが、建造物の美しさには心を打たれた。

ここはひとつ、観光ということに徹して楽しむことができた。

そして、いよいよ帰り道で立ち寄ったドバイ。

急激にサウナに入ったような、10メートルほど歩いただけでも石川五右衛門になったような気分。

超高層ビルが立ち並ぶ市内。こんなところでヘリコプター飛ばして「イエス!」なんて言っていたらぶつかりそうだ。

砂漠のど真ん中のアブダビ空港。アラビアのロレンスさながらの夕陽が砂漠の彼方に沈んでゆく…。

そして日本。2015年もあと4ヶ月。ゆっくり活動を開始し始めた。帰ってきた矢先に久しぶりにこうせつとも会ったし。

が、10月に控えたパディとフランキーとのEire Japanのツァーに向けての準備もしなければならない。

と同時にアイルランドに行く前にほぼ仕上げた僕らのアルバムも完成させなくてはならない。

2015年はどちらかというと、パフォーマンスよりも、それに付随したことか、全く関係のないことで忙しく明け暮れた年だった。

特にあの日、あの時間、あの場所に居合わせた人間同士は何かに引き合わされているのかな、と感じざるを得ない、そんな1年だったかもしれない。

コンサートもそうだろうか。

だからこそ、PC相手にクリックしたらいつでもなんでも見ることが出来るとか、自分の名前も正々堂々と言えない連中が、人の悪口を言うことにつまらない人生をかけてみたりとか、そんなことが横行している世の中に、ちゃんと顔を合わせるということが大切なんだと思う。

コンサートでみんなの元気な顔をみたいし、同じ日、同じ場所で、同じ時間を共有したいものだ。

話は変わるが、今年亡くなった人で野坂昭如さんについては小さな思い出がある。

あれはどこだったろう。たぶん新宿厚生年金会館とか、そういうところだったと思うが。

楽屋でリハーサルの順番を待っていた僕と省ちゃんのところに野坂さんが入ってきてこう言ったのだ。「新人歌手の野坂昭如と申します。よろしくお願いします」

今でもあのシーンをよく覚えている。

さて、国民がどう思おうがどう困ろうが、お構いなしの贅沢三昧政治家たちには早く消えて欲しい2016年だが、更に彼らの自己満足ぶりには拍車がかかりそうな予感もしないではない。

結局、自分のお財布からお金を出したこともない連中が国民だけに負担を強いるのだからたちが悪い。こっちの方が安いけどポイントが付かないし、でもあっちは結構高いな、なんて国民が一生懸命考えていることなんて知らないのだろう。知っていて知らないふりか…。

だから僕らは僕らで自分の信じる道を行くしかない。

そこでアイルランド音楽の話もしておかなくてはならないだろう。

アイルランド音楽の世界にどっぷりつかり始めて25年。まだまだ赤ん坊みたいなものではあるが、かなり濃い経験は積んできた。

ここ毎年アイルランドでパフォーマンスをしてきて、この音楽をやるんだったらやっぱり現地の一流ミュージシャンと対等に勝負できなければこの道で生きているトラッド・アイリッシュのミュージシャンとは言えないということが分かってきた。

今、僕らがやっているような最小限の編成というのはやはり難しい。だが、僕にとってはこれが基本中の基本だ。

2016年、僕らはまたアイルランドに出掛ける。

Eire Japanもいくつかできるかもしれないし、今回はどこでどういう人達と演奏することになるだろう。

そういえば、アンドリューのお母上も亡くなってしまった。僕がアンドリューと一緒に「鉄砲獅子踊り唄」かなんかをやっていたら、横で一緒に足踏みしていたっけ。

彼にも会いに行かなくちゃ。お母さん子だったからさぞ悲しんだだろうと思うけど、なにか生活が変わっただろうか。

僕にとってのアイリッシュ・ミュージックは25年前、彼から始まっているのだ。

あの日、あの時、あの場所で彼と出会ったことで。