2022年 歳の終わりに

アイルランドから戻ってすぐ11月になり、そしてもう12月も中盤に差し掛かってしまった。

何故か11月はとても長く感じたが、12月は面白いくらいに時間が飛んでゆく。

気がついたら真珠湾攻撃も終わっていた。

もうすでに書いてしまったことだが、日本に戻ってすぐその日、伸びてしまった髪の毛を切りに街に出た時のことは忘れない。

こんなにも輝きのない国だったか、こんなにも将来の見えない国だったか、と…なんだろうこの違和感は。

これは多分にコロナを引きずっているせいだろうな。

何となくオープンになれない、何となく自分のためにも他人のためにもマスクをしていなくちゃ、なんとなく屁のツッパリにもならない政府のいう事を守っていなくちゃならないし、先週の同じ曜日より増えました、なんていう感染者の情報を何となく気にして、何だかぼやっとした中で毎日が過ぎていくような…そんな国に見えてしまった。

近所の汚い川で泳いでいる鳥たち。つい昨日までは、川底まで透けて見えるところで泳いでいる鳥たちをみていた。人々にもそれくらいの差を感じてしまった。

日本ではほとんどの野良猫はサッと逃げるのに、アイルランドの野良猫は寄ってくる。

この差は一体なんだろう。

3か月の間、テレビと云うものは全く見なかった。

毎日ラジオから流れて来る音楽を聴いていた。

その音楽に関しても思うところがいっぱいあった。

僕がこの国の音楽に入っていったのが1991年頃。あれから30年余り。

前々から感じていた事だが、やっぱりこれはアイルランド人の音楽だ。

特に10月の半ば、クレアに出掛けて行って、マリーさんやアイリーンたちと静かに音楽を奏でていた時にそれを強く感じてしまった。

それでもマリーさんが僕と希花に「ねぇ、あれやってよ」なんてDe Danannで知られている曲をリクエストしてくれる。

僕らはこの音楽の上澄みだけを掬い上げることだけは避けてきた。

この音楽に対するリスペクトだけは忘れないように努めてきた。

このセッションでも当初、僕は少しの間、遠慮して遠くに居たら、アイリーンが「こっちに来なさいよ」と呼びに来てくれた。

そうして僕も希花も彼等と同じ立場に立つことが出来てきたと思うが、それでもやっぱりこの音楽の深い歴史は体の中に入っていない。

そう深く考えずに楽しむことができたらいいのだが、取りあえず今のこの状況に上手いこと乗っかって、この音楽を演奏するのはアイルランドに於いて、という事でいいかな?と思うようになってきた。

希花さんが帰国する時にもし、チャンスがあればどこかで演奏させてもらうかもしれないが、基本、もうほぼ日本で活動を、ということは考えていない。

そんな中でも昔のナターシャーセブンのスタッフ達が集まって「みんなで一生懸命創り上げてきたものを絶やしてはいけない」と立ち上がり、毎年コンサート(と言っていいのかわからないが)を開催している。

コンサートと言っていいのかわからない、というのは、この会が同窓会でもあり、日本全国に撒いてきただろう種が育ってきた姿を見たい、という会でもあり、そして彼等にもまた後に続く人達を育ててもらいたいと願う…そんな会だと感じるからだ。

ナターシャーセブンは高石氏のアイディアによるグループだったが、それを形にしていったのが僕と坂庭君だった。

そう言えば坂庭君の命日というのも気がついたらもう過ぎている。来年で20年かな?

気がついたら、と言ったが、もちろん少し前から考えていたことがあった。

近くの和菓子屋さんで、彼も僕も好きだった、みたらし団子と餡子の団子を買って、お茶を2杯淹れて…僕にはそれくらいしかできない。よく二人で甘いもの食べに行ったなぁ。

それはともかく、坂庭君が居ない中、真のナターシャーサウンドを作りだせるのは僕しかいないと思っている。

そんな意味では来年あたり、もしどこかからの希望があれば、時を越えてナターシャーセブンを愛してくださる皆さんとの交流を少し持ってみてもいいかな、とも考えている。

アイルランドには来年も行って希花さんと動き回ってくるつもりでいる。

この年末には、日本に生まれて日本で育った日本人として、イギリスの医師国家試験に合格、という快挙をどのようにして成し遂げたのかをコンサートの中でも訊いてみたいものだ。

とても他では聞けない話を聞けるかもしれない良い機会だと思う。

僕の73歳は…ま、どうでもいいかな。

誰だって取りあえず生きていれば73歳という年は迎える可能性はあるし。

生きていれば、だが。

ところで、お約束通りのみたらし団子と餡子のお団子はとても美味しかった。

すまないなぁ、僕一人で食べてしまって…。