サン・フランシスコの人気ローカル・バンドであるティプシー・ハウスは‘80年代半ば、その活動をスタートさせた。
僕が彼らに初めて会ったのは、クレメント通りにある、プラウ・アンド・スターズというパブに出向いて行った‘91年頃のことだ。
当時のメンバーは、コンサルティーナとフルートのジャック・ギルダー、フィドルのスコット・レンフォート、そしてブズーキとヴォーカルのリーフ・ソーヴェイ。
3人とも190センチをこえる長身で、髪の毛は胸あたりまであり、顔のほとんどの部分は髭で覆われている、といった容貌で一種異様な雰囲気を漂わせていた。
そう、ちょうど“長崎カステラ”のパッケージみたいな感じ。やっぱりあんなのが初めて上陸した時の日本人の驚きようは並みのものではなかったのだろう。
一方で、こういう音楽をやるとき、外人って得だなぁ、と思わざるを得ないくらい、かっこよいバテレンさん達だった。
ひたすら渋い演奏を繰り広げていた3人だったが、なかではスコットが一番フレンドリーでよく話しかけてくれたものだ。
後にバンドを脱退したスコットとデュオを始めたのが‘93年頃。スコットはケヴィン・バークをこよなく尊敬するフィドラーなので、僕もミホー・オドンネルのギター・スタイルの研究に没頭した。
この頃が自分のギター・スタイルを創り出した核となっているのだろう。
一方、ティプシー・ハウスの方はフィドラーがこれ又198センチというとんでもなくでかい、でもスラッとした“ジョージ・クルーニー”そっくりのポール・チェイフィーに変わり、ギターに、弁護士で中国語がペラペラというフィンガー・ピッキング・ギタリストのスティーブ・ボウマンが加わった。
その後、ギタリストとしては様々な人が出入りしていたようだが、ある時ジャック・ギルダーの家に招待され、そこで彼と演奏すると、彼が「これこそが自分の求めていたものだ」と、興奮して言った。
彼が僕を家に呼んだのには訳があった。
当時、ティプシー・ハウスのギタリストはイングランドからアメリカに一時滞在していた、若いジョン・ヒックスが務めていた。
ジョンは歌も歌うが、ギターに於いて、当時他に類を見ないテクニックで圧倒的存在感を示していた。
彼ともギター2本でよくセッションしていたのでお互いによく知った仲だったが、比較的いけいけタイプなのでティプシー・ハウスとしてはあまりフィットしなかったのかもしれない。
そんなジョンが抜ける、という話があり、そこでジャックが僕に白羽の矢をたてたようだ。
なにはともあれ、ジャックは強烈に僕にアタックしてきた。僕も考えに考えた末、ひとつ入っていたスコットとのギグには、ジョン・ヒックスにかわりに行ってもらった。
そしてその日から僕はティプシー・ハウスのギタリストになった。
やがて、フィドラーのポールが抜け、クリス・クナッパーというちょっと風変わりな演奏をするフィドラーが加わった。
彼はクレズマーやブルガリアンなども弾き、骨董品屋を経営する本当に変わった人物だったが、何とも言えないハーモニーをとっさにつけたりするなど、かなりサウンドに面白みは加わったようだ。
僕の方は、ティプシー・ハウスの傍ら、前出のポールと、消防士でフィドラーのビル・デネヒー、そしてブズーキのカイル・サイヤーの4人で“ナーリー・ピルグリムス”というバンドをやっていた。
と同時に、スコットと彼のガール・フレンドであるアコーディオン弾きの、ロクサンヌ・マリーとの“コブルストーン”というバンドにも参加していた。
一方、ティプシー・ハウスでは、クリスが抜け、ケヴィン・バーハーゲンという口数の少ない大人しい性格のフィドラーが参加し、ここにバンドの第2期黄金時代がやってきた。
ケヴィンはスズキメソッドで基礎を積んだ正確無比のフィドラーだったが、ドーナル・ラニーをこよなく愛する一面も持ち合わせており、“クールフィン”からレパートリーを引っ張ってきたりしたものだ。
また、彼の両親は1カ月に6回ほどもあるパブでのギグも、必ず最初から最後までじっと座って聴いていたほど、息子の舞台を楽しみにしていた。車で1時間以上もかけて聴きにくるのだ。
彼のお母さんはよく言っていた。「あんなに大人しい子なのに、じゅんじと一緒にやりだしてから生き生きとして弾いている。もっともっとあの子を刺激して自分をださせるようにしてちょうだい」
ティプシー・ハウスでは基本的に3人が座って演奏していたが、たまに僕だけ立って演奏することもあった。
リールが盛り上がってきたりした時、僕がケヴィンに「さぁ、今だ。立ち上がれケヴィン!」と言うと、はにかみながらでも、立ちあがって予定になかった凄い曲を弾き始める。両親は大喜びである。お母さんが言った。「あんなことする子じゃなかったのよ。じゅんじのおかげよ」
やがては、僕にもマーティン・ヘイズから、アンドリュー・マクナマラから、パディ・キーナンから、トニー・マクマホンから、と次から次へと声がかかり始め、ティプシー・ハウスのギタリストとして演奏を続けることが困難になってきた。
そんな時、よくかわりにギターを弾いてくれたのがリチャード・マンデル。彼も大人しい、とてもいい人で、よくティプシー・ハウスの演奏を聴きに来てくれた人だ。
彼は、僕との交代を目前に控えた頃、よく僕のところに来ては、あそこはどう弾いてる、ここはこれでいいのか?など、熱心に勉強していた。
そして彼はこう言った。「じゅんじ。君はアイリッシュミュージックに必要なことの全てをもうすでにやってしまっている。僕にできることはもう何もない。なにをやっても君のコピーだし、君を越えるのは不可能だ」
僕は言った。「リチャード。まだまだ可能性があるはずだ。沢山の音楽を聴いて、その中から自分のスタイルを創り出すこと。決して楽ではないけど、いろいろ聴いてみると、その共通点と、かけ離れているものの両方が見えてくる。そこから自分のやりたいことを見つけだすことがきっとできる」
僕自身、ティプシー・ハウスへの加入が決まった時、彼らのレパートリーの全て(恐らく)をノートに書き写し、最初の2小節を書いておく作業に明け暮れた。
まず200曲。
メロディを追ってみて、どういうテクスチュアでその曲が成り立っているのかを事細かに考えた。
ミホー・オドンネル、ダヒ・スプロール、マーク・サイモス、ザン・マクロードなどがよく聴いたギタリストだ。
勿論ポップスもクラシックもブルースも、様々な音楽の中にヒントが溢れているのだ。そして最もすきなアイリッシュミュージックのことを1日に23時間くらい考えていた。そうして、いかなる曲にも対処できるようにしていった。
考えるに、少しの音楽経験があれば、誰でもアイリッシュミュージックの伴奏はできるはずだ。
問題は100曲、200曲、いや、500も600もある曲(実際にはその数100倍はあるだろうが)のなにが違うか、その見極めがどれくらい瞬時にできるか、というところだろう。
リチャードも随分悩んでいたが、もうれっきとしたアイリッシュギタリストだ。しかし思えばアイリッシュギタリストなどというカテゴリーは存在しない、と言えるだろう。
音楽を演奏しているのだ。そこにアイルランドという国の空気がどれだけ入り込んでくるか。メロディ楽器には本当に必要なその要素ではあるが、ギタリストがそこを表現するのには、メロディ楽器と同様に、やはり経験しかないのかもしれない。
ティプシー・ハウスのギタリストとして、不動の地位を確立することが、結局世界に繋がっていった結果になったのだと実感している。