平和ボケ

こんな言葉が生まれたのはいつ頃だっただろうか。1970年頃からだったろうか?

僕は少なくとも海外で長い間過ごしていて、日本は平和でいいな、と思っていた。

アメリカで日本人の若者が災難に遭うたびに、かわいそうに思い、それでも危機管理が甘かったのかな、とも思い、また運が悪かったんだ、とも思った。

そんな僕は今でも街を歩いていて、後ろにはかなり気を配っている。駅のホームでは絶対に線路に対して真っすぐには立たない。必ず後ろが見えるように半身になっている。

信号が青になっていても右も左もきょろきょろして歩く。

エレベーターの中でも他人の所作をかなり気にしている。

これって、アメリカでは当然のことで自然と身に付いていることだ。

一説によると、移動民族であった彼らは、いつ敵が現れるか分からないため、誰かに会ったら「ハイ」と取りあえず挨拶し、自分は敵ではない、というアピールと共に相手の事も確かめていたらしい。

平和ボケという言葉はあまりいい言葉ではないが、確かに平和になれてしまっていることは事実だ。いや、平和が悪いはずは無い。平和に越したことは無い。

だが、世の中にはいろんな人がいて、いろんな考え方があって、敵もいて味方もいて…とそんな事は充分わかっているはずだが、多くの人は自分のスマホの画面に夢中だ。

昨日テレビを観ていてこんなシーンがあった。

総理大臣が「安心安全な大会になる!」と言っている場面、ライブではなかったが、その場面の上に「速報。東京の感染者1400人」と出ていた。このギャップは何だろう。勿論、演説はライブではないし、偶然だったがなかなか面白かった。

本当は、確かに国民の大多数は平和を謳歌しているが、いちばんいわゆる平和ボケをしているのは政府だろう。危機管理能力にとことん欠けていた、というか。

正に、今回の感染症で暴露された形だ。

困っている人、今にも全てを失いかけている人、そんな事には全く無関心で、たまに顔を出せば悪態をつく数人の大臣。

僕らは最も醜い動物を国のトップにしてしまった。

このことは、僕らも反省しなければいけないことかもしれない。

人々は先ず、歩きながらのスマホを止めて自分の周りをよく見まわすことから始めないといけない。周りが見えない、というのは日本の政府と一緒になってしまうからだ。

そうしないと危機管理が出来なくなってしまう。残念だが政府と一緒だ。

今の政府の対応を見ていて、平和ボケ、という言葉を想い出してしまった。