ショパンの面影を探して

これはフジコ・ヘミングのマヨルカ島でのコンサートに関するドキュメンタリーのタイトル。

既に再放送ではあったが、何気なしにつけたテレビからついつい観入ってしまったものだ。

夜中だったので、先日知り合いから頂いた高いウイスキーを少しだけ飲みながら。

普段からあまり飲める方ではないので、ウイスキーなんて味もよく分からないけど、何となく飲みたいような気持になった。

そして、この番組を観ていていろいろ想い出してしまった。

僕がピアノを始めたのは多分4歳くらいの時。

もう既に書いているが、母親の影響だった。そこはフジコ・ヘミングと同じように。

その母親と云えば、僕にはあまり記憶にないくらい、病におかされて、おそらく僕が5歳くらいの頃から入退院を繰り返していた。

父親が「どうも癌という病気らしい」と言ったのをよく覚えている。

「そういえば、写真を撮るといつも身体が少し傾いていたなぁ」なんて言っていたのもよく覚えている。

誰かに入れ知恵をされて、食用ガエルを手に入れてきて、知り合いの料理屋さんに持って行く最中に逃げられてみんなで追いかけたこともあった。

家の庭に小さな池があって「あの池が奥さんの病気に悪い」などと、まことしやかに言った人がいたせいで池を埋めたこともあった。

それを提案した人は「中西さん」と言う人で、当時、中西と云えば「太」だったので、母が亡くなった後、父が「あんなこと言ってふてーやろうだ!」と言ったのもよく覚えている。

それでなくても最近、中西太氏が亡くなって少し想い出していたが、まさかフジコ・ヘミングからそこに繋がるとは…。

よく病院にお見舞いに行った記憶はある。

コバルト療法というのをやっていて「コバルトという言葉を聞いただけで辛い」と言っていた。

どこだったのかは覚えていないが病院から出ると菜の花がいっぱい咲いていて、そこを散歩したこともあった。

菜の花だから春だったんだろうな。その年の冬に亡くなった覚えがある。

母親の想い出というのは、僕には多分2年か3年分くらいしかない。

しかし、音楽に関しては本当に感謝している。

もし、母が僕にピアノを勧めなかったら、父同様、消灯ラッパと起床ラッパの区別がつかなかったかもしれない。

それを危惧してピアノを習わせた、ということを後に祖母から聞いた。

母は39歳という若さだった。

祖母は草月流のお花のお師匠さん。母は幼少の頃からピアノを弾いていたらしい。

そんな家庭に育って、こともあろうに結婚した相手がとんでもない音痴だったので、こりゃ大変!と思ったのだろう。

そんな僕も母が亡くなってピアノから離れてしまった。10歳の時だった。

音楽から離れ、プラモデルに夢中になっていた頃、ギターという物が世の中に流行りだし、手にしてみれば「お、こりゃ面白い」という事になり、やがてはバンジョーの音にも魅かれていく。

そんな事を想い出しながら90歳にもなるフジコ・ヘミングの演奏に聴き入ってしまって、ウイスキーも少し多めに飲んでしまった。

このところ、お酒絡みの話が多いけど、今回はあくまで素晴らしいフジコ・ヘミングの演奏から昔を想い出して、という事なので、そこんとこよろしく!