朝からどんよりした、いかにも少し北寄りの、肌寒ささえ感じるアイルランドらしい天気だ。そういえばアンドリューが言っていた。「アイルランドの夏は7月で終わりだ」
随分前は、よく北海道に行っていたが、あそこもこんな感じだった。特に秋の北海道の景色はたまらなく寂しかった記憶がある。
波に浮かんでプーカプカという南国とはぜんぜん違う音楽が生まれて当然だろう。
そういえば昔、ハワイの音楽にも憧れたなぁ。ギャビー・パヒヌイをはじめとするハワイアン・スラック・キーによるギタープレイにも影響を受けた。
パディ・キーナンの書いた“ジョニーズ・チューン”で僕がソロを弾くと、初めてそれを聴いたフランキー・ギャヴィンが「よ!ライ・クーダーじゅんじ!」と叫んだ。さすがに幅広いミュージシャンだ。ちょっとした音で僕がライ・クーダーの大ファンだということを見抜いてしまう。
ロバート・ジョンソン、B・Bキング、ジョニー・ウィンターからビリー・ホリディ、そのうえキング・クリムゾンやペンタングル。想い出せばきりがないくらい様々な音楽に影響を受けた。
そして、アイリッシュへ。
よく、「アイリッシュを始めたきっかけは?」と尋ねられることがあったが、いつもこんな風に答えていた。
「自分が最初に接した音楽であるクラシックに近いものがあるし、ずっと好きだった民族音楽の独特のうねりが絶妙に自分の感覚と合致した。60年代、フォークソングをやっていたころも、アイルランドのバラッドだとは知らずに歌っていた歌が随分あったろうし、どちらかといえば反戦歌よりもそちらのほうが好きだった。ごく自然のなりゆきで辿り着いた場所がここだった」と。
そんなことを想い出しながら、どんよりした景色を窓越しに見ていると、しとしとと雨が降って来る。そしてすぐに止む。どうせすぐまた降ってくるだろうし、すぐまた止むだろう。
お昼過ぎ。
僕らはフランキーとの待ち合わせの場所“チコリ”に来ている。広いパブでお客さんはもう結構入っている。いかにも観光客風情の人から、地元の人まで。アイルランドのどの都会でも見られる光景だ。
まれかはしきりに心配している。「フランキー・ギャヴィンってどんな人?怖くない?」
無理もないだろう。フィドラーズ・フィドラーだ。ステファン・グラペリをもうならせ、マーティン・ヘイズからも尊敬される超大物だ。
「大丈夫だ。問題ない。なんでも訊いてみたらいい」
僕自身はわくわくしている。こういう若い人、特に今風のアイリッシュから入ってきた人を、経験豊富なミュージシャンに紹介する、ということに。
是非何かをつかみ取って欲しい。
フランキー・ギャヴィンが現れた。
まれかを紹介するが、きっと小学生くらいだと思っているだろう。
奥の席を指して「あそこでやろう」とフランキー。これはいい。オーディエンスもいっぱいいるし。
おもむろにギネスを注文して、そしておもむろにフィドルのケースを開ける。フィドルも弓も松脂で真っ白。クラシックのひとが見れば“とんでもないことだ”と怒りそう。特に日本では。
まず軽く“Jackson’s”でも弾いてみたら?とまれかを促す。なかなか勇気が出ない。いいからいつものように弾けばいい。
まれかが弾き出すとフランキー・ギャヴィンの音がねちっこく絡んでくる。それはもうまぎれもない“ディ・ダナン”の音だ。
2回目からは強烈なハーモニーをつけてくる。フランキーならではの展開だ。
飲んでいた人達も何事が起ったのだろうと、近くに寄って来る。フランキーがますますまれかを煽る。
1曲目から度肝を抜かれた。ほとんど放心状態のまれか。多分頭の中は真っ白なんだろう。
フランキーはゆっくりとギネスを飲みながら「いいじゃないか。次はなにやろう」と言う。しめた!のってきた。
「じゃ、Smiling Bride, Handsome Young Maiden でどう?あとからリールにチェンジしてFox Hunterにいく」「おっ、いいな」
1コーラス目から信じられないくらい美しいハーモニーが重なってくる。思わずにんまりしてしまう。そう、他のだれからもこんな音は出てこないだろう、という彼独特の音が響き渡るのだ。
マイケル・コールマンの有名な“ Tarbolton”のセットも絶妙なハーモニーでぐいぐい迫ってくる。
僕がまれかにリクエストした。「あれやって。えーっと、あれ」「あれじゃわかりません」またまた“あれ”だ。
昔の“ディ・ダナン”で聴いた変わった曲だ。タイトルは“Jewish Reel”フランキーが驚く。「随分長いことやってないけどやろう」
曲が始まった。さすがだ!鬼気迫るものがある。ハーモニー、そして強烈なシャッフル、それはもう、70年代、80年代の“ディ・ダナン”そのものだ。
ここまでくるとまれかも負けてはいない。フランキーものりにのっている。見ているひとたちも足を踏みならし、ギネスを呷っている。
曲がおわるや否やフランキーが言う「このままレコーディングにいけるなぁ!」勿論忙しい彼にはそんな時間はないが、単なる冗談でもなさそうだった。
2時間ほどの間に、僕はこんな風に弾いている、という彼独特のリックを見せてくれたり、マーティン・ヘイズの音まねを口でやってみせたり、ご機嫌で心を開いてくれたフランキー。
「いいフィドラーだ。これからも、とにかく弾きまくって、弾きまくって弾きまくれ」と、まれかの背中を押して帰って行った。
沢山のお客さんも口々に「素晴らしい。いいものを聴かせてくれて有難う」と言って出て行く。
しばしへたりこんでいるまれか。きょうはもうセッションはいい。この余韻に浸っていたい、と顔に書いてあった。