昨日買ってきたカレー粉を使ってカレーライスを作ることにした。カレー粉といっても日本によくあるものとは違う。だが、同じようにして出来そうだ。
野菜は庭にいっぱいある。
カフードには5人前は必要だろう。しかしどうせカレーというものはめいっぱい作った方が美味しい。
予想に違わず彼は気持ちいいくらい食べた。あのアコーディオンプレイの源はきっとこんなところにもあるのだろう。
ブレンダンも日本食が好きなだけあって、僕の作ったジャパニーズスタイルカレーをとても喜んでくれた。
食事の後はキッチンでジャムだ。もうこちらに来てどれくらいの時間、音楽に没頭しているんだろうか。
これはもう、好きとかいうレベルではない。
僕が思うに、もう自分という存在と音楽とは同じもので、無ければ無いで良いが、やり始めたら止まらない。そんな自然なものではないか。音楽が無くては生きていけない、などという軟弱な気持ちでは音楽はやっていけない。無くても自分自身がすでに音楽なのだ。
彼らの演奏の力強さからはそんなことまで感じてしまう。
まず、最初の日に演奏したところと同じパブだ。
ブレンダンの年季のいった野太い音と、カフードの若さ溢れる音、それに僕の年季のいった音とまれかの若さ溢れる音が面白く絡み合う。
またまたいっぱいの人で溢れかえっている。やっぱりアイルランド人はよく飲む。それに、心から音楽を楽しんでいる。
1時間ほど軽く演奏して次のパブへ。
こちらはごく小さなパブだ。
ブレンダンが、ちょっと用事を済ませてくるから先に入っていてくれ、と言ったので、中に入ると、これまた結構な入りである。
見知らぬ東洋人がふたり、楽器を持って入ってきたので、みんな興味津々だ。
ブレンダン・ベグリーと一緒にやってきた、とバーテンダーに話すと、おー、そうか!と英語とも、アイルランド語とも区別のつかない言葉で、にっこり笑って答えてくれた。
席を確保して待っていると、アコーディオンを抱えたブレンダンが足早に入ってきた。
アコーディオンは、いかなる時にもケースには入っていない。車のトランクに工具と一緒に2つか3つ、ごろんと入っている。いつでもそれを無造作に抱えて来るだけ。実に簡単だ。
僕らのまわりは地元のじいさん、ばあさんでいっぱいだ。とは言っても、僕とそう変わらないのかもしれない。
小さな場所なので臨場感いっぱいだ。ブレンダンのアコーディオンが人々の心の中に鋭く切り込んでいく。一緒にやっている僕らも実に気持ちがいいし、胸の高鳴りを覚える。
彼のアコーディオンプレイは緩急のつけ具合が一味違う。それは彼自身、シンガーである、というところに帰依するのだろう。
時として限りなく力強く、また、時として限りなく空虚な音を聴かせる。なんと蛇腹の部分、そこから出てくる風の音だけでワンコーラス演奏したり、他には類をみない奏法で、いやがおうにも人々の心をわしづかみにしてしまうのだ。
カウンティ ケリー その5
今日は夕方からブレンダンの兄、シェーマス達と教会でベネフィットコンサートをやることになっている。
ブレンダンの娘とシェーマスの娘が、フィドルとアコーディオンのデュオで参加するので、庭先でふたりが練習をしている。
ふたりとも高校生だ。そしてそのプレイはよくCDなどで聴く、いわゆる本物の匂いがそこはかとなく漂っている。先祖代々から受け継がれた血みたいなものだろう。
勿論、そんなことを感じるのは今回が初めてではない。アイルランドのいたるところで子供たちの演奏からそれを感じるのだ。
驚いたことに、ここでは進行役の司会者までがゲール語で話している。勿論お客さんもそれを聞いて、うなずいたり大笑いしたり。
ここでポカンとしているのは僕とまれかだけ。
そんな中、紹介を受けて僕とブレンダン、カフードとまれか、この4人がステージに立つ。 ブレンダンの語りもゲール語だ。
ブレンダンが僕の録音で覚えた“Kevin Keegan’s Waltz / Ookpick Waltz”を演奏する。
そして、4人で思い切り“Master Crowley’s /Roscommon reel”をこれ以上ないというくらいの勢いで演奏する。
カフードも何食わぬ顔をしてまるで遊んでいるように無邪気な顔をして弾いている。同じようにブレンダンも、まるで子供のように足を踏みならし身体を揺さぶる。
まれかにとっても、このような一流のミュージシャンと、単なるセッションではなく、対等な立場として演奏できることは、かけがえのない経験となるだろう。
ブレンダンは今夜ダブリンに発つ。そして僕らは明日の朝ドゥーランへと旅立つ。ブレンダンの娘とシェーマスの娘の演奏を聴き、シェーマスの歌を聴きながら、心はもうケリーにどっぷり漬かっていた。
この次ここに来ても、なにひとつ変わっていないんだろうなぁ。嬉しいなぁ。